2013年8月25日日曜日

2013夏休みスペシャル‥「貧窮問答歌を経済の視点で見る」

<経済格差は今もある>
今年は立秋から半月以上が過ぎても猛暑が続きます。そのためか,ルームエアコン,扇風機,冷蔵庫,掃除機など家電製品の売れ行きが良いようです。また,さまざなの経済政策に対し,猛暑効果もあり,少しは景気が上向いているという報道も出ています。
しかし,別の報道では高い電気料金が負担で,やむなくエアコンを入れるのを我慢し,熱中症で死亡または病院に搬送される人がいる。定職に就きたいが,なかなか正社員の求人がなく,やむなく(ほぼ最低賃金の)アルバイトやパートタイムでしのいでいる人がいる。家賃を払えずホームレスとなっている人がいる。病気や障害で仕事に就けず生活保護を受けている人が多くいる。子供を養うお金がなくて育児放棄をしてしまった人がいる。
こうような不本意に見える生活を送っているような人の数は大幅に減っているのでしょうか?
私にはそんな報道に接して,大きく改善しているという実感がまだ湧きません。
<貧窮問答歌から貧困とは何かを考える>
今回万葉集山上憶良が詠んだ貧窮問答歌を取り上げるのは,「それでも憶良が詠んだ時代よりましだ」とか「憶良の内容と同じ状況だ」と書きたいためではありません。貧困とは何かについて改めて貧窮問答歌を通して考えてみようということです。
富や財産に興味が無くなり,貧困でも構わないと思っている人は世の中にほとんどいないだろうと私は思います。ただ,貧窮問答歌に登場する人物のように貧困状態から脱することが難しいと考えている人や貧困状態から脱する方法が分からない人はいるかもしれません。
貧窮問答歌の前半では,決して豊かではないと感じている憶良らしい人物が問いかけます。

風交り雨降る夜の 雨交り雪降る夜は すべもなく寒くしあれば 堅塩をとりつづしろひ 糟湯酒 ちすすろひて しはぶかひ鼻びしびしに しかとあらぬひげ掻き撫でて 我れをおきて人はあらじと 誇ろへど寒くしあれば 麻衾引き被り 布肩衣ありのことごと 着襲へども寒き夜すらを 我れよりも貧しき人の 父母は飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは乞ふ乞ふ泣くらむ この時はいかにしつつか 汝が世は渡る(5-892前半)
かぜまじりあめふるよの あめまじりゆきふるよは すべもなくさむくしあれば かたしほをとりつづしろひ かすゆざけうちすすろひて しはぶかひはなびしびしに しかとあらぬひげかきなでて あれをおきてひとはあらじと ほころへどさむくしあれば あさぶすまひきかがふり ぬのかたきぬありのことごと きそへどもさむきよすらを われよりもまづしきひとの ちちはははうゑこゆらむ めこどもはこふこふなくらむ このときはいかにしつつか ながよはわたる
<風雨やみぞれも降る夜はどうしようもなく寒い。堅塩をなめては糟湯酒をすする。咳が出て鼻水をすすり上げる。たいして生えていないい髭を撫でて,自分より優れた人はそうはいないと自惚れているが,寒いから麻でつくった夜具をひっかぶり,麻布の半袖をありったけ重ね着をしても寒い。こんな寒い夜には,私よりももっと貧しい人の親は飢えてこごえ,その妻子は力のない声で泣くいてるかもしれない。こういう時,そういった君はどうやって生活しているのか?>>

