2012年11月28日水曜日

今もあるシリーズ「酒(さけ)」

万葉時代からがよく飲まれていたことが万葉集からもわかります。
大の酒好きの大伴旅人は,讃酒歌(酒を讃むる歌)13首を詠んでいます。その中の2首を紹介します。

いにしへの七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし(3-340)
いにしへのななのさかしき ひとたちもほりせしものは さけにしあるらし
<<その昔、竹林の七賢人が欲しがったのは,この酒であったらしい>>

価なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも(3-345)
あたひなきたからといふとも ひとつきのにごれるさけに あにまさめやも
<<値段が付けられないほどの価値がある宝といっても一杯の白濁した酒に勝てはしない>>

当時,酒は今の日本酒のように透明ではなく,朝鮮の伝統酒マッコリに近い色と味だったのかもしれませんね。私はどちらかというとウィスキーや焼酎といった蒸留酒の方が好きで,マッコリはあまり飲みません。でも,韓流ブームに乗っている人は好きな人も多いようですね。
ただ,万葉時代には,すでに酒におぼれて,健康を害したり,他人に迷惑をかける人が多く出たのか,禁酒令が出されることもあったようです(続日本記に記録があるとのこと)。

官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ(8-1675)
つかさにもゆるしたまへり こよひのみのまむさけかも ちりこすなゆめ
<<お上からも許しが出た。今夜だけ飲む酒にならないよう,梅よ散らないでほしい>>

この短歌の作者は,名前はわかりませんが坂上郎女(さかのうへのいらつめ)たちと一緒に梅見の宴に参加して,詠んだようです。おそらく,梅が咲いている間だけは,禁酒令が解除されたのでしょう。何日も飲みたいから梅にすぐ散らないでほしいと詠っているのです。
最後に,黒酒,白酒が出てくる短歌を紹介します。

天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒白酒を(19-4275)
あめつちとひさしきまでに よろづよにつかへまつらむ くろきしろきを
<<天地とともに幾久しく万代までもお仕えいたしましょう。黒酒・白酒をお供えして>>

この短歌は天平勝宝4(752)年11月25日に行われた新嘗祭の宴の席上,文屋真人(ふみやのまひと)という高級官僚が詠んだものです。白酒は濁り酒で黒酒は透明な酒なのかもしれません。今で言えば,赤ワインと白ワインといったところでしょうか。
いずれにしても,酒は今も昔も多くの人が愛したものだったことは間違いなさそうですね。
次回はその酒を入れて飲む,杯を万葉集で見ていくことにしましょう。
今もあるシリーズ「杯(さかづき)」に続く。

2012年11月23日金曜日

今もあるシリーズ「橘(たちばな)」

明日香村の農園でみかん一本木のオーナーになり,この前の日曜日みかん狩りをしたと前回の投稿で書きましたが,予想以上に豊作で,みかんの実を収穫するのに妻と二人で1時間半もかかってしまいました。写真は,収穫したみかんの量です。すごいでしょう。

天の川 「たびとはん。そんなにみかんが取れたやったら,みかん酒をぎょうさん作ってや。頼んまっせ!」

すぐ酒を欲しがるのを何とかしてほしいね,天の川君。本当は,みかんをそのままたくさん食べて風邪をひかないようにしてほしいんだけどね。
さて,万葉集では「みかん」という言葉は出てきませんが,柑橘類のの和名「たちばな」が多くの歌で出てきます。今では,橘は人名や地名で出てくる程度でしょうか。みかん(蜜柑)は甘(柑)い橘ということ意味の柑橘類の代表格ということになります。逆に橘は甘くないということになります。
<橘は食用にされていた?>
橘が甘くない(酸味が強い)といっても程度はいろいろあり,食べられていた時期もあったかもしれません。人が好む甘さは時代や流行(はやり)によって変化しますからね。
私が幼いころ夏みかんは酸っぱくて,砂糖を大量に使ってマーマレードかジャムにするくらいでした。今,甘夏みかんとは呼ばない原種の酸味が非常に強い夏みかんをそのまま食べる人がいます。糖分の摂取を抑えたビタミンC補給源として。
甘いものが今よりも少なかった万葉時代は橘は常緑の葉,白い可憐な花,緑の美しい果実,そして甘くはないが,健康に良さそうな果実を食べる,果実のしぼり汁を飲んだり,魚などの臭みを消したり,風味を増したりしたのではないかと私は思います。万葉人の愛した橘は万葉集の多くの和歌で詠まれています。

橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
たちばなはみさへはなさへそのはさへ えにしもふれどいやとこはのき
<<橘は実も花もその葉も枝に霜が降ることがあっても,ますます栄える常緑の木である>>

この短歌は聖武(しやうむ)天皇が天平8(736)年11月,葛城王(かづらきのおほきみ)に橘姓を授ける際に詠んだとされるものです。葛城王は橘姓を賜って,自分の名前を橘諸兄(たちばなのもろえ)としたのです。説明など要らないほど明快な短歌で,これで橘がどんな植物かが分かります。寒さに負けず,いつも力強く繁茂している姿が目に見えるようです。
そして,この聖武天皇の短歌を意識して,越中赴任中の大伴家持が天平感宝元(749)年閏(うるふ)5月23日橘諸兄に贈ったと思われる次の短歌(長歌の反歌)があります。

橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし見が欲し(18-4112)
たちばなははなにもみにも みつれどもいやときじくに なほしみがほし
<<橘は花が咲く時も実が成る時も見ていますが,時を分たず見れば見るほどもっと見ていたい気になります>>

「橘諸兄様のさまざまなご活躍に対していつも注目しております。そのお姿を見れば見るほどさらに注目したいと感じるのです」といったことを家持は伝えたかったのでしょうね。
そのほか万葉集で詠まれている多くの橘の歌を見ると,5月(今の6月)に花が咲き,その後直ぐに小さな緑の実を付け,それを取って,穴を開け,細い紐を通して,女の子が首飾りにするような風習や流行があったことが伺えます。アクセサリーとしても可愛いし,いい匂いがしたのでしょうね。
では,今みかんのように,黄色になった橘は万葉人にとって関心がなかったかというと,色づいた橘の実を意識させる短歌がありました。

月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ(18-4060)
つきまちていへにはゆかむ わがさせるあからたちばな かげにみえつつ
<<月の出を待って家に帰ることにします。私が頭に挿している色づいた橘の実を月影に照らして>>

この短歌は,橘諸兄宅で聖武天皇に天皇の座を譲った元正(げんしやう)上皇,粟田女王(あはたのおほきみ),田辺福麻呂(たなべのさきまろ)等が集まって,宴席をした際に粟田女王が詠んだとされるものです。恐らく,聖武天皇が難波宮(なにはのみや)に都を遷した天平15(744)年頃,この宴席は持たれたのだと思います。
聖武天皇が東大寺の大仏を建立や繰り返し遷都を行い,多額の財政支出を行っていたことに対し,民衆の反発が心配されていたころです。元正上皇は,聖武天皇の補佐役であった橘諸兄を訪ねて「よろしく頼む」という意味の宴会だったのかもしれません。
そうなると,この粟田女王の短歌も意味深ですね。「聖武天皇を抑えられるのは貴殿(橘諸兄)だけ。うまくいったら橘氏を厚遇するしかないでしょう」といった意味にもとらえられるかも?ですね。
ところで,今の世の中も政治が安定していません。安定させることができる人物,政党が現れることへの期待がますます大きくなっているのではないでしょうか。
政治の安定が期待できるのは,政治家として野心がギラギラした人物ばかりの集まりではなく,今まで地道に庶民のため愚直に実績を積み重ねてきた政党ということになるだろうと私は思います。
来月16日には国政選挙(衆議院選挙)が行われます。今までの実績を冷静に評価して投票されることを期待しています。
次回は天の川君が好きな「酒」をテーマに万葉集を見ていきましょう。
今もあるシリーズ「酒(さけ)」に続く。

2012年11月19日月曜日

今もあるシリーズ「飯(いひ)」

私は,昨日明日香村でミカン狩りを行い,ミカン狩りの会場(農家)で飛鳥米の小袋をプレゼントされました。飛鳥米は明日香村の農家で作られたコメのブランドです。ミカン狩りの帰りに,村の産直市場で玄米5キロを買いました。写真はミカン狩りで収穫したミカン(ほんの一部です。実際に収穫した量は次回の投稿で紹介します)とプレゼントされた飛鳥米です。

