2013年4月29日月曜日

2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(2)」

武蔵野武蔵の国にある野(平地)のことですから,武蔵の国がどこにあったかが武蔵野と呼ばれる範囲を理解する助けになります。
武蔵国の範囲は,歴史辞典などを見ればわかりますが,その広さをより明確にイメージするために,武蔵(略称含む)がついた鉄道会社名,路線名,駅名を探したてみました。

まず,鉄道会社名,路線名からです。
東武鉄道‥武蔵の東部を路線に含む鉄道会社
西武鉄道‥武蔵の西部を路線に含む鉄道会社
JR東日本南武線‥武蔵の南部を走る鉄道路線
JR東日本武蔵野線‥武蔵の平野部分を走る鉄道路線

次は「武蔵」と武蔵国の別名「武州」の付く首都圏の駅名です。JR東日本の駅名の場合,会社名を省略し,路線名は通称です。
武蔵五日市(五日市線:東京都あきる野市)
武蔵浦和(埼京線,武蔵野線:さいたま市南区)
武蔵小金井(中央線:東京都小金井市)
武蔵小杉(横須賀線,湘南新宿ライン,南武線,東急東横線:川崎市中原区)
武蔵小山(東急目黒線:東京都品川区)
武蔵境(中央線:東京都武蔵野市)
武蔵白石(鶴見線:川崎市川崎区)
武蔵新城(南武線:川崎市中原区)
武蔵砂川(西武拝島線:東京都立川市)
武蔵関(西武新宿線:東京都練馬区)
武蔵高萩(川越線:埼玉県日高市)
武蔵中原(南武線:川崎市中原区)
武蔵新田(東急多摩川線:東京都大田区)
武蔵野台(京王本線:東京都府中市)
武蔵引田(五日市線:東京都あきる野市)
武蔵藤沢(西武池袋線:埼玉県入間市)
武蔵増戸(五日市線:東京都あきる野市)
武蔵溝ノ口(南武線:川崎市高津区)
武蔵大和(西武多摩湖線:東京都東村山市)
武蔵横手(西武秩父線:埼玉県日高市)
武州荒木(秩父鉄道:埼玉県行田市)
武州唐沢(東武越生線:埼玉県越生町)
武州中川(秩父鉄道:埼玉県秩父市)
武州長瀬(東武越生線:埼玉県毛呂山町)
武州日野(秩父鉄道:埼玉県秩父市)

これを見ると武蔵の国は,東京神奈川埼玉にまたがる(今の都県の区切りとは関係の少ない)地域であることがわかるでしょう。
今回は万葉集から東京,神奈川,埼玉に関係する短歌を3首紹介します。

赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ(20-4417)
あかごまをやまのにはがし とりかにてたまのよこやま かしゆかやらむ
<<赤毛の馬を山野に放しておきましたが捕えかね,あなたに多摩の横山を歩いて行かせることになるのだろうか>>

この防人歌は,今の東京都豊島区あたりに住む女性が,夫が防人に行くとき赤毛の馬を渡せず徒歩で多摩の横山(今の東京・神奈川にまたがる多摩丘陵あたりか?)を歩いて越えさせてしまったことを悔いた1首です。

多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき(14-3373)
たまかはにさらすたづくり さらさらになにぞこのこの ここだかなしき
<<多摩川にさらす手織りの布がさらにさらにきれいになるように,どうしてあの娘がこんなに愛おしいのだろう>>

この有名な東歌は多摩川の北側(東京側)とも考えられますが,同様に多摩川の南側(神奈川側)とも考えられます。

武蔵嶺の小峰見隠し忘れ行く君が名懸けて我を音し泣くる(14-3362)
むざしねのをみねみかくし わすれゆく きみがなかけて あをねしなくる
<<武蔵峰の小さな尾根をあえて見ずに里を発ったが,忘れてしまうかもしれない妻の名を叫んでしまい私は声をあげて泣いた>>

