2015年1月31日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(3)   山のあなたの空遠く 幸住むと人の言ふ

日本は山国です。多くの場所では遠くは見渡せません。
万葉集を読み解くに,万葉時代に奈良盆地から旅をする場合,基本的に山と山の間の峠を越えたり,山麓の曲がりくねった道を縫うように進むことがほとんどだったように想像できそうです。結局,そんな旅では,行き先は山に隠れて見えず,どんなところなのか分からない,山を越えてきたために出発した自分の家の方も見えない,そんな状況の中を我慢して進むことになります。
次は市原王(いちはらのおほきみ)が多くの山を向こうにある美しい岬で可愛い海女の子に出会ったことを忘れられない気持ちを詠んだ短歌です。

網児の山五百重隠せる佐堤の崎さで延へし子が夢にし見ゆる(4-662)
あごのやまいほへかくせる さでのさきさではへしこが いめにしみゆる
<<網児の山々が幾重にも隠している佐堤の崎でさで網を広げて漁をしていた海人の娘が夢に出てくる>>

いくつもの山を越えてようやく到着した佐堤の崎は突然眼前に現れ,その美しさに感動しただけでなく,そこで漁をしている娘の健康的な可愛さが本当に忘れられない,そんな思いが私には伝わってきます。
<この短歌を万葉集の編者が掲載した理由>
京の女性は色白だが,家に籠り,何重にも衣を着て,暗い夜しか逢えない不健康さが感じられるのに対し,この岬で見た娘たちは,明るい太陽のもとで,薄い衣を身に着けただけで網を引っ張っている。市原王がこの短歌のように感じるのはもっともかもしれませんね。
ただ,この短歌を聞いた京の男性はどう思うでしょうか。是非その岬に行ってみたいと思わないでしょうか。「市原王様もお薦めの「佐堤の崎」周遊ツアー募集中で~す」といったツアーエージェントの営業マンがいたかどうかは分かりませんが,山の向こうにある美しい「佐堤の崎」をイメージした人は少なくなかったと私は想像します。
万葉集には,少し裕福になった京人(市民)を旅に誘う効果があったと私は感じます。
次は山が月を隠す状況を藤原八束(ふぢはらのやつか)が詠んだとされる短歌です。

待ちかてに我がする月は妹が着る御笠の山に隠りてありけり(6-987)
まちかてにわがするつきは いもがきるみかさのやまに こもりてありけり
<<私がずっと待っていた月は彼女が着ける笠という御笠の山に隠れていたのだ>>

山が無ければ,もっと早く月が顔を出していたのに,山があるおかげで月の出を待つことになった。八束は月が出たら何をしようとしていたのでしょうか。今日の出を楽しみに待つ人がいるように,万葉時代は月の出も楽しみに待つ人がいたのかもしれませんね。
さて,冒頭日本は山国で遠くを見渡せる場所は少ないと書きましたが,関東平野は平地でもかなり遠くを見渡せるところがあります。次は,そんな情景を詠んだ東歌です。

妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな(14-3389)
いもがかどいやとほそきぬ つくはやまかくれぬほとに そではふりてな
<<彼女の家から遠くまで来てしまったなあ。筑波山が他の山で隠れて見えなくならないうちに(もう一度)袖を振っておこう>>

彼女の家は筑波山の麓にあるのでしょうか。関東平野で筑波山が見えなくなるのは相当遠くにはなれないとそうならないでしょう。筑波山が見える限り,旅に出るときに別れを告げた彼女のいる方向に間違いなく向かうことができる。関東平野での筑波山の重みは今以上に重かったのだろうと私は想像します。また,奈良の市民は「東国の筑波山でどんなにすごい山なんだろうか」と想像を掻き立てられたかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(4)に続く。

2015年1月25日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(2) ♪岬~まわるの~ 小さ~な船が~

