2010年12月31日金曜日

私の接した歌枕(2:鏡の山)

私が4歳から18歳まで住んでいた京都市山科区には,万葉集の歌枕として天智天皇御陵(みささぎ)があります。
この地を知らしめたのは,万葉集巻2に出てくる額田王が詠んだ次の長歌です。

やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ(2-155)
やすみしし わごおほきみの かしこきや みはかつかふる やましなの かがみのやまに よるはも よのことごと ひるはも ひのことごと ねのみを なきつつありてや ももしきの おほみやひとは ゆきわかれなむ
<<亡き帝(みかど)が恐れ多くもお眠りなっている山科の鏡山で昼夜を分かたずずっと泣きくれていたが大宮人達ももう去ってしまうのだなあ>>

天智天皇の御陵の後ろに控える山が鏡の山です。地元では鏡山(かがみやま)と呼んでいます。
私の通っていた小学校(勧修小学校)とは違う学校ですが,鏡山小学校という名の小学校が天智天皇陵の近くにあります。
鏡山小学校のホームページを見ると生徒が鏡山に登るイベントがあり,頂上から山科盆地を見ながらお弁当を食べたというレポートが載っていました。
<琵琶湖疎水での水泳>
私が小学生のころは,明治中期に山科の北の山沿いを切り開いた琵琶湖疎水でまだ水泳ができました(今は遊泳禁止)。夏,ひと際暑い京都ですから,小学校の夏休みには疎水まで毎日のように自転車のペダルをこいで自宅から20分くらいかけて泳ぎに行きました。
疎水で泳げる場所(諸羽<もろは>ダムと呼ばれた水路を広げ,流れが緩やかな場所)から鏡山小学校は遠くありませんでした。
<怖い京都の地名>
一度友達とその水泳の帰りに鏡山小学校の前を通ったのです。ところが,その住所が山科血洗町となっているのをみて,「ケツ洗いやて,この学校けったいな地名に建ってるな~。」と友達と大笑いながら通り過ぎました。
家に帰って,夕食時に父にそんな話をしたら「あまえな~,笑ろてる場合やあらへんで。本当はえらい怖い地名なんや。洗ろたんは何の血やというたらな,..」と父の真夏の怪談が始まったのを覚えています。
京都には,こんな恐ろしい地名がほかにも残っていますが,京都人はそのまま残すのも伝統保存として気にしないし,逆にパワースポットとして観光客を呼び込むしたたかさを持ち合わせているのかもしれませんね。
<天智天皇の御陵駅>
天智天皇陵の近くの電車の駅名にまさに「御陵(みささぎ)」という名の駅があります。
私が山科に居た時は,京阪電鉄の京津線の駅でした。しかし,1997年に京都市営地下鉄東西線の開通により,御陵駅以西の京津線の駅が廃止され,今は東西線と相互乗り入れする地下駅となっています。
旧御陵駅は踏切を挟んで京都三条方面と浜大津方面でホームが別れていた珍しい駅でしたが,もう見られません。
さて,天智天皇陵古墳は,考古学的にも現在の場所(京都市山科区御陵)でほぼ間違いないといわれているようです。
天智天皇は大津に都を造るため,何度も明日香から山科の地を通過したのに違いありません。途中の休憩(宿泊)場所として,山科に大きな別荘を建てたのだろうと私は想像しています。
しかし,壬申の乱で大津の宮が都でなくなり,山科もしばらくは寂しい状況となり,山の麓にある天智天皇陵はひっそりと木に覆われて行ったのでしょうか。
では,私が大学に入る前まで過ごしていた山科の歌枕はこのくらいにします。次から山科以外で私の印象に残った歌枕を紹介していきます。
私の接した歌枕(3:富士の高嶺)に続く

2010年12月30日木曜日

私の接した歌枕(1:逢坂の関)

私の生まれたところは京都市伏見(ふしみ)区近鉄京都線桃山御陵前(ももやまごりょうまえ)駅の近くでした。その後4歳の時,親が山科(やましな)区(当時は東山区山科)栗栖野(くりすの)というところに引っ越し,そこで18歳まで過ごしました。
伯父が滋賀県大津市の京阪石山(いしやま)駅近くで鍼灸院を営んでいました。京阪山科駅から京阪電鉄京津(けいしん)線,石山坂本線経由で京阪石山駅まで電車に乗って,頻繁に伯父のところに遊びに行きました。
その途中,京阪山科四宮(しのみや)追分(おいわけ)という駅を過ぎ,登り勾配を上っていき,次の大谷(おおたに)駅で最高地点に達します。そこからトンネルを抜けると一気に琵琶湖沿岸の浜大津まで電車は下ります。この大谷駅辺りが逢坂の関があったところだと,よく一緒に伯父のところに遊びに行った兄から何度か教えられたことがあます。
伯父の家では正月親戚が集まると決まって百人一首の歌留多取りが行われていました。
さすがに,小学校の低学年までは見ているだけで参加できませんでしたが,小学校高学年頃になると大人に枚数では勝てなくても,確実に何枚かは取れるようになりました。
特に,逢坂の関や逢坂山(関近くの山)を詠んだ短歌は次の3首は,どれも取るのが得意な(最初1~2文字を聞いただけで下の句の歌留多を取れる)短歌でした。

これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関(百人一首10:蝉丸
<<これがあの有名な(京から)出て行く人も帰る人も皆ここで別れ、知り合いも知らない他人も、そしてここで出会うと言う逢坂の関なのだなあ>>

名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな(百人一首25:藤原定方
<<恋しい人に逢える「逢坂山」、一緒にひと夜を過ごせる「小寝葛(さねかずら)」その名前にそむかないならば、逢坂山のさねかずらをたぐり寄せるように、誰にも知られずあなたを連れ出す方法があればいいのに>>

夜をこめて 鳥の空音は謀るとも よに逢坂の関は許さじ(百人一首62:清少納言
<<夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。(だまそうとしても、決して逢いませんよ)>>

やはり,近くに逢坂の関というなじみの地名があると覚えやすいのかも知れません。
逢(おふ)坂を逢(あ)う坂に掛けるという意味も生まれが関西の私にとって,理解はあまり苦にならなかったのです。
関西弁では,会うことを「おう」と発音する場合が普通にあるからです。
たとえば,関西のお父さんがかわいい一人娘と付き合っている男がまったく気に入らないとき,そのお父さんが言うセリフを天の川君にやってもらいましょう。

天の川 「あんな甲斐性無しのたびとみたいな男と金輪際会(お)うたらアカン。今度会(お)うたら,家から絶対出さへんさかいな!」

おいおい,天の川君「たびとみたいな」だけは余計だよ。でも,迫真の演技だったね。

天の川 「そらそうや。たびとはんの相手がそう言われたんやろ?」

さっ..,さて,万葉集の話題に移ります。万葉集では逢坂の関は出てきません(但し,関所は万葉時代にすでに開設されていたようです)。逢坂山は6首の長短歌に出てきます。
そのなかで,次の1首は私が少年時代に住んでいた近くの地名をたくさん詠んでいて,私を懐かしい気持ちにさせる長歌です。

そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山背の 管木の原 ちはやぶる 宇治の渡り 瀧つ屋の 阿後尼の原を 千年に 欠くることなく 万代に あり通はむと 山科の 石田の杜の すめ神に 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を (13-3236)
そらみつ やまとのくに あをによし ならやまこえて やましろの つつきのはら ちはやぶる うぢのわたり たぎつやの あごねのはらを ちとせに かくることなく よろづよに ありがよはむと やましなの いはたのもりの すめかみに ぬさとりむけて われはこえゆく あふさかやまを
<<奈良の都から平城(なら)山を越えて山城(今の京都府)の菅木(つつき)の原に入り,宇治川を渡り,阿後尼(あごね)の原に入り,これからもずっとこの道を通えるようにと山科の石田(いわた)の社(やしろ)の神に幣を手向け,私は越えて行きます逢坂山を>>

この長歌は男性が好きな女性の家に逢いに行くこと(妻問い)の大変さを逢坂山を例えにしている(実際には行ってはいない)和歌と読めるかもしれません。
それでも,素直に大和の都から近江の国までの紀行を詠んだ長歌と解釈すると,作者は石田の杜で旅の安全とまた何度もこの道を通れるように祈った後,おそらく私が住んでいた近くを南から北へ行き,やがて厳しい山道である逢坂山(関)を越えて近江を目指したのでしょう。
山科には,南北を貫く街道がいくつかあります。比較的歴史がある街道として,大津街道(京都府道35号線),醍醐街道(京都府道117号線),川田道西野道などがあります。
この中には,万葉時代の後に造られた街道もあると思いますが,山科が奈良から近江や東国に行く交通の要所であり,逢坂山がまさに幾筋もの街道が集まってくる場所で,関所として好立地だったのもうなづけます。
ここで,厳しい検問を行うことで,都からの亡命者,逃亡者,東国からの工作員などがいないか,チェックしたのでしょう。
検問もさぞ厳しかった上に,通過する人が多く,通過するまでに時間(日数)が掛かったのかもしれません。
律令制という階級制度と複雑な人間関係の中で,恋に落ちた2人が逢うこともままならない状況と逢坂の関や逢坂山を越えることの厳しさを比喩する表現が万葉集の時代から定番だったような気がしています。
私が万葉集と接するとき,地の利がやはりあるのかも知れませんね。
私の接した歌枕(2:鏡の山)に続く

2010年12月25日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…匂ふ(3:まとめ)

「匂ふ」の最後は,「似合う」という意味になるものついて述べてみます。
次の万葉集に出てくる短歌は,花を原料とした衣服の色をテーマとした恋情歌です。

山吹の匂へる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ (11-2786)
やまぶきの にほへるいもが はねずいろの あかものすがた いめにみえつつ
<<山吹色の似合う美しいあの娘の、はねず色の赤い裳(も)の姿を夢に見ています>>

はねず色はピンクに近い(少し濃い)色を指したようです。
山吹色の似合うあの子はきっとピンクの裳(万葉時代で腰から下に着けたスカートのような衣装)も似合うだろうなと感じている男性の短歌です。
作者の男性にとって,まぶしい存在の彼女に,ささげた短歌かも知れません。
<母校での講義>
さて,この前の土曜日,私が大学時代に参加していた万葉集研究サークルの顧問の先生から,大学の公開講座に参加してくれる人達が集まって開くファミリーなシンポジウムで話をしてほしいという依頼があり,そのシンポジウムに参加するため,母校に行ってきました。
日本文学科の大学院生2人が,順に事例を使った「万葉集が源氏物語に現れる短歌にどう影響したか」という主題テーマの発表後,私は「万葉集から今の私たちは何を学ぶべきか」というタイトルで話すことになっていました。
参加者は,首都圏周辺から来た少し年配の女性が大半でした。みなさん本当にお元気で,向学心溢れる姿で大学院生の発表や私の話を聞く姿は,まさにまぶしい存在そのものでした。
また,鮮やかな色の着物を着て来られた方や今風の服を上手に着こなしておられ,まさに「匂ふ」(似合う)方がたくさんいらっしゃったように感じました。
<質問の嵐>
私は40分ほどこのブログで書いている内容をベースに「万葉集から今の私たちは何を学ぶべきか」の話をしました。20分ほど質疑応答の時間を用意しましたが,質疑応答の時間が全然足りないほど質問が出ました。シンポジウム終了後の懇親会でも万葉集について活発な議論がされ,中には答えに窮する鋭い質問もあり,参加者の熱心さが伝わってきました。
議論のテーマとしては,「枕詞」「花(スミレ,タチバナ,ウメ,サクラ,ハギなど)について」「防人の歌」「東歌」「相聞」などでした。
特に,次の山部赤人の有名な短歌を題材に「万葉集の読み方」について議論が盛り上がりました。

春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける(8-1424)
はるののに すみれつみにと こしわれぞ のをなつかしみ ひとよねにける
<<春の野にスミレを摘みに来た私は,野が非常に綺麗だったので,一夜そこで寝てしまったよ>>

「いくらスミレが綺麗でもその場で野宿するとは考えられないよ」
「いや,万葉集は素直に言葉通り(野宿したと)読むべき」
「スミレは女性の例えで,スミレのような可愛い女性と夜を共にしたという解釈が妥当だろう。妻問いの風習の婉曲表現に違いない」
「いや,いや,赤人は自然派詩人であり,赤人の和歌は裏の意味(含意)を想像せず,やはり素直に受け取るべき」
「万葉集の和歌を,表面の言葉のみにとらわれず,含意をさぐるのもおもしろいのでは」

懇親会で参加者から「さて,たびとさんはどう思う?」と振られたのですが,かなり酔っぱらっていた私は「わっわっ私は~,まっまっまずは~,言葉通りに意味を考える方で~す~。ウィッ。」と答えてしまったと記憶しています。
翌日,酔いが醒めてこのブログを振り返ってみると,結構紹介した和歌の「含意」を勝手な感想として述べてきています。
天の川に『はびとはん。いつも言うてることと,やってることとちゃうやんか』と言われそうです。
<「べき」論で片付ける「べき」でない万葉集>
それでも,万葉集は「□□のように解釈すべきだ」とか「べき論」で意味を分析したり,鑑賞したりするのではなく,「素直に」感じたまま接するのが「似合う」和歌集だと今の私は心底思っています。
ちなみに,題詞,左注,時代背景,作者や登場人物の立場などは「素直に感じるための要因(パラメタ)のひとつ」であると考えているため,和歌の表現に無い「含意」めいた話を出してしまうことはあるのかもしれませんね。

さて,今年も後わずかです。少し「動きの詞シリーズ」はお休みします。年末年始スペシャルとして「私が接した歌枕」を何回かお送りします。
次回はその最初として歌枕「逢坂の関」を紹介します。お楽しみに。

2010年12月19日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…匂ふ(2)

今回は,「匂ふ」が3回出てくる珍しい万葉集の短歌を紹介します。
この短歌では「匂ふ」を「染まる」と訳すと現代人にも分かりやすいかもしれません。

住吉の岸野の榛に匂ふれど匂はぬ我れや匂ひて居らむ(16-3801 )
すみのえの きしののはりに にほふれど にほはぬわれや にほひてをらむ
<<住吉の岸野の榛で衣を染め上げようと心を染めようとてしても染まないわたしだけれど,あなたの考えには染まりそうです>>

この短歌,竹取の翁が9人の若い娘たちに昔の経験を話したところ,9人の娘たちが感動し,返歌した9首のなかの1首です。
万葉集に出てくる竹取の翁は,あの竹取物語に出てくるストーリの翁とは異なります。
翁の元の長歌(一部)は,2009年7月14日の当ブログの投稿を参照ください。
この短歌の最後の「匂ふ」は,影響を受ける(influence)に近い意味でしょうか。
このブログで今年の6月下旬から3回,「染む」で布が徐々に染まっていくイメージが,人がある考えに少しずつ感化されることを示していると私は書きました。
「匂ふ」も最初は僅かな香りが徐々に強く感じていき,最後にはその香りで包まれてしまうイメージが,同じく人が感化されていく姿を示しているのかも知れません。
すなわち,あなたの匂い(考え)に包まれていくことを万葉時代には「匂ふ」を使ってうまく表現している例と考えられます。
<「」は漢字ではなく,国字>
ところで,「匂」という漢字は日本で発明された字(国字)です。
「ファミリーレストラン」「チャイナドレス」「ガッツポーズ」「スキンシップ」「プッシュフォン」「フリーダイアル」など,和製英語に分明される言葉がありますが,「匂」は和製漢字(国字)なのです。
和製漢字は日本で創られた漢字なので音読みが存在しません。「匂」のほか,「峠」「辻」「笹」「栃」「畑」「畠」「躾」「凧」「枠」などが和製漢字です。
さて,私のブログに失礼なコメントばかりする天の川に少し「躾」をしますか。
おい,天の川! 「加齢臭」とは何と失礼な!もう少し,..。 あれ? 天の川のヤツ,私の怒りの匂いを感じてどこかに隠れてしまったな。
匂ふ(3:まとめ)に続く。

2010年12月12日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…匂ふ(1)

前回までの「立つ」は多くの意味を持つ言葉でしたが,「匂(にほ)ふ」もなかなかいろいろな意味を持つ言葉です。
現在では,「臭う」のイメージがつきまとい,話し言葉ではあまり良いイメージの言葉になっていないのかも知れません。
しかし,万葉集から推測するに万葉時代では臭覚で感じる匂いだけでなく,もっと広い意味で使われているようです。
たとえば,ある色に染まることやその色に似合うことを「匂ふ」の表現を使って表したり,鮮やかな色が美しく映える状態を「匂ふ」と呼んだり,生き生きとした美しさなどが溢れる姿を「匂ふ」とも表現しました。
まず,今回は「匂ふ」を詠んだ,どれもあまりにも有名な短歌3首を紹介します。

紫の匂へる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも(1-21)
むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆゑに われこひめやも
<<紫色が美しくお似合いの貴女が憎らしいと思ったとしても,人妻であることが理由で私が貴女を嫌うことがあるでしょうか>>

あをによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり(3-328)
あをによし ならのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり
<<奈良の都は満開の花のように美しく活気が溢れて,今は本当に栄えていますよ>>

春の園紅匂ふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)
はるのその くれなゐにほふ もものはな したでるみちに いでたつをとめ
<<春の庭園で桃の花が照らす下道に立っている紅色がよく似合う娘子たちよ>>

1首目は大海人皇子が蒲生野で額田王に向け詠んだ歌,2首目は小野老が筑紫で大伴旅人に向け詠んだ歌,3首目は大伴家持が越中で詠んだ歌です。
「匂ふ」がいかに良いイメージの言葉だったかをこれらの短歌を鑑賞して分かって頂けると思います。

私も落ち着いた色のジャケットが「匂ふ」(似合う)ようなセンスを持ちたいものです。

天の川 「たびとはん。その前にあんたの加齢臭何とかせ~へんとあかんのとちゃう?」

匂ふ(2)に続く。

2010年12月5日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…立つ(5:まとめ)

さまざまに意味を持つ「立つ」について,今回で一区切りをつけることにします。
「立つ」の連用形で次に動詞を修飾している言葉が次のように万葉集にたくさん出てきます。

立ち栄ゆ(たちさかゆ)…草木などが茂り栄える。時を得て繁栄する。
立ち候ふ(たちさもらふ)…立って警備に奉仕する。
立ち重く(たちしく)…重なり立つ。
立ち撓ふ(たちしなふ)…しなやかに立つ。
立ち立つ(たちたつ)…盛んに立ちのぼる。盛んに飛ぶ。
立ち動む(たちとよむ)…どよむ。さわぐ。
立ち嘆く(たちなげく)…立ってため息をつく。
立ち均す(たちならす)…地面を踏みつけて平らにする。その場に常に行き来する。しばしば訪れる。
立ち走る(たちはしる)…立って走る。走り回る。
立ち向かふ(たちむかふ)…立って向かう。対抗する。敵対する。
立ち徘徊る(たちもとほる)…歩き回る。行きつ戻りつする。
立ち行く(たちゆく)…立って行く。出発する。
立ち装ふ(たちよそふ)…装う。周りを飾る。
立ち別る(たちわかる)…別れていく。別れ去る。