この東歌に出てくる「武蔵嶺」は秩父にある武甲山らしいとのことです。
こう見てくると武蔵の国には,武蔵野ような平野,多摩の横山のような丘陵地帯,多摩川のような大きな川,武蔵嶺のような急峻な山といろいろな地形が備わった国だったのでしょう。
その中でも広い平野である武蔵野は,万葉時代においても畑作,牧畜,川や湖沼の漁業,手工業(製糸・縫製・染色・製陶など)が盛んで人々の生活を豊かにする可能性を秘めた土地だったのだろうと私は想像します。
次回はそんな豊かな当時の武蔵野を万葉集や遺跡から感じてみましょう。
2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(3)」に続く。

2013年4月27日土曜日

2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(1)」

<私と武蔵野線>
冒頭ローカルな話で恐縮ですが,私が通勤で利用しているJR東日本武蔵野線が今年で旅客運行開始40周年になりました(当時は国鉄線)。
私がまだ八王子市にある大学の学生だった1973年4月,新聞で武蔵野線(新松戸府中本町)が旅客運行を開始したという記事を見て,武蔵野線が旅客向けに開通したことを初めて知りました。私は八王子市内のアパートから通学していたので,特にそのことで変化はありませんでした。ただ,埼玉の大宮浦和あたりに実家のある学生は,武蔵野線開通で実家から通うように変更した人も結構いたようです。
<就職の新人研修後すぐ出向>
それからの私は大学4年生の初夏,千代田区に本社がある小規模なソフトウェア会社に就職内定し,多少遠い場所ですが家賃の安い埼玉県川口市にアパートを見つけました。入社後の新人研修期間(4ヶ月)は千代田区の本社でした。しかし,研修が終わるやいなや東京都府中市にある顧客企業の大きな工場に出向を命じられました。「府中なら八王子にそのまま住んでいればよかったのに」と思ったのですが,後の祭りというわけです。
<出向後の武蔵野線利用>
工場は始業が8時10分,駅にいちばん近い正門から一番奥に位置する建屋が駐在先で,正門に入ってから10分以上は見ておかないと自席にたどり着けない状況でた。華やかな都心で仕事する夢ははかなく消え,朝6時30分には家を出てバスに乗り京浜東北線の川口駅へ,そして南浦和まで行き,武蔵野線で府中方面に向かう毎日が始まりました。
武蔵野線で走る電車(国電)は当時6両編成(今は8両)で私が利用できる通勤時間帯では1時間に3本しかありませんでした。当然かなりの混雑でした。昼間というと,貨物列車ばかりが通過して,2時間近く駅に来ない時間帯もありました(今は昼間10分に1本)。都心から30㎞圏でありながら,地方のローカル線も顔負けの不便さでした。午前中本社に帰社して午後から工場へ行こうものなら,乗る時間を間違えると駅で1時間以上待つことになります。
<伝統的に旧式の電車を使う武蔵野線>
国電は旧国鉄時代中央線の本当に古い(塗装が一部はがれたままのものもあるような)車両(101系)を使い,冷房はもちろん無し,暖房も冬凍えるかと思うくらい効いていませんでした。夜工場から帰る時間帯も少し遅くなると40分に1本というありさまで,会社の同僚と飲んだ後帰りの電車でトイレに行きたくても必死に我慢するしかないのです。
そんな武蔵野線ですが,帰りは座ることがほぼでき,電車の中では一生懸命ソフトウェア工学系の本を読む時間がしっかりとれました。また,出向先の顧客(親会社)技術者は素晴らしい情報技術のスキルと知識を持った人ばかりで,厳しくも丁寧に技術や勉強すべき書籍を教えていただけました。今仕事に必要なソフトウェアの基礎技術を余すところなくに身に着つけられたのも武蔵野線利用で府中まで通ったことがきっかけかもしれません。
<本題>
さて,武蔵野線の思い出話は尽きないですが,本題の万葉集に出てくる武蔵野を見ていきます。
武蔵野といえば,春から夏にかけて雑木林の緑がまぶしいくらい鮮やかなイメージがありますよね。万葉時代の武蔵野は,実は鬱蒼としたした雑木林ではなく,草原に近かったかのではないかと私は想像しています。当時は武蔵の国の平野部分の開墾が進み,畑作が盛んに行われるようになった頃だとします。そうすると,耕運機がない当時は,畑作用に土地を耕す,畝を作る,できた作物を運ぶなどのために牛や馬が多用されと考えられます。当然,牛や馬に食べさせる草が大量に必要となります。
そこには牧草を植えた広い土地があった光景を想像させる次の東歌1首です。

