2009年12月30日水曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(や~)

引き続き,「や」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

漸漸(やくやく)…ようやく,次第に。
八尺(やさか)…長いさま。
八入(やしほ)…幾度も染汁に浸して濃く染めること。
社(やしろ)…神の降下する所。神をいわい祭った斎場。
八十(やそ)…80。数の多いこと。
八衢(やちまた)…道が八つに分かれた所。道がいくつも分かれた所。迷いやすい例えにも使う。
梁(やな)…川の瀬などで魚を取るための仕掛け。
八百日(やほか)…きわめて多くの日にち。
遣る(やる)…向かわせる。

今回は,八百日(やほか)が出てくる情熱の女性歌人笠女郎の短歌を紹介します。

八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守(4-596)
やほかゆく はまのまなごも あがこひに あにまさらじか おきつしまもり
<<端から端まで行くのに八百日もかかるような長い浜の真砂を全部合わせても私の恋する気持ちの果てしなさに勝ることはないと沖の島の島守(貴方)も思うはずですよ>>

この短歌は,笠女郎が大伴家持に贈った恋の短歌24首(4-587~610)の内の1首です。
この短歌について改めて説明はいらないと思いますが,自分の恋心をこんなにも大胆に表現できた女性歌人は万葉集のなかでもあまりいないかも知れません。
私は,この短歌を英語に直訳し,そのままで日本文学をまったく知らない英語圏の人たちに見せても,その表現の凄さや意味が十分通じる気がします。
こんな短歌を24首も贈った笠女郎(笠氏は恐らく大伴氏に比べて家柄がかなり低かったのでしょう)。何としても家持に自分の思いを伝え,もっと振り向かせかったのでしょうね。
ただ,この24首の最後の方では,家持には正妻たるべき人がいることを意識してか,笠女郎は自らの思いが片思いである悔しさを次のように痛烈に詠っています。

相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後方に額つくごとし(4-608)
あひおもはぬひとをおもふは おほてらのがきのしりへにぬかつくごとし
<<片思いの相手をひたすら思い続けるのは、まるで大寺の餓鬼像を後ろから額づいて拝むようなものですね(何の御利益もありません)>>

家持からは,そろそろ関係を断ち切りたいという意図が感じられる次の2首(坂上郎女あたりが指南?)の返歌しか万葉集にはありません。

今更に妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸いぶせくあるらむ(4-611)
いまさらに いもにあはめやと おもへかも ここだあがむね いぶせくあるらむ
<<もうこの上あなたに逢えないと思うからだろうか、これほど私の胸がはれないのは>>

中々は黙もあらましを何すとか相見そめけむ遂げざらまくに(4-612)
なかなかに もだもあらましを なにすとか あひみそめけむ とげざらまくに
<<いっそのこと黙ってなにもしなければよかった。どんなつもりで逢いはじめたのだろう、思いを遂げることなど出来はしないのに>>

けれども,後の和歌集では万葉集の笠女郎の情熱的な和歌を意識し詠まれた和歌がたんくさんあるようです(*)。
和歌対決,結局若き家持ではなく笠女郎に軍配が上がったといえるかもしれませんね。

(*)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kasaira2.html

(「ゆ」で始まる難読漢字に続く)

2009年12月27日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(め~,も~)

引き続き,「め」「も」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

海藻,海布(め)…食用となる海藻の総称。わかめ、あらめの類。
愛し(めぐし)…愛おしい。可愛らしい。可哀そうだ。いたわしい。
恤む(めぐむ)…情けをかける。憐れむ。恩恵を与える。
十五日(もち)…陰暦の15日
黐(もち)…モチノキの別称。とりもち。
廻る(もとほる)…めぐる。まわる。
武士(もののふ)…武士,宮廷に仕えた文武の官人。
百種(ももくさ)…さまざま。
唐土(もろこし)…唐時代の中国。

今回は,海藻(め)が出てくる詠み人知らずの短歌を紹介します。

礒に立ち沖辺を見れば海藻刈舟海人漕ぎ出らし鴨翔る見ゆ(7-1227)
いそにたち おきへをみれば めかりふね あまこぎづらし かもかけるみゆ
<<磯に立って沖の方を見るとワカメを刈る漁師の舟が出ているらしい。カモが飛びまわっているのが見えるからだろうか>>

前後の和歌は紀の国(和歌山県)の海辺の地名を詠っているようですので,この短歌も和歌山県のどこかに磯辺から見た情景を詠んだ短歌だと私は想像します。
また,和歌山県の海岸は当時陸路での移動は難しく,この短歌は冬の季節に船で港に寄港しながら旅をしている途中で詠んだのだろうと私は思います。
この短歌を詠んだ人がある港近くの磯から沖の方を見たら,多くの海鳥が飛びまわっていたのを見て「あれは何ですか?」と同行人に尋ねたら,その人は「海藻を採っている漁師の舟が沖に出ていて,採ったものか,漁師の食べ物のおこぼれにあずかろうと飛びまわっているのでしょう」という答が返ってきたのかも知れませんね。
さて,私は学生時代,同じ寮の仲間と秋の観光シーズンも終りの10月下旬東北旅行を企画し,スケジュールに青森県下北半島佐井港から遊覧船に乗り仏が浦を見に行く行程を入れました。船が佐井港を出るとすぐカモメが何羽も近寄ってきて,船の周りを飛び回っていました。船の人がパンの切れ端を渡してくれて,差し出すとあっという間にカモメがすぐ側まで飛んできて,嘴でかすめ取って行ったのを覚えています(指も少し噛まれたました)。
<カモメはカモ目?>
この短歌で詠まれいるカモ(鴨)は,実際はカモメ(鴎)だったのではないかという思いが私にはあります。もちろん,冬の海にいるカモは種類によってはあるようですが,舟の上を飛び回るのはやはりカモメかな?思ったからです。
そこで,カモとカモメの関係をインターネットで調べ始めました。
しかし,カモはカモ目カモ科,カモメはチドリ属チドリ目カモメ科でまったく別の種族。
お互いの写真を見比べても似ているところを探すのに苦労するほど違う。特に,カモメは「カモの目」から来たのかと思い,目の部分で似てるところがないか見ましたが目や目のまわりは全く違うという印象です。
また,カモメの名前の由来もインターネット上なかなか見つからないのです。どなたか御存知の方がいらっしゃったら教えて下さればと思います。
<万葉集を見たらあちこち行きたくなる?>
とにかく万葉集には,旅の思い出を蘇させたり,また旅がしたくなる和歌がたくさんあります。今の人だけでなく昔の人も万葉集の和歌からそう感じた人は多かったのではないでしょうか。紀貫之もその一人だったかも知れません。
貫之は,万葉集を評価し,古今集の編纂や和歌に対する持論を展開し,自身の土佐日記を始め,他の作家による紫式部日記和泉式部日記のような紀行文学や日記文学,平中物語大和物語のような(私は源氏物語も含める派の)歌物語枕草子のような随筆という平安時代の優れた文学ジャンル確立に大きな影響を与えた人物だと私は考えています。
紀貫之については,またの機会に詳しく触れる予定です。
(「や」で始まる難読漢字に続く)

2009年12月19日土曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(む~)

引き続き,「む」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

行藤,行騰(むかばき)…獣の毛皮で作り、腰から脚にかけておおいとしたもの。
生す(むす)…発生する。生まれる。 「苔生す」
咽ぶ、噎ぶ(むせぶ)…飲食物、煙、涙、ほこり、香などで呼吸がつまりそうになる。
共(むた)…~と共に。「風の共(むた)」
正月(むつき)…1月。
空し、虚し(むなし)…中に物がない。はかない。仮初めである。
群(むら)…むれの古語。
腎(むらと)…腎臓の古称。転じて心のこと。
杜松(むろ)…ネズの木の古名。

今回は腎(むらと)が出てくる大伴家持の短歌を紹介します。

言問はぬ木すら紫陽花諸弟らが練りの腎に欺かえけり(4-773)
こととはぬきすらあじさゐ もろとらがねりのむらとに あざむかえけり
<<ものを言わない木ですらアジサイの花の色が移ろうように,見方によって変わる人の心の移ろいに私は翻弄されました>>

この短歌は,大伴家持久邇京(恭仁京)の地から,後に家持の正妻になったと言われる従妹(いとこ)関係の大伴坂上大嬢に送った5首の内の1首です。
奈良時代には,途中久邇,紫香楽など平城京以外に都が遷されたことがありました(久邇京は天平12年<740>12月からの約2年間遷都)。
この短歌5首は家持が久邇の地に居た(赴任?)ときに大嬢に贈ったと題詞にあり,おそらく久邇に遷都されている時期に作ったのだと考えられます。
そうすると,家持は20代前半の年齢で,相手の大嬢はさらに若い年齢だったでしょう。
若いが故に,お互い好きだという気持ちがありつつも,うまく気持ちが伝わらなかったり,相手の自分に対する気持ちを確かめられなかったり,相手の別の異性との関係を計りかねたりで,お互い苛立つ気持ちが少なくない中,家持はこの短歌を詠んだのかも知れません。
次の短歌(5首の最後)では,家持は自分の気持ちが伝わらないことに自棄になったような短歌を詠んでいます。

百千たび恋ふと言ふとも諸弟らが練りの言葉は我れは頼まじ(4-779)
ももちたび こふといふとも もろとらが ねりのことばは われはたのまじ
<<何度も何度も「恋しい」と言うことはあっても,多くの人が使うような上手な言葉で貴女が恋しい気持ちを表そうとは私は思わないのです>>

その後,2人の間にはさらに別れの危機が訪れることになったようですが,最終的に2人を結婚まで導いたのは,大嬢の母で,家持の叔母である坂上郎女であったと私は想像します。
万葉集の出現は前の番号ですが,時期はこの2首よりずっと後に坂上郎女が詠んだものだと推測できる次の短歌があります。

玉守に玉は授けてかつがつも枕と我れはいざ二人寝む(4-652)
たまもりにたまはさづけてかつがつもまくらとわれはいざふたりねむ
<<大事に守ってくださる御方にやっと私の娘を嫁がせることができました。これからは枕と私の二人で寝ることになりますね>>

(「め」「も」で始まる難読漢字に続く)

2009年12月14日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(み~)

引き続き,「み」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

御酒,神酒(みき)…酒の尊敬語。神に捧げる酒。
砌(みぎり)…軒下・階下などの敷石の所。
胘(みげ)…牛,鹿,羊などの胃袋。塩辛の材料にした。
神輿,御輿(みこし)…神が乗る輿。
鶚、雎鳩(みさご)…おもに海上を飛ぶ大型の鳥。
京職(みさとづかさ)…律令制で京の行政・訴訟・租税・交通などの事務をつかさどった役所。
禊(みそぎ)…身を洗い清めること。
幣を(みてぐらを)…奈良にかかる枕詞。
御執(みとらし)…手にお取りになるもの。弓の尊敬語。
蜷(みな)…巻貝の総称、にな。
六月(みなづき)…水無月。
御法(みのり)…法、法令の尊敬語。
御佩刀を(みはかしを)…剣にかかる枕詞。
水縹(みはなだ)…藍の薄い色。みずいろ。
風流士(みやびを)…みやびやかな男。
海松(みる)…海産の緑藻。
水脈(みを)…船の通行に適する底深い水路。

今回は,京職(みさとづかさ)が出てくる滑稽な詠み人知らずの短歌を紹介します。

この頃の我が恋力賜らずは京職に出でて訴へむ(16-3859)
このころのあがこひぢから たばらずは みさとづかさにいでてうれへむ
<<最近の私の恋に対する努力と苦労を認めてもられないなら,奈良の京のお役所に訴えてもよいほどだよ>>

この短歌の前には,同じ作者が同様のことを詠ったと思われる次の短歌があります。

この頃の我が恋力記し集め功に申さば五位の冠(16-3858)
このころのあがこひぢから しるしあつめ くうにまをさばごゐのかがふり
<<近の私の恋に対する努力と苦労を記録してその功績を申請すれば五位の称号に値するほどだよ>>

この短歌2首は,どんなに努力しても大好きな相手(女性)に思いが伝わらなくて大変苦労し続けている本人(男性)自身の立場で詠んだ短歌ではないかと私は想像します。
しかし,当事者本人は実はこんな短歌を詠んでいる余裕すらなく,憔悴しきっている可能性が高い。
周りにいる人が見るに見かねて,またはその滑稽さを茶化して当事者本人に成代わって詠んだと考える方が面白いし,現実味がありそうです。
<現代の孤独な人々に必要なもの>
さて,今の時代でも一生懸命努力しても報われず,本人はその地獄(苦しみ)から這いあがれない状況のヒトがいるでしょう。
こういうときに本人の努力や苦労を分かりやすい譬えで説明してくれる友達,サークル仲間,職場の同僚や上司,近所のおばさんなどが居てくれることがどれだけ有り難いか知れません。
残念ながら,今はあまり干渉されたくないと思う若者は(もしかしたら中年以上の男性も?),距離の近い人間関係に重きを置かない人が多いのではないでしょうか。
人は物事がすべて順調で,好きな趣味や恋愛に没頭できるとき,それとあまり関係のない人々と付き合うことに興味が湧かないことはよくあることだと思います。
しかし,急に順調でなくなったとき,努力が報われないとき,何をすればよいか分からなくなったとき,落ち込んでしまったとき,やる気が急に衰えたとき,人生が嫌になったとき,死にたいと思ったとき,いろいろな人との繋がりによるアドバイス,手助けが大きな価値をもつことが多いに違いないと経験から思います。
<気づかせてくれる人の存在が重要>
今の世の中には,公共機関の相談窓口やプロの相談者(カウンセラー,医師,看護師,弁護士など)のサービスが昔に比べて整備されているように見えます。
しかし,本人が自分の状況が相談すべき状態だと感じなければ,基本的にそういった専門の相談相手は何もしてくれません。
日頃から,自分が気がつかない段階で自分の状況について積極的にいろんなことを教えてくれる多くの人(それも異なる視点で見る人,異なる価値観を持つ人,異なる経験をした人,異なる年齢や環境の人など)とフランクに話(言うだけでなく,素直に聞くこと)ができる機会をたくさんもっておくことが,今の不透明な時代,情報過多だが非常に偏って流される時代では,必要性が高くなっているのはないかと私は思うのです。
(「む」で始まる難読漢字に続く)

2009年12月7日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(ま~)

引き続き,「ま」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

目(ま)…「目のあたりにする」という用法は現在でも使う。
籬(まがき)…竹・柴などを粗く編んで作った垣。ませ。ませがき。
粉ひ,擬ひ(まがひ)…入り乱れること。混ざって区別しにくいこと。
罷る(まかる)…退き去る。都から地方へ行く。
纏き寝(まきね)…互いの手を枕にして寝る。共寝。
任く(まく)…まかせる。ゆだねる。委任する。任命する。
設く(まく)…あらかじめ用意する。心構えをしてその時期を待つ。時が移ってその時期になる。
座す、坐す、在す(ます)…いらっしゃる。おいでになる。なさる。
大夫(ますらを)…剛勇な男。
馬塞、馬柵(ませ)…馬が出られないようにした垣
纏はる(まつはる)…絶えずくっついていて離れない。つきまとう。
奉る(まつる)…差し上げる。たてまつる。申し上げる。
服ふ(まつろふ)…服従する。服従させる。
眼間,目交(まなかひ)…目と目との間。目の前。目の当たり。
愛子(まなご)…いとしご。
随に(まにまに)…成行きに任せて。
多し、数多し(まねし)…度重なる。しげし。多い。
幣、賄(まひ)…礼物として奉る物。幣物。贈物。
卿大夫(まへつきみ)…天皇の御前に伺候する人の敬称。朝廷に仕える高臣の総称。
崖(まま)…がけ。
檀(まゆみ)…ニシキギ科の赤い実を付ける落葉樹木。弓を作ったためこの名がついた。

今回は,この中で卿大夫(まへつきみ)がでてくる短歌を紹介します。

島山に照れる橘うずに刺し 仕へまつるは卿大夫たち(19-4276)
しまやまに てれるたちばな うずにさし つかへまつるは まへつきみたち
<<庭の山に輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えするのは、天皇の御前に伺候する人たちです>>

この短歌は,藤原八束が天平勝宝4年(752年)11月25日の新嘗祭の宮中宴会で参加者6人がそれぞれ1首ずつ詠んだ歌の一つです。
この6人とは,巨勢奈弖麻呂石川年足文屋真人,藤原八束,藤原永手,そして34歳の少納言であった大伴家持でした。
この宴会は,父聖武天皇が女帝孝謙天皇に天平勝宝元年(749年)に譲位した後,孝謙天皇の縁戚で急速に勢力を伸ばした藤原仲麻呂が,それまで聖武天皇とともに平城政治を中心的に担ってきた橘諸兄葛城王)を脅かす存在になってきた時期です。
この6人は恐らく藤原仲麻呂の勢力拡大を当時面白く思っていなかった人たちだったろうと私は思います。
この短歌に出てくる「橘」は橘諸兄を指し「天皇に仕える高官たちほとんどは橘諸兄派なのですよ」という孝謙天皇に対するメッセージではないかと私は考えます。
非常に政治的に生臭い短歌だと思えますが,逆に万葉集に出てくる和歌のスコープの広さを感じさせてくれるような短歌です。
この後,聖武天皇(756年),橘諸兄(757年)が相次いで亡くなり,光仁天皇が即位(770年)するまで後見人を失った大伴家持は地方に飛ばされ政争の渦の中で苦労をしていくのです。
(「み」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月30日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(へ~,ほ~)

引き続き,「へ」「ほ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

舳(へ)…船の舳先。
綜麻(へそ)…つむいだ糸をつないで、環状に幾重にも巻いたもの。
端,辺(へた)…はし。へり。
秀(ほ)…秀でていること。外に現れ出ること。
霍公鳥(ほととぎす)…ホトトギス
仄か(ほのか)…はっきりと見分けや聞き分けができないさま。かすか。
朴、厚朴(ほほがしは)…ホオの異称。

今回は,朴、厚朴(ほほがしは)を詠んだ短歌を紹介します。

我が背子が捧げて持てる厚朴あたかも似るか青き蓋(19-4204)
わがせこが ささげてもてる ほほがしは あたかもにるか あをききぬがさ
<<貴殿が高く捧げてお持ちの朴葉(ほうば)の立派さは,高貴な方が頭にかぶる蓋(きぬがさ)のようですね>>

皇祖の遠御代御代はい重き折り酒飲みきといふぞこの厚朴(19-4205)
すめろきの とほみよみよは いしきをり きのみきといふぞ このほほがしは
<<遠い昔の天皇の世では,朴葉を折りたたんでお酒を入れて飲んだということですよ>>

越中国守になって4年以上すぎた家持が氷見へ遊覧した際,参加者の一人(恵行という名の僧侶)が詠んだ短歌が前の1首。そして,大伴家持がそれに返歌したのが後の1首です。
この和歌のやり取りの場面は,家持が遊覧先の宴席で参加者が料理を取るための皿の代わりに立派な朴葉(ほうば)を用意したのがきっかけだと私は思います。
家持自らが朴葉の重ねたものを捧げ持ってきたのを見た参加者の一人が,その立派さを驚きとともに讃えたところ,家持は朴葉の由来を返歌したのでしょう。
今でも,朴葉はその肉厚で丈夫な大きな葉を利用して料理(ほうば焼き,ほうば寿司など)に使われます。万葉時代のさらに昔から,朴葉は,外出した際持ち運びが軽く,使用後は捨てられる便利さから,皿・コップ・炭火焼きの鉄板の代わりとして利用されてきたようです。
恐らく,家持は家臣に今まで見たこともないような上質の朴葉を用意させていたのでしょう。
「折りたためばお酒のコップにも使える」と返歌した家持は,同行者に日頃の国を守るための協力に対し「この立派な朴葉を使って飲んでもよいほどたくさんお酒も持ってきましたから,今日は大いに飲んでほしい」という意味を込めて返歌したのだろうと思います。
家持は翌年には5年に渡る越中赴任を終わり都に戻ります。
家持が赴任終了が近付いていることを知っていたかどうか分かりませんが,この日の和歌がこの他に数首万葉集に残っていますから,かなり盛大な遊覧旅だったのかもしれませんね。
(「ま」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月24日火曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(ふ~)

引き続き,「ふ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

更く(ふく)…(夜が)ふける。
葺く(ふく)…(屋根を)ふく。
塞ける(ふさける)…さえぎって通れなくする。
衾(ふすま)…布などで作り,寝るとき身体を覆う夜具。
絆(ふもだし)…馬をつなぐ綱。