このように,万葉集で「立つ」は多様な使われ方をしています。
「立つ」をテーマとした最後として柿本人麻呂作の有名な短歌を次に紹介します。

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(1-48)
ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ
<<東の方向の野に陽炎の出ているのが見えて,後ろを見たら月が西方に沈みかけている>>

軽皇子(後の文武天皇持統天皇の孫)が狩のため,阿騎の野に宿営したときに人麻呂が詠んだ長歌に続く短歌の1首です。
東の方が明るくなって,太陽が昇る前兆の陽炎が見えてきた。これは,これから軽皇子が時代が来るという明確な前兆を示す。
反対側では満月の月が西に沈みかけようとしている。これは,父君の草壁皇子が亡くなったことを示していると考えられます。
軽皇子は恐らく10歳過ぎの年齢であるが,将来の天皇家を担う皇子として,周りが次期天皇の第一候補として讃嘆している情景が浮かびます。
「立つ」の意味が広いため,「陽炎が立つ」が軽皇子の立太子を暗示していたのかも知れません。
この後,軽皇子は15歳で立太子,祖母の持統天皇から譲位され,文武天皇となります。
持統皇太后後見の下10年間在位したが,崩御し,母親の元明天皇(奈良時代最初の天皇)が後を継ぐことになります。
そして,元明天皇は娘に譲位し,2代続けて女性の天皇(元正天皇)が続くことになります。
ようやく文武天皇の第一皇子が育ち,再び男性天皇の聖武天皇が即位し,まさに天平時代を迎えるのです。
匂ふ(1)に続く。

2010年11月27日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…立つ(4)

本シリーズでは,テーマとするひとつの動詞に対し,通常3回で完結としています。ただ,今回の「立つ」は万葉集でもさまざまな意味で使われるため,4回目になってもまだ終わりません。
今回は今の表現でいうと「ジェット機が轟音を立てて離陸する」や「寝息を立てる」という表現となる,なんらかの音を「立てる」について考えてみましょう。
大伴家持が天平勝宝8年2月24日37歳の頃,難波の運河の傍(そば)で詠んだ次の短歌を紹介します。

堀江漕ぐ伊豆手の舟の楫つくめ音しば立ちぬ水脈早みかも(20-4460)
ほりえこぐ いづてのふねの かぢつくめ おとしばたちぬ みをはやみかも
<<運河を漕いで行く伊豆製の船の強く握った櫂(かい)が何度も音を立てているのは,水の流れが速いのかもしれないぞ>>

この頃家持は,難波で防人の検校(けんぎょう)の任に就いていたようです。家持の難波での宿舎または詰所は運河のそばにあったのかも知れません。
運河を通る船の上部しか見えないけれど,櫂をこぐときに櫂を通す穴とすれる音はいつも聞こえていたのかも知れません。
伊豆の国で造営された優秀なブランド船なのに,櫂をこぐ音がいつもと違い,力が入っていて,続けて音を立てて聞こえるのは,よほど運河を流れる水の流れが速いに違いないと家持には感じられたのでしょうか。
海の近くに掘られた運河は,潮の満ち引きや接続する川の水量の影響で,時として船を進めるのが難渋するほどの流れになることもあったのだと私は想像します。
その船の櫂や艪(櫓)を漕ぐときに,それらを支える部分との摩擦音として「立つ音」で想像する観察力や表現力は家持ならのものでしょう。
ただ,家持が「立つ音」の変化から「水脈早みかも」とした意味をもう少し深読みすると,船は防人を運ぶ船で,急に防人への徴兵数が増えてきたこと示そうとしている可能性もあるのではと私は推理します。
この後に続く2首は,家持が同時に詠んだ奈良の都を偲ぶ望郷の短歌です。

堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける(20-4461)
ほりえより みをさかのぼる かぢのおとの まなくぞならは こひしかりける
<<運河の水流を溯る櫂の音が休む間もないように私はいつも奈良の都を恋しいと思っている>>

舟競ふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも(20-4462)
ふなぎほふ ほりえのかはの みなきはに きゐつつなくは みやこどりかも
<<舟が並んでいる運河の水際に来て居ついているのは都鳥だろうか(そうなら都が偲ばれる)>>

単身赴任だったと思われる家持は,防人の検校の処理が増え,なかなか都には帰れず,妻ともしばらく逢えずにいる寂しさを表している可能性もあります。
私は,この短歌から,在原業平隅田川の今の言問橋付近(ちなみに近くでは東京スカイツリーが建設中です)で詠んだという次の伊勢物語にでてくる短歌を思い出しました。
ただ,家持が難波の運河で詠んだ都鳥と業平が隅田川で詠んだ都鳥が同じ鳥だったかどうかは定かではありません。

名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと(伊勢9段)
なにしおはば いざこととはむ みやこどり わがおもふひとは ありやなしやと
<<都という名を持っているなら、さあ尋ねよう、都鳥。私の恋しく思っているあの人は無事なのかと>>

立つ(5:まとめ)に続く。

2010年11月22日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…立つ(3)

今回は,万葉集に出てくるについて書いてみます。

天の川「あれ?『立つ』の話とちゃうのかいな? たびとはん,本当はもうネタ切れやろ。」

久しぶりに出てきたね,天の川君。ネタ切れなんかしてないよ。橘は「立ち花」と読めないかね。

天の川「そんなん無理なコジツケとちゃう?」

天の川の突っ込みは,放っておいて先に進めましょう。
昨年10月5日にこのブログで紹介した大伴家持越中で詠んだ橘の長歌の一部を紹介します。
この長歌全体の意味は昨年10月5日のブログを参照ください。

田道間守 常世に渡り 八桙持ち 参ゐ出来し時 時じくの かくの木の実を 畏くも 残したまへれ 国も狭に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝萌いつつ (中略) 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐なす いやさかはえに ~(18-4111)
<~たぢまもり とこよにわたり やほこもち まゐでこしとき ときじくの かくのこのみを かしこくも のこしたまへれ くにもせに おひたちさかえ はるされば ひこえもいつつ (中略) ふゆにいたれば しもおけども そのはもかれず ときはなす いやさかはえに ~>
<<~田道間守(たぢまもり)という人が,常世の国に渡り,いつも芳しい香りがする木の実(橘)を持ち帰られ,日本の国狭しと生え栄えている。春には新芽が萌え(中略)冬になっても,葉は枯れず緑のままで盛んに繁っている~>>

田道間守が,橘の実を日本に持ち帰って植えたところ,国狭しと茂り栄えて,その美しさといつも新鮮な姿や香りで,四季折々に私たちを楽しませ,勇気づけてくれている家持は礼賛しています。
「生立ち栄える」とはまさに「繁栄する」という言葉の原義に同じだと私は感じます。
<大学同窓会参加記>
さて,昨日私は母校の大学で開催されたある同窓会に参加しました。参加者は企業や団体において,一線で活躍している人達が集まる同窓会でした。
私のようにかなり前に卒業したOBだけでなく,最近卒業したOB・OGもたくさん来ていて,大学の講堂満杯の総勢4~5千人が集まりました。
同窓会では卒業生のさまざまな活躍事例が紹介され,社会への貢献と今後卒業していく学生へもみんなで力を合わせて支援していこうということになりました。
1975年に僅か数百名の卒業生を最初に出して以来,35年後の今,多くの企業,団体でトップや幹部職になっている人達が次々と増えている実感が湧きました。
まさに,家持の長歌の如く,次々と「生立ち栄える」という言葉が当てはまる勢いの同窓会でした。
さらに,講堂での同窓会前後に各方面で活躍している同窓生とも再会もでき,楽しい時間を過ごせました。同窓生の昨今の経済状況の悪さに負けず真面目な職場への取り組みに励まされ,私も頑張っていこうという気持を新たにしたのです。
写真は,小春日和の中,紅葉が美しいキャンパスを久しぶりにゆっくり散策でき,撮ったものの一枚です。

立つ(4)に続く。

2010年11月14日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…立つ(2)

現在では,「立つ」のイメージは「ビルがそびえ立つ」「人が直立する」「木が林立する」「岸壁が切り立つ」といった限定されたイメージの傾向が少し強いのではないでしょうか。
でも,私たちはそういった上方向に立つはずのないものに「立つ」を付けた言葉を普段何気なく使っています。
たとえば,「目立つ」ですが,眼は上方向に立ちませんね。
「思い立つ」は決心することで,何かが立つわけではありません。
「立つ」の他動詞「立てる」だともっと分かりやすい例があります。
「計画を立てる」は,計画書を横に寝かせないで縦に立てておくという意味ではありません。
「検察はビデオ流出事件を暴き立てる」は,検察官が椅子に座らずに立った状態で関係者の取り調べることを示している訳ではありません。
「茶を立てる」は,縁起が良いように茶の葉を立てて淹れることでもありません。
このように「立つ」「立てる」の広い意味を区別するため別の漢字をあてることもよく行われます。
「茶を立てる」を「茶を点てる」と書くようにです。

さて,万葉集では,「立つ」「立てる」という動詞を使った和歌が何と400首ほどあります。
用例も多様で,見飽きることがありません。
その中で,面白い表現が東歌の中にありましたので紹介します。

赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の子らはも (14-3534)
あかごまが かどでをしつつ いでかてに せしをみたてし いへのこらはも
<<あなたが乗った赤い馬が旅立ち兼ねていらっしゃるを見送っている我が家の子供たちよ>>

旅立つ夫は防人として出兵するのでしょうか。それとも,農作物か育てた鶏などを遠くに売りに行くのでしょうか。
ここで「見立てる」は「見送る」という意味です。
我が子たちが「父ちゃん。早く帰ってきてね」「お土産いっぱいお願いね」などと言って見送っているのかもしれません。
ただ,妻の私は,もしかしたらもう帰ってこれないかもしれない夫を涙なしに見送ることができず,なかな家の門まで出られない。
でも,夫は私の見送りに出るのを待って,旅立つのをいつまでもためらっている。
「見立てる」という言葉から家族が必要とするものが何んなのかを私に考えさせてくれるこの短歌です。

最近,私の妻が珍しく玄関まで私の出勤を明るい笑顔で見送ってくれました。
そのときニコッとした妻曰く「今朝はゴミ袋がいつもよりたくさんあるけど,いつものように行くとき全部ゴミ置き場に出しといてね」。
立つ(3)に続く。

2010年11月8日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…立つ(1)

今回は,現在でも私たちが普通に使っているた「立つ」について,万葉集ではどのような意味で使われているかを何回かに分けて書きます。
「立つ」について広辞苑や岩波古語辞典を開いてみると,意味の説明に非常に多くの行が使われています。
その長い意味の説明中に万葉集の引用が10以上も出てきます。
すでに万葉時代「立つ」には10以上の意味や用例が存在し,歴史が古く,奥深い意味の言葉であることが分かります。

「立つ」の意味を一言でいうとと「強く現れる」といっていいのかも知れません。
この場合は,「立つ」(現れる)対象が「立つ」の前や後に出てきます。
たとえば,万葉集の巻3に船出するから高い波よ立つなと九州熊本の地で読んだ長田王の短歌に対し,次のような大宰府次官の返歌があります。

沖つ波辺波立つとも我が背子が御船の泊り波立ためやも (3-247)
おきつなみへなみたつともわがせこがみふねのとまりなみたためやも
<<沖や岸辺の波が立っても(高く現れても)、あなた様(長田王)の御船が泊っている港は、波が立つ(高く現れる)ことなどきっとないですよ>>

この短歌では「立つ」の対象である「波」が二つ出てきます。この「波立つ」は現代でも使いますが,当時は本当に壁のように立っているような大きな波を表してしたようです。
その他,「立つ」の対象として,次のようなものが万葉集には出てきます。
動植物‥かまめ(カモメ),真木,鳥,麻,鹿,駒
自然現象‥霞,雲,霧,潮気,雨霧,春霧,日,虹,月
季節・時刻‥春,秋,年の端,朝
人・その他‥民,我,娘子,名,盾

これらは,「○○立つ」とか「立つ○○は」といった表現が万葉集に出てきます。これらの対象が高くハッキリと現れる(来る)意味を表す動詞として,「立つ」は当時として便利な言葉だったのだろうと私は推測します。
<中国瀋陽再出張記>
さて,11月2日~6日,私は今年の5月に続き中国東北地方瀋陽に再度出張してきました。
出張先の会社の技術者たちは,私が短い期間に再び来てくれたと大変歓んでくれ,IT業務の連携で以前にも増して中身の濃いコミュニケーションができました。
また,彼らは中国の物価上昇が進んでいることを少し気にしていましたが,みんな以前にも増して本当に明るく元気でした。
瀋陽の街も,たった半年足らずの内に,前回訪問時建設中だった高層マンションやビルが完成し,またあちこちでビルやマンションの建設が新たに始まっていました。
テレビCMや街角の広告看板などでは高級自動車や不動産の宣伝が溢れていました。
世界の多くの国が,今回の不況からの脱出に難渋している中,遼寧省の首都瀋陽の街を半年ぶりに見ただけですが,今の中国の高成長が際立っていることを改めて認識する結果となりました。

中国語で『ビル』は「大厦」,『マンション』は「公寓」と書きますが,まさに「大厦立つ」「公寓立つ」という表現がピッタリなのかも知れません(写真は瀋陽のホテルから撮ったもの。霞んでいるのは朝霧でスモッグではありません)。
立つ(2)に続く。

2010年10月30日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…設く(3:まとめ)

「設(ま)く」の最終回として旋頭歌を一首紹介します。

夏蔭の妻屋の下に衣裁つ我妹 裏設けて我がため裁たばやや大に裁て(7-1278)
なつかげの つまやのしたに きぬたつわぎも うらまけて あがためたたば ややおほにたて
<<夏の物陰の涼しい妻屋の軒の下で布を裁いている私の君よ 裏地も付けた僕用なら(目立たぬように)少し大きく裁いてよ>>

旋頭歌は古事記日本書紀万葉集に出てくる和歌の形式で,短歌が五七五七七であるのに対して,五七七五七七の形式です。
万葉集では60首余りが旋頭歌の形式で詠まれています。
ほとんどが詠み人知らずの恋の歌です。
上の旋頭歌は男一人が詠んでいる歌のようですが,他の旋頭歌では前の五七七と後ろの五七七を別人(男と女)が詠う内容のものもあります。
旋頭歌は,当時流行りの恋をテーマとしたデュエット曲の歌詞や,「~さんよ。~してよ。」という自分の思いを伝える目的の形式だったのかもしれませんね。

上の旋頭歌でポイントとなるのが,本テーマである「裏設けて」です。
文字通り「裏を施す」で「裏地」となると思うのですが,別に当時「心」を「うら」と発音している関係で,「気持ちを込めた」という意味も表わしていると思います。
結局,「僕のことをもっと愛してほしい」という男心と,恋路の邪魔をする周りに知られないように「少しだけいいから大きく」という微妙な心境も私には感じられます。
<「設く」の広い意味>
さて,ここまで万葉集に表れる「設く」について見てきましたが,「作業の準備や手配をする」,「心の準備をする」,「気持ちを込める」,「季節の動き」,「朝昼夕の変化」など,非常に幅広い意味を持つ言葉であることが分かってきました。
こんな豊かな表現力をもった「設く」という言葉が現在ではほとんど使われていないのが,少し残念な気がします。
ただ,万葉集には,使われなくなった言葉を蘇らせる力があるように思えてなりません。
たとえば,店の名前や番組タイトルに万葉集を参考に「春設く」とか「春設けて」というネーミングをして,それが大変な流行語になれば復活もありえますね。

最近,意を決して焼酎「天の川」の高級品「壱岐づくし」を買いました。すべてが壱岐で栽培している原材料で蒸留している焼酎だそうです。
呑んでみましたが,さらにまろやかな味わいでした。
酒造メーカが原料から蒸留プロセスまでちゃんと「設く」ことによって,この風味が達成できているのかもしれません。
天の川君に気づかれて呑まれてしまう前に私がすぐ呑んでしまいそうです。
立つ(1)に続く。

2010年10月24日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…設く(2)

今回は「設(ま)く」の2回目です。
今回は万葉集に出てくる「春設く」の用例を考えてみます。

春設けてもの悲しきに さ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか住む(19-4141)
はるまけて ものがなしきに さよふけて はぶきなくしぎ たがたにかすむ
<<春になってもの悲しいのに、夜が更けてから羽を振って鳴くは誰の田に住む鴫だろうか>>

春設けてかく帰るとも 秋風に もみたむ山を越え来ざらめや(19-4145)
はるまけて かくかへるとも あきかぜに もみたむやまを こえこざらめや
<<春になって雁はこのように(北へ)帰ってしまうのだが、秋風が吹いて色づく山を越えてまたやって来るだろう>>
                              ↓[Photo by Thermos]

両方とも大伴家持越中高岡で天平勝宝2年3月に詠んだ越中秀吟とよばれる12首の中の2首ですが,これらから春の明るさはあまり感じられませんね。
家持は,なぜ春なのにもの悲しいと感じたのでしょう。
また,なぜ春になって去っていく雁を見て紅葉の頃きっと帰ってくるに違いないと詠んだのでしょう。
私の推測ですが,越中で春になると雪が消え,気候が都(奈良)に似てきます。
そのため,都への望郷の思いが増してきて,地方にいつまでも左遷されている自分を悲しいと感じたのではないかと思うのです。
家持が鴨や雁という渡り鳥を題材に悲しさや暗い気持ちを表現したのは,鳥ならばちょっと都に飛んで行って帰ってくることもできるのではないかという羨ましさを感じていたのかもしれませんね。

さて,喰い気しか興味のない天の川君だったら「春になると美味しい鴨鍋が食べらへんようになるさかい『悲しい』と言っとるのとちゃう?」と家持の心情を勝手に分析するんじゃないかな。
<平安時代以降使われ出した「春めく」>
ところで,万葉集には出てきませんが,平安時代以降使われるようになった少し似た表現で「春めく」という言葉があります。
「春設く」は下二段活用,「春めく」は四段活用です。
したがって,前者が「春設けて」となると後者は「春めきて」となります(今の口語では「春めいて」と言うようです)。
両者の意味に似たところがあるため「設く」が平安時代に「めく」に転じた可能性があると私は推測しています。ただ,活用が違うのでまったく生まれが別の言葉かも知れませんが。

(注)「前回投稿で天の川君の発言にあった『大日本アカン警察』とは何か?」という問合わせがその後ありましたので,Wikipediaの該当URLを提示しておきます(その後リンク先が無くなっていたらごめんなさい)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%86%E7%AC%91_%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%B3%E8%AD%A6%E5%AF%9F

設く(3:まとめ)に続く。

2010年10月16日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…設く(1)

本シリーズは3回ほどお休みしましたが再開します。
再開最初に取り上げる動詞は「設(ま)く」です。
「設く」の意味は,英語のprepareが非常に近いのではないかと私は思います。
「準備をする」「用意する」という意味ですが,必要なモノが揃う準備だけでなく,心の準備ができているという意味を含む点もprepareと共通点があります。
類義語に「儲(まう)く)」があります。現代の読み方は「もうける」で,「利益を得る」「(子供を)授かる」といった意味で使われています。
しかし,万葉集から推察するに,万葉時代では「儲(まう)く)」は「設(ま)く」と同様に準備するという意味で使われていたようです。
ちゃんと準備をして(儲くして)ものごとを進めれば,その後に良いことが起こり,お宝を得ることができるという経験から,「儲(まう)く)」は「儲(もう)かる」という意味に変化をしていった可能性があると思います。
さて,「設く」に話を戻します。
万葉集では「設く」は「かた設く」という慣用的な使い方がいくつかの和歌で出てきます。
「かた設く」の「かた」はこの場合「大体」という意味で,「かた設く」は「時を待つ。時が近づく,その時になる」といった意味となるようです。
「準備がほぼ整ったので後は心待ちにするだけ」「準備完了で次の段階に達したようだ」という意味に変化ていったのかも知れませんね。

梅の花散り乱ひたる岡びには鴬鳴くも春かた設けて(5-838)
うめのはな ちりまがひたる をかびには うぐひすなくも はるかたまけて
<<梅の花が散りみだれている岡にウグイスが鳴いていますね。待ち遠しい春も近いです>>

鴬の木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かた設けぬ(10-1854)
うぐひすの こづたふうめの うつろへば さくらのはなの ときかたまけぬ
<<ウグイスが木を伝っているウメの花が散り始めるといよいよサクラの花が咲く季節になりますね>>

人は楽しいイベントの準備はいそいそと進めることができます。
その結果,楽しいイベントの日よりずっと前に準備が終わってしまい,待ち遠しくて堪らなくなります。
そんな雰囲気がこの二首の短歌で出てくる「かた設く」の言葉から伝わってきます。

さて,今は景気が停滞し,厳しい世の中だけど,お酒の量も少しずつに我慢して,しばらくは「好景気かた設く」とでも行きますか?

