2013年12月31日火曜日

年末年始スペシャル「越年の和歌」

万葉集には大晦日を意識して詠んだ和歌はないようです。しかし,12月に年明けを期待して詠んだ和歌はあります。たとえば次の大伴家持の短歌です。

あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鴬は鳴け(20-4490)
あらたまのとしゆきがへり はるたたばまづわがやどに うぐひすはなけ
<<年が変わり立春を迎えたら,どこよりも先にこの屋敷で鴬よ鳴くのだ>>

この短歌天平宝字元年12月18日三形王大伴家持の理解者のひとりか?)の邸宅で行われた宴で家持が詠んだものです。旧暦ですから,立春と正月はほぼ同じ時期でした。当時としてはウグイスも鳴き始めてる頃かもしれません。年が変わり春になることを期待している気持ちが良く伝わってきます。しかし,その年7月には橘奈良麻呂の乱があり,関係はなかったものの家持周辺の状況は厳しさが増していたようです。
そんな家持がその5日後に大原今城(家持と同ランクで気心も知れていた間柄か?)邸の宴席で次の短歌を詠んでいます。

月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか(20-4492)
つきよめばいまだふゆなり しかすがにかすみたなびく はるたちぬとか
<<月の数を数えれば,今はまだ冬である。とはいえ霞がたなびいている。立春を迎えたのか?>>

これは12月23日に家持が詠んだものです。後少ししたら年が変わる頃,かなり春めいて霞がたなびいている。天候は立春のようだという家持の気持ちを表していますように私は思います。
この年には今城は従五位下に昇進しています。先輩格(従五位上,少納言)の家持にとっては,嬉しいことだったに違いなく,年明けからの今城の活躍に対する期待が大きかったのかもしれません。
次は,大宰府の長官をしていた大伴旅人が天平2年12月6日京に帰任する宴で詠んだ短歌を紹介します。

かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて(5-881)
かくのみやいきづきをらむ あらたまのきへゆくとしの かぎりしらずて
<<このように嘆息ばかりついているのでしょうか,往く年来る年の際限もわからずに>>

旅人との別れを悲しんで,年が明けても溜息ばかりをついていると詠っているように私は解釈します。
この後の短歌で,山上憶良はため息をつかずに済むように春になったら京に呼んでくださいと詠んでいます。

我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね(5-882)
あがぬしのみたまたまひて はるさらばならのみやこに めさげたまはね
<<旅人様のお心遣いを賜って,春になったら都に私を召し上げてくださいませ>>

悲しい別れの中でも救いを示す憶良の心遣いのうまさを私は感じます。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(1)」に続く。

2013年12月28日土曜日

年末年始スペシャル「2013年本ブログを振り返って」

万葉集で12月に詠んだ和歌は何首もありますが,十二月という言葉を入れて詠んだ短歌は次の紀女郎が詠んだ1首のみのようです。

十二月には沫雪降ると知らねかも梅の花咲くふふめらずして(8-1648)
しはすにはあわゆきふると しらねかもうめのはなさく ふふめらずして
<<十二月には沫雪が降ることを知らないのでしょうか。梅の花が咲きました(蕾のままでなく)>>

