2013年5月25日土曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「いぶせし」

今回の「いぶせし」は,今までの「うるはし」「かぐはし」に比べてネガティブな心情を表す形容詞です。漢字では「鬱悒し」と書き,「気分がはれず,うっとうしい」という意味です。よく似た言葉に「いぶかし」がありますが,「気がかりな,疑わしい」という意味で,「いぶせし」の活用形ではありません。
「いぶせし」は現代ではあまり使われていませんが,万葉集では10首ほど出てきます。また,枕草子源氏物語でも使われているようです。
万葉集で「いぶせし」が詠まれいる和歌10首のうち,5首は大伴家持作とされています。その他の5首はすべて詠み人知らずの和歌です。その5首を万葉集に載せようと選んだのが家持であれば,家持は「いぶせし」という言葉を和歌に使うことを好んでいたのかもしれませんね。
それでは,まず家持の「いぶせし」を使った短歌から紹介します。

ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居ればいぶせかりけり(8-769)
ひさかたのあめのふるひを ただひとりやまへにをれば いぶせかりけり
<<空から雨の降る日にただひとり山辺にいると気持ちが落ち込んでしまいます>>

この短歌は,家持が久邇京に単身赴任していた時(天平12年~同16年),紀女郎(きのいらつめ)に贈ったとされています。年上の紀女郎に,心の寂しさに対する癒しを求めた1首ですが,これに対する女郎の返歌は残っていません。雨が降ると新京の造営も中止になり,家にこもることも多くなり,心が「いぶせし」の状態になったのでしょうか。
次は,やはり家持の短歌で,なぜか家に居ることが多いとき,気分転換に外出した際に詠んだ1首です。

隠りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし(8-1479)
こもりのみをればいぶせみ なぐさむといでたちきけば きなくひぐらし
<<家に引きこもってばかりだと気分が晴れないので,気持ちを切り替えるため外に出てみて耳を澄ましてみると,ちょうど今やってきて鳴き始めた蜩がいた>>

が鳴き始めるのは,夏の終わりです(この時期の暦では秋の半ばです)。
家持は,夏バテをしていたのでしょうか,それとも人生が嫌になってしまっていたのでしょうか。夕暮れ,久々に外出してみるとちょうど蜩がやってきて鳴き始めたを聞き,心が少し落ち着いたのかもしれません。
さて,次は恋する相手を思う気持ちの切なさを「いぶせし」と詠ませている詠み人知らずの短歌1首です。

水鳥の鴨の棲む池の下樋なみいぶせき君を今日見つるかも(11-2720)
みづとりのかものすむいけの したびなみいぶせききみを けふみつるかも
<<鴨の棲む池に水抜き栓が無いように,あなた様への気持ちが溜まったままで気分が晴れないなあと想っていたとき,あなた様に今日お逢いできたのです>>

万葉時代の貴族たちの恋は今の恋愛と大きく異なり,逢うこと自体が簡単にはできない状況のもとで進めざるを得ないものだったのだろうと私は想像します。逢うことがままならないから恋しい人への想いはつのるばかりになり,それが「いぶせし」という苦しい気持ちにつながっているのかもしれません。
最後に紹介する詠み人知らず女性が詠んだ1首は,恋しい人に逢えずにいるそんな「いぶせし」な気持ちを必死に振り払おうとしている姿を私に想像させてくれます。

うたて異に心いぶせし事計りよくせ我が背子逢へる時だに(12-2949)
うたてけにこころいぶせし ことはかりよくせわがせこ あへるときだに
<<甚だしく心がすっきりしません。楽しい計画でもしっかり立てましょう。あなたと逢えるその時のことだけでも>>

心が動いた詞(ことば)シリーズ「あやし」に続く。

2013年5月21日火曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「かぐはし」

私が住む近隣に雑木林を切り開いた小さな栗林があります。この時期栗の花が咲き始め,割と強烈な匂いが漂います。私にとって栗の花の匂いは決して「かぐわしい」ものではありませんが,この匂いが漂い始めるとそろそろ梅雨が近づいてきたなと感じます。
今回とりあげる「かぐはし」は良い香りがするとか,見目形が良いというポジティブな感想を表す形容詞です。万葉集でも使われているため,「かぐはし」という心情表現は万葉時代から使われていたことになります。
まず,香りが良いことを意味する「かぐはし」を使い,市原王(いちはらのおほきみ)が天平宝字2(758)年2月に当時力を付けてきた官僚の中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)宅で開催された宴席で詠んだ短歌から紹介します。

梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ(20-4500)
うめのはなかをかぐはしみ とほけどもこころもしのに きみをしぞおもふ
<<梅の花の香りの良さから,お互い遠く離れてはおりますが,心はいつも貴殿のことを思っております>>

「梅の花の香りの良さ」は清麻呂が官僚として実績を残し,誰からも一目置かれている状況を意味するのではないかと私は想像します。「遠く離れている」は,距離的なものではなく,勢力地図上の話かと想像します。清麻呂は藤原仲麻呂(ふじはらのなかまろ)に気に入られ,仲麻呂側陣営にいるように見えたのではないかと思います。
ただ,清麻呂が仲麻呂に好かれようと取り入ったのではなく,清麻呂が余人に代えがたい能力を持っていたからだということが,参加者(橘諸兄派)にもわかっていた。そのように私は思います。事実,6年後の勃発した藤原仲麻呂の乱では,清麻呂は仲麻呂側につかなかった(仲麻呂を裏切った)ため,その後も昇進を重ねていったようです。
次は,香りも良く見た目も白くて美しい橘の花を題材にした詠み人知らずの短歌です。

かぐはしき花橘を玉に貫き贈らむ妹はみつれてもあるか(10-1967)
かぐはしきはなたちばなを たまにぬきおくらむいもは みつれてもあるか
<<かぐわしい橘の花を薬玉にして,糸に通して贈ろうとしている妻はやつれているのだろうか>>

この短歌いろいろな解釈ができるとおもいますが,私の勝手な解釈は次の通りです。橘の花が咲くのは今5月(旧暦では6月)です。妻問いをずっとお願いをしていた夫が妻の親から「娘の体調不良」を理由に断られ続けていたのです。そこで,健康に良いといういわれのある花橘の薬玉に妻に贈り,そろそろ妻問に良い季節になってきたので妻問を許してほしい。そんな気持ちが作者にあるように感じます。
さて,最後は大伴家持が越中から帰任するとき,京に戻って会った人を「かぐはし」と表現し,よろしく付き合ってほしい伝える練習に作った短歌です。

見まく欲り思ひしなへにかづらかけかぐはし君を相見つるかも(18-4120)
みまくほりおもひしなへに かづらかげかぐはしきみを あひみつるかも
<<長い間お顔を拝見したいと思っておりましたが,花鬘がとってもお似合いのあなた様とやっとお会いできました>>

家持がやっと越中から京に帰任できることになり,期待と不安が入り混じった気持ちがしっかり私には伝わってきます。
<戻った時の居場所はここち悪い?>
ところで,私は新人として会社入社後,40歳になるまでずっと本社以外の事業所勤務でした。
たまに本社に行くのは,創立記念日くらいで,席があるわけでもなく,そんな日もわずかな時間しか本社いませんでした。私はそれまで本社以外の事業所で,システム構築プロジェクトで大きな成果をいくつかあげることができ,その実績を認められ本社に新たにできた技術スタッフ部門を任されることになりました。
しかし,入社以来,本社勤務は皆無から人脈がまったくなく,どういう関わり方をすればよいかまったく分からな人ばかりでした。その後,私が考えた全社に適用するソフトウェア技術の向上施策は,なかなか受け入れられず,さまざまな部門やトップからの短期的成果を求める個別案件対応のチャレンジが続き,全社施策の展開という理想と現実の期待値とのギャップの大きさに悩み,挫折感を味わう日々が6年以上続きました。
ただ,そのときの経験は,後に勤務していた会社が10倍以上の規模の企業に吸収合併された後に,外様(とざま)出身である私が対等以上に成果をあげることができた要因のひとつであったことは間違いなさそうです。
越中から戻った家持は,私のそんな経験と同じような思いをしたこともあるのではないかと想像し,共感を覚えることが少なくないのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「いぶせし」に続く。

