2015年9月27日日曜日

2015 シルバウィークスペシャル(4:まとめ) … 台北の旅もあっという間に終わりました

私たちの台北旅行は昨日夜というより,日付が今日(27日)になってからの帰宅になり,終わりました。
台北旅行の最終日(26日の土曜日)は,朝から帰る荷物の整理をして,チェックアウトの12時まで,忠列祠(ヂョンレイツー)の衛兵交代を見に行きました。
私たちはMRT圓山(ユァンシャン)駅まで行き,そこからバスで行くことにしました。
圓山駅のバス停にはさまざまな経路のバスが書かれていて,忠列祠へ行くバスがどれか(何種類もあるらしい)分かりにくく,MRTの駅に戻り駅員に聞きました。
しかし,彼もバスの細かい行き先について知らないようでした。
結局,バス停で最初に来たバスに観光客風の人が何人か乗ったので,私たちも乗ることにしました。
乗ったバスは土曜日で道が空いていることもあってか,急カーブしている道もほとんど減速せず走り,5分とかからず,忠列祠につきました。
バス停は忠列祠の門と通りの反対側で,信号の無い横断歩道を渡る必要があります。
道はカーブしており,次から次とクルマが双方から猛スピードで途切れず現れては通過するので,怖くてなかなか渡れません。
20台以上はやり過ごしたでしょうか,地元の人らしい人が見計らって渡り出したので,それに続いて何とか渡れたときは,正直ほっとしました。
衛兵の交代式は23日に見た中正記念堂に比べて,時間が長く(約30分),野外(石畳の中庭の線は衛兵が歩いた跡)が中心なので,色々な角度から衛兵に横から随行したり,前に回って正面からも見ることができました。




また,天候は曇りでこの季節の台北にしては過ごしやすく,最初から終わりまで見学することができました。
帰りは圓山駅方面のバス停は道を渡る必要がないため,気持ちは楽です。
ほどなく,台北車駅行のバスが来たので,乗ったところ圓山駅のロータリーには入らず,ロータリー前の道を直行するではありませんか。
「しょうがない。台北車駅からMRTで戻ろう」と思ってあきらめていたところ,しばらくして何と泊まっているホテルのすぐ近くの交差点が見えてきました。
その交差点のバス停で降りる乗客がいたので,間違いなくホテル近くの交差点だと確認して,続いて降りることができました。
結局,MRT圓山駅から雙連駅までの電車料金を払わなくて済んだというラッキーに出会いました。こんな経験も旅の楽しみのひとつですね。
次回台北に来るときは,ホテルに近いバス停からどこに行くバスに乗れるか,しっかり調べようとも考えました。
11時過ぎにホテルに戻った私たちは部屋で最終的な荷物の整理をして,チェックアウトしました。
夕方6時過ぎの帰りの飛行機出発まで,時間がたっぷりあるので,荷物をホテルで預かってもらい,土産物を買いに出かけました。
まず,台北車駅近辺のデパートやショップを最初探したのですが,なかなか良いところが見つからず,結局前回台北に来たとき土産物を買った,MRT忠孝復興(ヂョンシャオ・フーシン)駅にある太平洋SOGOデパートの地下2階にしました。
ここでは,パイナップルケーキのいろいろなブランドの品物が販売されていて,試食もしっかりさせてもらえます。
ただ,時間がまだたっぷりあるので,同フロアのフードコートで軽い昼食を摂りました。台北101に併設された高級ブラントばかりが1階から上に入っているビルで,地下1階ではフードコートがありました。
台北のデパ地下にフードコートがあるのは,結構興味を持ちました。ただ,最上階にレストラン街が無い場合が多いので,その代用なのかもしれませんね。
太平洋SOGOのフードコートのまわりには,レストランもあり,日系であるためか,日本の丼,ラーメン,寿司,鉄板焼き,うどん,釜飯などを食べさせるレストランが台湾料理や韓国料理の店より多かった印象です。
中でも,私たちがフードコートで1時間程過ごした席のすぐ近くのラーメン店は,その間行列がまったく絶えることがありませんでした。


