2016年4月30日土曜日

改めて枕詞シリーズ…うつせみの(3:まとめ) 他人はあなたの普段と違う行動を見ている?

2016年もGWに入りましたね。忙しくでなかなかゆっくりする時間がなかったのですが,少しだけ羽を伸ばしています。
さて,枕詞「うつせみの」の最後は,人の噂に関する万葉集の和歌を集めてみました。
特に若い男女の仲の噂です。貴族たちがそういった和歌を詠み,たしなんだのは,幼少のときから正しい日本語(やまと言葉)を身に着けるための教育手段として作歌を教えられていた可能性があると私は感じます。
東歌防人の歌をみれば分かりますが,地方の若い人たちも上手い/下手はあったとしても和歌が詠めるのであれば,和歌の作歌教育は受けている可能性が高いと思われます。
万葉集は,上は天皇から下は乞食までの和歌が治められているということは,和歌に対する教育が多くの階層の人たちに行われていたことに私は注目したいのです。
そして,その作歌教育の内容における最低ラインは基本的に貴賤の隔てがないとすると,共通的に教育が行なわれていたのでしょう。
その教育の結果として,万葉集を編むことができたとしたら,歴史には残っていないどんな人がその教育を考え,実行に移したのか,その背景に大きな興味をもつのです。
私はオリンピックなど大きなイベントの素晴らしい演出やエンターテインメントを見て感動することも当然あります。
ただ,目に見える部分ではないところでどんなスタッフが本番の支援や準備段階で動いているかがいつも気になるのです。彼らの多くは公式記録には残らないかもしれません。
そんなスタッフたちの優秀な働きがなければ,いくら有名タレントを担ぎ出しても高度なイベントの成功は難しいかもですね。
さて,最初は詠み人知らずの短歌です。

うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けりともなし(12-3107)
うつせみのひとめをしげみ あはずしてとしのへぬれば いけりともなし
<<(世の中の)人目が多くあり,お逢いしないようにして年が過ぎていくことは生きている意味を感じないくらいだ>>

今で言えば有名タレントの男女が人目を避けて付き合っているような状況でしょうか。
これがいわゆる不倫となれば,ますます人目を避けなければいけないのかもですね。よくわかりませんが..。
次の詠み人知らずの短歌などはもっと危ない間柄でしょうか。

心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも(12-2932)
こころにはもえておもへど うつせみのひとめをしげみ いもにあはぬかも
<<心が燃えるほどあの人を恋しているのに,(世の)人目がいっぱいで,いつまでも逢えないままでいるのか>>

なかなか逢えないほど逢いたいと思うのは,無粋な話ですが,私が大学で専攻した経済学でいう稀少価値の原理ですね。
<希少性に価値がある>
レアなほど価値を感じる。なかなか逢えないから逢うことに対し大きな価値を感じる。
逆に,スマホでお互いの声が聞けたり,お互いの動画がいつでも見られる状況では,恋人同士でもただ逢うだけというのば価値が下がってしまっているのかもしれませんね。
だから昔の方が良かったなんて言うつもりはありません。ただ,そんなコミュニケーション手段が高度化した今でも孤独感に陥る人は多いと聞きます。
結局,人が孤独感から解放される状態とは,楽しいと感じる時間を共に過ごせる人がたくさんいることが必要なのかもしれません。
最後に紹介するのは,相手の言葉がどこまで本心か(自分のことを恋しいと思っているのか)を確かめようとする詠み人知らず女性が詠んだ短歌1首です。

うつせみの常のことばと思へども継ぎてし聞けば心惑ひぬ(12-2961)
うつせみのつねのことばと おもへどもつぎてしきけば こころまどひぬ
<<世の中のどなたに対しても普通に仰る言葉と分かってはおりますが,何ども「好きだ」と仰られるのを聞けば,心が乱れてしまいます>>

こうやって,この短歌の作者は相手の男性の気持ちを探ろうとしているのでしょう。
さて,今は男女平等の世の中です。相手の女性の本心がどうなのか,探る手立てを男性も熟練するためにいろいろ練習してみる必要があるのではないでしょうか。
女心が分からないと何もしないで待っているだけでは良い女性は見つかりません。一発で決める事ばかり考えず,いろいろ試しにウィットに富んだ問いかけをしてみませんか?
改めて枕詞シリーズ…あしひきの(1)に続く。

2016年4月26日火曜日

改めて枕詞シリーズ…うつせみの(2) ずっと一緒にいたい気持ちは世の中が許さない?

仕事の期初の忙しさやソフトウェア保守関連の所属学会の活動が忙しく,アップがしばらく滞ってしまいました。
<世の中の変化に無頓着な人>
最近の話ですが,世の中の大きな変化に気づかず,自分の考え方が世の中の実態から大きく遊離してしまっていることにまったく無頓着な人がまだまだいることを改めて知る事態に遭遇しました。
そういう人たちは世の中に何か絶対的なモノがあることを期待し,それを信じて生きたいと思う人なのかもしれません。しかし,今の激変の世の中では,サーフィン(波乗り)のようにさまざまな世の中の変化を予測し柔軟に対応できる柔らかい頭と能力が必要なのだと私は思うのです。
頭の固く,気が付いた時には変化の影響をまともに受け,苦労している人が多いのが本当に残念です。何とか気づかせてあげたいと考えるのですが,ご本人の高いプライドがそれを許さないようでなかなかうまく行きません。
<本題>
さて,枕詞「うつせみの」の2回目です。
前回の最後の短歌は大伴家持の側室が亡くなったことを悲しむものでしたが,今回の最初は家持の正室となる坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)が家持に贈った短歌からです。

玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻きかたし(4-729)
たまならばてにもまかむを うつせみのよのひとなれば てにまきかたし
<<玉だったら手に巻いてもいいけど,でもこの世の人だとね,(うるさく詮索するので)手に巻く(あなたのことを言う)わけにもいかない>>

この「うつせみの」は「世の人」に掛かると考えられます。
<万葉時代は情報戦の時代?>
「世の人」は何を見ていて,何を言うか分からない。意外と万葉時代は情報が大きな価値を持つ時代だったのかもしれません。
男女関係も含め,他人より早く,誰も知らない情報を入手し,しかるべき人に伝えて手柄を得ることができたのは,今とあまり変わらないように思います。
実は,情報というものは隠せば隠すほど,その価値は上がる。逆に,多くの人に知られれば知られるほど情報の価値は下がる。世の中が平和で無用な競争社会ではないと情報は隠されません。
江戸時代,旅の旅籠の部屋は襖(ふすま)で仕切られただけでした(鍵もありません)。
また,襖の上にある欄間(らんま)は通気性をよくするために彫で開けられ,欄間から隣の部屋の音や寝息がよく聞こえる状態でした。
こんな状態では安心して寝ることもできなかったかというとそうでもないようで,隣の部屋の人が危害を加えたり,強盗をしたりすることがないという安心感が双方にあれば何の問題もなかったのかもしれません。
山小屋のような雑魚寝よりはマシだったのでしょう。
次は家持が大嬢に返した短歌です。

うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む(4-733)
うつせみのよやもふたゆく なにすとかいもにあはずて わがひとりねむ
<<この世は再びということはあるのだろうか? どうしてあなたに逢わずに一人寝られましょう>>

この世に再び生まれてくることはできない。だから,すぐにでも逢いたいという気持ち表れでしょうね。大嬢はこの短歌を受取って,どう思ったのでしょうか。結果は,二人はめでたく結ばれるのです。
次は詠み人知らずの女性が蝦夷征伐に出陣する夫との別れを詠んだ短歌です。

うつせみの命を長くありこそと留まれる我れは斎ひて待たむ(13-3292)
うつせみのいのちをながく ありこそととまれるわれは いはひてまたむ
<<あなたの命が長くあってほしいと京に留まる私は神に祈ってあなたの無事な帰りを待っております>>

京から辺鄙な蝦夷に出兵して帰ってこなかった人の噂もたくさんあったのでしょう。何もできない妻としては,ただただ祈るしかないのです。
<今も変わらない派遣自衛隊員の家族の祈り>
さて,日本の今の自衛隊も国際貢献という名のもとに海外派遣がこれから多くなるとともに,その任務もますます危険と隣り合わせなものになる可能性があります。
それが日本の国を間接的に守ることになることは分かっていても,派遣される隊員の奥さんの気持ちにはこの短歌と似たものがあるのかもしれません。
どんなに危険レベルの情報とそれを防ぐ情報(手立て)が整備されても,どのようにも対応のしようがない人(家族など)がいます。
ひたすら無事を祈り続ける行為は,たとえ世の中が「うつせみ」(無常)ではなくなり,非常に確定した状態となったとしても,不要とはならないのだろうと私は思います。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(3:まとめ)に続く。

2016年3月28日月曜日

改めて枕詞シリーズ…うつせみの(1) 世の中も人もいずれは変わっていく?

今回万葉集で,枕詞「うつせみの」を取りあげます。
<世の中は無常。だから人間は絶対的なものを求める>
「うつせみ」とは,「この世に生きる人のことを表す」と国語の辞書には載っています。
生きている人はいずれ死ぬ,どんなに若々しく力強い人でもいずれ年老いる,人の心はいつまでも同じだと限らない,少し長い目で見れば「人」は無常なものとなるようです。また,「人」が暮らす「世の中(世間)」も「人」が無常であるがゆえに無常(ダイナミックに変化)とならざるを得ないと演繹できそうです。
他方で,「人」はいつまでも変わらず,ブレず,頼りになり,絶対的なモノを求めたいと願うことも事実です。それを「神」と名付けて崇めようとしたり,加護を受けよう(救いをもとめよう)としたりする人も少なくないでしょう。
<無常を楽しむ>
そのような中で,「世の中」や「人」の無常状態がどんなものかを分析し,その変化を予測し,変化を楽しむという生き方にもあるかと私は思うのです。その変化の予測精度を高めるには,「世の中」の動きや「人」の心理についてのより多くの情報収集が必要となるでしょう。
情報収集では,形式知(本,雑誌,ニュース等)だけの収集ではなく,積極的により多く社会への貢献的な経験を積むこと,多様な「人」との交流から得られる情報も貴重だと感じます。
そういったチャレンジ行動の中に,実は安定した,ブレることがない自分が形成されていく,そんな生き方が今の変化の激しい時代に合ったものかも知れないと私は思うのです(実践はそう簡単ではありませんが)。
<本題>
さて,本題の「うつせみの」の枕詞を使った万葉集の和歌を見ていきましょう。
まず,巻1の最初のほうに出てくる麻續王(をみのおほきみ)が伊良虞(いらご)の島に流罪となったときに詠んだと伝えられる短歌です。

うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す(1-24)
うつせみのいのちををしみ なみにぬれいらごのしまの たまもかりをす
<<(世の中で今も生きている)命を惜しんで(繋ぐために),波に濡れようとも伊良虞の島の玉藻を刈って食料とするのだ>>

この前の短歌は,その時に伊良虞の島にいた人が,麻續王に海人(漁業者)になって,これから玉藻を刈って行かれるのですか?と問う短歌を発しています。それに麻續王が答えたのが,この短歌です。
まるで,流罪となった麻續王に地元の記者が「お気持ちはいかがですか? これからどうされるのですか?」と無神経な質問し,その反応をゴシップ記事として京に伝えようとしているみたいですね。王と呼ばれた人の末路を気にする人は万葉時代でもたくさんいたのかもしれません。激変の時代,「明日は我が身」かもしれませんから。
次は,「うつそみの」という発音が異なっていますが,同じ枕詞と解釈されている大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悼む有名な短歌です。

うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(2-165)
うつそみのひとにあるわれや あすよりはふたかみやまを いろせとわがみむ
<<この世に生き残った私は明日からは二上山を弟だと思って見るのでしょうか>>

大津皇子は天武天皇の皇子であっても,異母である持統天皇に粛清されてしまうのです。
このような短歌は,時の為政者(持統天皇系)にとっては邪魔なものでしかないのですが,万葉集に残されたのはどうしてでしょうか。
それは,万葉集の編者の意図だと思うのが自然だと私は感じます。
編者は少なくとも天武・持統系の崇拝者ではないことは確かだと私は想像します。そういう目で万葉集を見ていくと興味深い面も見えてくるのかもしれませんね。

今回の最後は,大伴家持が21歳前後のとき,亡き妻(最初の妻?)を悼んで詠んだ短歌です。

うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも(3-465)
うつせみのよはつねなしと しるものをあきかぜさむみ しのひつるかも
<<この世の中は無常であると知っているつもりだが、秋風が寒く感じ(早く亡くなった妻を)偲んでしまうなあ>>

名家大伴家としては将来を期待される家持には,最初の妻として年上の女性と結ばれることがあったかもしれません。若き家持の面倒を見てくれた妻が亡くなってしまったことで,世の中の果敢なさを改めて知ったという気持ちの表れでしょうか。
大切な人が亡くなってしまうことを目の当たりにすることで,「世の中」の無常さ,「人」の果敢なさをしっかり受け止め,その結果として「世の中」や「人」の大切さを感じることができると私は思います。
今,「世の中」や「人」を大切にせず,「○以外はすべて×という二元的な否定」,そして「破壊」と「殺戮」を自分の主張を認めされる有効な手段としている状況を無くす必要性を私は強く感じます。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(2)に続く。

2016年3月21日月曜日

改めて枕詞シリーズ…いさなとり(2:まとめ) 海は別れの場,死の危険も潜む場?