それを受けて後半ではもっと貧困状態だという人がその悲惨な状況を詠います。

天地は広しといへど 我がためは狭くやなりぬる 日月は明しといへど 我がためは照りやたまはぬ 人皆か我のみやしかる わくらばに人とはあるを 人並に我れも作るを 綿もなき布肩衣の 海松のごとわわけさがれる かかふのみ肩にうち掛け 伏廬の曲廬の内に 直土に藁解き敷きて 父母は枕の方に 妻子どもは足の方に 囲み居て憂へさまよひ かまどには火気吹き立てず 甑には蜘蛛の巣かきて 飯炊くことも忘れて ぬえ鳥ののどよひ居るに いとのきて短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る里長が声は 寝屋処まで来立ち呼ばひぬ かくばかりすべなきものか 世間の道(5-892後半)
あめつちはひろしといへど あがためはさくやなりぬる ひつきはあかしといへど あがためはてりやたまはぬ ひとみなかあのみやしかる わくらばにひととはあるを ひとなみにあれもつくるを わたもなきぬのかたぎぬの みるのごとわわけさがれる かかふのみかたにうちかけ ふせいほのまげいほのうちに ひたつちにわらときしきて ちちはははまくらのかたに めこどもはあとのかたに かくみゐてうれへさまよひ かまどにはほけふきたてず こしきにはくものすかきて いひかしくこともわすれて ぬえどりののどよひをるに いとのきてみじかきものを はしきるといへるがごとく しもととるさとをさがこゑは ねやどまできたちよばひぬ かくばかりすべなきものか よのなかのみち
<<世の中は広いというが私には狭いのか。太陽や月は明るく照り輝いて恩恵を与えるというが,私には照ってくれないのか。他の人も皆そうなのか。それとも私だけなのか。たまたま人間として生まれ人並みに働いているのに,綿も入っていない麻の袖なしの,しかも裂けて破れて垂れ下がり、ボロボロのものばかりを肩にかけているだけ。低くつぶれかけ,曲がって傾いた家では地べたに藁を敷き,父母は枕の方に,妻子は足の方に,自分を囲むようにして,悲しんだりうめいたりしている。かまどには火の気はなく,甑には蜘蛛の巣がはって,いつ飯を炊いたか思い出せない。かぼそい力のない声でお願いしているのに「短いものの端を切る」ということわざと同じように,鞭を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか?>>

ここで,貧窮問答歌は経済に関する事実をいくつか教えているように私には思えます。
・貧困に陥った人が貧困から脱出するのは,個人の努力だけでは困難な部分がある。
・貧しい/豊だという感じ方は相対的なものであり,他人の状況との比較の結果感じる部分が少なくない。
・ヒトは,貧しくともプライド(ヒトとして意味をもった生き方を求める気持ち)を持って生きている。たとえば,家族の絆は貧困より優先する。仕事をして社会に貢献して生きていきたい。など。
・貧困からの脱出し,豊かになるには社会の仕組み,生まれた家柄,ごくまれな幸運に依存する部分が多いと感じている。
<今の日本に当てはめると>
ところで,今の日本経済を見ると,自由な市場主義経済を前提としていると言えそうです。ということは,勝者もいれば敗者もいることになります。勝者は多くの富を得て,勝ち組状態を維持するため,他社が競争を仕掛けにくいようにします。
勝者は他者の参入を防ぐための知的財産の確保や企業秘密の非公開など参入障壁を築き,競争相手を増やさない戦略をとります。これは,自由競争の中である程度許されている行為です。
ただし,それを放置すると勝者はさらに強くなり,敗者はさらに勝てなくなり,勝者同士の戦いで最後に勝った最強勝者は永遠に最強で居続けることが可能となります。
こうなると売価を売り手が勝手に決めることができ,もう自由競争とは言えません。そこで,日本などの国では独占禁止法反トラスト法を制定し,供給側も消費側も含めた自由な市場経済を維持しようとしています。でも,これは勝ちすぎた一部の独占企業を排除する法律であり,敗者を無くすものではありません。
実は敗者を無くす経済学の考え方に共産主義経済という思想があります。ただ,今の多くの国はやはり自由な競争をベースとした市場主義経済を採っています。
自由な競争があることで,競争者同士に緊張感が生まれます。勝つためにそれぞれがさまざまな創意工夫を行い,その結果勝ち負けに係らず新しい技術や産業が自然に生まれやすくなります。それが自由主義経済の大きなメリットだと私は思います。
ただ,何度も書きますが,何の制御もしなければ貧富の格差がどんどん広がる(経済格差が増える)可能性が高いのです。それに歯止めをかけるために,セーフティネットの拡充や負の所得税といった政策の必要性を主張する人がいますが,自由競争や国の財政とのバランスが難しい政策課題だと私は感じます。
さて,貧窮問答歌を再度見ると,最後に所得のない人にも税金を取り立てている様子が出てきています。万葉時代には,累進課税制度といったものが考えられていなかったのでしょうか。

世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(5-893)
よのなかをうしとやさしと おもへどもとびたちかねつ とりにしあらねば
<<今の世の中が憂鬱だとか生きていることが恥ずかしいとか感じても,そこから飛び立って離れて行くことはできない。鳥ではないのだから>>

憶良は,貧窮問答歌に併せたこの短歌で,重税にあえぐ貧しい庶民が自分の努力だけで何とかできるものではなく,当時の為政者に対し,間違った税制度(貧しい人をより貧しくする)を是正すべきと暗に示したかったのかもしれないと,私は思うのです。
2013夏休みスペシャル‥「夜遅く大洗の宿に駆け込む」に続く。