今回は「更く(ふく)」が詠まれている和歌を紹介します。この言葉はほとんどが「夜が更ける」または「小夜更けて」という使い方で万葉集には約60首に現れます。今回紹介するのは,その中で高市黒人が羇旅歌8首の中で詠んだ次の短歌です。

我が船は比良の港に漕ぎ泊てむ 沖へな離り小夜更けにけり(3-274)
わがふねは ひらのみなとに こぎはてむ おきへなさかり さよふけにけり
<<この船は 比良の港に 漕ぎ寄って停泊することにしよう 船は沖の方へ離れるなよ 夜が更けてきたからな>>

高市黒人は万葉集で旅先で詠んだ歌のみが残っている謎の歌人です。
山部赤人も旅の歌人と呼ばれていますが,黒人は赤人のように長歌は残っておらず,18首ほどの短歌のみです。
この短歌は黒人が近江の海(琵琶湖)を船で渡って旅をしている途中,比良の港(近江舞子付近?)に停泊したい気持ちを詠ったものです。
黒人の8首の羇旅歌は,場所もいろいろあって一度の紀行で8首すべてを詠んだのかは定かではありませんが,すくなくともこの短歌の前後を併せた3首は琵琶湖の旅を詠んだ一連のものだと私は推測します。
前の短歌では,琵琶湖にはたくさんの港があり,そこでは鶴がたくさん鳴いている情景を詠んでいます。
また,後の短歌では高島の地で夜が更けてどこで泊まろうかを思案している短歌です。
この3首が一連の短歌だとすると,黒人は琵琶湖を南の多くの港があるどこかの港から高島の港を目指し,北へ船旅をして詠んだのだと思います。
では,なぜ黒人は高島の港に直接向かわず比良の港にとまることを望んだのでしょうか?
可能性のあると考えるものをいくつか挙げてみました。

①夜陸地から離れた航行は危険であったから。
②比良港近辺に寄りたい場所があったから。
③綺麗な琵琶湖の湖岸を明日陸路で楽しみたかったから。

私は,この地を幾度も訪れた経験から③を選びたいと思います。
琵琶湖は私が生まれた京都市に近く,幼いころから現在(今は関東南部に在住)に至るまで頻繁に訪れている場所なのです。
最近は周辺住民や関連自治体の努力によって琵琶湖の水質が著しく改善されているようで,琵琶湖の美しさを訪れるこどに感じるようになっています。
比良の港がある琵琶湖西岸は比良山系から湖岸まで急斜面で湖底も遠浅ではありません(東岸と対照的)。
変化に富んだ湖岸線,水の色の変化(浅い所から深い所への色の変化),白い砂浜,どこまでも続く松林,湖岸から間近に望む比良山系と,琵琶湖の中でいつ訪れて美しいと感じる場所のひとつです。
琵琶湖西岸の港で万葉集によく出てくるのは高島の港です。但し,いまの高島港より北の安曇(あど)川の河口付近にあったのだろうと私は想像します。東を向いていますから,早朝,日の出が水平線上に出て美しい場所だったのかもしれません。

              <写真は安曇川の河口付近>
高島の港あたりは,琵琶湖の西岸でも安曇川が運んできた土砂が堆積し,湖に突き出て平野が広がった場所です。
若狭湾で獲れた魚を若狭街道(通称:鯖街道)を使って,高島の港まで運び,琵琶湖を縦断して瀬田川を下り宇治田原あたりで荷を下ろし,陸路田辺辺りへ運び,再び木津川の船に載せ,木津川を逆上り,現在の木津辺りで荷を下ろし,陸路奈良明日香へ輸送していたのだろうと思います。
黒人の詠んだ時代と今の地形とそれほど変わらないとすると,比良の港辺りから最短コースで高島の港に向かう場合,船はかなり陸から離れ沖先のコースをとることになるのです。
この短歌はそれをやめて比良の港に停泊を迫ったのです。
黒人は比良の港で船中か民家に泊り,翌日③の理由から湖岸沿いに陸路で高島に向かったのだと私は思います。
比良の港(近江舞子付近)から高島の港まで15㌔程です。いくら徒歩でも一日あれば十分行ける距離のはずです。
しかし,この後ででてくる次の短歌で詠っているように,高島の港町のかなり手前にある勝野の原で日が暮れてしまい,どこで泊ろうかと思案をしたのです。

いづくにか我は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば(3-275)
いづくにかわれはやどらむ たかしまのかちののはらに このひくれなば
<<私はどこでわたしは宿ろうか、高島の勝野の原にこの日が暮れてしまったら>>

これは黒人が道に迷ったというより,あまりの風景の美しさに立ち止まって時間を過ごすことが多くなりすぎたことにより,たどり着けなかったのだと私は思いたいのです。
琵琶湖を次いつ頃訪れることができるか分かりませんが,今まで経験のない湖西線近江舞子駅から近江高島駅まで湖岸をできれば歩いてみて,黒人が感じた美しさに思いを馳せてみたいと私は願っています。
(「へ」「ほ」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月15日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(ひ~)

引き続き,「ひ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)。

醤酢(ひしほす)…ひしお(味噌・醤油の原型)と酢。ひしおに酢を加えたもの。
聖(ひじり)…太陽のように天下を知る人。天皇。清酒の異称。
直土(ひたつち)…地べた。
漬つ(ひつ)…水に漬かる。濡れる。ひたす。
純裏(ひつら)…衣服の表と裏が同じ色のこと。
人嬲(ひとなぶり)…人をいじめること。
鄙(ひな)…都を離れた土地。田舎。
雲雀(ひばり)…ヒバリ(鳥)。
褨襁(ひむつぎ)…幼児の肌をくるむ着物。
蒜(ひる)…ねぎ,にんにく,のびるなどの総称。
嚔る(ひる)…くしゃみをする。はなひる。
領巾(ひれ)…首にかけ、左右に長く垂らした女性用の服飾具。別れを惜しむ時に振った。

今回は,醤酢(ひしほす)と蒜(ひる)が出てくる短歌を紹介します。
作者は今までこのブログでも何度か登場している万葉集の「綾小路きみまろ」こと長忌寸意吉麻呂(ながの いみき おきまろ)です。
宴席でもとめられた物名歌(いくつかのモノを詠み込み即興で和歌にしたもの)です。
宴席では意吉麻呂のユーモアのある即興歌を創る能力に定評があると分かっているのか,何と食材など「酢」、「醤」、「蒜」、「鯛」、「水葱(なぎ)」の5語も詠み込んで面白い和歌を詠めということになったようです。

醤酢に 蒜搗きかてて 鯛願ふ 我れにな見えそ 水葱の羹(16-3829)
ひしほすに ひるつきかてて たひねがふ われになみえそ なぎのあつもの
<<醤に酢を入れ,ニンニクを潰して和えた鯛の膾(なます)を食べたいと願っている私に,頼むからミズアオイの葉っぱしか入っていない熱い吸い物を見せないでくれよ>>

宴席で吸い物が出るのはもうお開きという意味だったと私は想像します。
まだ呑み足らない意吉麻呂は「なんだ酒の肴として期待していた鯛の膾は出ないのかよ。お開きのサインなんて見たくもない」という気持ちを詠ったのだと思いますね。
それにしても,酢醤油にニンニクを潰して入れたタレで作った鯛の膾は,ニンニクが生の鯛の臭みを取り,酢が殺菌をして,醤が鯛のうま味を引き立てる,本当に美味そうですよね。今度妻がいない時に作ってみよう。
一方,ミズアオイの葉は分厚く,細かく切り十分煮て,吸い物にしても結構にがかったのだと思います。後に食べなくなったことを考えると,当時他によい具がなくて仕方なく食べた。ただ,にがみ成分が胃腸には良かったのかも知れませんね。
私は,この短歌は食べたかった料理の美味しさと宴席の雰囲気を見事にイメージさせる素晴らしい即興歌だと思います。

最後に私のパロディ1首。
海苔干物 玉子を溶きて 飯願ふ 我れにな見えそ 古トースター 

(「ふ」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月8日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(は~)

引き続き,「は」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

将や(はたや)…もしや。あるいは。ひょっとして。
徴る(はたる)…徴収する。取り立てる。駆りだす。
埴生(はにふ)…粘土のある土地。
唐棣(はずね)…庭梅、庭桜の古名か。
柞(ははそ)…小楢(こなら)、橡(くぬぎ)、大楢(おおなら)の総称。
祝(はふり)…神に仕えるのを職とする者。
葬り(はぶり)…ほうむること。
隼人(はやひと)…九州南部の風俗習慣を大和朝廷とは異にしていた人々。後に従属。
駅馬(はゆま)…律令制で駅に用意し、管用に供した馬。
墾る(はる)…新たに土地を切り開く。

今回は,駅馬(はゆま)が出現する短歌の一つを紹介します。この短歌は大伴家持が越中赴任時,家持の部下が遊女(うかれめ)との度が過ぎた浮気をその部下に諭す長歌,短歌3首の二日後に詠んだものです。

左夫流子が斎きし殿に 鈴懸けぬ駅馬下れり 里もとどろに(18-4110)
さぶるこが いつきしとのに すずかけぬ はゆまくだれり さともとどろに
<<遊女左夫流子を本妻のようにして住まわせているお前の家に鈴を懸けない(私用の)駅馬が都から走ってきた。ひずめの音が里中に響き渡る勢いで>>

この駅馬に乗って都からはるばる越中まで飛んできたのは,もちろん都に残してきた部下の本妻です。
この前に長歌,短歌3首では,もう浮気というより左夫流子を本妻のように振舞わせていることが詠まれているくらいですから(家持はその4首で許されないことだよと諭しています),それを聞きつけた都にいる本妻の怒りの度合がいかばかりか「里もとどろに」でよく分かりますよね。
そして,越中の夫の家に着いた本妻は,戸を勢いよく開け,夫や左夫流子にどういう口調でどう言ったのかは,現代のわれわれにも容易に想像できそうです。
「そら見ろ。言わんこっちゃない」という上司家持の気持ちがこの短歌からにじみ出ています。
ただ,この前の長歌と短歌3首(浮気を諭す内容)から二日後にこの短歌を詠んでいるのは少しストーリができすぎている感も否めませんね。
部下側の和歌も残っていないことを考えると部下たちへの規律教育的見地から作ったフィクションまたは事実としても多少誇張した創作の可能性もありそうです。

天の川「ところで,たびとはんもきっとそんなえらい(大変な)目に今まで何度もおうたことあるんやろ?」

こういう話になるときまって出てくるのが天の川のやつ。無視,無視。(「ひ」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月4日水曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(の~)

引き続き,「の」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

拭ふ(のごふ)…ぬぐう。
荷前,荷向(のさき)…毎年諸国から奉る貢の初物。
野阜(のづかさ)…小高い所。野にある岡。
祈まく、祷まく(のまく)…祈ること。
法、則、範、典(のり)…おきて。法令。法度。

ここでは,拭ふ(のごふ)が出現する長歌を紹介します。この長歌は大伴家持が難波の港を筑紫の赴任先へ出港しようする防人に成代わって詠んだものです。連用形「拭ひ」が前半若妻が涙を拭うシーンで出てきます。

大君の命畏み 妻別れ悲しくはあれど 大夫の心振り起し 取り装ひ門出をすれば たらちねの母掻き撫で 若草の妻は取り付き 平らけく我れは斎はむ ま幸くて早帰り来と 真袖もち涙を拭ひ 咽ひつつ言問ひすれば 群鳥の出で立ちかてに 滞りかへり見しつつ いや遠に国を来離れ いや高に山を越え過ぎ 葦が散る難波に来居て 夕潮に船を浮けすゑ 朝なぎに舳向け漕がむと さもらふと我が居る時に 春霞島廻に立ちて 鶴が音の悲しく鳴けば はろはろに家を思ひ出 負ひ征矢のそよと鳴るまで 嘆きつるかも(20-4398)
おほきみの みことかしこみ つまわかれ かなしくはあれど ますらをの こころふりおこし とりよそひ かどでをすれば たらちねの ははかきなで わかくさの つまはとりつき たひらけく われはいははむ まさきくて はやかへりこと まそでもち なみだをのごひ むせひつつ ことどひすれば むらとりの いでたちかてに とどこほり かへりみしつつ いやとほに くにをきはなれ いやたかに やまをこえすぎ あしがちる なにはにきゐて ゆふしほに ふねをうけすゑ あさなぎに へむけこがむと さもらふと わがをるときに はるかすみ しまみにたちて たづがねの かなしくなけば はろはろに いへをおもひで おひそやの そよとなるまで なげきつるかも
<<天皇の命を受け妻との別れは悲しいが,ますらおの心を振り起こして,旅立ちの準備をして家の門まで出たら,母は私の頭をかき撫でた。まだうら若い妻は私に取り付き「ご無事を私は身を清めて祈ります。幸運を得て早く帰って来て!」と,私の袖を持って涙を拭い,むせび泣きつつ私に訴え,旅立ちはなかなかできなかった。道中出てきた国を振り返りつつ,いくつもの国を越え,山を越えいよいよ難波に来た。筑紫へ行く船が出港すると春霞が島の周りに立ち込め,鶴が悲しげな鳴き声で鳴けば,はるかに出てきた家を思い出し,背負った矢が嗚咽で「そよ」と音がするまで嘆いたことよ>>

越中から帰任後,少納言,兵部少輔(国防を司る兵部省のナンバー2)になった家持38歳の時,難波で筑紫へ向かう防人達の管理する役目を担っていたようです。
この長歌は,その時いよいよ防人に向かう人が故郷で悲しみの別れをしたきた家族を思う姿を見て,防人の立場で詠ったものです。
家持が防人の気持ちになって詠んだ同様の長歌がこの他にも2首万葉集に残っています。
難波には,当時これから防人として筑紫へ向かう人たちが各地から続々と集まってきたようです。
難波にいた家持は,船の手配や潮待ちの間,その人たちに和歌の作り方を教えたり,家族や故郷を思う和歌を主題とした歌会を頻繁に行い,ねぎらったのではないかと想像します。
また,家持は自らお手本の和歌を作って彼らに示したのがこれらの長歌(と併せ短歌)だったのではないかとも。
防人に向かう若者たちは,家持の子供の年齢かそれより少し年上の人たちが多かったのではないでしょうか。
家持は彼らに故郷の家族や恋人を思う強い気持ちを持ち続けるよう和歌を通して教え続けた可能性があると私は思います(我が子のように)。
武門を伝統とする大伴氏は何よりも兵士を大切にするという血筋があり,官僚となった家持にもその思いが強かった。また,筑紫歌壇を形成した父旅人山上憶良が残した和歌の影響もあったのかもしれません。
そのような家持の指導により防人達が詠った和歌を家持は,政治的立場を顧みず積極的に収集し,残すようにした。
万葉集に燦然と輝く「防人の歌」が多く残ったのは,家持の地道な努力の賜物ではないかと私は考えるのです。
(「は」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月2日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(ぬ~,ね~)

引き続き,「ぬ」「ね」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

鵺、鵼(ぬえ)…トラツグミの異称。
額づく(ぬかづく)…額を地につけて礼拝する。丁寧にお辞儀をする。
流なふ(ぬがなふ)…時がたつ。ながらう。
貫簀(ぬきす)…竹で編んだすのこ。
幣(ぬさ)…祭祀で神への手向けたものの一種で,布や紙を竹または木に挟んだもの。
蓴(ぬなは)…ジュンサイ(蓴菜)の別名
哭(ね)…鳴き声。泣き声。
合歓木(ねぶ)…ネムノキ。
懇(ねもころ)…真心でするさま。丁寧。親切。

ここでは,懇(ねもころ)が使われている和歌(約30首)の中から,坂上郎女が作ったといわれる長歌を紹介します(長くなるため,一部割愛します)。

懇に 君が聞こして 年深く 長くし言へば通はしし 君も来まさず 玉梓の 使も見えず嘆けども 験をなみ 思へども たづきを知らに 手弱女と 言はくもしるく 手童の 音のみ泣きつつ た廻り 君が使を 待ちやかねてむ(4-619)
<~ ねもころに きみがきこして としふかく ながくしいへばかよはしし きみもきまさず たまづさの つかひもみえず なげけども しるしをなみ おもへども たづきをしらに たわやめと いはくもしるく たわらはの ねのみなきつつ たもとほり きみがつかひを まちやかねてむ
<<真心で貴方が仰っていた,いつまでもと。でも,あんなに通ってこられた貴方は来られなくなり,貴方の使者の姿も見えない。嘆いても甲斐がなく,恋しく思っても手かがりも分からず,手弱女の言葉通り,童のように号泣しつつ,貴方を求め廻り,貴方の使者を待ちわびる>>

この長歌は,坂上郎女の怨恨の歌という題詞が付いています。郎女は,あんなに優しかった(まさに懇ろ),そして自分も本心から恋した君が,突然通ってこなくなったことに対して,嘆き悲しみ,でもひたすら待っている自分の状況を切々と詠っているのだと思います。
そして,坂上郎女はその次の短歌で,本当に好きになってしまった後悔の念を詠うのです。

初めより長く言ひつつ たのめずはかかる思ひに 逢はましものか(4-620)
はじめより ながくいひつつ たのめずは かかるおもひに あはましものか
<<最初から貴方との関係は長くは続かないと知っていたのなら、その心積もりでいればよかったのに。でも、貴方に心を寄せたあまり、私は今までこんなにも苦しい思いにあったことがないのです>>

長歌にある恋しい人が再び戻ってくるのを「待つ」心の苦しさ,哀れさを,坂上郎女は痛切に感じ,この短歌を詠ったのかもしれません。

ところで,万葉集に出てくる重要なキーワードの一つにこの長歌にも出てくる「待つ」があるような気がします。
実は万葉集では「待つ」という言葉が300首近くの和歌に出てきます。
ひたすら,何か(恋人,花鳥風月,季節,時,大切な人の健康回復など)を「待つ」ことの切なさ,不安感,焦り,そして状況によって微妙に変化する期待感など複雑な心情を表そうとした和歌が万葉集では多く取り上げられているように私は感ずるのです。いずれ「待つ」をテーマとした投稿をしたいと考えています。(「の」で始まる難読漢字に続く)

2009年10月25日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(に~)

引き続き,「に」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

和魂(にきたま)…柔和・情熱等の徳を備えた神霊、霊魂。
柔肌(にきはだ)…柔らかな肌。
和草(にこぐさ)…小草が生え始めてやわらかなさま。
俄(にはか)…だしぬけ。突然。
潦(にはたづみ)…雨が降って地上にたまり流れる水。
贄,牲(にへ)…早稲を刈って神に供え,感謝の意を表して食べる行事。
鳰鳥(にほとり)…カイツブリの古名。

潦(にはたづみ)を詠み込んだ詠み人知らず和歌を紹介します。

甚だも降らぬ雨故 潦 いたくな行きそ 人の知るべく(7-1370)
はなはだも ふらぬあめゆめ にはたづみ いたくなゆきそ ひとのしるべく
<<大して降らない雨だから 潦のようにあちこちたくさん水は流れるなよ 他人に知られるほど>>

この和歌は,雨に寄せる恋の譬喩歌です。雨によってできた潦(水たまり)から流れる水を自分と恋人との仲に関する世間の噂に譬えたものです。
潦は「川」、「ながる」、「行方しらぬ」の枕詞としても使われているようで,まさに予測できない方向と速さで流れる噂の譬えとしてはぴったりですよね。

この和歌,噂が出るほど大して逢っていないのだから,知らないふりして静かに見守ってほしいという作者の気持が込められているように私は感じます。
作者の名前がわかっていても詠み人知らずにする方が説得力がでる和歌ではないでしょうか。
身分制度(律令冠位制)が確立されつつある時代「あんな身分不相応な相手と付き合っている」という噂が経つと周囲が恋路の邪魔をすることも考えられますからね。
古来,恋人同士の価値観は,ただ「大好きなあの人を独占したい」,「大好きになったのは人であり,その人の身分や家柄は関係ない」という時代によってあまり変わらないものかもしれません。
一方,為政者が推進する社会システムは,時として個人の恋の価値観と大きなギャップを発生させ,葛藤が生まれる。
以前にもこのブログで書きましたが,その葛藤こそが文学の大きなテーマは一つだと私は思います。

恋人同士は「もっと逢いたい」という気持ちが強いから,何度も逢っても逢っても「大して逢っていない」と思うはずです。
ただ,そんな噂が立つと周囲が反対するような恋路の方が,実は恋心がさらに燃え上がる。そんな気持ちを詠った和歌が万葉集にはたくさんあります。(「ぬ」「ね」で始まる難読漢字に続く)

2009年10月18日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(な~)