枕詞「いさなとり」の1回目(前半)は短歌,旋頭歌,長歌のそれぞれで使われている例を万葉集から紹介しました。後半はすべて長歌で使われている例を紹介しますが,長い長歌ばかりですので,それぞれ一部の紹介に留めます。
まず最初は,柿本人麻呂石見(いはみ)の国で仲の良い妻の一人とされている依羅娘子(よさみのをとめ)との別れを詠んだ長歌です。

鯨魚取り海辺を指して 和多津の荒礒の上に か青なる玉藻沖つ藻 朝羽振る風こそ寄せめ 夕羽振る波こそ来寄れ~(2-131)
<~いさなとりうみへをさして にきたづのありそのうへに かあをなるたまもおきつも あさはふるかぜこそよせめ ゆふはふるなみこそきよれ~>
<<~海の沖から海辺に向け和多津の荒磯の上に青々と生える美しい藻,そこでは朝は強い風が寄せ、夕方には強い波が寄せて来る~>>

この長歌は,美しく藻が強い風で寄ってくるように,いつも寄り添っていた妻と別れなければならない感情を詠っています。「いさなとり」を前に置くことによって,海辺の長さと海の大きさを表していると私は感じます。妻と愛し合った時間の長さと寄り添って生きた幸せの大きさを示すのに「いさなとり」は相応しい枕詞でしょう。
次も人麻呂の長歌です。人麻呂が讃岐(さぬき)の国の沙弥島(さみねのしま)に行ったとき,海岸で横たわる死人を見て詠んだ1首です。

沖見ればとゐ波立ち 辺見れば白波騒く 鯨魚取り海を畏み 行く船の梶引き折りて をちこちの島は多けど 名ぐはし狭岑の島の~(2-220)
<~おきみればとゐなみたち へみればしらなみさわく いさなとりうみをかしこみ ゆくふねのかぢひきをりて をちこちのしまはおほけど なぐはしさみねのしまの~>
<<~沖を見るとうねりが立ち,岸辺を見ると白波がいっぱい立っている。大海を恐み,航行する船の梶を引込め,あちらこちらに島は多いが,名も麗しい狭岑の島の~>>

この島のごつごつした岩床に臥す死人の家を知っていれば家族に知らせることもできるが,何も答えてくれない。キミの奥さんはキミの帰りを心待ちにしているだろうにと悔やみの言葉を詠んでいるのです。
今も飛行機事故で犠牲になる人がいますが,万葉時代は海難で死ぬ人が多かったのでしょう。捜索もできず,流れ着いた死骸で事故の様子を想像するしかなかった時代です。でも,より豊かな暮らしをするために,ヒトやモノを輸送したり,漁業をする船(舟)と船乗り(海人)は,いつも危険と隣り合わせの職業として必要だったでしょう。そして,その人たちによる交易や生業によって,別に潤う人が多くいたに違いありません。
<経済学的に見て見れば>
経済が発展する過程で,事故などによる犠牲者をゼロにすることは不可能ではないですが,ゼロにすることイコール経済の成長を止めることにほかなりません。経済の成長が止まっても犠牲者をゼロにすべきと考える人がいるかもしれません。しかし,経済の成長を止めると,間違いなく経済学用語でいう縮小再生産(リセッション)に入ります。
その結果として,事業が破たんして多くの失業者を出し,その結果ローンが払えない,食べるものが買えない,医療費が払えないなどで自ら命を絶つ人が増える可能性が高くなります。リセッションも犠牲者を出すことになります。
亡くなられた方のご遺族の悲しみの深さを理解し,場合によっては寄り添って助けることも必要かもしれません。ただ,その犠牲が出たことだけをとりあげ,人類の未来をマクロに豊かにする研究や投資を否定したり,何でも反対するだけという行為に私は賛同できません。
<万葉集から見える万葉時代の社会>
万葉集に私が興味を持つことの一つとして,万葉時代には今の日本の礎となる大改革を当時の為政者が行い,その結果のメリット/デメリットがどんなものかを想像できる情報がちりばめられているからなのです。たいへんな痛みを伴ったけれども,結果として今の日本文化はその改革が無かったら,もっと違ったものになっていたかもしれないだけでなく,日本という国が今はないかもしれないと私は思うのです。
特に,律令制度や大陸の技術の導入,そして仏教の導入の影響は大きかったと私は思うのです。
今,起源がインド,中国,朝鮮半島という何らかのものでも,日本が導入し,独自の発展と高度化(改善)により,本家よりも魅力的になっているモノが多くあります。
さらに,戦後においてもアメリカの品質管理やコンビニのノウハウが日本に導入され,本家よりも優れた状態となり,逆にその成果が世界に広まっている状況です。
さて,最後は笠金村(かさのかねむら)が越前の敦賀湾の奥にある港から船に乗った時に詠んだ長歌です。

越の海の角鹿の浜ゆ 大船に真楫貫き下ろし 鯨魚取り海道に出でて 喘きつつ我が漕ぎ行けば~(3-366)
こしのうみのつのがのはまゆ おほぶねにまかぢぬきおろし いさなとりうみぢにいでて あへきつつわがこぎゆけば ~>
<<越前の敦賀の浜を通って,大船のメインオールを下して大きな海道に出て,オールを漕ぐ水夫の喘ぎ声を聞きながら進むと~>>

船旅は始まったばかりなのでしょう。行き先は越前の北の方か,能登半島を周って越中なのかは分かりませんが,この後に金村は南の方にある大和に連なる山を見て,望郷の思いを詠っています。
私は京都に住んでいた中学生・高校生の頃,何度も敦賀湾に海水浴に行きました。そのとき,苫小牧との間を結ぶ大型フェリーを見て,ここが海の交通の要所であることを感じていました。
そのため「いさなとり」が枕詞としてこの長歌で使われていても,特に違和感を感じることはありません。
改めて枕詞シリーズ…うつせみの(1)に続く。