武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを(14-3377)
むざしののくさはもろむき かもかくもきみがまにまに わはよりにしを
<<武蔵野の草葉がいっせいにこちらを向くように,おまえが思うがままにできるよう俺はおまえに寄り添うのさ>>

そんな草地の中には可憐な花も咲いていたのでしょう。
次は,朮(うけら)という可憐な花に寄せて詠んだ恋の東歌2首です。

恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ(14-3376)
こひしけばそでもふらむを むざしののうけらがはなの いろにづなゆめ
<<恋しくなったら袖を振るでしょう。でもそのときはあなたは武蔵野に生えるうけらの花の色が変わらないように顔に出さないでくださいな>>

いかにして恋ひばか妹に武蔵野のうけらが花の色に出ずあらむ(14-3376)
いかにしてこひばかいもに むざしののうけらがはなの いろにでずあらむ
<<どうすれば恋しくてたまらないおまえに武蔵野のうけらの花の色が変わらないように表に出さないでいられようか>>

この2首は万葉集の番号が同じとなっています。というのも,万葉集の左注にこの2首は異伝(元は一つの歌が異なって伝わること)であると掛かれているからです。うけらは今ではオケラと呼ばれています。当時は,咲き始めから散るまで色が変わらない花の代表だったのかもしれません。
私は最近仕事で顧客に提供したソフトウェアへの問い合わせに対し,かなり重要なものについては,回答説明のため顧客を訪問する役目が多くなっています。時には上手く回答できるか自信のない場合もあります。その場合でもこの短歌に出てくる「うけら」のように表情が不安ものに変わらないようにできればいいのですが,なかなかうまくいきませんね。
2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(2)」に続く。

2013年4月21日日曜日

今もあるシリーズ(最終回)「菜(な)」

結構長く続きました「今もあるシリーズ」は今回が最終回です。
本シリーズの最後に「菜」を取り上げたのは,万葉集の最初の長歌に出てきて,万葉集に出てくる言葉として多くの人が知っていると思ったからです。「菜」を取り上げないで終わったらアカンということになりますからね。

篭もよみ篭持ち 堀串もよみ堀串持ち この岡に菜摘ます子 家聞かな告らさね そらみつやまとの国は おしなべて我れこそ居れ しきなべて我れこそ座せ 我れこそば告らめ 家をも名をも(1-1)
<こもよみこもち ふくしもよみぶくしもち このをかになつますこ いへきかなのらさね そらみつやまとのくには おしなべてわれこそをれ しきなべてわれこそませ われこそば のらめ いへをもなをも>
<<籠といっても可愛い籠を持って,堀串といっても可愛い堀串を持って,この岡で菜を摘んでいる娘さん。どこに住んでいるか家を聞きたいな。教えてほしいよ。ヤマトの国は私が統治して,私が天皇の座にいるのだよ。私にだけは教えなさい,家も名も>>

雄略天皇(いうりゃくてんわう)が詠んだとされる長歌ですが,どこか民謡ぽい雰囲気の1首だと私は思います。万葉集の冒頭を飾る和歌がこの1首とした編者の意図は何か,私は学生時代からずっと考えてきました。なぜなら,ほとんどの人が最初から見るとしたら,(万葉集のトップバッター)この1首で万葉集のイメージが刷り込まれるからです。
編者として,自分が描いた万葉集全体のイメージと全く異なるものを最初に持ってくるはずはありません。この1首は,日本書紀に記載されている雄略天皇が暴君であるイメージとはかなり異なっているのは間違いなさそうです。そこに編者の意図を私は感じます。
ただ,万葉集の冒頭歌の話を書き始めると止まらなくなりそうなので,それはどこかのスペシャルで投稿するとし,本題の「菜」に入りましょう。
私は「菜の花の和え物」が大好物です。今の季節,頻繁に食べます。スーパーの惣菜コーナーにはほぼ必ずそれが並んでいますので,日曜日に妻と買い物に行くとき,自然と手が出てしまいます。また,食用の「菜の花」(埼玉では房総産のものが多い?)も野菜コーナーで売っています。妻に和からしやごま油を入れて,炒めものにしてもらったりしています。他の野菜の茹でたものに比べて,食べると歯ごたえがしっかりとあり,ビタミン群や繊維質をたくさん摂っているような気がします。
万葉時代も次の万葉集東歌に出てくる「茎立ち(くくたち)」と呼ばれる野生の菜の花(在来種のアブラナ)が認識されていたようです。