<転職先状況>
昨年12月からの職場で対応しているシステムの詳細構造がようやくラビリンス(迷宮)状態からいくつかの道筋が見え始めました。道筋がいくつか見え始めると,その他の隠れている道筋も見つけやすくなります。なぜなら,道筋を設計するとき,ある種の統一した思想で作っているハズですから,その考えを想定して探すことで,次々と道筋が見えてくることがあります。ここまで来ると,依然として簡単ではありませんが,今までに比べて対象システムを理解する仕事は少しずつ楽になっていきます。
世の中の仕組みもそうかもしれません。みなさん,理解できない・理不尽と思える出来事やさまざまな仕組がたくさんあると感じませんか? 私は感じます。
逆に「世の中の動きや出来事の原因なんて全て承知の助(すけ)よ」という人の数は本当に少ないのではないでしょうか。その人は未来を全て予測できる人に他ならないですからね。
<複雑な世の中の仕組み(設計図)をどう理解?>
仕組みが不明な世の中でどう生きていくか?
基本は私がソフトウェアの保守開発の仕事でやっているように,とにかく世の中を不断にリバースエンジニアリングすることしかないと私は最近感じます。「世の中の仕組みのリバースエンジニアリンク」とは,発生した事件,出来事,お知らせなどを丹念にフォローし,それが発生する原因や構造を想像していく。そして,その原因や構造があるところでは,同じような事件,出来事,お知らせがいつごろ発生するか予想をするみることです。
予想が外れたら(実際は,そのケースの方が多い?),原因や構造の理解に正しくない部分があった訳なので,それがどこか再度分析を試みるという繰り返しです。そうすることによって,少しずつ世の中の仕組みや問題な部分の本質が見えてきて,間違った行動が少なくなると私は信じています。
<本題>
さて,また前置きが長くなりましたが,万葉集を見ていきます。今回は,「隠る」の2回目として「島隠る」をテーマとします。
最初の1首は,山部赤人が今の兵庫県の瀬戸内海沖を船に乗って羈旅していたとき詠んだとされる短歌からです。

島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船(6-944)
しまがくりわがこぎくれば ともしかもやまとへのぼる まくまののふね
<<島陰に隠れ,大波を避けて我が舟を漕いで来ると,ああ羨ましいことだ。あれは大和の方へ(真っ直線に)上って行く本物の熊野で造られた高級な船だよ>>

おそらく赤人が乗っている舟は比較的古びた小さな船で,陸から離れると危ないため,島の海岸線を伝って航行。そのため,島影に隠れたり現れたしながらの航海だったと思われます。今で言えば,お金がないのでくねくねと曲がったローカル線の各駅停車に乗らざるを得ないのだが,新幹線がピュンピュンと追い抜いて行くのを見て羨ましいなあと感じる気持ちに近いかもしれませんね。
「熊野の船」は当時最新鋭の船?
万葉時代は,外国からの優れた造船技術の導入と,漁業用は漁業用,輸送用は輸送用と造船の分業化・専門化が進み,経験豊かで高度な技術を持った造船技術者が専門の造船所で造船に専念する。そのことで,それまでに見たことがないような高品質で高性能な船が作られるようになった時代だと私は思います。各地には,立派な造船所がつくられ,それぞれがしのぎを削って良い船を作り,多少のシケや大波でもビクともしないような船がさっそうと航行して行ったのでしょう。造船所の地名からブランド船の一つとして「熊野の船」が知られていたのかもしれません。
次は,旅立ちの時,見送る女性の問いかけに答えた詠み人知らずの短歌です。

八十楫懸け島隠りなば我妹子が留まれと振らむ袖見えじかも(12-3212)
やそかかけしまがくりなば わぎもこがとまれとふらむ そでみえじかも
<<多くの櫂を舟に付けて漕ぎ出しても,島に隱れて行ったら,私の愛しい人が止れと袖を振っても,見えなくなるでしょう(この別れは致し方ないのです)>>

この短歌の作者に最初に問いかけたのは,次の短歌です。

玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ(12-3211)
たまのをのうつしこころや やそかかけこぎでむふねに おくれてをらむ
<<正気でいられませんよ。多くの櫂を付けた船であなたは行ってしまわれ,残された私は..>>

この短歌は,男性が出発する日まで,港近くの旅籠で過ごした遊女が別れを惜しんで詠んだものではないかと私は思います。このくらい大袈裟に詠うことで,この間あなた様との接したことは忘れられないことでしたと伝えたかったと私は思います。
さて,最後は遣新羅使が瀬戸内海を航路で西に向かうとき詠んだとされる短歌です。

海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも(15-3613)
うなはらをやそしまがくり きぬれどもならのみやこは わすれかねつも
<<海原をたくさんの美しい島々を縫って来たのだが,奈良の都のことはどうしても忘れられない>>

この短歌の「島隠り」は,島を縫うように進んできたことを表すと私は思います。遣新羅使として,西に向かう航路において,京(みやこ)を出発してかなりの日数が経ち,ホームシックになっている状況が私には素直に伝わってきます。
次回は「山」に関する「隠る」を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(3)に続く。