2016年3月14日月曜日

改めて枕詞シリーズ…いさなとり(1) ♪海は広いな~,大きいな~

万葉集には枕詞と呼ばれる言葉が出てきます。
枕詞という分類は万葉時代にあった訳では無く,後世の人が名づけた分類用語です。その言葉自体の意味よりも,それに続く詞を導く言葉として修飾の一形態として分類されているようです。
しかし,枕詞を和歌が伝えたいことの修飾語あり,読み飛ばしても作者の意図と大きく違わないという考え方には私は同意しかねます。枕詞を文学的表現の技法として見ないからです。
万葉集の作者が表現をどう考えて,あくまで後世の人が分類した「枕詞」を使ったか。あまり先入観を持たずに見ていこうとするのが,情報を扱うIT技術者が書くこのシリーズの目的です。
なお,万葉集で枕詞と呼ばれる言葉がいくつも出てくるのは長歌であるため,長歌の一部のみを引用する場合もあることをご了承ください。
今回は「いさなとり」という「海」や海に関連する言葉に掛かる枕詞を2回で渡り取りあげます。
「いさな」とは今「鯨(くじら)」と呼んでいるものです。漢字では「鯨魚」と書きます。
まず,以前にも紹介した有名な旋頭歌からです。

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ(16-3852)
いさなとりうみやしにするやまやしにする しぬれこそうみはしほひてやまはかれすれ
<<大海は死ぬのか? 山々も死ぬのか? 死ぬからこそ,海は潮が干いて,山は枯れる>>

「いさなとり」が枕詞として使われているのは,旋頭歌として最初の5字を整えるためだけでないと思います。やはり,その後に続く「海」は鯨が獲れるような大海をイメージしているのだろうと思いたいですね。
この旋頭歌の意味は,常にあるようなものでも死ぬのだという仏教でいう無常観を意識して詠まれたもとと私は解釈します。この考えを暗いと考えるのではなく,世の中は変化をしていること,その変化の先をしっかり読み取って,生きることが重要と諭している和歌だといえそうです。
次は天平2(730)年11月に大宰府から大納言となって帰任するため,瀬戸内海を船で移動する道中の大伴旅人に随行した付き人が詠んだ短歌です。

昨日こそ船出はせしか鯨魚取り比治奇の灘を今日見つるかも(17-3893)
きのふこそふなではせしか いさなとりひぢきのなだを けふみつるかも
<<昨日に船出して,今日には比治奇の灘が見えるところまできましたね>>

比治奇の灘は瀬戸内海のどこかは定かではありませんが,位置的には周防灘が一番合っているように思います。周防灘は瀬戸内海でも最も広く,大海に出たような雰囲気から「いさなとり」の枕詞が使われたのかもしれません。冬の季節風に乗って進めば,博多あたりから出向して,翌日には周防灘を航行ということも十分可能でしょう。
この短歌の作者は,帰京の旅が順調であることを示して,旅人を始め,同行者を元気づけようとしたと考えることができそうですね。
今回の最後は,車持千年(くるまもちのちとせ)が天皇と難波の宮に行幸した際,住吉(すみのえ)の浜を讃嘆した長歌です。

鯨魚取り浜辺を清み うち靡き生ふる玉藻に 朝なぎに千重波寄せ 夕なぎに五百重波寄す 辺つ波のいやしくしくに 月に異に日に日に見とも 今のみに飽き足らめやも 白波のい咲き廻れる住吉の浜(6-931)
いさなとりはまへをきよみ うちなびきおふるたまもに あさなぎにちへなみよせ ゆふなぎにいほへなみよす へつなみのいやしくしくに つきにけにひにひにみとも いまのみにあきだらめやも しらなみのいさきめぐれるすみのえのはま
<<浜辺は清く,なびき揺れて生えている玉藻に,朝なぎにや夕なぎにも幾重も波が寄せている。この岸辺の波のように,何度も何度も月を重ねて日に日に見てもずっと飽き足りることはないだろう。白波の花が咲き続ける住吉の浜は>>

浜辺への枕詞に「いさなとり」を使っているのは,やはり浜辺がずっと続いているほどの規模をイメージしているからだと私は思います。
浜辺には,綺麗な海藻がたくさん生えていて,それが朝なぎ,夕なぎに寄せるさざ波にきらきらと輝きながら揺れる姿は,海が無い平城京から来た人たちにとって,心安らぐ光景だったのでしょう。
住吉の浜は,万葉時代では「リゾート地」だったのでしょうか。鯨が獲れるような海だけれど,本当にきれいな風景の浜辺もあるよということを作者は表現したかったのではないか私は想像します。
改めて枕詞シリーズ…いさなとり(2:まとめ)に続く。

2016年3月5日土曜日

当ブログ8年目突入スペシャル(2)…八からは多数と同じ?

我が家の庭に20年ほど前から植えてあるサクランボの木の花のつぼみが昨年よりもはるかに多く膨らんできました。
今年はより多くの実が成りそうで楽しみにしています。


8年目突入スペシャルの最後は,「八」という数字について万葉集を見ていきます。
万葉時代では,「七」は「秋の七草」や仏教の経典(法華経や無量寿経)に出てくる「七宝(しっぽう)」のように,7つの名前がはっきり定義されいる。
しかし,「八」となったとたん,8種類の名前が何かはどうでもよくなって,多くという意味に近づいてきます。
八方という言葉も,北,東,南,西と北東,東南,南西,西北の八つの意味を表すより,八方美人,八方ふさがり,八宝菜のように8つの内容は気にしない使われ方が急に増えます。
万葉集で八の使われ方の例をいくつか見ます。
次は,遣新羅使対馬に着いた時に詠んだ短歌です。

竹敷の宇敝可多山は紅の八しほの色になりにけるかも(15-3703)
たかしきのうへかたやまは くれなゐのやしほのいろに なりにけるかも>
<<対馬の竹敷にある宇敝可多山は,黄葉が紅色を何度も染めたような鮮やかな色になっている>>

「八しほ」というのは,何とも染色液に漬けることを指します。この場合8回という意味ではないようです。
次は,天平16(744)年に難波の地の橘諸兄(たちばなのもろえ)宅で開かれた宮中の人たちが集まる宴である肆宴(とよのあかり)で元正(げんしやう)天皇が橘家を寿ぎ詠んだ短歌です。

橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を(18-4075)
たちばなのとをのたちばな やつよにもあれはわすれじ このたちばなを
<<めでたい橘の中でも,たくさん実ったこの橘。いつの代までも私は忘れないだろう,この橘を>>

この短歌の「八つ代にも」は「何代にも」という意味で使われていると私は思います。
最後は,11年後の天平勝宝7(755)年に丹比国人(たぢひのくにひと)宅で催された宴席で橘諸兄が国人の健勝を願って詠んだ短歌です。

あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(20-4448)
あぢさゐのやへさくごとく やつよにをいませわがせこ みつつしのはむ
<<紫陽花が八重に咲くように何代も健勝でいらしてください。紫陽花を眺めては貴方を思い出しましょう>>

この八重も八つに重なっているわけではなく,花びらが多く重なっているという意味に近いと感じます。
そのほか,「八」を多くの意味とする言葉としては万葉集には次のものが出てきます。

八尺(やさか)‥長いさま
八島(やしま)‥多くの島の意。日本の国
八十(やそ)‥もっと多い,多くの
八度(やたび)‥何度も
八千(やち)‥非常に多くの
八衢(やちまた)‥多くの分かれ道(市街地)
八百(やほ)‥相当多くの

これで,当ブログ開設8年目スペシャルを終わります。
次回からは,しばらくの間万葉集で使われる枕詞を順次紹介し,その役割と時代背景について考えていきたいと思います。
改めて枕詞シリーズ…いさなとり(1)に続く。

2016年2月28日日曜日

当ブログ8年目突入スペシャル(1)‥万葉時代の人々の宗教観はいかに?