2013年8月18日日曜日

2013夏休みスペシャル‥「山梨市万葉の森を訪ねる」

8月13日は少し早いですが妻の両親の墓参り(茨城県古河市)とペットの墓参り(東京都練馬区)に妻と出かけました。
<夏の山梨市を訪問>
翌14日は妻と一緒に猛暑の山梨市へ行き,笛吹川フルーツ公園万力公園万葉の森などを訪ねました。目的は何か?当然,山梨名物ほうとうと,今が旬のブドウモモを食べにです(万葉の森については妻に内緒にして家を出発)。
実は,山梨県の地名を詠んだ万葉集の和歌は次の東歌のみです(このほか静岡県と併せて富士を詠んだ高橋虫麻呂の長歌が巻3にあり)。

むろがやの都留の堤の成りぬがに子ろは言へどもいまだ寝なくに(14-3543)
むろがやのつるのつつみの なりぬがにころはいへども いまだねなくに
<<都留の堤はようやく完成しそう。子供はいつ?と周りは云うけど,まだ共寝もしてないのに>>

それでも山梨市には万葉の森があるというので,どんなとこか見に行きたいというのが,私の希望でした。
さて,JR武蔵野線中央線中央本線を乗り継いで山梨市駅に午後1時頃到着。さすがに,お隣の甲府で最高気温40.7度(今年2位),勝沼で40.5度(今年3位)を記録した数日後に行ったものでしたから,その暑さは予想以上でした。
早速近くのスーパーで山梨県産であることを確認のうえ,モモと種無し巨峰を買い,クーラボックスに入れました。
<山梨と言えば猛暑でもほうとう食うべし>
そして,グウグウ鳴っているお腹を抱え,駅近くのネットで割と評判のほうとう専門店に入りました。この猛暑の中,アツアツのほうとうを食べる人はいないだろうと予想して店に入ると,ほぼ満席で唯一空いていた隅の1テーブルに案内されました。店内は適度に冷房が効いていて,外を歩いて火照った体にはちょうど良かったのです。冷やしほうとうもあるらしく,そんなに冷房を強くできないのかもしれません。
妻とよく冷えた中ジョッキでまずは乾杯し,塩の効いた枝豆(1個しか豆がないものが結構入っていたので,本当に枝から茹でたものでした)をほおばっている,汗で失われた塩分が補充されるのがわかる気がします。
「豚バラ」と「地鳥」のほうとうを1人前ずつ頼み,しばらくすると店員さんが2つの鍋をそれぞれ卓上ガスコンロに乗せてできました。厨房ではなく,客のテーブルで煮る方式です。目の前で15分も近く煮たててから食べます。そのくらいすると身体も冷房でかなり冷えてきたので,ちょうど良い具合です。それぞれ妻と分け合って食べました。両方とも評判だけあって美味しかったのですが,無理に比較をすると私も妻も地鳥の方が口に合いました。年のせいでしょうか。
<フルーツ公園を目指す>
遅い昼食が終わって,山梨市駅に戻り,タクシーでフルーツ公園に向かいました。運転手さんに「今日の暑さはどう?」と聞くと「数日前に比べると少しはマシかな」との返事。「この暑さはブドウやモモの生育に結構影響している?」と聞くと運転手さんもブドウ畑を持っているようで「良くないね。暑すぎてブドウの色がなかなか付かない。それと雨が降らないので水やりが大変だよ」とのこと。
「斜面だから水を上げるのが大変?」と素人の質問をすると「今はどの畑も給水管が通っているからそんなことはしないで済むけど,水を出す時間が畑ごとに決められていて,その時間だけでは,根の下の方まで水が行かず全然足らない。雨乞いをしたい気持ちさね」と。
タクシーは急坂を唸りを立てて登っていきます。大きく蛇行した道を5分ほど昇るとフルーツ公園の手前の一番低い場所にある駐車場に到着。
<フルーツ公園を到着>
フルーツ公園は入場無料で,本来は果樹研究施設のようです。展示施設もありました。中を循環する乗り物は1回2百円。その他は施設でフルーツや土産を買ったり,レストランで食事をすることで収入を得ているようです。
園内はいろいろな果樹が植えられていました。私たちは徒歩で一番高い場所(富士屋ホテル付近)まで登りました。ここまで来ると標高が550mほどの場所なので,風がさわやかで気持ち良く感じることができました。
眼下に甲府盆地東部を見渡せる場所で,景色を見ながら昼食前にスーパーで買ったブドウがクーラーボックス内でちょうど冷えていたので食べました。また,自宅から凍らせて持って行ったミネラルウォーターも半分位溶けて,溶けた水は冷たさ抜群でした。素晴らしい風景,涼しい風,美味しい地元の種無し巨峰を同時に味わいながら。