難読漢字シリーズ前回一回お休でしたが,再開し「な」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)。

乍ら(ながら)…そのまま~として。~のままで。~つつ。
水葱(なぎ)…ミズアオイの古名。
和ぐ(なぐ)…穏やかになる。風や波が静まる。
余波(なごり)…風がおさまってもなおしばらく波の立っていること。波が退いた後に残る泡や海藻。
夏麻(なつそ)…夏,麻畑から取った麻。
泥む(なづむ)…行き悩む。離れずからみつく。悩み苦しむ。
棗(なつめ)…ナツメの木,その実。
莫告藻、神馬藻(なのりそ)…ホンダワラの古称。
靡く(なびく)…風・水などに押されて横に伏す。他人の威力・意志などに従う。魅力にひかれて心を移す。従わせる。
鱠(なます)…魚貝、獣などの肉を細かく切ったもの。
均す、平す(ならす)…平らにする。
生業(なりはひ)…五穀が生るように務める業。農作。生産の業。作物。

梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く(16-3834)
なしなつめ きみにあはつぎ はふくずの のちもあはむと あふひはなさく
<<梨・棗・黍(君)に粟(逢)いたい。は(逢)う葛の蔓のように また後で葵(逢)えると花が咲くようだ>>

この詠み人知らずの和歌は,キビを君,アワを逢う,述ふを逢う,アオイを逢うと掛けてコミカルに自分の逢いたい気持ちを表していると私は感じました。
私は,この和歌を始めて見たとき,往年の映画スターで歌手の小林旭が1964年(東京オリンピックの年)に歌った「自動車ショー歌」を思い浮かべました。これは,日本語に外車,日本車の車名,メーカー名を当てはめ男女の仲をコミカルに歌ったものです。
例えば,彼女に「日参(ニッサン)する」,「肘鉄食らう(クラウン)」,「ケロッ(キャロル)と忘れる」,「大好き(オースチン)」,「昼間(ヒルマン)から」などです。

天の川『たびとはん。ようこんな古い歌謡曲知ってはんな~。』

天の川君,興味あれば「YouTube」などで全部を聞いてくれたまえ。

さて,この「自動車ショー歌」の替え歌やカクテル版などパロディーものがその後何曲か出ています。
この詠み人知らずの和歌も,その後に植物の名前の別バージョン,動物や人の名前の替え歌などを後世の人は詠ったのかも知れませんね。
この他にもこういうさまざまな名称が盛り込まれた和歌が万葉集にはあります。万葉集がなかったら,後世消えて無くなってしまうか,意味不詳となった言葉がたくさん出たのではないかと思います。
<デジタル技術の急速な発展と万葉集>
ところで,現代ではデジタル技術の急速な発展によって,膨大な情報をすべて記録に残すことが容易にできるようになりました。例えば,今1テラ(兆)バイト(半角英数字1字)のハードディスクが1万円前後で手に入ります。後2~3年で4テラバイトまたは8テラバイトのハードディスクが数万円で手に入るのは間違いないでしょう。8テラバイトというデータ容量は,全世界の人口を仮に100億人とすると,全世界すべての人の名前,性別,生年月日,血液型,住所,連絡先,学歴,職業などの情報を十分格納できる容量です。
しかし,誰にとっても価値ない情報,使われない情報,有害な情報はいくら記録として残しても意味はありません。記録に残すことが容易になった現在一体何を将来に残すのか。万葉集にそのヒントが含まれているように考えるのは私だけでしょうか。

万葉集の編者が,奈良時代にどんな価値観で万葉集に残す和歌を選んだのか。これまでに何度かここで書いていますが,これは万葉集に対する私のもっとも興味を持つテーマです。
たとえば,万葉集の編者が残したかったのはいわゆる優れた和歌という価値観だけではなく,実はここで示した和歌のように,やまと言葉を残したいという価値観も強くあったのではないか。この仮説を検証することもそのテーマに含まれます。 (「に」で始まる難読漢字に続く)

2009年10月12日月曜日

投稿50回記念-社会システムの激変・万葉時代と今の時代

今年2月にこのブログを始めて以来,今回で50回目の投稿です。何とか,目標の週1回以上のペースで投稿でき,内容はともかく,満足をしています。
今回は,50回の節目として万葉集から万葉時代にあった社会システムの激変を想像し,今の社会システムの激変について私なりに考えて見てみました。

1.万葉時代の急速な社会システムの変革
日本初の女性天皇推古天皇の時代(6世紀末~7世紀初め),当時の諸外国に負けない近代的な国家にするため,中国の律令制導入を国家として本格的に検討し始めたようです。中国からさまざまな制度や思想を学びとるため,遣隋使が何度か派遣されました。また,多くの渡来人も移住してきて,それまでの島国にはない新しい技術・文化・言葉(外来語)・宗教・思想・慣習などが急速に入ってきたようです。その成果は聖徳太子(厩戸皇子らによってまとめられたと言われています。
その後,遣唐使の継続的な派遣,いわゆる大化の改新天智天皇近江令壬申の乱を経て天武天皇が推進した飛鳥浄御原令,そして平城京遷都の少し前(701年)に完成した大宝律令で日本の律令制度は頂点に達したと私は想像します。
飛鳥時代から天平時代に至る万葉時代は,当時としては近代的な律令制度が整備され,その強力な実施によって,それまでの日本の仕組みが大きく変わった時代だったと私は考えます。実は,この間約100年ですが,当時の時の流れや伝達の速度が今に比べ何倍もゆったりだったのを考えれば,律令制度導入は非常に急激な変革だったのです。
こういった新しい社会システムを急速に導入するには,従来の社会システムによって長年培われてきた仕組み(地方の豪族がそれぞれの地域を守っていた非中央集権国家)を破壊することが最初に求められます。
従来の社会システムのメリット(良い面)の中に無くなってしまうものが多数出てきます。
一方,新しい社会システムの効果(工業技術や商業の発展,農業の効率化などによるマクロ経済の拡大を経て,富の再配分による民衆の豊かさの実感など)が現れてくるのに一定のタイムラグが必要です。また,その効果は現れても極一部の人たちだけのものである状態が長く続きます。そのため,庶民を中心とした多くの人たちが長い間新しい社会システム導入の影の部分にに戸惑い,苦しむのです。
権力闘争,身分社会,富の集中,貧富の格差拡大,規則に縛られた不自由な社会,重課税負担,徴兵などで大半の人々は塗炭の苦しみを味わった。万葉集の時代はまさにそんな時代だったと私は考えます。

2.現代の急速な社会システムの変革
現代は地球規模で,今までの歴史の中でもっとも急激に社会システムが変わろうとしていると私は感じます。その激変をもたらしている要因はいわゆるIT化です。コンピュータによる今までにない超効率的な社会を目指して,各国や各企業は血眼になってIT化を推進(研究開発)しています。しかし,それができるのは極限られた国(一応日本も含まれますが)だけです。多くの国はIT化に後れをとっています。IT化が進んでいる国とそうでない国との国力の格差は開く一方なのです。
例えば,IT化先進国のファンド会社は,巨額の年金資金(今まで儲けてきたお金)を原資にIT(金融工学)を駆使した金融商品の取引きでさらに巨額の利益を上げようとしました。その利益(①)はいったいどこからくるのでしょう。それは国(国債)や企業(社債,株式,その他証券)の信用からです。信用とは将来一定の利益(②)を産み出すだろうという予測です。金融商品の取引はその信用を先取りして利益(①)を得る行為です。当然,利益(②)は思惑通りに得られるとは限りません。昨年のサブプライムローン破たんのように利益ではなく大きな損失を被ることがあり得ます。
実は利益の①と②はまったく性質の異なるものです。②はモノ(農作物,製造物,ソフトウェア等)を作るときや価値を付加するときの売価とコストの差です。金融商品は,生産現場で②の利益が将来出ることを見越して投資します。投資された側(経営者)は,より利益を出して投資家に株式の配当,分割,さらなる信用増大による株の値上がりで還元し,次の投資を呼び込もうとします。
しかし,その利益は,途上国の貧困貧富の格差によりもたらされる部分が少なくないと私は感じています。貧しい国や人がいることによって,極めて低賃金や劣悪環境で生産が使え,コストが抑えられる。そのコスト低減で利益が出て,金を持っているが何も生産しない人に利益を還元していることになります。
端的にいうと金融商品で中長期に大きな利益が出せるのは,貧しい生活を強いられている人たちの存在によって成り立っていると私は考えるのです。
今サブプライムローンで信用力を失った企業は,さらにコストを下げるために社内のリストラを行い,そしてさらにはより貧しい国での生産や価格が低い輸入を模索しています。

3.万葉時代と現代の類似点
万葉時代は,律令制度側が,その立場を盤石にするため,貧しい人たちにさらに追い打ちを掛けるように重税を課した(天平文化はそのおかげで開花?)。また,朝鮮半島や蝦夷地からの防衛のため,やみくもに軍事費に莫大な金を掛け,多くの農民を強制的に防人として九州に,蝦夷征伐にとして東国に兵力を配置したと私は考えます。
一方,現代は地球全体規模で,(IT化による)新しい社会システムの変革が行われようとしています。その変革によって,大きく勢力を伸ばしている国々の主導権争いが,今後ますます激しくなるでしょう。ちょうど,飛鳥時代から天平時代にかけての氏間の権力争いのようにです。また,IT化の主導権争いによって,IT化に取り残された人たち(国)の中に翻弄され,犠牲になる国や人々がこれから地球規模でもっと起こるような気がします。
歴史の大きな変化(流れ)を逆廻りさせることはできません。もしかしたら,今の激変の流れは地球規模の中央集権化が達成されるまで続くのかも知れません。かといって,大きな流れを推進する側の視点だけの記録しか残らないとすると,犠牲になった人たちは救われません。

4.万葉集の独自性
こんな時代だからこそ,私は万葉集を編纂した人たちに共感を感じます。万葉集が当時の最大権力者(藤原氏)にとって反逆書として扱われ,編纂者が処罰を受けるかもしれないという相当なリスク覚悟で編纂されたのだろうと私は想像します。
新しい社会システムを導入する側は,その影の部分を隠そうとするだけでなく,歴史書(日本書紀,古事記等)の記述も自らの正当化のため偏らせることも考えられます。本当は,苦しめられる側の歴史書があって公平性が保たれるはずですが,そういう苦しい立場の人たちは歴史書を編纂するお金も能力も持ち合わせていません。どうしても記録書として歴史に残るものには,当時の為政者側(勝ち組)を正当化する偏った資料になってしまうと私は考えます。
ところが,万葉集の防人の歌東歌の中に「敵(朝鮮半島,蝦夷)が攻めてきたら撃退してやるぞ!」という勇ましいものはありません。為政者側が自分たちを正当化するのであれば「国のために頑張るぞ!」という歌がもう少し選ばれてもよさそうです。
もちろん万葉集には為政者の象徴である天皇礼賛の和歌は確かに多くあります。ただ,律令制度の推進者としてではないように思います。逆に,律令制度が導入される前,地方豪族の長としての天皇中心でもっと平和だった(権力闘争による犠牲者はこんなにひどくなかった)という懐かしみを込めた視点と私には感じられるのです。

5.このブログのこれから
さて,一市民である私は,この時代の変革の流れに対して,具体的に何もできないかもしれません。ただ,IT業界にいるものの一人として,これからこのブログで万葉集を通しつつも,今の新しい社会システムの変革がもたらすデメリットの部分についても積極的に発信し,記録に残していこうと考えています。

2009年10月5日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(と~)

引き続き,「と」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)。

栂(とが)…ツガ(植物)と同意。
咎む(とがむ)…取り立てて言う。責める。非難する。
非時香菓(ときじくのかくのこのみ)…橘(タチバナ)の古称。
常磐(ときは)…常に変わらない岩。永久不変なこと。常緑であること。
鳥座(とぐら)…鳥のねぐら。
常滑(とこなめ)…岩にいつも生えている水苔。水苔でいつも滑らかな岩床。
常処女(とこをとめ)…とこしえに若い女。いつも変らぬ若々しい少女。
刀自(とじ)…家事をつかさどる女性。
離宮(とつのみや)…離宮(りきゅう)、外宮(げくう)。
舎人(とねり)…下級官人。
侍宿,宿直(とのゐ)…宮中・役所などに泊まり込みで勤務・警戒すること。
鳥総(とぶさ)…きこりが木を切った時、伐った梢をその株に立てて山神を祭ったもの。
跡見(とみ)…鳥獣が通った跡を見て獲物の居場所を考えること。
尋む(とむ)…たずねる。たずね求める。
艫(とも)…船の最後尾。
鞆(とも)…弓を射る時に,左手内側につけ,弦が釧などに触れるのを防ぐ丸い皮製の具。
乏し、羨し(ともし)…めずらしくて心が引かれる。
響む(とよむ)…鳴り響く、鳴り渡る。
撓らふ(とよらふ)…揺れ動く。揺れる。

この中から,非時香菓(ときじくのかくのこのみ),常磐(ときは)が出てくる大伴家持が越中で詠んだ長歌(18-4111)を紹介します。
長歌は長いので,ストーリとこの言葉が引用されている前後を紹介することにとどめます。
<長歌ストーリ>
天皇が神であった時代,田道間守(たぢまもり)という人が,常世の国に渡り,いつも芳しい香りがする木の実(橘)をお持ち帰られ,日本の国狭しと生え栄えている。
春には新芽が萌え,花が咲く夏にはその花を娘たちにプレゼントし,娘たちは花が枯れるまでその香りを満喫する。こぼれ落ちた若い実は玉として紐を通して手首に巻いても飽きない。秋の冷たい時雨の時にも黄色に熟した橘の実は明るく見える。冬になっても,葉は枯れず緑のままで盛んに繁っている。そのため,橘のことをいつも芳しい香りがする木の実と名付けなさったに違いない。
<言葉の引用箇所>

八桙持ち参ゐ出来し時 非時香菓を 畏くも残したまへれ
<~やほこもちまゐでこしとき ときじくのかくのこのみを かしこくものこしたまへれ~>
<<~多くの矛持って天皇に参上なさった時,いつも芳しい香がする実がなる木(橘)をお遺しになったので~>>

霜置けどもその葉も枯れず 常磐なすいや栄生えに
<~しもおけどそのはもかれず ときはなすいやさかはえに~>
<<~霜が降りてもその葉は枯れることはなく,常に緑で何と盛んに生えている状態で~>>

この橘を 非時香菓と 名付けけらしも
<~このたちばなを ときじくのかくのこのみと なづけけらしも
<<~この橘の実を「いつも芳しい香りのする木の実」とお名づけになったに違いない>>

この長歌の後,家持は次の短歌を詠んでいます。

橘は花にも実にも見つれども いや時じくになほし見が欲し(18-4412)
たちばなははなにもみにもみつれども いやときじくになほしみがほし
<<橘は花も実も見ているが、いよいよいつまでも見ていたいものだ>>

天皇家の親族である葛城王が母の縣犬養三千代の姓(元明天皇から授かった)である橘氏を名乗り(天平8年:736年),葛城王自身も橘諸兄と改名しました。ここから奈良時代から平安中期まで名家といわれた橘氏が始まったようです(諸兄は後に正一位,左大臣まで昇進)。
家持が詠んだこの和歌二首は,親交が厚かったといわれている橘諸兄に橘氏の名乗りを受け「橘の和歌」と題して送ったのかも知れません。
この和歌のどこにも明確には書いていませんが「橘氏と末永くこれまで以上にお付き合いをしたい」というメッセージが込められているようにも取れそうです。
藤原氏の権力集中を思わしく考えていなかった家持が諸兄に接近するのは当然なのですが,その接近が後に藤原氏仲麻呂)の標的になったかもしれません(諸兄の息子が起こした橘奈良麻呂の乱で関係の深い大伴池主が連座)。

しかし,そういった生臭い政争の歴史を背景にこの和歌を解釈するのではなく,純粋に和歌として解釈するとまた違った見方ができるのではないでしょうか。
すなわち,この和歌は橘を丁寧に解説しているという見方です。
この和歌から当時の橘について分かることは,「非時香菓」という古称がある,他国から持ち込まれという言い伝えがある,日本のあちこちに繁茂している,花は可憐で香が良く娘たちに人気がある,小さな実は瑞々しい緑から鮮やかな黄色に熟する,いつも青々とした常緑樹,いつ見ても飽きない風情があるなど。
まるで橘の苗を売っている業者のパンフレットのような和歌ですね。

私は,このブログ開始にあたって「万葉集が大和ことばの用例提示や解説を目的で編纂されたのかも知れない」と書いたのは,この和歌のようにさまざまなことば(動植物の名前,地名,一般名詞,冠位,動詞,形容詞,感嘆詞など)の使い方や解説を含んだ和歌がたくさん出てくるからなのです。
家持が越中赴任時にこの和歌を作った当時の目的は政治的なものも含まれていたかもしれません。しかし,家持が晩年万葉集を編纂する際にこの和歌を選んだ理由は別(橘という木はどんなものかの紹介?)だったと私は思うのです。(次回難読シリーズは休み。投稿50回記念特集の予定)

2009年9月27日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(ち~,つ~)

引き続き,「ち」「つ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)。

茅(ちがや)…イネ科の多年草。萱の一種。屋根を葺くのに用いる。
千尋(ちひろ)…非常に長い(深い)こと。尋は両手を広げた両手先間の長さ。
街,衢,巷,岐(ちまた)…道の分かれるところ。街路。
束(つか)…握ったときの4本の指の幅ほどの長さ。短いことの例えにも使われる。
墓(つか)…土を高く盛って築いた墓所。
栂(つが)…マツ科ツガ属の常緑高木。
官(つかさ)…役所,官庁。
机(つき)…つくえ。
杯(つき)…飲食物を盛る(注ぐ)のに用いた椀形の器。
調(つき)…貢。年貢。
搗く(つく)…杵や棒の先で打って押しつぶす。
黄楊,柘植(つげ)…ツゲ科の常緑小高木。
蔦(つた)…キヅタ,ツタウルシなど蔦性木本の総称。
嘰ろふ(つつしろふ)…少しずつ少しずつ食べる。
慎、障、恙(つつみ)…さしつかえ。障害。病気。
苞苴,苞(づと)…携えてゆくその地の産物,土産。
鯯(つなし)…コノシロ(鰶)の幼魚でコハダ(小鰭)より大きい頃の魚。
燕(つばめ)…ツバメ。
委曲(つばら)…くわしいさま。つまびらか。
躓く(つまづく)…けつまずく。
柧手(つまで)…そまひと(杣人)が荒造りした材木。角材。
柘(つみ)…ヤマグワ(山桑)の異称。
旋毛(つむじ)…つむじ風の略。
弦(つら)…弓のつる。
橡(つるはみ)…クヌギ(椚)の古名。ドングリのかさを煮て溶かした染料の色。

では,この中から委曲(つばら)が詠まれている大伴旅人の短歌を紹介します。

浅茅原委曲委曲にもの思へば 古りにし里し思ほゆるかも(3-333)
あさぢはらつばらつばらにものほへば ふりにしさとにおもほゆるかも
<<細かいことをあれこれ考えていると昔の故郷のことが思い出されるなあ>>

この短歌は,大伴旅人太宰府の長官になって筑紫に5年間赴任中に,奈良の都に対する望郷の思い詠んだ五首の短歌の一つです(「浅茅原」は委曲にかかる枕詞と言われている)。
この五首は,旅人が60歳を過ぎている頃に作られたと思われる一連の和歌です。
当時の太宰府は,博多湾に繋がってる御笠川が近くを通っていて,水運による物資の輸送は比較的活発な場所だったと思われます。それでも,海から20Km以上離れた内陸の地です。奈良の都のようなにぎやかさは望むべくもありません。
赴任直後に妻を亡くし,また奈良の都のようにさまざまな知人との交流もままならない旅人の寂しさは,堪えがたいものがあっただろうと想像します。
彼は,その寂しさを山上憶良たちと和歌を詠むことで癒したのだと私は思います。それらの和歌は筑紫歌壇として万葉集の一角を形作っています。

私は1年余りある都市で単身赴任に近い生活をした経験をしました。旅人やもっと長期間単身赴任している人に比べたら,私の場合比較にならないほど楽でしょうが,それでも旅人の気持が少しわかった気がします。

  天の川「そのときやったら,たびとはんはいろんなお店に行って楽しんではったよう...」

し~っ。 天の川君! それ以上は内緒にしておこうね!(「と」で始まる難読漢字に続く)

2009年9月21日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(た~)

引き続き,「た」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることば(多いです)で拾ってみました(地名は除きます)。