2015年1月17日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1) 隠した雲が憎らしい

<自宅にったこの正月>
2015年正月もあっという間に過ぎ,この前の3連休は鏡開きの餅をたくさん食べ,正月休みにジムへ通って下げた体重が元に戻ってしまいました。というのも,2月中旬にソフトウェア保守に関する丸一日コースのセミナー講師を担当する予定で,その資料作成に3連休はほぼ潰れ,身体を動かすことがあまりできなかったのです。
このブログも3連休中にはまったく書けず,今書いている状況です。いろいろやり過ぎ感はありますが,元気な証拠だと自分を納得させています。
さて,今回からは動詞「隠(かく)る」「隠(こも)る」「隠(なま)る」を取りあげ,万葉集を見ていきましょう。
現代用語としても「隠れる」「隠す」といった言葉がしっかり残っいます。
<情報は隠されるから価値が出る>
情報化時代の昨今,個人情報,企業秘密情報,先端技術情報,そして,今年制度が動き出すマイナンバー制度(社会保障・税番号制度)の個人に紐づく番号など容易に他人に知られないように隠さなければならない情報がたくさんあります。
これから,善人悪人とってどうかはさておき,情報の価値がますます高くなっていきます。お金,貴金属,宝飾品,高級ブランド品などのように金庫などに保管することで財産が守られます。しかし,価値ある情報は「他人に知られないこと=盗まれない」ということになります。
即ち,情報を隠すことが,その価値を維持する唯一の手段ということになるのです。
一方,情報は価値を生むところで使う(または売る)ことで初めて価値を生みます。ところが,情報を使う,または売る行為は,その情報が無関係の他人に知られてしまうリスクをはらみます。
情報をうまく隠しつつ,使う,売るといったスキル,ノウハウが今後ますます重要になってきます。
秘密にすることを悪に感じる人がいます。また,知らされていないことで疎外感を感じる(仲間外れにされたと感じる)人もいます。さらに,何でも人にじゃべりたがる人がいますが,近い将来主婦同士の井戸端会議も活性化されなくなるかもしれません(それで,主婦のストレスはますます高まる?)。

天の川 「あんたの奥さん,最近機嫌悪いやんか。たびとはん? なんか奥さんにぎょ~さん隠し事してるのとちゃうか」

そうそう,バレると機嫌悪くなるようなヤバイ隠し事がいっぱい... ある訳ないでしょ!
でっ,でっ,では,はじめに万葉集で使われている「隠る」が入った熟語(枕詞も含む)を見てみます。

雨隠(あまごも)る‥雨に降りこめられる
磐隠(いはがく)る‥逝去する
浦隠(うらがく)る‥入江の中に隠れる
面隠(おもかく)す‥恥ずかしくて顔を隠す
雲隠る‥雲が隠す,雲に隠れる,逝去する
木の下(このした)隠る‥木の下に隠れる
島隠(しまかく)る‥島のかげに退避する
妻隠(つまごも)る‥屋,矢,小佐保にかかる枕詞

このように,隠す対象が何かによって「隠る」の意味が微妙に変化していることが分かるような気がします。
では,万葉集の和歌の中で最初は超有名な額田王(ぬかだのおほきみ)が詠んだとされる長歌とその反歌を見ていきましょう。

味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(1-17)
うまさけみわのやま あをによしならのやまの やまのまにいかくるまで みちのくまいつもるまでに つばらにもみつつゆかむを しばしばもみさけむやまを こころなくくもの かくさふべしや
<<三輪の山は奈良の山々の向こうに隠れるまで,道の曲り目が幾重にも重なるまで,ずっと見ながら行きたい山,目を離すことなく見続けたい山なのに,無情にも雲が隠すなんてことがあってよいものだろうか>>

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(1-18)
みわやまをしかもかくすか くもだにもこころあらなも かくさふべしや
<<三輪山をそんなに隠すのか。せめて雲にも情けがあるなら,隠すなんてことがあってよいだろうか>>

飛鳥宮(あすかのみや)から北に向かうと右手に三輪山が見えてきます。その姿は,何かしら荘厳で,穏やかで,心静まるものを当時の人たちは感じたのかもしれません。それを見ながら,北へ(例えば近江の大津宮へ)旅する人たちは,それを眺めながら楽しく向かいたいのだが,残念なことに雲が隠して見えない。この長短歌は,そんな情景を詠んだのかもしれませんね。
次は柿本人麻呂が詠んだとされる短歌です。

大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます(3-235)
おほきみはかみにしませば くもがくるいかづちやまに みやしきいます
<<大君は神であらせられるため,雷の丘に雲に隠れるほど高く,立派な宮をお造りになっておられる>>

