2013年12月31日火曜日

年末年始スペシャル「越年の和歌」

万葉集には大晦日を意識して詠んだ和歌はないようです。しかし,12月に年明けを期待して詠んだ和歌はあります。たとえば次の大伴家持の短歌です。

あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鴬は鳴け(20-4490)
あらたまのとしゆきがへり はるたたばまづわがやどに うぐひすはなけ
<<年が変わり立春を迎えたら,どこよりも先にこの屋敷で鴬よ鳴くのだ>>

この短歌天平宝字元年12月18日三形王大伴家持の理解者のひとりか?)の邸宅で行われた宴で家持が詠んだものです。旧暦ですから,立春と正月はほぼ同じ時期でした。当時としてはウグイスも鳴き始めてる頃かもしれません。年が変わり春になることを期待している気持ちが良く伝わってきます。しかし,その年7月には橘奈良麻呂の乱があり,関係はなかったものの家持周辺の状況は厳しさが増していたようです。
そんな家持がその5日後に大原今城(家持と同ランクで気心も知れていた間柄か?)邸の宴席で次の短歌を詠んでいます。

月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか(20-4492)
つきよめばいまだふゆなり しかすがにかすみたなびく はるたちぬとか
<<月の数を数えれば,今はまだ冬である。とはいえ霞がたなびいている。立春を迎えたのか?>>

これは12月23日に家持が詠んだものです。後少ししたら年が変わる頃,かなり春めいて霞がたなびいている。天候は立春のようだという家持の気持ちを表していますように私は思います。
この年には今城は従五位下に昇進しています。先輩格(従五位上,少納言)の家持にとっては,嬉しいことだったに違いなく,年明けからの今城の活躍に対する期待が大きかったのかもしれません。
次は,大宰府の長官をしていた大伴旅人が天平2年12月6日京に帰任する宴で詠んだ短歌を紹介します。

かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて(5-881)
かくのみやいきづきをらむ あらたまのきへゆくとしの かぎりしらずて
<<このように嘆息ばかりついているのでしょうか,往く年来る年の際限もわからずに>>

旅人との別れを悲しんで,年が明けても溜息ばかりをついていると詠っているように私は解釈します。
この後の短歌で,山上憶良はため息をつかずに済むように春になったら京に呼んでくださいと詠んでいます。

我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね(5-882)
あがぬしのみたまたまひて はるさらばならのみやこに めさげたまはね
<<旅人様のお心遣いを賜って,春になったら都に私を召し上げてくださいませ>>

悲しい別れの中でも救いを示す憶良の心遣いのうまさを私は感じます。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(1)」に続く。

2013年12月28日土曜日

年末年始スペシャル「2013年本ブログを振り返って」

万葉集で12月に詠んだ和歌は何首もありますが,十二月という言葉を入れて詠んだ短歌は次の紀女郎が詠んだ1首のみのようです。

十二月には沫雪降ると知らねかも梅の花咲くふふめらずして(8-1648)
しはすにはあわゆきふると しらねかもうめのはなさく ふふめらずして
<<十二月には沫雪が降ることを知らないのでしょうか。梅の花が咲きました(蕾のままでなく)>>

旧暦の12月は新暦では1月下旬から2月上旬ですから梅は咲いてもおかしくありません。でも,雪が降ることも珍しいことではないので,こんな短歌になったのでしょうか。自分の年齢から開ききった梅の花に譬えているよう思えなくもないですね。
<この1年を振り返る>
さて,私は昨年の今頃と同様,今年もこの1年本ブログに投稿したことをまとめてみたいと思います。投稿数は昨年より少し多い62件になる見込みです(年内にまだ投稿する予定のため)。
2013年のアクセス数(閲覧件数)はおかげさまで2012年の年間アクセス数の1.7倍を超えることは確実な勢いです。特に,今月は今年の年頭に投稿した「新春の和歌(1)」~「新春の和歌(4:まとめ)」の4件にアクセスが集中して,12月としては今までにない大幅なアクセス数の伸び(前年同月の2.5倍超のアクセス数)となっています。また,2013年7月にはひと月のアクセス数が過去最高になりました。季節的な要素が原因かもしれませんが,その他の投稿もついでに詠んでいただける可能性があるので,素直に大変嬉しいと感じています。
<シリーズ物が好調>
2013年を振り返ると,1月の年末年始スペシャルの後,「今もあるシリーズ」に戻って投稿を進めました。2月になると「投稿5年目突入スペシャル」が割込みまとたが,ゴールデンウィーク(GW)の前まで「今もあるシリーズ」は続けました。GWに入ると『2013GWスペシャル「武蔵野シリーズ」』を投稿しました。その後,「心が動いた詞シリーズ」という万葉集に出てくる形容詞にスポットライトを当てた新企画を開始しました。8月から9月にかけては1件1件独立したテーマで「2013夏休みスペシャル」を投稿しました。9月中旬からは「心が動いた詞シリーズ」に戻りました。
そして,11月には投稿数がついに300回になったので,投稿300回記念特集「四国シリーズ」をお送りしました。
<年末の大阪出張>
私の仕事面では,一応昨日が仕事納めでした。それまでは年内に終わらせなければならないことが山ほどあり,かなり慌ただしかったのですが,何とか一息つけました。振り返ってみると2013年は大阪出張が多かった年でした。
今月25日,26日と年末の押し迫った時期にも関わらず,大阪に出張に行ってきました。出張での仕事が今回は思いのほか順調で,少し空いた時間を見計らって,大阪ミナミの法善寺横丁近くにある神座(かむくら)千日前店に寄って,白菜たっぷりラーメンにさらにネギをトッピングして食べました。
美味しかったです。

そして,写真はないですが,黒門市場にも行ってきました。なんと一匹20万円の巨大な天然クエ,1万円近くするトラフグ(てっぽう)がずらっと並んでいたり,さばく前のアンコウ丸ごとなど,冬の鍋物の高級食材が売られていました。
また,夜はキタの東梅田近辺の「お初天神通り商店街」や大阪駅内のレストラン街を散策しました。

来年も大阪には結構行くことになりそうですが,面白い場所があったら報告していきます。
年末年始スペシャル「年越の和歌」に続く。

2013年12月22日日曜日

投稿300回記念スペシャル(4:まとめ)‥四国特集(土佐)

投稿300回記念スペシャル(四国シリーズ)の最後を飾るのは,土佐(高知県)です。
私は,今まで行ったことがない都道府県は沖縄県と高知県です。行こうと思えば,いつでも行けるのですが,別に全国すべての都道府県を一度以上行くことを目標にしてわけでもなく,会社や研究会の出張,妻の旅先リクエスト,友人の誘いなどに積極的に応じてきた結果,たまたま沖縄と高知に行く機会がなかっただけなのです。五体が満足に動く間にはきっと行く機会があるかなと考えています。
さて,万葉集土佐を詠んだ和歌はすべて巻6に出てきます。土佐は当時流刑地だったようで,石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)が,密通により土佐に流罪になったときのことを詠んだものです。
乙麻呂はエリート官僚であったようですが,公卿の藤原宇合(ふじわらのうまかい)の未亡人であった久米若賣(くめのわかうり)という女性と宇合永眠の服喪中に密通をしたことで天皇の怒りをかい,未亡人は下総に,乙麻呂は土佐に流罪となったとのことです。
次の2首は,そんな乙麻呂の気持ちを詠んだとされています。

父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを
<<父に私は可愛がられた子であり,母に私は愛おしい子として育てられてきた。京へ参上する多くの人々が旅の無事祈るためにお供え物をする畏の坂で,私は幣を奉納して遠い土佐道を下って行くのだ>>

大崎の神の小浜は狭けども百舟人も過ぐと言はなくに(6-1023)
おほさきのかみのをばまは せばけどもももふなびとも すぐといはなくに
<<大崎の神が入らつしやるという浜は狹いけれど,そこを通る多くの舟人はその神に参ることなく通り過ぎることはない(私はそこに参ることすらできない)>>

余りにも弱気な内容なので,乙麻呂自身が詠んだのではなく,別人が本人のツライ気持ちを想像して詠んだのだろうと私は想像します。
または,密通するとこんな目にあうぞという教訓めいた創作(フィクション)歌だったかもしれません。その理由として,三つほど前に,本当は題詞に載せるような内容の長歌があります。

石上布留の命は 手弱女の惑ひによりて 馬じもの縄取り付け 獣じもの弓矢囲みて 大君の命畏み 天離る鄙辺に罷る 古衣真土の山ゆ 帰り来ぬかも(6-1019)
いそのかみふるのみことは たわやめのまどひによりて うまじものなはとりつけ ししじものゆみやかくみて おほきみのみことかしこみ あまざかるひなへにまかる ふるころもまつちのやまゆ かへりこぬかも
<<石上の布留にお住いで,お年寄りの上級官人のお方は,若い女性に心が惑い,馬のように繩を掛けられ,鹿のように弓矢で逃げないように警護されて,天皇の命令を受け,遠方に流される。連れて行かれる真土山の同じ道から帰ってこられればよいのだが>>

相手が未亡人で,寂しくしている様子から,心が惑ってしまい,許されない行為をしてしまうリスクがあることは男として分からなくもないですね。社会の規律を守らせる立場の高級官僚となれば,そういった誘惑を排除する強い自制心が必要だということでしょうか。

天の川 「あのな~,たびとはん? 『土佐の国』特集になってへんのとちゃうか? 高知県の人がえろ~怒るかもしれへんで。」

おっと,久々登場の天の川君が言うように,ちょっと興味のある方向に偏ってしまったようですね。
私は,港区の浜松町,豊島区の東池袋にあるお店(まったく別のお店)では鰹の美味しい土佐づくりを出してくれるので,ときどき行きます。
特に浜松町のお店は,稲わらを燃やして鰹の切り身の外側を焼きますので,稲わらの香ばしい匂いがしてまた格別です。私は魚介類の刺身は何でも好きですが,あっさりした鰹のたたきを生姜,ニンニク,浅葱,もみじおろしをたっぷり載せて,ポン酢で頂くのも大好物のひとつです。
五体満足なうちと言わず,できるだけ早い機会に高知県に行って,桂浜はりまや橋高知城ひろめ市場,足を延ばして,四万十川仁淀川足摺岬室戸岬龍河洞などに観光したいと考えています。
これで,投稿300回記念の四国シリーズを終わりにします。四国4県はそれぞれ特徴があり,周りの海は外海,内海,入江,渦潮が巻くような早戸など変化に富んでいます。また,温暖な気候で多種多様な農作物が豊富にとれます。
万葉時代には,知られている場所もほんの一部だけだったかもしれませんが,海洋技術の進歩で未開の土地(奈良盆地の京から見て)の開拓が進んでいったフロンティアだっと想像します。
さて,早いもので,今年ももう年末に近づきました。次回からは年末年始スペシャルをお送りします。
2013-14年年末年始スペシャル(1)に続く。

2013年12月16日月曜日

投稿300回記念スペシャル(3)‥四国特集(阿波)

今回は四国特集の3回目の阿波(徳島)を特集します。
<泡の思い出>
私は徳島市に2005年11月所属するソフトウェア保守の研究会の大会で訪問をしました。行きは前日大阪出張があったので,大阪から高速バスで明石海峡淡路島鳴門海峡経由で徳島に入りました。残念ながら移動は夜でしたので,海はほとんど見えませんでした。
大会中の食事は地魚,ワカメ,地元の野菜,柑橘類(特にスダチ)を使ったり,調味した料理を堪能したことを覚えています。大会終了後は,阿波踊り会館で阿波踊りを教えてもらい踊りました。
また,鳴門金時という地元の砂地で栽培されているサツマイモを市場で一箱買って,自宅に送ったりしました。
<今回の本題>
実は,万葉集で阿波の国をテーマとした和歌は船王(ふねのおほきみ)が天平6(734)年3月,聖武天皇難波の宮に行幸したときに詠んだとされる次の一首のみのようです。

眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて漕ぐ舟泊り知らずも(6-998)
まよのごとくもゐにみゆる あはのやまかけてこぐふね とまりしらずも
<<眉のように空に立って見える阿波の山を目掛けて漕ぐ舟は途中停泊することも知らずになあ>>

<「阿波」ってどこ?>
難波の宮(現在の大阪城外堀付近南側付近)から阿波の方向を見ても四国の山はおそらく見えません。途中には淡路島などの島があり,停泊する港はあります。難波の宮から海上の先に見えるのは精々淡路島の山くらいです。
なので,「阿波」は「淡路島」の「淡」のことで,実は淡路島の山ではないかと私は思ったのです。すなわち,「淡路」は「阿波路」のことであり,阿波へのみちにある島となれば,「阿波路の山」を略して「阿波の山」としたと言えるかもしれません。
ところが,「日本書紀」「古事記」では,淡路島は阿波の国より先に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)によってできたと記されているとのことで,当時の船王がそれを無視した「阿波の路」説は取りにくい。
ところで,「淡路」を「淡の地」であるとの説もあるようで,「淡の山」は「淡路島の山」と言えなくもありません。しかし,この説も苦しいのです。なぜなら「あわのやま」の原文(万葉仮名)は「阿波乃山」なのです。
当時,阿波という国は淡路島ではなく,四国にある国ということは周知されていたようで,やはり見えないけれど四国の山ととらえることになります。
結局,想像で阿波の山を詠んだのか,何かの喩えとして阿波の山,漕ぐ,舟,泊まるを詠んだのか謎は深まります。
<「阿波」は「粟」?>
私は,想像で四国の阿波にある山を詠んだとすると,船王の意図が想像できず後者を取りたいと思います。では,何の喩えか?
「阿波の山」は「粟の山」ではないか?
当時は「粟」のイメージは今よりずっと良く,「粟の山」と言えば「宝の山」に近かったのかもしれません。万葉時代より後年のことわざでも「濡れ手で粟」というのがあります。
それ(宝の山)を目指していくことはまさに聖武天皇の行政方針の喩えであり,休むことなく進んでおられる天皇を支えたいと考えているのはまさに船王の私です,といった意味のヨイショの短歌だったのかもしれません。
天の川君から「その解釈は無理筋とちゃうか?」と言われるのを覚悟で書いてみました。
投稿300回記念スペシャル(4:まとめ)‥四国特集(土佐)に続く。

2013年12月10日火曜日

投稿300回記念スペシャル(2)‥四国特集(伊予)

<同期と四国伊代路遊覧>
11月30日,大学の万葉研究会の同期の一部メンバーと四国に集まりました。
それぞれ,住んでいる場所(すべて四国以外に在住)や事前の行動予定が異なっていたため,次回投稿する阿波(徳島県)にある阿波池田駅で朝10時過ぎに集合し,私が高松空港で借りたレンタカーに同乗し,四国路を遊覧することになりました。
一行は,その日の宿泊地へまっすぐ行かず,愛媛県西条市の石鎚山駅付近から遠くの石鎚山の冠雪を眺め,それから瀬戸内海沿いの今治市に寄り,来島海峡に掛かっている来島海峡大橋(しまなみ海道)が一望できるレストランで少し遅い昼食を取りました。

写真は展望台からのものです。
その後は国道196号線の旧道を走りました。以前は私は松山から今治まで今回とは逆方向にレンタカーで走った経験があります。
同乗者たちは早く着けるバイパスを行くのだろうと期待していますが,私は以前一度走ってこの旧道が好きになったので,期待に添わず構わず旧道を選択しました。なぜ好きになったかというと,この道はずっとお店や家が途切れなく続き,時々家が途切れる場所があると瀬戸内海が見え隠れするからです。それでいて,渋滞はあまりありません。バイパスに地元の自動車が走るせいもあり,さらにとにかく信号が少なく走りやすいのです。
途中の「道の駅」駐車場からは,瀬戸内海斎灘)の先の島々が,何と蜃気楼だと思いますが浮いて見えました(次の写真)。

同乗者たちも,しばし見とれていました。
夕方近くに松山市内に入り,車を繁華街の大街道付近にある宿泊予定のホテルに置き,何人かで道後温泉に繰り出しました。
道後温泉には人が多く(土曜の夜だから当然),とてもゆっくり入れそうにないので,夜の入浴はあきらめ,道後温泉前のアーケードでお土産のウィンドウショッピングと,居酒屋に入り,地魚を中心とした刺身,焼き物,煮魚を食べました。
翌早朝,参加者で道後温泉本館の朝ぶろに入りました。日曜の朝は,さすがに人は少なく,浴室にはまばらな人しかいませんでした。

アルカリ性の高い肌によさそうな温泉のお風呂から上がると,借りた浴衣を着て,休憩室で,入浴とセットになっているお茶とお菓子を食べながら,ゆったりと談笑しました。
ホテルに戻って朝食を食べ,観光定番の松山城に上りました。本丸近くまでは上下ともロープウェイではなくリフトに乗りました。クリスマスが近いとあって,リフトにはサンタクロース(人形ですが)も乗っていました。


その他,松山城で撮った写真をいくつか紹介します。

また,ロープウェイとリフト乗り場には,司馬遼太郎作の小説「坂の上の雲」をイメージした大きな壁画が描かれていました。

松山市最後の訪問地は愛媛万葉苑近くにある次の有名な万葉集に出くる短歌(額田王作とされている)の歌碑に寄りました。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)

実は,万葉集に出てくる伊予の国の和歌4首はすべて熟田津を題材にしたものです。
また,他の3首はすべて上記の短歌を意識したものと言えそうなものです。なお,2012年1月4日に投稿した『私の接した歌枕(14:松山)』では紹介していない山部赤人が詠んだとされる長歌1首を紹介します。

すめろきの神の命の 敷きませる国のことごと 湯はしもさはにあれども 島山の宣しき国と こごしかも伊予の高嶺の 射狭庭の岡に立たして 歌思ひ辞思はしし み湯の上の木群を見れば 臣の木も生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の声も変らず 遠き代に神さびゆかむ 幸しところ(3-322)
すめろきのかみのみことの しきませるくにのことごと ゆはしもさはにあれども しまやまのよろしきくにと こごしかもいよのたかねの いざにはのをかにたたして うたおもひことおもはしし みゆのうへのこむらをみれば おみのきもおひつぎにけり なくとりのこゑもかはらず とほきよにかむさびゆかむ いでましところ
<<神である天皇が治めている国中に温泉はたくさんあるけれども,特に島や山の景色が優れた国である伊予の険しい高嶺にある射狭庭の岡に天皇は立たれ,歌を考え言葉を選ばれた。この温泉の木々を見ると,臣の木も生い茂り,鳴く鳥の声も変わらず,遠い未来まで、神々しくなってゆくだろう,この行幸)の跡は>>

この後の反歌で赤人は,この温泉がある伊予の美しい風景や豊かな自然,そして轟轟しい峰々はずっと変わらないけれど,舒明天皇斉明天皇のよる行幸が盛んだった当時のように大宮人で賑わった姿は今はないと詠んでいます。まさに諸行無常(仏教用語:万物は常に変化して少しもとどまらないとの意)だということを赤人は言わんとしているのだと私は感じます。もちろん,天皇を神とあがめて,咎(とが)めをうけることを回避しつつですが。
今回伊予路を大学時代の友と回って,近代文明により大きく変化している部分と千数百年変わらない部分の共存を,赤人の和歌を思い,感じた次第です。
投稿300回記念スペシャル(3)‥四国特集(阿波)に続く。

2013年11月24日日曜日

投稿300回記念スペシャル(1)‥四国特集(讃岐)

このブログの投稿回数はとうとう300回になりました。
始めて4年9ヶ月での達成です。この間,書く内容(文章)が全体としてほとんど同じになったものはなかったと思います。それだけ,万葉集はいろいろな切り口で見ることかできる貴重な日本の文化的財産であるという感慨をますます強く私は持っています。
さて,投稿300回記念スペシャルとして万葉集で四国を詠んだ和歌を4回シリーズで特集します。
その1回目は讃岐(今の香川県)がテーマです。讃岐といえば,愛称を「うどん県」と呼ぶくらい好きだいわれる「讃岐うどん」,金毘羅船船でおなじみの金刀比羅宮,源平合戦の戦場で知られる「屋島」「壇ノ浦」,瀬戸内海では2番目に大きな島でオリーブ林や寒霞渓で有名な「小豆島」などが今では観光スポットとなっています。
万葉集の柿本人麻呂が詠んだ長歌の中に「讃岐」という言葉がすでに出てきています。

玉藻よし讃岐の国は 国からか見れども飽かぬ 神からかここだ貴き 天地日月とともに 足り行かむ神の御面と 継ぎ来る那珂の港ゆ 船浮けて我が漕ぎ来れば 時つ風雲居に吹くに 沖見ればとゐ波立ち 辺見れば白波騒く 鯨魚取り海を畏み 行く船の梶引き折りて ~(2-220)
たまもよしさぬきのくには くにからかみれどもあかぬ かむからかここだたふとき あめつちひつきとともに たりゆかむかみのみおもと つぎきたるなかのみなとゆ ふねうけてわがこぎくれば ときつかぜくもゐにふくに おきみればとゐなみたち へみればしらなみさわく いさなとりうみをかしこみ ゆくふねのかぢひきをりて ~
<<讃岐の国は国柄かいくら見ても飽かない。また神柄かたいへん尊く見える。天地日月とともに満ち足りていく神のお顔(島々)と,絶え間なく人々が渡る那珂の港から,舟を浮けて漕いで來ると,潮時の風が空に吹き上げ,遙かな沖を見ると波が立つている。海岸を見ると白く碎ける波が騷いでいる。それで、海上を行くのが恐ろしく,舟の梶を折るくらい強く漕いで ~>>

<讃岐は海上交通の要所>
讃岐の国は風光明媚で,神話でも神々が出てくる国であり,船による交通の便も良く,港(ここに出てくる那珂の港は今の丸亀市あたりあったらしい)も栄え,豊かな国であったことが伺い知れます。
ただ,島々の間の海峡は潮の流れが速く,渦潮が出て,波も高く,船の航行は非常に危険だったように見えます。それでも海路が栄えたのは,たとえ危険を冒しても海路の方が陸路より早く,そして安く物資を移動できたという経済的な理由だった私は思います。
そのため,荒れた海路でも船を難破させずに目的地まで船を航行させる優秀な船乗りの収入は,危険手当も含め恐らく相当高かったと想像できます。そして,その船乗りたちが多く暮らす港町はさまざな物資を消費する商業も盛んになり,ますます繁栄したのではないでしょうか。
次は,万葉集の和歌の中には「讃岐」という言葉は出てきませんが,舒明天皇が讃岐の国に行幸したとき,同行した軍王(いくさのおほきみ)が讃岐の山を詠んだと題詞にある長歌です。

霞立つ長き春日の 暮れにけるわづきも知らず むらきもの心を痛み ぬえこ鳥うら泣け居れば 玉たすき懸けのよろしく 遠つ神我が大君の 行幸の山越す風の ひとり居る我が衣手に 朝夕に返らひぬれば 大夫と思へる我れも 草枕旅にしあれば 思ひ遣るたづきを知らに 網のの 海人娘子らが 焼く塩の思ひぞ焼くる 我が下心(1-5)
かすみたつながきはるひの くれにけるわづきもしらず むらきものこころをいたみ ぬえこどりうらなけをれば たまたすきかけのよろしく とほつかみわがおほきみの いでましのやまこすかぜの ひとりをるわがころもでに あさよひにかへらひぬれば ますらをとおもへるわれも くさまくらたびにしあれば おもひやるたづきをしらに あみのうらのあまをとめらが やくしほのおもひぞやくる わがしたごころ
<<霞の立つ長い春の一日が暮れてしまった。わけもなく心が痛むので,トラツグミ(ぬえ)のように忍び泣きをしていると,具合がよいことに我が大君がお出ましになった山を越えて故郷の方から吹て来る風が独りでいる私の衣の袖に朝な夕なあたって,ひるがえる(帰りたいと吹き返す)。立派な男子と自負している私だが,旅先なので思いを晴らす方法もなく,網の浦の海人乙女らが焼く塩のように,ただ家恋しさに焦がれている心境なのだ>>

