2017年5月26日金曜日

序詞再発見シリーズ(16) …木は隠し妻,告げ口,元カノのイメージ?

いろいろ書き物があって少し間が開いてしまいました。
さて,今回は松以外の万葉集の序詞で出てくる高木樹について紹介します。
最初は,(今はケアキと呼ばれている)が序詞に出てくる短歌です。

天飛ぶや軽の社の斎ひ槻幾代まであらむ隠り妻ぞも(11-2656)
あまとぶやかるのやしろのいはひつき いくよまであらむこもりづまぞも
<<天を飛ぶようなすごい軽の社の神聖なケヤキの木のように、いついつまでもこのように隠し妻でいるのか>>

万葉時代,各地で神を祀(まつ)るのまわりには,木が植えられていたのだろうとこの短歌から想像できます。
その木は神を守る役目があり,社のことを「もり」と発音することがあるのは,「守る」からきているためかも知れません(私の勝手な解釈です)。その木の中でも一番立派に育った木をご神木として崇めたり,しめ縄を張ったりした可能性がありそうです。
「槻」は後世に欅(けやき)という名前が付き,それからは欅の名前が広まったようです。
今も地名や苗字に,高槻,岩槻,大槻などがあるように,他の木に比べて,大きく,他の木を覆い隠すほど立派に育つことから,槻は神木として扱われることも多かったのかも知れません
では,次の短歌に移り...。

天の川 「ちょっと待ってんか,だびとはん! 隠し妻の話はせえへんのかいな?」

天の川君ね,私に隠し妻を持てるような甲斐性があるはずもなく,ここは序詞から当時の様子をイメージしている記事なんですよ。

天の川 「なんや。オモロないなあ~。『万葉時代の不倫の実態を暴く!』な~ちゅのはどや? 超ウケるんちゃうか?」

え~と。 次はが序詞に出てくる短歌です。

大和の室生の毛桃本繁く言ひてしものをならずはやまじ(11-2834)
やまとのむろふのけもも もとしげくいひてしものを ならずはやまじ
<<室生に咲く毛桃の花の元の枝に葉が繁るように、繁く声を掛けたのだからこの恋は実らないはずはないだろう>>

奈良盆地桜井市が伊勢方面に初瀬街道が伸びていますが,長谷寺宇陀を過ぎてさらに山間を進むと以前室生村と呼ばれた地域を通ります。この地は初瀬街道の宿場として栄え,伊勢と奈良とを行き来する行商人や旅人に寄ってもらうため,観光資源の一つとして毛桃の花が見事というPRをしていたのかもしれません。
そんな「毛桃の花」が綺麗という評判をもとにこの短歌の序詞は詠まれたのだと私は想像したいですね。
以前(2011.2.27)このブログで『「言繁く」の繁る対象が木の葉であることから「言葉」という用語ができた』と書きましたが,この短歌もそれを思い出させる1首です。
さて,今回の最後は(つるはみ)が序詞に出てくる短歌です。

橡の衣解き洗ひ真土山本つ人にはなほしかずけり(12-3009)
つるはみのきぬときあらひまつちやま もとつひとにはなほしかずけり
<<橡の衣を解き洗うから思い出される真土山とその麓にいる人,つまり元カノよりいいのはやはりいないよ>>

真土山がなぜ橡の枯葉で染めた衣の縫った糸を解き,洗うことと関係があるのか,その理由は想像するしかありません。
<私の序詞へのアプローチ方法>
私は序詞を見ていくとき,この関係は何か? 例えば音が似ているのか,形が似ているのか,動きが似ているのか,風習が似ているのかなどを想像するのが楽しいのです。
大万葉学者先生や超有名歌人の説はおいといて,私は感じたまま想像するのでよいと思っています。学者先生や歌人さんがやるような理詰めで論理を考えることは,私の専門分野ではありませんが,そのうちAI(人工知能)技術あたりがやってしまいますね。
私は万葉集の和歌を見て,詠まれた情景を想像するのは,これからきっと必要となる有効な直感や第六感(シックスセンス)を磨くのに良いツールだと考えています。
さて,その私の直感ですが,黄ばんだ,そして汚れた衣を綺麗に洗い,リフォームすることが,当時すでに職業としてあったのだろうと思います。
その職人が真土山の麓あたり(今の奈良県五條市付近)にたくさんいたと考えると状況のイメージができそうです。吉野川の綺麗で豊富な水も利用されていたのでしょうから。
真土山はその名が示すように,良い土が採取でき,手先の器用な陶器職人(陶人<すゑひと>)も多くいたかも知れませんね。
(序詞再発見シリーズ(17)に続く)