いよいよ,このブログも満7年を過ぎ,8年目に入ろうとしています。
ここまで来ると,何か無理してブログを書くというより,私にとって生活の習慣になってきているのかもしれません。ただ,いいかげんに書いているかというとそうでもありません。もう一人の自分がいて,他人の目としておかしいところがないかをチェックしてからアップしているつもりです。
それでも,後から表現に誤解を与えそうだと感じて直す,間違いだと気付いて直している個所もあります。そのあたりの努力を感じて頂けると嬉しいですね。
さて,前年の7年目突入スペシャルでは万葉時代に生まれたであろう新語について述べました。
<万葉集と宗教>
その時に候補としてあげておきながら触れていなかった宗教用語について,今回は少し触れることにします。
今,何で宗教用語?」「宗教なんて自分の生活にとっていちばん遠い世界の話さ」「初詣や旅行などで有名な寺社を訪れた時,御利益があるというので(みんながそう言っているので)お参り,おみくじを引いたり,御朱印を押してもらうことはあるけど,教義や宗派の違いに興味なんかはない」などのコメントをするくらいが,宗教を職業にしていない現代の日本人(※)の多くの感想なのかもしれません。
 ※ あえて日本人と書いたのは,日本以外の国やで暮らす人々の中には宗教が日常生活の中に強く入り込んでいるところもたくさんあるからです。

<万葉時代は外来の宗教が怒涛のように入ってきた>
1,300年前の万葉時代には宗教に関するエポックが発生し,人々の精神的支柱となる根本の考え方に大きな変化が起こった時代だったと私は考えます。
万葉時代より前の時代では,大陸からの文化の流入がまだ少なく,せいぜい一部の農業,土木,輸送などに関する技術が民間や地方レベルで流入していた程度だったのではないかと私は想像します。
しかし,万葉時代に入り,遣隋使遣唐使遣新羅使などを派遣し,大陸や朝鮮半島にある技術的な要素だけではなく,広い意味の文化や思想を国をあげて流入させ,日本にも根付かせようとした時代だったと私は思います。
その中で,宗教的な教えの流入は,それまで信じていた日本古来のいわゆる神道(神道は後からつけられた名前)に対する人々の信仰心に大きな影響を与えたのは間違いないと私は考えます。宗教の流入を図った万葉時代の為政者は,神道を否定するのではなく,そこに示される神と外来宗教との融合を考慮しつつ行ったように感じます。
たとえば,各地にある八幡(やわた,はちまん)神社に祭られている八幡神は,仁徳天皇の前の天皇とされる応神天皇が神として祀られているといいます。八幡神は万葉時代,武家の守護神として,武家の熱い信仰を受けたが,伝来した仏教で説かれる守護神として日本では外来した仏教との関係が非常に強くなっていたようです。
奈良時代の後半には,八幡神は八幡大菩薩とも呼ばれるようになり,当時の日本仏教で,仏の次の境地である菩薩の一員(それも大幹部級)となってしまったのです。その結果か,各地の八幡神社には,神宮寺と呼ばれる寺院も配置されるようになったのです(神社の中にお寺が存在!)。
当時の日本の為政者が広めようとした仏教には,守護神(諸天)の存在が説かれていたため,日本の神々も仏教の守護神として排斥せず,仏教と仲良く導入(神仏習合)することができたのだろうと私は思います。
それでは,万葉集で仏教にまつわる和歌を紹介しますが,仏教の思想を万葉集の和歌に広く取り入れて詠んだの歌人の一人は山上憶良です。
次は,憶良が自分の子供「古日」が病気で死んだことに対する悲しみを詠んだ長歌の反歌です。

布施置きて我れは祈ひ祷むあざむかず直に率行きて天道知らしめ(5-906)
ふせおきてわれはこひのむ あざむかずただにゐゆきて あまぢしらしめ
<<布施を捧げ祈ります。惑わず,まっすぐに行ける天への道を教えてやって下さい>>

布施は仏教用語で,人に施すことを表す言葉です。
天道は死んで仏に成るための道を表し,布施はいくらでもするから,その道から外れ迷界に落ちないようにと,父である憶良は願ったのでしょう。
次は,奈良県明日香村に万葉時代大寺院としてあったという川原寺の仏堂の裏に置かれてあった琴に書かれていたという短歌2首を紹介します。

生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも(16-3849)
いきしにのふたつのうみを いとはしみしほひのやまを しのひつるかも
<<生と死の二つの海(今の苦しい生活)が嫌で,潮干の山(あの世)のことが偲ばれる>>

世間の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも(16-3850)
よのなかのしげきかりほに すみすみていたらむくにの たづきしらずも
<<世の中の煩わしい仮の住家に長く住んでいると,いずれ行く国(あの世)がどんなものかもわからない>>

この2首は世の中は穢(けが)れていて,生死(しょうじ)の苦しみに満ちている。「生き死の」は生きた時から死ぬまでの一生という意味で,仏教の別の経典で人間は一生のうちに生老病死という四つの苦しみを受ける運命にあると説いていることをベースに詠んだと私は思います。
万葉時代は仏教のさまざまな経典の教えが一度に大量に入ってきて,どの経典から理解するかが,当時の人たちにとってとても大きな課題だったのだろうと私は想像します。
仏教の経典の中には,世の中が穢れていても,その中で生きていく中で仏に成れると説くものもあります。すなわち,死んで仏に成る(成仏する)のは方便(真実ではなく仮の教え)であると説く経典もあるのです。
私は,決して死んでからなるものではなく,生きている間に仏に成るための修行をして,仏に近づくという考え方に賛同しています。死後に仏に成るということが正しいなら,苦しみから解放されるのは死ぬしかないという理論になってしまいかねないかと思うからです。
当ブログ8年目突入スペシャル(2)に続く。

2016年2月21日日曜日

今もあるシリーズ「池(4:まとめ)」…水鳥にとって池は天国!

