2010年9月25日土曜日

いま,万葉集に学ぶべきこと

<投稿100記念>
今回が投稿100回目ということで,通常より長文を載せました。これまで書いた要約でもあり,内容に今まで繰り返し何度も書いて来たことも含んでいます。ご容赦ください。
万葉集の編纂の意図や目的が「やまと言葉のテキスト」,そして「昔からの国の文化,風土,慣習,歴史の’実態’を広く知らしめること」ではないかと何度かこのブログで私は述べています。
もちろん,この推測は私の勝手なものであり,学術的根拠はありません。
万葉集は,飛鳥時代から奈良時代にかけて,海外(中国)の律令制度の導入により,国の様々な場所でどんなことが実際起きているのか,人々がどんな思いで暮らしているのかを和歌(やまと言葉)という形式でストレートに表現し,そしてその題詞,左注の解説を通して残そうとしたものではないかと私は考えます。
万葉集の一つ一つの和歌には,儀礼的なもの,作り話風のもの,自分の感情(美しい,好きだ,逢いたい,つらい,悲しいなど)だけを表現したもの,政治的な色合いの濃いものなど,一つ一つが正確な歴史的事実を表わすものではありません。
ただ,そのように詠わせる社会的背景を多くの和歌の中から推定すると,やはり多くの人は激動の飛鳥時代,奈良時代を翻弄されながら生きた人々の姿が見えてくるように思います。
<社会的変革は痛みを伴う>
一般に,新しい政治制度の導入や改革は,そのスピードが早ければ早いほど,それに翻弄される人々が多く現れてしまうのではないでしょうか。
そういった犠牲をある程度覚悟の上であえて世の中を変えていかなければならないときがあることは国の発展,近代化,国際的競争力の強化のために避けては通れないと私も考えます。
その変革を強力に進めようとする人達は,変革が早く進むほど最終的な犠牲発生期間や全体的なデメリットは少なくて済むと考えるかも知れません。しかし,それについていけない人々が大きな格差を感じ,苦しむ度合いも大きくなります。
私は,万葉時代の政治制度の変革と今のIT(情報技術)をベースとしたグローバル(国際)化の急激な進展の中で,その大波を被る人達(波の上でバランスよく波に乗る一部の人達を除く)の戸惑いには類似点が多くあると感じています。
その混乱ぶりの一例をあげます。
<今はカタカナ外来語だらけの世の中?>
私たちは膨大な数の新しいカタカナ語の出現に戸惑い,時代に乗り遅れまいと必死に覚え,理解しようとしていますが,その新しいカタカナ語の数は一般の人の理解の限界をはるかに超えて急増し続けているように思います。
たとえば「このテレビはブルーレイレコーダとハードディクスがセットされ,有機ELDのクリアな画像でフルハイビジョン,3D映像がエンジョイできます」とか,「このケータイ端末は,オーサリングツールがプリインストールされ,旧モデルよりパワフル,ハイパフォーマンスを実現し,Webコンテンツがスムーズにアップデートでき,ホームページへのアップロードもサクサクです」というような日本語が溢れ,意味は分からないが新しいカタカナ語が使われていると多分優れているのだろうと飛びついてしまう。
<万葉時代の外来語は漢字>
実は万葉時代も漢字が急激に導入され,ほんの一部の人達だけが理解できる状況だったと思われます。
結局,漢字は平安時代になっても難しく,理解できない人が多かったため,ひらがなやカタカナが発明されたのでしょう。
さて,カタカナ語の氾濫の例はあくまでも今の急激な変化を示す一例でしかありませんが,もっと深刻な戸惑いの例もほかにあると思います。
万葉集の様々な和歌でも,時代の変化(重税,法律による制限拡大,違反による重い刑罰,厳密な組織序列,権力争い,左遷,他国との戦争,出兵)に対し,戸惑い,苦しみ,悲しみ,それに耐える姿が読み取れます。
しかし,万葉集にはそのような苦しい状況の中でも変わらないもの(恋愛,家族愛,四季の変化や自然の美しさ,故郷への愛着,かけがえのない命など)を大切しようという姿があり,私は大きな救いを感じます。
<万葉集から我々現代人が学ぶべきこと>
時代背景の類似点から急激な変化にさらされている現代,万葉集が我々に対し教えてくれる点(失ってはならないこと)は次のようにたくさんあると私は思います。
分かりやすい万葉集の短歌を例示しながらいくつかの点について述べてみます。