2017年5月4日木曜日

序詞再発見シリーズ(15) … 秘境に松はよく似合う?

今年のゴールデンウィークは,カレンダーとおりの仕事で,私にとって昨日から始まった感じです。
まったく,昨日は結局あまり計画したことができず,日ごろの疲れをいやす感じでした。
今日は,午前から夜にかけて,横浜,新宿,池袋など,久しぶりに繁華街を満喫する予定です。
さて,「序詞再発見シリーズ」は植物と万葉集の序詞を見始めていますが,2回目の今回は「松」を序詞に入れた巻11,12の短歌を紹介します。
最初は,荒波が打ち寄せる磯に生える松(荒磯松)を詠んだ短歌です。

あぢの住む渚沙の入江の荒礒松我を待つ子らはただ独りのみ(11-2751)
あぢのすむすさのいりえのありそまつ あをまつこらはただひとりのみ
<<アジガモが生息している渚沙の入江にある荒磯松(ありそまつ),(あをまつ)私を待っていてくれる妻はただひとりだけ>>

この短歌の序詞には,地名(渚沙の入江),動物(あぢ),植物()が詠み込まれています。
「渚沙の入江」は「スサノヲノミコト(須佐之男命)」の「須佐」との関係から,各地で「須佐」のつく地名や神社のある場所がありえるようです。いずれにしても,この入り江は海のない奈良地方の京からは離れた場所であることは間違いなさそうですね。
「あぢ」は「アジガモ」のことで,当時食用にしていたので「あぢ(味)」と呼ばれていたとの説もあります。
結局,アジガモがたくさん飛んでいて,荒波で洗われた絶壁に這いつくように生えている松が美しい風光明媚な「渚沙の入江」の情景が,私には絵のように見えてきます。万葉時代に「渚沙の入江」は,京人が行きたいあこがれの地だったのかもしれません。
次は,同じく磯の岩に小さく生えている「松」を取り上げた短歌です。

礒の上に生ふる小松の名を惜しみ人に知らえず恋ひわたるかも(12-2861)
いそのうへにおふるこまつの なををしみ ひとにしらえずこひわたるかも
<<人が容易に行けない磯の上に人知れず小さく生えている松、人知れずひそかに恋いしい思いが続いている>>

この短歌の作者は,人々がなかなか行けない秘境のおそらく非常に厳しい環境に耐えながら,必死に生きている小松を想像して,この短歌を詠んだと私は理解します。今でも根強くある秘境ブーム。万葉時代には,全国各地の秘境の珍しい風景の情報が風土記などの編纂で京人につぎつぎと入ってきて,秘境への誘い効果があったのかもしれません。
最後は,松の一部を序詞に詠んだ短歌です。

奈良山の小松が末のうれむぞは我が思ふ妹に逢はずやみなむ(11-2487)
ならやまのこまつがうれの うれむぞはあがおもふいもに あはずやみなむ
<<奈良山の小松が末(うれ)のように,うれむぞ(結局)は,私がぞっこんの彼女には逢わずに恋は終わることになるだろう>>

この短歌に出てくる「うれむぞ」は万葉集のみに見える言葉らしいです。万葉集でも「うれむぞ」の用例がこの短歌を含め2例しかないのです。元の万葉仮名もまったく違う漢字であり,どこまで当時使われていた言葉か微妙な感じがします。もしかしたら,ごく限られた人しか使わない当時のスラングだったのかもしれません。
松の葉先はとがって先が細くなっています。先細りしかない我が恋が切ないのはいつの時代も同じなのでしょうか。
(序詞再発見シリーズ(16)に続く)