2013年5月14日火曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「うるはし」

<枕草子から>
~ 夏は夜 月の頃はさらなり 闇もなほ螢飛びちがひたる 雨など降るもをかし ~ まして雁などのつらねたるが いと小さく見ゆる いとをかし ~ 昼になりてぬるくゆるびもていけば 炭櫃火桶の火も白き灰がちになりぬるはわろし
これは,平安時代に清少納言(せいせうなごん)が書いたといわれる「枕草子(まくらのさうし)」の一段から引用(一部略)したものです。枕草子では「をかし」「わろし」などある出来事や情景を見て,作者が感じたさまざまな気持ちを表す形容詞が出てきます。
枕草子の他の段を少し見ると同様の形容詞として,つきづきし,くるし,みぐるし,こころくるし,はえばえし,ねたし,まがまがし,たのもし,かしこし,よし,あし,にくし,うつくし,たどたどし,あやし,めでたし,めずらし,たのもし,いとほし,はらだたし,ねたし,おそろし,すきずきし,かしこし,うれし,うしろめたし,さうざうし,ひさし,あさまし,わびし,ゆゆし,このもし,わりなし,ともし などが出てきます。
<万葉集に出てくる心情として感じる形容詞を見る
万葉集にもこういったヒトが心情として感じる形容詞は多くあるのでしょうか。私が少し調べたところでは200種類ほどの形容詞が万葉集に出てきています。その中で,ヒトが感じる(心が動く)形容詞は少なくとも50以上はあると私は見ています。
本シリーズでは,このブログで過去投稿した対語シリーズで取り上げたものを以外で,万葉集に出てくる心が動いたことを示す形容詞を取り上げていきます。
今回は,そのトップバッターは「うるはし」です。現代でも「麗(うるわ)しい」という言葉は,「ご機嫌麗しい」「見目麗しい女性」などと使います。
さて,万葉集で「うるはし」は15首あまりで出てきます。いくつか例を出します。

恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば(4-661)
こひこひてあへるときだに うるはしきことつくしてよ ながくとおもはば
<<恋して恋して逢えた時くらいは私が喜ぶ言葉をありったけ言い尽くしてくださいな。これからも二人の仲を長く続けようと思ってくださるなら>>

この短歌は大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)が詠んだ,大伴駿河麻呂(おほとものするがまろ)への相聞歌の1首です。女性は恋しい人(特に男性)から「大好き」「いつも一緒いたい」などという言葉(愛しき言)を何度でも言ってほしいという気持ちは今も昔も変わらないようですね。

さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ(18-4088)
さゆりばなゆりもあはむと おもへこそいまのまさかも うるはしみすれ
<<百合の花の名のように後々もお会いしようと思うものですから,今この時こそ誠心誠意お接ししているのですよ>>

この短歌は大伴家持が天平感宝元(749)年5月9日,越中国府の下級役人秦忌寸石竹(はだのいみきいはたけ)の自宅で催された宴の席で詠んだ1首です。
「ゆり」は同音で「後程」という意味があり,家持はそれを掛けてこの短歌を詠んだのです。「うるはしみすれ」の「み」は形容詞を名詞化する接尾語です。「すれ」は使役を表す助動詞「す」の已然形で,正しく親密な間柄でいることが必要という意味を伝えているようです。
最後は,分かりやすい詠み人知らずの短歌です。

朝寝髪我れは梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを(11-2578)
あさねがみわれはけづらじ うるはしききみがたまくら ふれてしものを
<<朝眠りから覚めたときのみだれ髪に私は櫛を通しません。愛しているあなた様の腕が枕になって触れたものですから>>

妻問いが終わって,夫が帰り,翌朝の妻の情景が浮かびます。この短歌を夫に贈り,お互いの愛情をさらに確かめ合ったのかもしれませんね。これらを見て万葉時代「うるはし」はかなり広くポジティブな意味を持つ形容詞だったようだと私は感じます。
こんな形容詞で表現される人間になりたいものですね。完全に「時すでに遅し」ですが。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「かぐはし」に続く。