並んでいる人はすべて地元の人(女性,女性グループ,男女カップル,ファミリー中心)のようで,日本人はいませんでした。
店員は日本式の教育を受けているようで,並んでいる人にメニューを渡し,入店順番近くになるとメニューが決まっていれば聞き,先に厨房に連絡をしていました。
食事が終わったお客さんの多くは,満足そうな顔をして出てきた印象を持ちました。
日本式ラーメンの人気が非常に高いようだと感じました。
さて,台北の人間ウォッチングを終えた私たちは,試食して一番美味しいと感じたパイナップルケーキを爆買い(かなり大袈裟表現です)して,少し寄り道したり,お茶なども買いつつ,4時頃ホテルに戻りました。
ホテルで,タクシーを呼んでもらい,タクシーで台北松山空港に向うことにしました。
タクシーが来るまでホテルのフロントの女性からは「台風接近の前のお帰りで良かったですね」といわれ,帰りが明日以降だったら大変だったかも知れないことに気づかされました。
乗ったタクシーの基本料金は70元(280円弱)で,空港についた時のメーターが125元(500円弱)でした。MRTでは遠回りで乗り換えが必要になりますが,道路ではこんなに近んだと,ホテルの立地の良さを改めて感じました。
タクシーの運転手は40歳台くらいの女性で,出発・到着ともに荷物の上げ下ろしをしっかり手伝ってくれたので,100元札2枚を渡し「Keep the change.(おつりはとっておいて)」と言いました。
彼女はもらって当たり前という雰囲気は微塵もなく,「いいんですか?」という顔をして,何度もお礼を言ってくれました。
台北及び近郊の交通機関,公共施設の各種警護や管理に携わる人たち,ホテル,レストラン,食堂,屋台,売店,温泉施設などの従業員,他の観光客(日本人,日本人以外)との接触を通した台北旅行は,今まで以上に楽しくも充実したものになりました。
気持ちは,大海人皇子吉野を愛した有名な短歌の《 》内の部分に「台湾」を入れたようなものでしょうか。

淑き人のよしとよく見てよしと言ひし《吉野》よく見よ良き人よく見
よきひとのよしとよくみて よしといひし《よしの》よくみよ よきひとよくみ
<<昔の立派な人が素晴らしい所だと何度も見て,それでも素晴らしい所だと言ったというこの《吉野》をよく見ると良い。今の善良な人たちもこの地を何度も見てほしい>>

飛行機は夜10時過ぎに羽田空港に着陸しましたが,海外からの帰国客でごった返していました。帰りの電車も,土曜の夜を過ごした乗客が途中から加わり,ずっと満員状態でした。
明日からは職場での仕事が待っています。明日お土産を配ったら,気持ちは完全な仕事モードに切り替わります。
さて,次回からは,動きの詞シリーズの第2弾はお休みにして,今でもあるシリーズの第2弾をお送りしていきます。
今もあるシリーズ「麻(あさ)」に続く。

2015年9月26日土曜日

2015 シルバーウィークスペシャル(3) … 台北観光でハイキング?

<台湾旅行最終日>
台北旅行最終日の夜が明けました。名残惜しいですが,私たちは今日の夜遅くに羽田に戻る飛行機で帰国します。
ただ,それまで今日もたっぷり時間があるので,買い物などをゆっくりと楽しみたいと考えています。
さて,昨日は台湾の国家公園(日本の国立公園にあたる)の一つ陽明(ヤンミン)山に行きました。日本の観光会社台北ツアーのコースには恐らく入ることが無い場所でしょうね。
陽明山に行くには,MRT劍譚駅のバス停から,だいたい10分に1本程度の頻度で陽明山バスターミナル行のバスが出ていますから,不便はあまりありません。
私たちも駅のバス停に9時頃到着後にすぐ着たバスに乗ることができました。バスは途中から急な山道を登りに登って,約40分ほどで陽明山バスターミナルに到着しました。
近くのセブンイレブンで昼食用のおにぎりを買いました。10時過ぎにバスターミナルから陽明山の見どころを循環する小型バスに乗り換えました。
バスが走る車道はながめの良い道でしたが,バスは小型であるためか満員の乗客がいても猛スピードに感じる速さでヘヤピンカーブを疾走しました。
私たちは最初の目的地である二子坪(アールシーピン)というバス停でバスを下りました。
バス停から2㎞ほど,よく整備され,平坦な緑道を歩いた先に二子坪の池が見えてきました。


