2017年7月31日月曜日

序詞再発見シリーズ(24) … 万葉人は山と雲をどう見たか?

今回は,「山にかかる雲」を万葉集の序詞に詠んだ短歌を紹介します。
最初は「香久山にかかる雲」です。

香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも(11-2449)
かぐやまにくもゐたなびき おほほしくあひみしこらを のちこひむかも
<<香具山に雲がたなびいているように,はっきりとは見なかったが見た彼女を,あとで恋しくなってしまうのか>>

私は何度も香久山の近辺を通っていますし,登ったこともあります。香久山は非常に低い山です。そのため,雲が山すそをたなびく姿は実はイメージできにくい山です。
富士山のような大きく高い山だとこの短歌のイメージとピッタリなんですがね。
もしかしたら,この短歌の作者は天の香久山を実際には見たことがなく,伝聞で詠んでいるのかも知れませんね。そして,雲のように見える実体は,実は春霞だった可能性もありそうです。
次は「葛城山にかかる雲」です。

春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ(11-2453)
はるやなぎかづらきやまにたつくもの たちてもゐてもいもをしぞおもふ
<<城山に立った雲のように,居ても立っても,彼女のことだけを恋しく思う>>

「春柳」は葛城山の枕詞として広辞苑には出てきます。今回は訳しませんでした。
葛城山は今の正式名称は「大和葛城山」と呼びます。場所は奈良県御所市の西に位置付き,山の西側は大阪府唯一の村である千早赤阪村です。標高は1,000メートル近くあり,関西としては立派な山の部類に入ります。
奈良盆地の南部にある飛鳥京藤原京からは,葛城山がいつも見えて,夏になると入道雲のような雲が立つこともあったのだろうと私は思います。
次は「三笠の山にかかる雲」です。

君が着る三笠の山に居る雲の立てば継がるる恋もするかも(11-2675)
きみがきるみかさのやまにゐるくもの たてばつがるるこひもするかも
<<三笠の山にかかる雲のように,つぎつぎと湧き立ってくるような恋をさせてくれる>>

君が着る」は三笠にかかる枕詞と広辞苑には出ています。これも,無理に訳しませんでした。ただ,女性が着る(被る)笠は,当時屋外に出ることの少ない女性の美しさやセンスの良さを見るのに使われたのではないかと私は考えます。
三笠の山は平城京の近くにあるため,京人は常に見ていた可能性があります。三笠の山に雲がかかるのは,やはり雨の時や雨が降った後の可能性がありそうです。
日本の気候を考えると,山と雲が切り離せないというイメージが万葉時代からあったことが,これらの短歌から感じとれます。
(序詞再発見シリーズ(25)に続く)

2017年7月23日日曜日

序詞再発見シリーズ(23) … 川もいろいろあるよ

今回は「波」でも。川の波である「川波」を万葉集の序詞に詠んだ短歌を紹介します。
最初は,宇治川の「川波」です。

宇治川の瀬々のしき波しくしくに妹は心に乗りにけるかも(11-2427)
うぢかはのせぜのしきなみしくしくに いもはこころにのりにけるかも
<<宇治川の瀬々に寄せる波が繰り返すように,妻は私の心に繰り返し乗りかかってきたことよ>>

宇治川は流れが速く,水深の浅いでは,水流がぶつかり,できたがしきりに寄せている状況なのでしょうか。
熱い夏,奈良盆地の京にいる人にとっては,冷たい水が勢いよく流れている宇治川は避暑地として万葉時代から知られていたのかも知れません。
宇治川沿いに豪華な別荘を作り,妻を呼び,そこで周りの目を気にせず,妻と過ごせればどんなに良いかと,高級官僚の中には夢に描いた人がいても不思議ではありません。この宇治川のイメージは,後の平安時代にも引き継がれていきます。たとえば,たとえば,平等院源氏物語の「宇治十帖」のように。
次は,佐保川の「川波」の地味さを序詞に詠んだ短歌です。

佐保川の川波立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも(12-3010)
さほがはのかはなみたたず しづけくもきみにたぐひて あすさへもがも
<<佐保川に川波がたたないで静かなように,あなたさまに静かに寄り添っままが明日からも続いてほしい>>

最初の短歌の宇治川と佐保川はまったく正反対です。
奈良の京の中心部に流れる佐保川は,平地の川のため,水量も少なく,水の流れる音もしないほどとても静かな流れだったのでしょう。夏の避暑になるような爽快感は無かったかも知れませんが,静かに流れる水は,心を静ませる効果があったのかも知れません。
最後は,今の天理市の東部の山の中から流れ出た小さな川とされる布留川の「川波」を序詞に詠んだ短歌です。

との曇り雨布留川のさざれ波間なくも君は思ほゆるかも(12-3012)
とのぐもりあめふるかはのさざれなみ まなくもきみはおもほゆるかも
<<急に一面曇って雨が激しく降って布留川にさざ波が立っている。それが絶え間ないのと同じようにあなたのことを思っていのです>>

