2018年3月31日土曜日

続難読漢字シリーズ(12)… 蓋し(けだし)

今回は蓋し(けだし)について,万葉集を見ていきます。「蓋し」は「ひょっとして」「もしかして」「もしや」「思うに」という意味です。
最初に紹介するのは,弓削皇子(ゆげのみこ)から贈られた歌に対して糠田王(ぬかだのおほきみ)が詠んで返した短歌です。

いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥 蓋しや鳴きし我が念へるごと(2-112)
<いにしへにこふらむとりは ほととぎすけだしやなきし あがもへるごと>
<<昔を恋しいと鳴くその鳥は霍公鳥でしょう。たしかに(昔が恋しいと)鳴いていますね。私が思っているのと同じように>>

この短歌で詠まれている「昔」とは,天武天皇がまだ存命で統治していたころだろうと言われています。そのころに比べて,今は悲しいことが多い(文武に優れた大津皇子の氾濫・粛清など)というのが,作者の感想だったのかも知れません。
さて,次に紹介するのは,恋人が来るのを待つ女性が詠んだ恋の歌です。

馬の音のとどともすれば松蔭に出でてぞ見つる蓋し君かと(11-2653)
<うまのおとのとどともすれば まつかげにいでてぞみつる けだしきみかと>
<<馬の足音がドドっとするので,庭の松の木の下まで出てみたのよ。もしかしてあなたが来たのかもしれないって思ったから>>

恋人の来るのを待つ身の辛さを「蓋し」という言葉が表しています。万葉時代,いろんな思いをして恋人または夫を待っていた女性が詠んだ短歌がたくさん万葉集には出てきます。
最後に紹介するのは,山上憶良が九州と対馬を結ぶ航路の海難で帰らぬ人となった志賀白水郎という航海士を偲んで詠んだとされる10首の内の1首です。

沖行くや赤ら小舟につと遣らば蓋し人見て開き見むかも(16-3868)
<おきゆくやあからをぶねに つとやらばけだしひとみて ひらきみむかも>
<<沖を行くあの赤い丹塗り小舟に土産をことづけたら,もしかしたら(白水郎がいて)開いて見るかもしれない>>

この人物は,地元の志賀島では多くの人に慕われていたのでしょう。
だから,「蓋し」がこの短歌に使われているように,何とか生きていてほしいという気持ちが捨てられないのです。そんな,残された人たちの気持ちを憶良は詠んだのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(13)につづく)

2018年3月22日木曜日

続難読漢字シリーズ(11)… 奇し(くすし)

今回は奇し(すくし)について,万葉集を見ていきます。「奇し」は「珍しい」「神秘的」という意味です。
最初に紹介するのは,藤原宮の役民が作歌した長歌の一部です。

~我が国は 常世にならむ  図負へるくすしき亀も  新代と泉の川に  持ち越せる真木のつまでを  百足らず筏に作り  泝すらむいそはく見れば(1-50)
<~わがくにはとこよにならむ あやおへるくすしきかめも あらたよといづみのかはに もちこせるまきのつまでを ももたらずいかだにつくり のぼすらむいそはくみれば かむながらにあらし>
<<~私たちの国は永遠に続く。吉兆を知らせる有難い亀は新しい時代を祝福して現れ,また泉の川の多くの角材で筏を作り,忙しく働く様子は天皇が神だからだろう>>

平城京の前の京である藤原京ができたことを喜んで,多分藤原京設立に深く関わった役人が詠んだ長歌です。藤原京はたった16年間だけ存在した京ですが,平城京を作るうえでの京作りの参考になった(奇し)京のではないかと私は考えます。
次に紹介するのは,平城京前期の皇族であった長田王(ながたのおほきみ)が詠んだ羇旅(旅先は九州隈本)の短歌です。

聞きしごとまこと尊くくすしくも神さびをるかこれの水島(3-245)
<ききしごとまことたふとく くすしくもかむさびをるか これのみづしま>
<<聞いていたとおり,尊い気配に満ちた不思議なほど神々しい さまであるこの水島は>>