2013年5月6日月曜日

2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(5;まとめ)」

<武蔵野に関連した幼い頃の思い出>
今年のGWも今日で終わりです。このブログにも5件アップでき,気持ちよく明日から仕事に戻れそうです。
万葉集東歌防人の歌で,武蔵野を直接,間接に詠ったものを取り上げ,当時の武蔵野を想像した内容でしたが,いかがでしたでしょうか。
私が京都に住んでいた時(大学に入る前)から,武蔵野というものに何かしらのあこがれを持っていたようです(小説の名前にも使われていました)。京都市内には化野(あだしの:右京区),宇多野(右京区),嵯峨野(右京区),平野(北区),紫野(北区),蓮台野(れんだいの:北区),上高野(左京区),高野(左京区),大原野(西京区),鳥辺野(とりべの:東山区),日野(伏見区),小野(山科区),栗栖野(くりすの:山科区),西野(山科区),東野(山科区)などの後に野の付く地区がありますが,武蔵野のように山が遠くにしか見えず,起伏が少ない平野ではありません。
生徒の頃,地図帳を見ると,武蔵野を東西に貫くJR(当時国鉄)中央線中野駅から立川駅まで,約20㎞ほぼまっすぐなのに私は胸をときめかせていました。なぜなら,京都付近の鉄道はみなくねくね曲がって進むのが普通でしたから。
私はあこがれの武蔵野に属する今の場所に暮らし始めて25年以上になりますが,その間都市開発が急速に進み,雑木林はどんどん減り続けています。でも,近くにある平林寺新座市)の境内(数百m四方)には,雑木林がしっかり保存されていて,その中に入ると武蔵野の雰囲気を今でも感じることができます。
今回,万葉集の武蔵野を詠んだ和歌や埼玉県立さきたま史跡の博物館を訪問して,1千数百年以上前から武蔵野は人の手が入って暮らしを支えてきたことを私は改めて強く感じしました。これからも行われるであろう都市開発も今まで行われてきた武蔵野に人が手を加える形のひとつかもしれませんが,自然との調和を忘れないでほしいと私は願いたいです。
<本題>
さて,武蔵野という言葉は言っていないのですが,武蔵野に属する地名を詠んだ短歌を2首紹介して,このシリーズのまとめとします。

三栗の中に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが(9-1745)
みつぐりのなかにむかへる さらしゐのたえずかよはむ そこにつまもが
<<三つ実が入った栗の中に向かって絶えず流れる泉の水のように絶えることのなく通っていこう。そこに愛しい妻がいてほしい>>

この短歌は高橋虫麻呂歌集に出ていたと万葉集で紹介されています。「中」を「那珂」という地名と考え常陸国(茨城県)する説もあるようです。ただ,埼玉県美里町にある「さらし井」を詠んだものとすれば武蔵野の地を詠んだものになります。「曝井」は布をさらした井戸という意味もあるそうですが,井戸穴を掘らずに自然に湧き出す井戸(泉)を指すものと私はしました。「三栗の」を素直に枕詞としても構わないのですが,三栗の真ん中の実は細く,少し下がっているので,水を流すと必ず真ん中を絶えず通るというイメージを序詞と私はしています。
次は,地名から武蔵野の地を詠んだと判断される東歌です。

入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね(14-3378)
いりまぢのおほやがはらの いはゐつらひかばぬるぬる わになたえそね
<<入間道の近くにある於保屋が原に生えている「いはゐつら」を引き抜くと次々と途切れることなく出てくるように,私への気持ちを絶えさせないでください>>

入間道は入間の地そのものではなく,入間に至る道でよいかと私は考えます。
さて,「はいゐつら」という植物が生えていた於保屋が原があった場所として,この短歌の歌碑が狭山市,坂戸市,日高市,越生町に立っているそうです。いろいろ説があるようですね。では私の思い付きで,(万葉仮名に引きずられただけですが)保谷(今の西東京市)というのはどうでしょう。
さて,次回から新しいシリーズを開始します。内容は,以前シリーズ化した動詞に続き,万葉集に出てくる形容詞,その中でも心情表現に使う形容詞を中心に取り上げます。万葉集の歌人が,どのような状況で,どのように心が動き,それをどう表現しているかを見ていきます。よかったら。続けてご覧ください。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「うるはし」に続く。