この長歌の反歌として次の短歌が添えられています。

山越しの風を時じみ寝る夜おちず家なる妹を懸けて偲ひつ(1-6)
やまごしのかぜをときじみ ぬるよおちずいへなるいもを かけてしのひつ
<<山を越して来る風が時を分かず私の袖が吹き返す。そんなとき寝る夜は,いつも私は家に残した妻をその風に託して偲んだのだ>>

この2首からは,軍王にとって,讃岐の国は田舎で,寂しい土地だと感じられます。
海運で港町は栄えていても讃岐の国は平野は遮るものがない草原で,遠くの山から吹く風は冷たく強く(この行幸は冬だったようだと左注にあり),軍王にとってはつらいものだったのでしょう。天皇が泊まるところは謀反者が来たらすぐわかるように広い平地の真ん中で警備するのも大変だったのかもしれません。
香川県の平地(可住地面積)の割合は53.4%で全国10位です。山地が多い四国の他県を引き離して四国では断トツの1位です(ちなみに全国でもっとも可住地面積が狭い都道府県は高知県の16.3%)。なお,香川県は大阪布,沖縄県より狭い,全国で一番面積が小さい県なのです。
投稿300回記念スペシャル(2)‥四国特集(伊予)に続く。

2013年11月18日月曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「憎(にく)し」

<濃密な1泊2日>
昨日は,毎年恒例になった奈良明日香村の農園でのミカン狩りに行ってきました。
一昨日の土曜日は埼玉の自宅からいつものように早朝自家用車で出発し,圏央道,中央道,東名道,名神道の関ヶ原ICで一般道に入り,木之本から琵琶湖の最北端を回って近江舞子の施設にいる母を訪ねました。90歳近い母ですが元気な様子で一安心しました。
そこから奈良県大和郡山市のホテルまで,一般道を使って移動し,夕方ホテルに到着しました。いつもは,JR奈良駅前のホテルに一泊するのですが,残念ながら満室で予約が取れず,大和郡山の同系列ホテルとなった次第です。
場所が駅前で無く,周りが比較的閑散としていることを除けば,ホテル内部の設備(天然温泉有り)やサービスはほとんど同じでくつろげました。

翌日は穏やかな天気に恵まれ,明日香村は晩秋の風情に包まれていました。本当に良いところです。

今年は天候不良や木の場所の関係もあり,あまりミカンの出来はイマイチでしが,それでも20キロくらい入る大きな段ボール箱2箱以上の収穫がありました。また,現地での抽選会では最高賞の飛鳥米5キロ(2,500円相当)が当たりました(昨年は同2キロ当選でした)。


<本シリーズひとまず最終回>
さて,今回で心が動いた詞(ことば)シリーズはひとまず終わりとなります。
最後が「憎し」ではなく,もう少し良い言葉にしないの?と感じられる方もいるかもしれませんが,万葉集で「憎し」は反語的な用法として,正反対の意味を相手に伝えるときに使われています。
もっとも有名なのが大海人皇子(後の天武天皇)が,当時天智天皇の妻であった額田王に詠んだ次の短歌でしょうか。

紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも(1-21)
むらさきのにほへるいもをにくくあらば ひとづまゆゑにわれこひめやも
<<紫がお似合いのあなたを憎いと思っていたら,人妻であるにも関わらず恋しく思うことがあるのでしょうか。憎くない(大好き)なのですよ>>

次は,「憎くあらなくに」という反語的表現を使った詠み人知らずの短歌を紹介します。

若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに(11-2542)
わかくさのにひたまくらを まきそめてよをやへだてむ にくくあらなくに
<<新妻の手枕をし始めてから一夜も隔てず共寝を止められようか。憎くはない(可愛くてしょうがない)のだから>>

万葉集には,このほか「憎くあらなくに」を詠んだ短歌が同じ巻11に4首出てきます。
その中で,「憎し」が二つも使われている詠み人知らずの女性が詠んだと思われる短歌を紹介します。

争へば神も憎ますよしゑやしよそふる君が憎くあらなくに(11-2659)
あらそへばかみもにくます よしゑやしよそふるきみが にくくあらなくに
<<人と争うと神がお嫌いになるということだが,それも良しとするか。僕と関係あることが知れている君は憎くないのだから>>

ここで紹介した3首とも「憎くない」という言葉を使い,相手に対する恋慕や好意の強さを強調する手法だと私は感じます。「憎くあらなくに」という言葉が当時流行っていた言い回しだったのかもしれませんね。
さて,今回で心が動いた詞(ことば)シリーズは一先ず終わりにします。次回から数回投稿300回記念スペシャルを投稿して,新しいシリーズをお届けします。
投稿300回記念特集(1)に続く。

2013年11月10日日曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「愛(うつく)し」

現代日本語では「うつくしい」は「美しい」と書きますが,万葉集では「うつくしい」は「愛らしい」「かわいい」「いとおしい」という意味で使われることが多く「愛しい」と書く方が意味が通じやすくなります。
次は大伴旅人が亡き妻を偲んで詠った短歌です。

愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや(3-438)
うつくしきひとのまきてし しきたへのわがたまくらを まくひとあらめや
<<いとおしい人が手枕とした私のかいなを再び枕とする人はいるのか。いやもういない>>

大伴旅人は生涯に渡って,日本の各地の国府の長官などを務めた経歴をもっているといいます。
恐らく,最愛の妻とは京に帰ったときに妻問するのではなく,赴任地へ子供たちとともに同伴させたことも多かったと思われます。
最後の赴任地の九州大宰府には妻と家持ら子供も同行させたのだろうと考えられます。
そして,本当にいとおしかった妻に大宰府の地で先立たれた旅人の気持ちは察するに余りあるものがあります。
次は,つい手を出したくなる男の心理を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

愛しと我が思ふ妹を人皆の行くごと見めや手にまかずして(12-2843)
うつくしとあがおもふいもを ひとみなのゆくごとみめや てにまかずして
<<可愛いと僕が思う彼女を,道ですれ違った人は皆振り返って見たりしている。だけど僕は彼女の肩を手で抱かずに,見るだけなんて我慢できないよ>>

公衆の面前で彼女の肩を抱くことは,今では全く抵抗はないと思いますが,私が若いころ(昭和後期)はまだ恥ずかしいという意識が女性にはあったのではないかと思います。
万葉時代そのような行為は,みだらな行為とみなされ,もっと抵抗があったと私は想像します。この短歌の作者はそれほどまで彼女ことを可愛いと言いたいのでしょうか。
最後は,「愛くし」が出てくる防人妻服部呰女(はとりべのあさめ)が詠んだ短歌を紹介します。

我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も(20-4422)
わがせなをつくしへやりて うつくしみおびはとかなな あやにかもねも>
<<夫を筑紫に送り出して,いない夫の愛おしさのあまり帯を解かず,ああどうして寝らましょうか>>

帯を解いて寝るとは夫が来ることを待って寝ることを意味します。防人制度に肯定的な考えを持つ人間が万葉集を編集していたとすれば,こんな短歌を残すことはしないと私は思います。
防人という制度で多くの家庭が壊されていくことを万葉集の編者が悲しい気持ちで見ているからこそ,この妻が詠んだ短歌を選んで残そうとした。そんな気がしてなりません。
どんなに年をとっても人から愛される(必要とされる,いなくなったら悲しい)人は「愛(うつ)しい」人なのでしょう。
秋の夜長にふとそんなことを今回のブログを書いていて感じました。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「憎(にく)し」に続く。

2013年11月3日日曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「惜(を)し」

以前2010年8月から9月にかけて「動きの詞シリーズ」で万葉集の「惜しむ」を取り上げましたが,今回はその形容詞形です。「惜し」は,現代では「惜しい」という言い方をします。ただ,万葉時代の「惜し」の意味は現代の「惜しい」とは少し異なるかもしれません。
次は2012年2月6日の当ブログで紹介した大伴家持の短歌ですが,そこに「惜し」が出てきます。

大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し(19-4285)
おほみやのうちにもとにも めづらしくふれるおほゆき なふみそねをし
<<宮中の内にも外にもめずらしく大雪が降った。この白雪をどうか踏み荒らさないで頂きたいものだ。(きれいな雪景色が荒らされるのが)惜しいから>>

私も中学校の頃,京都も年に数回雪が降り,教室から見る校庭がきれいだなと思っていたら,一部生徒が雪だるまを作るために雪の塊を転がしたあとが地面が見えて汚くなるのを惜しいと感じたことがありました。でも,親が子供に雪だるまを作らせるのは結果的に除雪ができるからだという都市伝説を聞いてからは,私は妙に納得しています。
さて,次も2012年9月23日の当ブログで紹介した詠み人知らずの短歌です。

白栲の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも(12-3182)
しろたへのそでのわかれはをしけども おもひみだれてゆるしつるかも
<<袖が分かれているようにあなたとの別れはつらいけど,私の心が乱れてしまい結局あなたと別れることにしたの>>

ここでの「惜し」は「つらい」とか「残念だ」という感情が近いかもしれません。
最後は「自分の命さえも惜しくない」といった使い方の例として車持娘子(くるまもちのいらつめ)が詠んだとされる短歌(長歌の反歌2首の内の1首)を紹介します。

我が命は惜しくもあらずさ丹つらふ君によりてぞ長く欲りせし(16-3813)
わがいのちはをしくもあらず さにつらふきみによりてぞ ながくほりせし
<<私の命は惜しくはありませんが,あなたに寄り添えていられれば長く生きたいと願うのです>>

この歌(長歌+反歌2首)の左注には,娘子が夫との恋に疲れ,傷心のあまり病に伏し,痩せ衰えて臨終が間近になり,使者が夫を呼び,夫が駆け付けたとき,娘子がこの歌を詠んで息を引き取ったという言い伝えがあると書かれているようです。
言い伝えとあるため,この歌や車持娘子は実在しないフィクションの可能性がありますが,こういった歌物語の言い伝えが,当時の妻問いをベースとした夫婦関係を幸せなものにするための教訓の意味合いがあったのかもしれません。
万葉集で「惜し」は,このほか多くの長短歌で詠まれていますが,今回はこのくらいにします。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「愛(うつく)し」に続く。

2013年10月24日木曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「寂(さぶ)し」

今回は「寂しい」という意味の「寂(さぶ)し」が万葉集でどう詠まれているか見ていきます。
人が一般的に「寂しい」と感じるのはどんな時でしょうか。やはり「自分は一人ぼっちだと孤独感を感じるとき」ではないでしょうか。
「人と一緒にいるのは疲れる」「他人に干渉されたくない」「静かに一人になりたい」という人が今の都会生活者に多いのかもしれません。でも,そういった他人との接触に煩わしさを感じている人でもいつまでも一人でいたいわけではないと私は思います。
素敵な異性と一緒に居たいとか,気の合う仲間とたまにはじっくりおしゃべりしたいとか,バーのカウンター越しに経験豊かなバーテンダーとさまざな薀蓄を語り合いたいとか,ストレスを感じない形で自分以外のヒトと接触を望むような気持ちは多かれ少なかれ持っている人は多いと思います。
その望む気持ちが満たされない時,「寂しい」というという感情が出てくるのかもしれません。
万葉集でも恋人と一緒の時間を過ごせないので「寂し」と詠んでいる和歌は少なくありません。
たとえば,次の詠み人知らずの相聞歌です。

秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂し君にしあらねば(10-2290)
あきはぎをちりすぎぬべみ たをりもちみれどもさぶし きみにしあらねば
<<秋萩の花が散っていってしまうのが惜しくて,手折り持ち眺めてみたが心寂しい。それはあなたではないから>>