違ふ(たがふ)…一致しなくなる。相違する。背き外れる。
沈鳧(たかべ)…コガモの古名。
手柄(たかみ)…剣のつか。
激つ(たぎつ)…たぎる。
綰く(たく)…髪をかき上げる。手綱を操る。舟を漕ぐ。
栲綱の(たくづのの)…しら、しろ、新羅にかかる枕詞。
栲領巾(たくひれ)…楮(こうぞ)の繊維で作ったひれ(女性用マフラのような服飾具)。
栲衾(たくぶすま)…白にかかる枕詞。
襷(たすき)…衣服の袖をたくし上げるために肩から脇にかけて結ぶ紐。
佇む(たたずむ)…しばらくその場に立っている。立ち止まる。
畳薦(たたみこも)…隔て,へにかかる枕詞。
忽ちに(たちまちに)…すぐに、急に。
手束(たつか)…手に握り持つこと。
方便(たづき,たどき)…手かがり。手段。
携ふ(たづさふ)…互いに手を取る。連れ立つ。同伴する。
尋ぬ(たづぬ)…探し求める。探り求める。問い聞く。訪問する。
楯(たて)…戦陣で手に持ちまたは前方に立て,敵の矢,槍,剣などを防ぐための武器。
経緯(たてぬき)…機の経糸(たていと)と経糸(ぬきいと)。
織女(たなばた,たなばたつめ)…はたを織る女。秋さり姫。織女星。機織姫。
谷蟆(たにくぐ)…ヒキガエルの古名。
檀越(だにおち)…布施をする人。だんな。
戯れ(たはむれ)…遊び興ずること。
賜る(たばる)…たまわる。いただく。
度多し、度遍し(たびまねし)…多い。絶え間ない。
褌(たふさき)…ふんどし。
狂る(たぶる)…常軌を逸する。
妙(たへ)…不思議なまでに優れていること。
栲(たへ)…布。
手巻、環,手纏(たまき)…ひじに纏った輪形の装飾品。
廻む(たむ)…めぐる、まわる。
拱く(たむだく)…両手を組む。こまねく。
徘徊る(たもとほる)…同じ場所をぐるぐる廻る。行ったり来たりする。
揺蕩(たゆたひ)…彼方こなたへゆらゆらと動いて定まらないこと。
撓む(たわむ)…つかれていやになる。気力がなくなる。
手弱女(たわやめ)…たわやかな女性。なよなよした女。
手童(たわらは)…幼い子供。
撓(たをり)…山の尾根の低くくぼんだ所。鞍部。

中には比較的易しいと感じる難読文字も含まれているかもしれません。たくさん出現した理由は,もともと「た」で始まる言葉が多いためです。
この中の襷(たすき),戯れ(たはむれ),妙(たえ),方便(たどき)の四つが登場し,亡くした男の子のことを嘆き悲しむ山上憶良の長歌(5-904)があります。
長いので全部の紹介はやめて,ストーリと出現部分の紹介にとどめます。

<この長歌ストーリ>
七宝などに変えられないほど大切で可愛いわが子「古日」は,朝は私の床を離れず,いつも私と一緒に遊び,夕方になると私と妻の間で寝たいと可愛く言う。良くも悪くもこれから愛情を掛けて育てていこうとしたが,急に容態が悪くなった。白い布で作った襷を掛け鏡を持って,あらゆる神に祈りを捧げたが,容態が少しも良くならず,日に日に悪くなり,遂に死んでしまった。どんなに泣き叫び,悲嘆に暮れても,わが子は旅立ってしまう。これが世の中というものなのか。

(注)この後の短歌二首で「天に旅立つわが子にはお金をいっぱい持たせるから,天までの道にそのお金を布施として置き,天までの道をちゃんと教えてもらうんだよ」と憶良は詠んでいる。

<言葉の引用>
戯れ(たはむれ
立てれども 居れども ともに戯れ
<~たてれども をれども ともにたはむれ~>
<<立っていても座っていても一緒に遊んで>>

方便(たどき)
為すすべも 方便も知らに
<~なすすべも だどきもしらに~>
<<行う方法も手かがりも分からず>>

妙(たえ),襷(たすき
白妙の 襷を掛け
<~しろたえの たすきをかけ~>
<<白い布で作った襷を掛けて>>

この和歌から可愛くて仕方がなかった我が子を亡くした憶良の悲しみが今の私にも重く伝わってきます。
奈良時代は,病気の予防ワクチン,有効な抗生物質,効果的な医療技術などほとんどなく,一家に生れた子の内,何人かは成人になるまでに死ぬような時代でした。
しかし,子供が死ぬことが珍しいことではない時代にも関わらず,亡くした子に対する悲しみの感じ方は今と変わらないか,もっと深い部分もあるように私は感じます。
<当たり前に成人になれる現代は幸せか?>
今の日本,医療技術の発達や豊かな社会生活で病気により成人を迎えられずに死ぬ子どもの比率は恐らく奈良時代に比べて極端に少ないはずです。病死してしまう子どもを身近に見ることが少なくなった今,逆に生命の大切さを感じにくくなっている人が増えているのではないか。そのことが私には気になります。
少し誇張した表現ですが,今大多数の人は当たり前のように育ち,当たり前のように健康で,当たり前のように成人となることができる時代だと思います。(当たり前だから)生きていること自体に有難味を感じなくなってしまう人が,生きるか死ぬかの問題に比べたらはるかに些細と思われる理由で,自殺したり,他人を殺めりする傾向が強くなっていないでしょうか。
<亡くなった人を目の当たりにすると?>
水道,電気,ガス,電話などが使えなくなったとき,その有難味を身にしみて感じます。ただ,普段はいつでも使えるのが当たり前だと思い,使えなくなることを想定して有難味や感謝の気持ちで利用している人は少ないかもしれません。
大切な家族や近所の友達が亡くなってしまったり,重い不自由な身なってしまうのを目の当たりにする。そのことで,生命は儚いもので,大切にしなければならないものである。また,儚い自分の生命を大切にして生きていくには,長く生きた人(父母やお年寄り)の知恵に耳を傾けることが重要だと思い,尊敬の念を自然と持つようになっていくのだと私は思います。
<生命の大切さをどう教えるか?>
でも,子どもの死亡率に限らず,死亡率というものは低い方が当然良いはずです。医療技術や安全な社会システムによって当たり前に感じてしまう「無事に生きられている有難味」をどうやって教え,共有して行けばよいのでしょうか。
やはり,生命を大切にすることの重要性を感じている人たちが,障がい者や老人を大切にする,親を大切にする,家族や家族の絆を大切にする,住む処,職場や学校などの近隣の人やその人との繋がりを大切にするなど,一世紀も二世紀も前の人たちが言っていたことを愚直に教える,議論するという社会的な行動を起こす必要があるのかも知れません(例えば,戦前教育で同じことやっていたからという理由だけでステレオタイプにこのような教育の否定をやめて)。
<敬老の日に寄せて>
今日は敬老の日です。最近あるうれしいできごとで知った福山雅治の最新アルバムの中にある「道標」を聞き,さらに検索サイトにアップされた「道標」作成ストーリの映像も見ました。彼の故郷長崎の今は亡くなった祖母をモデルに,生命の大切さ,祖母への敬愛を唄った,心打たれるすばらしい曲だと私は思います。

まだ結構先ですが,私もいずれはお年寄りの仲間に入ります。

さて,どうせお年寄りになるなら,人生の後輩から少しは敬愛されるお年寄りになりたいものだね,天の川君?

天の川「こちらは歳を取りまへん。たびとはんと一緒にせんといてんか!」

みなさん,こういう憎まれ口は絶対にたたかないように注意しょう。(「ち」「つ」で始まる難読漢字に続く)

2009年9月15日火曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(せ~,そ~)

引き続き,「せ」「そ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

堰く、塞く(せく)…相愛の二人を合わせないようにすること。塞き止める。
背向(そがひ)…背中合わせ、後方。
退方(そきへ,そくへ)…遠く離れた方。
背面(そとも)…南に対して北側のこと。
赭、朱(そほ)…赤色の土。その土の色。
杣(そま)…植林して材木をとる山。

あすか川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば(14-3545)
あすかがは せくとしりせば あまたよも ゐねてこましを せくとしりせば
<<明日香川の流れ(二人の仲)が堰き止められる(引き裂かれる)こと知っていたなら幾夜でも共寝をしに来たものを。そうなることを知っていればなあ>>

この短歌は,明日香川という奈良の地名を読んでいますが東歌です。
おそらく,この和歌の二人は,明日香川が堰き止められることはあり得ないほど恋慕は強く,永遠の愛を誓っていた。にもかかわらず,思いの強さとは裏腹に周囲や環境は二人が結ばれることを許さず,別離を迎えることになったのでしょう。
そんなことならもっともっと共寝をして抱き締めたかったのに。本当に心残りだな。そんな感情がストレートに伝わってきますね。
でも,そんな二人の思いを邪魔する(堰を作る)人がいて,結局結ばれることが叶わぬ恋となったとしても,二人の愛は永遠に続くような期待を持たせる和歌と僕は感じます。

今の世の中でも,結果的に結ばれなくても,そんな思いを心の支えして前向きに生きている人もたくさんいるような気がします。
そんな人たちは,例えば「ささやかなこの人生」(伊勢正三作詞作曲)の「♪そして巡る季節よ その愛を拾って終りの無い物語を作れ~♪」のフレーズをこよなく愛して聞いているのかも知れません。

天の川「たびとはん。気持ちよく書いてるけど,何かええことでもあったんか? ちょっとブログの趣旨と違う世界に入ってまへんか?」

天の川君,たまにはロマンチックな気分に浸らせてくれたまえ。(「た」で始まる難読漢字に続く)

2009年9月11日金曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(す~)

引き続き,「す」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

蜾蠃(すがる)…ジガバチの古称。美女の細腰にたとえられる。
双六(すぐろく)…すごろく。
助丁(すけを)…防人で正丁に対する中男または次丁の身分の称。
食薦(すごも)…食膳または机の下に敷く敷物。
啜ろふ(すすろふ)…すする。
集く(すだく)…多く集まって騒ぐ。
漁る(すなどる)…魚や貝をとる。漁をする。
皇祖(すめろき)…天皇。すめらみこと。
陶人(すゑひと)…焼物師。陶工。

今回は,食薦(すごも)を詠んだ短歌を紹介します。

食薦敷き青菜煮て来む 梁に行縢懸けて 休むこの君(16-3825)
すごもしき あをなにてこむ うつはりに むかばきかけて やすむこのきみ
<<テーブルクロスを敷いて 青菜を煮て来て進ぜよう 梁に革の腰覆いを掛け(酔いつぶれて)お休みの殿方のために>>

この短歌の作者は,長意吉麻呂(ながのおきまろ)という宴席で出席者の爆笑を誘うような即興による短歌創作を得意とする歌人です。この短歌には,作者が行縢(むかばき),青菜(あおな),食薦(すごも),家の梁(うつはり)の言葉を入れて詠むというお題に対して作ったしたという注釈が題詞についています。
この短歌で出てくる「君」は,結構偉い人で,いつもは礼節にやかましい人なのかも知れません。ただ,この宴席では正装具の行縢(むかばき)を脱いで梁にぶら下げ,相当見苦しい格好で寝ているのでしょう。
そこで青菜を丁寧に煮て,きちっと器に盛り付けて,クロスを敷いた上に置き,召し上がっていただくようにするときっと礼節正しいお姿に戻るのではないか?,いや今はとても無理か?,ちょっとやってみようかい?
こんな雰囲気だったのではないかと私は想像します。

この短歌で,宴席に参加した人たちは酔いつぶれて寝ている偉い人を見て,大いに笑ったのではないかと私は思います。
長意吉麻呂は,さしずめ万葉時代の『有効期限の過ぎた亭主・賞味期限の切れた女房』で知られている「綾小路きみまろ」のような人だったかも?と私は思いたいですね。

さてさて,天の川君に『有効期限の過ぎた”たびと”・賞味期限の切れた”投稿”』と言われないように頑張らねばね。(「せ」「そ」で始まる難読漢字に続く)

2009年9月5日土曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(し~)

引き続き,「し」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

柵(しがらみ)…川の水流をせき止めるための杭。
樒(しきみ)…シキミ科の常緑樹。白い花をつけるが実は猛毒。
時雨(しぐれ)…秋の末から冬の初め頃に,降ったりやんだりする雨。
醜(しこ)…みにくい、見苦しい、ごつごつした、頑固なさま。
獣(しし)…けもの。特に猪、鹿をさす。
肉(しし)…食用の肉。
繁(しじ)…ぎっしりすきまのないこと。
蜆(しじみ)…シジミ。
時(しだ)…~するとき。~しかけ。「寝しな」の「しな」の古語。
細螺(しただみ)…きさご、きしゃご、ぜぜがいなどと呼ばれる食用巻貝。
倭文(しつ)…古代の織物の一つ。穀(かじ)・麻などの緯を青・赤などで染め,乱れ模様に織ったもの。綾布。
垂づ(しづ)…たらす。
撓ふ(しなふ)…しなやかにたわむ。しなる。
小竹(しの)…細くて群がり生える小さい竹。篠。
屡(しばしば)…たびたび。幾度も。
咳く(しばぶく)…咳をする。
癈(しひ)…身体のある器官の作用を失うこと。
鮪(しび)…マグロの成魚。
標(しめ)…しるし。標縄。
笞、楚(しもと)…罪人を打つのに用いる細い木の枝で作ったむちまたは枝。
験(しるし)…効き目。有効なこと。
著し(しるし)…きわだっている。はっきりしている。いちじるしい。
銀(しろがね)…銀(ぎん)。

今回は,この中から,蜆(しじみ)と鮪(しび)を詠った短歌を紹介しましょう。
両方とも当時から美味な魚介類としてたくさん食べられていたようです。

住吉の粉浜の蜆 開けもみず隠りてのみや 恋ひわたりなむ(6-997)
すみのえのこはまのしじみ あげもせずこもりてのみや こひわたりなむ
<<住吉の粉浜のシジミがなかなか口を開けて中を見せないように 秘かに隠してばかりが続く私の恋心でしょうか>>

鮪突くと海人の灯せる 漁火の秀にか出ださむ 我が下思ひ(19-4218)
しびつくとあまのともせる いざりびのほにかいだせむ わがしたおもひを
<<鮪漁でモリを突くために漁師が灯す漁火のように はっきりと外に出してしまおうか私の秘めたる恋心を>>

両方の短歌(後者は大伴家持作)ともに,シジミやマグロ漁はいわゆるツカミとして使用されているだけで,最終的には恋の感情を表現している短歌です。
万葉集では,この2首のように比喩を使った和歌が多くあります。二つ目の家持の短歌は,先頭から「漁火の」までが序詞と呼ばれる部分です。結局序詞の部分は本体ではなく「漁火のように私の秘かな恋心をはっきり出してしまいたい」と言いたいだけなのです。
一方,最初の詠み人知らずの短歌は明確な序詞ではないですが,やはり「シジミの口が閉まって中が見えないように」という形になっています。
万葉集では序詞やその他の比喩を前置きに使った和歌は少なくとも数百首はあると思われます。家持などの優れた歌人もそういった技法を時として使っていますが,数からいうと大半が東歌防人歌,詠み人知らずの歌に出てきています。
これは日ごろ和歌を作ったことがない庶民や若者に簡単に和歌を作れるよう短期教育して作られたものが多いからではないかと私は思います。今でいうとカルチャーセンターや市町村の講習会で行われる「短歌手ほどき講座」みたいなものでしょうか。
さて,当時でも「~のような~」「~のように~」の考えで前半は自分の知っている経験や見てきたことを上の句で述べ,それに似た言葉,現象,比喩を使って自分の思いを下の句に入れると比較的簡単に誰でもが和歌が作れたのかもしれません。
これだけの東歌,防人歌,詠み人知らずの和歌が万葉集に出ている事実をみると,和歌の作り方を一般庶民や若者,地方の人たち,防人などの教養や知識のレベルアップのために熱心に教育した人たちがいたはずです。
大伴旅人や家持はそういった和歌創作教育にもっとも熱心だった人たちの一人に違いないと私は強く思います。
次は私が即興で序詞の技法を使い,旅人,家持の熱意の現代への浸透を思い作った短歌です。

山に雨幾年隠り 湧く水の清けく満たす 万葉心(たびと作)
<やまにあめいくとせかくり わくみずのさやけくみたす よろずはこころ>

天の川君から「そのまんまやん!何のひねりもあらへん」という声がすぐ聞こえてきました。
(「す」で始まる難読漢字に続く)

2009年8月26日水曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(さ~)

今回からさ行に入りました。引き続き,「さ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

榊(さかき)…常緑樹の総称。特に神事に用いる木を言う。
防人(さきむり,さきもり)…辺土の防衛兵士
細(ささら,さざれ)…小さい、細かい
銚子(さしなべ)…弦と注ぎ口のある鍋。さすなべ
小網(さで)…三角で袋状の網
核(さね)…まことに、ほんとうに
多(さは)…多いこと。あまた、たくさん
五月蠅(さばへ)…陰暦五月の頃の群がり騒ぐ蝿
囀る(さひづる)…かしましく言う。よくしゃべる
禁樹(さへき)…行方の妨げになる木
呻吟ふ(さまよふ)…嘆いてうめく。うめき叫ぶ
伺候(さもらふ)…様子をうかがい、時の至るのを待っている。命令を承るために主君の側近くにいる
鞘(さや)…剣や太刀のさや
晒す(さらす)…布などを水で洗い,日に当てて白くする
騒騒(さゐさゐ)…騒がしいさま
棹(さを)…船を進めるために用いる長い棒

次は,柿本人麻呂が詠んだ「騒騒(さゐさゐ)」が出てくる短歌です。

玉衣の騒騒静み 家の妹に物言はず来にて 思ひかねつも(4-503)
たまきぬのさゐさゐしづみ へのいもにものいはずきにて おもひかねつも
<<騒がしさが静まって 家の妻に別れの言葉も言わずに旅立ってしまい 恋しく思う気持ちを抑えることができない>>

人麻呂は日本の各地を廻り和歌を詠んでいます。この短歌は,旅先で家に残した妻を恋しく思う気持ちをストレートに詠んだ短歌3首の内3番目のものです。
人麻呂が旅立つとき見送りがきっとたくさん来ていたのでしょう。
人麻呂を見送る人々か,人麻呂がお供する高官を見送る人々か分かりませんが,たくさんの見送り人との別れの挨拶などで大変忙しく,かつ騒がしい旅立ちだったと思われます。
そんな状況で,この旅立ちでは人麻呂は妻(おそらく依羅娘子)と別れを惜しむ時間もなく旅に出てしまわざるをえなかったのかもしれません。
旅路を進むに従って見送る人がだんだん少なくなり,静かになってくると,別れを惜しむ時間がたくさん取れなかった妻を恋しく思う気持ちが抑えられなくなる。この気持ちは本当によくわかりますよね。
今と違って,旅立った後,旅先で病になる,遭難する,賊に襲われるなどで帰らぬ人となることが頻繁にあった時代ですから,旅立ちに別れを惜しみたいという気持は強かったのだと思います。

ところで,私は新幹線や飛行機を使った日帰り出張を会社から結構命ぜられます。新幹線や飛行機は速いですからその分遠くでも日帰りが可能です。結局朝はいつもより早く家を出て,帰りはいつもより遅くなることがほとんどなのです。
そのようなとき,10数年前のサラリーマン川柳でベスト1になった「まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる」という状況です。
日本国内で新幹線などの移動は非常に安全であり,万一の場合でも保険制度,保障制度,弁護士サービスの充実などお互い心配することは何もありません。安心しきっているからでしょう。
それはそれで他の国には少ない非常に有り難い平和な社会なのですが,そんな状態じゃ新幹線や飛行機の中で「恋しく思う気持ちが抑えられなくなる」ことが考え辛く...。

 天の川「そんなこと書いてると,たびとはんのお家でまた『騒騒(さゐさゐ)』になりまっせ!」

おっ,そうか,気をつけよう。(「し」で始まる難読漢字に続く)

2009年8月16日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(こ~)

引き続き,「こ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

扱く(こく)…しごく。しごいて掻き落とす。
凝し(こごし)…ごつごつしている。険しい。
幾許(こぎた,ここだ,ここば)…こんなに多く。こんなに甚だしく。
悸く(こころつごく)…心がおどる。動悸がする。
甑(こしき)…米や芋などを蒸すのに用いる器
去年(こぞ)…昨年
木末(こぬれ)…木木の若い枝先
蟋蟀(こほろぎ)…コオロギ
肥人(こまひと)…九州球磨地方の人
木群(こむら)…木が群がり茂った所
薦(こも)…マコモ
臥やす(こやす)…横になる、休むの尊敬語
嘖らる(こらる)…怒られる。叱られる。
樵る(こる)…木を伐る。きこる。伐採する。