この短歌,布留川のことを読んでいるのではなく,単に雨が「降ったときの川」という見方が当然できそうですが,一応定説に従ってみました。
今,ゲリラ豪雨とか,線状降水帯という天気用語が要注意の自然災害の一つとして,ニュースや天気情報で出ています。小さな川は急に増水し,激しい濁流となって,川の中州や岩にぶつかって,波立っている状態が発生します。雨が降り続けば,氾濫や洪水も起き,その状態も解消しません。
日ごろはおとなしい布留川もいざ大雨が降ると激流に急変することは,当時知られていたのかも知れませんね。
(序詞再発見シリーズ(24)に続く)

2017年7月17日月曜日

序詞再発見シリーズ(22) … 荒波の音でも心は落ち着く?

今回からは「波」を序詞に詠んだ万葉集の短歌を紹介します。
最初は,勢いよく岩にぶつかり,しぶきが岩を越えるような波を序詞に詠んだ短歌です。

荒礒越し外行く波の外心我れは思はじ恋ひて死ぬとも(11-2434)
ありそこしほかゆくなみの ほかごころ われはおもはじこひてしぬとも
<<荒波の流れが岩を越えて行くように私の心はただ一筋に貴女を慕っていますたとえ恋に死ぬとしても>>

荒磯にそそり立つ大岩を越えて,大岩の向こうまで勢いよく行ってしまう波の激しさを自分が相手を恋しく思う強さとして表現しています。そして,自分が死んでもその激しさは変わらないとも。
そんな大波が来る磯とはいったいどこなのか?と,この短歌を聞いた人は思ってしまうでしょう。
次は,波で有名な地名を序詞に詠んだ短歌です。

沖つ波辺波の来寄る佐太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも(11-2732)
おきつなみへなみのきよるさだのうらの このさだすぎてのちこひむかも
<<沖に立つ波だけでなく波が海岸にも打ち寄せる佐太の浦,そのさだ(恋の最盛期)が過ぎた後も恋しい身持ちが残っている>>

佐太の浦がどこにあるか不明ですが,万葉時代「さだ」と発する名前が頭に付いた岬,浦,海,山があったことは事実のようです。漢字は佐太以外に,佐田,佐多などの字が当てられています。
また,万葉時代には「時」のことを「さだ」と呼んでいたようです。後の源氏物語には「さだ過ぎ人」=「盛りの時を過ぎた人」としての用例があるようです(広辞苑)。
序詞は当時の用語の用例や用例での用語の意味合いを明確にすることに貢献していると私は感じます。
最後は,激しい風で波も荒れている姿を序詞に詠んだ短歌です。

風をいたみいたぶる波の間なく我が思ふ妹は相思ふらむか(11-2736)
かぜをいたみいたぶるなみのあひだなく あがおもふいもはあひおもふらむか
<<風が激しいので,荒波が絶え間なく寄せている。そのように絶え間なく私が恋している彼女も私のことを恋しいと思っているのだろうか>>

これから,台風の季節に入りますが,そういった暴風が吹き荒れると波も大きく繰り返し打ち寄せてきます。
そのような強い荒波が繰り返し続くほど強く恋しているのに,相手はそれに反応してくれない(手応えがない)という寂しい作者の気持ちがこの短歌には表れている気がします。
こういった落ち込んだ心理状態を解消するために,実際に海の荒磯に行ってうち寄せる波をしばらく見続けると心理的に落ち着くことが万葉時代に知られていたとします。
そうなら,序詞には「憔悴を癒す海辺の旅」キャンペーンの効果があったかもしれないという推測が可能かもしれませんね。
(序詞再発見シリーズ(23)に続く)

2017年7月10日月曜日

序詞再発見シリーズ(21) …激しい恋愛感情は激しい水の流れやしぶきで表現?

今回は激しく流れる「水」を序詞に詠んだ万葉集の短歌を紹介します。
最初は,高い山の滝から落ちる水が岩に激しくぶつかる様子を序詞に詠んだ短歌です。

高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてぞ思ふ妹に逢はぬ夜は(11-2716)
たかやまゆいでくるみづのいはにふれ くだけてぞおもふいもにあはぬよは
<<高い山の中を通って,勢いよく落ちてくる水が,岩に当たって砕け散るように,心が乱れて思うしかない君と逢えない夜は>>

この短歌,「滝」という言葉は使われていませんが,「滝」が出てくる万葉集の和歌はかなり偏っています。特に吉野の滝を詠んだ和歌が多く,単に「滝」といえば「吉野滝」というイメージが万葉時代は少なくなかったのかもしれません。
そうすると,今では「滝」と呼ばれるような高いところから川の水か落ちるような場所をこの短歌のような表現をしていた可能性が考えられます。
次は,渓谷の急流を序詞に詠んだ短歌です。