天の川 「たびとはん。10月2日たびとはんがクラブメイトと一緒に呑んだ壱岐の麦焼酎『天の川』やけど。すんまへんな。半分ぐらい残っていたのを全部呑ましてもろたさかい。この焼酎,いつ飲んでも美味いな。」

も~っ! ちょっとしたスキに天の川にまた「天の川」を呑まれてしまった。
まあっ,良いか。「天の川」は成城石井で売っていることが分かったし,今月は珍しく残業代が少し多めに入るから,天の川に見つからないように買って,ゆっくり呑むか?

天の川 「たびとはん。それはアカンやろ! 独り占めはスコイやんか。そんなことしたら大日本アカン警察が逮捕にいくで!」

設く(2)に続く。

2010年10月10日日曜日

初秋の明日香

昨年6月に東京奥高尾でホタルの乱舞を見つつの再会(本ブログでも紹介)続き,先週土曜(10月2日)に万葉のふる里「明日香」近辺を眼下に望む里山の古民家風料亭で大学時代の万葉集研究のクラブメイトと1年3カ月ぶりに再会しました。
今回のイベントも主に私が地元メンバーの協力を得て企画を進めてきました。
天候にも恵まれ,この日を楽しみにしていた参加者は地元で採れた食材をベースとした色合いも鮮やかな会席料理を味わいつつ,お互いの近況報告や昔の思い出を時間を忘れて話し合いました。
実は何十年も前のクラブ創設の日にはキャンパス内にある当時古民家を移設した施設で数十名が集まり盛大に行われました。
その施設には和室が3部屋ほどあり,ふすまをすべてとって大きなひと部屋に全員大きな円形に座ったような記憶があります。
今回再会した人達はその中の一部ですが,これからもこういったイベントを継続開催し,参加者を少しずつ増やしていければと考えています。
次回は再来年の春,万葉集で越中歌壇として大きな存在感を持つ富山でホタルイカ,シロエビ(シラエビ),サヨリなどの近海の春の幸を味わえるのを楽しみに再会しようということになりました。
また,メルマガを定期的に発行することを決め,当日は私の携帯電話からあらかじめ用意していたメルマガ創刊号を登録メンバーに送りました。
早速,今回都合で参加できなかった埼玉のメンバーから「メルマガ創刊おめでとう!」という返事がきました。
料亭での懇親会後は,JR奈良駅へ移動し,カラオケボックスで往年のSongsを唄い盛り上がりました。それにしても関西のカラオケボックスは本当に良心的。またそれも感動でした。
その晩東京から来たメンバーとスーパーホテルロハスJR奈良駅に一泊(天然温泉も満喫)し,翌日は古都奈良市内の散策を地元メンバーのアレンジで行いました。
奈良市内は小学校の遠足で来たときから数えて10回以上私は来ていますが,今回古い奈良,新しい奈良を改めて見て,1300年の歴史の奥深さをまた強く感じることができたのです。

この後メンバーと別れた私は,ひとりで明日香に戻りました。昨日は集団移動で十分見ることができなかった明日香の風景を見るためです。
私が今回のイベントを10月2日にした理由のひとつに,明日香の里ではまだ稲刈りがほとんど行われていない時期で,一面黄金色の稲穂で満たされた稲田の風景を楽しめるのではないかと思ったからです。
そして,明日香に戻ってみると,彼岸に咲き,既に散っているはずのヒガンバナ(マンジュシャゲ)が何とまだ見ごろでした。
今年は猛暑でヒガンバナの開花が遅れたことが幸いしたようで,本当にラッキーでした。
写真は10月3日午後に撮ったものです。

今回の明日香,奈良訪問は本当に充実し,心から楽しく感じられた2日間でした。1年以上かけて準備をしたことが報われた気がします。
忙しい中集まってくれた仲間,手間を惜しまずいろいろアレンジしてくれた仲間,日本の風景を大切に守って暮らしている奈良の人々,そして訪問者を優しく包む奈良の自然に感謝しつつ,私は穏やかな気持ちで万葉のふる里を後にしました。

  里渡る明日香黄金と紅の風 まほらで友ら優しく包む  (たびと2010年10月作)

次回からは,動きの詞(ことば)シリーズに戻り,「設く(1)」に続く。

2010年9月25日土曜日

いま,万葉集に学ぶべきこと

<投稿100記念>
今回が投稿100回目ということで,通常より長文を載せました。これまで書いた要約でもあり,内容に今まで繰り返し何度も書いて来たことも含んでいます。ご容赦ください。
万葉集の編纂の意図や目的が「やまと言葉のテキスト」,そして「昔からの国の文化,風土,慣習,歴史の’実態’を広く知らしめること」ではないかと何度かこのブログで私は述べています。
もちろん,この推測は私の勝手なものであり,学術的根拠はありません。
万葉集は,飛鳥時代から奈良時代にかけて,海外(中国)の律令制度の導入により,国の様々な場所でどんなことが実際起きているのか,人々がどんな思いで暮らしているのかを和歌(やまと言葉)という形式でストレートに表現し,そしてその題詞,左注の解説を通して残そうとしたものではないかと私は考えます。
万葉集の一つ一つの和歌には,儀礼的なもの,作り話風のもの,自分の感情(美しい,好きだ,逢いたい,つらい,悲しいなど)だけを表現したもの,政治的な色合いの濃いものなど,一つ一つが正確な歴史的事実を表わすものではありません。
ただ,そのように詠わせる社会的背景を多くの和歌の中から推定すると,やはり多くの人は激動の飛鳥時代,奈良時代を翻弄されながら生きた人々の姿が見えてくるように思います。
<社会的変革は痛みを伴う>
一般に,新しい政治制度の導入や改革は,そのスピードが早ければ早いほど,それに翻弄される人々が多く現れてしまうのではないでしょうか。
そういった犠牲をある程度覚悟の上であえて世の中を変えていかなければならないときがあることは国の発展,近代化,国際的競争力の強化のために避けては通れないと私も考えます。
その変革を強力に進めようとする人達は,変革が早く進むほど最終的な犠牲発生期間や全体的なデメリットは少なくて済むと考えるかも知れません。しかし,それについていけない人々が大きな格差を感じ,苦しむ度合いも大きくなります。
私は,万葉時代の政治制度の変革と今のIT(情報技術)をベースとしたグローバル(国際)化の急激な進展の中で,その大波を被る人達(波の上でバランスよく波に乗る一部の人達を除く)の戸惑いには類似点が多くあると感じています。
その混乱ぶりの一例をあげます。
<今はカタカナ外来語だらけの世の中?>
私たちは膨大な数の新しいカタカナ語の出現に戸惑い,時代に乗り遅れまいと必死に覚え,理解しようとしていますが,その新しいカタカナ語の数は一般の人の理解の限界をはるかに超えて急増し続けているように思います。
たとえば「このテレビはブルーレイレコーダとハードディクスがセットされ,有機ELDのクリアな画像でフルハイビジョン,3D映像がエンジョイできます」とか,「このケータイ端末は,オーサリングツールがプリインストールされ,旧モデルよりパワフル,ハイパフォーマンスを実現し,Webコンテンツがスムーズにアップデートでき,ホームページへのアップロードもサクサクです」というような日本語が溢れ,意味は分からないが新しいカタカナ語が使われていると多分優れているのだろうと飛びついてしまう。
<万葉時代の外来語は漢字>
実は万葉時代も漢字が急激に導入され,ほんの一部の人達だけが理解できる状況だったと思われます。
結局,漢字は平安時代になっても難しく,理解できない人が多かったため,ひらがなやカタカナが発明されたのでしょう。
さて,カタカナ語の氾濫の例はあくまでも今の急激な変化を示す一例でしかありませんが,もっと深刻な戸惑いの例もほかにあると思います。
万葉集の様々な和歌でも,時代の変化(重税,法律による制限拡大,違反による重い刑罰,厳密な組織序列,権力争い,左遷,他国との戦争,出兵)に対し,戸惑い,苦しみ,悲しみ,それに耐える姿が読み取れます。
しかし,万葉集にはそのような苦しい状況の中でも変わらないもの(恋愛,家族愛,四季の変化や自然の美しさ,故郷への愛着,かけがえのない命など)を大切しようという姿があり,私は大きな救いを感じます。
<万葉集から我々現代人が学ぶべきこと>
時代背景の類似点から急激な変化にさらされている現代,万葉集が我々に対し教えてくれる点(失ってはならないこと)は次のようにたくさんあると私は思います。
分かりやすい万葉集の短歌を例示しながらいくつかの点について述べてみます。

☆☆家族を大切にする気持ち☆☆
家族を愛する気持ちを詠った万葉歌人は山上憶良が代表例でしょう。官僚である憶良はまだ十分恵まれていた方かもしれません。今でいえば優良企業の正社員です。
今の非正規社員の方々や失業中の方々はもっと厳しい状況だと思いますが,次のような気持ちは失わないでほしいと私は思います。

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ(3-337)
銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(5-803)

☆☆命を大切にする気持ち☆☆
万葉集には数多くの挽歌(死者を追悼する和歌)が載せられています。
中には儀礼的な挽歌もありますが,父母も妻子もいるだろう路上の屍を見て詠んだ詠み人知らすの挽歌には心打たれます。

母父も妻も子どもも高々に来むと待ちけむ人の悲しさ(13-3337)

死んだ男性は家族とまた会えることを願い,生き続けたかったけれど,不本意にも生き倒れで命を落としてしまったのでしょう。
でも,父母妻子がいるにも関わらず自ら命を落とす人がたくさんいる今の社会,命を本当に粗末にしている時代なのでしょうか。それとも,自殺する人も本当はもっと生きたかったのでしょうか。

☆☆自然を愛する気持ち☆☆
万葉集には自然を詠んだ詠み人知らずの和歌が本当にたくさんあります。次はその中のたったひとつですが,春,夏,秋と同じ山を見て季節の移り変わりを実に細かく観察している短歌だと私は思います。

春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも(10-2177)

☆☆苦難な状況でも励まし合い乗り越えようとする気持ち☆☆
橘諸兄の力が陰りを見せ始め,聖武天皇崩御の後,いわれなき罪で出雲守を解任された大伴氏のエリート大伴古慈悲に対し,「大伴氏のプライドをしっかり自覚し,自棄(やけ)にならずに自分を磨くことを忘れるな」と激励する長歌と反歌2首を大伴家持が贈っています。
次は,その反歌2首です。

磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ(20-4466)
剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(20-4467)

☆☆世の中の矛盾をユーモアで風刺するセンス☆☆
世の中の所得格差や重税に対して笑い飛ばそうという短歌もあります。
次は,ハスの花が咲くような大きな池を持つ金持ちを風刺した短歌と檀家衆に無精ひげを揶揄にされた僧侶が「里長が税の取り立てに来たら泣くぞ」と応酬した短歌です。

蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋の葉にあらし(16-3826)
壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ(16-3847)

今の世の中,制度矛盾や収入を得るためのスキルの変化から,さまざまな格差が広がっているようにも見えます。
でも,いくら「世の中が悪い」と嘆いたところで明日急に豊かな暮らしになれる保証はありません。
私たちがこれからの激動の時代を前向きに生きていくために,万葉集から学ぶことは少なくないのではないかということを投稿100回の節目の締めくくりとします。
「初秋の明日香」に続く。

2010年9月19日日曜日

このブログのキャストや方向性

万葉集をリバースエンジニアリングする」というこのブログも次回で投稿100回目となります。
今回は,このブログのキャストについて,改めて説明しますね。

◎私(たびと)…生まれ:京都市伏見区。高校まで同市山科区の学校に通う。
        その後,東京八王子市の大学(経済学部)入学,八王子市に暮らす。
        社会人(ITエンジニア)になってからは埼玉県の
        いくつかの市を転居して,現在埼玉県南部のある市に居住。
        万葉集との出会い。小学校の国語の教科書が初め。
        このとき印象に残ったのが,山部赤人の次の短歌。
     若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る (6-919)
        大学で万葉集研究サークルに入り,すこし本格的に万葉集に接する。
        現在,好きな万葉歌人は大伴家持長意吉麻呂笠女郎
◎あう…私(たびと)と同居しているネコ。私の代わりに写真が出ています。
◎妻…私の長年の同居人。ネコが好きですが,万葉集にはほとんど興味を持たず。
        現在は韓流ドラマに凝っている。
◎天の川…私が生まれてからずっと私にまとわりついている陽気な亡霊。
        なぜか関西弁でうるさく話し,ときどきこのブログに出てきては
        ちょっかいを出す。

現在,キャストはこんなものです。

次にこのブログの方向性めいたものも改めて説明します。
万葉集を有名歌人や名歌と評されている和歌から題材にすることはしません。
万葉集で使われている言葉に焦点を当てます。
その言葉を使っている万葉集の和歌を機械的にまとめて見ていきます(このあたりがエンジニアの発想)。
この方法は万葉集を専門に研究されている学者先生も当然行われているかもしれませんが,私のやり方が研究者と根本的に違う(劣る)のは,過去の研究結果や評論をほとんど参考にしない点ですね。
このブログに書いてある内容は,ある言葉にこだわって,万葉集を数日調べて,感じたことをその都度書いているだけなのです。
過去の偉い学者先生方が完全否定していることや万葉集を全部調べれば間違っていることも書いてしまうかもしれません。
このブログは,すべてその時点の私の感想でしかありません。
私は,万葉集からやまと言葉やまと文化の源流をさぐることができると信じています。
そして,そこから現代でも失ってはもったいない文化やモノの見方・考え方を伝えられればと考えているのです。

さて,前回(98回)まで,いろんな言葉を題材にしてきました。
また,難読シリーズや動きの詞シリーズの連載をアップしていますが,まだまだ紹介できていない言葉はいっぱいあります。
これからもずっと続けられるだろうと思うほど万葉集は言葉の宝庫なのです。まさに「よろず(万)の言の葉」なのです。
また,万葉集の中で同じ言葉が様々なシチュエーションで使われていることで,同じ言葉でも前後の関係で微妙にニュアンスが異なり,ある言葉の奥深さを感じさせるものもあります。
もし,万葉集がなかったら,当時使われていた言葉の多くが忘れ去られたり,本来の意味と異なる意味に使われてしまい,日本語が大きく変わっていたかも知れません。

さて,次回は連載100回記念として,万葉集から現代人が学ぶべき点は何かについて私の考えを書く予定です。

2010年9月11日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…惜しむ(3:まとめ)

「惜しむ」の用例として,今でも「名残を惜しむ」という言葉が使われています。
「名残」は「余波」とも書き,ある動きが終わっても,かすかに元の動きの余韻が残っている状態を表す言葉だと思います。
例えば,美しい紅葉が終わって,大半が枯れ木のようになってしまっているが,まだ一部に散らずに残っている部分があり,さぞかし美しかったであろう紅葉の雰囲気が残っている。
それを見て「あ~,もう紅葉も終わったんだ」という思いを「名残を惜しむ」が端的に表現しているのではないでしょうか。

「惜しむ」を使った万葉集の和歌を詠むと「日本人は無常観を楽しむ民族だなあ」と私はつぐつぐ感じることがあります。
一般に無常観は仏教によってもたらされた考え方だと思われがちかもしれません。
しかし,私は仏教伝来以前から日本人は苦しい生活であっても豊かな季節の変化とともに暮らす中,無意識のうちに無常を前提とした価値観を持っていたのではないかと考えます。
そこへ飛鳥時代仏教(主に大乗仏教)が急速に伝来し,その根底にある無常の思想が日本人の無意識の無常観とマッチし,違和感なく受け入れられたかもしれないと私は思うのです。

世の中に絶対変わらないものはない。今の状態(良い状態/悪い状態)はいずれ変化する。
良い状態が変化し,終わろうとする刹那に「惜しむ」という感情が出現する。
いっぽう,悪い状態が終わり,良い状態になるのを期待する心の動きを動詞シリーズの最初に取り上げた「待つ」があるのかも知れません。

万葉集に「惜しむ」と「待つ」の両方が詠み込まれた長歌の一つ(後半抜粋)を次に紹介します。
この長歌は,摂津国の班田史生丈部龍麻呂が自殺した際,判官であった大伴三中が詠んだとされる挽歌です。

いかにあらむ 年月日にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 大君の 命畏み おしてる 難波の国に あらたまの 年経るまでに 白栲の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去にけむ 時にあらずして(3-443)
<~いかにあらむ としつきひにか つつじはな にほへるきみが にほとりの なづさひこむと たちてゐて まちけむひとは おほきみの みことかしこみ おしてる なにはのくにに あらたまの としふるまでに しろたへの ころももほさず あさよひに
<<~どのように暮らしているのかと,毎日毎日立派な君がいつもにこやかな顔で帰ってくるかと玄関で待っている家族は,難波の国で年を重ねている。衣も干さずに一日中居る君は何を思ったのか,大切なこの世から露霜のように去って消えてしまった。若くして。>>

年間自殺者が3万人を超える(交通事故で亡くなる人の4倍以上)である状態が続いている今,毎日どこかでこの長歌のような無念な想いをしている人がたくさんいると思うと心が暗くなります。
今の我々は,何としてももっと「命を惜しむ」という心を強くし,そしていろんな人と関わりをもって励まし合いながら生きていくことが大切だという気持ちをより強く持たなければならないと思うのは私だけでしょうか。

さて,このブログも次の次で100回を迎えます。
この後の2~3回は,動きの詞シリーズは少し休みにして,これまでこのブログに残してきた記事を少し振り返ってみたいと考えています。

2010年8月29日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…惜しむ(2)