万葉時代には全国の名所や珍しい(奇し)場所に関する情報が広く広まるようになったと私は考えます。
最後に紹介するのは,大伴家持が七夕を詠んだ長歌の一部です。

~うつせみの 世の人我れも  ここをしも あやにくすしみ 行きかはる年のはごとに 天の原振り放け見つつ 言ひ継ぎにすれ(18-4125)
<~うつせみのよのひとわれも ここをしもあやにくすしみ ゆきかはるとしのはごとに あまのはらふりさけみつつ いひつぎにすれ>
<<~現世の人間である我らも,これ(天の川に橋や渡しがなく,向こうにいる恋人と逢えないこと)を何とも不思議に神秘なこととして,行き代わる年ごとに天空を振り仰いでは語り継いできたのだ>>

男女の恋の実現の難しさを,橋も無く,渡し舟で渡るのも難しい(年に1回のみ)神秘的な天の川を例として,家持は詠んでいると私は理解します。
(続難読漢字シリーズ(12)につづく)

2018年3月16日金曜日

続難読漢字シリーズ(10)… 隈廻(くまみ)

今回は隈廻(くまみ)について,万葉集を見ていきます。「隈廻」は道の曲がり角という意味です。
最初に紹介するのは,天武天皇の皇女であった但馬皇女(たじまのひめみこ)が同じく天武天皇の皇子であった穂積皇子(ほづみのみこ)に贈った相聞歌です。
二人は,母は違っていても兄妹の関係で,許されない恋愛に苦しんでいます。

後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背(2-115)
<おくれゐてこひつつあらずはおひしかむ みちのくまみにしめゆへわがせ>
<<後に残され恋に苦しんでいるぐらいならいっそ追いかけてゆきたいのです。だから道の曲がり角ごとに分かるように目印をつけておいてくださいな,私のあなた>>

次に紹介するのは,若くして一生を終えた天武天皇の皇子である草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼み,仕えていた舎人(とねり)が詠んだ挽歌です。

夢にだに見ずありしものをおほほしく宮出もするかさ桧の隈廻を(2-175)
<いめにだにみずありしものを おほほしくみやでもするか さひのくまみを>
<<夢にも想像しなかったものを暗い気持ちで任務のために桧の隈廻(皇子の墓の地名)を通って宮に行くのだなあ>>

草壁皇子に仕えていた舎人には,お世話する人がもういないことに対する切ない気持ちがよく伝わってきます。
最後は,少し前の2018年1月6日にアップした「続難読漢字シリーズ(2)… 労(いたは)し 」でも紹介した山上憶良が詠んだ長歌に「隈廻」が出てきますので,再掲します。

うちひさす宮へ上ると  たらちしや母が手離れ  常知らぬ国の奥処を  百重山越えて過ぎ行き  いつしかも都を見むと  思ひつつ語らひ居れど  おのが身し労しければ  玉桙の道の隈廻に  草手折り柴取り敷きて  床じものうち臥い伏して  思ひつつ嘆き伏せらく  国にあらば父とり見まし  家にあらば母とり見まし  世間はかくのみならし  犬じもの道に伏してや命過ぎなむ(5-886)
<うちひさすみやへのぼると たらちしやははがてはなれ つねしらぬくにのおくかを ももへやまこえてすぎゆき いつしかもみやこをみむと おもひつつかたらひをれど おのがみしいたはしければ たまほこのみちのくまみに くさたをりしばとりしきて とこじものうちこいふして おもひつつなげきふせらく くににあらばちちとりみまし いへにあらばははとりみまし よのなかはかくのみならし いぬじものみちにふしてやいのちすぎなむ>
<<京へ行くため母のもとを離れ,知らなかった国の奥の方へと行って,幾重にも重った山を越えて,早く京を見ようと同行の人々と話し合っていたが,自分の体力が耐えられず,道の曲り角の土手の草を手折り,小枝を下に敷いて、それを床のようにして倒れ伏して,ため息をつき,いろいろ寢ながら考えたことは,生まれ故郷にいたら父が,家にいたら母が看病してくれる。しかし,世の中は思うようには行かないものだ。犬のように道端に伏して,最後は命が終わってしまうのだろう>>

急な峠を越える街道では,急勾配を緩和するために,どうしても道を曲線にしているところが多いのです。
そして,その隈廻・曲がり角(カーブ)ごとに名前を付け(日光の「いろは坂」のように),後どれだけ曲がれば峠に到達するかを思いつつ,苦しい登り道を上っていったのでしょう。
(続難読漢字シリーズ(11)につづく)

2018年3月12日月曜日

続難読漢字シリーズ(9)… 釧(くしろ)