相聞歌の相手の女性は秋萩のように可憐な女性なのかもしれません。秋萩が相手の女性のように可愛くて,手に取ってはみたけれど,花は花でしかない。そんな寂しい気持ちでしょうか。
次は,大伴家持が若いころお熱を上げた年上の女性「紀女郎」が家持宛てに詠んだ意味深長な短歌です。

神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも(4-762)
かむさぶといなにはあらず はたやはたかくしてのちに さぶしけむかも
<<(あなた様より年老いていますから)もう先に死んじゃう身です。もしかしたら(私と一緒になると)後で寂しく思うことになるかもしれませんよ>>

家持が先を見越して真剣かつ冷静に考えているのか,それとも若気の至りで一時的にお熱を上げているだけか,「私が先に逝って寂しいと感じるかもしれないけど大丈夫?」と試しているように私には思えます。この家持と紀女郎とのやり取りについては,2010年1月4日の記事で少し詳しく書いていますので割愛します。
さて,次は山上憶良筑紫で詠んだ短歌です。

荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼は寂しくもあるか(16-3863)
あらをらがゆきにしひより しかのあまのおほうらたぬは さぶしくもあるか
<<荒雄たちが出て行った日から志賀の漁師たちが住む大浦田沼は寂しげであるようです>>

この短歌は,筑紫から対馬に荷物を運ぶ際に遭難して帰らぬ人となった荒雄という人物の妻になり代わって詠んだとされています。このあたりについては,2010年6月6日のブログに少し詳しく書いていますので,興味のある方は見てください。
家族はいつも顔を合わしていて,時には煩わしい存在だと思うことがありますが,いなくなってみると寂しさが襲い,そのありがたさを痛切に感じることがあります。家族や友人の関係は大切に保持していくことが,結果として豊かな人生(寂しいと感じることが少ない人生)を送るうえで重要と考えるのは私だけでしょうか。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「惜(を)し」に続く。

2013年10月19日土曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「楽し」

<私の三大楽しいこと>
私にとって三大「楽しい」ことは,①仕事をすること,②万葉集をリバースエンジニアリングすること,③さまざまな会に参加することでしょうか。
①の私の仕事はソフトウェアの保守開発(既存の修正)ですが,単純な開発に比べ技術的に確立されておらず,個人のスキルや能力に依存するところが多い分野です。そのため,一つ一つ(対応の品質,コスト,納期,顧客満足度などに対し)最適なプロセスを都度適用しながらの作業となります。結局,一つ一つの仕事に(規模,緊急度,重要度,困難度,他への影響度など)多様性があり,生来飽きっぽい私にとっては,やっていて面白みを感じます。
②の万葉集は面白くなければこのブログを続けられていませんので,説明の必要はないでしょう。
③のさまざまな会は,単なる飲み会,懇親会,目的が決まった会議,同好会,学会,歓送迎会などです。これは,老若男女を問わずさまざまな考えを持った人と話を聞いたり,議論をすることが好きだからです。
これらを総合すると私が楽しいと感ずるのは,多様なものやヒトに接っしているときと言っても良いかもしれませんね。
<今回の本題>
さて,万葉集では「楽し」を詠んだ和歌が15首ほど出てきます。
まずは誰もが楽しいと感ずる遊びについて詠んだ遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)作の短歌から紹介します。

垂姫の浦を漕ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ(18-4047)
たるひめのうらをこぎつつ けふのひはたのしくあそべ いひつぎにせむ
<<垂姫の浦を漕ぎ巡りながら今日は楽しくお遊びください。後々までこの楽しく過ごされた時間を言い伝えましょう>>

この遊びが行われたのは大伴家持越中にいたころ,現在の富山県氷見市の海岸にあったという「垂姫の浦」を家持らが遊覧船で漕ぎ巡るという遊びをしたときです。現在でも遊覧船にはガイドが乗っていることもあるように,当時名所をガイドしたり,船で提供する酒や肴を講釈したり,名所への移動中に参加者にゲームを楽しませたりする女性乗務員(ガイド)を「遊行女婦」と呼んだのかもしれません。この作者の土師という遊行女婦は,当時おそらく最も優秀なガイドの一人であり,即興で和歌を詠み,参加者を楽しませたのでしょう。
この短歌は,越中国府の長官である家持をはじめ,国府のトップクラスが楽しまれたことを,後日この船で遊覧する人すべてに語り継ぎましょうということです。私たちも旅行に行くと,この船には超有名人の誰々が乗ったとガイドが伝えると「お~。そうなんだ」と得した気分になります。
紹介された家持たちも自分たちが乗ったことで,船の価値が大きく上がることを知らされるとすごく良い気分になります。土師恐るべしですね。
次は,珍しい季節の変化を見て「楽し」を詠んだ柿本人麻呂の短歌です。

矢釣山木立も見えず降りまがふ雪に騒ける朝楽しも(3-262)
やつりやまこだちもみえず ふりまがふゆきにさわける あしたたのしも
<<矢釣山の木立も見えないほど降り乱れる雪の朝はその騒がしさも楽しいことです>>

この短歌は,新田部皇子(にひたべのみこ)を讃えた長歌の反歌です。飛鳥にあったといわれる矢釣山の立ちも見えないほど激しく雪が降っている朝は,その騒がしさ(恐らく木などに積もった雪が落ちる音による)もまた楽しいと詠んでいます。
最後は,有名な大伴旅人賛酒歌の中から「楽し」を詠んだ3首連続の短歌を紹介します(内1首は2011年8月13日の投稿で紹介しています)。

世間の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし(3-347)
よのなかのあそびのみちに たのしきはゑひなきするに あるべくあるらし
<<世の中の遊び道で一番楽しいことは,酔って泣くことにあるようだ>>

この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我れはなりなむ(3-348)
このよにしたのしくあらば こむよにはむしにとりにも われはなりなむ
<<現世が楽しいならば,来世には虫だろうと鳥だろうと私はなってしまっても構わないよ>>

生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな(3-349)
いけるものつひにもしぬる ものにあればこのよなるまは たのしくをあらな
<<生きているものは最後は死ぬのだから,生きている間は楽しまないとね>>

特に解説をしません。皆さんはどう感じられますか?
今さえ楽しければ後はどうでも良いという身勝手な考えと感じますか?
それとも,今遊びも仕事も趣味も交友もしっかり楽しむことが理想だという考えと感じますか?
私はもちろんアグレッシブに,プレッシャーに負けず後者でありたいと考えます(実際楽しめているかかどうかはあまり気にしません)。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「寂(さぶ)し」に続く。

2013年10月14日月曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「悔(くや)し」

<萬葉学会の研究大会に参加>
この土日,東京大学で行われた萬葉学会全国大会に初めて参加しました。最新の万葉集研究動向を見ておくことも重要かなとの思いで参加したのですが,残念ながら私が期待した万葉集はどんな目的で編まれたかの発表はありませんでした。
万葉仮名の詳細な分析,国文法や漢字の使用分析,日本書紀・古事記の歌謡(記紀歌謡)と対比,公的に詠んだ/私的に詠んだの違い,周辺の上代文学の研究など,さすがに専門家の研究はきめ細かく,時間をかけていることが分かりました。
万葉集を見る時間があまり取れない自分を正直悔しく感じた次第です。ただ,限られた時間のなかで可能な最大パフォーマンスを(それが結果として中途半端なものであっても)だすしかない。それが,それぞれに与えられた人生だと私は思います。私のようなアマチュアは結果をすぐに求めず,あせらず少しずつ万葉集を見ていくしかないという考えは変わりませんでした。
<今回の本題>
さて,今回のテーマの「悔し」という言葉は万葉集で20首以上に出てきます。偶然ですが,今回の萬葉学会全国大会でも「今ぞ悔しき」という言葉に触れた発表がありました。「悔し」は古事記にも出てくる古い言葉ですが,今「悔しい」という意味とほぼ同じ意味だったと考えてよいようです。
「悔し」が単独で出てくることもありますが,このように「今」とセットで使われている表現が多く出てきます。たとえば,「今ぞ悔しき」のほか「今し悔しき」などがあります。この場合短歌の最後に使われることが多いようです。
次は,柿本人麻呂吉備津采女(きびのつのうねめ)が亡くなったときに詠んだ挽歌です。

そら数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき(2-219)
そらかぞふおほつのこが あひしひにおほにみしかば いまぞくやしき
<<無数の人がいた大津でお逢いしした日に,しかっりお顔を見ておかなかったことが,今となっては悔やまれてならない>>

一方,短歌の先頭の位置に使われる場合は,「悔し」は単独で使用されています。
次は山上憶良が神龜5(729)年7月21日に筑紫で大伴旅人の妻が亡くなったとき,詠んだとされている長歌+短歌5首の中の1首です。

悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを(5-797)
くやしかもかくしらませば あをによしくぬちことごと みせましものを
<<悔しいです。こうなることが予め知っていたなら,国中をことごとくお見せしたものを>>

これらは惜しい人を亡くした悔しさを詠んでいますが,相聞歌でも相手との関係がなかなかうまくいかない時に「悔し」が出てくることがあります。
次は平群女郎(へぐりのいらつめ)が越中の大伴家持に贈った12首の中の1首です。

里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひし我れぞ悔しき(17-3939)
さとちかくきみがなりなば こひめやともとなおもひし あれぞくやしき
<<私の住む里近くへあなたがお出でくださることになれば,恋しいあなたと逢えると,わけもなく予想をしていた自分の愚さが悔しくてなりません>>

家持は越中から奈良に一時的に帰ったのですが,平群女郎のところには寄らなかったようです。
家持と女郎は家持が越中に行く前は,相当な関係だったのかもしれませんね。
最後に,悔しい思いが晴れた詠み人知らずの短歌を紹介し,今回の投稿を閉めます。

我が宿の花橘は散りにけり悔しき時に逢へる君かも(10-1969)
わがやどのはなたちばなは ちりにけりくやしきときに あへるきみかも
<<我が家の庭にある花橘の花は散ってしまいました。一緒に我が家の花橘を見ようとと約束してくださったのにと悔しい思いをしていましたが,ようやくあなたと逢えました>>

心が動いた詞(ことば)シリーズ「楽し」に続く。

2013年9月29日日曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「さやけし」

暑い夏も終わり,ようやく爽やかな秋空を満喫できる季節になりましたね。
これから紅葉が落ち,森林の中が明るくなる12月中旬頃まで,私の気持ちも爽やかになることが多い季節です。また,空気も比較的澄んで月の明るさも夏より強く鮮明に感じられます。
今回取り上げる万葉集における「さやけし」は,まさに中秋の名月のようにクリアな輝きやクリアに感じる音に使う言葉のようです。
「さやけし」が詠まれている万葉集の中で,なんといっても有名なのは中大兄皇子(後の天智天皇)が詠んだ次の短歌でしょうか。

海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ(1-15)
わたつみのとよはたくもに いりひさしこよひのつくよ さやけくありこそ
<<海神を護衛するような豊旗雲に入日がさしています。今夜の月はさやかであってほしいものだ>>

この短歌は,有名な大和三山を詠んだ皇子の長歌に続く反歌2首の内の後の方の1首です。前の方の1首は長歌との関係がしっかりあるのですが,この反歌はまったく無関係に感じられます。実は,この短歌の左注にも無関係な内容だと書かれています。
入日がさしているため,西方は雲がないことを意味します。暦や時に興味を持っていたといわれる天智天皇は天気は西から変わることも知っていたのかもしれません。だとすると,雲が無く月が「さやか」であることを期待している皇子にとってその予兆を探したところ,日の入りの光がさしていることがその予兆だと詠んだのかもしれません。また,月がさやかであると船の航行もでき,旅が進むことも考えられます。
万葉集で「さやけし」の対象としてこの「月夜」のほかに「磯波」「海岸」「川」「川音」「川瀬」「鹿の声」「瀬音」「月」「波音」「山川」「小川」などが出てきます。これを見ると,水に関する者が大半を占めています。それも,見るだけでなく,聞くことも対象になっています。日本人は昔から川や海の水は切っても切れない関係であるだけでなく,美しい水の動きや水の音と接することで心さわやかに感じるのが自然のようだと私は思います。
さて,次は海岸の美しさを「さやけし」と舎人娘子(とねりのをとめ)という女官が持統天皇伊勢行幸のとき詠んだ短歌です。