万葉集の中で「惜しむ」を詠みこんだ25首ほどの和歌には,比較的定型的な表現が随所に出てきます。
たとえば,「(花が)散らまく惜しみ」「(季節が)過ぐらく惜しみ」「(夜が)更くらく惜しみ」「(夜が)明けまく惜しみ」「(白露が)置かまく惜しみ」といった具合です。
「動詞+まく(らく)+惜しみ」は「○○しそうで名残惜しんでいる」という意味になるようです。

我がやどの梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ(5-842)
わがやどの うめのしづえに あそびつつ うぐひすなくも ちらまくをしみ
<<私の家の梅の下枝でウグイスが楽しそうに遊んで鳴いている(梅の花が)散りそうで名残惜しんでいます>>

三諸の 神奈備山に たち向ふ 御垣の山に 秋萩の 妻をまかむと 朝月夜 明けまく惜しみ あしひきの 山彦響め 呼びたて鳴くも(9-1761)
みもろの かむなびやまに たちむかふ みかきのやまに あきはぎの つまをまかむと あさづくよ あけまくをしみ あしひきの やまびことよめ よびたてなくも
<<雷丘の向かいの甘橿の岡に 秋萩のような妻と 共寝に誘おうとして 朝月が出る夜に明けようとすのを名残惜しんで やまびこを響かせ 呼び立てては鳴く鹿よ>>

最初の短歌は,大伴旅人が筑紫長官をしていたとき大宰府で盛大に行われた梅の花を愛でる宴のとき,出席者が詠んだ32首の内の1首です。
2首目の長歌は,柿本人麻呂が詠んだといわれているものです。
夜,妻(雌鹿)に共寝を誘った雄鹿が朝月の夜が明けようとして,共寝が出来きず,名残惜しんでいるためか,山彦が起こるような大きな鳴き声で鳴きたてている姿を詠んでいます。
繰り返される雄鹿の悲しそうな鳴き声に起こされたが,隣には最愛の妻が寝ている自分(人麻呂)の幸福感を詠っているのでしないかと私は思います。
<「惜しむ」は今の幸せが変わらないでほしい気持ち>
これらの「惜しむ」の表現は,いつまでも今の状態が続いていてほしい。でも,やがて変わってしまうことが分かっている。
それでも,もう少し今のままでいてほしいという気持ちの表現に使う言葉です。
一日の変化,四季の変化は止めることはできないという無常感と,でも変わらないでほしいという希望との鬩ぎ合いを「惜しむ」という言葉は端的に表わしていると私は感じます。
「惜しむらくは」という言葉は,この用法が転じたかもしれないと思うのですが,いかがでしょうか。

天の川 「この夏いつまでも暑うてたまらんわ。たびとはんは若い頃のことを惜しんでいてもあかん年にとっくになってしもたしなあ。」

うるさい! 君は夏バテしているからオトナシクしていればいいの! オトナシクしていないと某党の前幹事長見たいに人気が落っこちるよ。
惜しむ(3:まとめ)に続く。

2010年8月23日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…惜しむ(1)

「惜しむ」は現代でも比較的使われている言葉だと私は思います(形容詞の「惜しい」はもっとポピュラーに使われていそうです)。
「別れを惜しむ」「急逝を惜しむ」「才能を惜しむ」「自分の命を惜しめ(大切にしろ)」「行く春を惜しむ」などとして使われることがまだあります。
万葉集では,25首ほど「惜(を)しむ」を使った和歌が出てきます。
<我が家の愛猫ランちゃん死す>
ところで,1週間余り前に我が家の愛猫「ランちゃん」が死にました。
ありし日のランちゃんです。

私の自己紹介に使っている写真の猫は「あう」です。「あう」と「ランちゃん」については,昨年7月18日のブログで少し紹介しています。
「ランちゃん」は15歳1カ月で天寿を全うしました。人間でいえば90歳を軽く超えている年齢でしょうか。
15年ほど前にスーパーのペットショップで「可愛い子猫だ」と妻と息子が選んで買ってきたヒマラヤンのメス猫です。
今年の猛暑が始まってしばらくして,急に食欲がなくなり,体力が急激に衰えてきました。
死ぬ2週間前あたりからは,トイレ以外はほとんど動けず,流動食や水を少し口にするのがやっとの状態でした。
ついに死ぬ数時間前(夜中)から,呼吸が不規則な状態になり,妻が「ランちゃん」に添い寝して身体をなでている中,眠るように息を引き取りました。
約15年間ずっと家族同様暮らしてきた猫ですから,もう少し長生きしてほしかったと「惜しむ」気持ちが続きました。
<ランちゃんの葬儀>
死後すぐに段ボール箱で簡易な柩を作り,その中に「ランちゃん」をタオルで丁寧にくるんで入れました。
何かあったときのために地方の鮮魚市場で鮮魚を買うと付いてくる保冷剤をいくつも冷凍庫に凍らせていたので,それを周りに並べ,傷まないようにしました。
柩を愛用のペットフードや水,遺影とともに仏壇の前に置き,保冷剤を取り替えながら,ロウソクと線香を絶やさず焚き続けました。
そして,翌々日の朝まで「ランちゃん」との別れを惜しみ,柩にシミキと菊の花,愛用のシートを敷き詰め,火葬場付きのペット霊園へ運びました。
ペット霊園はちょうどお盆の真最中で,多くの人が来ていて賑やかでした。
戻った我が家では「あう」と新参猫の「ぴん」が,何事もなかったように家中で運動会をしていました。

そんな中万葉集に次の詠み人知らずの短歌を見つけました。

薦枕相枕きし子もあらばこそ夜の更くらくも我が惜しみせめ(7-1414)
こもまくら あひまきしこも あらばこそ よのふくらくも わがをしみせめ
<<薦(こも)で作った質素な枕を共にして寝たあの子がこの世にいたならば,この夜の更けることを惜しみもするのだけれども>>

まさにそのときの妻の心境でしょうか。合掌。惜しむ(2)に続く。

2010年8月14日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…遊ぶ(3:まとめ)

大伴家持は越中の地(家持28~33歳)で「遊ぶ」という言葉を入れた和歌を多く詠んでいます。
以前にも何度か触れていますが,家持は越中で豊かな自然や暮らし,地元役人だけでなく,農業,漁業,商業に携わる人々と楽しく接することができ,平和な時間を過ごせたようです。
書持(ふみもち)という仲の良い弟を亡くした悲しみが越中赴任直後にありましたが,若いころから恋人同士だった坂上大嬢を妻に迎え,本当に幸せを感じた時期だったのかもしれません。
その結果,家持はこの越中で200首以上の和歌を詠み,いわゆる越中歌壇と呼ばれるジャンルを万葉集に残しました。
越中で最後に「遊ぶ」を入れた短歌は天平勝寶2年3月27日に酒宴で詠んだものです。

春のうちの楽しき終は梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし(19-4174)
<はるのうちのたのしきをへは うめのはなたをりをきつつあそぶにあるべし>
<<春のなかでいちばんの楽しみは,梅の花を手折って客を迎え,楽しく遊ぶことに決まりだね>>

この短歌を詠んだ時期は梅はとっくに散っている季節です。
この短歌の題詞に,家持が筑紫の大宰府で父大伴旅人と一緒にいたとき,梅の花を愛でる宴を追想して詠んだとあります。
この宴は,越中赴任時代の20年ほど前の天平2年正月に催された宴を指すと思われます。
このとき,出席者が1首ずつ詠んだ32首が万葉集に残っていますので,その盛大さが想像できます。家持がその時に出席者によって詠まれた短歌の記録を所持していたのでしょう。
家持は筑紫でのその盛大な宴にいた可能性が高そうです。しかし,家持は12歳位だったのでさすがにそのときの家持の歌は残っていません。
越中の家持は筑紫の梅花の宴32首を前提にして19-4174の短歌を作ったと想像しますが,特にあるひとりの参加者(法麻呂という陰陽師)の次の歌を意識したのではないかと私は思います。

梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり(5-836)
<うめのはな たをりかざしてあそべども あきだらぬひはけふにしありけり>
<<梅の花を手折って頭に飾りいくら楽しく遊んでも少しも飽き足ることがない日はまさに今日の宴でしょう>>

家持は本当に楽しかった筑紫の宴を思い出して越中の出席者に梅見の遊びの楽しさがいちばんだと断言したかったのでしょう。

しかし,天平勝寶3年秋に越中守の任を終了し奈良の都に戻った家持に待っていたのは血で血を洗う権力闘争や庶民生活を脅かす重税でした。
聖武天皇は東大寺大仏建立のことばかり考え,光明皇后や藤原仲麻呂の意のままに政治が進み,家持の後見役的な左大臣橘諸兄は家持越中赴任前ほど力を持たなくなっていたのです。
家持は19-4174を詠んだ3年後の春(大仏開眼法要も無事終わった翌年,本当は楽しいはずの季節)に,次のような自分の暗い気持ちを詠んだ有名な短歌を残しています。

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらに てれるはるひにひばりあがり こころかなしもひとりしおもへば>
<<日差しが柔らかに照っている春日に雲雀が飛び上がっているが,独りで思いにふけると心は悲しくなるなあ>>

惜しむ(1)に続く。

2010年8月7日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…遊ぶ(2)

今日は立秋です。また,旧暦の七夕(奈良時代は七夕は秋の季節を指す言葉)の時期でもありますね。
旧暦の七夕なので,ここでひさびさに天の川君登場を願いたいところですが,残念ながら完全に夏バテ状態で伏せっています。
さて,万葉集で「遊ぶ」を詠んだ和歌には実は七夕の時期のものはあまりなく,梅の花が咲く春や歓送迎の宴席を指すことが多いようです。。
万葉時代,冬は自宅に閉じこもっていることが多かった。でも梅の花が咲き,まさに春間近,みんなで集まり,これからの活発に活動できる時期を楽しみあったことを「遊ぶ」は指したのかも知れません。
もうひとつの「遊ぶ」の主役,歓送迎などの宴もみんなで集まることが楽しみの大きな要素です。
それに対して七夕の時期は恋の季節なので,みんなで集まる楽しみとは違う一対一の恋の和歌が詠われたのかも知れませんね。

さて,前回大伴家持が「遊び」を詠んだ和歌が9首あると書きましたが,その父旅人も1首「遊ぶ」を入れた短歌を詠んでいます。

世間の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし(3-347)
よのなかのあそびのみちにたのしきはゑひなきするにあるべくあるらし
<<世の中の遊びの中で一番楽しいことは、酒に酔って泣くことに決まっているようなのだ>>

この短歌は旅人の代表作「酒を讃むる歌十三首」の1首です。この酔って泣くという意味は,一人で飲んで泣いているのではないと私は想像しています。
多くの仲間と酒を酌み交わし,大声で喋ったり,笑ったり,叫んだりして,とうとう声が嗄れてきた状態を指すのではと私は思うのです。
酔った人間の中には「俺の話を聞けよ!」「おい,分かってんのか!? この野郎!」などと他人に絡む人がいます。
絡まれた人間はえらい迷惑ですが,翌日当の本人はカラッとしていることがあります。
<本当は自分の話を聞いてほしい>
ある種の文明社会の人間は,本当は自分の話(本音)を聞いてほしいと常に欲求している動物ではないかと私は考えています。
さまざまな組織内の規則,調和,チームワーク,相手の気持ちを維持するため,言いたいことを我慢するか,やんわりと伝えることばかり経験していると,その人には着実にストレスがたまっていくのではないでしょうか。
そういう時,楽しく酒を呑みながら率直にたくさん話をし合うことが,そのストレスを発散に有効ではないかという大伴旅人の考えに,ペンネーム「たびと」の私も賛成したくなります(もちろん,度を過ごして人に絡むようなことをせず適量の呑むのが条件です)。

ところで,旅人の異母妹である大伴坂上郎女も次のような「遊ぶ」と「酒」を詠んだ短歌を残しています。

かくしつつ遊び飲みこそ草木すら春は咲きつつ秋は散りゆく(6-995)
かくしつつあそびのみこそくさきすらはるはさきつつあきはちりゆく
<<この宴では,こうしてみんなで遊び楽しみ、お酒を召し上がってください。草木ですら自然に春は生い茂り、秋には散ってしまうのです(先のことは気にせずに)>>

<女性は話し好きでストレスが低い?>
最近,ある程度人生経験を積んだ女性たちが,同年代の男性たちよりもすこぶる元気に見えるのは,とにかく話好きだからではないかと私は思っています。
はたから見ていて「よくもこんなに長く話ができるなあ」と感心しつつも,そのような女性たちは1人以上の相手とちゃんと話のキャッチボールが出来ているのです。
私はこれからさらに元気で楽しい人生を送るために,何時間でも(双方向で)話をし続けられる友人をたくさん作り,世の元気な女性たちに負けないくらい話す機会が「遊ぶ」時間の多くを占める状態にしたいと考えているのです。
遊ぶ(3:まとめ)に続く。

2010年7月31日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…遊ぶ(1)

今回は,万葉集に出てくる「遊ぶ」について私の考えを書いてみます。
万葉集には「遊ぶ」を使った和歌が40首近くもあります。
意味は現代の「遊ぶ」とあまり変わらないように感じます。
庭の梅の花を愛でて,屋外(園遊会)や歓送会や友達が集まる宴席で楽しく過ごす。
山に登ったり,川(渓谷)や海に船を浮かべたり,岸を歩いたりして風景・花・動物・紅葉などを眺めて楽しむ。
自分や相手が楽しんでいる状況やもっと楽しんで(遊んで)ほしい希望を詠んだりしています。
今の世の中はもっといろんな遊びがありますが,今でもこのように楽しんで「遊ぶ」ことに特に違和感はないと私は思います。

山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも(15-3618)   詠み人知らず
やまがはの きよきかはせに あそべども ならのみやこは わすれかねつも
<<安芸の国の美しい川瀬で風景を楽しんでも,奈良の都のことを忘れることはできない>>

しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ (18-4071) 大伴家持
しなざかる こしのきみらと かくしこそ やなぎかづらき たのしくあそばめ
<<越中の人達とこのようにヤナギの枝を頭に着けたらきっと楽しく過ごせるでしょう>>

また,鳥や子どもが遊んでいる姿を詠んでいる和歌もあります。

鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに (4-711)   丹波大女娘子
かもどりの あそぶこのいけに このはおちて うきたるこころ わがおもはなくに
<<鴨が遊んでいるこの池に木の葉が落ちて浮いているような浮ついた気持ちなど私にはありませんよ>>

ただ,万葉集で「遊ぶ」という言葉を使った和歌の作者は,ほとんどが高級官僚,貴族,またはその家族や恋人のようです。
<庶民たちは?>
東歌や防人の歌に出てくるような下級武士,農業,漁業,林業,小規模な商業でくらしている一般の人々には「遊ぶ」という生活の余裕すらなかった可能性があります。
当時は中国の都をまねた立派な京を造営することが天皇や律令制のトップである右大臣,左大臣が自分力を誇示する上で是非とも目指したいところであったと考えられます。
他国から見て国の成長が遅れていて,貧弱な田舎国家には見られ,大陸から攻めて来られるのを防ぐ意味もあったのかもしれません。
結局その附けは,一般の人々に重税を課したり,過重労働の提供を強要することで実現せざるを得なかったのでしょう。
<高級官僚たちは?>
いっぽうの高級官僚や貴族は,経済的に豊かでも心に余裕のある暮らしであるとは言えなかったのだろうと私は思います。
彼等は権力闘争に明け暮れ,密告や策略の罠に引っ掛からないように常に緊張し続けなければならない時代のだろうと私は想像するのです。
そんな中で,ひと時の宴席,花見,旅行の「遊び」は心をいやす良い機会となったのかも知れません。
また,鳥が花の中を優雅に飛びまわったり,水面にゆったり浮いている姿を羨ましく思い,人間の「遊ぶ」に当てはめたのかもしれません。
日ごろの緊張を忘れ「遊ぶ」ことに対して強い思い入れがあったのでしょう。
「遊ぶ」を使った自作の和歌を9首万葉集に載せている大伴家持は特に心を癒すための「遊ぶ」に対するこだわりがかなり強かったのではないかと私は感じるのです。
遊ぶ(2)に続く。

2010年7月24日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…争ふ(3:まとめ)

何回か前の投稿で触れましたが,我が家の近くの街路樹の百日紅の花が咲き競っています。
猛暑でかなりつらいこの夏ですが,この花の勢いある咲き具合と爽やかな色合いを見ているとしばし暑さを忘れてしまいます。

ところで,万葉集では「争ふ」のほかに「競(きほ)ふ」を詠んだ和歌が10首以上出てきます。
たとえば,次の短歌もそうです。

今日降りし雪に競ひて我が宿の冬木の梅は花咲きにけり (8-1649)
けふふりし ゆきにきほひて わがやどの ふゆきのうめは はなさきにけり
<<今日降った雪と競争するように私の家の冬枯れの梅の木は花が咲いて来たなあ>>

夕されば雁の越え行く龍田山時雨に競ひ色づきにけり (10-2214)
ゆふされば かりのこえゆく たつたやま しぐれにきほひ いろづきにけり
<<夕方になって雁が上を越えていく龍田山が時雨の始まりと競い合って色づいて来たなお>>

これら2首は,季節の移り変わりを示す変化が競っていることを詠っているようです。
太平洋側に近い場所(近畿南部,東海,関東など)は,真冬は寒いばかりで雪はあまり降りません。逆に春が近付くと雪が降る機会が多くなります。
また,山の紅葉は,冷たい時雨(しぐれ)が降る頃になると一層鮮やかに色づき始めます。
このように,季節の移り変わりに同時に起こる変化をとらえて,どちらが先に変化するかを心の中で競わせる。
万葉人の四季に対する思い入れの強さを「争ふ」だけでなく,「競ふ」を使った和歌でも私は感じてしまいます。
「競う」と「争う」
さて,「競う」と「争う」を合わせた言葉に「競争」があります。現代は国際的に熾烈な経済競争が行われていると言われています。
各国は自国の豊さや経済発展を求めて他国や他の地域連合とさまざまな競争をしています。
たとえば,先進国の多くは石油や天然ガスといったエネルギー資源,電子機器,電池などに欠かせないレアメタルなどの鉱物資源,膨大な研究投資で得た技術などの知的財産権といったものを他国に対して優先的に獲得したり保護したりすることに血眼になっています。
そういった努力をしていない国は,例え今が豊かでもやがて技術革新に乗り遅れ,国の富を増加させる手段を無くし,経済的に貧しい国になっていくのです。
そして,国際的な経済競争に取り残され,経済の破たんの危機に直面します。そんな危機に直面した国は,まず食料確保を優先し,医療,福祉,教育といった分野は後回しにされます。
「貧しい国になるリスク
そういう国では,死ななくてもよい治療法の確立されている病気の人が死んだり,将来国を託す人材が育たずさらに貧困を増大させるリスクを負います。
いっぽう,競争に勝つため必死に努力している国も,競争に負け,膨大な研究投資をしたほどは国の富を増加させることができず,経済的に貧しい国になってしまうリスクもあります。
厳しい国と国との競争に勝つためには,国内の企業も競争力をさらにつけていく必要があるといわれています。
そんな企業で働く人々は,結果として社内での成果主義に基づく競争にさらされ,それに勝ち抜く力を求められるのです。
個人は国と国との競争にとどう関わるべきか
私の知人の企業では,勝負にこだわる精神力が強いとうことで,一流スポーツ選手として経験持つ人を社員として積極的に採用しているとの話も聞きます。
これからの社会は,最後は周りの人間に負けない強いメンタルを持つ人たちが生き残っていく勝負の世界が,ますます広がっていくのではないかと私は考えてしまいます。
その意味で,競争(「競う」「争う」)という言葉が持つ今の厳しさと,万葉時代の「競ふ」「争ふ」の柔らかさに大きな違いを感じるのは私だけでしょうか。
私は,人が競い合うことは必要だと思います。ただ,自然を破壊してまで,また万葉集に出てくるような自然と調和しつつ向き合う心の余裕を捨ててまで競争を求められるこれからの時代を,明るい時代だと確信をもってはいえないのです。
遊ぶ(1)に続く。