☆☆家族を大切にする気持ち☆☆
家族を愛する気持ちを詠った万葉歌人は山上憶良が代表例でしょう。官僚である憶良はまだ十分恵まれていた方かもしれません。今でいえば優良企業の正社員です。
今の非正規社員の方々や失業中の方々はもっと厳しい状況だと思いますが,次のような気持ちは失わないでほしいと私は思います。

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ(3-337)
銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(5-803)

☆☆命を大切にする気持ち☆☆
万葉集には数多くの挽歌(死者を追悼する和歌)が載せられています。
中には儀礼的な挽歌もありますが,父母も妻子もいるだろう路上の屍を見て詠んだ詠み人知らすの挽歌には心打たれます。

母父も妻も子どもも高々に来むと待ちけむ人の悲しさ(13-3337)

死んだ男性は家族とまた会えることを願い,生き続けたかったけれど,不本意にも生き倒れで命を落としてしまったのでしょう。
でも,父母妻子がいるにも関わらず自ら命を落とす人がたくさんいる今の社会,命を本当に粗末にしている時代なのでしょうか。それとも,自殺する人も本当はもっと生きたかったのでしょうか。

☆☆自然を愛する気持ち☆☆
万葉集には自然を詠んだ詠み人知らずの和歌が本当にたくさんあります。次はその中のたったひとつですが,春,夏,秋と同じ山を見て季節の移り変わりを実に細かく観察している短歌だと私は思います。

春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも(10-2177)

☆☆苦難な状況でも励まし合い乗り越えようとする気持ち☆☆
橘諸兄の力が陰りを見せ始め,聖武天皇崩御の後,いわれなき罪で出雲守を解任された大伴氏のエリート大伴古慈悲に対し,「大伴氏のプライドをしっかり自覚し,自棄(やけ)にならずに自分を磨くことを忘れるな」と激励する長歌と反歌2首を大伴家持が贈っています。
次は,その反歌2首です。

磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ(20-4466)
剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(20-4467)

☆☆世の中の矛盾をユーモアで風刺するセンス☆☆
世の中の所得格差や重税に対して笑い飛ばそうという短歌もあります。
次は,ハスの花が咲くような大きな池を持つ金持ちを風刺した短歌と檀家衆に無精ひげを揶揄にされた僧侶が「里長が税の取り立てに来たら泣くぞ」と応酬した短歌です。

蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋の葉にあらし(16-3826)
壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ(16-3847)

今の世の中,制度矛盾や収入を得るためのスキルの変化から,さまざまな格差が広がっているようにも見えます。
でも,いくら「世の中が悪い」と嘆いたところで明日急に豊かな暮らしになれる保証はありません。
私たちがこれからの激動の時代を前向きに生きていくために,万葉集から学ぶことは少なくないのではないかということを投稿100回の節目の締めくくりとします。
「初秋の明日香」に続く。

2010年9月19日日曜日

このブログのキャストや方向性

万葉集をリバースエンジニアリングする」というこのブログも次回で投稿100回目となります。
今回は,このブログのキャストについて,改めて説明しますね。

◎私(たびと)…生まれ:京都市伏見区。高校まで同市山科区の学校に通う。
        その後,東京八王子市の大学(経済学部)入学,八王子市に暮らす。
        社会人(ITエンジニア)になってからは埼玉県の
        いくつかの市を転居して,現在埼玉県南部のある市に居住。
        万葉集との出会い。小学校の国語の教科書が初め。
        このとき印象に残ったのが,山部赤人の次の短歌。
     若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る (6-919)
        大学で万葉集研究サークルに入り,すこし本格的に万葉集に接する。
        現在,好きな万葉歌人は大伴家持長意吉麻呂笠女郎
◎あう…私(たびと)と同居しているネコ。私の代わりに写真が出ています。
◎妻…私の長年の同居人。ネコが好きですが,万葉集にはほとんど興味を持たず。
        現在は韓流ドラマに凝っている。
◎天の川…私が生まれてからずっと私にまとわりついている陽気な亡霊。
        なぜか関西弁でうるさく話し,ときどきこのブログに出てきては
        ちょっかいを出す。

現在,キャストはこんなものです。

次にこのブログの方向性めいたものも改めて説明します。
万葉集を有名歌人や名歌と評されている和歌から題材にすることはしません。
万葉集で使われている言葉に焦点を当てます。
その言葉を使っている万葉集の和歌を機械的にまとめて見ていきます(このあたりがエンジニアの発想)。
この方法は万葉集を専門に研究されている学者先生も当然行われているかもしれませんが,私のやり方が研究者と根本的に違う(劣る)のは,過去の研究結果や評論をほとんど参考にしない点ですね。
このブログに書いてある内容は,ある言葉にこだわって,万葉集を数日調べて,感じたことをその都度書いているだけなのです。
過去の偉い学者先生方が完全否定していることや万葉集を全部調べれば間違っていることも書いてしまうかもしれません。
このブログは,すべてその時点の私の感想でしかありません。
私は,万葉集からやまと言葉やまと文化の源流をさぐることができると信じています。
そして,そこから現代でも失ってはもったいない文化やモノの見方・考え方を伝えられればと考えているのです。