さて,次は山上憶良が詠んだ有名な長歌・貧窮問答歌で甑(こしき)が出てくる部分です。
~竈には火気吹き立てず 甑には蜘蛛の巣かきて 飯炊くことも忘れて~(5-892)
~かまどにはほきふきたてず こしきにはくものすかきて いひかしくこともわすれ~
<<~竈には火をいれることもなく,甑には蜘蛛の巣が張って,ご飯を炊くことも忘れ~>>

憶良はこの和歌で「甑は使われず蜘蛛の巣が張っている」などの表現を使い,暖かいご飯を炊いて食べることがずっとできず,飢えをしのいでいる一家の苦しい状況を具体的に示しています。
さらに,この長歌の最後の部分では戸籍を管理している里長が,このような暮らしを余儀なくされている家族にも「短いものをさらに切り刻むように」容赦なく税の取り立てを行うことが詠われています。
当時の大和政権は,日本が諸外国(中国,朝鮮半島など)に負けない強い国にするため,中央集権体制である中国の律令制度を急速に導入しようとしました。明治維新と似ている部分もあるのかもしれません。
その体制を維持するために人頭税賦課を徴収し,その財を基に多くの官僚や軍隊を抱え,政(まつりごと)や国防に専念できるようにしたのです。
しかし,律令制度が完成し,庶民の生活を豊かにするには時間を要します。その間,多くの人には先に税が負担となります。
また一見公平のように見える人頭税賦課は,子どもをたくさん産み,その労働力に頼っている農民にとっては非常に重い税制であったのです。
それまで比較的豊かだった里長たちのような一部特権階級は,自分の豊かさや立場を維持するために,一般庶民への税負担を重くした可能性もあります。
<政治・経済学的な視点>
一つの新しい制度を導入することにより,その効果が表れるまでは貧富の差が拡大することは,資本主義経済を急速に取り入れてきた今の中国を見ても分かります。
ただ,私は貧富の差が必ずしも悪いとは思いません。なぜなら,より豊かになりたい,成功者になりたいという気持ちが人々の活力(創意・工夫)に結びつき,活力の結果として経済や技術が発展することは良いことだと私は思うからです。
これは良い意味の競争であり,競争に勝った人がその他の人より多くの富を得ることはプロ競技の世界が典型例です。当然一般のビジネスの世界でも実態は競争がベースとなっているのではないでしょうか。
逆に,悪平等により,何の努力もせず一定の生活が保障される社会が活力ある良い社会だとは私は決して思いません。
<セーフティネットも必要>
しかし,そういった競争にすら参加できないで生活に苦しんでいる人々が存在するのも事実です。その人たちの多くは怠けものではないのです。身体的な障害や持病がある,諸般の事情で教育を受けたくても受けられなかった,悪意をもった人間に騙され借金を背負ってしまった,間違ったアドバイスを信じ自分の進路や人生設計を見誤ったような人たちなどです。
このような人たちが現実に居ることを認識し,その人たちにも競争に参加できるチャンスを与えることが政治には必要だと私は思います。衆議院選挙が近づく昨今,私は適正で活性化した競争社会を維持しつつも,それに参加できない人が居たら,励まし,その人なりのチャンスを与え,そのような人たちの希望と活力をも支える庶民感覚を十分もった政党を支持したいと思うのです。 (「さ」で始まる難読漢字に続く)

2009年8月10日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(け~)

引き続き,「け」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

蓋し(けだし)…まさしく。ほんとうに。もしや。ひょっとしたら。
梳る(けづる)…くしけずる。
日並ぶ(けならぶ)…日数を重ねる。
異に(けに)…他よりすぐれて、ひどく。
鳧(けり)…チドリ科の渡り鳥。鳴き声が「けりり」と聞こえることが名前の由来らしい。

次は,梳る(けづる)が出てくる詠み人知らずの短歌です。

朝寝髪我れは梳らじ うるはしき君が手枕 触れてしものを(11-2578)
あさねがみわれはけづらじ うるはしききみがたまくら ふれてしものを
<<朝,寝起きの乱れた髪を私は梳らないでおきます。だって,大好きなあなたの手枕に触れた髪ですから>>

この和歌,作者が男性か女性か分かりません。
次の和歌のように当時「手枕を交わす」という言葉があり,手枕は常に男性がするものとは限らないと言えるからです。

遠妻と 手枕交へて寝たる夜は 鶏がねな鳴き 明けば明けぬとも(10-2021)
とおつまと たまくらかへてねたるよは とりがねななきあけばあけぬと
<<今度いつ逢えるか分からない貴女と手枕を互いにしつつ共寝をした夜は鶏よ鳴いてくれないで,夜が明けても>>

ただ,「梳らじ」の和歌は,髪に対する思い入れの強さが古今変わらないとするとやはり女性の和歌だと私は思いたいのです。
さて,江戸時代人気の高い花魁(おいらん)たちは,この和歌を達筆の書にして店の者を通じ,一夜を過ごした上客に渡したのかもしれません。
渡された客は「また来て指名したい」と思ったに違いありません。ちなみに,私の場合は意思が強いですから,この程度では動かされませんがね。

 天の川「たびとはん。あんたの甲斐性やったら客にもなれまへんで~。」

また出てきたな「天の川」め。少しは言い方を気をつけろ! (「こ」で始まる難読漢字に続く)

2009年8月7日金曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(く~)

引き続き,「く」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

消(く)…消す。
裹(くぐつ)…莎草(くぐ)で編んだ袋。藻または貝などを入れるのに用いる。
釧(くしろ)…装身具の腕輪、ひじまき。
奇し(くすし)…不思議である。人知では計り知れない。
腐す(くたす)…くさらせる。だめにする。
降たち(くたち)…末になること。夕暮れ。夜が次第に更けること。
隈廻(くまみ)…曲がりかど。
枢(くる)…扉の端の上下につけた突起を框(かまち)の穴に差し込んで開閉させるための装置。くるる。
反転(くるべき)…糸を繰る道具。

次の和歌は,志貴皇子の子である湯原王が反転(くるべき)を詠んだ和歌です。

吾妹子に恋ひて乱れば 反転に懸けて寄さむと 余が恋ひそめし(4-642)
わぎもこにこひてみだれば くるべきにかけてよさんむと あがこひそめし
<<貴女に恋して心が乱れたら 糸車に掛けて依り合わせればよいと思って 僕は貴女を恋し始めたのです(でも,簡単には僕の心の乱れは依り合わす(治す)ことができません)>>

この和歌は,湯原王が新しく交際を始めてしばらくたった娘子との間でやり取りした12首の相聞歌の最後の和歌です。
この娘子が誰で,その後湯原王と娘子の恋愛がどうなったのかは不明です。
この時点で湯原王にはすでに正室がいたようです。
娘子を側室にしたいと考えているのか,単なる浮気相手なのかも不明ですが,次のお互いが湯原王の正室を意識した和歌のやり取り部分は,なかなか見応えがあります。

家にして 見れど飽かぬを 草枕 旅にも妻と あるが羨しさ(4-634)
いえにしてみれどあかぬを くさまくらたびにもつまと あるがともしさ
<<お宅ではいつも美しく,そして旅先でもいつもご一緒の奥様をお持ちのあなた様が羨ましいですこと>>

草枕旅には妻は率たれども 櫛笥のうちの玉をこそ思へ(4-635)
<くさまくらたびにはつまはゐたれども くしげのうちのたまをこそおもへ
<<旅にいつも妻は一緒にいるけれど,宝石箱の中の宝石のように美しい貴女だけをいつも思っているのですよ>>

娘子の鋭い一撃の和歌に,湯原王は防戦一方でなんとかやっと返歌をしたというように私には感じられます。
娘子の和歌では,湯原王の自分に対する本気度を確かめないという娘子の気持ちが強く感じられます。
皇族である湯原王が自分を単なる遊び相手思っているだけなら相手に対する思いも冷めて別れてしまうか,湯原王のことがどうしても好きなら自分に対して本気にさせるように仕向けるかのどちらかを選択する必要があるからでしょう。
娘子の気持ちが実際どうなのか知りたい方は,是非この12首の二人の相聞歌を見て分析してみてください。

ところで「正妻がいるのに別の女性を口説く湯原王は悪い」という倫理観や社会通念による見方がたしかにあります。
でも,そんなことを言うと源氏物語における光源氏の行動のほとんどすべては「悪い」ということになってします。
お互いの愛を確かめ合う表現力は,正規の夫婦間のような安定した関係では多分あまり進化せず,いわゆる「少しアブナイ関係」の方が気持ちを伝えあう努力を必死になって行い,表現力が進化していくのかもしれません。
ただ,そういった表現力の進化とは裏腹に「アブナイ関係」の進行結果がハッピーな結果となるかはまったく別の話です(念のため)。
渡辺淳一の小説「失楽園」の筋書きのようになることは,小説上二人だけの愛の深さの程度表わす比喩としては在りえても,実際起こったら決して誰も幸せにしないと私は思います。
おっと,1か月前の七夕に現れた天の川君からメッセージがきました。
「たびとはん。あんたは『失楽園』の主人公久木みたいなお金や時間はないさかい,そんなことぜ~んぜん心配せ~へんかて大丈夫とちゃう?」 (「け」で始まる難読漢字に続く)

2009年7月29日水曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(き~)

引き続き,「き」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除く)

蔵む(きすむ)…大切にしまう。
昨夜(きぞ)…ゆうべ。昨晩。
腊(きたひ)…丸ごと干した肉。ほしじ。
煌煌し(きらきらし)…容姿が美しい。

次は,「蔵む(きすむ)」が出てくる市原王の短歌です。

頂きに蔵める玉は二つなし かにもかくにも君がまにまに(3-412)
いなだきにきすめるたまはふたつなし かにもかくにもきみがまにまに
<<私の頭の頂きの髪を束ねた中に大切にしまってある玉は,最高でかけがえの無いものなのです。それを君に与えます。とにかく君の思うままにして構いませんよ>>

この短歌は,譬喩歌に分類された箇所に出てきます。玉を自分の最愛の娘(娘が一人いたようです)に譬えている和歌とすると,お嫁に出す相手(男性)に送る和歌と取れます。
また,玉を自分の最高の秘めたる恋心(桑田圭祐の「いとしのエリー」風に言うと「♪俺にしてみりゃこれで最後のレディ~♪」)だとすると,恋人(恐らく後の正室となる能登内親王)に愛情を打ち明けて,相手の意思を問う和歌とも感じられます。
「君がまにまに」の君は,当時相手が男性でも女性でも使っていたようです。ただ,「君」を使う場合,相手に対する尊敬・敬愛の念が今より断然強いとすると後者の解釈を私は受け入れたくなります。嫁をやる父親が相手の男性を尊敬し,どうにでもしてくれなんてことは古今ないと私は思います(賛同頂けるお父さんは多い?)。

市原王は,生没不詳のようですが,経典の写経舎人の仕事から出世し,奈良の大仏造営の要職にも就いたらしく,仏教については深い造詣があったと考えられます。
万葉集には8首短歌を残しています。すぐれた和歌が多いとの評価があるようで,私もそう思います。恐らくは,写経で得た仏教の知識がバックグラウンドとして在って,仏教の経典に出てくる巧みな譬喩技法を参考に(植物,岩,玉などを擬人化),自分思いを奥深く表現。そのため,なるほどと思わせる和歌が多いのかもしれませんね。

市原王の正室能登内親王は,大伴家持による万葉集作成のスポンサだと私が勝手に考えている(2009.3.29投稿)光仁天皇の娘です。
この能登内親王が亡くなった時点の夫市原王の生没は不明ですが,葬儀を司ったメンバーの一人に大伴家持がいたらしいです。それが事実だとすると光仁天皇,市原王,能登内親王,家持の間にはかなり深い関係・交流があったのではないかと私は改めて感じるのです。(「く」で始まる難読漢字に続く)

2009年7月24日金曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(か)

引き続き,「か」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除く)

嬥歌(かがひ)…上代,東国で歌垣(男女が集まって互い和歌を詠み交わし,舞踏して遊んだ行事)のこと。
耀ふ,赫ふ(かがよふ)…きらきらとゆれて光る。ちらつく。
篝(かがり)…かがり火。
皸る(かかる)…手足の皮がひびわれる。あかぎれが切れる。
杜若(かきつはた)…カキツバタ
陽炎(かぎろひ)…日の出前に東の空にさし染める光。
水夫、水手(かこ)…舟を漕ぐ者。ふなのり。水夫。
瘡(かさ)…皮膚病の総称。瘡蓋(かさぶた)は比較的ポピュラー。
挿頭(かざし)…頭髪または冠にさした花または造花。
炊く(かしく)…めしを炊く。
畏し(かしこし)…恐れ多い、ありがたい。
徒歩(かち,かし)…かち、歩行、徒歩。「かし」は東国の方言。
楓(かつら)…フウ(カエデ)の木の古称。
鬘(かづら)…かつら、頭飾り。
愛し(かなし)…愛おしい。
適ふ(かなふ)…丁度よく合う。適合する。
桜皮(かには)…白樺の古名?
蛙(かはず)…カエル。
峡(かひ)…山と山の間の狭い所
卵(かひご)…鶏や小鳥の卵
腕、肱(かひな)…肩から肘までの間。二の腕。また、肩から手首までの間。
感く(かまく)…感ずる。感動する。心が動く。かまける。
竈(かまど)…土・石などで築き,その上に鍋・釜などをかけ,その下で火を焚き,煮炊きするようにした設備。
醸む(かむ)…酒を造る。
甕、瓶(かめ)…液体を入れる底の深い壺形の陶器。
糧(かりて)…かて。

この中で,今回は「卵(かひご)」が出てくる長歌の冒頭を紹介します。

鴬の卵の中に 霍公鳥独り生れて 己が父に似ては鳴かず 己が母に似ては鳴かず~(9-1755)
うぐひすのかひごのなかに ほととぎすひとりうまれて ながちちににてはなかず ながははににてはなかず ~
<<鶯の巣のある卵の中の霍公鳥は,本当の親と一緒ではなく一人ぼっちで生まれて,育ての父・母と似た鳴き方はできない ~>>

この和歌は,托卵本能(他の鳥の巣に卵を産みつけ,他の鳥に育てさせる習性)のある霍公鳥を子供が実の親に育ててもらえないことを哀れと思って読んでいる歌です。この長歌の反歌では,次のように「哀れその鳥」と詠んでいます。

かき霧らし雨の降る夜を 霍公鳥鳴きて行くなり あはれその鳥(9-1756)
かききらしあめのふるよを ほととぎすなきてゆくなり あはれそのとり
<<急に霧が立ち込め雨が降る夜を 霍公鳥は鳴いて行くという 哀れなその鳥よ>>

当時,霍公鳥の托卵の習性については,一部の人はすでによく知っていたのでしょう。
しかし,托卵する側の鳥(この場合霍公鳥)は人間のように生活に困ったり,子育てに興味がなくなって子供を捨てるのではなく,托卵する際,元からあった仮親(この場合は鶯)の卵を1個捨て,元の数と合わせ分からないようにするそうです。また,霍公鳥の卵の方が先に生まれて,まだ生まれていない鶯の卵をすべて下に落としてしまうという残酷なことをするようです。それと知らず,鶯の親は霍公鳥のヒナを唯一残った自分のヒナと思って巣立ちまで育てるそうです。
他の鳥類の親が自分のヒナと勘違いし,親代わりになってくれ,ちゃんと独りで育つことが分かっているから托卵をするのでしょうね。
すなわち,鳥の世界は鳥の世界で,人間には残酷と移る行為を行っているようだけど,自然の摂理として,鶯も霍公鳥も子孫を絶やすことなく生きているということになります。
<人間に当てはめると>
この和歌は,托卵の残酷さまでは知らずに,霍公鳥のヒナの哀れに見える様を通して,実の親に捨てられた人間の哀れ,悲しみ,孤独感,それでも頑張っている姿を詠っていると私には感じられます。

その背景として,大化の改新により戸籍制度が整備されるにしたがって,(良い意味でも悪い意味でも)血のつながりを意識するようになった人々が,実の親,実の子,里親,里子,継親,継子の位置づけが明確になることで,辛い思いを強く感じる人が増えたのではないかと私は考えています。
戸籍によって個人を管理することは,社会システムの効率化には重要な要素です。しかし,その情報が保護されないで誰でも知れるようになると差別や疎外をもたらすことが十分考えられます。
現代では,機微な個人情報を適正に保護できるコンピュータシステムの高度化だけでなく,個人情報を扱う人の倫理観の醸成が本当に必要だと私は改めてこの和歌から感じるのです。(「き」で始まる難読漢字に続く)

2009年7月18日土曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(え,お~)

引き続き,「え」「お」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除く)
なお,旧かな使いで「ゑ」「を」で始まるものは,ここには含まず,わ行まで来たら紹介します。

課役(えだち)…人民に課する労役。
靇(おかみ)…水の神。雨雪をつかさどる神。
息嘯(おきそ)…溜息。嘆息。
襲(おす)…頭からかぶって衣裳の上を覆うもの。
大臣(おほまへつきみ)…天皇の前に仕える者の長。
嫗(おみな)…老女。婆。
妖(およづれ)…他をまどわすことば

さて,今回は「妖(およづれ)」が出てくる和歌2首を紹介しましょう。

石田王(いはたのおほきみ)が亡くなったとき,壬生王(みぶのおほきみ)が詠んだ長歌の反歌です。

妖の狂言とかも 高山の巌の上に 君が臥やせる(3-421)
およづれのたはこととかも たかやまのいはほのうえに きみがこやせる
<<嘘であってほしい 高山の大きな岩の上に君がおやすみになってしまうなんて>>

また,大伴家持が越中赴任中に弟の書持の訃報を聞いたときに詠んだ長歌の一部です。

~ 嬉しみと吾が待ち問ふに 妖の狂言とかも  愛しきよし汝弟の命 何しかも時しはあらむを ~ (17-3957)
~うれしみと あがまちとふに およづれの たはこととかも はしきよし なおとのいのち なにしかも ときしはあらむを~
<<嬉しくて私が「待っていましたよ」と聞くと,嘘であってほしい。ああ,愛おしい私の弟の命が,どうしてか,時はそんなに経っていないのに ~>>

両首とも死を悼む和歌で「その死の知らせは嘘であってほしい!」という気持ちを表す言葉として「妖の狂言とかも」が使われているようです。
「妖」は意味のある名詞のようですか,「妖の」は「狂言」の枕詞と考えても良いかもしれません。

これで「あ行」の難読シリーズを終わりにします。
<我が家のネコ>
ところで,私の「自己紹介」で使っている写真は,今我が家で飼っている「あう」という名のオスネコです。
なぜ「あう」かというと鳴き声が「にゃ~」ではなく「あう」としか鳴かないからです。
9年程前,すでに我が家で飼っていたメスネコ「ランちゃん」を目当てに,ときどきベランダを行き来し,中をのぞく程度の野良猫だったのですが,ある日妻(さい)が洗濯物を干すため窓を開けていたら堂々と入ってきて,そのままずっと我が家に居候をしてしまったという厚かましい奴です。
「ランちゃん」とは結局相性が悪く,いつも別々の部屋で寝ていて,たまに2匹が廊下で出くわすと唸りあっています。
でも,お腹が減ったときや家人が1日留守にしていて帰ると「あう~,あう~」となついてき,なかなか可愛い奴なのです。
写真は「あう」です。

「あう」の年齢は不詳ですが,10歳は確実に超えているはずです。人間でいえば,老人の部類でしょうか。
やがて「あう」の寿命が尽きた時には「妖の狂言とかも」を含んだ弔いの和歌を贈ってやろうと思っています。 (「か」で始まる難読漢字に続く)

2009年7月11日土曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(う~)

引き続き,「う」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除く)

親族(うがら)…血縁のある人
祈誓ふ(うけふ)…神に祈る
領く(うしはく)…自分のものとして領有する
髻華(うず)…木の枝、葉、花や造花を冠や髪にさして飾りとしたもの。かざし。
現人(うつせみ)…この世に存在する人間。この世、現世、世人
現(うつつ)…夢に対して現実
薺蒿(うはぎ)…ヨメナの古名。春若芽を食用にした
宣(うべ)…もっともであること
績麻(うみを)…績んだ麻糸
倦む(うむ)…いやになる。あきる。退屈する。
績む(うむ)…麻などを細く切り裂き、長くより合わせる
末(うら,うれ)…草木の成長する先端
心(うら)…こころ。思い。現代でも「うら寂しい町」という使い方をする。この「うら」は「心」が漢字として当てられる。