<3度の食事は朝飯,昼飯,夕飯>
さて,朝飯,昼飯,夜飯と私たちは1日にふつう何度も食事をします。最近,1日1食で良いという人の本が出ているようですが,長年行ってきた3度の食事を減らしたりするのは,健康な人にとってどのような影響があるのか?と私は思います。
現代では,「飯」は「めし」または「はん」と発音します。そして,朝パンや昼ラーメンを食べても「朝ご飯」や「昼ご飯」と呼びます。パン,パスタ,そば,うどん,ピザ,お好み焼き,もんじゃ焼き,たこ焼き,たい焼きを3食の代わりにだべたとしても,やはりご飯と言います。
それだけ,日本人の食事にとってご飯は大きなウェイトを占めてきた証ではないでしょうか。コメのご飯を食べる場合は,あえて「米飯(べいはん)」と呼ぶほどです。
<万葉時代は?>
万葉集では米飯のことを「飯(いひ)」として出ています。
今,飯を「いひ(い)」と発音するのは名前や地名で飯田,飯島,飯塚,飯野,飯見,飯沢,飯沼,飯岡,飯倉,飯詰,飯盛,飯井,飯浦などで使われていますが,それ以外で使われることは少ないのかもしれません。
万葉集で「飯(いひ)」を詠んだ短歌でよく引用されるのが,孝徳(かうとく)天皇(在位645~654)の皇子有間皇子(ありまのみこ)が中大兄皇子(なかのおほえのわうじ。後の天智天皇)に謀反の罪により18歳で処刑される際に辞世の和歌として詠んだとされる次の短歌ではないでしょうか。

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(2-142)
いへにあればけにもるいひを くさまくらたびにしあれば しひのはにもる
<<家で暮らしていれば食器に盛るご飯も,旅先ではご飯を盛る器がなく,椎の葉をその代りに使って盛るしかないのだ>>

この短歌は有間皇子が処刑場に護送される旅の途中で詠んだとされているようです。
次は,飯(いひ)をわが娘に譬えたの短歌です。ただし,尼が詠んだのは上の句だけで,下の句は大伴家持(おほとものやかもち)が上の句に続けて読んだ蓮歌とされているものです。

佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を刈れる初飯はひとりなるべし(8-1635)
さほがはのみづをせきあげて うゑしたをかれるはついひは ひとりなるべし
<<佐保川の水を堰き止めて植えた稲田で(尼作)刈った新米のご飯は母親一人のものです(家持作)>>

これは,自分の娘を養女として預けたある人物から,預かっている子は外には出さない(育ての親のものだ)という意図の歌に対して返歌をしたもののようです。この後どうなったか興味がありますが,万葉集には何も書かれていません。
最後は,橘諸兄(たちばなのもろえ)の弟である佐為王(さゐのおほきみ)の家で住み込みで仕えていたが詠んだ長歌です。

飯食めどうまくもあらず 行き行けど安くもあらず あかねさす君が心し 忘れかねつも(16-3857)
いひはめどうまくもあらず ゆきゆけどやすくもあらず あかねさすきみがこころし わすれかねつも
<<飯を食べてもおいしいと感じない。忙しく働いていても心は安らかでもない。私の心に火をともす恋人が心から離れないのです>>

娘のこの歌を聞いた佐為王は,哀れと思いしばらくは住み込みを許したと伝えられていると左注に記されています。当時は使用人が主に対して要望を行う場合も和歌を使ったこともあるということでしょうか。
今も昔も他人を動かす表現力や説得力がものをいうのは変わらないという気がします。
さて,次回は今で言うならミカンということになりますが,「橘(たちばな)」を取り上げます。
今もあるシリーズ「橘(たちばな)」に続く。

2012年11月11日日曜日

今もあるシリーズ「床(とこ)」

「床」という漢字は「とこ」「ゆか」と両方の読みがありますが,今ではフローリングの家庭が多いせいか「床暖房」「床板」「床上浸水」「床張り」など「ゆか」と読む人が多いのかもしれません。
しかし,言葉的には「とこ」と読むほうが多いようです。今も使われる名詞系の熟語をあげます。建設用語や農業に関する用語も多く出てきます。