この短歌は,同じ番号が振られている次の短歌の異本に出ていおり,忍壁皇子に贈ったとの伝説があると題詞にあります。

大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも(3-235)
おほきみはかみにしませば あまくものいかづちのうへに いほりせるかも
<<大君は神にあらせられるため,雷の丘の上に天雲にとどくほど高く立派な別荘を造られたなあ>>

明日香村に伝わっている雷の丘は非常に低い山です。そこで,この短歌について,あまりにも「よいしょ」した天皇賛美の歌で,人麻呂らしくない和歌だと評価する人もいるようです。私は,無理筋と云われるかもしれませんが,「天雲」「雲隠る」は「宮」または「庵」に係るとして訳しました。
そうすると,実際に山が低いとか高いとかはどうでも良くなり,「天皇は最高の神であり,まさに雷の神さえ従えているのです」と人麻呂はこの短歌で言いたかったのかもしれません。また,当時としてはよほど荘厳な建物が完成したのでしょうね。
今回は,隠す対象が「山」で,隠す側が「雲」を中心に見ていきました。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(2)に続く。

2015年1月4日日曜日

2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(3:まとめ)」 東国からの防人徴集は家持がやめさせた?

本スペシャルの最後は,万葉集で天平勝宝7(755)年:乙未(きのとひつじ)に詠まれたとされる和歌について見ていきます。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。

我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>

2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。

今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>

3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。

天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>

最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。

防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>

そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。

2015年1月3日土曜日

2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(2)」 家持,クニク(恭仁苦)の作?

今回は「未(ひつじ)」年に詠まれた万葉集の和歌の2回目として天平15(743:癸未<みづのとひつじ>)年に詠まれたとされるものを見ていきます。
天平15年は,5月に開墾した土地は永年自分の土地となるという「墾田永年私財法」が発布され,10月には「大仏造立の詔」が聖武天皇により出された年です。
大伴家持は25歳になっており,久邇京内舎人(うどねり:名家の子弟が担当する天皇の警備などを行う付き人)として働いていたとされる年です。
この年に詠まれたと明確に万葉集の題詞や左注で記されているのは,すべて大伴家持が恭仁(久邇,久迩)京で8月(新暦では9月)に詠んだ短歌6首です。なお,恐らくその年に詠まれたと推定できる和歌もありますが,今回は割愛します。では,家持の6首を一挙紹介します。
最初は久邇京を賛美した1首です。これだけが何故か巻6に納められています。

今造る久迩の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし(6-1037)
いまつくるくにのみやこは やまかはのさやけきみれば うべしらすらし
<<造営中の久迩の都は周辺の山川が清らかなのを見ると,ここに造ろうとされた理由が分かります>>

次の3首はおそらく久邇京の周辺の山野で秋萩を見て詠んだと思われる短歌です。なお,3首目ですが,新暦9月秋萩がちょうど盛りの時期なので,家持の問いかけはの答えとして,秋萩を散らしたのは牡鹿しかないということになります。
秋萩を久邇京,牡鹿を聖武天皇の譬えとすると,家持の気持ちの別の側面が見えてくるようです。

秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり(8-1597)
あきののにさけるあきはぎ あきかぜになびけるうへに あきのつゆおけり
<<秋の野に咲いている秋萩の花が秋風に靡き,その花の上が秋の露に光っている>>

さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露(8-1598)
さをしかのあさたつのへの あきはぎにたまとみるまで おけるしらつゆ
<<牡鹿が朝立ち寄った野辺の秋萩の花に玉のように美しく付いた白露よ>>

さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる(8-1599)
さをしかのむなわけにかも あきはぎのちりすぎにける さかりかもいぬる
<<牡鹿が胸で押し分けて通ったからだろうか。それとも萩が散ったのは盛りを過ぎているためだろうか>>

次の2首は,鹿の鳴き声を聞いて詠んだものです。

山彦の相響むまで妻恋ひに鹿鳴く山辺に独りのみして(8-1602)
やまびこのあひとよむまで つまごひにかなくやまへに ひとりのみして
<<やまびこが響き合うほど激しく鳴く山辺の鹿。たった一頭で>>

このころの朝明に聞けばあしひきの山呼び響めさを鹿鳴くも(8-1603)
このころのあさけにきけば あしひきのやまよびとよめ さをしかなくも
<<この季節,明け方に聞こえてくるのは山を響かせて牡鹿が激しく鳴く声>>