旧暦の12月は新暦では1月下旬から2月上旬ですから梅は咲いてもおかしくありません。でも,雪が降ることも珍しいことではないので,こんな短歌になったのでしょうか。自分の年齢から開ききった梅の花に譬えているよう思えなくもないですね。
<この1年を振り返る>
さて,私は昨年の今頃と同様,今年もこの1年本ブログに投稿したことをまとめてみたいと思います。投稿数は昨年より少し多い62件になる見込みです(年内にまだ投稿する予定のため)。
2013年のアクセス数(閲覧件数)はおかげさまで2012年の年間アクセス数の1.7倍を超えることは確実な勢いです。特に,今月は今年の年頭に投稿した「新春の和歌(1)」~「新春の和歌(4:まとめ)」の4件にアクセスが集中して,12月としては今までにない大幅なアクセス数の伸び(前年同月の2.5倍超のアクセス数)となっています。また,2013年7月にはひと月のアクセス数が過去最高になりました。季節的な要素が原因かもしれませんが,その他の投稿もついでに詠んでいただける可能性があるので,素直に大変嬉しいと感じています。
<シリーズ物が好調>
2013年を振り返ると,1月の年末年始スペシャルの後,「今もあるシリーズ」に戻って投稿を進めました。2月になると「投稿5年目突入スペシャル」が割込みまとたが,ゴールデンウィーク(GW)の前まで「今もあるシリーズ」は続けました。GWに入ると『2013GWスペシャル「武蔵野シリーズ」』を投稿しました。その後,「心が動いた詞シリーズ」という万葉集に出てくる形容詞にスポットライトを当てた新企画を開始しました。8月から9月にかけては1件1件独立したテーマで「2013夏休みスペシャル」を投稿しました。9月中旬からは「心が動いた詞シリーズ」に戻りました。
そして,11月には投稿数がついに300回になったので,投稿300回記念特集「四国シリーズ」をお送りしました。
<年末の大阪出張>
私の仕事面では,一応昨日が仕事納めでした。それまでは年内に終わらせなければならないことが山ほどあり,かなり慌ただしかったのですが,何とか一息つけました。振り返ってみると2013年は大阪出張が多かった年でした。
今月25日,26日と年末の押し迫った時期にも関わらず,大阪に出張に行ってきました。出張での仕事が今回は思いのほか順調で,少し空いた時間を見計らって,大阪ミナミの法善寺横丁近くにある神座(かむくら)千日前店に寄って,白菜たっぷりラーメンにさらにネギをトッピングして食べました。
美味しかったです。

そして,写真はないですが,黒門市場にも行ってきました。なんと一匹20万円の巨大な天然クエ,1万円近くするトラフグ(てっぽう)がずらっと並んでいたり,さばく前のアンコウ丸ごとなど,冬の鍋物の高級食材が売られていました。
また,夜はキタの東梅田近辺の「お初天神通り商店街」や大阪駅内のレストラン街を散策しました。

来年も大阪には結構行くことになりそうですが,面白い場所があったら報告していきます。
年末年始スペシャル「年越の和歌」に続く。

2013年12月22日日曜日

投稿300回記念スペシャル(4:まとめ)‥四国特集(土佐)

投稿300回記念スペシャル(四国シリーズ)の最後を飾るのは,土佐(高知県)です。
私は,今まで行ったことがない都道府県は沖縄県と高知県です。行こうと思えば,いつでも行けるのですが,別に全国すべての都道府県を一度以上行くことを目標にしてわけでもなく,会社や研究会の出張,妻の旅先リクエスト,友人の誘いなどに積極的に応じてきた結果,たまたま沖縄と高知に行く機会がなかっただけなのです。五体が満足に動く間にはきっと行く機会があるかなと考えています。
さて,万葉集土佐を詠んだ和歌はすべて巻6に出てきます。土佐は当時流刑地だったようで,石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)が,密通により土佐に流罪になったときのことを詠んだものです。
乙麻呂はエリート官僚であったようですが,公卿の藤原宇合(ふじわらのうまかい)の未亡人であった久米若賣(くめのわかうり)という女性と宇合永眠の服喪中に密通をしたことで天皇の怒りをかい,未亡人は下総に,乙麻呂は土佐に流罪となったとのことです。
次の2首は,そんな乙麻呂の気持ちを詠んだとされています。

父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを
<<父に私は可愛がられた子であり,母に私は愛おしい子として育てられてきた。京へ参上する多くの人々が旅の無事祈るためにお供え物をする畏の坂で,私は幣を奉納して遠い土佐道を下って行くのだ>>

大崎の神の小浜は狭けども百舟人も過ぐと言はなくに(6-1023)
おほさきのかみのをばまは せばけどもももふなびとも すぐといはなくに
<<大崎の神が入らつしやるという浜は狹いけれど,そこを通る多くの舟人はその神に参ることなく通り過ぎることはない(私はそこに参ることすらできない)>>