2010年7月17日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…争ふ(2)

今回は「争ふ」の2回目です。万葉集の和歌に表れる「争ひ兼ねて」という慣用的な表現について触れてみます。
「兼ねる」とは「それはでき兼ねます」「あなたの意見には同意し兼ねます」「私はどうすべきか決め兼ねています」というようなときに使う「できない」という意味を婉曲に表した言葉です。
万葉集で表れる「争ひ兼ねる」は,結局「争うことができない」「勝負にならない」「抵抗できない」「負ける」「押される」「促される」といった意味にとれるようです。

春雨に争ひ兼ねて我が宿の桜の花は咲きそめにけり (10-1869 )
はるさめに あらそひかねて わがやどの さくらのはなは さきそめにけり
<<春雨に抵抗できず我が家の桜の花はついに咲き始めたのです>>

白露に争ひ兼ねて咲ける萩散らば惜しけむ雨な降りそね(10-2116 )
しらつゆに あらそひかねて さけるはぎ ちらばをしけむ あめなふりそね
<<白露に促されてやっと咲いた萩を散らしたら惜しいので雨は降らないでほしいものだ>>

しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひ兼ねて色づきにけり(10-2196)
しぐれのあめ まなくしふれば まきのはも あらそひかねて いろづきにけり
<<時雨の雨が間断なく降ると真木の葉もそれに負けて心なしか色づいて来たなあ>>

日本人が持つ季節の変化への非常に繊細な感性があればこそ,このような表現が可能になったと私は強く感じます。
この3首ともに雨や露という水滴が関係しています。
最近各地で浸水や土砂崩れの被害を及ぼしているゲリラ豪雨とは無縁の恵みの小さな水滴です。
これら3首の短歌順に,春の暖かい春雨が花が咲くのを誘う。秋の夜露が秋萩の花を咲かせる。でも,秋の雨は冷たく花を散らせてしまう。
さらに秋も深まり,もっと冷たい時雨が降り続けるようになると杉やヒノキの常緑樹の葉も色づくようだ。
<自然と一体になり,精神的安寧を得る>
季節の変化を「争ひ兼ねて」という擬人的な表現を使うことで自然を人間のように扱い,自身もその中に完全に溶け込み,自然の動きを感じつつ,自身の気持ちが本当に安らいでいるのを感じる。
そんな精神的な安寧を日本人は昔から自然の中に求めてきたのだと私は思うのです。
そして,このように自然に溶け込めたとき,実は日常的なさまざまな争い(競争)に疲れた自分を忘れることがでる。
まさに「争ひ兼ねて」がぴったりの表現だと私は感じます。

うつせみの八十言のへは繁くとも争ひ兼ねて我を言なすな(14-3456)
うつせみの やそことのへは しげくとも あらそひかねて あをことなすな
<<世間の人からいろんなことを言われ煩わしいと思っても,その煩わしさに負けて,つい私との関係を口に出したりしないでね>>

この短歌は,ふたりの関係を世間が詮索するけれど,今のあなたとの恋を続けるために私のことを黙っていてほしいという女性の気持ちを詠った東歌です。
古来,男は自分のモテ具合や恋人の可愛さを第三者に自慢したがる傾向があります。それを聞いた世間の人が恋路の邪魔をするのではないかと心配する女の気持ち。
そんなに男女の傾向は今もそれほど変わらないのかも知れませんね。争ふ(3:まとめ)に続く。

2010年7月10日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…争ふ(1)

最近,奈良市内と明日香を訪れる機会がありました。
奈良のあちこちに奈良遷都1300年記念の垂れ幕や旗が掲げられています。
明日香では,本当に久しぶりに甘樫の丘に登り,展望台から改めて大和三山香具山 畝傍山耳成山)を一望しました。
つかの間の梅雨の晴れ間で,雨の水分を根からも葉からたっぷり吸った眼下の木々の緑が目に痛いほど鮮やかでした。
家々や送電線などの人工物を除いた風景イメージを想像すると,昔も同じ風景が丘の上から望めたのだろう。
そして,万葉集を少し嗜んでいた学生時代に,この展望台に立ったときの記憶が鮮やかに蘇ってきました。
さて,この大和三山を詠んだ万葉集の和歌に,中大兄皇子(後の天智天皇)が詠んだとされる次の有名な長歌があります。

香具山は畝傍ををしと 耳成と相争ひき 神代よりかくにあるらし 古もしかにあれこそ うつせみも妻を争ふらしき (1-13)
かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひき かむよより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを あらそふらしき
<<香具山は畝傍山を愛し,同じく畝傍山を愛している耳梨山と争ったそうだよ。神代から争っていたらしいよ。昔からずっとそうだった。だから,今の人も妻にしようと争うこともあるんだって>>

畝傍山が女性で,香具山と耳成山が畝傍山を妻にすべく争ったふたりの男性というのが通説のようです。
この長歌は本当に中大兄皇子が詠んだのかという疑問は残りますが,今昔にかかわらず異性をめぐる三角関係で争いが起こるのは常だったように感じさせる簡潔な長歌です。
人間も生物である以上,強い遺伝子を残すため,異性をめぐって争う傾向が本能として備わっていても不思議ではありません。
実は,この背景に中大兄皇子と大海人皇子(後の天武天皇)は額田王をどちらの妻とするかで争ったのではないかという逸話があるといいます。
この大和三山の歌は,額田王をめぐって両兄弟の争いを心配した周囲に対して,中大兄皇子が詠んだ歌としたのかも知れません。
「そんな争いは昔からあり,珍しいことではないよ」と。

香具山と耳成山とあひし時立ちて見に来し印南国原(1-14)
かぐやまと みみなしやまと あひしとき たちてみにこし いなみくにはら
<<香具山と耳成山が争ったとき,(出雲の阿菩大神が)仲裁のために見に来たのが印南国原という地だ>>

印南国原は今の兵庫県の旧印南郡とされ,加古川流域の平野を指しているようです。
中大兄皇子がこの長歌と反歌を詠んでいると設定されている場所は,印南国原付近の港なのでしょう。
香具山と耳成山との争いは仲裁のために阿菩大神出雲から明日香に行く途中(印南国原)で争いがなくなったとの報を聞き,ここで帰ってしまったという言い伝えがあったそうです。
中大兄皇子は大海人皇子の不仲を気にする周囲に対して,逸話を例えに「そんなことを気にするな!これから領土平定・拡大への船出だ!」と鼓舞したかったのかもしれませんね。

万葉集は,いわゆる「大化の改新」,そして後の「壬申の乱」など,次々起こる権力闘争を背景とし,その中で起こる異性をめぐる争いを隠喩的(メタフォリカル)に表現した和歌が結構あるように感じます。
争ふ(2)に続く。

2010年7月2日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…染む(3:まとめ)

前回触れた壱岐の麦焼酎「天の川」を先週土曜の昼頃インターネットで注文したら,何と翌日曜の夜に届きました。本当に便利な時代になりましたね。
天の川君が寝ている間に,早速口を開けて,私が普通焼酎を飲むときの飲み方(ロック)で飲みました。
非常にまろやかで,芳醇さを感じる焼酎です。天の川君の性格と正反対かな。
ちょっと,今まで飲んだ麦焼酎とは違う,奥深い味わいで,買って良かったと思います。
後日,水割り,お湯割り,ストレートでも味わいました。
それぞれ異なる良い味わいを感じましたが,やはり私にはロックが一番合いました。
さて,「染む」の最終回として,万葉集から次の短歌を紹介します。

浅緑染め懸けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも(10-1847)
あさみどり そめかけたりと みるまでに はるのやなぎは もえにけるかも
<<浅緑に染めた糸を掛けたように春の柳が芽吹いています>>


      
この詠み人知らずの短歌は,ネコヤナギの花穂の毛を見て詠んだのではないかと私は思います。
猫の毛を思わせる花穂の毛の色はまさに薄緑に染めた糸でできたように見えたのではないでしょうか。

         出典:草花写真館(本館)のWebページ
「染む」は「初む」と同じ発音でもあり,何かの変化が始まる初期段階のイメージを持つかもしれません。
ただ,虜になるという強い完結した表現にも使われます。
さまざまな「染む」を詠みこんだ和歌が万葉集にあることを見ると,当時の染色は同じ色でも濃く染めたり,薄く染めたりする技術が当然のように確立され,さらに濃淡をアレンジして現代でいう「グラデーション」を表す染色技術もあったとさえ想像できます。
当時の染色技術者は,自然界の色の美しさや繊細さを染めものに表現しようと必死になって試行錯誤(研究)を繰り返していたのではないでしょうか。
また,万葉歌人の中には,色彩に関する豊かな感性を十分持っていた人々がいたと私には思えてなりません。
<現代人は割と画一的?>
いっぽう現代人はいろんな考えや価値観の情報,周りの人の行動などに影響されて(振り回されて),結局は割と画一的な考えに染まっているのではないでしょうか。
もう少し,自然の変化を意識して見て,その変化と日常生活との共通点を生活のリズムに取り入れてみたらどうかなと私は思います。
たとえば,今梅雨の真っ只中ですが,雷が鳴るようになったのでそろそろ梅雨も末期かもしれないと考えてみる。そうすると梅雨は結構早く明けるかもしれず,酷暑の可能性さえある。今のうちにエアコンを買うなど暑さ対策を早めにしよう。早めに夏山登山計画でもしようとか考えるのも面白いかもしれません。
<事前の変化にもう少し敏感になっては?>
私の近所の幹線道路には街路樹として百日紅(サルスベリ)が一定間隔で植えられています。今年も一部の木から咲き始めました。
これから赤,紫,白の百日紅の花が次々と咲いて,街路を美しく染めていくことを想像すると,本格的な夏を待ち遠しく感じてしまいます。
また,近所の裏道の道沿いで割と日陰になりやすい箇所には,ドクダミの小さな群生地があります。可愛らしい白い花が緑の(葉の)布地iにあちこち白く染め抜かれたように咲いています。

天の川君,我が家の初鰹(この夏初めて食べる)のタタキでも肴に焼酎「天の川」を一緒に呑もうか。

天の川 「ZZZ…Z」

あ~!!。半分以上残してあったボトルを天の川に全部呑まれてしまった。天の川のヤツ,も~許さん! 争ふ(1)に続く。

2010年6月26日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…染む(2)

「染む」には影響するとか感化するといった意味もあります。
この場合の読みは「そむ」だけでなく「しむ」と読む場合があります。英語の同義語ではinfectが近いかもしれません。
1986年(昭和61年)にテレサ・テン(鄧麗君)が唄って大ヒットした「時の流れに身をまかせ」の歌詞(作詞:三木たかし)の中に

♪時の流れに身をまかせ あなたの色に染められ

というフレーズがあります。この「色に染められ」に私は日本語の奥深さを感じます。
「染められ」のイメージは穏やかな感じですが,よく考えると実は「大好きなあなたの虜(とりこ)になって」というくらいの強い感じさえ与えます。
さらに,「色」を「心」の反対語として「からだ」の意味にするともっときわどい意味を感じさせてしまいそうですね。

万葉集にも虜になるという意味で「染む」が使われている有名な短歌があります。

なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ(3-343)
なかなかに ひととあらずは さかつぼに なりにてしかも さけにしみなむ
<<いっそのこと人間ではなく酒壷なってしまいたい。そうすればいつも酒と一緒に居られるから>>

これは大伴旅人の酒を讃(ほ)める歌13首のなかの1首です。
酒が好きで酒の虜になっていた旅人の気持ちを思い切った表現で書いています。
当時,公の場での飲酒を禁ずる令が何度も出されていたそうです。
でも,好きな酒とはいつも一緒にいたい旅人は,大宰府の長官という立場を超えて「いっそ酒壷になりたい」という大胆な表現を使い詠んでいることに私は愛着を感じてしまいます。

私自身,さほど多く飲みませんが,酒(アルコール飲料)は嫌いな方ではありません。
以前は割とビール派でした。でも最近は出された料理やそのときの季節や飲み仲間に応じて何でも嗜むようになりました。
日本酒,ビール系,ワイン,ウィスキー,焼酎,老酒,白酒(バイチュウ),カクテルなどです。

天の川 「たびとは~ん。壱岐にある天の川酒造の麦焼酎『天の川』が飲みたいなあ~。今度壱岐に連れってくれへんか?」

天の川君,交通費が大変だよ。また,道中,しゃべってばかりで君はやかましいからね。今インターネットで注文したよ。次回は君ではなく焼酎「天の川」を飲んだ感想でも書きますか。
染む(3;まとめ)に続く。

2010年6月20日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…染む(1)

今回から「染む」について万葉集を見ていきます。
万葉集では「染める」という意味の「染む」とその名詞形などが出てくる和歌は20首余りあります。
当時,朝鮮半島などから高度な染色技術が次々導入され,また国内でも染色技術が高度化していったと私は思います。その結果,万葉時代の都人が着る衣服がどんどんカラフルになっていったのだろうと想像できます。
これら20首余りの和歌には,染める色が何種類か出てきます。(くれない),(むらさき),(ふじ)色,(もも)色,浅緑(あさみどり),(き)色などです。
その中でも紅が一番多く,好んで詠まれていたようです。
紅とはベニバナから取れる染料で染めた色を指し,当時はベニバナで紅に染めた衣服を身につけることがもっともファッショナブルだったのかもしれません。
人々は色に対する感性が洗練され,次の短歌のように紅の染め色の濃さ,薄さまでもファッションの一要素だったようです。

紅の濃染めの衣を下に着ば人の見らくににほひ出でむかも(11-2828)
<くれなゐの こそめのきぬを したにきば ひとのみらくに にほひいでむかも
<<色濃く染めた紅の衣を下着として着たが、他人が見て紅色が透けて見えはしないだろうか>>

この詠み人知らずの短歌は,相手に対する気持ちの強さを紅の染め色の濃さに譬えています。他人に気づかれないように相手への思いを隠そうとするが,濃く染めた下着の色が上着から透けて見えそうになるように,表に出て気づかれてしまうかもしれない。相手に対して,恋する思いがそれほど強いことを伝えようとしている短歌だと私は思います。

紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも (12-2966)
くれなゐの うすそめころも あさらかに あひみしひとに こふるころかも
<<これまで薄く染めた紅の衣のようにそれほどあなたを意識せず見ていたのですが,今はあなたに恋してしまったようです>>

これも詠み人知らずの短歌ですが,最初の短歌に比べて分かりやすい内容かもしれません。ただ,ぱっと見気づかないけれどよく見ると紅の染色が薄く施されているような繊細な染色技術が当時すでに確立されていたことがこの短歌から見て取れます。この2首からは,恋する気持ちを詠んでいるようですが,最新ファッションを着ている自分を自慢しているようにも思えます。
<最新半導体工場の見学談>
さて,数年前私は仕事の関係で当時最新の半導体工場の内部見学が許されるという貴重な機会を得ました。
半導体とはコンピュータなど電子機器の制御をするマイクロコンピュータやUSBメモリなどのデジタルデータの記憶装置に使われる素子です。非常に精密な半導体の製造(1ミリの十万分の一の精度で加工が必要)は,高レベルのクリーンな空気の中で行う必要があります。まさに「塵ひとつない」との例えのような空気清浄を高度に施した環境(クリーンルーム)です。
塵の大きさは1ミリの十万分の一の大きさよりもずっと大きく,そんな塵が邪魔をするようでは精密な加工は到底できないわけです。見学のとき,私は特殊な防塵服と手袋を身にまとい,エアー洗浄を受けて中に入りました。花粉症の私にとっては中は結構快適な環境に思えましたが,空気以外にも特殊な作業環境があり,そこで作業をする人たちにとってはいろいろ苦労があるようです。
たとえば,ある製造工程では紫外線の影響を完全に排除する必要があり,紫外線を一切出さない照明の下で作業します。人は紫外線をまったく浴びないと気分が高揚しなくなる傾向があるようで,作業者の健康管理に気を使う必要があるとのことでした。
紫外線は目に見えない色(?)ですが,それでも人に影響があるくらいですから,目に見える衣の色での濃い・薄いの差が,敏感な人に与える影響は決して少なくないのかもしれませんね。
染む(2)に続く。

2010年6月13日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…添ふ(3:まとめ)

28歳になった大伴家持は越中に赴任します。
歌心のあった家持は美しく豊かな越中の地で自然,人情,美味しい食べ物を満喫し,多くの和歌を万葉集に残しました。
家持は,越中時代取り分け鷹狩りに熱中したようです。
鷹狩りは,野外で身体を使う高度な知的で人気のスポーツだったのでしょう。
鷹との相性,獲物の習性やいる場所の推測,獲物に悟られない俊敏な行動,競争相手との駆け引きなど,家持のような知的官僚が熱中しそうな要素が多々ありそうです。
そのため,越中の家持は一番お気に入りの大黒と名付けた矢形尾を持つ鷹がいなくなってしまったときの嘆きと鷹に帰ってきてほしい気持ちを詠った長歌を万葉集に残しています。

照る鏡 倭文に取り添へ 祈ひ祷みて 我が待つ時に 娘子らが 夢に告ぐらく 汝が恋ふる その秀つ鷹は 松田江の 浜行き暮らし ~(17-4011)
<~てるかがみ しつにとりそへ こひのみて あがまつときに をとめらが いめにつぐらく ながこふる そのほつたかは まつだえの はまゆきくらし~ >
<<~美しい鏡を高級な綾布に添えて鷹の帰りを神に祈って私が待つと,若い乙女たちが夢の中で私に告げた。「あなたが待ち焦がれているその優れた鷹は松田江の浜に行って暮していますよ」~>>

結局,最高の布に最高の鏡を添えて,鷹が無事帰ってくるようにと家持の願いもむなしく鷹は帰ってこなかったようです。
実は,この鷹を山田君麻呂という年配の人物が家持と一番気があっている鷹を勝手に狩に出し,逃げられてしまった。家持はこの長歌の中ほどで山田翁に対し「狂れたる 醜つ翁の」というくらい怒りをぶつけています。
また,その後の短歌で次のように山田爺の実名を挙げて,さらに一撃を加えています。

松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ(17-4014)
まつがへり しひにてあれかも さやまだの をぢがそのひに もとめあはずけむ
<<ボケてしも~たか? 山田の爺さん「その日に探したけどおらん」と言っているそうだが>>