2013年5月5日日曜日

2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(4)」

<ウォーキングフェスタ東京>
5月3日,4日,ウォーキングフェスタ東京(スタート・ゴールは東京都立小金井公園)というイベントに参加してきました。
私は以前青梅マラソン(30㎞)や各地のハーフマラソン(約21㎞)によく参加していましたが,最近は最後まで走れないことが分かっていて,ここ10年近くマラソン大会には参加していませんでした。
マラソン大会に出ていたという変なブライトもあり,私は両日とも30㎞の最長コースを選択しました。1日目はあまり困難なく完歩したのでしたが,2日目はやはり足が悲鳴を上げてしまいました。2日連続マラソン大会に出た経験はさすがにありません。足の痛さやしびれをひたすら我慢して最後まで完歩しました。
でも,新緑の武蔵野のイメージを色濃く残す玉川上水野川に沿った遊歩道,都立八国山緑地内遊歩道多摩湖(村山貯水池)周辺の自転車道,多摩湖自転車道深大寺付近の緑道などの木洩れ日の中を気持ちよく歩けました。写真は八国山緑地内と野川にそった遊歩道をそれぞれウォーク中に撮ったものです。

<多摩湖から都心を望む>
多摩湖(人造湖)のダム(標高はわずか110mあまり)から,直線で30㎞近く離れた新宿の高層ビル群がはっきり見え,武蔵野がいかに平らであるかを改めて実感できました。

参加者は全国から2日間それぞれ5千人を超える人々が参加しました。遠くから来た人たちも多く,この魅力的な武蔵野ウォークにやっとこれたといった感想を言っている人がいました。
八十八夜を過ぎた初夏の武蔵野路を歩き,木々や花々の美しさ,空気の爽やかさは都会を忘れさせ,それでいて,途中の公園が多く,適宜休憩やトイレができる歩きやすいコースだと私は思います。
何よりもさまざまな花が道路わき草むら,土手,河原,民家の庭,公園,街路樹の根もとなどに咲き誇っていました。人が植えた花,自然に生えている花など,花の種類は数えていませんが,同種の色違いを数に入れないとしても30種以上,いや50種はあったかもしれません。
<本題>
このシリーズの最初で万葉集14-3376番歌で紹介したうけら(オケラ)の花は秋になればこのコースのどこかできっと咲いているでしょうから,秋に個人的にこのコースを歩いてみたいと思います。
もう1首「うけら」を詠んだ武蔵野の短歌を紹介しておきましょう。

我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを(14-3379)
わがせこをあどかもいはむ むざしののうけらがはなの ときなきものを
<<あなたのことをどう言い表せばいいのでしょう。いつも見る武蔵野のうけらの花のようにいつも恋しく思っています>>

さて,万葉集で武蔵野を見ていくシリーズも4回目となり,まだ紹介していない武蔵野を詠んだ東歌2首を紹介しましす。

武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったが,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>

この短歌は女性から男性に贈った1首だと私は思います。あなた様のことを密かに恋い慕っていることを婉曲な表現で伝えようとしているような気がします。
この短歌にまつわる場所が川越市鹿見塚という古墳跡に伝えられています。この短歌がこの場所で本当に詠まれたかどうか真偽のほどは別にして,万葉集の東歌としてこの短歌があることで,当時武蔵野に住んでいた人たちには結構都会的な暮らしをしていたがいた人たちがいたのではないかと私は思うのですが,考えすぎでしょうか。
次の短歌はやはり女性が夫が居なくなった一人の寂しさを詠んだと思われる1首です。

武蔵野のをぐきが雉立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ(14-3375)
むざしののをぐきがきぎし たちわかれいにしよひより せろにあはなふよ
<<武蔵野の穴に住む雉があわただしく飛び立っていくように別れていったあの宵より,ずっとあんたに逢えないでいる>>

当時,武蔵野は舟で行き来できる川が縦横に流れており,平坦なので道も比較的整備されていたと私は考えます。どこかで人(特に男性)が必要となったとき,多くの人が単身赴任のような形で働きに出て行ったのかもしれません。大量に人が必要となる例として,秩父で優良な銅鉱が発見,東山道武蔵道の整備,河川の治水工事,比較的小さな湖沼埋め立てによる土地開発,豪族の邸宅や墓の造営などが考えられます。
さて,次回は本スペシャルの最終回です。
2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(5:まとめ)」に続く。