今回は釧(くしろ)について万葉集を見ていきます。もちろん,北海道の釧路(くしろ)市を読める人にとっては,難しい感じではないかも知れません。
しかし,突然「釧」が出てきたら,サッと「くしろ」が出てきて,その意味(古代に使われていた腕輪)も分かる人は少ないのかも知れません。
最初に紹介する短歌は,持統天皇が伊勢に行幸した時,京に残った柿本人麻呂が行幸に同行した宮人たちのことを想像して詠んだものです。

釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(1-41)
<くしろつくたふしのさきに けふもかもおほみやひとの たまもかるらむ>
<<答志の崎で,今日は大宮人たちは天皇に食べてもらうよう,綺麗でおいしい海藻を刈っているのでしょう>>

「釧着く」は「答志」を導く枕詞ですので,特に訳すことはしませんでした。「答志島」は,鳥羽市の沖にある三重県内最大の島です。
次は,振田向(ふるたのむけ)という役人が,筑紫の国を退る時に詠んだ歌です。

我妹子は釧にあらなむ左手の我が奥の手に巻きて去なましを(9-1766)
<わぎもこはくしろにあらなむ ひだりてのわがおくのてに まきていなましを>
<<貴女が釧だったらなあ,自分の奥の手に巻いて,遥か遠い筑紫まで一緒に行けるだろうに>>

赴任中に仲良くなった女性に贈った短歌でしょう。儀礼的な別れの歌といえなくもないですね。
最後は,妻を残して旅に出なければならなくなった夫が旅先で詠んだ短歌です。

玉釧まき寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎(12-3148)
<たまくしろまきねしいもを つきもへずおきてやこえむ このやまのさき>
<<綺麗な釧を腕にしたままで一緒に寝た妻と結ばれてからまだ日も経っていないのに,妻を残してこの山を越えて先に行く>>

「釧」は,万葉時代,女性の腕輪アクセサリとして,使われていたのでしょう。
(続難読漢字シリーズ(10)につづく)

2018年3月7日水曜日

続難読漢字シリーズ(8)… 昨夜(きぞ)

続難読漢字シリーズに戻ります。
今回は昨夜(さくや)の別の読み方「きぞ」について,万葉集を見ていきます。
最初は,大伴女郎(おほとものいらつめ)がなかなか妻問に来てくれなかったが,ようやく昨晩来てくれた夫に送った短歌です。

雨障み常する君はひさかたの昨夜の夜の雨に懲りにけむかも(4-519)
<あまつつみつねするきみはひさかたの きぞのよのあめにこりにけむかも>
<<雨を口実に来れないといつも言い訳するあなたは、昨夜の逢瀬の雨に濡れて懲りてしまわれたですか>>

昨晩雨だったのに妻問に来てくれた夫に対する返礼の歌ですが,待つだけの身である妻の立場の複雑な気持ちを詠んだ秀歌と私は思います。
来てくれたのは本当にうれしい。でも,それがもうこれっきり(最後)にならないことを願う気持ちをどう表現するか。それを相手のなかなか来てくれない言い訳を逆手にとって,相手に伝えようとしている表現力に
次は,若い頃の大伴家持が紀女郎(きのいらつめ)に対して贈った5首の内の1首です。

ぬばたまの昨夜は帰しつ今夜さへ我れを帰すな道の長手を(4-781)
<ぬばたまのきぞはかへしつ こよひさへわれをかへす なみちのながてを>
<<暗い夜道を昨夜は私を帰しましたよね。今夜は私を帰さないでください。長い道のりなんですから>>

家持は,年上の紀女郎の気持ちを自分に靡かせようと頑張って詠んだようです。
結果は,成功とはいかなかったようです。
最後は,信州地方にある川を題材に詠んだ東歌です。

うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も(14-3505)
<うちひさつ みやのせがはのかほばなの こひてかぬらむきぞもこよひも>
<<宮能瀬川のヒルガオの花がいつまでも恋人が来てほしい咲いているように,昨夜も今夜も恋しいと思いながらひとり寝てるだけかな>>

今は,「昨夜」を「きぞ」と言うことは現代ではほとんど無くなってしまったようですが,「昨日」を「きのふ(う)」と言うのが今に残ったのは,前者に比べ,偶然よく使われ言葉だったことが理由なのかも知れません。
万葉集は,1300年の間のそんな言葉の流行りすたりも,現代の私たちに教えてくれるのです。
(続難読漢字シリーズ(9)につづく)