もちろん,家持は山田爺を懲らしめたりはしなかったでしょう。
家持は自分の残念な気持ちを和歌に表わすことで,気持ちの整理や切り替えをするきっかけにしたのではないでしょうか。
逆に,実名を短歌に入れるほど,山田爺と家持の関係が鷹狩りの場で気の置けない関係だろうと私は推測しています。
<また,中国出張の話>
ところで,5月下旬の中国遼寧省に出張に行った際の話をまたします。現地パートナー社員と話をしている中で,中国も少子化が進み,将来日本以上に高齢化が進むことに対する危惧を国全体が感じているようだという話が出ました。
そのためか,中国の一人っ子政策は少し緩和されているそうです。たとえば,夫婦ともに一人っ子の場合は2人まで子どもを持つことができるとか,また,小数民族は一人っ子でなくてもよいとか。
遼寧省は朝鮮族出身者も多く,私が初めて会った若手パートナー社員に朝鮮族出身者がいましたが,朝鮮族は中国では少数民族に分類されるので,一人っ子政策対象外とのことでした。
<少子高齢化で個々が分断?>
さて,今の日本では,少子化に歯止めがかからず,少ない子供に対して早いうちから子供部屋を宛がう家も多いようです。このような状況で育った人は,個人でいることを好み,いろいろな人と寄り添って(協力して)人生を生きようとしなくなる傾向にあるのかも知れません。
私は,人の心と心がもっと添いあえ,気軽に何でもお互いが言いあえる社会になるために何が必要か考え続けています。しかし,残念ながら明確な道筋に沿った良い案がなかなか思い浮かびません。
染む(1)に続く。

2010年6月6日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…添ふ(2)

「添ふ」には,人が「寄添う」という意味のほかに,モノを「添える」という意味で詠まれた万葉集の和歌があります。
次の短歌は,詠み人知らずの秋の花に寄せる相聞歌です。

秋津野の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が仮廬に(10-2292)
<あきづのの をばなかりそへ あきはぎの はなをふかさね きみがかりほに>
<<吉野の秋津野のススキを刈って,添えた秋萩の花を葺いてさしあげましょう,あなたのお住まいに>>

恋人の家の屋根に葺かれたカヤなどが傷んでいるのを,綺麗なススキを刈って,さらに秋萩の花を添えて葺いてあげましょうと詠んだのでしょう。
もちろん,これは比喩表現で,私には「好きなあなたの心を明るく(秋萩の花),幸せに(ススキの束)してあげたいと思っていますよ」という意味と解釈します。
とても分かりやすい相聞歌かもしれませんね。
もう一つの短歌は,山上憶良が筑紫で詠んだまたは編集したと伝えられる短歌です。

大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも(16-3869)
<おほぶねに をぶねひきそへ かづくとも しかのあらをに かづきあはめやも>
<<大きい船に小舟を引き添えて海に出て,地元の海人が潜ってみても,志賀島の漁師荒雄に海中で会えることができるだろうか>>

この短歌は,志賀島の漁師である荒雄という人物が対馬の防人に物資を運ぶ役目の途中,遭難して帰らぬ人になったことに対する鎮魂の短歌10首の最後に出てくる歌です。
この10首のうち7首に,この短歌のように荒雄という漁師個人の名前が出てきます。
ただ,この短歌以外の6首は「荒雄ら」となっていて,荒雄とその船員を指しているようですが,この短歌だけは荒雄個人を意味しているようです。
荒雄を捜索するのに,小舟だけで玄界灘に出るのは危険が伴うため,大船の船体に太縄で繋ぎ添わせて海原に出て,遭難したと思われる地点で小舟に海人が乗り移り,潜って捜索を試みたのかも知れません。
大船だけ出したのでは,海人が海に潜った後,摑まるところがなかったり,大船の甲板と水面を行き来するだけで体力を消耗してしまいます。

この2首に出てくる「添ふ」は,ともにあるモノに付加価値(前の短歌は「秋萩の花」,後の短歌は「小舟」)を加え(添え)ることによって,元の一つのモノでは効果が限られているものをカバーする意味を示していると思います。

ヒトは何かの課題に直面したとき,ただ一つの解決策のみを見つけようとしがちではないでしょうか。
しかし,一つの解決策のみでは,メリットのほかデメリットも出てくる可能性があります。
いくつかの解決策を組み合わせることによって,それぞれのデメリットをカバーし,またメリットを相乗させることができる可能性があります。

たとえば,ウィスキーはいくつかの樽や製法の原酒をプレンドの達人と呼ばれる人がブレンドすることで,比較的まろやかで多くの人に受け入れられる味わいの製品ができるとのことです。
いっぽう,英国スコットランドアイラ島で製造されるシングルモルトウィスキーのように非常に個性的な味わいのものも作られ販売されていますが,日常的に水割りやハイボールとして飲む一般的なウィスキーの風味と大きく異なります。

別の例の話をします。
何かの目標に向かって進むチームやグループのリーダーは,同じ経験,考え,能力の人だけによる構成の方が管理が楽と思うようです。そのため,同じような人ばかり集めるか,各メンバーに同じ考え方や能力を発揮することを強制しがちです。
ただ,その場合,人数分の成果を達成するのが最大効果だが,異なる経験,考え方,能力を持つ人が加わっていると,結果として大きな相乗効果を発揮する場合があるといわれています。
本当に優秀なリーダーは,異なる経験,考え方,能力のメンバーの適材適所を考え,チームやグループとしてさらに大きな能力を発揮できるメンバー配置の能力に長けていると私は思います。ウィスキーのブレンドの達人のように。

天の川 「たびとはん。僕がたびとはんに添うことで相乗効果は抜群やろ?」

そのうち,天の川君にブレンドも失敗することが多々あることを教えないとね。 添ふ(3:まとめ)に続く。

2010年5月30日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…添ふ(1)

今回から「添ふ」について万葉集を見ていきます。
側近くに寄る,夫婦として共に暮らすという意味の「添ふ」は,万葉集ではかなり定型的な表現で使われているようです。
その表現とは「身に添ふ」,またはその修飾表現です(例:「身に取り添ふ」「身に佩(は)き添ふ」)。また,次の東歌のように「剣大刀」という枕詞が前に付く定型表現もいくつか使われています。

剣大刀身に添ふ妹を取り見がね音をぞ泣きつる手児にあらなくに(14-3485)
つるぎたち みにそふいもを とりみがね ねをぞなきつる てごにあらなくに
<<いつも一緒だったおめえを俺のものにできなくてよ~,俺は大声を出して泣いちまったぜ。小っちぇ~餓鬼っちょでもないのによ~>>

ちょっと雰囲気を出しすぎて標準的な訳でなくなったかも知れませんが,東歌ということでご容赦ください。

天の川 「たびとはん。この短歌を次の訳にしたらどうやろ?」
<<いつも一緒やったあんたをわてのものにでけへんかったさかい大声できつ~泣けよった。小っこい坊主ちゃうのになあ~>>

天の川君,悪いけどこれでは完全に(関東の)東歌の雰囲気は壊れてしまうね。変な突っ込みは無視して話を続けます。
剣や大刀の本体(刃の部分)は「鞘(さや)」や「柄(つか)」に対して「身」と呼ぶことから「剣太刀」は「身」などに掛かる枕詞と考えられているようです。
また,剣や大刀は腰に直接着ける(差す)ため,「剣大刀」の枕詞が付いた「身に添ふ」は本当に近くに寄添う状況をイメージしているのだと私は想像します。
この東歌は「身に添ふ妹」と夫婦になれなかった悔しさを見事に表現していると私は捉えています。
<私の中国出張の経験>
ところで,私は先週5日間ほど会社の出張で中国遼寧省へ行ってきました。
中国のパートナー会社と新規IT関連プロジェクトの打合せのためです。
今まで過去4回ほどそれぞれのプロジェクト連携で訪問しているのですが,今回4年ぶりの訪問で以前一緒にプロジェクトをやった技術者との久しぶりの再会を喜びあうことができました。
再会した人たちは,前回訪問時以降一往に昇進し,中には前回以降結婚し子供ができた人もいました。もちろん初めて連携プロジェクト参加する数多くの初対面の技術者とも仲良くなれたことも収穫の一つです。
訪問時の挨拶では,私はいつも「1千数百年以上前から私たち日本人は中国からものすごくたくさんのことを教えて頂いてきた。今回のプロジェクトは困難なプロジェクトだけれども,お互いの強みや特徴ある知恵を出し合って見事乗り切ろう」との内容を入れることにしています。
<お互い寄り添って考える>
プロジェクトの重要成功要因は,メンバーが如何に近い(添う)気持ちで何でも言える関係になれるかが一つのポイントだと私は考えています。今回の訪問ではパートナー企業の担当者から新たな連携内容について質問が大小100以上出ることを目標にして,何でもフランクに話しができ,ディスカッションできるよう,いわゆるファシリテーションにも力を入れました。
さらに,彼等自身の課題について一緒に解決策を導き出すことにしました(現場が長かったので同じような経験を多数していましたから)。「そんな問題は君たちが考える話だ!」というような突き放した言い方は一切せずにです。
「そんなことをすると相手企業を甘やかすことになる」と私のやり方に異議を唱える日本の技術者がいることも知っています。
<補完関係で品質確保>
ただ,今回もプロジェクト全体遂行の難しさを具体的に伝え「私たちも難しい問題をいっぱい抱えている。こちらの問題解決にも一緒に協力してほしい」と伝えました。
結果,相手担当者は簡単な一部のみの対応を期待されているのではないことを感じ,さまざまな課題の対応策を必死で考え出そうとしてくれるようになった手応えを得たのです。
特に「品質保証に対する強い意識。品質確保には十分なコミュニケーションが必要。一方通行では品質は確保できない」という思いを共有できたことは大きな収穫でした。
お互いが「剣大刀身に添う」ように近い関係のパートナーとして互恵関係を築くことこそがグローバルな連携の柱だと私は改めて感じることができたのです。
それと同時に,このような密接な国際連携ができる今日の日中友好関係を先陣を切って築かれた先達の英知と努力に心より尊敬と感謝の念も重ねて強く感じられた今回の出張でした。
「添ふ(2)」に続く。

2010年5月22日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…頼む(3:まとめ)

「頼む」相手は,まさに信頼できる「頼もしい」(頼むの形容詞形)相手,そして「頼れる」相手であることが前提となります。

大伴の名に負ふ靫帯びて万代に頼みし心いづくか寄せむ (3-480)
おほともの なにおふゆきおびて よろづよに たのみしこころ いづくかよせむ
<<大伴の名を伝える靫を着け、万代まであなたを頼りにしたかった私の心は、何を頼りにすればよいのでしょう>>

この短歌,万葉集題詞によると天平16年大伴家持が26歳のとき,17歳の安積皇子(あさかのみこ)が急死したことに対して詠んだ一連の挽歌の最後の一首です。
安積皇子は難波宮(なにはのみや)への行幸(みゆき)の途中脚気(かっけ)で危篤になり,恭仁京(くにのみやこ)に戻ってすぐに亡くなったようです。
この急死は,当時聖武天皇(しやむてんわう)の下で政権を掌握していた橘諸兄(たちぱなのもろえ)を引きずり降ろそうとしていた藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)による毒殺という説もあります。そのくらい,当時の権力争い(どの氏の血縁が天皇になるか)が本当に激しかったのだろうと私は想像しています。
当時,聖武天皇には歴史に名をとどめる夫人が2人いたようです。安積皇子はその夫人2人の内で,橘諸兄と縁の深い県犬養広刀自(あがたのいぬかひのひろとじ)という夫人の子でした。
もう1人の夫人は藤原仲麻呂の叔母にあたる光明皇后(くわうみやうくわうごう)です。
安積皇子は聖武天皇の第2皇子です。ただ,光明皇后が生んだ皇太子(第一皇子)はすでに亡くなっていたため,次の天皇へと期待が高まっていたのです。この急死は橘諸兄派にとって大きなショックだったのだろうと想像します。家持のこの短歌で安積皇子の将来に対する期待(頼りにしていたこと)が崩れた悲しみと不安を家持は表現していると感じます。
藤原仲麻呂は,この後聖武天皇がやむなく娘の孝謙天皇(かうけんてんわう)に譲位した後,政権を恣(ほしいまま)にしようとします。
<藤原仲麻呂の野望と家持の苦節>
橘諸兄側を頼りにしていたと考えられる大伴家のプリンス家持の不安は的中し,藤原仲麻呂台頭とともに家持は徐々に不遇の扱いを受け,出世を妨げられていくのです。
家持がこの挽歌を詠った15年ほど後,頼みにしていた橘諸兄も没し,因幡の国(鳥取県)に左遷された家持は万葉集最後の短歌を詠んでいます。

新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重げ吉事(10-4516)
あたらしきとしのはじめのはつはるのきょうふるゆきのいやしけよごと
<<新たな年(春)の始まりに降った雪が降り積もっていくように本当に良いことが重なってほしいことよ>>

頼れる人達の影が次々といなくなっていく不安を40歳を過ぎた家持は神仏を頼りにしたいような気持でこの短歌を詠ったのかもしれません。
家持は,その後は和歌の収集や記録を止めて,大伴氏存続のためにさまざまな努力をしていったのだと私は思います。
しかし,そのような家持の我慢も5年ほどで終わることになります。藤原仲麻呂のクーデターが失敗し,その後家持は復活を遂げるのです。
<苦節に立ち向かう自分は変革のチャンス>
さて,現在の私たちも頼みにする人が亡くなったり,離れて行ったとき,不安になったり,悲嘆に暮れたりすることがあるかもしれません。
ただ,その状態は自分自身が頼みにされる側(より強い自分)に変革する大きなチャンスではないでしょうか。
その変革とは,他人に頼るだけの(逃げの)自分から,その逆境に自らが立ち向かう勇気と(自立した)気持ちに切り替えることだと私は思うのです。
そのチャンスを生かし自分をより精神的に強い人間に変えることができた人の中には,時としてある歌人や詩人が詠んだ詩歌に接し,その感動が変換点になった人も多かったのだろうと私は想像します。
「添ふ(1)」に続く。

2010年5月15日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…頼む(2)

万葉集で「頼む」の特徴的なもう一つの用例として「我れを頼む」「我れは頼む」「我れも頼む」という表現に着目してみましょう。
この表現,自分が何かに期待する(していた)という気持ちを表すときに使われているようです。その例をいくつか示します。

かくのみにありけるものを妹も我れも千年のごとく頼みたりけり(3-470)
かくのみに ありけるものを いももあれも ちとせのごとく たのみたりけり
<<このように人の命は果敢ないものであったのに、貴女も私も千年も生きられると思っていた>>

言のみを後も逢はむとねもころに我れを頼めて逢はざらむかも(4-740)
ことのみを のちもあはむと ねもころに われをたのめて あはざらむかも
<<言葉だけ「いつか逢おうとね」と優しく言って私を期待させて,結局逢ってはくれないのではないですか>>

百千たび恋ふと言ふとも諸弟らが練りのことばは我れは頼まじ(4-774)
ももちたび こふといふとも もろとらが ねりのことばは われはたのまじ
<<「恋い慕っている」と口伝えした使者たちのうまい言葉を何度もらっても,もうぼくは信じられない>>

天雲のたゆたひやすき心あらば我れをな頼めそ待たば苦しも(12-3031)
あまくもの たゆたひやすき こころあらば われをなたのめそ またばくるしも
<<天の雲のように変わりやすい心をお持ちならばその気になるようなことは言わないで。期待して待つのは苦しいばかりです>>

遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを(14-3429)
とほつあふみ いなさほそえの みをつくし あれをたのめて あさましものを
<<浜名湖近辺引佐細江の澪標(みおつくし)みたいに、私にあなたとの恋路があるように期待を持たせておきながら、でも、あなたは全然その気はなかった>>

これら「我れ☆頼む」などを使った短歌は,信頼していた相手が亡くなったり,相手の気持ちが分からなくなった(ミスマッチが発生した)気持ちを端的に表しているように私は思います。
すなわち,ずっと変わらずにいてほしい愛おしい相手の存在,気持ち,行動に対する信頼が揺らいだ。そして,今風の演歌歌詞にでも出てきそうな一種の「怨みことば」にも似た感情表現として「我れを頼む」などが使われたのかもしれません。
万葉集には,古いと感じさせない時代の違いを超えた人間共通の感情の表現がそこここにありそうな気がします。今後もある種の共通した「ことば使い」を通してそれを発見する楽しさをみなさんと共有できればと考えています。
「頼む(3:まとめ)」に続く。

2010年5月4日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…頼む(1)

今回から,動詞「頼(たの)む」について触れてみたいと思います。
万葉集では「頼む」という言葉が意外と多くの和歌(30首以上)で出てきます。
その中でも「大船の思ひ頼む」または「大船の頼める時に」という決まり文句のような使われ方が併せて12首の和歌(長歌10首,短歌2首)に出てくるのです。
この用例は,万葉集では相聞,挽歌の両方で使われています。
ちなみに,「大船の」は「頼む」にかかる枕詞との解釈が一般的のようです。
この「頼む」の意味は,現代の意味における「信じる」に近い意味ではないかと私は思います。たとえば「思ひ頼む」は,心の中で頼りにしたい神仏や相手を信じて願うという意味があるようです。

大船の 思ひ頼みて さな葛 いや遠長く 我が思へる 君によりては 言の故も なくありこそと 木綿たすき 肩に取り懸け 斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 天地の 神にぞ我が祷む いたもすべなみ (13-3288)
おほふねの おもひたのみて さなかづら いやとほながく あがおもへる きみによりては ことのゆゑも なくありこそと ゆふたすき かたにとりかけ いはひへを いはひほりすゑ あめつちの かみにぞわがのむ いたもすべなみ
<<心から信頼し遠くからずっとお慕いしているあなたの所為(せい)で,私は忌み言葉も口にせず,たすきを肩にかけ,神聖な甕(かめ)を身を清めて土を掘って置き,必死に神に拝むしかすべはないのですよ>>

詠み人知らずのこの長歌(相聞歌)は女性の作と言われているようです。
この長歌を返すことになった男性の長歌は,次の通りです。

菅の根の 懇に 我が思へる 妹によりては 言の忌みも なくありこそと 斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 竹玉を 間なく貫き垂れ 天地の 神をぞ我が祷む いたもすべなみ (13-3284)
すがのねの ねもころごろに あがおもへる いもによりては ことのいみも なくありこそと いはひへを いはひほりすゑ たかたまを まなくぬきたれ あめつちの かみをぞわがのむ いたもすべなみ いもによりては きみにより きみがまにまに
<<心から私が思っているあなたの所為(せい)で,私は忌み言葉も口にせず,神聖な甕(かめ)を身を清めて土を掘って置き,神事に用いる竹玉を間を空けずに緒に貫き垂らして,すべての神に拝むしかすべはないのですよ>>

下の男性の長歌を受け上の長歌を返した女性は,「思ひ頼みて」というほど,あなたの「懇に」に比べてもっと強い気持ちでいることを主張しているように感じます。
男女が熱愛関係に陥ると自分の方が愛しているのにあなたはそれほど愛していないのではないかという不安感が高まり,相手の気持ちを確かめずにはいられなくなるのかも知れません。
これは,愛する相手を一人占めにしたい,絶対離したくないという欲求によるもので,まさに相聞歌(相聞く歌)そのもので,相手の気持ちを確かめるためのものでしょう。
ストレートに相手の気持ちを聞くのではなく,自分の思いを伝え,「それであなたの方は?」という意味を言外に含ませる,恋の駆引き的なものが私には感じられますね。