山道の途中では,様々な植物に出会い,時々人を恐れない太った?リスにも出会い,木洩れ日を浴びながら気持ちの良い緑道歩きができました。

二子坪の池周辺の散策を終え,二子坪のバス停まで同じ緑道を戻りました。
二つ目の目的地も有名な擎天崗(キンティアンガン)という所です。
擎天崗のバス停付近は,二子坪のバス停も同じでしたが駐車場やビジターセンターもあり,国家公園としてよく整備されています。
擎天崗は一体に牧草地帯(牛も放牧されています)やススキの草原が広がり,雄大な眺めが楽しめるとところでした。

次の万葉集の柿本人麻呂歌集から転載された詠み人知らずの短歌を思い出しました。

秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも(10-2242)
あきのののをばながうれの おひなびきこころはいもに よりにけるかも
<<秋の野の尾花の先がなびくように,心はあの娘になびき寄ってしまったよ>>

牛たちはそんな気持ちを持っているかもですね。放牧された牛は遊歩道のすぐ近くでひたすら草を食んでいました。

1周が5㎞ぼとの周遊できる遊歩道があり,私たちはそれを1周することにしました。
遊歩道は,ほとんどが石で敷き詰められ,急傾斜のところでは階段状になっていて,結構な高低差がありますが年配者でも歩きやすいように整備されていました。


その遊歩道のもっとも高いところ(標高800m弱)で,昼食のおにぎりを食べて,近くの草原一体と遠くの陽明山山系の山々の景色を楽しみました。


これで,陽明山国家公園のハイキングを終え,午後2時過ぎには劍譚駅に戻ることができました。本当に気軽に豊かな自然を楽しめる場所が近くにある台北は良いところです。
それから,ホテルに戻り,台北101に行き(上に登らずウィンドウショッピングのみ),夕食は前日夕食を食べた京鼎楼にしました。
昼食はコンビニのおにぎりだったので,京鼎楼では一番高そうな400元(日本円で約1600円弱)する料理(ホタテ・エビ・野菜の炒めもの)を頼みました(写真の右端の料理)。


ボリュームは2人で分け合うのに十分な量がありました。その他に昨日とは違う種類の小龍包,そして〆は餃子並みの大きさのワンタンが6個も入ったワンタン麺を頼みました。
ハイキングで消費したカロリーを完全にオーバする量を食べてしまいました。反省。
2015 シルバウィークスペシャル(4:まとめ)に続く。

2015年9月25日金曜日

2015 シルバーウィークスペシャル(2) … 台北の朝市,温泉,夜市また楽し

台北に来て3日目の夜が明けました。昨日は台北及び周辺のさまざまな場所を周りました。
まず,宿泊ホテル最寄のMRT雙連駅から北に向かって,次の錦西(ジュンシー)通りまで,約200m続く朝市(雙連早市)を見ました。

ほぼ地元の人向けのマーケットです。果物,野菜,鮮魚,鶏肉中心の肉類,乾物,惣菜,雑貨,衣類などが,所狭しと店が並べられていました。



食料品は,ほとんど量り売りでした。果物のブドウもいくつかの店で売られていましたが,その中に日本の岡山産ピオーネというものもありました。地元で人気なのでしょうか。


写真は撮りませんでしたが,一つ驚いたのは,一つの店のなかに,人ひとり通れるスペースがあるにせよ,鮮魚(氷の上に生魚が並べられている)と女性下着売り場が何の仕切りもなく隣り合って,並べられていました。同じ出店オーナのようなのですが,どういうビジネスモデルかまったく見当が付きませんでした。
さて,その後,MRT台北車駅に向かい,台北の南方にある温泉地烏來(ウーライ)行きの始発バスに乗りました。乗車時には私と妻の二人だけでしたが,台北市内をMRT新店(シンデイエン)駅にバスが進む間にほぼ満席になりました。
新店駅からはMRTからバスに乗り換えた思われる団体客が乗ってきて,通路も乗客で満員状態になりました。
満員のバスは山岳地帯に入り,スピードを緩めることなく,ヘアピンカーブを疾走します。立っている乗客は,しっかりつり革や手摺などにつかまり転倒防止体制を必死に維持しています。
20分ほど経って,ようやく烏來に到着。こんなに多くの乗客が乗っていたのに,現地にはあまり人がいません。乗客もバラバラな方向に分散していきました。
まだ,平日の朝10時半を過ぎた時間だったためか,私たちが向かった老街と呼ばれる旅館,飲食店,お土産屋さんが並ぶ通りも閑散としているどころか,半分位シャッターが閉まっていたり,工事をしている店もありました。通りの真ん中では,犬たちが寝そべっています。