「鉄床」「床上げ」「床入り」「床覆い」「床飾り」「床固め」「床框(がまち)」「床挿し」「床締め」「床擦れ」「床土」「床箸」「床柱」「床払い」「床間」「床万力」「床屋」「床山」「床脇」「苗床」「寝床」「野床」

動詞形の熟語は次のようなものがあります。

「床に就く」「床をあげる」「床をとる」

万葉集では床は次のような使われ方(熟語)で出てきます。

朝床(あさとこ)‥朝まだ起きていないでいる寝床
荒床(あらとこ)‥硬くごつごつした寝床
岩床(いはとこ)‥岩の面が平になっているところ
奥床(おくとこ)‥家の奥にある寝床
玉床(たまとこ)‥寝床の美称
床じもの‥床のように
床辺(とこへ,とこのへ)‥床のあたり
外床(とどこ)‥入口に近い所にある寝床。外側の寝床。
夜床(よとこ,ゆとこ)‥寝床。
小床(をどこ)‥小さな寝床。

では,どのように床が詠われているか,万葉集からいくつか見ていきましょう。

彼方の埴生の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹(11-2683)
をちかたのはにふのをやに こさめふりとこさへぬれぬ みにそへわぎも
<<田舎の土でつくった小屋は,少しの雨でも降ると雨漏りが激しく寝床まで濡れてしまう。おれにぴったりと寄り添って寝て寒さを防ごうよ,おまえ>>

この短歌の作者(不詳)は,妻問いをするような中流階級以上ではなく,毎日夫婦で生活する農業を営んでいるような身分だったのだろうと私は想像します。
<当時の貧しい夫婦は?>
木や萱などで屋根を葺いた天漏れのしない家ではなく,土壁で囲い,屋根も土と藁か干し草を混ぜたようなものをのせただけで,ひび割れた個所から天漏れがひどかったのだのでしょう。でも,床で身を寄せ合って耐える仲の良い夫婦の様子が見えてきそうです。
<今は?>
今,こんな天漏れのひどい家に住んでいたら夫婦仲は仲が良くなることは恐らく無いでしょうね。不満が爆発し,喧嘩してどちらかが親元に帰るようなことになるでしょう。
現代では,結婚するまでに豊かさを満喫した経験を持つ人が多く,結婚後それより大幅に悪い暮らしになるる予想されると,たとえ大恋愛をして結婚を前提に考えようとしたとしても,結婚まで踏み切れないのかもしれません。今の世の中,独身者が多くなっているのは,そんなことが原因なのでしょうか。
<幼い頃の貧しさと豊かさ>
万葉時代の庶民は,恐らく親は子供には幼いころから過酷な仕事を手伝わせたり,喧嘩相手の兄弟が多く,今のように親に庇護され育つ家庭にように自宅が安楽の地と感じることはなかったと私は思います。そのため,子供は誰もが結婚して自分の家庭を持ち,自活することのほうが,たとえどんなに苦しく,つらい状況ても自宅で親といるより夫婦にとって幸せと感じられたのではないでしょうか。
若いころ一度豊さを味わってしまうと,それが前提となり,豊かさが少しでも減ると不幸だとどうしても感じてしまうのは人間の性と言わざるをえないのでしょうね。私は,森鴎外の「高瀬舟」に出てくる喜助のようなとことん「足るを知る」人間には到底なれませんが,喜助の話を聞いて心を動かされる庄兵衞の気持ちはよく分かります。
さて,次は東歌(女性作)で,ほのぼのさを感じる短歌です。

港の葦が中なる玉小菅刈り来我が背子床の隔しに(14-3445)
みなとのあしがなかなる たまこすげかりこわがせこ とこのへだしに
<<港に生い茂る葦の中から美しい菅草を刈取ってきてください。それを二人の床に敷きましょう>>

万葉時代,一般庶民の家のは,単なる木の板を並べたものか土を固めて平らにしたものだったのかもしれません。
布団のようなものはなく,そのままでは硬くて,冷たくてとても安らかに寝られるものではなかったと私は思います。
恋人と気持ちよく共寝ができるように美しくて可愛い小菅をいっばて敷き詰めてほしいというお願いをして,相手の男性の来るのを待っている気持ちを表していると私は感じます。
最後に,柿本人麻呂が妻の死を悼み詠んだ挽歌の中に出てくる悲しい短歌を紹介します。