帰りはフルーツ公園の最上部の乗り物駅から園内の乗り物の最終便に乗って下の駐車場まで下りました。下の駐車上に降りると,熱風の風に戻り気温がまだ高いことが分かります。
そこからは山梨市駅方面へ歩いて下ります。フルーツ公園のすぐ下にある果物の直売所があったので寄りました。時間が夕方に迫っていて,売れ残った各種ブドウやプラムをたくさん試食させてもらいました。
<シャインマスカット購入>
店の人に悪いので,一番美味しかったシャインマスカット(マスカット・オブ・アレキサンドリアや甲州路などを掛け合わせた品種で皮ごと食べられる)を一房買いました。グラム単価よりすごく安くしてくれ,さらにプラム10個をおまけに付けてくれ,ありがたかったです。
急こう配を降りてきて笛吹川を渡る手前に万力公園があり,その中の森を「万葉の森」と呼んでいます。妻に少し寄りたいというと「OK」の返事がありました。先ほど,マスカットを安くしてもらったので,機嫌が良いようです。
<「万葉の森」散策>
中に入るとなんと鹿が飼われているではありませんか。万葉集に出てくる植物を100首以上植えているとのことで,万葉歌碑も建てているという力の入れようです。万葉集の和歌があまり詠まれていない山梨県ですが万葉集が地域に与える力はすごいと感じました。


もう少しいろいろ園内を回りたかったのですが,帰りが遅くなるので,写真を少し撮っただけで山梨市駅に向かいました。

自宅の近くの駅に到着したのが夜8時を過ぎていましたので,サイゼリアに寄って夕食としました。
昼食のほうとう屋さんでは中ジョッキ×2,枝豆1,ほうとう×2で計4千円(値段は普通との印象)でした。夕食のサイゼリアでは,料理4品,中ジョッキ×2,ワインデキャンタ500mlで計2千8百円。やっぱりサイゼリアは安い。
今回,いろいろなモノの値段の話を少ししました。次回のスペシャル企画は経済の視点で山上憶良貧窮問答歌を考えてみることにします。
2013夏休みスペシャル‥「貧窮問答歌を経済の視点で見る」

2013年8月13日火曜日

2013夏休みスペシャル‥「光仁天皇と大伴家持」

<大伴家持という不思議な人物>
私が大学で万葉集の研究クラブに参加していた4年間,一番興味を持った歌人は大伴家持でした。学部は経済学部でしたが,私は本来理系に向いている人間と学生時代は勝手に思っていましたので,数字に対するこだわりがありました。
家持が詠んだという和歌の数が万葉集内で最も多くある。その数は2位以下を寄せ付けないほど圧倒的である。
万葉集最後の和歌が家持作となっている。数学(数列)的には,最初や最後の数字には特別な意味を持つ。
万葉集の和歌には題詞,左注が詳細に書かれている場合が少なくない。万葉集を単なる和歌集(文学)ととらえるべきではなく,万葉集を編纂した人物にスポットライトを当てるべき。
<万葉集における家持の位置>
万葉集に登場する人物,その人物の立場,出現する言葉,和歌の情景や背景,和歌が伝えたいことが非常に多様である(多様性を持つ)。多様性のイメージ(全体像)は統計学の母集団分布を推計する方法などで推測することが可能である。
そう考えたとき,万葉集における家持の存在の大きさがナンバーワンであることは数字(数学)的に有意であることが容易に想像され,私は家持を突っ込んで研究テーマとしたいと考えました。
しかし,創立2年目に入学した大学では,学生数も少なく,建学の精神を早く実現の道筋をつけていくためには,学生としてもさまざまな活動を掛け持ちしても足らない状況でした。
当然のことですが,人間としてもまったく未熟な私は,問題意識(テーマ)はいろいろ持っていても,そのテーマに対してどれ一つ本格的な行動を起こすことが大学時代はできませんでした。
<家持研究の再開>
その後IT企業に勤め,ITの仕事にのめり込んだ私は,結局5~6年前まで万葉集に関することは何一つできませんでした。
万葉集を再び見てみようと考えたとき,学生時代とはまったく状況が変わっていました。まさに,インターネットによって万葉集自体やその時代の様子を研究したものを見ることが非常にやりやすくなっているではありませんか。
これなら,ITの仕事をしながら万葉集を見ることができると判断し,その過程で感じたことを「万葉集をリバースエンジニアリングする」というブログを立ち上げ,投稿するようにしたのです。
では,本投稿の主題に入りましょう。
光仁(こうにん)天皇は,平安京遷都を断行した桓武(かんむ)天皇の前天皇で桓武天皇の父です。また,志貴皇子の子でもあります。
志貴皇子は,光仁天皇が即位したとき,春日宮御宇天皇(または田原天皇)という称号を追号されたのです。
写真は,奈良市田原地区にある志貴皇子(写真上)及び光仁天皇(写真下)のものとされる陵です。