次は,「心(うら)」が出てくる大伴家持の有名な短歌です。

春の野に霞たなびき 心悲しこの夕影に 鴬鳴くも (19-4290)
はるののにかすみたなびき うらかなしこのゆふかけに うくひすなくも
<<春の野に霞が棚引いている。そして,何となく悲しいこの夕影に鶯が鳴いているなあ>>

この短歌,私には,まるでNHKの「さわやか自然百景」の一場面(音声入り)をテレビで見聞きしているような見事な自然描写と感じてしまいます。

さて,この短歌の現代風パロディを1首作ってみました(時は,夕方ではなく早朝です)。

春の朝霞たなびき 心悲し生ゴミねらい 烏(からす)来鳴くも


(「え」「お」で始まる難読漢字に続く)

2009年7月7日火曜日

今日は七夕です

七夕を「たなばた」と読むのも,七夕のイベントが廃れていたらおそらく超難読漢字になっていたと思いますね。万葉時代,織女のことを「たなばたつめ」または単に「たなばた」と呼び,それが七夕の行事名となっていたのでしょう。
さて,今回は難読漢字シリーズを一休みにして,万葉集の七夕の和歌について少し書いてみます。万葉集で七夕を詠んだ和歌が,何と約130首も出てきます。
七夕の風習は,中国から伝わった牽牛織女が年に1度,7月7日にだけ逢うことが許されるという伝説が日本に渡来し,日本風にアレンジされて節句の行事として習慣化されたようです。
万葉集にたくさん七夕の和歌があることから,すでに奈良時代には七夕の行事が節句(正月,桃<上巳>,端午,七夕,重陽)の一つとして広まりつつあったことを示しているように私は思います。
この五節句の中でも,万葉集で(正月は別として)七夕に関する多くの和歌が詠まれているのは,恋の歌が多い万葉集ならではのことでしょうね。
ただ,山上憶良大伴家持の七夕の和歌(計25首)は別格で,これは二人の七夕の伝説や物語に対する蘊蓄(うんちく)がなせる和歌だと思っています。
一方,巻10にある柿本人麻呂歌集や詠み人知らずの多くの七夕の和歌の方が,雑多な男女関係を想像させるが故に私には興味があります。
七夕は実は当時男女を意識する節句だったのではないかと私は想像しています。
ちなみに,七夕の昼の行事は各地で相撲が行われたようです。
そして,夜の節会では,若い男が集まります。『今日は待ちに待った七夕だ!』と酒を飲みながらお目当ての彼女との逢瀬について和歌を詠んだと思います。そして,昼間の相撲を見た影響からか『やっぱり男は押しの一手だ! さあ,妻問いに行こうぜ!』というノリだったのかも。
この節会で七夕の和歌を詠み合うことで,彼女が自分とバッティングしている奴(恋敵)はいないか探る意味もあったと私は想像しています。
旧暦7月7日は,今の8月上旬です。梅雨も完全に明けまさに今でいう夏(暦の上では秋)の恋の季節到来だったといえるでしょうね。
なお,中国の七夕物語は,織女が天の川を渡り牽牛に会いに行くのですが,万葉集では逆に牽牛が会いに行く話を前提としているようです。例えば,つぎのように。

天の川霧立ちわたり 牽牛の楫の音聞こゆ 夜の更けゆけば(10-2044)
あまのかはきりたちわたり ひこほしのかぢのねきこゆ よのふけゆけば
<<天の川に霧が立ち渡って夜がふけゆくと、彦星が漕ぐ楫の音が聞こえる>>

妻問い婚の風習がメジャーで,女性は家に籠って機織りや裁縫をするのが当たり前と考えられていた当時の日本では,一年に一度であっても彦星が逢いに行くことにした方が自然なのでしょうね。

さて,教えてよ天の川君。私にとって今日から8月上旬までに,一年に一度の逢瀬はあるのでしょうか?
天の川「たびとはん。こんなブログを書いたはるようやと,まあ無理とちゃう?」
 (次回は難読シリーズに戻る)

2009年7月4日土曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(い~)

前回に引き続き,今度は「い」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除く)。

斑鳩(いかるが)…スズメ目アトリ科の鳥。イカル。(注)奈良県の地名もあり。
海石(いくり)…海中の岩。暗礁。
鯨魚(いさな)…クジラ。
労し(いたはし)…苦労である。病気で悩ましい。不憫である。
櫟(いちひ)…ブナ科の常緑高木。
斎(いつき)…潔斎(けっさい)して神に仕えること。潔斎とは,心身を清めること。
厭ふ(いとふ)…好まないで避ける。いやがる。
斎瓮(いはひへ)…祭祀に用いる神聖な甕(かめ)。
鬱悒し(いぶせし)…気分がはれず、うっとうしい。
甍(いらか)…屋根の背。家の上棟。
同母兄、同母弟(いろせ)…同じ母の兄弟(父は違う場合あり)

この中で,「甍」について少し書きます。
童謡「鯉のぼり」の冒頭「♪甍の波と雲の波 ♪重なる波の中空を ~」に出てくる甍ですから,もちろん読める方は多いかも知れませんね。
ただ,突然「甍」1字が出てきてすぐに「いらか」と読みが出てくる人は,そうあなたのような○○の人でしょう。

さて,万葉集の中で「甍」が出てくる有名な和歌は何と言っても巻16にある「竹取の翁」の長歌といえますね。
これは竹取物語の原型の一つといわれているようですが,内容はあの竹取物語と全然異なるものです。竹取の翁が野辺で煮物を作っている9人の乙女に,自分の若かりし頃にあった女性との一途な愛(一生懸命はなやかに着飾って注目されようとした)を語っているような内容です。
この中で「~ 海神(わたつみ)の殿の甍に 飛び掛けるすがるのごとき 腰細の ~」というように使われてます。
「竜宮城の甍に飾ってあるすがる<シガバチ>のような腰細のスタイルで」と,翁が若いとき,相手の親の反対にもめげずに逢っていた彼女から秘かに贈ってもらった帯をきちっと締めた自分の格好良さを紹介した行(くだり)です。
竹取の翁の昔の恋物語を聞いた9人の乙女たちは,それぞれ(その努力に対して感心したという意味の)感想を短歌で翁に返しています。

さて,今の世の中,お爺さんから若いころの恋自慢を聞かされて感心する若い女性はどれだけいるのかなと思うと,単なる物語の和歌とは言え,そのころが少し羨ましいと感じますね。(「う」で始まる難読漢字に続く)

2009年6月28日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(あ~)

<難読漢字シリーズ開始です>
テレビで漢字の読みや記述の問題をタレントが解く番組が結構放送されていますね。そこで出題されるような難読漢字の多くは,読みが「やまと言葉」で,意味を「漢字」で表しているものが多いようです。
昔の人は「やまと言葉」にそれと近い意味の漢字を当て,漢字の意味を知っている人には,その言葉の意味が解るという仕組みを考えたのでしょう。
漢字の代わりに英語にした例を示すと「twilight(たそがれどき)の美しい浜辺」のように,「twilight」と書いて「たそがれどき」と読ませるようなものですね。
<難読漢字が出てしまう理由?>
ところで,漢字の発音(音読み)が読みなら,読みを比較的簡単に類推できます。しかし,やまと言葉に漢字を当てた場合,漢字の発音とは全く無関係の読みになるため,日常的に漢字と読みの両方を使っていないとすぐ忘れてしまう。だから,難読になりやすいのだと私は思います。
これからの何回かのシリーズでは,やまと言葉の宝庫である万葉集に出現し,後から当てられた漢字で難読文字になっていそうなものを順次紹介します。
まず,読みが「あ」で始まる言葉です(地名は除く)。

蜻蛉(あきづ)…トンボの古名
父菜(あささ)…リンドウ科の多年草
可惜(あたら)…もったいないことに(副詞)
羹(あつもの)…熱い吸い物。(注)「羹に懲りて鱠(なます)を吹く」のことわざを知っている人は別に難読ではない?
率ふ(あどもふ)…掛け声をかけて,軍勢などを引率する(動詞)。
花鶏(あとり)…スズメ目アトリ科の鳥の名
楝(あふち)…センダン(栴檀)の古名
母(あも)…「はは」の東国方言。
東風(あゆ)…東の風。(注)北陸地方では「あい」と呼び,読み方はポピュラー?。東風(こち)は春に東から吹く春風。
殿(あらか)…宮殿

さて,大伴家持は,越中赴任中に次の和歌を詠んでいます。

東風いたく吹くらし 奈呉の海人の釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ (17-4017)
あゆのかぜいたくふくらし なごのあまのつりするをぶね こぎかくるみゆ
<<越の海で「あゆのかぜ」と呼んでいる東風が激しく吹いているらしい 奈児の漁師が釣りをする小舟を漕いでる姿が隠れたり見えたりしているから>>

旧暦1月29日(新暦3月上旬)にこれを詠んだ家持は,まだ寒い日も多いし,都に比べ鄙びた土地だけど,春間近で,漁師が強風で多少の危険があっても,美味しい魚を獲ってくれることを期待して詠んだのかもしれません。
そういえば,3月上旬からは富山湾でホタルイカが獲れ始めます。家持は,初もののホタルイカを酢味噌に付けで酒を飲みたかったかもと考えるのは,恐らく珍味好きな私の勝手な想像でしょうね。(「い」で始まる難読漢字に続く)

2009年6月24日水曜日

技術屋から見た万葉集

先日,奥高尾で再会した旧友から,私のことについて「IT(理系)の技術者のたびとさんが,なぜ万葉集に興味をもち,今ももっているのか? 自分の知っている理系の技術者にはそんな人は見かけない」という質問を受けました。
私はそのとき「万葉集に興味をもっている人には女性がいっぱいいるから」というウケ狙いの回答しかできませんでしたが,改めてその理由を,少し詳しく書くことにします。
<ITエンジニア(私)が万葉集に興味を持つ理由>
私が専門としているコンピュータソフトウェアの仕事は,ソフトウェアを新らたに仕様決定・設計・プログラム作成する場合,また既に完成して動いているソフトウェアの再設計,プログラム修正(保守開発)する場合,いずれの場合でも「論理的」にあいまいな部分を残したままではコンピュータに「正しい結果」を出させることはできません。
この仕事では「論理的」に数学の証明レベルの厳密さが要求されるのです。
ただし,ここでいう「正しい結果」とは何か?実はそれが大きな問題なのです。
<コンピュータの出す正しい結果は机上のもの>
コンピュータが出す「正しい結果」とは,「ある種のモデルを満たす結果」という意味がほとんどです。
そのモデルとは,モデル(標準的な手本)という名称でも示すように,ある前提条件において正しいといえるだけなのです。
実際には,そのモデルを誰か(発注者,プロジェクト責任者等)が前提条件とともに承認して,そのモデルに対して「論理的」に厳密に実現できる処理を考えるのです。
このような承認後の厳密なモデル実現作業が,いわゆる「理系の技術屋」の仕事の世界だといえます。
<コンピュータの出す結果に対象外が出てしまう>
その「モデル」の前提条件に合わない対象は,技術屋の対象外(責任の範囲外)になり,いわゆる理系の発想では「正しい結果」を得られなくても良いのです。もちろん,システムとしては前提条件に合わない対象は対象外としてエラー通知をする必要があります。
コンピュータシステムの開発では,多くが開発費用と開発期間を抑制するため,(極力最小限にすることを目指すにせよ)ある前提条件をもつモデル実現に向けたソフトウェアの設計をします。
<対象外とされた人が猛クレームを出す?>
しかし,システムが稼働し始めると「正しい結果」の前提条件に合わない人たちから新しいコンピュータシステムの恩恵に預かることができないだけでなく,「前より悪くなった」とクレームが出る場合があります。また,「前提条件」自体が変化し,以前の「前提条件」の基に作られたソフトウェアがそのままでは「正しい結果」を出さなくなる場合があります。
そのとき,ソフトウェアをどのように改善し,クレームをもつ人たちからの不満を解消するか,また変化した後の前提条件でも「正しい結果」が出るようにするかを考え対応するのが,私が専門とするソフトウェア保守開発の仕事です。
ただし,クレームが出てからや,「前提条件」が変わってから考えるというような受け身(リアクティブ)の姿勢では,クレームを発した人たちの我慢や「正しい結果」の得られない状態をより長く放置することになります。
<私のIT業務の理想形>
私が考える理想のソフトウェア保守開発の姿とは,新システムや現行システムに対するクレームの種類,そしてそのクレームがいつ頃強く出されるかを事前に予測したり,「前提条件」が変わる兆候を察知したりして,先手を打って(プロアクティブに)対応するのがその姿です。
できるだけ先手の対応をするためには,現行システムへの大きなクレームになる前に人が不満を募らせるパターンを早い段階から予測しておく必要があります。
<人間の欲求の本質は理系のヒトだけで分かる?>
その正しい予測には人間が持つ欲求の本質とは何かを如何に幅広く理解しているかが重要なポイントだと私は考えます。そのためには,心理学者,哲学者,社会学者,経済学者,教育者,法律家,宗教者,そして文学者のさまざまな考えを知ることが不可欠なのです。それぞれ専門家の考え(仮説)は,人間のある側面の本質を表すモデルに他ならないからです。
<ITエンジニアは政治も関心を持て>
いっぽう,「前提条件」の変化の話ですが,例えば「消費税は5%」というのが前提条件があったとします。消費税がいつごろどのよう変更されるのかを予測するには,政界や世論の動向に十分目を向けたり,政治活動にさえ参画するくらいの強い関心をもってこそ,その兆候を的確に予測できるのだと私は考えています。人々が不満を募らせる(不幸に感じる)内面要因,社会対する不満を極小化を目指す政治のあるべき進め方などに対する洞察力を高めることが重要です。
<文学はマクロとミクロのギャップを明確化する?>
そのためのバックグラウンドとして,文学(特に詩歌)はとりわけ重要ではないかと私は考えています。なぜなら,文学に興味を持つ人はさまざまな文学作品を通し,実は世の中の常識通りに人間が対応できないケースが現実としてありうることを理解しています。
人間が本質的に持つ性質(個々に異なる性質)と,ひとつの社会システムの一員として守らなければならない常識との間にあるギャップを文学は常にテーマにしているから非常に参考になるのだと私は思います。
<万葉集はそのギャップを多数明確化している?>
そして,私が特に万葉集に魅かれる理由は,当時人々が律令制度という新しい社会システムへ急速に適応することを求められることとのギャップに悩むさまざまな姿が見えるからです。また,率直な表現(言葉)を通して「人が生きるために失ってはならないものは何か?」を考えさせるものが凝縮された形で数多く存在しているからなのです。
何らかの形で人間が関係するコンピュータシステム(ほとんどすべてそうである)を構築,修整するとき,人を薄っぺらで・画一的なモデルに当てはめ,それで良しとする考えには慎重でなければならないと私は考えています。

次は,あまりにも有名な山上憶良貧窮問答歌の併せ短歌です。

世の中を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば (5-893)
よのなかをうしとやさしとおもへども とびたちかねつとりにしあらねば
<<今の世の中が憂鬱だとか生きていることが恥ずかしいとか感じても,そこから飛び立って離れて行くことはできない。鳥ではないのだから>>

この和歌,豊かで幸せな生活を送っているあなたにとっても,特に解説はいりませんよね。

2009年6月21日日曜日

永遠の友との再会

昨日,大学時代に万葉集を嗜んでいた当時のクラブメイトとひさしぶりに再会をしました。
今回の再会をアレンジした私は,会場を東京都八王子市南浅川町の山中にある地鶏の炭火焼を中心メニューとした料亭にしました。
この時期,この料亭は「ほたる狩り」と称するイベントを夜に開催しています。
昨日は土曜日ということもあり,子どもたちも含め,たくさん人たちが(中には観光バスを連ねて)来ていました。
この演出は,夜のある時刻から全館,全離れ屋,全庭園の照明を完全に消し,放たれたたくさんのホタルが光を放ちながら飛んだり,枝にとまって光る姿を庭園内または部屋から鑑賞するという演出です。「あっ!こっちでも光っている」「あっ!あんなにたくさん飛んでるよ」「こっちに向かって飛んでくるぞ!」「捕まえた!手の中でほら!光っているよ」「幻想的!」などの声があちこちで聞こえていました。
私は,これまで何度もこの演出が行われる時期にここに来ているのですが,再会したメンバーは全員この演出を見るのは初めてということでした。
その他私が準備した語らいの演出もふくめて,参加者全員にとって大きな喜びと思い出の一コマを形作れたという手ごたえを感じました。
また,以前から変わることのない参加者たちの人間的な優しさに,それぞれの人生経験の蓄積による深みと幅をより加えてきていることを強く感じました。私自身の人間の幅を広げる意味でも,いつまでもこの人たちと交流していきたいし,1年以上前からこの再会の準備をしてきた努力が本当に報われた気がしました。

ところで,ホタルといえば,万葉集にはホタルが出てくる和歌が1首(13-3344)しかありません。それも,「ほのか」にかかる枕詞「蛍なす」として出てくるのみです。
ホタルが「ほのか」な光を放つことを万葉人は知っていたのかも知れませんが,平安時代からの源氏物語新古今集古今集などでホタルに対する思い入れに比べて,扱いが極端に少ないことがちょっと気になりますね。
もしかしたら,奈良時代やそれ以前は,ホタルをそれほど気する存在ではなかったとも考えられます。
平安時代になって以降,貴族たちが鑑賞用や子供に与える生き物として風流を楽しむために養殖し流行らせた可能性は大です。
それにしても,昨日の料亭のホタルは,予想以上に明るく綺麗な光を放ち,元気いっぱい飛ぶ姿を私たちに見せ,私たちの再会を祝ってくれたようです。

蛍火の数多舞ひけり 奥高尾万葉友との 語らひ綺羅し   たびと(=私)作
ほたるひのあまたまひけり おくたかをまんえふともとの かたらひきらし

(注)「万葉友」には「よろず世の友」すなわち「永遠の友」の意味も持たせたつもりです。

2009年6月10日水曜日

枕詞は記憶のための道具か?-その3

5.難しい枕詞「ひさかたの」に挑戦
万葉集の枕詞の中で,私が特に興味を持つものに「ひさかた(久方)の」があります。万葉集に50首ほど出てきます。枕詞の中では,メジャーなもののひとつです。私の「枕詞は和歌を記憶しておくためにある」という仮説が正しいとすると,「久方」は当時ポピュラーな言葉でないといけません。
「久方の」に続く言葉は,万葉集では天,雨がほとんどです。少しですが,月,夜,都を従えている例もあります。
余り若い人は使わないかもしれませんが,「久方ぶりにお会いしましたね」という用例は,現代でも普通に使われています。
「久方の」(ように)と「ように」を補足すると「久方」は長い時間,すなわちいつまでもという意味に取れます。
当時は,「久方」は,このような長い時を意味する言葉として普通に使われていたのではないかと想像します。
天,雨,月は昔から(長くいつも)天上にあるという意味で,連想するイメージ(枕詞)として「久方の」は何とか説明が付きそうです。
また,都は国の最上位に位置する都市です。そして,夜は「天の一姿」と考えると「久方の」は,それらを連想させる枕詞としてふさわしいのかも知れません。
その後,古今和歌集などにも枕詞として使われつづけました。広辞苑よると万葉集での使われ方以外に,「雪」「雲」「霞」「星」「桂」「鏡」「光」にかかるとあります。万葉集より後に詠まれた和歌でも,よく使われた枕詞のようです。

次は紀友則の百人一首(古今和歌集巻二)に出てくる有名な短歌です。

久方のひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
<<光が穏やかにふりそそぐ春の日に どうして落ち着ついた心を失って花は散ってしまうのかな(そんなに急いで散らないでほしい)>>

6.枕詞のまとめ
ここまで述べてきたように,枕詞を和歌の特殊で技巧に走った修飾語とは私は思いません。
枕詞を何か特別な信仰を背景したものとか,神秘的な意味を持つ言葉と捉えるのではなく,文字のない世界では記憶に留めやすいことが最も優先されたと考えるべきだと思います。
その有効な方法として枕詞が活用されたのです。
平安時代かな文字が利用されるようになってから詠まれた和歌(古今集,新古今集,伊勢物語,源氏物語などに現れる和歌)は,書き残せ,いつでも読み返せることを前提に作られました。
その結果,無理に人の記憶に頼る必要性がなくなり,それにつれて枕詞は徐々に廃れ,枕詞の代わりにより多くの情報を短歌の中に入れるようになったのではないでしょうか。