大丈夫のさつ矢手挟み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし(1-61)
ますらをのさつやたばさみ たちむかひいるまとかたは みるにさやけし
<<勇士がさつ矢を手に挟み立ち向かい射抜く的(まと)。その円(まと)方の浜は目にも鮮やかに美しい>>

この海岸は伊勢国にあった弓矢の的のように整った円形をした海岸があり,それが非常に美しかったと感じたのでしょうか。
次は別の対象に対して大伴家持が「さやけし」を詠んだ短歌です。

剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(20-4467)
つるぎたちいよよとぐべし いにしへゆさやけくおひて きにしそのなぞ
<<ますます磨ぎ澄ませてください。(あなたの姓は)遥か昔から清らかに責任を果たしてきたまさにその氏名(うじな)なのですよ>>

この短歌はこのブログで2010年9月25日の投稿でも紹介したものです。
この短歌の左注には,淡海真人三船(あふみのまひとみふね)の讒言(ざんげん)によって、出雲守(いづものかみ)大伴古慈斐宿禰(おほとものこじひのすくね)宿禰が任を解かれる。この事実を知って家持この歌を作る(天平勝宝8(756)年6月17日作)とあります。家持は古慈斐に対して,今まで順調に昇進してきたが,今回の解任に対してやけにならずに栄光ある大伴氏の名を汚さないよう,自分を磨いて,自制した行動をしてほしいと思ったのかもしれません。
その後の古慈斐は家持のこの短歌により,苦しい状況でも我慢して慎重な行動をとったためか,光仁天皇時代には従三位まで行き,公家の仲間入りを果たした記録されています。
組織の中で自分を陥れるようなことをされたとき,「倍返しをしてやるぞ」と戦うのも一つのやり方かもしれません。ただ,組織人として努力した行動を冷静に継続し,じっくりとチャンスを待つのも正しい行動様式だとこの短歌から私は思うのです。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「悔(くや)し」に続く。

2013年9月22日日曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「嬉し」

前の日曜(15日),私が学んだ大学で新しい教育棟が完成した記念に,卒業生も順次見学ができるということで,八王子まで行ってきました。
日本列島上陸間違いなしとの予報された台風が近づいてきていて,風雨が心配でしたが,私が行った昼過ぎは朝方の強い雨もやみ,少し青空がのぞくまで回復していました。

新しい教育棟はまるでホテルのような概容(12階建)で,中に入ると3階分くらいの吹き抜けの大きなエントランスホールがあり,エレベータだけでなく4階まではエスカレータが設置されていました。エスカレータで4Fまでいくと,ベランダには植物が植えられた広いカフェテリアがありました。


私が学生の頃は,50人ほどが入ると満杯になる「ロンドン」という名前の小さな喫茶室があっただけです。
15日は,昔懐かしい同期のOB・OGもたくさん来学していて,お互い年齢を重ねたことを感じながらも,再会できた幸せ感に満たされました。
また,当時の万葉集研究クラブの顧問をしてくださったN先生も新しい教育棟に研究室が移られたとのことで,同期のクラブメイトと一緒に新研究室にお邪魔をさせていただきました。N先生の研究室は11階にあり,エレベータを降りて結構長い廊下を進んでようやくたどり着けました。研究室は,まだ引っ越して直後のご様子で書籍などの整理が完全に終わっておられない状態が,逆に真新しい感じをさらに強くしました。
夜は八王子駅近辺で行ったクラブメイトとの懇談会にN先生もいらっしゃって,今回のテーマと同じ「嬉し」さが倍化しました。
さて,万葉集で「嬉し」を詠んだ和歌は12首ほどあります。まず,今の季節を詠んだ詠み人知らずの短歌から紹介ます。

何すとか君をいとはむ秋萩のその初花の嬉しきものを(10-2273)
<なにすとかきみをいとはむ あきはぎのそのはつはなの うれしきものを>
<<どうしてあなた様のことを嫌だと思うことがあるでしょうか。秋萩の初花を見るようにお目に掛かれば嬉しくてしかたないのに>>

桜の開花宣言を聞くと「春になったなあ」とか「花見ができるぞ」といったように嬉しい気持ちになりますね。
万葉時代は萩の花を見ることが楽しみだったようで(140首以上に登場),今年初めて萩の花が開花すると嬉しい気持ちになったようですね。
また,暑い夏が終わり,萩の咲いている道や庭を散策するのに良い季節となったこともあるのかもしれません。
恋人,そして妻や夫(当時は一緒に暮らさず)と逢える時の嬉しさは格別です。万葉集にも,当然そんな気持ちを詠んだ和歌が出てきます。

玉釧まき寝る妹もあらばこそ夜の長けくも嬉しくあるべき(12-2865)
<たまくしろまきぬるいもも あらばこそよのながけくも うれしくあるべき>
<<玉釧(きれいな腕輪)を巻いた腕枕で一緒に寝られるおまえがいるからこそ,いくら夜長でも嬉しいんだよ>>

この詠み人知らずの短歌も詠んだ時期は今頃でしょうか。太陽の沈む時間も夏に比べたら格段に速くなり,秋の夜長を感じる頃です。
夫の家に帰る時刻が同じであれば,夏の妻問よりも時間がたっぷりとれます。
もちろん,最愛の夫婦間では,その方が嬉しいに決まっています。
最後は,大宮仕えができる嬉しさについて,大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。

天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共にご盛栄されるようにと大宮にご奉仕できることで貴くも嬉しい気持ちがいっぱいです>>

この短歌は東大寺大仏開眼が終わった秋の新嘗祭の宴席で当時80歳を過ぎていた作者が詠んだものです。
当時の80歳以上の人口比率が今の100歳以上の人口比率より少なかったとすると,長寿でここまで来れた嬉しさも含んでいたのかもしれませんね。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「さやけし」に続く。

2013年9月15日日曜日

心が動いた詞(ことば)シリーズ「こちたし」

いろいろイベントがあって,先週のアップができませんでした。さて,結構長く続いた「2013夏休みスペシャル」が終了し,久しぶりに万葉集の「心が動いたシリーズ」に戻ります。
「こちたし」は漢字を当てはめると「言痛し」と書くようです。「人の噂が多くて煩わしい。うるさい。」いったネガティブな心の動きを表現する言葉です。
人の噂で体表的なのは「恋の噂」かもしれません。現代でも有名芸能人の熱愛報道が女性誌の販売数やテレビのワイドショー番組の視聴率に大きく影響するようです。また,職場の給湯室でも,社内恋愛の噂で話の花が咲くこともままあると聞きます。あくまでも噂ですが。
当の恋人同士は,噂をされることでお互いの愛がもっと深まることもあれば,噂に翻弄されお互いの気持ちが冷えてしまうことも考えられます。
さて,万葉集にもそんな噂で恋人同士の本人たちが困っている状況は出てきます。

人言を繁み言痛み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背子(4-538)
ひとごとをしげみこちたみ あはずありきこころあるごと なおもひわがせこ
<<人の噂が気になりお逢いしなかったのです。あなた様を思う気持ちがないなんて思わないでください。私のあなた様>>

この短歌は,正四位下まで昇進した高安王(たかやすのおほきみ)の娘の高田女王(たかだのおほきみ)が今城王(いまきのおほきみ)に贈った6首の中の1首です。
今城王の父は同じ高安王という説もあり,仮に二人が異母兄妹の関係であれば,まさに「許されない恋」となります。二人は必死になって恋人関係を他人に分からないようにしたのかもしれません。でも,二人のちょっとしたしぐさで噂は立つモノです。それが抑えられないほどいろいろな人に伝わり「人言を繁み」となり,「言痛み」となったと考えられます。
次の詠み人知らずの短歌はうるさい人の噂に対して開き直った形のものです。

言痛くはかもかもせむを岩代の野辺の下草我れし刈りてば(7-1343)
こちたくはかもかもせむを いはしろののへのしたくさ われしかりてば
<<煩わしい人の噂はどうなるのか?岩白の野辺に生えた草を私が刈つてしまうた後は>>

「草を刈る」というのは「恋を成し遂げる」すなわち「恋人宣言をする」ことを意味するのだと私は思います。このように恋人関係をオープンにすれば,とやかく言う人も気にならなくなるという意味かもしれません。
しかし,オープンにしたらしたで,いろいろ面倒なことが発生することを愛し合っているふたりに想像できるわけではなさそうです。
オープンにした後も次のような詠み人知らずの短歌が生まれます。

おほろかの心は思はじ我がゆゑに人に言痛く言はれしものを(11-2535)
おほろかのこころはおもはじ わがゆゑにひとにこちたく いはれしものを
<<いい加減に思っているなんてことはないよ。君には僕のために人にとやかく言われ辛い思いをさせているのに>>

噂を立てられ,仕方なく公表したら,今度は相手の自宅までゴシップ記者が押し掛ける騒ぎになってしまった有名タレントが恋人に贈るときに使えそうな短歌ですね。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「嬉(うれ)し」に続く。

2013年9月3日火曜日

2013夏休みスペシャル‥「夜遅く大洗の宿に駆け込む。そして,,..」

<大洗での研究会>
8月30日,午後から大阪市内のお客様へ打ち合わせのため出張し,夕方その足で毎年この時期に行われているソフトウェア保守関連の研究会作業部会の合宿に合流しました。場所は茨城県大洗町の那珂川河口にある「かんぽの宿」です。
作業部会合宿は午後から始まっていて,1日目の研究会議(午後と夜)には参加できず,夜遅くの懇親会に途中参加となりました。
新幹線が九州地方の豪雨で遅れが出ていて,少し焦りましたが,新大阪では先行出発する列車に乗れ,予定通り23時までには宿に到着できました。ただ,時間が時間ですから参加者の皆さんはかなりお酒をお召し上がりになっていました。
大阪の近鉄百貨店のデパ地下で買った「ハモの皮」「松前屋の塩昆布」「お好み焼きチップス」を遅れたお詫びにの印に差し入れをしました。参加者の皆さんは関東在住の方が多く「珍しいおつまみだ」と喜んで頂きました。私も駆けつけ3杯と,1時間ほど飲んで,すっかりいい気分になりました。
この宿は立派な露店風呂付大浴場(温泉)があり,朝,那珂川河口方面の眺めはなかなかのものでした。
<研究会2日目>
翌31日は,作業部会の2日めの研究会議を行い(私の個人研究に関する討議中心),昼からは大洗アクアワールド(設備やシステムの維持管理状況)を見学し,岐路に着きました。
実は大洗の北に阿字ヶ浦(あじがうら)海岸という場所があり,万葉集東歌(次の短歌)で詠まれた許奴美の浜がそこだという説があり,万葉歌碑があるとのことです(ただ,時間的にそこには行けませんでしたが)。

磐城山直越え来ませ礒崎の許奴美の浜に我れ立ち待たむ(12-3195)
いはきやまただこえきませ いそさきのこぬみのはまに われたちまたむ
<<磐城山をすぐ越えて来てください。磯崎の許奴美の浜辺で私は立って待っていますから>>

<今度は富士登山>
さて,31日夜自宅に戻るとすぐ翌日(9月1日)富士登山の準備に入りました(昨年はこのブログでも紹介しましたように八合目で下山)。
1日は朝3時半に自宅を出て,昨年と同じ御殿場駅から須走口行のバスに乗り,8時半頃から登山を開始しました。ただ,結果から言いますと,今年も頂上まで行けませんでした(九合目で断念)。
理由は,高山病の予兆と思われる症状(軽い頭痛)が出てきたためです。後30分あまり頑張れば上まで行けたのですが,視界もきかず,台風15号から変わった温帯低気圧の影響なのか風も非常に強く,下山時のことや翌日の仕事を影響を考えやむなく引き返すことにしました。
今回の残念な結果を踏まえ,来年はさらに対策をしてリベンジしたいと考えています。
でも,昨年登った八合目の高さ位までは天気も良く,次のようないろいろ写真が撮れました。
登山道に入ったら野生の鹿の親子(?)が迎えてくれました。