光仁天皇は天皇になる前,万葉集に歌を残していませんが,志貴皇子は6首短歌を残しています。次はその中の1首です。

神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ(8-1466)
かむなびのいはせのもりの ほととぎすけなしのをかに いつかきなかむ
<<石瀬の森の霍公鳥よ,毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか>>

また,笠金村が志貴皇子が霊亀元(715)年に亡くなった際,挽歌(長歌,短歌)を作っています。次はその中の短歌1首です。

御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに(2-232)
みかさやまのへゆくみちは こきだくもしげくあれたるか ひさにあらなくに
<<御笠山の野辺を行く道はこんなにも雑草がいっぱい生えて荒れ果てたのだろうか,皇子が亡くなってそんなに経ってもいないのにもかかわらず>>

ところで,平安時代初期に編纂された勅撰史書である続日本記(延暦16<797>年刊)には,志貴皇子は霊亀2年に亡くなったと記されているそうです。
万葉集とは1年の差があります。この差は私とっては無視ができません。どちらが正しいのか,それともどちらも間違っているのか,非常に気になります。
私は万葉集の方が正しいような気がします(単なる直感ですが)。続日本記では,どうしても志貴皇子は霊亀元年(元正天皇即位時)に死んだとすると何か都合の悪い理由があったのではないかと感じます。
話を志貴皇子の子とされる光仁天皇に戻しましょう。宝亀元(770)年10月に62歳という非常に高齢で即位し, 天応元(781)年4月まで10年半に渡って天皇を務めたと続日本記には出ているそうです。
同記によれば,家持はこの間にそれまでにない異常なスピードで昇進をどけているのです。
天平17(745)年に従五位下となった後,宝亀元年に正五位下になるまでの25年の間,一つしか官位が上がらなかった家持ですが,宝亀2年には従四位下へ2段階昇進。
宝亀8年には従四位上,同9年には正四位下に昇進。同11年には参議に。天応元年に正四位上,同年従三位に昇進し,延暦2(783)年中納言となり,左大臣,右大臣に次ぐナンバー3の公卿となるのです。
これを見ると家持がいかに光仁天皇に気に入られていたかが想像できます。
光仁天皇の時代は天変地異(地震,噴火,干ばつ,風水害,疫病,飢饉など)が多数発生し,宮廷にとっても対応にかなり苦慮したい時期であったと考えられます。このような時,政争や権力闘争ばかりに走る野心家より,さまざまな地方で苦労をしてきて,大伴氏をしっかりまとめている家持のような経験豊かな人材が必要だったのではないでしょうか。
そして,家持は光仁天皇時代,天皇の後援を受け,家臣や役人を使い天平宝字3(759)年まで自らが収集していた和歌やその注釈を万葉集の形にまとめたと私は勝手に仮想しています。
万葉集の和歌には,天武系の皇族が力を持っている時代には,とても公表できないような和歌がいっぱいあると私は感じています。
光仁天皇と万葉集(家持)との関係について,私はこれからも興味を持って調べてみようかと考えているのです。
2013夏休みスペシャル‥「山梨市の万葉の森を訪ねる」に続く。