余りにも弱気な内容なので,乙麻呂自身が詠んだのではなく,別人が本人のツライ気持ちを想像して詠んだのだろうと私は想像します。
または,密通するとこんな目にあうぞという教訓めいた創作(フィクション)歌だったかもしれません。その理由として,三つほど前に,本当は題詞に載せるような内容の長歌があります。

石上布留の命は 手弱女の惑ひによりて 馬じもの縄取り付け 獣じもの弓矢囲みて 大君の命畏み 天離る鄙辺に罷る 古衣真土の山ゆ 帰り来ぬかも(6-1019)
いそのかみふるのみことは たわやめのまどひによりて うまじものなはとりつけ ししじものゆみやかくみて おほきみのみことかしこみ あまざかるひなへにまかる ふるころもまつちのやまゆ かへりこぬかも
<<石上の布留にお住いで,お年寄りの上級官人のお方は,若い女性に心が惑い,馬のように繩を掛けられ,鹿のように弓矢で逃げないように警護されて,天皇の命令を受け,遠方に流される。連れて行かれる真土山の同じ道から帰ってこられればよいのだが>>

相手が未亡人で,寂しくしている様子から,心が惑ってしまい,許されない行為をしてしまうリスクがあることは男として分からなくもないですね。社会の規律を守らせる立場の高級官僚となれば,そういった誘惑を排除する強い自制心が必要だということでしょうか。

天の川 「あのな~,たびとはん? 『土佐の国』特集になってへんのとちゃうか? 高知県の人がえろ~怒るかもしれへんで。」

おっと,久々登場の天の川君が言うように,ちょっと興味のある方向に偏ってしまったようですね。
私は,港区の浜松町,豊島区の東池袋にあるお店(まったく別のお店)では鰹の美味しい土佐づくりを出してくれるので,ときどき行きます。
特に浜松町のお店は,稲わらを燃やして鰹の切り身の外側を焼きますので,稲わらの香ばしい匂いがしてまた格別です。私は魚介類の刺身は何でも好きですが,あっさりした鰹のたたきを生姜,ニンニク,浅葱,もみじおろしをたっぷり載せて,ポン酢で頂くのも大好物のひとつです。
五体満足なうちと言わず,できるだけ早い機会に高知県に行って,桂浜はりまや橋高知城ひろめ市場,足を延ばして,四万十川仁淀川足摺岬室戸岬龍河洞などに観光したいと考えています。
これで,投稿300回記念の四国シリーズを終わりにします。四国4県はそれぞれ特徴があり,周りの海は外海,内海,入江,渦潮が巻くような早戸など変化に富んでいます。また,温暖な気候で多種多様な農作物が豊富にとれます。
万葉時代には,知られている場所もほんの一部だけだったかもしれませんが,海洋技術の進歩で未開の土地(奈良盆地の京から見て)の開拓が進んでいったフロンティアだっと想像します。
さて,早いもので,今年ももう年末に近づきました。次回からは年末年始スペシャルをお送りします。
2013-14年年末年始スペシャル(1)に続く。

2013年12月16日月曜日

投稿300回記念スペシャル(3)‥四国特集(阿波)

今回は四国特集の3回目の阿波(徳島)を特集します。
<泡の思い出>
私は徳島市に2005年11月所属するソフトウェア保守の研究会の大会で訪問をしました。行きは前日大阪出張があったので,大阪から高速バスで明石海峡淡路島鳴門海峡経由で徳島に入りました。残念ながら移動は夜でしたので,海はほとんど見えませんでした。
大会中の食事は地魚,ワカメ,地元の野菜,柑橘類(特にスダチ)を使ったり,調味した料理を堪能したことを覚えています。大会終了後は,阿波踊り会館で阿波踊りを教えてもらい踊りました。
また,鳴門金時という地元の砂地で栽培されているサツマイモを市場で一箱買って,自宅に送ったりしました。
<今回の本題>
実は,万葉集で阿波の国をテーマとした和歌は船王(ふねのおほきみ)が天平6(734)年3月,聖武天皇難波の宮に行幸したときに詠んだとされる次の一首のみのようです。

眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて漕ぐ舟泊り知らずも(6-998)
まよのごとくもゐにみゆる あはのやまかけてこぐふね とまりしらずも
<<眉のように空に立って見える阿波の山を目掛けて漕ぐ舟は途中停泊することも知らずになあ>>

<「阿波」ってどこ?>
難波の宮(現在の大阪城外堀付近南側付近)から阿波の方向を見ても四国の山はおそらく見えません。途中には淡路島などの島があり,停泊する港はあります。難波の宮から海上の先に見えるのは精々淡路島の山くらいです。
なので,「阿波」は「淡路島」の「淡」のことで,実は淡路島の山ではないかと私は思ったのです。すなわち,「淡路」は「阿波路」のことであり,阿波へのみちにある島となれば,「阿波路の山」を略して「阿波の山」としたと言えるかもしれません。
ところが,「日本書紀」「古事記」では,淡路島は阿波の国より先に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)によってできたと記されているとのことで,当時の船王がそれを無視した「阿波の路」説は取りにくい。
ところで,「淡路」を「淡の地」であるとの説もあるようで,「淡の山」は「淡路島の山」と言えなくもありません。しかし,この説も苦しいのです。なぜなら「あわのやま」の原文(万葉仮名)は「阿波乃山」なのです。
当時,阿波という国は淡路島ではなく,四国にある国ということは周知されていたようで,やはり見えないけれど四国の山ととらえることになります。
結局,想像で阿波の山を詠んだのか,何かの喩えとして阿波の山,漕ぐ,舟,泊まるを詠んだのか謎は深まります。
<「阿波」は「粟」?>
私は,想像で四国の阿波にある山を詠んだとすると,船王の意図が想像できず後者を取りたいと思います。では,何の喩えか?
「阿波の山」は「粟の山」ではないか?
当時は「粟」のイメージは今よりずっと良く,「粟の山」と言えば「宝の山」に近かったのかもしれません。万葉時代より後年のことわざでも「濡れ手で粟」というのがあります。
それ(宝の山)を目指していくことはまさに聖武天皇の行政方針の喩えであり,休むことなく進んでおられる天皇を支えたいと考えているのはまさに船王の私です,といった意味のヨイショの短歌だったのかもしれません。
天の川君から「その解釈は無理筋とちゃうか?」と言われるのを覚悟で書いてみました。
投稿300回記念スペシャル(4:まとめ)‥四国特集(土佐)に続く。

2013年12月10日火曜日

投稿300回記念スペシャル(2)‥四国特集(伊予)

<同期と四国伊代路遊覧>
11月30日,大学の万葉研究会の同期の一部メンバーと四国に集まりました。
それぞれ,住んでいる場所(すべて四国以外に在住)や事前の行動予定が異なっていたため,次回投稿する阿波(徳島県)にある阿波池田駅で朝10時過ぎに集合し,私が高松空港で借りたレンタカーに同乗し,四国路を遊覧することになりました。
一行は,その日の宿泊地へまっすぐ行かず,愛媛県西条市の石鎚山駅付近から遠くの石鎚山の冠雪を眺め,それから瀬戸内海沿いの今治市に寄り,来島海峡に掛かっている来島海峡大橋(しまなみ海道)が一望できるレストランで少し遅い昼食を取りました。

写真は展望台からのものです。
その後は国道196号線の旧道を走りました。以前は私は松山から今治まで今回とは逆方向にレンタカーで走った経験があります。
同乗者たちは早く着けるバイパスを行くのだろうと期待していますが,私は以前一度走ってこの旧道が好きになったので,期待に添わず構わず旧道を選択しました。なぜ好きになったかというと,この道はずっとお店や家が途切れなく続き,時々家が途切れる場所があると瀬戸内海が見え隠れするからです。それでいて,渋滞はあまりありません。バイパスに地元の自動車が走るせいもあり,さらにとにかく信号が少なく走りやすいのです。
途中の「道の駅」駐車場からは,瀬戸内海斎灘)の先の島々が,何と蜃気楼だと思いますが浮いて見えました(次の写真)。