7.余談
私はちょっと前に考えていた内容をすっかり忘れてまったり,モノをどこに置いたか後から思い出せないことが,最近少し多くなってきたようです。
でも,そんなときは焦らず,それを考えていた時間の少し前に何を考えていたか思い出そうとします。それが思い出せたら,その次何を考えようとしたかその動機を思い出します。そうこうしているうちに「あっそうだ!○○のことを考えいたんだ!」と思いだせることがよくあります。枕詞に続く言葉が出てくるようにですね。
また,モノをどこに置いたか思い出せないときは,まずどこをどう歩いたかを思い出します。そして,その通り歩いてみると,その目の方向に置いていたことが分かることが大半です。
そんなことをして何とか思い出せると,自分の記憶力はまだ大丈夫だろうと少し安心できます。すなわち,すぐ思い出せないだけで,忘れてしまった訳ではないからです。
といっても,自分に都合の悪いことはすぐ忘れてしまうと周りによく言われる忘れやすさは一向に直りませんね。(枕詞シリーズ終り)

2009年6月4日木曜日

枕詞は記憶のための道具か?-その2

3.人間は連想記憶で思い出す?
2世代ほど前,人工知能(AI)というキーワードが流行りました。
その基礎理論の一つとしてニューラルネットワークというとてつもなく難しい名前の理論がもてはやされたのです。
基本原理は人間の神経回路を模したモデルのようです。私はIT系技術者といっても,その道の専門家ではないので言葉が合っているかどうか不安ですが,その理論の中で確か「連想記憶」というキーワードが出てきます。
また,以前テレビ等で,訓練により超人的な記憶力を持った人が何度か紹介されたことがありました。
その人たちの記憶術の多くは,言葉の出てくる順序を自分がいつでもイメージできるものを想定し,そのイメージの自然な流れに従い対応付ける。言葉を取りだす時はイメージのある部分を「連想」することで対応付けた言葉を,正確な順序で導き出す(思い出す)といったことを頭の中で行っていると聞いたことがあります。
人間の脳の記憶は,コンピュータのメモリ(消去されると元に戻らない)とは異なり,いったん忘れても,関連した情報から「連想」により思い出せる(取りだせる)能力を持っているようです。

4.枕詞は連想記憶のイメージ
さて,長い間横道にそれていましたが,ようやく本題の万葉集にける枕詞に戻ります。
枕詞は,その後に続く言葉を連想しやすいように考えられた修飾語だと私は思います。
そのため,当時誰でもイメージしやすい単語やその組み合わせが枕詞に選ばれたのでしょう。

例えば,「なつくづ(夏葛)の」は「絶えぬ」を導きます。
蔦類である葛は,夏季の成長が手をつけられないほど早く,農地や果樹を荒らす害のある植物と言われたほど成長力がたくましい植物です。今は,葛の木を見つけるのが簡単ではありませんが,万葉時代はどこにでもある非常にポピュラーな植物だったと思われます。まさに「絶えまなく」を導く言葉として「夏葛の」はふさわしい枕詞かも知れないですね。

動詞形の枕詞の例では「ふせやた(伏屋焚)き」は「すす」を導きます。
平屋の粗末な家で薪を焚くとすぐ天井や梁などあちこちにすすが溜まる。これも当時としては常識だったのだと思います。

面白いと感じる枕詞に「にはたづみ(潦)」があります。
これは,「川」「流る」「行方も知らず」にかかる枕詞です。路上や庭にたまった水を意味します。雨の多い日本においては,日常的な風景です。これを見て,この水はどこへ流れるのか,どの川に入って流れていくのか,当時の人は気になったのだろうと思います。また,地中にしみ込んだり,乾燥してなくなって行く水溜りの姿を見て,「行方も知らず」を連想させるのかも知れません。

このように,枕詞はイメージを頭の中に描かせ,そのイメージから連想する言葉を記憶させるという手法で,和歌を忘れ難くする効果があったのでないかと私は推測します。
すなわち,<枕詞+「ような」+連想する言葉> をセットにしてイメージとして覚えるのです。このように,間に「ような」を入れるとより効果が分かりやすいのではないでしょうか。
特に,長歌において枕詞が多用されるのは,枕詞と組み合わせた7文字の言葉をこのセットにして次々と思い起すことができる。その結果,非常に長い長歌でも間違いなく同じ内容を記憶から取り出せるようなったと推察します。
その後,文字文化が花ひらくとともに枕詞に頼る長歌が廃れる要因なったのかもしれません。
さて,
  寅さんの(ような)⇒四角い顔を
  御老侯の(ような)⇒ワンパターンで
  生き返る(ような)⇒涼風が吹き
など,現代語でもこの「寅さんの」「御老侯の」「生き返る」は枕詞のような使い方なのかもしれませんね。
それにしても,この例は若い人に分かるかどうか心配です。御老候は水戸光圀のドラマを連想します。最後はお決まりのパターンですよね。
おっと,これを読んでるあなた。無理に分からないような素振りをしなくても良いですよ。(その3に続く)

2009年5月30日土曜日

枕詞は記憶のための道具か?-その1

特定の言葉の前に付く枕詞は何のために考え出された修飾語でしょうか?

私は,和歌を覚えやすく(忘れにくく)するためにあったのではないかと考えています。
私自身「枕詞が記憶を助けるための道具かも?」と考える理由を簡潔に述べる文章力を持ち合せていません。そのため,さまざまな状況説明を長々と続けて説明することになります。
それを数回の投稿に分けて順に説明していきます。

1.万葉時代の記憶の重要性
万葉時代,情報を文字として残す方法は,たとえば万葉仮名のように一部にはなされていますが,まだまだ一般的ではなかったと思います。
そうすると,和歌に限らず,いろいろな契約,約束事,規則,しきたり等はすべて口頭で伝えられ(伝承され)ます。その情報共有は,口頭により情報を受け取った関係者の記憶を唯一の手段とするしかなかったのです。
万葉時代の人たちが意識していたかどうかは別にして,文字を一般的に使う現代人に比べて記憶の重要性は非常に高かったのだろうと容易に想像できます。
万葉人の中には,超人的に正確かつ大容量の記憶力を持ち,その能力で飯を食っていた人もいたのだと思います。
そのような人の中には,官僚に登用され,得意分野ごとに,さまざな制度,事件・事故・災害の履歴,解決した人・仕方・結果などをすべて正確に記憶していて,必要な時に関係者に伝えていたのかもしれません。まさに人間データベースシステムです。
学術的な検証はまったくしていませんが,人麻呂,赤人,憶良,黒人等の歌人,そして家持も実はそういう人たちだったかもと感じています。その理由は「万葉集の謎」テーマでいずれ書きます。

2.コンピュータ技術の発展で人間の記憶力は退化の一途?
話が万葉集からちょっと別の世界の話により道します。
文字が発明され,それまですべて記憶に頼っていたものが,たとえ忘れても文字を見れば思い出せるようになり,重要なことや細かいことは文字に残すようになりました。
その結果,人間はすべてを記憶に頼る必要はなくなったのです。
その後長い間,文字の多くは紙に書かれ(または印刷され)てきました。その量が膨大になると,整理して保管しないと検索性が劣るため,文書に目次や索引を付けるなど検索性を向上させる工夫をしてきたのです。

ただ,紙に書いた文字の世界だけでは記憶力の重要性がまだ必要な分野があります。
例えば,緊急を要する交渉に一々ページをめくって確認しながらでは時間が掛かってしょうがない。相手からは矢継ぎ早に責め立てられます。
弁護士等の法律の専門家は,法律や裁判所の判例を正確かつより多く記憶しておくことで,相手と交渉する場合にやはり優位に立てるようです。

ところが,最近はコンピュータの発達によって様相はガラッと変わってきました。
今交渉の場や会議の場で,パソコンやスマホを持参して臨むことが少なくありません。
「当方の要求は当然であり受け入れないなら損害賠償だ」と相手が言っても,「○○月○○日○○時○○分のメールであなた自身がその要求は本委託の範囲外にする」と書いているじゃありませんか?というような証拠を即座に提示できる時代です。
記憶力がまったく不要とは言いませんが,詳細な情報や正確さを要求する情報はすべてコンピュータに覚えさせておけば,何時でも取り出せる時代なのです。
また,この情報すべてを自分のパソコン(または携帯端末)に入れておく必要はありません。
関係者で共有する強力なサーバコンピュータに記憶させておけば,ネットワーク経由で自分のパソコンとほぼ変わらず検索できます。
また,インターネット上のプロバイダのブログやSNSといった公開サイトに蓄積したり,他人が蓄積した情報を検索することも可能です。
相手も同様の環境を持つようになると交渉における記憶力の重要性がますます少なくなっていきます。

さて,そのようなことで,コンピュータを駆使して仕事をしている技術者の端くれ(私)は最近記憶力が劇的に退化し始めています。
え? 違うよ。それは歳のせいだよ!って? 否定できないのがつらい。(その2に続く)

2009年5月24日日曜日

少し枕詞に挑戦します

いよいよ,これから何回かに分け,枕詞(まくらことば)のリバース・エンジニアリングに挑戦することにします。
枕詞は,ある言葉を引き出すために,その言葉の前に置く,慣用的な修飾語です。
今,NHK教育放送で今毎平日朝放送されている「日めくり万葉集」の冒頭のタイトルCGに出てくると有名な枕詞をあげてみます。

あかねさす…日、昼、照る、君、紫にかかる枕詞
あしひきの…山にかかる枕詞
あまさかる…鄙(ひな)にかかる枕詞
あをによし…奈良にかかる枕詞
いさなとり…海、浜、灘にかかる枕詞
たらちねの…母にかかる枕詞
ちはやぶる…神、宇治、人にかかる枕詞
ひさかたの…天、空、月、雨、都,夜にかかる枕詞

枕詞は,中には4文字,6文字のものもありますが,ほとんどは5文字です。
また,万葉集に現れる枕詞の過半数が名詞+「の」で終わります。ただし,「の」の前の名詞は何かの修飾語が付いているものがほとんどです。
たとえば,

あかぼし(赤星)の,あきはぎ(秋萩)の,あさかみ(朝髪)の,あとたづ(葦田鶴)の,あらたへ(荒栲)の,いざりひ(漁り火)の,おきつも(沖つ藻)の,かぜのと(風の音)の,こもりぬ(隠り沼)の,ささなみ(楽浪)の,さすたけ(刺す竹)の,しらなみ(白波)の,たまのを(玉の緒)の,とぶとり(飛ぶ鳥)の,なよたけ(弱竹)の,まつがね(松が根)の,ゆくかは(行く川)の

などがあります。
このタイプでは,形容詞,動詞,名詞,名詞+「の」または「つ」が後の名詞の修飾語としてついている形が一般的です。

「の」で終わらない枕詞では,5文字の(修飾語付き)名詞だけの枕詞があります。
たとえば,

ありちがた(在千潟),いそのかみ(石上),いへつとり(家つ鳥),おきつとり(沖つ鳥),からころも(韓衣),くさまくら(草枕),こまにしき(高麗錦),とほつかみ(遠つ神),はますどり(浜洲鳥),まきはしら(真木柱),まそかがみ(真澄鏡),みなのわた(蜷の腸),やさかどり(八尺鳥),ゆふたすき(木綿襷),ゆふづくよ(夕月夜),ゐまちづき(居待月)

などてす。後に「の」を付けても不自然ではないけれど丁度5文字のために「の」を外しているようにも感じます。

さらに「の」で終わらない枕詞のタイプとして,動詞があります。
たとえば,

あからひく(赤ら引く),あさひさす(朝日差す),あまさかる(天離る),あられうつ(霰打つ),いはばしる(石走る),うちなびく(打ち靡く),うづらなく(鶉鳴く),かがみなす(鏡なす),きもむかふ(肝向ふ),たかてらす(高照らす),たまかぎる(玉限る),なつそびく(夏麻引く),ふせやたき(伏屋焚き),みこもかる(水菰刈る),ももつたふ(百伝ふ),やくもさす(八雲さす)

などです。
この他,名詞+「を」(例:衣手を,衾道を など)のタイプや,形容詞のタイプ(例:玉藻よし など),動詞+感嘆詞「や」のタイプ(例:天飛ぶや,高知るや など)がありますが,数は多くありません。

万葉集で数百は出てくる言われる枕詞,まだまだ手ごわい相手です。

2009年5月18日月曜日

行き先を示す助詞「~へ」と「~に」の違い

最近,大好きな友人の一人と東京の葛西臨海公園から定期船水上バスに乗りました。お台場までは海辺を見ながら,そしてお台場から両国までは隅田川の川辺を見ながら,船上からの風景を楽しみました。
乗船直後は,薄暮に霞む桟橋やコンテナクレーンが遠くにいくつも見え,そして夕暮れになるに従い,高層マンションや桟橋近辺のレストランの部屋の明り,ネオンサイン,ライトアップされた橋,提灯飾りを全体にした屋形船の姿がはっきりと見えだし,素晴らしい夜景を存分に味わいました。
また,船から見る海辺や川辺は,日頃見るアングルと全然違っていて新鮮と感じるだけでなく,船は海辺,川辺,橋げた下のすぐ近く通るため,風景の移動から船のスピードが実は意外と速いことを改めて認識しました。

さて,万葉時代,船が主要な交通手段であったことは以前に書きましたが,海辺,川辺以外に船(舟)が関係しそうな「辺」のつく言葉が,そのほかにもでてきます。
例えば,次のようなものです。

葦辺(あしへ:葦が生えている辺り),池の辺(いけのへ:池の周辺),江の辺(えのへ:入江の周辺),沖辺(おきへ:沖の辺り),磯辺(おしへ,おすひ:磯の辺り),上辺(かみへ:川の上流周辺),島辺(とまへ:島の周辺),下辺(しもへ:川の下流周辺),谷辺(たにへ:谷の辺り),波辺(なみへ:波のある辺り),浜辺(はまへ:浜の辺り)

これらは,陸からだけでなく船から見たと思われるものもあると思われます。当時,船からの風景や,逆に浜辺,海辺,川辺から見た船を和歌に託したくなった人も多かったのでしょう。

浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟 (18-4044)
はまへよりわがうちゆかば うみへよりむかへもこぬか あまのつりぶね
<<浜辺を我々が行っているのに海で釣りをしている漁師が一向に迎えに来てくれない>>
大伴家持が越中で視察に行ったとき詠んだ歌ですが,家持は舟に乗ってみたかったのでしょうね。

ところで,国語辞典によると「~辺」は助詞「~へ」に一般化され,「海へ行く」「東へ向かう」と使われるようになったようです。それが正しいとすると「集合場所に行く」「山に登る」の「に」(さまざまに指定の意)にくらべ,「へ」はピンポイントな場所を指すのではなく,行き先近辺というニュアンスで使うのが本来の使い方なのかね知れませんね。
ですから「下町辺りへ行く」は,「へ」と「辺り」が同じ意味あいですから,少しくどい表現のような感じがしてきました。
万葉集までさかのぼって「ことば」の用例を見てみると,行き先などを示すときに使う助詞「へ」と「に」が実はそんなに近い意味ではなかったと感じられます。
国語辞典を編纂した人や作家などには,微妙な日本語の表現の違いの説明や使い方で迷った時,万葉集に助けられたことが実は多かったのではないかと思いますね。

2009年5月10日日曜日

万葉時代の食用植物

万葉集に出てくる植物で,当時食べられていたと思うものを上げてみました。

小豆(あづき:種子),粟(あは:種子),青菜(あをな:葉),稲(いね:種子),薺蒿(うはぎ:芽),梅(うめ:実),芋(うも:根),瓜(うり:実),堅香子(かたかご:茎),黍(きみ:種子),葛(くづ:根),栗(くり:実),椎(しひ:実),茸(たけ:胞子),橘(たちばな:実),水葱(なぎ:種子),梨(なし:実),棗(なつめ:実),蓴(ぬなは:芽),蓮(はちす:根),蒜(ひる:根・葉),麦(むぎ:種子),桃(もも:実),百合(ゆり:根)

この中では稲をはじめ,自生したものを採るのではなく,栽培されていたものも多かったのだと想像します。外国からの農業技術や栽培に適した種子の導入で,農法もかなり進んでいたのでしょう。
こういった食物が豊富に手に入るようになり,農業(第一次産業)以外の産業(ものづくり業,サービス業)の発展,そして多数の官僚や兵士を維持することができるようになったようですね。
ところが,こういった経済発展も農業等に従事する人たちからのさまざまな搾取によるところ大なのは,有名な山上憶良の貧窮問答歌,そしてつぎの和歌からも分かります。

壇越やしかもな言ひそ 里長が課役徴らば 汝も泣かむ(16-3847)
だにをちやしかもないひそ さとをさがえだちはたらば いましもなかむ
<<檀家さん,そんなことを言わないくださいな。あなたの里の長が労役を出せと言ってきたら,あなたも泣きますよ>>

前の和歌で,檀家の一人が僧侶の不精ヒゲを揶揄したのに対し,その僧侶が返した戯れ歌です。里長の強大な権力が背景に見えますね。
ただ,もしかしたら,その僧侶は里長を動かすほどの力を持っていたのかも?

2009年5月6日水曜日

各地の人々

前回の投稿で「人」で終わる言葉から万葉時代職業の話を書きました。
同じく「人」で終わる言葉を見ていくと,その人がどの地方の人かを示す言葉が万葉集にいくつかでてきます。
例えば,つぎのようなものです。

阿太人(あだひと:奈良県),東人(あづまびと:東海,関東甲信越など),宇治人(うぢひと:京都府),紀人(きひと:和歌山県),伎倍人(きへひと:静岡県),肥人(こまひと:熊本県),須磨人(すまひと:兵庫県),難波人(なにはひと:大阪府),奈良人(ならひと:奈良県),隼人(はやひと:鹿児島県),飛騨人(ひだひと:岐阜県)

また,「人」では終わらないが,各地の人を表す言葉として次のものが万葉集で見つかりました。

明日香壮士(あすかをとこ:奈良県),東壮士(あづまをとこ:東海,関東甲信越など),伊勢の海人(いせのあま:三重県),伊勢処女(いせをとめ:三重県),菟原壮士(うなひをとこ:兵庫県),菟原処女(うなひをとめ:兵庫県),志賀の海人(しかのあま:福岡県),信太壮士(しのだをとこ:大阪府),四極の海人(しはつのあま:大阪府),志摩の海人(しまのあま:三重県),珠洲の海人(すすのあま:富山県),茅渟壮士(ちぬをとこ:大阪府),難波壮士(なにはをとこ:大阪府),野島の海人(のしまのあま:兵庫県),泊瀬娘子(はつせをとめ:奈良県),壱岐の海人(ゆきのあま:長崎県)

このように各地に住む人々や有名な人々がたくさん出てくることで,万葉集を詠んだ人は「その地へ行ってみたい」「その地の人と会ってみたい」「その地の特産物(お土産)を得たい」などと感じた可能性はあります。
また,地方に赴任することになった官僚が現地の人たちとコミュニケーションする手段として,万葉集の(ご当地の)和歌が利用されたのかも知れませんね。
万葉集が持つ情報量(総量だけでなく密度も)の多さに,改めて編者の意図を感じます。

2009年5月3日日曜日

万葉時代の職業

万葉集で出てくる用語で「人」で終わる用語は少なくとも40ほどありそうです。
その中で,職業を表すものをあげてみると,次のようになります。

網代人(あじろびと:漁業),海人(あま:漁業),海女(あま:漁業),歌人(うたひと:タレント),大宮人(おほみやひと:官僚),神の宮人(かみのみやびと:官僚),狩人(かりひと:狩猟),防人(さきもり:兵役),陶人(すゑひと:陶芸),杣人(そまびと:林業),舎人(とねり:下級官僚),飛騨人(ひだひと:大工),船人(ふなびと:水運),宮人(みやひと:官僚)

また,人では終わらないけれども職業を表すものとして,次のようなものが出てきます。

網子(あご:漁業),朝臣(あそ:官僚),漢女(あやめ:裁縫),大臣(おほまへつきみ:高級官僚),大山守(おほやまもり:管理された大きな山の番人),采女(うねめ:女官),水手(かこ:水運),里長(さとをさ:村の番人),左夫流子(さぶるこ:遊女),島守(しまもり:島の番人),織女(たなばたつめ:機織),津守(つもり:港の番人),時守(ときもり:時刻の番人),伴部(とものべ:兵役),野守(のもり:管理された野原の番人),船方(ふなかた:水運),道守(みちもり:街道の番人),畑子(はたこ:農業),公卿(まえつきみ:貴族官僚),山守(やまもり:管理された山の番人),宮女(みやをみな:女官),守部(もりへ:番人の統括部門),渡り守(わたりもり,渡しの番人)