2013年5月2日木曜日

2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(3)」

<東国の古墳>
昨日埼玉県行田市にある埼玉県立さきたま史跡の博物館に行ってきました。
この周辺には埼玉(さきたま)古墳群があり,3世紀から7世紀に作られたようです。奈良の古墳時代とほぼ一致する年代に群馬,栃木,埼玉,東京,千葉,神奈川の関東平野各地に多くの古墳が作られたとみられます。
その中でも埼玉古墳群の副葬品(鉄剣)に書かれた表銘文に「雄略天皇の補佐をした」とあり(写真),埋葬された人が奈良と強いつながりがあった豪族の長だったようです。雄略天皇は,ご存知の方も多いと思いますが,万葉集の最初の長歌を詠んだとされています。

埋葬品には鉄剣以外にも鍬鋤(すきくわ),鎌(かま),鉄斧(てつおの),槍鉋(やりがんな),鑿(のみ),錐(きり),刀子(とうず),鋸(のこぎり),馬飾りなどに鉄器も多く,すでに鉄がさまざまな器具に使われていた可能性があるそうです。
また,埼玉県にある旧武蔵国高麗郡(現在の日高市周辺)は,716年日本各地にいた高句麗の帰化人(高麗人)を奈良朝廷がここに集め,群としたと続日本記にあるとのことです。当然,高麗郡ができるずっと前から,この周辺で一部の高麗人が朝鮮や大陸の農業,縫製,製陶,金属精錬などの技術を使って,従来日本になかったモノを生産し,成果をあげていたと私は思います。
こうして作られたものは,利根川荒川から太平洋に出て,難波津などから朝廷に献上され,それが素晴らしく品質がよいものだったことから,奈良朝廷が甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野にバラバラにいた高麗人を高麗郡の場所に集め,さらに技術の進化を期待して行った可能性があるのではないかと私は考えます。
また,7世紀後半から新羅の帰化人(新羅人)も武蔵国に住んでいたことが続日本記にあり,奈良時代半ばには,旧新羅郡(その後新座郡)に新羅人を集めたということが書かれているそうです。
このように見てくると,武蔵国は古墳時代から平城京に掛けて,強力な豪族の存在が想像されます。
豪族でいられるためには,農業や漁業(河川,湖沼)を振興し,あり余る食糧を生産させ,兵士,家臣,新たな技術を研究する人々などを養う必要があったはずです。
多くの古墳が残る武蔵国はそんな豊かな国であったこと,そしてそれを支えた武蔵野という平野や幾筋もの河川があったことが背景にあるような気がします。
さて,万葉集でそのあたりが伺えるか見てみましょう。

埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね(14-3380)
さきたまのつにをるふねの かぜをいたみつなはたゆとも ことなたえそね
<<埼玉の津に停泊している船が,激しい風のためにたとえ綱が切れたとしても,あなた様からの便りが絶えないでほしい>>

恋人に宛てた東歌です。当時はすでに川に船着き場が多く作られ,人々や物資の運送が盛んだったのでしょう。ここに出てくる船の綱は相当頑丈で,切れる可能性が低いけれど,万一台風が来て切れることがあったとしても,恋人からの便りは途絶えないでほしいということでしょうね。
もう1首,武蔵国出身の防人(桧前舎人石前)の妻(大伴部真足女)が詠んだ短歌を紹介します。

枕太刀腰に取り佩きま愛しき背ろが罷き来む月の知らなく(20-4413)
まくらたしこしにとりはき まかなしきせろがまきこむ つくのしらなく
<<護身用に枕のそばにおく大刀を腰につけて愛しいあなたが筑紫の任地から戻つてくるのがいつかわからない>>

枕太刀とは護身用の小さな刀です。これを持っているということは,そのような刀が手に入ったということを意味すると私は考えます。多少高価であってもまったく手が出ないものではなかったということは,受注生産ではなく見込み生産されていたということにならないでしょうか。
次回は,万葉時代の武蔵野のその他の情景について検討したいと考えています。
2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(4)」に続く。