同乗者たちも,しばし見とれていました。
夕方近くに松山市内に入り,車を繁華街の大街道付近にある宿泊予定のホテルに置き,何人かで道後温泉に繰り出しました。
道後温泉には人が多く(土曜の夜だから当然),とてもゆっくり入れそうにないので,夜の入浴はあきらめ,道後温泉前のアーケードでお土産のウィンドウショッピングと,居酒屋に入り,地魚を中心とした刺身,焼き物,煮魚を食べました。
翌早朝,参加者で道後温泉本館の朝ぶろに入りました。日曜の朝は,さすがに人は少なく,浴室にはまばらな人しかいませんでした。

アルカリ性の高い肌によさそうな温泉のお風呂から上がると,借りた浴衣を着て,休憩室で,入浴とセットになっているお茶とお菓子を食べながら,ゆったりと談笑しました。
ホテルに戻って朝食を食べ,観光定番の松山城に上りました。本丸近くまでは上下ともロープウェイではなくリフトに乗りました。クリスマスが近いとあって,リフトにはサンタクロース(人形ですが)も乗っていました。


その他,松山城で撮った写真をいくつか紹介します。

また,ロープウェイとリフト乗り場には,司馬遼太郎作の小説「坂の上の雲」をイメージした大きな壁画が描かれていました。

松山市最後の訪問地は愛媛万葉苑近くにある次の有名な万葉集に出くる短歌(額田王作とされている)の歌碑に寄りました。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)

実は,万葉集に出てくる伊予の国の和歌4首はすべて熟田津を題材にしたものです。
また,他の3首はすべて上記の短歌を意識したものと言えそうなものです。なお,2012年1月4日に投稿した『私の接した歌枕(14:松山)』では紹介していない山部赤人が詠んだとされる長歌1首を紹介します。

すめろきの神の命の 敷きませる国のことごと 湯はしもさはにあれども 島山の宣しき国と こごしかも伊予の高嶺の 射狭庭の岡に立たして 歌思ひ辞思はしし み湯の上の木群を見れば 臣の木も生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の声も変らず 遠き代に神さびゆかむ 幸しところ(3-322)
すめろきのかみのみことの しきませるくにのことごと ゆはしもさはにあれども しまやまのよろしきくにと こごしかもいよのたかねの いざにはのをかにたたして うたおもひことおもはしし みゆのうへのこむらをみれば おみのきもおひつぎにけり なくとりのこゑもかはらず とほきよにかむさびゆかむ いでましところ
<<神である天皇が治めている国中に温泉はたくさんあるけれども,特に島や山の景色が優れた国である伊予の険しい高嶺にある射狭庭の岡に天皇は立たれ,歌を考え言葉を選ばれた。この温泉の木々を見ると,臣の木も生い茂り,鳴く鳥の声も変わらず,遠い未来まで、神々しくなってゆくだろう,この行幸)の跡は>>

この後の反歌で赤人は,この温泉がある伊予の美しい風景や豊かな自然,そして轟轟しい峰々はずっと変わらないけれど,舒明天皇斉明天皇のよる行幸が盛んだった当時のように大宮人で賑わった姿は今はないと詠んでいます。まさに諸行無常(仏教用語:万物は常に変化して少しもとどまらないとの意)だということを赤人は言わんとしているのだと私は感じます。もちろん,天皇を神とあがめて,咎(とが)めをうけることを回避しつつですが。
今回伊予路を大学時代の友と回って,近代文明により大きく変化している部分と千数百年変わらない部分の共存を,赤人の和歌を思い,感じた次第です。
投稿300回記念スペシャル(3)‥四国特集(阿波)に続く。