上つ毛野佐野の茎立ち折りはやし我れは待たむゑ来とし来ずとも(14-3406)
かみつけのさののくくたち をりはやしあれはまたむゑ ことしこずとも
<<上州佐野の菜の花の茎を,(あなたに食べてもらおうと)折って刻んで私は待ちましょう。なかなかあなたは来れないとは思いますが>>

アブラナ以外のについて万葉集を見てみます。万葉集では「春菜」「若菜」「朝菜」「青菜」「浜菜」という言葉が出てきます。これらの実物は,今で言う山菜,野草にあたるワラビ,ゼンマイ,ツクシ,カタクリ,セリ,キクラゲ,タケノコ,イタドリ,フキノトウ,ウド,タラノメ,ヨモギ,ノビルなどが候補としてあがりそうです。ただ,「浜菜」は海藻のようです。
「菜」はどのように料理をして食べていたのでしょうか?
私は,煮る(茹でる),揚げる,生食の3つの料理の仕方があったのではないかと想像します。
まず,煮る(茹でる)を詠んだ例からです。

食薦敷き青菜煮て来む梁にむかばき懸けて休むこの君(16-3825)
すごもしき あをなにてこむ うつはりに むかばきかけて やすむこのきみ
<<テーブルクロスを敷いて 青菜を煮て来て進ぜよう 梁に革の腰覆いを掛け(酔いつぶれて)お休みの殿方のために>>

この短歌の詳しい説明は,2009年9月11日の投稿でしていますので割愛しますが,煮た菜の味付けには食塩醤(ひしほす)植物油(菜種,ごま,綿実,紅花などから絞った油)なども使っていたのかもしれません。
次は揚げるを連想させる短歌の例です。

油火の光りに見ゆる吾がかづらさ百合の花の笑まはしきかも(18-4086)
あぶらひのひかりにみゆる わがかづらさゆりのはなの ゑまはしきかも
<<油火の光りに見える花かづらに編んだ百合の花は何ともほほえましいことでしょう >>

この短歌は大伴家持越中赴任時宴席で詠んだ1首です。
歌意はさておき「油火」という言葉がある以上,万葉時代には「油」という製品があったことになります。それは鉱物油(灯油など)ではなく,胡麻の実,菜種(菜の花の豆),ゴマの実,紅花の種,椿の実などから搾った油だったのではないかと私は想像します。動物の油肉から油を作ることも考えられますが,当時の保存技術からは考えにくいと私は思います。そうなると照明に使う油を鍋で熱して,菜をてんぷらにすることも当時行われていたと想像ができますね。
最後は生で食べることを想像させる1首です。

醤酢に蒜搗きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱の羹(16-3829)
ひしほすに ひるつきかてて たひねがふ われになみえそ なぎのあつもの
<<醤に酢を入れ,蒜を潰して和えた鯛の膾(なます)を食べたいと願っている私に,頼むからミズアオイの葉っぱしか入っていない熱い吸い物を見せないでくれよ>>

蒜(ひる)はノビルのことで,ニンニクのように殺菌,臭味取りの効果があったようですが,この1首からは生のものをすり潰して使用していたようです。この短歌の詳しい説明も2009年11月15日の投稿をご覧ください。
ところで,若いころは肉ばかり食べていた私も,今は野菜中心の食生活になっています。
出張先の帰りに仕事仲間と割と頻繁に利用しているJR浜松町駅近くの中国料理店があります。春~秋限定の「空芯菜の炒めもの」が最近始まったので早速注文して食べました。「菜の花の和え物」と同じで,その食感がたまりませんね。
これで「今もあるシリーズ」はいったん終わりにします。楽しんでいただけましたでしょうか。
さて,次週はもうゴールデンウィークですね。このブログは恒例のゴールデンウィークスペシャルとして,今回は私の住む地域一帯の「武蔵野」について万葉集をみていくことにします。
2013GWスペシャル「武蔵野シリーズ(1)」に続く。