「池」に関するテーマの最終回は,万葉集から池に集まる鳥について取り上げます。
今は全国各地の池にハクチョウが飛来するシーズンです。新潟県には10箇所以上のハクチョウが飛来する湖沼や池があるようです。関東圏の茨城県でも水戸市にある大塚池を始め,飛来数は新潟県より比較的少ないですが,ハクチョウが飛来する池や沼が複数あるようです。
そのほか,北海道や東北の湖沼や池にもハクチョウが飛来して,貴重な冬の観光資源として訪れる人の目を楽しませていることでしょう。
さて,万葉集で池に来る水鳥についてどんな種類が出てくるでしょうか。まず,池で遊ぶ鴨を詠んだ丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)の短歌1首です。

鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに(4-711)
かもどりのあそぶこのいけに このはおちてうきたるこころ わがおもはなくに
<<鴨鳥が遊ぶこの池に木の葉が落ちて浮かぶような浮いた心でわたしはあなた慕っているわけではないのです>>

相手に対する強い思いを詠んだ作者には大変失礼ですが,ここでは「鴨」に注目します。
季節は晩秋。飛来した鴨が水に浮かびながら羽をバタバタすると鴨の身体が動き水面に波ができます。それに木の葉が落ちると,水面に浮いた木の葉は揺れ動きます。こんな情景がこの短歌から伝わってきます。
次は,「鳰鳥(にほどり)」(今はカイツブリと呼ぶ鳥)を詠んで,聖武(しやうむ)天皇へ献上したという坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の短歌1首です。

鳰鳥の潜く池水心あらば君に我が恋ふる心示さね(4-725)
にほどりのかづくいけみづ こころあらばきみにあがこふる こころしめさね
<<にほ鳥の潜る池の水よ,心があるなら私が大君を恋ふる気持ちを伝えてください>>

この池は聖武天皇も好んで見に行くところなのでしょうか。池の水は透き通っていて鳰鳥が潜って何をしているか透けて見える。だから私の心の中も知って,天皇に思いを透かして示してほしい。郎女はそんな気持ちを表現したのだと私は思います。
カイツブリは潜って魚などを捕るのが得意な鳥ですが,当時からそのことは知られていたと考えてもよいでしょうね。
鳥の名はないのですが,鴨でも鳰鳥でもなさそうな鳥を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし(10-2166)
いもがてをとろしのいけの なみのまゆとりがねけになく あきすぎぬらし
<<妻の手を取るという取石の池の波の間を過ぎた鳥の声が急に異様に鳴り響いた。秋が過ぎたようだ>>

異様な鳴き声が秋に渡る前に鳴く鳥となると,夏に日本に来て,冬に南に帰る水鳥を指しているのかもしれません。どんな鳥なのか想像してみるのも面白いですね。
これで「池」をテーマに万葉集を見ていきましたが,「池」に関する和歌だけでも,万葉時代の状況が万葉集からいろいろ分かりました。
日本で見ることができる自然の現象や生き物の生態の中で,万葉時代から認識されていたものを整理し,観光資源として活用することで,海外からくる人々にアピールできるポイントになると私は感じます。
さて,次は,このブログが満7年続き,8年目に入る節目として,スペシャル記事をアップします。
当ブログ8年目突入スペシャル(1)に続く。

2016年2月14日日曜日

今もあるシリーズ「池(3)」…池の中で生きている植物はどうだ?

「池」の3回目は池の水に生えている植物(水生植物など)を万葉集で見ていきます。
万葉時代に池が多く作られたり,自然の池が憩いの場として注目されるようになってきたためか,池の周りに生えているまたは植えられた植物だけでなく,池の水生植物についても万葉集で詠まれた和歌が出てきます。
たとえば,山部赤人奈良で詠んだとされる次の短歌です。

いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり(3-378)
いにしへのふるきつつみは としふかみいけのなぎさに みくさおひにけり
<<昔からあるの古い堤は幾年も経て,池の渚に水草が生えていた>>

この短歌の題詞には「山部宿祢赤人詠故太上大臣藤原家之山池歌一首」とあるとのことです。
この題詞,亡くなった太政大臣の藤原家の庭園に造られた築山の池についての歌という意味でしょうか。
太政大臣とは持統天皇時代から頭角を現した藤原不比等(ふぢはらのふひと)のようです。
赤人は「藤原家の歴史を感じる」といいたかったのか,それとも「手入れがされていない」といいたかったのか私の想像力では確定ができません。
いずれにしても,水草がどんな種類で,どんな感じで繁茂していたか知たくなる短歌です。
次は,柿本朝臣人麻呂歌集から転載したという池に生息する菱について詠んだ短歌です。

君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも(7-1249)
きみがためうきぬのいけの ひしつむとわがそめしそで ぬれにけるかも
<<君のために浮沼の池の菱を摘んだので,私の染めた袖を濡らしてしまいました>>

の実を茹でるか蒸したものは,万葉時代から健康食として食べられていたようです。
浮沼の池」は島根県大田市にある池との説が有力のようで,そこに旅で訪れたとき,残してきた妻に贈ろうと菱の実を採ろうとしたのでしょう。
そうしたら,私のきれいに染めてある(染めてくれたのは妻)袖が濡れてしまった。
その結果,ますます妻のことが恋しくなったという思いを詠んだ短歌だと私は思います。
ところで,菱形は菱の葉か実の形から名付けられたとといいます。
また,三菱グループのロゴマークは白い菱形が三つで,長い方の1点が同じ位置にあり,それぞれ三方(上,左下,右下)に広がった形をしています。
他の大きな企業グループのロゴマークがある程度の年数が立つと変えられるのに対して,三菱グループのロゴマークがずっと変わらないのは正直すごいことだなと私は感心しています。
ところで,3月のひな祭りには菱餅がひな壇に飾られますが,菱形をした餅なので菱餅と呼ばれるようになったのでしょう。
次は,皆さんが池でよく見るものとして「蓮」を詠んだ女性(詠み人知らず)の長歌です。

み佩かしを剣の池の 蓮葉に溜まれる水の ゆくへなみ我がする時に 逢ふべしと逢ひたる君を な寐ねそと母聞こせども 我が心清隅の池の 池の底我れは忘れじ 直に逢ふまでに(13-3289)
みはかしをつるぎのいけの はちすばにたまれるみづの ゆくへなみわがするときに あふべしとあひたるきみを ないねそとははきこせども あがこころきよすみのいけの いけのそこわれはわすれじ ただにあふまでに
<<剣の池の蓮の葉に溜まっている水がころころとどちらこぼれるか予測できないように,私がどうすれば迷っていると「逢いなさい」と神のお告げがあったの。でも,お母さんは彼に体を許しちゃだめだっていうから,私の心は清隅の池の池の底に沈んだよう。でも,あなたのこと絶対忘れない。本当に逢えるまでは>>