漁業,農業,林業,水運,繊維業,陶芸,狩猟,大工,遊女,官僚,女官,兵役までいろいろ出てきました。
また,番人が多いことは,律令制度の法律やシステム(仕組み)を維持するために管理者が必要となったのだろうと想像します。
熱き恋路や日常生活のゆとりに対しそれら番人を邪魔と感じたり,番人が役目を果してくれない不満などの和歌が万葉集にはあちこちに出てきます。

山守の里へ通ひし 山道ぞ茂くなりける 忘れけらしも(7-1261)
やまもりのさとへかよひし やまみちぞしげくなりける わすれけらしも
<<山の番人が里へと通う山道の草が生い茂っている。お役目を忘れてしまったのだろうか>>

もちろん山守は彼氏の比喩で「最近来ないのは私のことを忘れてしまったから?」という恨み言の和歌のようです。
ちなみに,山守がちゃんと仕事をせず,山道が荒れてしまうことは当時よくあったのかも知れませんね。
社会全体の最適化(平均幸福感の最大化)を目指すことのひずみにより,個々の幸福感の最適化には必ずしも結び付かない。そんな思いも冗談ぽく和歌に託すことを万葉時代の日本人は覚えたのでしょうね。
さて,現代人にそういう和歌心までも希薄にさせてしまうのは,人間が社会の全体最適システムの最も効率的な一歯車(職業人)として,必要以外のコミュニケーションをせず,個々に閉じこもることを求められているためでしょうか。

2009年5月1日金曜日

万葉集で出てくる○○川(河)

例の如くエクセルのオートフィルタ機能を使って,私が作った万葉集用語集から,今度は「川」または「河」で終わる言葉を出してみました。
3月6日に投稿した「山」で終わる言葉の説明と同じで,ほとんどが地名です。
これで出てきた(万葉集で詠まれている)川の名前で,私がどのあたりにあるのか思い浮かぶのは次のものです。

明日香川(奈良県),●安曇川(滋賀県),宇治川(京都府),片貝川(富山県),●紀の川(和歌山県),●久慈川(福島県,茨城県),佐保川(奈良県),●鈴鹿河(三重県),●多摩川(東京都,神奈川県),玉島川・松浦川(佐賀県),●千曲の川(長野県),●利根川(千葉県,茨城県,埼玉県,栃木県,群馬県),泊瀬の川(奈良県),●富士川(静岡県),吉野川(奈良県),●武庫川(兵庫県),●野洲の川(滋賀県)

この中で●を付けた川は,万葉集で1首だけ出てくる川です。その他の川も奈良県の川を除き,数首和歌で読まれているだけです。選者ができるだけ多くの川が出てくるように和歌を選んだ意図が見えるような気がします。
また,川の名前ではないですが,河がついた地名がいくつか出ています。

古河(茨城県),駿河(静岡県),三河(愛知県)

では,関東地方の川を詠った和歌をいくつか紹介してみましょう。

☆利根川を詠った東歌
利根川の川瀬も知らず直渡り波にあふのす逢へる君かも(14-3413)
とねがはのかわせもしらず ただわたりなみにあふのす あへるきみかも
<<利根川の浅瀬も知らないでが何も考えずただ渡ったら,波に合うように貴方と逢うことができましたよ>>

利根川が浅瀬を探して渡らないといけないくらい大きな川だということが分かります。

☆多摩川を詠った東歌
多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき(14-3373)
たまがはにさらすてづくり さらさらになにぞこのこの ここだかなしき
<<多摩川で晒して手織りの布がさらさらと流れている。それをしている女の子の可愛いことといったらありゃしない>>

多摩川は,流れが緩やかで,地元の人の暮らしや仕事と関わっている川であることが分かります。

☆久慈川を詠った防人歌
久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む(20-4368)
<くじがははさけくありまて しほぶねにまかぢしじぬき わはかへりこむ
<<久慈川よ無事に待っていてくれよ。防人の任が終わったら九州の塩を載せた船に楫をいっぱい取り付けて急いで帰ってくるから>>

久慈川が海とつながっていて,船による物資の輸送が盛んであることが分かります。

☆千曲川を詠った東歌
信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ(14-3400)
しなぬなる ちぐまのかはの さざれしも きみしふみてば たまとひろはむ
<<信濃の国あるという千曲の川の小石も,貴方が踏んだ石でしたら玉と思って拾いましょう>>

千曲川は,小さな石が採れる川であることが分かります。

万葉集の地方の和歌に出会うと,万葉集が地方赴任を経験するであろう新人官僚や官僚の姉弟の教材として使われたのではかいかという仮説を私は立てたくなってしまいます。

2009年4月27日月曜日

白きを見れば夜ぞ更けにける

小倉百人一首に次の中納言家持の短歌が出てきます。

鵲のせる橋の置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける
かささぎのわたせるはしのおくしもの しろきをみればよぞふけにける
<<七夕に牽牛と織女を逢わせるためにできる鵲の橋(逢瀬の橋)に冬霜が降って白く光っているのを見ると夜が更けてきたんだなあ>>

この短歌は,新古今和歌集巻6(620)冬歌中納言家持作として出ていて,それを小倉百人一首の選者藤原定家が選んだものです。
この短歌は万葉集には出てきません。家持が作った短歌ではないのではと疑問に思う人も多いようです。
いろんな解釈ができる短歌だと私は思います。
冬だからいくら待っても愛する人と逢うことが難しいことを詠っているようにも思えます。

さて,ここからは私の勝手な想像です。
家持が人麻呂赤人と並ぶ存在として選ばれた訳は,新古今和歌集の選者の一人でもある定家の時代(平安末期),歌人達の間で家持の存在感がかなり大きくなっていったと想像します。
平安初期は,まだ大伴氏は藤原氏にとっては政敵の一つであり,粛清の対象であった。また,和歌自体も漢詩に比べて不遇の時代だったようです。
たとえ当時の和歌詠み人にとって家持が尊敬できる存在だとしても,家持を讃えるようなことは忌み嫌われたに違いありません。
平安京ができて100年余りが経った頃に紀貫之が書いた古今和歌集仮名序で,万葉集の存在を認め,人麻呂,赤人は歌聖としてたたえていますが,家持の名は出てきません。
ちなみに,同仮名序に出てくる六歌仙の一人大伴(友)黒主は,大伴氏とは無関係の人物のようです。
それから平安中期になり,藤原公任のよる三十六歌仙にようやく家持が選ばれます。
黒主は,この時点で六歌仙でありながら,三十六歌仙から消え,小倉百人一首でも選ばれていないのです。
平安末期から鎌倉時代になって,さすがの栄華を極めた藤原氏も,武家に権力を奪われ,新古今和歌集では万葉集の和歌,そして家持をとりあげても大丈夫というようになってきたのではないでしょうか。
百人一首の選ばれた「鵲の」の短歌は,万葉集になく家持が作ったかどうかは別として,家持の無念さを後世の歌人がもっとも表す短歌として選んだのではないかというのが私の勝手な想像です。
すなわち,この短歌が「(大伴家の)冬の時代がますます深くなっていく」という家持の無念な気持ちを裏で表していると読めなくもないからです。

2009年4月18日土曜日

え~い,ままよ,どうにでもして!

お待たせしました。「まにまに」について。

百人一首(古今集)に,
このたびは幣もとりあへず手向山 もみぢの錦神のまにまに(菅原道真)
<<この度は幣を用意できませんでしたが、手向山の紅葉の錦を御心のままに幣としてください>>
という短歌があります。このように「まにまに」は,「ままに」と訳せば大体意味が通じそうです。

国語辞典を見ると,今も使われる「ままに」「ままよ」「そのまま」の「まま」は,「まにま」が後世転じて使われるようになったようです。

ところで,万葉集での「まにまに」の用例は「風のまにまに」「神のまにまに」「君がまにまに」「友のまにまに」「汝がまにまに」「成しのまにまに」「馴るるまにまに」「引きのまにまに」「欲しきまにまに」「任きのまにまに」「任けのまにまに」「向けのまにまに」「行きのまにまに」があります。
自然や神の意のままにする用例は,どちらかというと少なく,相手,主君,友,恋人など人の気持ちや考えの「ままに」という用例が多いようです。

後の古今和歌集での「まにまに」用例は,上の菅原道真の短歌「神のまにまに」をはじめ,「水のまにまに」「雪のまにまに」「花のまにまに」「風のまにまに」「山のまにまに」と人との係わりが少なくなり,自然や神が対象になっているようです。
古今集の和歌詠み達は,人間関係に疲れ,自然のままに浸ることや神に縋ることが一種のあこがれ,心の慰めになっていたのかも知れないですね。

万葉の時代は,まだまだ人を信頼・信用する気持が大きく,相手の気持ちを「まにまに」で受け入れるような大らかな和歌が詠めたのかもしれません。

たらちねの母に知らえず 我が持てる心はよしゑ 君がまにまに(11-2537)
たらちねのははにしらえず わがもてるこころはよしゑ きみがまにまに
<<お母さんは(私たちのこと)まだ知らないけど,私の気持ちはもうあなた次第なのよ>>

2009年4月16日木曜日

どんどん,さくさく仕事が進む?

状態を表す言葉に,「どんどん」「さくさく」「ざくざく」「てくてく」「はらはら」「くるりくるり」など,2音節か3音節の言葉が繰り返される単語があります。
これらは,状態を名詞の繰り返し,音,光,動きなどをイメージにして,表現しているものが多いようです。

実は,万葉集にも同様の単語がたくさん出できます。

あさなさな(あさなあさなの略で毎朝),いつもいつも(常に),うつらうつら(はっきり),うべなうべな(もっともなことであることよ),うらうら(日差しがやわらかでのどか),かつがつ(やっと),かもかも(ともかくも),きらきら(美しいさま),くれくれ(心細く頼りないさま),けふけふ(毎日),ことこと(同じこと),ことごと(すべて),ころごろ(日頃),さゐさゐ(動揺し騒ぐさま),さらさら(今更,新たに),しくしく(しきりに),しばしば(幾度も),たかたか(待ち望むさま),たづたづ(おぼつかないさま),たわたわ(たわわ),つぎつぎ(後から続くさま),つばらつばら(満遍なし),つらつら(滑らかなさま),なかなか(いっそのこと),ぬるぬる(ほどけるさま),はろはろ(遥か),びしびし(鼻水をすすりあげるさま),ほとほと(今少しで),ますます(前より一層),もろもろ(多くのもの),やくやく(次第,ようやく,除除),ゆくゆく(進むさま),ゆくらゆくら(心が動揺するさま)

私は,これらの繰り返し言葉が,本来の大和言葉として日本人の間で使われてきたのか,1世紀頃には日本に伝来したかもしれないという漢語の影響で使われるようになったのか,気になります。
今の中国語には,済済,黙黙,続続,段段,団団,除除,粛粛などの意味を持つ同様の繰り返し語(同じ漢字の繰り返し)があるようです。
ただ,英語でも「徐々に」を"bit by bit"や"little by little",「ますます」を"more and more",「日日」が"day by day"というように,似たような繰り返し表現があります。
本来の大和言葉として,このような繰り返し表現が元からあったとしても不思議ではないかも知れませんね。

さて,万葉集の和歌をたくさん御存知の方は「まにまに」が気になるかもしれません。「まにまに」は,万葉集の40首近くの和歌に出てきます。しかし,これは音節の繰り返しではなく,漢字交じりで書くと「随に」なるようです。「まにまに」については少し書きたいことがあります。それは次の投稿で。次のは「ほとほと」したら出るでしょう。

2009年4月11日土曜日

船(舟)に関係する語

前投稿で,万葉時代,物流,人の輸送,漁業に船(舟)が活発に利用されていただろうと書きました。それをさらに裏付けるように船(舟)が出てくる和歌は,万葉集に3百首弱はあると思われます。船に関係するたくさんの言葉が万葉集で次のように使われています。

<船の部分や船具に関連する語>
楫(かぢ),楫棹(かぢさを),棹(さを),楫柄(かぢから),艫(とも),舳(へ),櫂(かひ),帆(ほ),舟棚(ふなだな),碇(いかり)

<船着き場,船置場やその業務に関連する語>
港(湊,水門),津,浦,崎,浜,渚,江,堀江,渡し,船瀬,泊つ,津守,渡り守

<乗船,走行やその業務に関する語>
船待ち,船装ふ,船出,舟寄す,漕ぐ,行く,帰る,渡る(す),通ふ,浮ぶ,覆る,乗る,船競ふ(ふなぎほふ),潮待ち,風守り(かざまもり),朝凪ぎ,夕凪ぎ,水脈(みる),船方,舟人,水手(かこ),舟乗り,引舟

この他にもあると思いますが,これだけでも船に関する造船,航行,浚渫などの技術,乗組員,港湾スタッフなどの配置が,万葉時代にはある程度システム的に行われていたと私には想像できます。

2009年4月10日金曜日

~舟,~船について

今回は,万葉集に出てくる舟または船で終わる言葉をあげると次のようになります(類似用語は割愛しています)。

赤のそほ舟,足柄小舟,伊豆手の船,岩船,大船,大御船,小舟,潮舟,棚無し小舟,千舟(船)月の船,筑紫船,釣舟,ま熊野の船,松浦舟,御船,百石の船,百舟(船),四つの船,夜船,など

割とたくさん見つかりましたので,少し分類してみましょう。

<<船の色,大きさ,数を表すもの>>
赤のそほ舟(赤く塗った舟),岩船(岩のように頑丈な船),大船,小舟,棚無し小舟(船縁が一重しかない小舟),千舟,百舟,百石(ももさか)の船

<<用途や比喩を表すもの>>
大御船(天皇や皇后が乗る船),潮舟(潮路を渡る舟),月の船(大海を漕ぎゆく船を大空を移動する月にたとえた語),釣船,御船,四つの船(遣唐使一行が分乗した4艇の船),夜船(夜行の船)

<<製造地域を表すもの>>
足柄小舟,伊豆手の船,筑紫船,ま熊野の船,松浦舟

これをみると,船は万葉時代に交通手段として,われわれが想像する以上に凄いスピードで発達・進化していたと考えてもよいでしょうね。
各地に停泊のために港が次々作られ,太平洋側,日本海側,九州,東北に至るまで,日本のまわりには,さまざまな定期航路があったのかもしれません。
定期船には,百石の船が示すように,百石船と呼べるような大きな船がすでにあったのでしょう。各地を結ぶ物流網が拡大していった時代に見えます。
また,足柄(神奈川県),伊豆(静岡県),筑紫(福岡県),熊野(和歌山県),松浦(佐賀県)など,造船地が出てくることで,用途ごとに優れた船の地域ブランドもすでに認知されていたことを示してますね。
万葉集に出てくる船に関する言葉を分類すると万葉時代の物流や人の移動に関する活気が伝わってくるようです。

2009年4月5日日曜日

万葉集編纂は誰が思いついたか

前投稿で述べたように,大伴家持が奈良で急速に昇進していった50歳代から60歳代に万葉集を編纂したと仮定すると,家持にいったい誰が万葉集の編纂を命じたのか。
もちろん,家持自身の意思で編纂を思いついた可能性もありますが,私は何かしらのスポンサーがいたのだと考えてしまいます。
ここからは,私の勝手な想像です。歴史小説(フィクション)の世界といえるのかもしれませんね。
私が有力なスポンサーとして考えるのは,当時即位していた光仁天皇です。
光仁天皇は,歴代でもっとも高齢の何と62歳で770年(神護景雲4年)に即位したのです。
それも順当な皇位継承ではなく,閣議の合議で決定されたようですから,一種の中継ぎ天皇といってもいいのかも。
記録には天皇は結構改革も行ったように書かれています。でも,藤原氏が陰でいろいろ仕組み,天皇の権威を利用し,行ったとの説もあるようです。60歳代の天皇は,実態は隠居のような立場であった可能性があります。そこへ地方から帰ってきた50歳代(初老)で,極端に遅咲きの家持と話がよく合ったと想像できそうです。
二人は,頻繁に若いころの話やそれぞれの父親(志貴皇子,大伴旅人)等の話をしたでしょう。また,家持は,天皇に諸国赴任時の地方の話や交流のあった人の話をたくさんしたのではないかと想像できます。
光仁天皇は,権力抗争により次々と粛清される優秀な人材が後を絶たず,国全体や地方を含む一般庶民の幸せを顧みない権力者達を憂うようになったのかも知れません。
また,遣唐使などの海外留学者による闇雲な海外の文化の導入,日本的な調和を忘れた政治制度への転換と強制が急激に進んでいること。それによって,それまでの日本人が長年培ってきた文化,風習,慣習を新興世代が尊重せず,世代,親子,都と地方,官僚と庶民などとの間に大きなギャップが生まれてきたことを残念に思っていたのかもしれません。
光仁天皇と家持は,残された短い人生で一体何が残せるか考えたのではないでしょうか。
ただ,政争の具になるようなものでは,そのプロジェクト自体妨害を受ける。そこで,家持が集めていた和歌の記録,宮廷に残っている和歌の記録などを集め,大和言葉の用例として整理し,官僚の姉弟や渡来人の教育(国語,歴史,風習,地理・風土など)に役立てることを目的として万葉集編纂プロジェクトがロートル家持をマネージャとして開始されたと私は想像します。
できた万葉集が,権力者(主に藤原氏)の姉弟,影響力を増しつつある渡来人の教育に利用され,それを学んだ人たちが将来為政に関わるようになったとき,日本人の心と融合した政策をもっと考え,政策を実施してくれるのではないかと考えたのかもしれません。時は,平安京遷都まであと十数年にせまった頃です。
さて,万葉集は和歌集としてではなく,大和言葉の用例集としてならば,歌の順序の是非についてや作者に名もない庶民が含まれていたとしても,とやかく言われる筋合いはないずですよね。

2009年3月29日日曜日

大伴家持はいつ万葉集を編纂したか

家持万葉集編纂プロジェクトのマネージャだったと仮定し,万葉集が何時編纂されたかを考えてみます。
家持が因幡の国で正月に詠んだ万葉集最後の歌(759年)の後,家持が万葉集を編纂したのは光仁天皇即位以降(770年(神護景雲4年))だろうと私は思います。
昇進に遅れ,地方職ばかりで不遇が続いてきた名門大伴家の家持にも,この頃(50歳を過ぎて),ようやく中央での官職が巡ってきたのです。
地方の状況をよく知り,かつ教養のあるさまざまな人々と和歌を通した交流の中で得た知識,教養,人を引きつける魅力で,その実力をすぐに認められるようになったに違いありません。
このあたりから今までの昇進の遅れを取り戻すようにどんどん家持の官位が上にあがっていったようです。
782年(天応2年)に陸奥国の赴任するまでの12年間で,家持は万葉集の一通りの編纂を終わらせ,公開をしたのだろうと私は考えます。公開された万葉集は,絶賛され,家持の評価はさらに高まったのだろうと私は思います。
しかし,家持は785年陸奥での死後,すぐに藤原種継暗殺事件に主謀者として扱われ,官位や名誉は剥奪されたのです。家族等が都からの追放された後,家持の業績や詳細な記録がすべて消されたのでしょう。
万葉集も例外ではなく,万葉集の原本や万葉集編纂のために家持が集めた多くの和歌の記録も,内容の如何に関わらず焼き捨てられた可能性が高い。唯一万葉集の写本だけが,その価値が分かる人によって秘かに保持され今日に残ったのではないか。それでも「編者 大伴家持」などという記述を残すと,所持が見つかったとき罪人の仲間と見なされるため,一切残さないようにして。

2009年3月26日木曜日

万葉時代の魚介類

万葉集に出てくる魚介類を上げてみました。
現在では,結構値の張るものが多いですね。
葦蟹(あしがに),鰒(あはび),鮎(あゆ),鰹(かつを),蜆(しじみ),細螺(しただみ),鮪(しび),鱸(すずき),鯛(たひ),鯯(つなし),鮒(ふな),鰻(むなぎ)などです。
アワビ,タイ,マグロ,ウナギなど,結構贅沢な魚介類が獲れ,食していたようですね。
ウニ,サザエが出てこないのは,アワビが十分獲れるため無理して食べる必要がなかったのかも知れません。
また,次の防人歌から,アサリやハマグリが潮干狩りの道具を使わなくても簡単に拾えていたことがうかがえます。

家づとに貝ぞ拾へる 浜波はいやしくしくに 高く寄すれど(20-4411)
いへづとにかひぞひりへる はまなみはいやしくしくに たかくよすれど
<<故郷の家のお土産にと貝を拾っている。浜に波がしきりに高く押し寄せても止めずに>>


このほか,哺乳類の鯨(いさな)もたくさん獲れていたようです。
現代人にとって羨ましいかぎりです。