六合目付近河口湖が眼下(左奥)に良く見えました。

しかし,山頂付近は雲に覆われています。

今回,私が引き返した九合目です。

視界はこんな感じです。霧雨が強い風に乗って吹き付けてきます。

下山して須走口でバスを待つ間に見つけたトリカブトの花です。シカも近づかないそうです。

さて,1ヶ月以上に渡り続けてきました2013夏休みスペシャルも今回で終了し,心が動いた詞(ことば)シリーズに戻ります。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「言痛(こちた)し」に続く。

2013年8月25日日曜日

2013夏休みスペシャル‥「貧窮問答歌を経済の視点で見る」

<経済格差は今もある>
今年は立秋から半月以上が過ぎても猛暑が続きます。そのためか,ルームエアコン,扇風機,冷蔵庫,掃除機など家電製品の売れ行きが良いようです。また,さまざなの経済政策に対し,猛暑効果もあり,少しは景気が上向いているという報道も出ています。
しかし,別の報道では高い電気料金が負担で,やむなくエアコンを入れるのを我慢し,熱中症で死亡または病院に搬送される人がいる。定職に就きたいが,なかなか正社員の求人がなく,やむなく(ほぼ最低賃金の)アルバイトやパートタイムでしのいでいる人がいる。家賃を払えずホームレスとなっている人がいる。病気や障害で仕事に就けず生活保護を受けている人が多くいる。子供を養うお金がなくて育児放棄をしてしまった人がいる。
こうような不本意に見える生活を送っているような人の数は大幅に減っているのでしょうか?
私にはそんな報道に接して,大きく改善しているという実感がまだ湧きません。
<貧窮問答歌から貧困とは何かを考える>
今回万葉集山上憶良が詠んだ貧窮問答歌を取り上げるのは,「それでも憶良が詠んだ時代よりましだ」とか「憶良の内容と同じ状況だ」と書きたいためではありません。貧困とは何かについて改めて貧窮問答歌を通して考えてみようということです。
富や財産に興味が無くなり,貧困でも構わないと思っている人は世の中にほとんどいないだろうと私は思います。ただ,貧窮問答歌に登場する人物のように貧困状態から脱することが難しいと考えている人や貧困状態から脱する方法が分からない人はいるかもしれません。
貧窮問答歌の前半では,決して豊かではないと感じている憶良らしい人物が問いかけます。

風交り雨降る夜の 雨交り雪降る夜は すべもなく寒くしあれば 堅塩をとりつづしろひ 糟湯酒 ちすすろひて しはぶかひ鼻びしびしに しかとあらぬひげ掻き撫でて 我れをおきて人はあらじと 誇ろへど寒くしあれば 麻衾引き被り 布肩衣ありのことごと 着襲へども寒き夜すらを 我れよりも貧しき人の 父母は飢ゑ凍ゆらむ 妻子どもは乞ふ乞ふ泣くらむ この時はいかにしつつか 汝が世は渡る(5-892前半)
かぜまじりあめふるよの あめまじりゆきふるよは すべもなくさむくしあれば かたしほをとりつづしろひ かすゆざけうちすすろひて しはぶかひはなびしびしに しかとあらぬひげかきなでて あれをおきてひとはあらじと ほころへどさむくしあれば あさぶすまひきかがふり ぬのかたきぬありのことごと きそへどもさむきよすらを われよりもまづしきひとの ちちはははうゑこゆらむ めこどもはこふこふなくらむ このときはいかにしつつか ながよはわたる
<風雨やみぞれも降る夜はどうしようもなく寒い。堅塩をなめては糟湯酒をすする。咳が出て鼻水をすすり上げる。たいして生えていないい髭を撫でて,自分より優れた人はそうはいないと自惚れているが,寒いから麻でつくった夜具をひっかぶり,麻布の半袖をありったけ重ね着をしても寒い。こんな寒い夜には,私よりももっと貧しい人の親は飢えてこごえ,その妻子は力のない声で泣くいてるかもしれない。こういう時,そういった君はどうやって生活しているのか?>>

それを受けて後半ではもっと貧困状態だという人がその悲惨な状況を詠います。

天地は広しといへど 我がためは狭くやなりぬる 日月は明しといへど 我がためは照りやたまはぬ 人皆か我のみやしかる わくらばに人とはあるを 人並に我れも作るを 綿もなき布肩衣の 海松のごとわわけさがれる かかふのみ肩にうち掛け 伏廬の曲廬の内に 直土に藁解き敷きて 父母は枕の方に 妻子どもは足の方に 囲み居て憂へさまよひ かまどには火気吹き立てず 甑には蜘蛛の巣かきて 飯炊くことも忘れて ぬえ鳥ののどよひ居るに いとのきて短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る里長が声は 寝屋処まで来立ち呼ばひぬ かくばかりすべなきものか 世間の道(5-892後半)
あめつちはひろしといへど あがためはさくやなりぬる ひつきはあかしといへど あがためはてりやたまはぬ ひとみなかあのみやしかる わくらばにひととはあるを ひとなみにあれもつくるを わたもなきぬのかたぎぬの みるのごとわわけさがれる かかふのみかたにうちかけ ふせいほのまげいほのうちに ひたつちにわらときしきて ちちはははまくらのかたに めこどもはあとのかたに かくみゐてうれへさまよひ かまどにはほけふきたてず こしきにはくものすかきて いひかしくこともわすれて ぬえどりののどよひをるに いとのきてみじかきものを はしきるといへるがごとく しもととるさとをさがこゑは ねやどまできたちよばひぬ かくばかりすべなきものか よのなかのみち
<<世の中は広いというが私には狭いのか。太陽や月は明るく照り輝いて恩恵を与えるというが,私には照ってくれないのか。他の人も皆そうなのか。それとも私だけなのか。たまたま人間として生まれ人並みに働いているのに,綿も入っていない麻の袖なしの,しかも裂けて破れて垂れ下がり、ボロボロのものばかりを肩にかけているだけ。低くつぶれかけ,曲がって傾いた家では地べたに藁を敷き,父母は枕の方に,妻子は足の方に,自分を囲むようにして,悲しんだりうめいたりしている。かまどには火の気はなく,甑には蜘蛛の巣がはって,いつ飯を炊いたか思い出せない。かぼそい力のない声でお願いしているのに「短いものの端を切る」ということわざと同じように,鞭を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか?>>

ここで,貧窮問答歌は経済に関する事実をいくつか教えているように私には思えます。
・貧困に陥った人が貧困から脱出するのは,個人の努力だけでは困難な部分がある。
・貧しい/豊だという感じ方は相対的なものであり,他人の状況との比較の結果感じる部分が少なくない。
・ヒトは,貧しくともプライド(ヒトとして意味をもった生き方を求める気持ち)を持って生きている。たとえば,家族の絆は貧困より優先する。仕事をして社会に貢献して生きていきたい。など。
・貧困からの脱出し,豊かになるには社会の仕組み,生まれた家柄,ごくまれな幸運に依存する部分が多いと感じている。
<今の日本に当てはめると>
ところで,今の日本経済を見ると,自由な市場主義経済を前提としていると言えそうです。ということは,勝者もいれば敗者もいることになります。勝者は多くの富を得て,勝ち組状態を維持するため,他社が競争を仕掛けにくいようにします。
勝者は他者の参入を防ぐための知的財産の確保や企業秘密の非公開など参入障壁を築き,競争相手を増やさない戦略をとります。これは,自由競争の中である程度許されている行為です。
ただし,それを放置すると勝者はさらに強くなり,敗者はさらに勝てなくなり,勝者同士の戦いで最後に勝った最強勝者は永遠に最強で居続けることが可能となります。
こうなると売価を売り手が勝手に決めることができ,もう自由競争とは言えません。そこで,日本などの国では独占禁止法反トラスト法を制定し,供給側も消費側も含めた自由な市場経済を維持しようとしています。でも,これは勝ちすぎた一部の独占企業を排除する法律であり,敗者を無くすものではありません。
実は敗者を無くす経済学の考え方に共産主義経済という思想があります。ただ,今の多くの国はやはり自由な競争をベースとした市場主義経済を採っています。
自由な競争があることで,競争者同士に緊張感が生まれます。勝つためにそれぞれがさまざまな創意工夫を行い,その結果勝ち負けに係らず新しい技術や産業が自然に生まれやすくなります。それが自由主義経済の大きなメリットだと私は思います。
ただ,何度も書きますが,何の制御もしなければ貧富の格差がどんどん広がる(経済格差が増える)可能性が高いのです。それに歯止めをかけるために,セーフティネットの拡充や負の所得税といった政策の必要性を主張する人がいますが,自由競争や国の財政とのバランスが難しい政策課題だと私は感じます。
さて,貧窮問答歌を再度見ると,最後に所得のない人にも税金を取り立てている様子が出てきています。万葉時代には,累進課税制度といったものが考えられていなかったのでしょうか。

世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(5-893)
よのなかをうしとやさしと おもへどもとびたちかねつ とりにしあらねば
<<今の世の中が憂鬱だとか生きていることが恥ずかしいとか感じても,そこから飛び立って離れて行くことはできない。鳥ではないのだから>>

憶良は,貧窮問答歌に併せたこの短歌で,重税にあえぐ貧しい庶民が自分の努力だけで何とかできるものではなく,当時の為政者に対し,間違った税制度(貧しい人をより貧しくする)を是正すべきと暗に示したかったのかもしれないと,私は思うのです。
2013夏休みスペシャル‥「夜遅く大洗の宿に駆け込む」に続く。

2013年8月18日日曜日

2013夏休みスペシャル‥「山梨市万葉の森を訪ねる」

8月13日は少し早いですが妻の両親の墓参り(茨城県古河市)とペットの墓参り(東京都練馬区)に妻と出かけました。
<夏の山梨市を訪問>
翌14日は妻と一緒に猛暑の山梨市へ行き,笛吹川フルーツ公園万力公園万葉の森などを訪ねました。目的は何か?当然,山梨名物ほうとうと,今が旬のブドウモモを食べにです(万葉の森については妻に内緒にして家を出発)。
実は,山梨県の地名を詠んだ万葉集の和歌は次の東歌のみです(このほか静岡県と併せて富士を詠んだ高橋虫麻呂の長歌が巻3にあり)。

むろがやの都留の堤の成りぬがに子ろは言へどもいまだ寝なくに(14-3543)
むろがやのつるのつつみの なりぬがにころはいへども いまだねなくに
<<都留の堤はようやく完成しそう。子供はいつ?と周りは云うけど,まだ共寝もしてないのに>>

