2019年4月3日水曜日

特別号:「令和」は万葉集の歌ではなく,序の漢文から!

皆さん,お久しぶりです。
4月1日に「平成」に代わって新元号が「令和」と決まりました。
今までの元号は,中国の古典を参考に決められてきたことが多かったようです。今回は日本の古典「日本書紀」「古事記」「万葉集」などを参考にされる可能性があると3月下旬の朝のNHKニュースで見たとき,万葉集からの可能性が一番高いと私は心の中で予想していました。
結果的に予想は当たり(「後付け言っているだけだろ?」と言われれば,そうでない証明はできませんが),大伴旅人が筑紫の大宰府長官であったとき,自宅で梅見の宴を主催(旅人は主人)で集まった人々が詠んだ32首の題詞(序)に次の漢文があります。

(梅花歌卅二首[并序] / 天平二年正月十三日  萃于帥老之宅  申宴會也  于時初春令月  氣淑風和梅披鏡前之粉  蘭薫珮後之香  加以  曙嶺移雲  松掛羅而傾盖  <中略>  宜賦園梅聊成短詠)

この中の「 于時初春令月  氣淑風和梅披鏡前之粉(「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」)」の部分にある「令」「和」が採用されたとのことです。
万葉集を見ている私(ペンネーム:たびと)としてはうれしいかぎりです。ただ,残念ながら,万葉集の歌そのものからではなく,漢字の音読み言葉からも脱することはできなかったようです。文字数の制約もあると思いますが,万葉集を引用するなら日本語本来の言葉である訓読み言葉も今後は検討して欲しいですね。
さて,この序文の「令月」と「風和」にもっともふさわしいと感じる対象の32首の短歌から紹介します。
まず,「令月」についてですが,旧暦の正月(13日)に開かれた宴で,めでたい月であることを詠んだ32首冒頭の1首です。
作者は紀男人(きのをひと)です。主人に歌を詠むように促され,最初に手を挙げた人でしょうか。

正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ(5-815)
<むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ>
<<正月(令月)になって,春が来たら,このように梅の花を愛でて楽しさが尽きないですね>>

次は「風和」にふさわしいと私が思う1首目です。作者は小野田守(をののたもり)です。

霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも(5-846)
<かすみたつながきはるひをかざせれどいやなつかしきうめのはなかも>
<<霞が立つような長くなった春の日が差してきたが,何と愛おしいと感じさせる梅の花だあ>>

冬の冷たい風が強く吹いているとすっきり晴れ渡るのですが,霞が立つということはその風が和らいだ証拠でしょうね。
次は「風和」にふさわしいと私が思う2首目です。作者は史大原(ふひとのおほはら)です。

うち靡く春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか分かむ(5-826)
<うちなびくはるのやなぎとわがやどのうめのはなとをいかにかわかむ>
<<風に吹かれてさらさらと靡く春の柳と我々がいるお宅の庭に植えられている梅の花と,どちらが優れているか判断が難しいです>>

冬には葉が無い柳の枝の葉が緑色に伸びてきて,風に吹かれて細い枝が揺らぐ姿から,吹く風は暖かい風を連想させてくれます。
春を感じさせる柳の葉や梅の花,一度にやってきて何を一番と考えるのに悩むのは,季節に敏感であり,それぞれの植物の良さを良く知っている日本人の独特の感性なのかもしれませんね。
(特別号終わり)

2019年1月2日水曜日

続難読漢字シリーズ(35)…懇(ねもころ)

新年明けましておめでとうございます。
また,大変長い間アップが途絶えてしまいました。
正月で少し時間ができたので,このシリーズのアップを続けます。
今回は以前このブログ開始当初(2009年11月2日)に紹介した難読漢字「懇(ねもころ)」について,もう少し詳しく万葉集をみていきます。
現代ではあまり使われなくなった「真心を込めてするさま」という意味の「懇(ねんごろ」という言葉の万葉時代での発音(読み)です。
まず最初の1首から見ていきましょう。