さらに奥に進み,トロッコ列車の乗場を少し過ぎたところの温泉館に入り,温泉に浸かることにしました。客は私たち以外誰もいません。私たちは温泉に浸かりたいだけなので,一番安い個室を選びました。そこは部屋というより,ドアで仕切られた風呂場のような場所に案内され,そこで,脱衣をして入るというシンプルな感じでした。
温泉の湯を割と清潔感のある石版造りのバスタブに自分で蛇口から勢いよく出る湯を入れ,満杯にして入りました。

その浴室からは,渓谷や対岸の山が見え,ゆったりと温泉(食塩泉系?)に浸かることがでしたのですが,温泉効果か数分で体が火照ってきてしまいました。
その後は,身体を冷やしては入るの繰り返しを2度ほどして,入浴終了。結構体に効く温泉のような気がしました。
入浴後は老街の開いている店で昼食を取りました。そこには行きのバスで新店駅から一緒だった団体さんの一部がいましたが,他の客はいませんでした。


食事は楽しみにしていた竹筒に入ったおこわと地元で採れた野菜のいためものや臭豆腐を注文して,ヘルシーで美味しい食事を満喫しました。



13時にバスで烏來から新店駅に戻り,そこからMRTで北投(べイトウ)駅に移動しました。その間,バスもMRTも温泉の効果か私はリラックスして爆睡状態でした。
北投駅に着くと,かすかに硫黄の匂いがしました。ここから,新北投駅までは別のカラフルな電車に乗り換えます。


新北投駅に着くとさらに硫黄の匂いが強くなり,温泉地であることが分かります。
そこで,私たちは新北投温泉街を抜けて,20分ほど歩いて地獄谷を見ました。高温のお湯が湧きだしているところです。


新北投温泉は都会に隣接している温泉地で,何か道後温泉の亜熱帯版を思わせるような雰囲気を私は感じました。
烏來の温泉効果がまだ残っているような感じもあったので,新北投温泉での入浴はせず,温泉街や日本では植物園の温室でしか見られないような樹木,そして野生のリスの動き,鳥の鳴き声なとを楽しみました。
万葉集に,大伴旅人が九州のある温泉地で聞いた鳥の鳴き声で,無き妻を偲ぶ短歌があります。

湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く(6-961)
ゆのはらになくあしたづは あがごとくいもにこふれや ときわかずなく>
<<湯の原で鳴いている鶴は,亡き妻を恋い慕う私のように気持ちなのか。鳴きやまず鳴いている>>

私たちと違い,家族無しで行った旅人はさすがにさびしかったのでしょうね。
さて,私たちはホテルに戻って一休みした後,夕食には楽しみにしていた,小龍包を食べに京鼎楼(ジンディンロウ)に行きました。ホテルから歩いて10分もかかりません。
京鼎楼は,最近日本にも結構店を出すようになりました。台北の京鼎楼は前々回(約4年前)台北に来たとき,美味しかったので,今回是非行きたいところの一つでした。
千切り生姜を乗せて定番の小龍包,海老蒸餃子を食べ,〆は海老卵チャーハンで今回も大満足でした。




その後は,ホテルから徒歩圏の寧夏(ニンシャー)夜市を覗いてみました。


ファッション系も多かった前日の土林夜市と違って,ほぼ食べ物だけの屋台夜市でした。博多の屋台をもっと密集させたような感じでした。
来る人も多く,人気屋台の前では行列ができ,人がすれ違うのもままならないところもある状態でした。日本でのお祭りや花火大会開催時のような雰囲気が毎夜続くのですね。



今回初めて行った夜市の場所ですがお勧めです。
2015 シルバウィークスペシャル(3)に続く。

2015年9月24日木曜日

2015 シルバーウィークスペシャル(1) … またまた,台北にやってきました

日本のシルバーウィークも終わったのですが,わたしは9/27まで休みですので,シルバーウィークスペシャルを今からお送りします。
9/23 早朝,羽田空港を出発(写真は人影少ない羽田空港)。