天の川 「ちょっと待ってんか,たびとはん。 あんたは,そんな分かった風に言えるほど恋愛の経験なんか持ってへんのとちゃうか?」

え~っ。まあ,その点に関しましては~,早急に検討の上,可及的速やかに何らかの対応する所存でございます。「頼む(2)」に続く。

2010年4月30日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…笑む(3:まとめ)

「笑む」またはその名詞形を示す万葉集の原文の文字(万葉仮名)が何かを調べてみました。
その結果,大伴家持山上憶良以外は作者(含む詠み人知らず)の和歌は,みな「笑」に関する部分の万葉仮名は「咲」という漢字を含む形のようです。
いっぽう,家持の和歌では「咲(笑み)」の万葉仮名も何首かありますが,「咲比(笑ひ)」「咲儛(笑まひ)」「咲容(笑まひ)」「恵麻比(笑まひ)」「恵麻波(笑まは)」「恵美(笑み)」「恵末須(笑まず)」「恵末比(笑まひ)」「恵良恵良(笑ら笑ら)」とさまざまな万葉仮名をあてています。
憶良の長歌では「恵麻比(笑まひ)」を使っています。
このことから,「笑む」またはその名詞形は花が咲くという意味を連想させ「咲」の字で「笑む」などと発音させるのが一般的だったけれども,家持や憶良はある意図を持って「恵麻比」のような音読みの万葉仮名を採用した可能性があります。

父母を 見れば貴く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立て ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の子と 朝夕に 笑みみ笑まず もうち嘆き 語りけまくは ~(18-4106)
<~ちちははを みればたふとく めこみれば かなしくめぐし うつせみの よのことわりと かくさまに いひけるものを よのひとの たつることだて ちさのはな さけるさかりに はしきよし そのつまのこと あさよひに ゑみみゑまずも うちなげき かたりけまくは ~>
<<父母を見れば尊敬を感じ,妻子を見れば愛らしく可愛いと感じる。これが今の常識とこのように言われている。人の噂では,チサの花が咲く盛りにいとしく可愛い妻子と朝夕にほほ笑んだり,ときにはほほ笑まないで嘆き語ったかもしれない~>>

この大伴家持作の長歌(抜粋)では「咲ける」「笑み」「笑まず」が含まれていますが,この3単語ともに訓読みの万葉仮名ではどれも「咲」という文字を使うことになる可能性があります。
ところが,家持はこの長歌で「咲ける(佐家流)」「笑み(恵美)」「笑まず(恵末須)」という音読みの万葉仮名をあてています。
「咲」という万葉仮名は,訓読み(意味をやまと言葉で表す)のため,やまと言葉のあたる意味が複数あるといくつかの読み方が可能となってしまいます。そのため,家持は音読みの漢字を敢えて当てて,「咲」を使った場合の読みの混乱を防いだのではないかと私は思います。
<漢字の訓読みと音読み>
訓読みの万葉仮名は,漢文の「読み下し」が得意な人にとって理解が容易だったのだと思います。いっぽう音読み万葉仮名は,漢文を中国語発音で読むのが得意な人にとって理解しやすいと想像できます。
家持は遣唐使経験のある憶良と異なり唐には行った経験はないようですが,この万葉仮名使いから見ると漢文を中国語発音で音読できる程度の中国語の素養があったことが推察されます。
<「笑む」はうれしいときに出るもの>
さて,ここまで万葉集の「笑む」にこだわって書いてきましたが,本当の「笑む」はやはり人との係わりの中で生まれるものだと感じました。人は相手の「笑む」を見て,お互いの人間関係がうまくいっていることを確認し,安心感をもちます。
たとえ,一人でほくそ笑んだとしても,家族や恋人との楽しい思い出に浸ったり,上司や周りの人に評価されことを一人で歓びをかみしめたりと,何か人との関係がうまくいったときに出るものだと思います。

これからも「笑み」を忘れず過ごしたいものだね,天の川君?

天の川 「なるほどな。なるほどなるほどなるほどな。そやけど,FUJIWARAの原西みたいなどぎつい笑いもええなあ。へっ,へっ,屁が出る3秒前。3,2,(ピー)」

天の川君の音声は途中で消しました。「頼む(1)」に続く。

2010年4月25日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…笑む(2)

今回は,「笑む」と大伴家持との関係について述べてみたいと思います。
<(1) 家持は「笑」を好む?>
「笑む」またはその名詞形や熟語を使った和歌は万葉集に28首ほどありますが,その作者を調べてみると大伴家持との関係が少しあるように感じます。
実はこの和歌の数は28首のうち12首が家持作と言われています。
家持は万葉集全4516首中473首もの和歌の作者とされていますから,万葉集の和歌を分類した場合,分類分けした一つに含まれる家持作の和歌が他の詠み人の和歌より多く現れるのは自然です。
ただ,それでも万葉集全体に占める家持作の和歌数の割合は10%余りですが,「笑む」またはその名詞形や熟語を使った和歌28首のうち44%もが家持作なのです。
家持作以外で「笑」を詠んだ和歌は詠み人知らずの和歌が11首,聖武天皇坂上郎女山上憶良山部赤人河村王と伝えられている和歌が各1首ずつとなっています。
詠み人知らずの作者がひとりとは考えにくいため,ひとりで12首も「笑」の言葉を使った家持は,他の詠み人よりも「笑」という言葉を好んで使っていた可能性が十分伺えます。

我が待つ君が 事終り 帰り罷りて 夏の野の さ百合の花の 花笑みに にふぶに笑みて あはしたる 今日を始めて 鏡なす かくし常見む 面変りせず (18-4116)
<~あがまつきみが ことをはり かへりまかりて なつののの さゆりのはなの はなゑみに にふぶにゑみて あはしたる けふをはじめて かがみなす かくしつねみむ おもがはりせず
<<~私が待つ君が仕事を終えて帰って来られて 夏の野の小百合の花がほころんだように満面の笑みで再会して今日からずっと鏡と向き合うように毎日お目にかかりましょう,いつも同じように。>>

これは,749年越中の国守として赴任中の大伴家持31歳頃,補佐官・(じょう)の任にある久米広縄が前年から報告使(朝集使)として都に行き,越中に無事帰ってきたことの祝宴で,広縄との再会を慶んで詠んだ長歌の後半部分です。
小百合の花が咲いたときのように満面の明るい笑みで再会でき,そしてこれからもその笑みでお付き合いしましょうという意味が相手にイメージとして伝わる長歌だと私は思います。
<(2)越中の豊さと「笑」>
ちなみに,この長歌のように家持が「笑」の言葉を使って詠んだ和歌の3分の2は越中赴任中に詠んだ和歌です。
家持が元々「笑」の言葉が好きだった上に,当時の越中経済が豊かで,人々が明るく平和に暮らしていた影響された部分もあると私は感じます。
当時の越中は山海の幸が豊富に獲れ,砺波平野では農地の開発が進んでいたようです。
たとえば海の幸ですが,今頃富山湾では地元では「ホタルイカの身投げ」と呼ぶ現象が見られます。
それは,新月前後の夜,海辺に活きたホタルイカが光を放ちながら海岸に多数打ち寄せられて来て,今でも手づかみで獲れるそうです。富山湾はそんな豊かな海なのです。
また,産業面でも和紙の製造が盛んだったようで,正倉院文書に「越中国紙」として都に献上されたという記録があるとのことです。
また,全国の各港と船で結ぶ港があり,豊富な物資や産物と交換に全国のさまざまな物も入ってきたのだと思います。
なによりも都から離れていたということで,都の政争の影響が少なく,平和で豊かな暮らしが実現していたのだと私は想像します。

家持が上質な越中和紙を豊富に使い,自分や部下の詠んだたくさんの和歌を万葉仮名で記録させ,地酒と地産の肴を嗜みながら和歌を整理して「笑む」家持の顔が目に浮かぶようです。
(右は,WIKIMEDIA COMMONSにアップロードされたものを引用)

2010年4月18日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…笑む(1)

本シリーズの4番目として「笑(ゑ)む」を取り上げます。
「笑む」とは,万葉集では「にこにこする」,「ほほえむ」,「花が咲く」という良いイメージで使われているようです。
まさに弥勒菩薩半跏思惟像などのいわゆるアルカイックスマイルは,「笑む」のひとつの典型だったのかも知れません。
しかし,現在では「あざ笑う(嗤)」「失笑する(哂)」も「笑」という字を使って表現することも多く,ネガティブなイメージで「笑」を用いる場合があります。
万葉集の和歌には,「笑む」以外に「笑む」の熟語や名詞形として次のようなものが出てきます。

 下笑む(心の中で嬉しく思う。)
 花笑み(花が咲くこと。蕾がほころびること。)
 笑ます(「笑む」の尊敬語)
 笑まひ(にこにこ笑うこと。ほほえむこと。)
 笑まふ(「笑まひ」の動詞形)
 笑み(「笑む」の名詞形)
 笑み曲がる(笑って相好をくずす。)
 笑ら笑ら(楽しみ笑うさま。)

さて,次は「笑む」と「怒る(いかる)」の両方が出てくる万葉集の詠み人知らずの短歌です。

はね鬘今する妹がうら若み笑みみ怒りみ付けし紐解く (11-2627)
はねかづら いまするいもが うらわかみ ゑみみいかりみ つけしひもとく
<<髪飾りを今もしている新妻はまだうら若いので,ほほ笑んだり怒ったふりをしてみたりして妻の衣服の紐を少しずつ解いていく>>

この短歌が表現している状況はみなさんの想像にお任せします。1300年ほどの前の短歌です。
万葉集が勅撰和歌集だったらまず選ばれない短歌でしょうね。
万葉集の選者も,この短歌の作者が分かっていたとしても詠み人知らずの巻に入れておくのが良いと考えたのかもしれません。

また,源氏物語「葵」の巻で光源氏紫の上と新枕をともにする近辺の描写と類似性を私は感じました。(右は土佐光起筆。WIKIMEDIA COMMONSにアップロードされたものを引用)

天の川 「たびとはん。こんな経験羨ましいと思うてんのとちゃいまっか? でも,甲斐性ないさかい無理やろな。」

天の川君,「甲斐性がない」は余計なお世話だね!
だけど,この「紐解く」の短歌も男にとってある種の願望を表わすフィクションかも知れないなあ。
笑む(2)に続く。

2010年4月11日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…偲ふ(3:まとめ)


ここまで「偲ふ」の言葉自体の話よりも,万葉集でそれが使われた一つの和歌に関する歴史的背景に重きをおいて述べてきたのかも知れません。
「偲ふ」のまとめとなる今回も,また違った「偲ふ」による短歌を紹介し,その時代的意味について想像を巡らせてみたいと思います。

佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲ひいや川上る(7-1251)
さほがはに なくなるちどり なにしかも かはらをしのひ いやかはのぼる
<<佐保川で鳴いている千鳥よ。どうして川原をいつも好んでそんなに川をさかのぼっていくのか>>

人こそばおほにも言はめ我がここだ偲ふ川原を標結ふなゆめ(7-1252)
ひとこそば おほにもいはめ わがここだ しのふかはらを しめゆふなゆめ
<<人間にとっては平凡な風景かも知れないが,おれたち千鳥にとってはここは本当に好きな川原だ。「ここは人間の場所だ」というような標識を立てたりするなよ>>

この2首は,1首目で人間がチドリに問いかけ,2首目でチドリがそれに答えている短歌です。
すなわち,佐保川を「偲ふ(好きである,愛している)」ことについて人間とチドリの問答歌なのです。
人間はチドリが他の川原と特に変わるところがないのにどうして佐保川に好き好んで多く集まってくるのか不思議でならないと問います。
チドリは人間に佐保川の良さを「偲ふ」気持ちを分かるはずがないと応酬します。そして,人間の横暴を許しません。
<自然との調和を考慮しない「環境に優しく」は自分勝手?
さて,今の世の中,ますます豊さを求めて自然を人間にとって便利なように変えていこうとしています。
「環境に優しく」ということが決まり文句のようになっていますが,あくまでも人間の目線や価値観による「偲ふ」で考えたエコでしかないように見えます。
人類という種が衰退する方向で環境優先を考えることは論外であり,所詮人類の拡大や繁栄をどこまで制限(我慢)できるかの発想でしかないように思えます。
この2首は,人間の欲望と自然との調和という永遠の課題を「偲ふ」といいう言葉をキーワードとして使い表現しているように私は感じます。
結局,万葉集の「偲ふ」を見ていくと,現在「偲ぶ」で使われる意味よりももっと広い意味だったのは間違いないようです。
ところで,最近私は「偲ふ」人と逢うことができた夢を見ました。
その女性は,逢っていても,離れていてもまさに「偲ふ」という言葉がやはりぴたりと当てはまる人なのです。
また,そんな夢がまた見られたらと思いつつ「偲ふ」の話題を終り,次は万葉集を通して「笑む」について考えたいと思います。

天の川 「ね~,たびとは~ん。僕のことも偲んでいやはるんやろ?」

お~!気持ち悪。 笑む(1)に続く。

2010年4月4日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…偲ふ(2)

今回は,「偲ふ」の2回目として「見つつ偲ふ」という表現を中心に考えてみます。
万葉集には「見つつ偲ふ」という表現を使った和歌が26首ほど出てきます。
万葉集全20巻のうち,いくつかの巻を除き,この表現を使った和歌がどこかに出てきています。比較的偏りが少ないため,結局,この表現は万葉集の和歌の作成年代にかかわらず使われてきた慣用的なものではないかと私は思います。
「見つつ偲ふ」の意味は,「■■を見て(眺めて),(そこにない)○○を偲ぶ」ということになるでしょう。
万葉集のこの26首を見ると,偲ぶ対象である○○には次のもの(人)が出てきます。
 巨勢の春野,遠妻,君,妹,家,我妹子,
 我が背(子),遠き妹,国,益荒男
すなわち,遠く離れた恋人,妻,家族,家,故郷,懐かしの地,憧れの地を偲んでいるようなのです。
いっぽう,見る対象である■■には次のものが出てきます。
 椿,雲,秋萩,撫子,清き川原,白波,
 藻の花,小竹,月,淡雪,衣の縫目,
 白栲の袖,布施の海,花,絵,足柄の八重山,
 アジサイ,初雪
これらは,今はいない人の「形見」となっているものも多くあるように思います。

高円の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ(2-233)
たかまとの のへのあきはぎ なちりそね きみがかたみに みつつしぬはむ
<<高円の野辺に咲く秋萩よ散らないでほしい。今君(志貴皇子)の形見として見て偲んでいるのだから>>

これは,志貴皇子が亡くなったことを詠んだ挽歌の中の一首です。
志貴皇子は,大伴家持による万葉集編集プロジェクトを強力にバックアップしたと(私が勝手に想像している)光仁天皇の父です。
光仁天皇が7歳になるかならないかで,父志貴皇子はすでに亡くなっていたようです。多分,父の記憶が少ない中,光仁天皇は父がどんな人だったか強く知りたいと思っていた可能性があります。
いっぽう,家持は13歳の時まで,父大伴旅人は生きていました。
家持は父旅人から,父に天智天皇を持つ志貴皇子は素晴らしい歌人で,人徳者であったことを聞かされていたのかもしれません。
そして,家持は光仁天皇に万葉集編纂の過程で父旅人から聞いたことを伝え,それを聞いた光仁天皇は亡き父を偲んだと考えられます。
壬申の乱以降,天武系の天皇が続いてきたが,天智天皇の孫である光仁天皇が即位したことは,歴史上結構大きなエポックだと私は思うのです。
光仁天皇は自らの天皇即位後,父志貴皇子を天皇と同等に尊敬するよう天皇の名前を付けたとのことです。父に対する思いは相当強いものがあったのでしょう。
編集中であろう万葉集に出てくる父志貴皇子の次の短歌を見て,光仁天皇は父のどういう姿を偲んだのでしょうか。

采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く(1-51)
うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとほみ いたづらにふく
<<采女の袖を吹き返す明日香に吹く風――都でなくなった今はむなしく吹くばかりだ>>

この短歌は,天武天皇持統天皇が都を構えた飛鳥浄御原宮から持統天皇が藤原京に遷都(694年)した後の飛鳥浄御原宮の荒廃を見て詠んだもののようです。
天智天皇の子である志貴皇子が,天武系の治世に対する批判を自らの立場でギリギリ表現した短歌とも取れなくはありません。そんな父の,表には出さないが,天智系の存続に対する意志の強さを光仁天皇は偲んだのかもしれません。
私も,機会があれば是非この短歌の歌碑がある甘樫丘に改めて立ち,明日香の地を見つつ往時を偲んでみたいと思うこの頃なのです。
偲ふ(3):まとめに続く。

2010年3月28日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…偲ふ(1)

今回は,「偲ふ」を万葉集を基にひも解いてみたいと考えています。
万葉集では,100首近い和歌でこの動詞が使われています。
「偲ふ(しのふ)」は現代では「偲ぶ(しのぶ)」と発音します。
「故人を偲ぶ」「往時を偲ぶ」「故郷を偲ぶ」といった使い方をします。
過去を振り返ったり,今は無いヒトやモノに郷愁を感じたりで,決して積極的でもないし,未来志向でもないイメージと現在では感じる言葉かも知れません。
また,平安時代には「忍ぶ」と混同されて使用され,現在では「耐える」「我慢する」というイメージも感じてしまうのではないでしょうか。
しかし,万葉時代では,そのような意味に使われることもありますが,次のように「賞賛する」といったポジティブな意味で使われている例があります。

あしひきの山下日陰鬘着る上にや更に梅を偲はむ(19-4278)
あしひきの やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ
<<山下に生えるひかげのかづらを髪の飾りに着けているうえに、どうして殊更梅を賞賛しようとしているのですか>>

この短歌は天平勝寶4年新嘗祭の酒宴で大伴家持が参加者とともに詠んだものの1首です。
この前に詠った藤原永手の次の短歌が新嘗祭の時期にも関わらず,鶯が枝を飛び回る自分庭に来て梅の花見をしませんかというものだったので,家持が諭したようにも見受けられます。

袖垂れていざ我が園に鴬の木伝ひ散らす梅の花見に(19-4277)
そでたれて いざわがそのに うぐひすの こづたひちらす うめのはなみに
<<おめかしをして,さあ私の庭に鶯が木から木へ伝いながら花びらを散らす梅を見に来てください>>

会社でいえば総務課長なのような役職である少納言の家持,支社長のような役職と想像される大和守であった永手。
余りにも場違い短歌を詠った永手に対して家持は,今は秋の草花であるヒカゲノカズラを飾る風習のある新嘗祭のときに何で?という気持ちを伝えたかったのでしょう。
とんとん拍子に昇進し,来年の梅の季節には新居に来てほしいという意図でもあり,図に乗っている永手を注意したのかも知れません。
永手の和歌は,万葉集にこの1首しか出てきていません。
この年の5年後には中納言,10年後には大納言に昇進した永手,出世ばかり考え和歌をほとんど詠んでいないのか,それとも下手で家持が選ばなかったのかは不明です。

ただ,万葉集でもこのように賞賛の意味で使われる例は少なく,愛している別離の人や今その場にない状況に想いを馳せる意味で多く使われています。
さて,天の川君が前回の話で紹介した「0と1のみのデータ」で頭の中が混乱している間に,次回は「偲ふ」の中でも「見つつ偲はむ」を中心に話を進めることにしましょう。「偲ふ」(2)に続く。

2010年3月20日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…伝ふ(3:まとめ) 万葉仮名は何かの暗号か?