思ふらむ人にあらなくに懇に心尽して恋ふる我れかも(4-682)
<おもふらむひとにあらなくに ねもころにこころつくして こふるあれかも>
<<思ってくれる人でもないのに真心を尽くして恋い慕う私がいますよね>>

大伴家持が友人との別れに贈った1首です。
それほど付き合いが深くなかった相手に対し,失礼が無いように「私のことはお忘れかもしれませんが,私はあなたの熱烈なファンだったんですよ」とのメッセージと捉えるのが良いと私は思います。
2首目は,吉野の宮があった吉野川の美しさを讃えた短歌です。

かわづ鳴く六田の川の川柳の懇見れど飽かぬ川かも(9-1723)
<かはづなくむつたのかはの かはやぎのねもころみれど あかぬかはかも>
<<カエルが鳴く六田付近の吉野川の岸に生えている綺麗な川柳,しみじみといつまでも見ていたい川だなあ>>

川岸に柳が生えている川は,水がきれいな川に見えるようです。よりきれいな川に見せるため,万葉時代から川岸を整備し,柳を植栽し,剪定などの手入れが行われていたのかも知れません。
現代では,柳川市の柳川城堀,京都市の高瀬川,倉敷市のくらしき川,香取市佐原の小野川,栃木市の巴波(うずま)川などには,両岸や片岸に柳の木が植えられて,風情がある風景を醸し出し,人気の観光スポットになっているようです。
さて,最後に紹介するのは,片思いの気持ちを詠んだ短歌です。

懇に片思ひすれかこのころの我が心どの生けるともなき(11-2525)
<ねもころにかたもひすれか このころのあがこころどの いけるともなき>
<<心底片思いしてしまったのか,この頃の我が心ときたら死んだみたいだ>>

恋愛をしているときに,好きな人のことが気になりすぎて,心が弱り病気のような状態になるという,まさに「恋煩い」の状態だと自分で感じて詠んだ短歌でしょうか。
ただ,この短歌を詠んだ作者は,自分を客観視できている人なのかもしれません。
自分を客観視可能な状態は,まだメンタル(精神)面の疲れや傷を冷静に修復できる力が自身に残っている証拠です。
自分の状況を第三者の目で評価し,和歌に詠むことは精神の健康上良い効果も期待できるかもしれませんね。