家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕(2-216)
いへにきてわがやをみれば たまどこのほかにむきけり いもがこまくら
<<家に戻り共寝した部屋を見ると,妻が寝ていた床の外側(家の入口に近い方)に置いてある妻の木枕があった。その木枕を使う妻は居ないのだ>>

妻は先に床に入り,夫は後から入るため,妻の枕は内側(入口が遠い方)に置き,夫の枕は外側(入口に近い方)に置くのが慣習だったのではないかと私は想像します。最愛の妻がこの世を去った悲しみを,共寝をした床を見るごとに「もう一緒には寝ることはできない」とい寂しさを感じ続ける自分と併せて表現しています。人麻呂のプロフェッショナルな表現力を改めて感じる秀歌です。
さて,朝床を出ると朝ご飯を食べますね。次回は飯(めし)を取り上げます。
今もあるシリーズ「飯(いひ)」に続く。

2012年11月4日日曜日

今もあるシリーズ「枕(まくら)」

<枕は意外と接する時間が長い>
皆さんが毎日多くの時間皮膚を接しているものに衣類がありますが,「枕」も負けていません。衣類はとっかえひっかえして着回ししますから,一つのものをずっと着ている人は,今の日本では比較的少ないのかもしれません。
しかし,枕を毎日取り換えたり,何曜日用の枕を用意てしている人は,ずっと同じ衣類を着ている人より少ないのではないでしょうか。それくらい枕は使い込むものだと私は思います。
最近出張で宿泊したビジネスホテルでは,硬い枕と柔らかい枕の両方を置いていました。また,観光でよく泊まる奈良駅前のホテルでは,ロビー階のエレベータホール前に20種類ほどの枕を用意して,宿泊客が選べるようにしています。枕にこだわる人が多くなっている証拠かもしれませんね。
<万葉集では枕が意外と出てくる>
さて,万葉集では枕を詠んだ和歌が何と60首近くも出てきます。枕単独で出てくることも圧倒的に多いですが,次のような熟語も出てきます(枕詞の用法は除きます)。

石枕(いしまくら)‥石の枕。旅先で野宿するときの枕
草枕(くさまくら)‥草を枕にするから転じて野宿,旅寝を指す
木枕(こまくら)‥木製の枕
菅枕(すがまくら)‥菅を束ねて作った枕
手枕(たまくら)‥腕で枕をすること
黄楊枕(つげまくら)‥柘植の木で作った枕
新手枕(にひたまくら)‥初夜,男女の初めての契り
枕く(まく)‥枕にする。抱いて寝る
枕片去る(まくらかたさる)‥枕を床の片方に寄せて寝る

このように,万葉集で枕は男女の共寝のイメージ,旅先でちゃんとした枕で寝られないこと(旅のつらさのイメージ)を表現するとき使われていることが想像できます。
実際の和歌を見てみましょう。

ここだくも思ひけめかも敷栲の枕片さる夢に見え来し(4-633)
ここだくもおもひけめかも しきたへのまくらかたさる いめにみえこし
<<こんなにたくさんいつもあなた様のことを思っております。枕を寄せておなた様が床に入ってくださるのをお待ちしているとあなた様が入ってくる夢を見ましたの>>

この短歌は,志貴皇子(しきのみこ)の子である湯原王(ゆはらのおほきみ)と娘子(をとめ)との相聞(さうもん)歌のやりとりの娘子から湯原王に贈った1首です。湯原王には正妻がいたようですが,娘子に対する恋の炎に火が付いたようです。
当時は正妻以外の女性と恋愛関係となったり,側室を持つこと法的にも社会風習的にも許されていたようです。しかし,女性側からすれば自分が最も愛されていることの確証がほしいと思うのは当然のことではないでしょうか。
さて,正妻と娘子の二股をかけている湯原王はその後のやり取りの中で次の短歌を娘子に贈っています。