高山の岩もとたぎち行く水の音には立てじ恋ひて死ぬとも(11-2718)
たかやまのいはもとたぎち ゆくみづのおとにはたてじ こひてしぬとも
<<高山の岩の下をさかまくような激しい流れの音(噂)でも人にはけっして知らせない。この恋でたとえ死んでしまうことがあっても>>

作者は山奥の沢を見て,激流が岩の下のほうを削るように激しく流れている情景を見たのでしょう。また,その水音は地を揺るがすように大きかったと感じたのかもしれません。
その音を自分がひそかに恋している相手とのウルサイ噂話に例えていると私は解釈しました。
否定しても,否定しても湧き上がる噂話は,まるで今のゴシップ記事のようだったのかも。
ても,お互いのために,激しい恋の気持ちは消すことはできないが,外向きには否定し続けるしかない。こんな苦しい作者の気持ちが伝わってきます。
最後は,相手を思う気持ちの激しさを滝から落ちる水の激しさを序詞として表現している短歌です。

石走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく我が心から(12-3025)
いはばしるたるみのみづの はしきやしきみにこふらく わがこころから
<<岩から水が奔流となって流れ落ちるように,あなたのことを激しく恋うのだ,我が心から>>

実は「垂水」も「滝」と訳されることがあります。ただ,万葉集では「垂水」は3首しか使われた和歌が見えず,今でいう「滝」を一般的にあらわす言葉ではなかったのではないかと私は想像します。
いずれにしても,落ちる水の激しさを自分の恋しい気持ちの激しさに例えたということでしょう。

ただ,これらの短歌を見た,聞いた人は,どう感じるでしょう?
「この作者たちの恋しい気持ちはすごい」と感じるでしょうか?
私は違うと思います。
「どんなすごい急流なんだろう?」「どんなすごい滝なんだろう?」「どんなすごい水音なんだろう?」と思い,「一度行って見てみたい」と感じるのではないでしょうか。
そういった広い意味のモノ,場所,情景などの珍しさを紹介することが巻11と巻12の編纂目的として,もう一度見てみるのも面白いかもしれませんね。
次回は「水」に関連して,「波」を見ていくことにします。
(序詞再発見シリーズ(22)に続く)

2017年7月6日木曜日

序詞再発見シリーズ(20) …万葉時代では多様な水の有り様を意識?

今回は,「水」を序詞に詠んだ万葉集の短歌を紹介します。ところで,九州豪雨で被害にあわれた方々に,心よりお見舞い申し上げます。
日本は万葉時代においても四季がはっきりして,年間雨量が多く(時として豪雨),川,池,沼,湖,雨などで水に接する機会は日常的だったり,日常的でなくても少なくなかったと想像できます。
今年はもう少しすると梅雨が明けそうです。
豪雨の被害を受ける一方で,水不足が心配な地域も出るかもしれません。
万葉時代から,水と親しんできた万葉人。万葉集にも「水」が多くが詠まれています。
その中でも,序詞はそこに出てくる言葉の位置づけやイメージを特定するのにもってこいと私は考えます。
さて,「水」を序詞に詠んだ短歌で最初に紹介するのは,明日香川の水をテーマとしたものです。

明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ(11-2702)
あすかがはみづゆきまさり いやひけにこひのまさらば ありかつましじ
<<明日香川が水の勢いが強くなるように日増しに恋心が強くなっていくとし分は生きていけるのか>>

当時の明日香川が今日の飛鳥川であれば,確かにさほど大きな川ではないので,大雨が降れば,あふれるほどの水量となってしまうのかもしれません。
万葉人は明日香川の水量の変化をこの短歌の序詞のように見ていたことがわかりそうです。
次は別の川を取り上げた1首です。

ま薦刈る大野川原の水隠りに恋ひ来し妹が紐解く我れは(11-2703)
まこもかるおほのがはらのみごもりに こひこしいもがひもとくわれは
<<マコモが刈れるような広い大野川の河原が増水して分からなくなるように,他人に分からないよう恋してきた彼女の下着の紐を解いている私なのだ>>

枕詞らしい部分も訳しました。なかなか,きわどい短歌ですね。
秘密の恋ほど燃えるものはないということですね。
さて,今回の最後は山間部の急流の水を序詞に詠んだ短歌です。

あしひきの山下響み行く水の時ともなくも恋ひわたるかも(11-2704)
あしひきのやましたとよみ ゆくみづのときともなくも こひわたるかも
<<大きな山の下の沢を音を轟かせて流れてゆく水のように,私の心は絶え間なく恋心を持ち続ける>>

この短歌も枕詞を訳してみました。
大きな山の沢には,水が絶え間なく流れる渓流が似合います。
この短歌の作者が,それを知っている人とすれば,仕事でいろいろな場所を旅する人なのかもしれません。
その人には都に残した妻が居て,旅先の渓流の水の流れの豊富さを見て詠んだのかも知れませんね。
この夏,どこかの渓流に行って,涼みたくなりました。
(序詞再発見シリーズ(21)に続く)