この2首も牡鹿を聖武天皇に譬えてしまうと,結局後の5首は「内舎人として久邇京に赴任したが,天皇は一向に来ない。いつも山(紫香楽宮)から強烈な通達が来るばかりだ。久邇京の造営は進まず,一部には荒れだところも出てきている。」といった心情が私には見えてきます。
以上6首は,ほぼ同じ時期に家持によって詠まれたとされますが,最初1首だけが別の巻に入れられたのは,その内容から分かる気がします。
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(3:まとめ)」に続く。

2015年1月2日金曜日

2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(1)」 お目出度いお正月ですが挽歌のご紹介です

2015年新春のお慶びを申し上げます。昨年は長期間休載した時期もありましたが,本年は継続して『万葉集をリバースエンジニアリングする』ブログアップしますので,よろしくお願いします。
さて,今年は未(ひつじ)年ですね。ただ,万葉集の中で「羊」を詠んだ和歌は残念ながらありません。
とういいうことで,万葉集で「未年」(天平3年,天平15年,天平勝宝7年)に詠まれたとされる和歌を3回に分けて紹介することにします。第1回目は「天平3(731)年辛未(かのとひつじ)」です。この年の七月大伴旅人は67年に渡る生涯を終えました。
次は,旅人が死の直前に詠んだとされる短歌のうちの1首です。

しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ(6-969)
しましくもゆきてみてしか かむなびのふちはあせにて せにかなるらむ
<<少しの時間でも行けるのなら行って見たい。神奈備川のあの淵は埋まって,今は浅瀬になってしまっていないだろうか>>

旅人はもう出かける体力が無くなり叶わないけれど,幼い頃父大伴安麻呂と一緒によく連れられて行って,泳いだ飛鳥の神なび川(飛鳥川?)の深い淵だが,長年訪ねていけず,今は土砂に埋もれて浅瀬になってしまっていないか最後に見届けてみたいという気持ちを読んでいるように私には思えます。最期を前にして,もう一度懐かしい良い思い出の地を訪ねて見てみたいという気持ちは十分理解できる気がします。
そして,旅人が亡くなったことを悼む短歌が,万葉集に6首残っています。すべて旅人の資人(つかひびと)であったという余明軍が詠んだとされるものです。「余明軍」は読み方が諸説あるようですが,朝鮮系の帰化人であったらしいということで音読みの「よ・めいぐん(ヨ・ミョンクン)」としておきましょう。
また,漢字が似ているせいか「余」ではなく「金(キム)」ではないかという説が古来の万葉集研究や写本などであったようです。しかし,最近の万葉集解説は「余」が正しいだろうとしているようです。
お目出度いお正月投稿ですが,その6首とも続けて紹介します。

はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを
<<名君であられた殿が生きておられたら昨日も今日も私をお召しになるでしょう>>

かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも(3-455)
かくのみにありけるものを はぎのはなさきてありやと とひしきみはも
<<これも世の定めか,(病床で)萩の花を咲いているかとお尋ねになった殿は今はおられない>>

君に恋ひいたもすべなみ葦鶴の哭のみし泣かゆ朝夕にして(3-456)
きみにこひいたもすべなみ あしたづのねのみしなかゆ あさよひにして
<<殿をお慕い続けてもやるせない。葦原で悲しく鳴く鶴のように泣くしかない。朝な夕なに>>

遠長く仕へむものと思へりし君しまさねば心どもなし(3-457)
とほながくつかへむものと おもへりしきみしまさねば こころどもなし
<<ずっと長くお仕えしたいと思っていました殿がおられないので,心の支えが無くなりました>>

みどり子の匍ひたもとほり朝夕に哭のみぞ我が泣く君なしにして(3-458)
みどりこのはひたもとほり あさよひにねのみぞわがなく きみなしにして
<<幼い子供が這いずり回って朝な夕なに繰り返し泣くように私は泣いています。殿がいらっしゃらないので>>

見れど飽かずいましし君が黄葉のうつりい行けば悲しくもあるか(3-459)
みれどあかずいまししきみが もみちばのうつりいゆけば かなしくもあるか
<<何度見ても尊敬できる殿が紅葉が散るように逝ってしまわれた。何と悲しいことか>>

以上ですが,側近ではなく,お召しの人物(資人)の一人が詠んだ短歌を弔いの歌として残した家持。父旅人の人柄に対する素直な尊敬の気持ちが表れているように私には感じられてなりません。
次回は,12年後の天平15年に詠まれたとされる万葉集の和歌を見ていきます。
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(2)」に続く。