午前9時(現地時間)過ぎに台北松山(ソンシャン)空港に着きました。9/26まで妻とともに,いつもの完全フリータイム台北旅行の3回目です。
空港での入国審査に予想外に時間が掛かりました。
今まで台北に来たときには無かった,両人差し指の指紋を採取することを義務付けられました。なかなか機械がOKを出さない人がいて,行列が進みませんでした。
空港を出たのは10時近くになりましたが,それでもホテルのチェックイン時間までまだ何時間もあります。
MRT(地下鉄)で雙連(シァンリャン)駅近くの宿泊予約をしたホテルに寄って,荷物を預かってもらいました。
身軽になった私たちは,MRTで近くの土林(シーリン)駅に向かい,そこからバスで故宮博物院(グーゴンボーウーユエン)へ行きました。
故宮博物院の展示エリアには入らず,博物院の敷地内にある「故宮晶華(グーゴンジンホア,英語名はSilks Palace)」というレストランで昼食をとりました。
台湾の中でも高級レストランに属しているだけあって,値段もそれなりですが,私たちはこのレストランの味や材料にこだわりを感じています。そのため,台北を訪れるときは時間が許す限り来ることにしています。
今回は,海鮮中心でオーダすると決めていましたので定番の翡翠餃子(故宮博物院で有名な白菜翡翠を模した色にしている蒸餃子),シンプルな海老餃子を前菜にまず注文。



こういった飲茶風のものですら,中に入っている海老やイカ等の材料が抜群に感じられました。
そして,メインは海鮮硬焼きそばと海鮮タンメンを頼みました。それぞれ,大きな生ホタテが2個ずつ,小粒ですがプリプリの海老が4匹ずつ,肉も野菜もたっぷり入っていて,味付けも深みがあり,満足でした。


1時間以上かけた昼食後は,故宮博物院売店で小物を物色し,バスでMRT劍譚(ユァンタン)駅へ行き,そこからMRTで少し寄り道をしながら,午後3時少し前に中正記念堂(チョンシェンチーニェンタン)(蒋介石の業績を讃えた記念堂)につきました。
午後3時の衛兵交代式にギリギリ間に合いました。イケメンの衛兵が一糸乱れぬ歩調で交代をする姿を見ようと,多くの人が見学に来ていました。


また,その後記念堂の中央広場では,陸海空群の合同軍楽隊が行進・演奏する中,陸海軍の衛兵が300名ほどが銃剣を持ち,これも一糸乱れぬ銃剣を操りながらのマスゲーム風のパフォーマンスを行っていました。


まったく,予定になかった台湾陸海空軍の行事の一面がみられて,小国の軍の関係や国民へのアピール方法や工夫について興味を覚えました。
それからホテルに戻りようやくチェックイン。一休み後は,MRT劍譚駅に行き,地元の人や観光客(ほとんど日本人を見かけず)で活気あふれる土林夜市で食事や散策をゆつくりして,長い台北1日目は終わりました。
万葉集に豊島采女(とよしまのうねめ)が天平11年8月20日に橘諸兄邸での宴席で詠んだとされる短歌があります。土林夜市を歩いている雰囲気に似ている部分もあるかもしれません。

橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず
<<橘の木のそばにある道が踏まれ,八方に分かれるように,いろんなことを思っている人たちに,私の気持ちを知って貰うこともない>>

立派なの木にはそれを目印にして多くの人が集まる(渋谷駅のハチ公のように)。でも,その人たちはいろいろな思いや方向性を持って生きている。それぞれが理解しあえているわけではないし,私のことをよく知っているわけでもない。
その状況を孤独と感じるか,異邦人(旅びと)としての立場をわきまえ,外からいろんな人が集まる場所の雰囲気を傍観者として楽しむか,それもまた旅をする人それぞれの思いや感じ方なのかもしれませんね。
2015 シルバウィークスペシャル(2)に続く。

2015年9月20日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6:まとめ) …もうすぐ北海道から初雪の便り?