2013年4月14日日曜日

今もあるシリーズ「琴(こと)」

今回は万葉集に出てくる「」について取り上げます。
琴の音色といえば,元旦の朝,NHKなどで放送される尺八(正確には尺八より小ぶりな一尺六寸管)との合奏で有名な「春の海」(作曲:宮城道雄)ではないでしょうか?
今の琴は胴体を桐の木を削り作るそうで,琴の生産高日本一は広島県福山市とのことです。宮城道雄のお父さんが万葉集の歌枕のひとつでもある福山市の「鞆の浦」出身です。琴奏者が福山市には昔からたくさんいたため,琴の需要が多く,生産技術も発達し,生産高日本一になったのかもしれません。
<琴をさらに調べる>
琴について調べてみると,琴には2種類あって,ギターのように絃の抑える場所によって音を出すための絃の長さを変えて音程を変える「琴(きん)」と,絃と胴の間に柱(じ)を立て,その位置を変えることによって絃の音程を変える「箏(そう)」とがあることが分かりました。
冒頭に示した今の琴は自体は「箏」という部類になります。いっぽう,「琴(きん)」の部類に入るものの現代の代表格はなんといって「大正琴」ですね。
一般的に「筝」は柱を動的に動かしにくいため絃の本数が多くなり,「琴(きん)」は絃を抑える位置を柔軟に変えられるため,少ない絃の本数で済みます。ちなみに,現代の琴(筝)は13絃以上で20絃のものもあるようです。大正琴はたった2絃のものからあります。
では,万葉集で琴をどう詠んでいるのか,大伴旅人大宰府から京の参議であり,強い政治的影響力を持っていた藤原北家の藤原房前(ふぢはらのふささき)に琴を送った際に書面に付けた短歌2首を紹介します。

いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ(5-810)
いかにあらむひのときにかも こゑしらむひとのひざのへ わがまくらかむ
<<いつになったらこの琴の音を知ってくださる人の膝を枕に横になれるのでしょう>>

言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし(5-811)
こととはぬきにはありとも うるはしききみがたなれの ことにしあるべし
<<口が効けない木であっても、きっとすばらしいお方の寵愛を受ける琴になることができるでしょう>>

1首目が琴の気持ち(材料の桐の木)になり代わって旅人が創作したものです。2首目は旅人が桐の木に答える形で詠んでいます。題詞や左注を含め,物語風にして贈った琴がどれほど高級なものかを房前に伝えたかったのでしょう。この短歌の題詞から,贈った琴は日本独自の筝の一種であろう考えられる「和琴(わごん)」であったようです。
これに対して,房前は旅人への返歌として次を送っています。

言とはぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地に置かめやも(5-812)
こととはぬきにもありとも わがせこがたなれのみこと つちにおかめやも
<<口が効けない木であっても,貴殿ご愛用の琴を我が膝の上ではなく地に置くようなことは決していたしません>>

旅人の房前への琴の贈り物はかなり成功したようですね。
次は琴(やまと琴)を譬えて恋人に贈った詠み人知らず短歌です。

膝に伏す玉の小琴の事なくはいたくここだく我れ恋ひめやも(7-1328)
ひざにふすたまのをごとの ことなくはいたくここだく あれこひめやも
<<膝に乗せ横たえたきれいでかわいい琴とは異なる容姿のお前だが,こんなに私は恋焦がれてしまったよ>>

こんな風に琴が譬えられているところを見ると,万葉時代では琴を膝に乗せて琴を奏でることは,女性の頭を膝枕にして横に寝かせて愛撫することと共通のイメージがあったのかもしれませんね。
そして,琴の名手の音色は人間をリラックスさせ,感動させるというように考えられていたのが,次の大伴家持の短歌から想像できます。