2013年8月10日土曜日

2013夏休みスペシャル‥「明日香路を眠さと暑さに耐えてひたすら歩く」

<真夏の明日香村>
7月28日朝6時47分近鉄南大阪線二上山駅から吉野駅行の電車に乗り,橿原神宮前駅まで移動しました。涼しい電車に乗るとすぐに眠気が襲ってきて,爆睡状態に。気が付いたのが,下車予定の橿原神宮前駅でドアが閉まりかける直前でした。何とかホームに飛び出し,乗り過ごしを防ぐことができました。
南大阪線吉野方面行ホームのベンチ朝の涼しい風に当たりながら,自宅から持ってきて,途中少しずつ食べながら来た冷凍枝豆の残りを平らげました。冷凍枝豆は昨年夏奈良街道を歩いた時も持参しました。昼に自宅を出るとき,完全凍った状態にして保冷剤を入れた保冷袋に入れておくと,夜中にはちょうど解凍された状態になり,保冷剤で朝までよく冷えた枝豆が食べられます。
冷凍枝豆は塩分を含んでいて,ミネラルウォータ(これも自宅を出るときは凍らせています)を飲みながら食べると熱中症の予防,空腹感の防止に効果があると私は考えています。残った枝豆をすべて平らげると,ホームで小休止し,駅の売店でパンとミネラルウォータを補充して,いよいよ酷暑の昼間に明日香に向かいます。
橿原神宮前駅を東の方向に進むと剣池石川池)のそばに出ました。万葉時代「軽の池」と呼ばれていたとのことで「軽の池」を詠んだ紀皇女の短歌が紹介されています。

軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに(3-390)
かるのいけのうらみゆきみる かもすらにたまものうへに ひとりねなくに
<<写真参照>>

ここから,甘樫の丘にショートカットで行こうと,橿原市菖蒲町の住宅街に入りました。一戸建ての結構敷地の広い家が整然と並んでいて,私の感覚では高級住宅街です。ところが,余りにも整然と並んでいて,行き止まり(袋小路)ばかりで,道に迷ってしまいました。
庭の手入れをしている居住者の方に「甘樫の丘にはどう行けばよいですか?」と聞くのですが,そこに住んでいる人は甘樫の丘に歩いて行ったことはないらしく,遠回りの幹線道路を使っていく道しかご存知なようで,こちらの望む細い道は教えてもらえませんでした。
結局,午前中とはいえ,酷暑の中,遠回りの幹線道路に戻って歩くことになり,甘樫の丘の麓の飛鳥川にほとりにある「飛鳥」バス停に着くまで30分以上時間をロスしました。
そこには,明日香を訪れると必ずと言ってよいほど寄る農産物直売所「あすか夢の楽市」があり,今回も寄ることにしました。中は冷房がよく効いていてまるで砂漠の中のオアシスといった感じがしました。

そこで,冷たい紫蘇ジュースを試飲させてもらい,自宅へのお土産(古代米をブレンドしたコメ)を買い,リュックに詰めて,亀石方面に向かって歩き出します。
みかん農園に行く途中に,去年も写真を掲示した蓮の花がきれいに咲いている池があり,今年も写真を撮りました。

ただ,猛烈な暑さで,次の詠み人知らずの短歌のようにざっと雨でも降ればと思いつつ。

ひさかたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む(16-3837)
ひさかたのあめもふらぬか はちすばにたまれるみづの たまににたるみむ
<<雨が降らないかあ。蓮の葉の上にとどまっている水滴が宝石のように見えるから>>

10時前にみかん農園手前の急な坂道を登り,ようやく農園に到着(写真はみかん農園から見た明日香村方面)。

受付を済ませて,自分がオーナーになっているみかんの木に行って,摘果を開始しました。大きいものはそのままにして,小さい実,傷ついた実,周りに実がいっぱいあって日が当たらない実などを摘果していきます。