<デジタルデータとは>
さて,インターネットを中心として情報を伝え合うシステムが急速に広まっている現代,万葉時代の万葉仮名に当たるものはあるのでしょうか。
私は,デジタルデータがそれに当たるのではないかと考えています。
デジタルデータの意味を一言で表すと,たとえば「0と1だけの2進数のように2値で表現できるデータ」といえます。
今電子メールなどでやり取りする文字データ,デジカメのデータや写メールでやり取りする画像データ,デジタルビデオカメラのデータやYuoTubeなどで閲覧できる動画・音声データ,地デジテレビの受信データなどなど,これらのデータはすべていわゆる0と1だけからなるデジタルデータなのです。
<0と1だけで様々なデータをとのように識別するのか>
では,0と1だけでどうやって数値,文字,画像,動画,音声を表現しているのかの考え方をひらがなを例に少し説明してみます。
ひらがなの「きた」は「北」「来た」「着た」「喜多」「喜田」など異なる意味をあらわす可能性があり,「きた」だけではどの意味か判別は困難です。
でも,幼児がひらがなだけで書いた文で「きた」が出てきたとしても,前後の文字や全体の位置をみればそれが上記のどの意味か判断ができることも多いはずです。
たとえば,「きたかぜ」「はるがきた」「ふくをきた」「きた まゆみ」などを見れば意味がかなり判別できそうです。
それは,情報を送る側(ひらがなを書く側)と受ける側(読む側)で共通に認識された文体や形式があるから判別できるのです。日本語が堪能でない人はその共通認識がないため,残念ながら理解はより困難になってしまいます。
<デジタルデータの少し専門的な話>
デジタルデータもひらがなの例と同じように考えると何となくイメージできるかもしれません。
ある取り決め(国際規格)に従えば,たとえば'01000001'というパターンは,65という数値を表わすこともあれば,アルファベットのAという文字を表すこともあります(画像や音声の一部であることもあります)。
ひらがな「きた」と同じで,見た目だけではどれを指しているかわかりません。
実際には,伝える側の装置(パソコン,携帯電話など)のキーボードで人がAのキーを押すと,'01000001'というデータがその装置の送信用下書きデータに追加されるのです。
全体の文章の入力が終わると各入力文字に対応する0と1の組み合わせ(たとえば,半角文字は2進数8桁,全角文字は同16桁)が入力順序に並んだデータが出来上がります。
このとき,このデータが画像,動画,音声ではなく文字データであるという種別(これもある種の取り決めによる0と1の何桁かにデジタルデータ)を前に付けます。
そして,送信を押すとインターネット上をこうして0と1だけでできたデジタルデータが相手に届きます。
受け取る側の機械(パソコンや携帯電話など)では,送られてきたデータが文字データであることを0と1の組み合わせから判別し,文字に対応した8桁または16桁の0と1の組み合わせデータから対応する文字を判別し画面に表示します。
文字データとして,上の例の'01000001'が来ると受け側のパソコンや携帯電話は画面にAを表示します。
<デジタルデータの暗号化技術>
しかし,この対応付け(標準)の取り決めが全部または一部分からなくなってしまうと0と1だけのデジタルデータは何を表わしているか理解できなくなる状況が発生します。
実は,インターネット取引に使われているデータの暗号化技術は,この対応関係が分からなくなるように0と1の並びを変えてしまうことなのです。
当然元のデータに戻せないと意味がないですから,戻すための鍵(これも100桁以上の0と1の組み合わデータ)として関係者以外は見せないようにしているのです。
<万葉仮名は暗号ではなさそう>
こうみてくると,万葉集の万葉仮名も当時の漢字と読み(音)の対応が存在しないため,何かの暗号ではないか,何らかの鍵(方式)で解読すると全く別意味になると思いたくなるのも無理はありません。でも,暗号化技術は伝え合う双方の間で完全な合意(万葉仮名だったら読みの完全な合意)形成があってから進化するものだと私は考えます。
当時の万葉仮名はそこまで進化していたでしょうか。私は万葉仮名を何か全く別の意味を示す暗号であるかもしれないと考えることに今は興味を持っていません。
<将来に何をデータとして残すか?>
さて,これからIT社会がさらに進化していくと,あらゆる情報・データはすべて0と1のデジタルデータで残されるようになるでしょう。また,近い将来ほとんどのデジタルデータは,ある種の暗号化がされて残されるようになると私は予測しています。
USBメモリの中には暗号化して保存する機能を持った製品が今普通に販売されています。

私たちは後世に伝え残していく必要のあるメッセージがあるはずです。それは過去に起こした過ちを繰り返さないでほしいという願いがこもったものだと私は思いたいのですが。
千年後の人々に対し,今の人が何を伝えようとしていたかを正しく理解してもらえるように伝える方法をしっかり考えていかなければならないと私は思うのです。
デジタルデータと文字や画像との対応付け方式はすでに多くの規格が存在しています。
文字だけでも世界中で使われている言語との対応付けを考えると非常に複雑なものに既になっています。
遠い未来の人たちが私たちのデジタルデータでできたメッセージの意味を正しく理解できるようにしておくことは結構難しいことを万葉仮名は教えてくれているように感じます。
このブログも消されずに残ってほしいと私は願っています。

さて,天の川君。今回の私の話は正しく伝わって理解できたよね?

天の川 「01001110 01101111 00101110」
       N     o     .
「伝ふ」終り。「偲ふ」(1)に続く。

2010年3月14日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…伝ふ(2) 万葉仮名は情報を伝えるメディア

今回は「伝える」手段として万葉集万葉仮名と今の情報伝達手段について考えてみます。
漢字は5世紀から6世紀にかけて日本にもたらされ,それまで文字をもたなかった大和民族は初めて文字を使うようになったのです。
万葉時代は大体7世紀から8世紀であるとすると,漢字を中心とした文字文化(漢文,万葉仮名の利用)がようやく広まりつつあった時代でしょう。
文字を書くための道具も当然必要で,筆,木簡,紙が使われたようですが,紙はまだ非常に高価なものだったようです。
結局,万葉時代は文字の活用はまだ一部の特権階級に限られ,相手に何かを伝えようとする場合,多くは文字を使わずまだまだ口承(声で伝える)ことの重要性がまだ大きな役割を持っていたと私は考えます。
次の山上憶良が詠んだ長歌の冒頭では,言い継ぐ(口承する)言葉,口伝てで啓示や国のPRを伝えることの重要性を示したものだと私が感じる和歌です。

神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり ~(5-894)
かむよより いひつてくらく そらみつ やまとのくには すめかみの いつくしきくに ことだまの さきはふくにと かたりつぎ いひつがひけり ~>
<<神の時代より言い伝え来ること 大和の国は天皇の祖先の威厳がそなわった国で,言葉に宿る霊威によって豊かに栄える国と語り継ぎ言い継がれてきた~>>

しかし,文字の活用技術も着実に進化していたのは事実です。その一つの試みがやまと言葉を文字で表現する場合の万葉仮名だったことは間違いありません。
万葉仮名は,万葉集での使われ方を見ても当時はまだ統一的な基準が定まっていなかったのではないかと私は感じます。例外的な用法がたくさんあり,現在でも読みが不明または定まっていない和歌が万葉集に多く残っています。
そのためか,万葉集は上代朝鮮語で解釈できるとか,何かの暗号ではないかとか,センセーショナルに取り上げた書籍も出版されているようです。
万葉集の編者大伴家持は,万葉集の編纂のために万葉仮名に対応するさまざまな読みの対比を説明するもの(恐らく漢文で説明したもの)を作っていたのでしょう。
ところが,家持没直後の弾劾で家族は流刑になり,家や彼が作った資料もすべて焼き払われ,そういった資料がなくなってしまった可能性が高いと私は考えます。私は,大伴家の衰退と万葉仮名の衰退には何らかの相関関係があるような気がしてなりません。
とはいえ幸い万葉集の写本は残り,そこにある万葉仮名の読みをその後の国学者が類推することで,万葉集に数々存在する多様な和歌が今まで伝わったことは紛れもない事実です。
<現代は伝える多くの手段がある>
いっぽう,今の社会においては万葉時代と違い,直接話す以外に相手に何かを伝える手段が非常に多くあります。
手紙やはがきなどの郵便,電話・電報,無線通話,FAX,インターネットを利用した電子メール・IP電話・Webサイト・ブログ・ツィッター・電子会議など,街の電光掲示板・看板・ポスター,新聞・雑誌などの広告・投書欄,テレビ・ラジオなどの広告や投稿,手話,点字,落書き(非合法)など本当にさまざまです。
これらは相手に情報を伝える手段(何を使って伝えるか)を指し,情報伝達媒体(メディア)と呼びます。
たとえば,マスメディアは多くの人に情報を伝える媒体を指します。また,マルチメディアは上記のようなたくさんの種類(特にデジタルデータの派生媒体)の情報伝達媒体があることを意味します。
メディアの種類は今後も増え続け,万葉時代とは比べ物にならないほど効果的・効率的,そしてより安価に相手に情報を伝えることができるまさに情報化時代なのです。
でも,そういった情報を伝える共通技術は非常にシンプルなものだということを次回に説明し,「伝ふ」のまとめとします。
「伝ふ」(3:まとめ)に続く。

2010年3月7日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…伝ふ(1)

今回は,「伝ふ(傳ふ)」を万葉集からひも解いてみたいと考えています。
「伝ふ」は,現在では伝わる,伝える,伝うというようにその意味によって動詞の語尾が異なるようになっています。
すなわち,もともとの「伝ふ」は結構広い意味の言葉であったようです。
その意味は大きく「ある地点を辿りながら何かが移動する」,「人から人に言葉を言い伝える」の二つに分かれます。
前者の意味(移動)では,次のような用例が万葉集に出てきます。

天伝ふ(あまつたふ)…太陽や月が天空を移動していく。
木伝ふ(こづたふ)…鳥が木の枝から枝へ飛び移る。
島伝ふ(しまつたふ)…船が島から島へ移動する。
水伝ふ(みなつたふ)…船が水の上を沿って行く。
百伝ふ(ももつたふ)…磐余,八十の島廻に掛かる枕詞。次々多く移るからたくさん(八十)の島廻りを連想。

次の詠み人知らずの短歌では,この意味で単に「伝ふ」が出てきます。

春されば妻を求むと鴬の木末を伝ひ鳴きつつもとな(10-1826)
はるされば つまをもとむと うぐひすの こぬれをつたひ なきつつもとな
<<春になり妻を求めて鶯が梢(こずえ)を移動してしきりに鳴いているよ>>

この意味を基にした熟語(名詞)として今の国語辞典などには,遺伝,駅伝,星(せい)伝,逓(てい)伝,伝駅(でんえき),伝戸(でんこ),伝使,伝書鳩,伝染,伝線,伝送,伝導,伝動,伝搬(でんぱん),伝票,伝符(てんぷ),伝馬(てんま),伝馬船,郵(ゆう)伝などが出てきます。

いっぽう,後者の意味(言い伝える)では,次のような用例が万葉集に出てきます。

言ひ伝ふ(いひつたふ)…昔から人から人へ言い伝える。伝承する。
言伝つ(ことつつ)…ことづける。伝言する。
百伝ふ(ももつたふ)…磐余,八十の島廻に掛かる枕詞。昔から多くの人が伝えてきたという意味で「言はれ→磐余」を連想。

次の万葉集の長歌(海辺で行き倒れの人を見て詠んだ和歌)では,この意味で「言伝つ」が出てきます。

鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は 母父に 愛子にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言伝てむやと 家問へば 家をも告らず 名を問へど 名だにも告らず~(13-3336:抜粋)
<~いさなとり うみのはまへに うらもなく こやせるひとは おもちちに まなごにかあらむ わかくさの つまかありけむ おもほしき ことつてむやと いへとへば いへをものらず なをとへど なだにものらず~>
<<~海岸に意識なく倒れている人は,その人の父母にとって最愛の子供であろうに。また,若草のような妻もいるだろう。思っていることを伝言してあげようと,家を聞いても答えない。また,名前を聞いても答えない。~>>

この意味を基にした熟語(名詞)として現代の国語辞典などには,家伝,皆伝,外伝,旧伝,虚伝,口(く)伝,経(けい)伝,喧(けん)伝,極(ごく)伝,古伝,誤伝,直(じき)伝,史伝,自伝,小伝,詳伝,承伝,初伝,所伝,世(せい)伝,正(せい)伝,宣伝,相伝,俗伝,単伝,嫡(ちゃく)伝,伝記,伝奇,伝承,伝説,伝達,伝道,伝播(でんぱ),伝聞(でんぶん),別伝,必伝,秘伝,謬(びょう)伝,評伝,風伝,武勇伝,銘銘伝,立志伝,略伝,流(る)伝,列伝などが出てきます。

今回は万葉集に出現する「伝ふ」の大きな二つの意味について考えてみました。次回は,現在の「伝ふ」を万葉時代の「伝ふ」と比較し,今の「伝ふ」の課題を浮き彫りにしてみたいと思います。
ところで,天の川君,今回の話,何となく伝わったかな?

天の川 「国語辞典なんかめったに使わへん。え~と,どこいったやろ。あっ,そや,この前資源ゴミに出してしもうたわ。」
「伝ふ」(2)に続く。

2010年3月1日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…待つ(4) 「待つは受け身か?:まとめ」

今回は動詞「待つ」をテーマとした投稿の最終回です。
まず,万葉集に出てくる「待つ」の熟語をいくつか紹介しましょう。

在り待つ(ありまつ)…そのまま待ち続ける。
心待つ(うらまつ,こころまつ)…心待ちにする。期待して心の中で密かに待つ。
片待つ(かたまつ)…ひたすら待つ。
待ち出づ(まちいず)…待ち受けて会う。出てくるのを待つ。
待ちがてに(まちがてに)…待つに堪えず,待ちかねて。
待ちかぬ(まちかぬ)…来ることが遅くて待ち切れなくなる。待ちあぐむ。待ちわびる。

これらの熟語には人間の「待つ」行為のいくつかの段階をそれぞれ示している気がします。
最初は誰にも知られないように密かに待っている(心待つ)。
    ↓
それが長い間になってくる(在り待つ)とひたすら我慢しながら待つことになる(片待つ)。
    ↓
そして,そのうち待ちきれなくなって(待ちかぬ)しまい,自ら出て行ってまで待つ(待ち出づ)。

梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてり(10-1900)
うめのはなさきちるそのにわれゆかむ きみがつかひをかたまちがてり
<<梅の花がみごとに咲き,散った花びらが地面を彩っている美しい園に私は行きましょう。あなたの使いをずっと待っていたのにいよいよ待ちきれなくなってしまったので>>

梅の名所に梅の花が見ごろの時期にお逢いしましょうとデートを誘う文(ふみ)を出したのに相手の返事を持ってくる使いはいくら待っても来ない。
この短歌の作者は業を煮やして使いにこの短歌を持たせて相手に送ったのでしょう。
この和歌からビートルズやカーペンターズがカバーした「プリーズ・ミスター・ポストマン」を思い出すよね,天の川君?

  天の川「あ゛~はぁ~。 何? そんな何十年も前の歌,知るかいな!」

春眠から少し覚めたようだけど,まだ寝ぼけているので放っておきましょう。
<日本人は待ってばかりいて受け身の民俗か?>
さて,ここまで万葉集に現れる動詞「待つ」について何回か触れてきましたが,最後に日本人は待つばかり(受け身)の人間であるという内外の評価について少し触れ,「待つ」のまとめとします。
日本人は受け身で他人の真似をするのが得意。また,決められたことに対して創意工夫(改善)しつつ堅実に行うことも得意である。
しかし,やったこともないような新しいことにチャレンジするのは不得意という評価についてです。
これらの評価は,日本は島国だからということだけではどうも説明がつかないような気が私にはします。
<日本人の「待つ」は「四季の変化」と深い関係?>
私は「待つ」ことを是とする日本の国民性は,四季がもたらす規則正しい自然の変化と関係が強いのではないかと考えています。
万葉集の和歌から四季の変化(気象変化)や月の満ち欠け(潮汐変化)を無視しては,農作,漁業,狩猟,水運などはうまくいかないことをすでに万葉時代十分知っていたことと私は思います。
すなわち,自然と調和したもっとも合理的な経済の営みを送るために,ある作業の最適な自然環境になるまで「待つ」ことが当時の仕事の一つだったのだと私は感じるのです。
今でも,東北地方や甲信越地方では,山に残った残雪が真っ白からある形(雪形)が想定される動物や人の形への変化(雪融け)を待って種まきや田植えを開始したという言い伝えがあるところも多いようです。
<自然との調和より自然を変えるもいとわない一部外国?>
いっぽう,四季の変化の少ない国(熱帯,砂漠,ツンドラ,極限,高地)や雨季と乾季の差が激しい地域では,自然の変化を待つだけではなかなか定常的に豊かになれない。
そこで,自然の影響を受けにくい装置(温室,温度,湿度の空調設備,海水の真水化設備など),資材(強力な農薬,肥料),手法(パオテクノロジーによる品種改良)などの導入や極端な場合は自然を変えてまで人間の豊さを追及する姿勢が強くなるのかもしれません。
そういった国々の人から見ると,自然任せの日本人はアグレッシブさや開拓精神が足らないと映るのかもしれませんね。
また,そんな評価に対し「日本人はもっと積極的ならなければ」と自虐する日本自身のメディアや評論家が多いような気がします。
<自然との調和を忘れてはならない?>
今後さらに世界のグローバル化が進む中で,当然のこととして第一次産業から第三次産業まで日本の発展の方向性を様々な国へ説明し,理解を得ることだけでなく,全世界的な問題を解決するためにリーダシップの発揮をこれまで以上に求めらていくでしょう。
それに応えるためには,当然「待つ」だけでなく積極的な新しい提案やそれにチャレンジしていく行動力が必要になります。
しかし,たとえそうであったとしても,日本には万葉集にも多く取り上げられている類稀で美しく,そして我々にさまざまな恩恵を与えてくれる四季や自然の姿があることをけっして疎かにしてはならないと私は思うのです。
日本は自然とさまざまな産業が調和した生き方のベストプラクティス(もっとも成功した事例)であると世界が認め,自然と心身の豊かさを見るために多くの国から人々が訪れる,いつまでもそんな国でありたいと私は考えます。
<自然との調和は忍耐力が必要?>
それに向けては,決して焦らず,最適なタイミングを待つ。待っている間はやがて来るベストなタイミングになすべき行動の準備をしっかり行い,そのタイミングが来たら迅速かつ的確に行動する。
たとえ失敗してもその原因を分析し,次のタイミングまで対策を立て,また準備をしっかり行い,次の最適タイミングを待つ。
そんな,忍耐力は求められるがメリハリのある「待つ」という行為(自然や関係対象との調和のとり方)こそが,他国への侵略や干渉と受け取られない理想の国の在り方かも知れないと私は考えるのです。
動詞シリーズ「伝ふ」に続く