我が背子が琴取るなへに常人の言ふ嘆きしもいやしき増すも(18-4135)
わがせこがこととるなへに つねひとのいふなげきしも いやしきますも
<<あなたが琴を手に奏でるにつれ皆感嘆の気持ちにさせるようですが,私もそれがしきりに増しています>>

万葉時代は中国から多くの楽器が輸入され,正倉院宝物には「金銀平文琴(きんぎんひょうもんきん)」という「筝」ではなく「琴(きん)」が残されているようです。
万葉時代は音楽の分野でも琴を始め豊かで多彩な文化が花開いたのだろうと私は想像します。
今もあるシリーズ「菜(な)」に続く。

2013年4月6日土曜日

今もあるシリーズ「釣舟(つりふね)」

<釣りはほとんどやらずに来ました>
私には釣りの趣味はありませんが,知人には釣りを趣味としている人が何人もいます。
その知人達から「竿を譲るから釣りを始めないか?」と誘われることも何度かありました。
じっとしているが苦手な私は,釣りのイメージ(じっと釣れるまでひたすら待つ)から始めることを躊躇しているうちに,今になってしまいました。
ところが,山の中奥深くまで,登山さながらに入り込む渓流釣り,釣りのポイントを求めて海岸の岩場を移動する磯釣りなど結構ハードな釣りの種類もあります。また,釣舟に乗って,波に揺れながら釣り糸を垂れる沖釣りは船酔いになりやすい人にはつらいかもしれません。
<万葉時代のプロの釣り師>
趣味の釣りではなく,海や湖などで漁業(プロ)として釣りをする人がいます。
万葉集から,魚介類や海藻を捕って生計を立てている人を海人(あま)と呼んでいたことが分かります。
その中でも釣舟を使って漁業をする海人の集団がいたことは,次の柿本人麻呂の短歌から想像できます。

笥飯の海の庭よくあらし刈薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣船(3-256)
けひのうみのにはよくあらし かりこものみだれていづみゆ あまのつりぶね
<<飼飯の海の漁場には良いらしい。入り乱れて海人の釣舟が出航するのが見える>>

笥飯の海は,淡路島近海らしく,瀬戸内海の美味しい魚がたくさん捕れたのでしょう。捕った魚は干物くさやのような醤漬け(ひしおづけ)などに加工して,奈良の京の市場に出回ったのかもしれません。
今度は出航する風景ではなく,帰港する風景を詠んだ1首を紹介します。

風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣舟浜に帰りぬ (3-294)
かぜをいたみ おきつしらなみたかからし あまのつりぶねはまにかへりぬ
<<風が荒れ,沖の波が高いようだ。海人の釣舟が浜に帰ってきた>>

この短歌は,角麻呂(つのまろ)という人物が,難波の海岸で詠んだ羈旅歌4首中の1首です。
万葉時代の釣舟の大きさは精々1人か2人が乗るものだったのでしょう。動力は風を帆に受けて進むのと人力の櫂のみだったと思います。そのため,海が荒れると漁はできなくなります。
当時の釣舟には係留用のロープなどないですから,使わない時は,複数の丸木の上を転がし,浜に上げておきます。そんな多くの釣舟が浜に上げられた状態を見て,この短歌を詠んだのだろうと私は思います。そんな風景も,みやこ人とっては珍しいと感じたのかもしれません。
さて,最後は釣舟がいっぱい浜に上がっていて,自分たちの船を止めるところがないのでは?と大伴旅人大宰府から京の帰任する船旅の途中で従者が心配して詠んだ1首です。

礒ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ礒の知らなく(17-3892)
いそごとに あまのつりぶねはてにけり わがふねはてむいそのしらなく
<<どこの磯にも漁師の船が泊まってる。吾らの船の泊る磯はどこの磯なのか>>

この短歌を旅の不安を詠ったものとして残すのか,それとも瀬戸内海漁業が大変盛んであることを伝えたいがために万葉集の選者が選んだのか興味が尽きません。
さて,次回は今でもありますが,特別な時しか演奏を聴くことがなくなった「琴(こと)」について,万葉集を見ていくことにします。
今もあるシリーズ「琴(こと)」に続く。