2013年5月2日木曜日

2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(3)」

<東国の古墳>
昨日埼玉県行田市にある埼玉県立さきたま史跡の博物館に行ってきました。
この周辺には埼玉(さきたま)古墳群があり,3世紀から7世紀に作られたようです。奈良の古墳時代とほぼ一致する年代に群馬,栃木,埼玉,東京,千葉,神奈川の関東平野各地に多くの古墳が作られたとみられます。
その中でも埼玉古墳群の副葬品(鉄剣)に書かれた表銘文に「雄略天皇の補佐をした」とあり(写真),埋葬された人が奈良と強いつながりがあった豪族の長だったようです。雄略天皇は,ご存知の方も多いと思いますが,万葉集の最初の長歌を詠んだとされています。

埋葬品には鉄剣以外にも鍬鋤(すきくわ),鎌(かま),鉄斧(てつおの),槍鉋(やりがんな),鑿(のみ),錐(きり),刀子(とうず),鋸(のこぎり),馬飾りなどに鉄器も多く,すでに鉄がさまざまな器具に使われていた可能性があるそうです。
また,埼玉県にある旧武蔵国高麗郡(現在の日高市周辺)は,716年日本各地にいた高句麗の帰化人(高麗人)を奈良朝廷がここに集め,群としたと続日本記にあるとのことです。当然,高麗郡ができるずっと前から,この周辺で一部の高麗人が朝鮮や大陸の農業,縫製,製陶,金属精錬などの技術を使って,従来日本になかったモノを生産し,成果をあげていたと私は思います。
こうして作られたものは,利根川荒川から太平洋に出て,難波津などから朝廷に献上され,それが素晴らしく品質がよいものだったことから,奈良朝廷が甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野にバラバラにいた高麗人を高麗郡の場所に集め,さらに技術の進化を期待して行った可能性があるのではないかと私は考えます。
また,7世紀後半から新羅の帰化人(新羅人)も武蔵国に住んでいたことが続日本記にあり,奈良時代半ばには,旧新羅郡(その後新座郡)に新羅人を集めたということが書かれているそうです。
このように見てくると,武蔵国は古墳時代から平城京に掛けて,強力な豪族の存在が想像されます。
豪族でいられるためには,農業や漁業(河川,湖沼)を振興し,あり余る食糧を生産させ,兵士,家臣,新たな技術を研究する人々などを養う必要があったはずです。
多くの古墳が残る武蔵国はそんな豊かな国であったこと,そしてそれを支えた武蔵野という平野や幾筋もの河川があったことが背景にあるような気がします。
さて,万葉集でそのあたりが伺えるか見てみましょう。

埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね(14-3380)
さきたまのつにをるふねの かぜをいたみつなはたゆとも ことなたえそね
<<埼玉の津に停泊している船が,激しい風のためにたとえ綱が切れたとしても,あなた様からの便りが絶えないでほしい>>

恋人に宛てた東歌です。当時はすでに川に船着き場が多く作られ,人々や物資の運送が盛んだったのでしょう。ここに出てくる船の綱は相当頑丈で,切れる可能性が低いけれど,万一台風が来て切れることがあったとしても,恋人からの便りは途絶えないでほしいということでしょうね。
もう1首,武蔵国出身の防人(桧前舎人石前)の妻(大伴部真足女)が詠んだ短歌を紹介します。

枕太刀腰に取り佩きま愛しき背ろが罷き来む月の知らなく(20-4413)
まくらたしこしにとりはき まかなしきせろがまきこむ つくのしらなく
<<護身用に枕のそばにおく大刀を腰につけて愛しいあなたが筑紫の任地から戻つてくるのがいつかわからない>>

枕太刀とは護身用の小さな刀です。これを持っているということは,そのような刀が手に入ったということを意味すると私は考えます。多少高価であってもまったく手が出ないものではなかったということは,受注生産ではなく見込み生産されていたということにならないでしょうか。
次回は,万葉時代の武蔵野のその他の情景について検討したいと考えています。
2013年GWスペシャル「武蔵野シリーズ(4)」に続く。

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