「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉の通り,これから各地で秋が深まっていく季節になりました。
平年では,北海道の山間部ではそろそろ初雪の便りが来るころです。ちなみに,昨年の大雪山の初雪は,平年より9日早い9月16日だったそうです。
さて,「降る」の最後は「雪が降る」を詠んだ万葉集の和歌を見ていくことにします。

最初は,山部赤人のもっとも有名な次の短歌です。

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)
たごのうらゆうちいでてみれば ましろにぞふじのたかねに ゆきはふりける
<<田子の浦を通って,海岸に出て見れば,ああ真っ白だ。富士山の高嶺に雪が降ったので>>

高橋虫麻呂も同様の富士山の雪について,短歌を詠んでいます。

富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり(3-320)
ふじのねにふりおくゆきは みなづきのもちにけぬれば そのよふりけり
<<富士山に降る雪は六月十五日に消えるのだが,その夜からまた降るのだ>>

2004年有人の富士山測候所が廃止になる前までは。富士山の初雪を同測候所が発表していたとのことです。しかし,富士山は真夏でも雪が降ることがあり,いつが初雪か区別がつきにくいため,今は富士山の初雪は発表されていないようです。
ただし,麓から見た初冠雪は継続して発表がされているようです。
初雪といえば,次の大原今城(おほはらのいまき)が,天平勝宝8(756)年11月23日に大伴池主邸で開かれた宴の席で詠んだとされる短歌があります。

初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ(20-4475)
はつゆきはちへにふりしけ こひしくのおほかるわれは みつつしのはむ
<<初雪は幾重にも降り重なれよ。恋しさが多く積もった私は,それを見てあなたのことを思いめぐらすでしょう>>

この短歌から,初雪というものに対する良いイメージが私には伝わってきます。
実は,どちらが参考にしたか分かりませんが,よく似た詠み人知らずの短歌(柿本人麻呂歌集から)が万葉集に出てきます。

沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日長き我れは見つつ偲はむ (10-2334)
あわゆきはちへにふりしけ こひしくのけながきわれは みつつしのはむ
<<沫雪は幾重にも降り重なれよ。恋しさが続いている私は,それを見てあなたのことを思いめぐらすでしょう>>

柿本人麻呂歌集が人麻呂が生きていて時に編纂されたものなら,大原今城のほうが参考にした可能性が高いことになりますね。
最後は,天平16年1月5日に安倍虫麻呂邸で行われた宴席で出席者の誰かが詠んだとされる愉快な短歌です。

我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ(8-1041)
わがやどのきみまつのきに ふるゆきのゆきにはゆかじ まちにしまたむ
<<私の家の君を待つ(松)の木に降る雪のような二つの状況では,行き(雪)は行かないけれど,待つ(松)ことは待ちましょうね>>

行くべきか待つべきか,恋のゲームでの戦術に迷うとき,雪はすぐ消えてしまうけれど,松の木はずっとあるから,行きより待つが正解と諭した短歌でしょうか。
慌てて行動するより,じっくり状況を見て,ベストなタイミングまで待つほうが物事が良いように向かうことが多いという考えの短歌なら,私は賛同します。
さて,次回から動きの詞シリーズは少しお休みして,2015シルバーウィークスペシャルの投稿をします。
2015シルバーウィークスペシャル(1)に続く。

2015年9月16日水曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)…高級「霜降り」の和牛ステーキが食べたいよ

日本では,ようやく異常な秋の長雨も終わり,秋晴れの日が続きそうな天気予報になりましたね。
茨城県常総市でおきた鬼怒川の堤防決壊の被害に遭われた方々,他の雨の被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて,今回からは,雨以外の降るモノを見ていきます。今回季節的に少し早いかもしれませんが「霜が降る」を万葉集で探します。
まず,次の詠み人知らずの短歌ですが,北海道,東北地方では,もうこんな季節に近づいているのかもしれませんね。

さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(10-2220)
さをしかのつまよぶやまの をかへなるわさだはからじ しもはふるとも
<<牡鹿が妻を呼ぶ鳴き声がする丘のまわりにある早稲田の稲は刈らないで欲しい。霜が降るような季節になっても>>

解釈がいろいろできる短歌だと思いますが,作者にとってかけがいの無い風景,雰囲気なのでしょうね。ずっとこの風景の美しさと鹿の恋(自分たちの恋?)の季節が続いていてほしいと思ているのかもしれません。
さて,「霜が降る」を詠んだ有名な和歌がたくさん万葉集にはあります。このブログですでに紹介したものもありますが,次々と見ていきましょうか。
次は志貴皇子が慶雲3(706)年文武天皇草壁皇子の長男)の行幸で難波に随行したときに詠んだ有名な短歌です。

葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)
あしへゆくかものはがひに しもふりてさむきゆふへは やまとしおもほゆ
<<葦のまわりを行く鴨の羽がいに霜が降って寒い夕暮は,大和がしきりと思われることよ>>