数十個は摘果して,今年の摘果作業は30分ほどで終わりました。その後,農園が用意してくださった,摘果した実のジュースを飲みと冷えたスイカを食べ,農園を後にしました。
農園から10分ほど下ったところに明日香村循環の赤かめバスの健康福祉センターというバス停があり,そこからバスに乗って,近鉄吉野線飛鳥駅まで向かいました。
<農園からの帰路>
ただ,バスには乗客は誰も乗っていませんでした。酷暑の夏真っ盛りに明日香村を徒歩で観光で訪れる人はほとんどいないということかもしれませんね。
飛鳥駅に着くと,次の電車まで25分ほどあり(乗る電車時刻を無視したバスダイヤ!),25分眠さを堪え,炎天下のホームで待つより,2駅先の橿原神宮前駅まで歩くことにしました。
駅の待合室から戻る私の姿をみて,開店休業のレンタサイクル店のお姉さん(私より年上という意味)が「お兄さん,自転車乗られへんか?」と声を掛けられました。「もう家に帰る時間やさかい,今日はええわ」といって,中街道(国道165号線)を北に向かいました。
なんとか,20分程度歩いて橿原神宮前駅に到着し,11時7分発京都駅行急行の最前部の車両に乗りました。近鉄京都駅はターミナル駅で,最前部が改札に最も近いことを知っているからです。
電車が走りだして,当然ですがすぐ睡魔が襲い,気が付いたときは京都駅の2駅前でした。
京都駅からは再び28日の青春18きっぷでJRのお世話になります。12時30分発のJR西日本の長浜駅行新快速に乗り,米原へ向かいます。快適な片側2列ずつのシートで,ここでもぐっすりと寝られました。
米原からはJR東海の大垣行,大垣からは豊橋行新快速,豊橋からは浜松行,浜松からは熱海行に乗り継いで,行きました。途中,ずっと一緒の電車で移動しているリュックを持った女性の団体や同じくリュックを持った男性の一人旅(私もその一人)が結構いました。青春18きっぷを使い,関西から関東に移動する最適な列車だったのかもしれませんね。
熱海からは,JR東日本の列車で,グリーン券チャージ(750円)をしてグリーン車でビールを飲みながら旅の最後,ゆったりと流れる東京の夜景を見ながら過ごしました。
自宅に戻り,7月28日の歩数計をみると,長尾街道分も含めなんと5万9千歩に達していました。少し苦しい時間帯もありましたが,地に足が付いた充実したひとり旅ができたと実感。もちろん,翌日は普通に会社に出勤し,いつもと同じように仕事をこなしたことも付け加えておきます。
2013夏休みスペシャル‥「光仁天皇と大伴家持」に続く。

2013年8月3日土曜日

2013夏休みスペシャル‥長尾街道を歩く

今年も奈良県明日香村のみかん農園で私が年間オーナであるみかんの木(一本)を摘果する季節になり,昨年と同様に埼玉の自宅最寄り駅からJR青春18きっぷを使い,移動することにしました。

昨年は摘果の前日の夜,JR東海道線大津駅(滋賀県)から奈良街道をJR奈良線宇治駅(京都府)まで歩きました。始発を待ち,桜井線香具山駅(奈良県)までJRで移動,同駅からは藤原京跡経由で農園までまた徒歩で移動しました。
<今年のコース>
今回は27日午後JR快速や普通列車を乗り継ぎ,途中浜松駅では夕食の浜松餃子定食を食べました。

その後も普通電車を乗り継ぎ,24時過ぎにようやく大阪市住吉区のJR阪和線我孫子町(あびこちょう)駅に着きました。

同駅より紀州街道長尾街道(堺大和路線)などを徒歩で移動,28日朝6時47分奈良県の近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線二上山(にじょうさん)駅まで至りました。そこから電車で橿原神宮前駅に向かい,また徒歩でなじみになった農園に移動したのです。
投稿は2回に分けます。今回は我孫子町駅から二上山駅まで歩いた内容をお知らせします。
我孫子町駅から南海電鉄高野線我孫子前駅を通り過ぎました。

さらに阪堺電気軌道阪堺線我孫子道駅を通り過ぎます。

この先,紀州街道との交差点までの西に行く間,途中に住宅街はありますが,けっこう商店街が続きます。平日の夕暮れ時はさぞや活気ある商店街ではないかと想像しながら,夜中静かな商店街を歩くのもおつなものでした。ここで,交差する紀州街道を左に折れ,南行しますが,北行側にはまた商店街がありました。商店街がなんと多い地区だなと感じました。
南行側は昼間でも静かな雰囲気を感じさせてくれる昔風の街道沿いをイメージできる雰囲気でした。
万葉時代の頃には,この紀州街道より西側はすぐ海で,松林などがあったのだろうと私は想像します。次の万葉集の短歌も紀州街道あたりから詠まれたのかもしれませんね。

住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ (7-1159)
すみのえのきしのまつがねうちさらし よせくるなみのおとのさやけさ
<<ここ住之江では寄せ来る波が岸の松の根を洗い出し寄せ来る波音のなんと清々しいことよ >>

さらに南行すると,大和川(上流は奈良県)に掛かる大和橋に差し掛かりました。
今は大和川の上流・下流にたくさんの橋ができていますが,昔はこの近辺にはここしか橋がなく,この橋の両側は大変な賑わいだったのだろうと私は想像します。
この橋を渡ると大阪市住之江区から堺市堺区に変わります。さらに紀州街道を南下すると,街道沿いの面影が残る場所が続きます。