さて,前回(98回)まで,いろんな言葉を題材にしてきました。
また,難読シリーズや動きの詞シリーズの連載をアップしていますが,まだまだ紹介できていない言葉はいっぱいあります。
これからもずっと続けられるだろうと思うほど万葉集は言葉の宝庫なのです。まさに「よろず(万)の言の葉」なのです。
また,万葉集の中で同じ言葉が様々なシチュエーションで使われていることで,同じ言葉でも前後の関係で微妙にニュアンスが異なり,ある言葉の奥深さを感じさせるものもあります。
もし,万葉集がなかったら,当時使われていた言葉の多くが忘れ去られたり,本来の意味と異なる意味に使われてしまい,日本語が大きく変わっていたかも知れません。

さて,次回は連載100回記念として,万葉集から現代人が学ぶべき点は何かについて私の考えを書く予定です。

2010年9月11日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…惜しむ(3:まとめ)

「惜しむ」の用例として,今でも「名残を惜しむ」という言葉が使われています。
「名残」は「余波」とも書き,ある動きが終わっても,かすかに元の動きの余韻が残っている状態を表す言葉だと思います。
例えば,美しい紅葉が終わって,大半が枯れ木のようになってしまっているが,まだ一部に散らずに残っている部分があり,さぞかし美しかったであろう紅葉の雰囲気が残っている。
それを見て「あ~,もう紅葉も終わったんだ」という思いを「名残を惜しむ」が端的に表現しているのではないでしょうか。

「惜しむ」を使った万葉集の和歌を詠むと「日本人は無常観を楽しむ民族だなあ」と私はつぐつぐ感じることがあります。
一般に無常観は仏教によってもたらされた考え方だと思われがちかもしれません。
しかし,私は仏教伝来以前から日本人は苦しい生活であっても豊かな季節の変化とともに暮らす中,無意識のうちに無常を前提とした価値観を持っていたのではないかと考えます。
そこへ飛鳥時代仏教(主に大乗仏教)が急速に伝来し,その根底にある無常の思想が日本人の無意識の無常観とマッチし,違和感なく受け入れられたかもしれないと私は思うのです。

世の中に絶対変わらないものはない。今の状態(良い状態/悪い状態)はいずれ変化する。
良い状態が変化し,終わろうとする刹那に「惜しむ」という感情が出現する。
いっぽう,悪い状態が終わり,良い状態になるのを期待する心の動きを動詞シリーズの最初に取り上げた「待つ」があるのかも知れません。

万葉集に「惜しむ」と「待つ」の両方が詠み込まれた長歌の一つ(後半抜粋)を次に紹介します。
この長歌は,摂津国の班田史生丈部龍麻呂が自殺した際,判官であった大伴三中が詠んだとされる挽歌です。

いかにあらむ 年月日にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 大君の 命畏み おしてる 難波の国に あらたまの 年経るまでに 白栲の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去にけむ 時にあらずして(3-443)
<~いかにあらむ としつきひにか つつじはな にほへるきみが にほとりの なづさひこむと たちてゐて まちけむひとは おほきみの みことかしこみ おしてる なにはのくにに あらたまの としふるまでに しろたへの ころももほさず あさよひに
<<~どのように暮らしているのかと,毎日毎日立派な君がいつもにこやかな顔で帰ってくるかと玄関で待っている家族は,難波の国で年を重ねている。衣も干さずに一日中居る君は何を思ったのか,大切なこの世から露霜のように去って消えてしまった。若くして。>>

年間自殺者が3万人を超える(交通事故で亡くなる人の4倍以上)である状態が続いている今,毎日どこかでこの長歌のような無念な想いをしている人がたくさんいると思うと心が暗くなります。
今の我々は,何としてももっと「命を惜しむ」という心を強くし,そしていろんな人と関わりをもって励まし合いながら生きていくことが大切だという気持ちをより強く持たなければならないと思うのは私だけでしょうか。

さて,このブログも次の次で100回を迎えます。
この後の2~3回は,動きの詞シリーズは少し休みにして,これまでこのブログに残してきた記事を少し振り返ってみたいと考えています。