さて,突然ですが,話を私の本職であるITの話をします。
今ITエンジニアの不足が非常に深刻です。もちろん,他の業界でも人手不足は深刻なのですが,IT業界は空前の仕事量が発生しているのに対して全然ITエンジニアが足りません。例えば,新元号対応,消費税率変更対応,その他今国会で成立した法律改正対応,犯罪・事故・災害を防ぐシステムの対応強化,スマホアプリの新サービス(さまざまなネット通販,ゲームソフトの新製品や人気製品の更新版,店舗クーポン情報,その他の情報提供など)の拡大対応,自動車などの自動運転・AIによるさまざまな作業省力化・ロボットによる自動化(オートメーション)・家電などのIoT(何でもインターネットに接続して利用)の拡大対応などです。
これらに対応できるITエンジニアの育成が全く追いついていないのです。
さらに,これらの対応作業は一から開発する作業より,すでに動いているシステムのソフトウェアを改修・改善する作業のほうが実際ははるかに多いのです。そうすると,単にプログラムを言われた通りに作る能力だけでなく,出来上がって動いているシステムの作りを理解して改修を行う能力が必要となります。
そういったことができるITエンジニアの育成は時間がかかりますが,さらにそれを体系的に育成する仕組みは今はありません。外国のITエンジニアに来てもらうにしても,日本語で書かれた膨大な,そして更新されていない設計文書や要件を読み込み,最新の状態が何かを理解するのは容易ではありません。
そして,稼働中システムの中には初期開発されて稼働を始めて20年以上経つシステムも非常に多くあります。それら古いシステム(遺産システムという意味でレガシーシステムと呼ぶことがあります)への対応は,そのシステムの中身や当時採用された古い技術を知って,対応できるエンジニアが必要です。しかし,その人たちはどんどん年齢を重ねて減っていき,結局中身を知らない慣れない技術者が対応せざるを得ず,時間と費用が余計に掛かかり,ITエンジニア不足の深刻さに拍車を掛けているという状況が指摘されています。
たとえば,経済産業省が設置したIT有識者と呼ばれる人たちが集まってできた研究会は,昨年9月,早急に古いシステムを刷新し,新しいシステムに変えないと大変なことになるという報告(通称「DX報告」)を出ています。この報告では,2025年には,ほとんどの古いシステムで内容を分かって対応できる人はいなくなり,システムはブラックボックス化し,社会の変化に対し迅速に対応できなくなるとの警告を出しています。
しかし,私はいまさらそんな警告を出しても完全に遅きに失し,現実を見ていない乱暴な報告だと評価してしまいます。
なぜなら,今すぐに慌ててシステムを刷新することは,そうでなくてもITエンジニア不足状況なのに,システムの刷新を別に行うのですから,ITエンジニアの不足をその間さらに深刻化させてしまいます。
システムの刷新と言っても,一般的に企画段階から本稼働まで数年(5年以上もざらに)かかります。そして,その間,最初から最後までずっと対応しなければならないITエンジニアは経験豊富で高度な対応力をもった人たちです。
今本当に不足しているITエンジニアは,そういった経験豊富で高度な対応能力をもった人たちです。もし刷新を一斉にやるとそういった人たちの奪い合いが始まり,そして,結局経験の少ない人が刷新プロジェクト運営を担当して,途中で破たんするプロジェクトが多発する恐れがあります。
私は,この手遅れ状態の解消には,古いシステム(レガシーシステム)をしっかり対応できる人材をまず総合的に育てる必要があると考えます。システムのオーナーはレガシーシステム対応技術者の処遇を改善し,研究機関はレガシーシステムの効率的改修技術の高度化研究に力を注ぎ,ITの教育機関はレガシーシステムの改修技術をしっかり教えるのです。
そして,その人たちがレガシーシステムの中身を多くのITエンジニアが理解できる形式知化(ホワイトボックス化)した後,十分な検討の上に構築された刷新体制と計画で刷新プロジェクトを実施していくしかないと考えます。
私の意見は一見ものものずこく遠回りのように見えるかもしれません。
しかし,たとえばできちゃった子供が大人になり,それなりに働いてはくれてはいるが,何を考えているか理解できない,言うことをまったく聞かないと嘆く初老の親たちに「その子を無視・放置・虐待しても良いから,まだ間に合うので次の子を早急に産み,そちらに期待しましょうよ」と指導する国の政策は,過去の自国がやってきた政策の間違いを反省だにしない発展途上国のレベルにも達しないような国のものなのかもしれません。
少なくとも,先進国でそんな政策をとったら,「人権後進国だ!」と国連などで強く糾弾されてしまいます。
稼働中のITシステムは国民(人)ではないので,人権はありません。しかし,ある一つのシステムが稼働してから役目を終えるまでに掛かるITエンジニアの手間は,ある人が生まれてから一生において必要な本人以外(親,医療機関・教育機関・行政機関・就職先企業・介護機関などの人たち)から受ける手間のモデル(既に国際規格になっているシステムやソフトウェアのライフサイクルモデル)とよく似ているというのが,私の40数年に渡るIT業務の経験からの結論です。
結論として,闇雲にシステムの刷新を急がせるだけの施策は,そのモデルを無視した(人であれば人権を無視した)薄っぺらなものでしかないと私は感じてしまうのです。
このブログの趣旨とは乖離しましたが,年頭の投稿としてお許しください。
(続難読漢字シリーズ(36)につづく)