やがて阪堺線が道路の中央を走る大通りと合流します。この大通りを阪堺線駅を3つ分ほど歩くと花田口駅にたどり着きます。

ここが奈良方面(東方)に向かう長尾街道の起点だそうです。紀州街道を歩くのはここまで。左折し,今回の主目的である長尾街道を歩き出します。時間は午前1時半を超えていました。
長尾街道の最初は道幅の広い幹線道路(堺大和路線:県道12号)として整備されていました。

歩道を進んでいくと南海高野線堺東駅のそばを渡り,さらに行くと前方に高層マンションが見えてきました。JR阪和線堺市駅周辺にあるマンション群だと近づくに従い分かりました。
堺市駅の手前から県道12号と長尾街道が別の道になります。私はもちろん静かな長尾街道を行きます。長尾街道を歩くと立派な倉を持つ大きな家にいくつも出会います。


この街道が昔いかににぎやかな街道で,行きかう物資や人で多くの富を得た人たちが多かったのだろうと私は感じました。
ところが,しばらく街道を東行するとまた高層マンションが見えてきました。堺市中心部から離れていくのに変だな思いつつ。このマンションの近くに地下鉄御堂筋線北花田駅があるからのようです。大阪市の中心部まで30分も掛からず行けますから,居住地として人気が高そうなのはうなづけます。
そこから,さらに行くとようやく松原市に入りました。4時近くになっていました。歩いてみると堺市の広さが身で持ってわかりました。
松原市に入ると商店街がまた見えてきました。近鉄南大阪線布忍(ぬのせ)駅の前を通ります。

時間は4時半を過ぎていました。かなり疲れ始めていましたので,このままこの駅で始発を待てばすぐ橿原神宮前まで行けるなあ~という誘惑を振り払い先に進みます。
松原市街地を抜けると羽曳野(はびきの)市に入り,しばらく行くと雄略陵古墳の池の周りを通ります。

万葉集の冒頭の長歌を詠んだとされる雄略天皇の墓とされる古墳がここにあるのはこの地が「そらみつやまとのくに」との近さを感じさせます。
そこからすぐ藤井寺市に入ります。藤井寺市は,私にとって以前プロ野球球団として存在してた近鉄バッファローズのホーム球場があった場所くらいしか印象に残っていません。ただし,こんな立派な家が街道沿いに続きます。

藤井寺市内で長尾街道はまた県道12号と合流します。このあたりになると朝が白み始め,徹夜で歩いたのとだんだん上り勾配がきつくなってきたため疲れがさらに溜まってきました。
そこへ近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅が見えてきて「ここで電車に乗れば楽になるやんか」という今回一緒には連れてこなかった天の川君が誘惑したら負けそうに状況をじっと我慢して進みました。

近鉄道明寺駅付近の石川(いかわ)橋を越えて,更に進むと柏原市の近鉄大阪線河内国分(かわちこくぶ)駅まできました。

ここでも「大和八木駅で乗り換えれば,...」という誘惑を振り払い,広い国道165号を南行します。
道の昇り勾配はますますきつくなり,なかなか体が前に進みません。
藤井寺市を過ぎ柏原(かしわら)市に入り近鉄大阪線大阪教育大前駅までくると山間部で歩道がほとんどありません。

しかし,車はピュンピュン飛ばして私のすぐそばを走りすぎます。この車の中に,もしかしたら昨夜(土曜の夜)からずつと飲酒して帰る運転手がいるかもしれないと思うと結構強い恐怖心が湧いてきました。呼気にアルコールを検出するとエンジンがかからない自動車を発明してほしいと正直思いつつひたすら車に気を付けながら歩きました。
ほどなくすると奈良県香芝(かしば)市との県境に差し掛かり,ここで後は下りだけと思っていたら,また田尻峠を越えがまっています。

そして峠を下ったと思ったら穴虫という所から目的地の二上山駅までの最後のだらだらとした昇りは本当につらく長く感じました。
ようやく二上山駅に着いたのは朝7時近くになっていました。

ホームのベンチに倒れこみ,次の大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が謀反の疑いで処刑されたのを受け二上山(ふたかみやま)を詠んだ有名な挽歌を思い出す余裕は私にはありませんでした。

うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ
<<この世の私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>


次回は橿原神宮前から帰宅までをお伝えします。
2013夏休みスペシャル‥「明日香を眠さと暑さに耐えてひたすら歩く」に続く。