それでも山梨市には万葉の森があるというので,どんなとこか見に行きたいというのが,私の希望でした。
さて,JR武蔵野線中央線中央本線を乗り継いで山梨市駅に午後1時頃到着。さすがに,お隣の甲府で最高気温40.7度(今年2位),勝沼で40.5度(今年3位)を記録した数日後に行ったものでしたから,その暑さは予想以上でした。
早速近くのスーパーで山梨県産であることを確認のうえ,モモと種無し巨峰を買い,クーラボックスに入れました。
<山梨と言えば猛暑でもほうとう食うべし>
そして,グウグウ鳴っているお腹を抱え,駅近くのネットで割と評判のほうとう専門店に入りました。この猛暑の中,アツアツのほうとうを食べる人はいないだろうと予想して店に入ると,ほぼ満席で唯一空いていた隅の1テーブルに案内されました。店内は適度に冷房が効いていて,外を歩いて火照った体にはちょうど良かったのです。冷やしほうとうもあるらしく,そんなに冷房を強くできないのかもしれません。
妻とよく冷えた中ジョッキでまずは乾杯し,塩の効いた枝豆(1個しか豆がないものが結構入っていたので,本当に枝から茹でたものでした)をほおばっている,汗で失われた塩分が補充されるのがわかる気がします。
「豚バラ」と「地鳥」のほうとうを1人前ずつ頼み,しばらくすると店員さんが2つの鍋をそれぞれ卓上ガスコンロに乗せてできました。厨房ではなく,客のテーブルで煮る方式です。目の前で15分も近く煮たててから食べます。そのくらいすると身体も冷房でかなり冷えてきたので,ちょうど良い具合です。それぞれ妻と分け合って食べました。両方とも評判だけあって美味しかったのですが,無理に比較をすると私も妻も地鳥の方が口に合いました。年のせいでしょうか。
<フルーツ公園を目指す>
遅い昼食が終わって,山梨市駅に戻り,タクシーでフルーツ公園に向かいました。運転手さんに「今日の暑さはどう?」と聞くと「数日前に比べると少しはマシかな」との返事。「この暑さはブドウやモモの生育に結構影響している?」と聞くと運転手さんもブドウ畑を持っているようで「良くないね。暑すぎてブドウの色がなかなか付かない。それと雨が降らないので水やりが大変だよ」とのこと。
「斜面だから水を上げるのが大変?」と素人の質問をすると「今はどの畑も給水管が通っているからそんなことはしないで済むけど,水を出す時間が畑ごとに決められていて,その時間だけでは,根の下の方まで水が行かず全然足らない。雨乞いをしたい気持ちさね」と。
タクシーは急坂を唸りを立てて登っていきます。大きく蛇行した道を5分ほど昇るとフルーツ公園の手前の一番低い場所にある駐車場に到着。
<フルーツ公園を到着>
フルーツ公園は入場無料で,本来は果樹研究施設のようです。展示施設もありました。中を循環する乗り物は1回2百円。その他は施設でフルーツや土産を買ったり,レストランで食事をすることで収入を得ているようです。
園内はいろいろな果樹が植えられていました。私たちは徒歩で一番高い場所(富士屋ホテル付近)まで登りました。ここまで来ると標高が550mほどの場所なので,風がさわやかで気持ち良く感じることができました。
眼下に甲府盆地東部を見渡せる場所で,景色を見ながら昼食前にスーパーで買ったブドウがクーラーボックス内でちょうど冷えていたので食べました。また,自宅から凍らせて持って行ったミネラルウォーターも半分位溶けて,溶けた水は冷たさ抜群でした。素晴らしい風景,涼しい風,美味しい地元の種無し巨峰を同時に味わいながら。

帰りはフルーツ公園の最上部の乗り物駅から園内の乗り物の最終便に乗って下の駐車場まで下りました。下の駐車上に降りると,熱風の風に戻り気温がまだ高いことが分かります。
そこからは山梨市駅方面へ歩いて下ります。フルーツ公園のすぐ下にある果物の直売所があったので寄りました。時間が夕方に迫っていて,売れ残った各種ブドウやプラムをたくさん試食させてもらいました。
<シャインマスカット購入>
店の人に悪いので,一番美味しかったシャインマスカット(マスカット・オブ・アレキサンドリアや甲州路などを掛け合わせた品種で皮ごと食べられる)を一房買いました。グラム単価よりすごく安くしてくれ,さらにプラム10個をおまけに付けてくれ,ありがたかったです。
急こう配を降りてきて笛吹川を渡る手前に万力公園があり,その中の森を「万葉の森」と呼んでいます。妻に少し寄りたいというと「OK」の返事がありました。先ほど,マスカットを安くしてもらったので,機嫌が良いようです。
<「万葉の森」散策>
中に入るとなんと鹿が飼われているではありませんか。万葉集に出てくる植物を100首以上植えているとのことで,万葉歌碑も建てているという力の入れようです。万葉集の和歌があまり詠まれていない山梨県ですが万葉集が地域に与える力はすごいと感じました。


もう少しいろいろ園内を回りたかったのですが,帰りが遅くなるので,写真を少し撮っただけで山梨市駅に向かいました。

自宅の近くの駅に到着したのが夜8時を過ぎていましたので,サイゼリアに寄って夕食としました。
昼食のほうとう屋さんでは中ジョッキ×2,枝豆1,ほうとう×2で計4千円(値段は普通との印象)でした。夕食のサイゼリアでは,料理4品,中ジョッキ×2,ワインデキャンタ500mlで計2千8百円。やっぱりサイゼリアは安い。
今回,いろいろなモノの値段の話を少ししました。次回のスペシャル企画は経済の視点で山上憶良貧窮問答歌を考えてみることにします。
2013夏休みスペシャル‥「貧窮問答歌を経済の視点で見る」

2013年8月13日火曜日

2013夏休みスペシャル‥「光仁天皇と大伴家持」

<大伴家持という不思議な人物>
私が大学で万葉集の研究クラブに参加していた4年間,一番興味を持った歌人は大伴家持でした。学部は経済学部でしたが,私は本来理系に向いている人間と学生時代は勝手に思っていましたので,数字に対するこだわりがありました。
家持が詠んだという和歌の数が万葉集内で最も多くある。その数は2位以下を寄せ付けないほど圧倒的である。
万葉集最後の和歌が家持作となっている。数学(数列)的には,最初や最後の数字には特別な意味を持つ。
万葉集の和歌には題詞,左注が詳細に書かれている場合が少なくない。万葉集を単なる和歌集(文学)ととらえるべきではなく,万葉集を編纂した人物にスポットライトを当てるべき。
<万葉集における家持の位置>
万葉集に登場する人物,その人物の立場,出現する言葉,和歌の情景や背景,和歌が伝えたいことが非常に多様である(多様性を持つ)。多様性のイメージ(全体像)は統計学の母集団分布を推計する方法などで推測することが可能である。
そう考えたとき,万葉集における家持の存在の大きさがナンバーワンであることは数字(数学)的に有意であることが容易に想像され,私は家持を突っ込んで研究テーマとしたいと考えました。
しかし,創立2年目に入学した大学では,学生数も少なく,建学の精神を早く実現の道筋をつけていくためには,学生としてもさまざまな活動を掛け持ちしても足らない状況でした。
当然のことですが,人間としてもまったく未熟な私は,問題意識(テーマ)はいろいろ持っていても,そのテーマに対してどれ一つ本格的な行動を起こすことが大学時代はできませんでした。
<家持研究の再開>
その後IT企業に勤め,ITの仕事にのめり込んだ私は,結局5~6年前まで万葉集に関することは何一つできませんでした。
万葉集を再び見てみようと考えたとき,学生時代とはまったく状況が変わっていました。まさに,インターネットによって万葉集自体やその時代の様子を研究したものを見ることが非常にやりやすくなっているではありませんか。
これなら,ITの仕事をしながら万葉集を見ることができると判断し,その過程で感じたことを「万葉集をリバースエンジニアリングする」というブログを立ち上げ,投稿するようにしたのです。
では,本投稿の主題に入りましょう。
光仁(こうにん)天皇は,平安京遷都を断行した桓武(かんむ)天皇の前天皇で桓武天皇の父です。また,志貴皇子の子でもあります。
志貴皇子は,光仁天皇が即位したとき,春日宮御宇天皇(または田原天皇)という称号を追号されたのです。
写真は,奈良市田原地区にある志貴皇子(写真上)及び光仁天皇(写真下)のものとされる陵です。


光仁天皇は天皇になる前,万葉集に歌を残していませんが,志貴皇子は6首短歌を残しています。次はその中の1首です。

神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ(8-1466)
かむなびのいはせのもりの ほととぎすけなしのをかに いつかきなかむ
<<石瀬の森の霍公鳥よ,毛無の岡にいつ来て鳴いてくれるのだろうか>>

また,笠金村が志貴皇子が霊亀元(715)年に亡くなった際,挽歌(長歌,短歌)を作っています。次はその中の短歌1首です。

御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに(2-232)
みかさやまのへゆくみちは こきだくもしげくあれたるか ひさにあらなくに
<<御笠山の野辺を行く道はこんなにも雑草がいっぱい生えて荒れ果てたのだろうか,皇子が亡くなってそんなに経ってもいないのにもかかわらず>>

ところで,平安時代初期に編纂された勅撰史書である続日本記(延暦16<797>年刊)には,志貴皇子は霊亀2年に亡くなったと記されているそうです。
万葉集とは1年の差があります。この差は私とっては無視ができません。どちらが正しいのか,それともどちらも間違っているのか,非常に気になります。
私は万葉集の方が正しいような気がします(単なる直感ですが)。続日本記では,どうしても志貴皇子は霊亀元年(元正天皇即位時)に死んだとすると何か都合の悪い理由があったのではないかと感じます。
話を志貴皇子の子とされる光仁天皇に戻しましょう。宝亀元(770)年10月に62歳という非常に高齢で即位し, 天応元(781)年4月まで10年半に渡って天皇を務めたと続日本記には出ているそうです。
同記によれば,家持はこの間にそれまでにない異常なスピードで昇進をどけているのです。
天平17(745)年に従五位下となった後,宝亀元年に正五位下になるまでの25年の間,一つしか官位が上がらなかった家持ですが,宝亀2年には従四位下へ2段階昇進。
宝亀8年には従四位上,同9年には正四位下に昇進。同11年には参議に。天応元年に正四位上,同年従三位に昇進し,延暦2(783)年中納言となり,左大臣,右大臣に次ぐナンバー3の公卿となるのです。
これを見ると家持がいかに光仁天皇に気に入られていたかが想像できます。
光仁天皇の時代は天変地異(地震,噴火,干ばつ,風水害,疫病,飢饉など)が多数発生し,宮廷にとっても対応にかなり苦慮したい時期であったと考えられます。このような時,政争や権力闘争ばかりに走る野心家より,さまざまな地方で苦労をしてきて,大伴氏をしっかりまとめている家持のような経験豊かな人材が必要だったのではないでしょうか。
そして,家持は光仁天皇時代,天皇の後援を受け,家臣や役人を使い天平宝字3(759)年まで自らが収集していた和歌やその注釈を万葉集の形にまとめたと私は勝手に仮想しています。
万葉集の和歌には,天武系の皇族が力を持っている時代には,とても公表できないような和歌がいっぱいあると私は感じています。
光仁天皇と万葉集(家持)との関係について,私はこれからも興味を持って調べてみようかと考えているのです。
2013夏休みスペシャル‥「山梨市の万葉の森を訪ねる」に続く。

2013年8月10日土曜日

2013夏休みスペシャル‥「明日香路を眠さと暑さに耐えてひたすら歩く」

<真夏の明日香村>
7月28日朝6時47分近鉄南大阪線二上山駅から吉野駅行の電車に乗り,橿原神宮前駅まで移動しました。涼しい電車に乗るとすぐに眠気が襲ってきて,爆睡状態に。気が付いたのが,下車予定の橿原神宮前駅でドアが閉まりかける直前でした。何とかホームに飛び出し,乗り過ごしを防ぐことができました。
南大阪線吉野方面行ホームのベンチ朝の涼しい風に当たりながら,自宅から持ってきて,途中少しずつ食べながら来た冷凍枝豆の残りを平らげました。冷凍枝豆は昨年夏奈良街道を歩いた時も持参しました。昼に自宅を出るとき,完全凍った状態にして保冷剤を入れた保冷袋に入れておくと,夜中にはちょうど解凍された状態になり,保冷剤で朝までよく冷えた枝豆が食べられます。
冷凍枝豆は塩分を含んでいて,ミネラルウォータ(これも自宅を出るときは凍らせています)を飲みながら食べると熱中症の予防,空腹感の防止に効果があると私は考えています。残った枝豆をすべて平らげると,ホームで小休止し,駅の売店でパンとミネラルウォータを補充して,いよいよ酷暑の昼間に明日香に向かいます。
橿原神宮前駅を東の方向に進むと剣池石川池)のそばに出ました。万葉時代「軽の池」と呼ばれていたとのことで「軽の池」を詠んだ紀皇女の短歌が紹介されています。

軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに(3-390)
かるのいけのうらみゆきみる かもすらにたまものうへに ひとりねなくに
<<写真参照>>

ここから,甘樫の丘にショートカットで行こうと,橿原市菖蒲町の住宅街に入りました。一戸建ての結構敷地の広い家が整然と並んでいて,私の感覚では高級住宅街です。ところが,余りにも整然と並んでいて,行き止まり(袋小路)ばかりで,道に迷ってしまいました。
庭の手入れをしている居住者の方に「甘樫の丘にはどう行けばよいですか?」と聞くのですが,そこに住んでいる人は甘樫の丘に歩いて行ったことはないらしく,遠回りの幹線道路を使っていく道しかご存知なようで,こちらの望む細い道は教えてもらえませんでした。
結局,午前中とはいえ,酷暑の中,遠回りの幹線道路に戻って歩くことになり,甘樫の丘の麓の飛鳥川にほとりにある「飛鳥」バス停に着くまで30分以上時間をロスしました。
そこには,明日香を訪れると必ずと言ってよいほど寄る農産物直売所「あすか夢の楽市」があり,今回も寄ることにしました。中は冷房がよく効いていてまるで砂漠の中のオアシスといった感じがしました。

そこで,冷たい紫蘇ジュースを試飲させてもらい,自宅へのお土産(古代米をブレンドしたコメ)を買い,リュックに詰めて,亀石方面に向かって歩き出します。
みかん農園に行く途中に,去年も写真を掲示した蓮の花がきれいに咲いている池があり,今年も写真を撮りました。

ただ,猛烈な暑さで,次の詠み人知らずの短歌のようにざっと雨でも降ればと思いつつ。

ひさかたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む(16-3837)
ひさかたのあめもふらぬか はちすばにたまれるみづの たまににたるみむ
<<雨が降らないかあ。蓮の葉の上にとどまっている水滴が宝石のように見えるから>>

10時前にみかん農園手前の急な坂道を登り,ようやく農園に到着(写真はみかん農園から見た明日香村方面)。

受付を済ませて,自分がオーナーになっているみかんの木に行って,摘果を開始しました。大きいものはそのままにして,小さい実,傷ついた実,周りに実がいっぱいあって日が当たらない実などを摘果していきます。

数十個は摘果して,今年の摘果作業は30分ほどで終わりました。その後,農園が用意してくださった,摘果した実のジュースを飲みと冷えたスイカを食べ,農園を後にしました。
農園から10分ほど下ったところに明日香村循環の赤かめバスの健康福祉センターというバス停があり,そこからバスに乗って,近鉄吉野線飛鳥駅まで向かいました。
<農園からの帰路>
ただ,バスには乗客は誰も乗っていませんでした。酷暑の夏真っ盛りに明日香村を徒歩で観光で訪れる人はほとんどいないということかもしれませんね。
飛鳥駅に着くと,次の電車まで25分ほどあり(乗る電車時刻を無視したバスダイヤ!),25分眠さを堪え,炎天下のホームで待つより,2駅先の橿原神宮前駅まで歩くことにしました。
駅の待合室から戻る私の姿をみて,開店休業のレンタサイクル店のお姉さん(私より年上という意味)が「お兄さん,自転車乗られへんか?」と声を掛けられました。「もう家に帰る時間やさかい,今日はええわ」といって,中街道(国道165号線)を北に向かいました。
なんとか,20分程度歩いて橿原神宮前駅に到着し,11時7分発京都駅行急行の最前部の車両に乗りました。近鉄京都駅はターミナル駅で,最前部が改札に最も近いことを知っているからです。
電車が走りだして,当然ですがすぐ睡魔が襲い,気が付いたときは京都駅の2駅前でした。
京都駅からは再び28日の青春18きっぷでJRのお世話になります。12時30分発のJR西日本の長浜駅行新快速に乗り,米原へ向かいます。快適な片側2列ずつのシートで,ここでもぐっすりと寝られました。
米原からはJR東海の大垣行,大垣からは豊橋行新快速,豊橋からは浜松行,浜松からは熱海行に乗り継いで,行きました。途中,ずっと一緒の電車で移動しているリュックを持った女性の団体や同じくリュックを持った男性の一人旅(私もその一人)が結構いました。青春18きっぷを使い,関西から関東に移動する最適な列車だったのかもしれませんね。
熱海からは,JR東日本の列車で,グリーン券チャージ(750円)をしてグリーン車でビールを飲みながら旅の最後,ゆったりと流れる東京の夜景を見ながら過ごしました。
自宅に戻り,7月28日の歩数計をみると,長尾街道分も含めなんと5万9千歩に達していました。少し苦しい時間帯もありましたが,地に足が付いた充実したひとり旅ができたと実感。もちろん,翌日は普通に会社に出勤し,いつもと同じように仕事をこなしたことも付け加えておきます。
2013夏休みスペシャル‥「光仁天皇と大伴家持」に続く。

2013年8月3日土曜日

2013夏休みスペシャル‥長尾街道を歩く

今年も奈良県明日香村のみかん農園で私が年間オーナであるみかんの木(一本)を摘果する季節になり,昨年と同様に埼玉の自宅最寄り駅からJR青春18きっぷを使い,移動することにしました。

昨年は摘果の前日の夜,JR東海道線大津駅(滋賀県)から奈良街道をJR奈良線宇治駅(京都府)まで歩きました。始発を待ち,桜井線香具山駅(奈良県)までJRで移動,同駅からは藤原京跡経由で農園までまた徒歩で移動しました。
<今年のコース>
今回は27日午後JR快速や普通列車を乗り継ぎ,途中浜松駅では夕食の浜松餃子定食を食べました。

その後も普通電車を乗り継ぎ,24時過ぎにようやく大阪市住吉区のJR阪和線我孫子町(あびこちょう)駅に着きました。

同駅より紀州街道長尾街道(堺大和路線)などを徒歩で移動,28日朝6時47分奈良県の近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線二上山(にじょうさん)駅まで至りました。そこから電車で橿原神宮前駅に向かい,また徒歩でなじみになった農園に移動したのです。
投稿は2回に分けます。今回は我孫子町駅から二上山駅まで歩いた内容をお知らせします。
我孫子町駅から南海電鉄高野線我孫子前駅を通り過ぎました。

さらに阪堺電気軌道阪堺線我孫子道駅を通り過ぎます。

この先,紀州街道との交差点までの西に行く間,途中に住宅街はありますが,けっこう商店街が続きます。平日の夕暮れ時はさぞや活気ある商店街ではないかと想像しながら,夜中静かな商店街を歩くのもおつなものでした。ここで,交差する紀州街道を左に折れ,南行しますが,北行側にはまた商店街がありました。商店街がなんと多い地区だなと感じました。
南行側は昼間でも静かな雰囲気を感じさせてくれる昔風の街道沿いをイメージできる雰囲気でした。
万葉時代の頃には,この紀州街道より西側はすぐ海で,松林などがあったのだろうと私は想像します。次の万葉集の短歌も紀州街道あたりから詠まれたのかもしれませんね。

住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ (7-1159)
すみのえのきしのまつがねうちさらし よせくるなみのおとのさやけさ
<<ここ住之江では寄せ来る波が岸の松の根を洗い出し寄せ来る波音のなんと清々しいことよ >>

さらに南行すると,大和川(上流は奈良県)に掛かる大和橋に差し掛かりました。
今は大和川の上流・下流にたくさんの橋ができていますが,昔はこの近辺にはここしか橋がなく,この橋の両側は大変な賑わいだったのだろうと私は想像します。
この橋を渡ると大阪市住之江区から堺市堺区に変わります。さらに紀州街道を南下すると,街道沿いの面影が残る場所が続きます。


やがて阪堺線が道路の中央を走る大通りと合流します。この大通りを阪堺線駅を3つ分ほど歩くと花田口駅にたどり着きます。

ここが奈良方面(東方)に向かう長尾街道の起点だそうです。紀州街道を歩くのはここまで。左折し,今回の主目的である長尾街道を歩き出します。時間は午前1時半を超えていました。
長尾街道の最初は道幅の広い幹線道路(堺大和路線:県道12号)として整備されていました。

歩道を進んでいくと南海高野線堺東駅のそばを渡り,さらに行くと前方に高層マンションが見えてきました。JR阪和線堺市駅周辺にあるマンション群だと近づくに従い分かりました。
堺市駅の手前から県道12号と長尾街道が別の道になります。私はもちろん静かな長尾街道を行きます。長尾街道を歩くと立派な倉を持つ大きな家にいくつも出会います。


この街道が昔いかににぎやかな街道で,行きかう物資や人で多くの富を得た人たちが多かったのだろうと私は感じました。
ところが,しばらく街道を東行するとまた高層マンションが見えてきました。堺市中心部から離れていくのに変だな思いつつ。このマンションの近くに地下鉄御堂筋線北花田駅があるからのようです。大阪市の中心部まで30分も掛からず行けますから,居住地として人気が高そうなのはうなづけます。
そこから,さらに行くとようやく松原市に入りました。4時近くになっていました。歩いてみると堺市の広さが身で持ってわかりました。
松原市に入ると商店街がまた見えてきました。近鉄南大阪線布忍(ぬのせ)駅の前を通ります。

時間は4時半を過ぎていました。かなり疲れ始めていましたので,このままこの駅で始発を待てばすぐ橿原神宮前まで行けるなあ~という誘惑を振り払い先に進みます。
松原市街地を抜けると羽曳野(はびきの)市に入り,しばらく行くと雄略陵古墳の池の周りを通ります。

万葉集の冒頭の長歌を詠んだとされる雄略天皇の墓とされる古墳がここにあるのはこの地が「そらみつやまとのくに」との近さを感じさせます。
そこからすぐ藤井寺市に入ります。藤井寺市は,私にとって以前プロ野球球団として存在してた近鉄バッファローズのホーム球場があった場所くらいしか印象に残っていません。ただし,こんな立派な家が街道沿いに続きます。

藤井寺市内で長尾街道はまた県道12号と合流します。このあたりになると朝が白み始め,徹夜で歩いたのとだんだん上り勾配がきつくなってきたため疲れがさらに溜まってきました。
そこへ近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅が見えてきて「ここで電車に乗れば楽になるやんか」という今回一緒には連れてこなかった天の川君が誘惑したら負けそうに状況をじっと我慢して進みました。

近鉄道明寺駅付近の石川(いかわ)橋を越えて,更に進むと柏原市の近鉄大阪線河内国分(かわちこくぶ)駅まできました。

ここでも「大和八木駅で乗り換えれば,...」という誘惑を振り払い,広い国道165号を南行します。
道の昇り勾配はますますきつくなり,なかなか体が前に進みません。
藤井寺市を過ぎ柏原(かしわら)市に入り近鉄大阪線大阪教育大前駅までくると山間部で歩道がほとんどありません。

しかし,車はピュンピュン飛ばして私のすぐそばを走りすぎます。この車の中に,もしかしたら昨夜(土曜の夜)からずつと飲酒して帰る運転手がいるかもしれないと思うと結構強い恐怖心が湧いてきました。呼気にアルコールを検出するとエンジンがかからない自動車を発明してほしいと正直思いつつひたすら車に気を付けながら歩きました。
ほどなくすると奈良県香芝(かしば)市との県境に差し掛かり,ここで後は下りだけと思っていたら,また田尻峠を越えがまっています。

そして峠を下ったと思ったら穴虫という所から目的地の二上山駅までの最後のだらだらとした昇りは本当につらく長く感じました。
ようやく二上山駅に着いたのは朝7時近くになっていました。

ホームのベンチに倒れこみ,次の大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が謀反の疑いで処刑されたのを受け二上山(ふたかみやま)を詠んだ有名な挽歌を思い出す余裕は私にはありませんでした。

うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ
<<この世の私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>


次回は橿原神宮前から帰宅までをお伝えします。
2013夏休みスペシャル‥「明日香を眠さと暑さに耐えてひたすら歩く」に続く。