我が衣形見に奉る敷栲の枕を放けずまきてさ寝ませ(4-636)
あがころもかたみにまつる しきたへのまくらをさけず まきてさねませ
<<私の衣を私の代わりとして差し上げます。私が来ないからといって枕を離すことなどせず、この衣を身を包んでおやすみください>>

「湯原王ちゅうのは,なんちゅう悪いやっちゃ!」と天の川君の声が聞こえてきそうですが,多少湯原王の弁護するとこのやり取り中は公務で旅の途中だったようです。ただ,湯原王と娘子との(今の感覚ではいわゆる不倫の)相聞(4-631~641)のやりとりは,私には恋の炎がメラメラ燃え立っている迫力を感じさせてくれます。

天の川 「たびとはんの奥さ~ん。たびとはんはやっぱり悪い願望持ってるさかい,気つけんとあかんで~。」

し~っ。大きな声を出すとまだ寝てる妻が起きるじゃないか。急に寒くなったのでおとなしくしているかと思ったらまた邪魔しにきたな。天の川の奴を収納に押し込んでおきましたので,先に進めましょう。
次は旅先の和歌で枕を詠んだものを紹介しましょう。

大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ(1-66)
おほとものたかしのはまの まつがねをまくらきぬれど いへししのはゆ
<<高師の浜の松の根を枕にして寝ていても家のことが偲ばれるなあ>>

この短歌は持統天皇文武天皇に譲位した後(持統上皇),難波に行幸(みゆき)したときに,同行したと思われる置始東人(おきそめのあづまびと)という人物が詠んだとされています。まさか付き人は野宿をさせられということはなかったと思いますが,結構長期間の行幸でホームシックになった気持ちを「(妻の手枕ではなく)松の根を枕にする」という表現を使ったのだと私は思います。
奈良時代に入って大伴家持も同じような短歌をもっとストレートに詠んでいます。

大君の行幸のまにま我妹子が手枕まかず月ぞ経にける(6-1032)
おほきみのみゆきのまにま わぎもこがたまくらまかず つきぞへにける
<<行幸に従い奉るうちに恋人と手枕(共寝)にすることなくひと月が過ぎてしまったなあ>>

この短歌を詠った頃の家持は20歳代半ばだと思われます。このような気持ちになるのは当然でしょうね。
ずっと彼を待っている女性は,次の詠み人知らずの短歌の作者のような気持ちだったのかもしれませんね。

結へる紐解かむ日遠み敷栲の我が木枕は苔生しにけり(11-2630)
ゆへるひもとかむひとほみ しきたへのわがこまくらは こけむしにけり
<<結んだ紐を解かないまま日が過ぎるから私の木でできた枕には苔が生えているのよ>>

いずれにしても,秋の夜長,一人寝は寂しいものと感じる人は昔から多かったのかもしれません。
次回は「床」をテーマとします。次回も似たような和歌が出てきそうですが,天の川君には邪魔されないよう気をつけよう。
今もあるシリーズ「床(とこ)」に続く。

2012年11月1日木曜日

今もあるシリーズ「衣(ころも)」

現代で「衣(ころも)」というと,季節の変わり目で着る服を冬服や夏服に変える「衣替え」や,てんぷらの外側に付ける小麦粉を水で溶き,卵を入れた「衣」くらいしか使わなくなっているのかもしれません。
「衣」という言葉が今はあまり使われなくなった理由として衣(衣服,着物)の種類が増えたことがあるのではないでしょうか。
たとえば,洋服,和服,スーツ,ワンピース,背広,普段着(カジュアル),礼服(フォーマル),パーティードレス,燕尾服,タキシード,作業(仕事)着,寝間着,浴衣,水着などです。
ところで,万葉集の中で「衣」を詠んだ最も有名な短歌は,百人一首にも類似の歌がでている次の持統天皇作といわれる歌でしょう。

春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山(1-28)
はるすぎてなつきたるらし しろたへのころもほしたり あめのかぐやま
<<夏が過ぎて夏が来たらしい。真っ白い衣が干されているぞよ,天の香具山に>>