文武天皇が宮中を離れて,難波に行くことは,志貴皇子には快く思われなかったのかもしれません。天皇はまだ23歳ほどの若さでしたが,恐らく脆弱な体調だったのでしょう(翌年死去)。実権は母(後の元明天皇)が握っていたと考えられます。
志貴皇子にとって,政治的に大和で何が進んでいるか気になるところだったのだろうと,私はこの短歌から感じます。
次は,天平8(736)年に聖武天皇橘諸兄葛城王から橘姓を聖武天皇から授かった時)に贈ったといわれる短歌です。

橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
たちばなはみさへはなさへ そのはさへえにしもふれど いやとこはのき
<<橘という木は,実も花もその葉も,枝に霜が降るような季節になっても葉は美しい緑であることよ>>

これを拝受した橘諸兄の地位はかなり盤石になったと私は想像します。
次は,悲運の皇子として語り継がれいる大津皇子が詠んだとされる短歌です。

経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(8-1512)
たてもなくぬきもさだめず をとめらがおるもみちばに しもなふりそね
<<(機織で)縦糸も横糸も定めずに乙女らが(規則性無く)織ってしまったような黄葉に霜が降らないでほしいものだ>>

黄葉のグラデーションの美しさと色合いの多様さを見事に(おそらく錦織による)機織で例示した短歌だと私は思います。美しさに感動した強さを「霜が降らないでほしい」(いつまでも続いていてほしい)と皇子は表現しています。
こういった例示こそが万葉集に残された和歌の情報量の多さを物語っていると私は考えます。
一つのことを単に示すだけの情報量と,何かと何かを比較して示す情報量は,前者の2倍よりもかなり大きいと私は考えます。
すなわち,比較すれば,ぴったり合う部分と多少合わない部分が出てきます。それが,それぞれ個々の情報量に加え,比較で見えるさまざまな差という情報がプラスアルファされるのです。
<万葉集の和歌は多くの人に多くの情報を与える>
また,詠まれた和歌を聞いた人は,作者が具体的にどれとどれを比較して詠っているのかを考えたり,想像したり,後で調べたりすることになります。結果的に,その和歌を見た人に多くの情報を与えることになるのです。
説明的に違うものを比較するより,あるものにだけ焦点をあて素晴らしさを表現するほうが文学的には優れているという考え方もあるかもしれません。ただ,文学的には平凡といわれる和歌でも,考えたり,想像したり,調べたりして結果的にそこから得られる情報量が多ければ,私的には優れた和歌なのだと考えます。
この私的評価基準は,もし万葉集が文学作品集ではなく,万葉時代の社会の全体像を理解してもらうために編纂されたとすれば,なおさら明確です。
次は,天平5(733)年,我が子が遣唐使として送り出した母が,安全を祈って我が子に贈ったとさける短歌(長歌の反歌)です。

旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)
たびひとのやどりせむのに しもふらばあがこはぐくめ あめのたづむら
<<旅人が一夜を明かす野に霜が降ったら,我が子を羽の下に包んでやっておくれ,空飛ぶ鶴の群よ>>

奈良時代,遣唐使船は,行き,帰りとも難破することが多く,何度も渡航し直したり,遣唐使の命を受けても辞退者が続出する状況だったようです。
そのような中で,我が子を送り出す母の気持ちは,この短歌で本当にわかる気がします。何せ,現代宇宙ステーションに人を送るよりはるかに死亡率が高かった航海ですから。母が詠んだ「霜が降る」は我が子が遭遇する苦難の象徴なのでしょう。
果たして,我が子は無事母のもとに帰ることができたのでしょうか。Wikipediaによると天平5年の遣唐使はすべての人が無事に帰れたわけではないようです。
でも,この人たちのような命を危険にさらす努力によって,(西方の大陸からさまざまな影響を受けた)今の日本の文化が育まれたことだけは事実でしょう。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6)に続く。

2015年9月8日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(4) …秋の長雨がjまだ続く。秋晴れの続く日が早く来て欲しい!