万葉集に出てくる衣(ころも,きぬ)の入っている熟語には,次のようなものがあります(枕詞で使われている場合を除く)。

赤衣(あかぎぬ)‥赤い色の着物
秋さり衣(あきさりころも)‥秋になって着る着物
麻衣(あさころも)‥麻の布でできた衣服
薄染衣(うすぞめころも)‥淡い色に染めた衣服
肩衣(かたぎぬ)‥袖のない肩から布を掛けたような服。古代の庶民服。
形見の衣(かたみのころも)‥死んだ人の形見の衣服
皮衣(かはころも)‥動物の皮で作った防寒用の衣
唐衣,韓衣(からころも)‥中国風または朝鮮風の衣服。
雲の衣(くものころも)‥織姫が着ている衣を指す
衣手(ころもで)‥袖のこと
下衣(したころも)‥下着のこと
塩焼衣(しほやききぬ,しほやきころも)‥塩を焼く人(製塩作業者)が着る粗末な作業着
袖付け衣(そでつけころも)‥肩衣と対比した袖のある当時としては高価な服
旅衣(たびごろも),旅行き衣(たびゆきころも)‥旅に出るときに着る衣服
玉衣(たまきぬ)‥宝石で飾った服
露分け衣(つゆわけころも)‥草露が多い場所を歩くとき着る服装
布肩衣(ぬのかたぎぬ)‥布のまま,縫製していないような粗末な衣服
藤衣(ふぢころも)‥藤つるの繊維から作った,隙間だらけのごく粗末な衣服
古衣(ふるころも)‥着古した衣服
御衣(みけし)‥天皇が着る衣服
木綿肩衣(ゆふかたぎぬ)‥木綿の布で作った肩衣

これを見ても分かるように,万葉時代は日本古来の服装が布を首が通る部分を残して縫い合わせ,頭を通して,肩から前後に垂れ下げただけの衣服(肩衣)だったのが,唐衣のような袖を付けた服装(袖付け衣)が作られ,中流階級以上で着られるようになった時代だったことが分かります。
そんな当時のファッションが万葉人にとってどんな感覚であったか想像できる短歌をいくつか紹介します。

須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず(3-413)
すまのあまのしほやききぬの ふぢころもまどほにしあれば いまだきなれず
<<須磨の海女が塩焼きに着る藤衣のような私は,織目が粗いので(粗野なので)なかなか着慣れない(とっつきにくい)でしょう>>

この短歌は,大網公人(おほあみのきみひと)という人物が宴席で詠った歌と題詞にかかれています。宴会で自分を謙遜して挨拶代わりに詠ったのではないか私は思います。
海女の着る塩焼き衣の中でも藤衣はとても織り目が粗く,肌が透けて見えるほどということが当時広く知られていたのでしょう。「そんな粗野な私だけれど末永くお付き合いをお願いしたい」という意味の短歌だと私は解釈します。
次は,裏地のある豪華な衣を題材にした詠み人知らずの短歌です。

赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも(12-2972)
あかきぬのひたうらのきぬ ながくほりあがおもふきみが みえぬころかも
<<赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣を私が長い間いつも欲しいと願っているのと同じほど思い慕うあなた様,この頃はお見えになりませんね>>

いつの時代も女性にとってオシャレな服,豪華な服,他の人が羨ましいと思うような服を着てみたいという欲求はあまり変わらないのではないでしょうか。そんな気持ちと恋人を思う気持ちを重ね合わせたこの短歌から,万葉時代の女性が服装に対する考え方の一端が見えるかもしれませんね。
最後に,今出た赤以外の衣の色(紫色,青色,桃色)が出てくる短歌を紹介して今回の投稿を締めくくります。とにかく,当時からさまざまな色に染められた衣があったようですね。

韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも(4-569)
からひとのころもそむといふ むらさきのこころにしみて おもほゆるかも
<<韓人の衣を染める紫のように心に染みて思いが募ります>>

月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ(7-1339)
つきくさにころもいろどり すらめどもうつろふいろと いふがくるしさ
<<月草で衣を青色に染めようと思うけれど、その色はあせやすいっていう評判があるのがつらい>>

桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも(12-2970)
ももそめのあさらのころもあさらかに おもひていもにあはむものかも
<<桃の色に染めた薄い色の着物のように薄っぺらな気持ちであなたに会ったりはしないのですよ>>

今もあるシリーズ「枕(まくら)」に続く。