雨を対象とした「降る」の最後は,しっかりした雨を詠んだ万葉集の和歌をとりあげます。
まず,「夕立」からです。晴れた日の夏,夕方近くに急に厚い雲が出てきて,暗くなり,豪雨が降るのを私の少年時代は普通に「夕立ち」と呼んでいました。
今は,「今日は大気が不安定になり,ところどころで雷雨が発生するでしょう」とか,「今日は大気が不安定で,各地でゲリラ豪雨が発生しました」といった味気ない天気関連ニュースが繰り返されているようです。
それに比べ,非常にアナログチックな「夕立ち」という言葉は科学的に厳密ではないため,天気予報や天気情報にはあまり使われなくなったのかもしれませんね。私はやはり「夕立ち」という言葉は無くなってほしくないと思います。
万葉集で「夕立」を詠んだ短歌が次の2首あります。

夕立の雨降るごとに春日野の尾花が上の白露思ほゆ(10-2169)
ゆふだちのあめふるごとに かすがののをばながうへの しらつゆおもほゆ
<<夕立の雨が降ると春日野の尾花の上の白露を思い起こす>>

夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露思ほゆ(16-3819)
ゆふだちのあめうちふれば かすがののをばながうれの しらつゆおもほゆ
<<夕立の雨が強く降ると春日野の尾花の先の白露を思い起こす>>


両首ともほとんど同じ内容ですね(ちなみに,上の写真は9月5日に新潟県津南町を訪れた時撮った尾花<ススキ>の原です)。前の方は詠み人知らずの短歌とされ,後の方は小鯛王(をたいのおほきみ)が詠んだとされています。
小鯛王は奈良時代中期(万葉集としては後期)の歌人と考えられるため,前の短歌の記憶不確かで詠んでしまった,それとも前の短歌をパクッて少しだけ変え自分のオリジナルと主張して詠んだのかもしれません。なお,小鯛王はその後置始多久美(おきそめのたくみ,置始工とも書く)という名前に変更したとこの短歌の左注にあるとのことです。
さて,現代は知的財産権(著作権,工業所有権,営業機密保護等)について非常に厳しい時代といえそうです。なぜなら,昔はモノ自体に価値の中心があったようですが,今は情報にも価値の中心が移っています。
2020年東京オリンピックのエンブレムがいったん決まったにも関わらず,類似のデザインがあるとのことで,取り下げられたのは記憶に新しいところです。
これは,デザインという情報が保護されるべきとの考え方からきています。ポスターに印刷したものはだめで,マグカップに焼きつけたものはOKという,モノに依存した考えではありません。
小鯛王が前の短歌のパクリをしたのでしたら,今では大変なことになります。
しかし,万葉時代以前は和歌はほとんど伝誦(でんしょう)されてきたものと考えられるため,記憶違いやオリジナル作者の不詳など当たり前で,和歌の著作権を統括する組織も当然無かったでしょう。
もしかしたら,万葉集は「和歌の作者の認定や盗作者の洗出しなどを明らかにする目的で編集された」なんてことは考えすぎでしょうね。
さて,次はパッと降る「夕立」ではなく「長雨が降る」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き(10-2262)
あきはぎをちらすながめの ふるころはひとりおきゐて こふるよぞおほき
<<秋萩を散らす長雨が降るころは,ひとりで寝ずに夫を恋したう夜が多い>>

秋の長雨(まさに今の日本がそうでしょうか?)は,秋萩を散らすくらい冷たいし,降る量も多いので,夫はなかなか来てくず,恋しさが募るという女性の気持ちを詠んだのだろうと私は解釈します。
逆に男性が作者とすると「妻のところへ行けなくて,恋しさが募る」となるのでしょうね。
最後は,しっかり「降る」の象徴ともいえる「村雨が降る」を見ていきます。「村雨」の「村」は集落の意味ではなく,『群がる』から来ていて「叢雨」と書くこともあります。
万葉集では次の詠み人知らずの1首のみですが,「村雨」が秋の情景描写として詠まれています。

庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり(10-2160)
にはくさにむらさめふりて こほろぎのなくこゑきけば あきづきにけり
<<庭の草に村雨が降ってコオロギが鳴く声を聞くと,秋になったなあと感じる>>

私の自宅からはいつの間にか蝉の声は消え,自宅(マンション)の専用庭にも秋の虫の鳴き声が徐々に大きく聞こえるこの頃となってきました。
雨続きで庭のいわゆる雑草を抜くことができず,伸び放題になってきています。ただ,秋の虫たちにとっては居心地が良いのかもしれませんね。
次回からは「雨」以外が「降る」を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)に続く。