なかなか,具体的な表現の相聞歌ですね。
池に蓮の葉が立派に現れるのは夏です。夏が終わるころに妻問が活発になります。それを待つ女性の気持ちでしょう,この長歌は。
最後は池に生える「菅(すげ)」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

真野の池の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか(11-2772)
まののいけのこすげをかさに ぬはずしてひとのとほなを たつべきものか
<<真野の池に生える小菅を笠に縫わないのに(契りもしていないのに),世間の人は二人の浮き名を立てるものだ>>

は湿地,池,湖沼,川沿いの浅い場所など水が多い場所を好んで生育するようです。
ここで出てくる「真野の池」には,たくさんの菅が生えていたのでしょう。
その菅の小さいのを使って笠を編んで送り合うような深い関係にまだなっていないのに,世間の人はいろいろあらぬことを噂して,二人が愛を深め行くプロセスの邪魔をしていることを嘆いた短歌のような気がします。
このように池に生える植物も多様なものが万葉集に出てきて,当時の人が池に対する見方の多様性が改めて確認できたかもしれません。
今もあるシリーズ「池(4:まとめ)」に続く。

2016年2月8日月曜日

今もあるシリーズ「池(2)」…池のほとりに植えられた木は訪問者に安らぎを与える?

「池」の2回目は,池の周りに植えられていた植物について,見てみましょう。
当時,庭に掘った池やため池の周りには,植物を植えていたことが,万葉集から分かります。
さっそくその例を紹介します。まず,天平宝字2(758)年2月中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)邸の宴で甘南備伊香(かむなびのいかご)が詠んだとされる池の周りの馬酔木からです。

礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも(20-4513)
いそかげのみゆるいけみづ てるまでにさけるあしびの ちらまくをしも
<<磯影の映っている池の水面を照らすように咲いている馬酔木の花が散ってしまうのは惜しいですね>>

清麻呂邸の庭園の池の傍に植えられた馬酔木の白い可憐な花が満開で見事だったのでしょうね。
この前の短歌でも大伴家持が同様にその馬酔木を賛美して詠っています。
さて,次は池の傍に柳を植えることを詠んだ東歌です。

小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも(14-3492)
をやまだのいけのつつみに さすやなぎなりもならずも なとふたりはも
<<小山田の池の堤に挿し木した柳の小枝が,根を張り成長するかどうかのように,この恋が成るか成らないかはあなたと私のふたりが決めることですね>>

当時,も挿し木で増やすことが可能であることを知っており,池の堤に植えられた柳は挿し木で植えられた可能性を示唆する短歌だと私は思います。
それから,この恋人同士が挿した柳が育っていって,二人が結婚し,子供ができ,その子共たちに「この木がお父さんとお母さんが出逢ったときに植えた柳の木なんだよ」なんて話をする光景があるといいですね。
今度は短歌の作者は分からないが,聖武(しあうむ)天皇が池の傍で冬に開いた宴席で阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)が覚えていて,伝誦したという池の松を詠んだという1首です。

池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
いけのへのまつのうらばに ふるゆきはいほへふりしけ あすさへもみむ
<<池のほとりの松の葉先に降る雪は幾重にも積ってほしいですね。明日も見られますから>>

あまり雪が降らない平城京で,珍しく雪が降ったのでしょうか。池の傍で雪見の宴を催したのでしょうね。
池の傍に植えられた松の葉に雪が積もって,普段とは違う美しさを感じたのでしょうか。
最後は,池の傍に生えているケヤキの古名のが出くる柿本人麻呂歌集よりの旋頭歌です。

池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ(7-1276)
いけのへのをつきのしたのしのなかりそね それをだにきみがかたみにみつつしのはむ>
<<池のそばの槻の下の小竹を刈らないでぐたさいな。それだけでもあなたと見て,逢ったときのことを思い出すでしょう>>

恋人と池のほとりのケヤキの木の下で逢ったのでしょうか。
下に生えていた小竹を採って,恋人は渡してくれた。そんな思い出があったのに,それを刈ってしまってはその時のことが偲ばれなくなってしまうという気持ちが私には伝わってきます。
今も公園の池のほとりのベンチは恋人どうしが逢って話をする場所です。また,木蔭を作るためにいろいろな木を植えている状況は,当時は今と同じような雰囲気だったかもしれませんね。
今もあるシリーズ「池(3)」に続く。

2016年1月31日日曜日

今もあるシリーズ「池(1)」…万葉時代,「池」は「生ける」に通じるものだった?

今回から何回か「池(いけ)」にいて,万葉集を見ていきます。
「池」を広辞苑で見ると「土を掘って人工的に水をためた所。自然の土地のくぼみに水のたまった所。」とあります。
広辞苑では,池には人工的に作られたものと自然が偶然作ったものとがあることを説明していることになりそうです。
後者(自然の池)は,長野県上高地にある大正池,同じく長野県白馬村にある八方池,富山県立山室堂にあるミクリガ池リンドウ池ミドリガ池などがその事例でしょうか。
前者(人工に作られた池)は,一般的な言葉として「ため池」,「貯水池」,「遊水地」,「養魚池」(ウナギ養殖では特に「養鰻(ようまん)池」と呼ぶ)などがそれにあたるのでしょう。
万葉時代は,大陸からの新しい文化や建築技法が流入し,貴族や豪族といった富裕層が,積極的に当時としては豪華な住居や集会する場所を建設していった中で,「池」のある造園も盛んになったのだと思います。
また,高度な農業技術の流入もあり,干ばつを防止するたの「ため池」が農地の中や周辺に多数掘られたのだろうと思います。
さらに,それらの「ため池」には,川や湖沼にいる魚(ドジョウコイフナなど)や鳥を生きたまま移住,繁殖させ,タンパク源となる食糧の採取にも利用した可能性があります。
そのため,万葉集に出てくる「池」は人工の池が比較的多く出てきます。
最初は,天武天皇の子である草壁皇子が27歳で亡くなった時(689年),それに対して柿本人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)からです。

嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず(2-170)
しまのみやまがりのいけの はなちとりひとめにこひて いけにかづかず
<<嶋の宮(皇子の邸宅)の池に放し飼いにされている鳥も,皇子の目が恋しくて水に潜ることもしない>>

草壁皇子の邸宅には,立派な庭とその中に鳥を放し飼いにできるほど大きな池があったのだろうと想像できます。
次も人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)ですが,亡くなったのはやはり天武天皇の子である高市皇子(696年)です。享年42歳。

埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ(2-201)
はにやすのいけのつつみの こもりぬのゆくへをしらに とねりはまとふ
<<埴安にある周囲の堤に生えた草で水面が見えないほどになっている沼池の水がどこにあるか分からないように,これからどうしたものかわからず舎人は途方にくれて惑うばかりだ>>

埴安の池天の香具山の近くあったようですが,「堤」とあるように人工的に作られた様子がうかがえます。
最後の池を詠んだ短歌は,あの有名な天武天皇の子である大津皇子の辞世(686年)の1首です。享年24歳。

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ
<<磐余の池に鳴く鴨を今日までしか見ることができないようだ。私は雲に隠れてしまうから>>

この3人の天武天皇の皇子たちの死に対して「池」のイメージが何か独特の雰囲気を醸し出しているように私は感じます。
「池」が生の場所であり,そこから永遠に離れることが結局死をイメージするような雰囲気かなと思うのです。
「生ける」の文語表現である「生く」の已然形「生け」と「池」は同じ発音であったすればなおさらでしょうか。
今もあるシリーズ「池(2)」に続く。

2016年1月23日土曜日

今もあるシリーズ「むしろ」…万葉時代「むしろ」のイメージはムシロ良かった?

今「むしろ」を知っている若い人は少ないかもしれませんね。
『「ゴザ」なら知っているんだけど』という人はまだ多いかもしれません。しかし,名探偵ポアロや刑事コロンボなら『そう答えた人は実は「むしろ」を知っているのである』と断言することになりそうですね。結局同じものを指していますから。
さて,万葉集で「むしろ」やそれをイメージして詠んだ和歌は短歌3首(すべて詠み人知らず)しかありません。
まず,1首目は吉野の美しさを詠んだ短歌です。

み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに(7-1120)
みよしののあをねがたけの こけむしろたれかおりけむ たてぬきなしに
<<美しい吉野の青根が岳の周辺では苔が一面むしろのように生えている。その苔のむしろは誰か人が丁寧に編んだように,経糸緯糸が感じられないくらいきれいだ>>

この作者は,当時でも観光地として有名であった吉野。そこからさらに奥にある青根が岳は,吉野とはまた違った趣がある風光明媚な場所だと,この短歌は詠んでいそうです。
今でも,奥飛騨,奥多摩,奥湯河原温泉,奥武蔵,奥道後温泉といった観光地があるように,青根が岳は奥吉野のようなイメージの場所だったのかもしれませんね。
そこは,人が踏み込んだことがないような一面に敷き詰められた「苔むしろ」。その美しさはまるで,緑の糸で細かく編んだむしろのようだと。
ここでの「むしろ」は「じゅうたん」に近い敷物のイメージかもしれませんね。
次は,夫として来るのを待つ女性の苦しい気持ちを詠んだ短歌です。

ひとり寝と薦朽ちめやも綾席緒になるまでに君をし待たむ(11-2538)
ひとりぬとこもくちめやも あやむしろをになるまでに きみをしまたむ
<<独り寝で薦が朽ちることはあるでしょうか。でも,綾むしろが解けて緒になるまで,もっとあなた「を」お待ちしましています>>

マコモで編んだ敷物です。ある意味大衆品の代名詞ですが,それでも一人で使っている分には長持ちする。まして,高級品である綾織のむしろ(じゅうたん)はもっと丈夫で,それが「緒」(周囲が徐々にほつれてしまい紐のよう)になるまであなたを待つという,作者の強い気持ちを詠み込んだ短歌だと私は思います。
この短歌,本人の苦しい思いはもちろん強く私に伝わってきますが,『当時もう「綾織のむしろ」,すなわち高級な敷物が製造されていて,それなりに豊かな家では使われていた』ということに興味を覚えます。
万葉集は,いろいろな譬えを使って相手に気持ちを伝える手法が使われます。それが,文学的に高度な(上手い)表現かどうかは私にはあまり興味がありません。
それよりも,その例示によって当時の人々の生活が手に取るように分かり,見えることに万葉集の本当の価値を私は感じるのです。
最後は「むしろ」を序詞に使って,逢いたいことを表現した短歌です。

玉桙の道行き疲れ稲むしろしきても君を見むよしもがも(11-2643)
たまほこのみちゆきつかれ いなむしろしきてもきみを みむよしもがも
<<長い旅で歩き疲れて休むために稲筵を広げて敷くように,広くあなたにお逢いできる方法があるとよいのにね>>

この短歌の言いたいことは,もっと広く(たっぷり)あなたと逢いたいという思い。
「何だ,それだけ?」という人には,私がこの短歌を評価する価値が分からないのかもしれません。
・当時,稲わらで編んだ「むしろ」があり,「稲むしろ」と呼んでいた。
・旅(歩行中心)には,稲むしろを携帯していた。
・稲むしろは,旅道中の休憩に使っていた。
・野宿用に大きなサイズのものが在ったかもしれない。
・腰かけるときは折りたたんで,クッションのようにしたかもしれない。
こんな当時の旅行道具としての「むしろ」を想像させてくれるこの短歌は,私にとってはcool!。
今もあるシリーズ「池(1)」に続く。

2016年1月13日水曜日

今もあるシリーズ「鵜(う)」…「う飼い」は「渓流釣り」より古いスポーツ?

スペシャル投稿が終わり,今もあるシリーズ戻ります。
今回は鳥の「鵜(う)」を取りあげます。
今もあるといっても鵜はスズメのようにどこでも見られるような鳥ではありません。
鵜を見たければ,動物園などに行くか,各地で観光用に行われている「う飼い」を見に行けば,確実に鵜を見ることができそうです。
「う飼い」は日本では,岐阜県の長良川,山梨県の笛吹川,愛知県の木曽川,京都府の宇治川などで行われているとWikipediaに載っています。
う飼いで採る魚は「鮎(あゆ)」がほとんどで,舟の上から鵜を操る鵜匠(うしょう)が,鵜からとった鮎を舟に乗った観光客にふるまうとのことのようで,私も一度舟から見てみたいと思っています。
万葉集で,このようなう飼いにいちばん近いイメージの短歌(天平勝宝2(750)年3月8日越中で大伴家持が詠んだ長歌の反歌)があります。

年のはに鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ(19-4158)
としのはにあゆしはしらば さきたかはうやつかづけて かはせたづねむ
<<今年も鮎が飛び跳ねるように泳ぐ季節になったら,辟田川に鵜をたくさん潜らせるために川瀬に行くぞ>>

家持は,越中に来て4年目。もう越中での年中行事やいろいろな遊びやそれに適した季節を覚えていたのでしょうね。
う飼いができる季節を待ち遠しく感じている家持の気持ちがよくわかります(まだ,新暦で4月というのに)。なお,この反歌の前に出てくる長歌にも「鵜養伴(うかひとも)なへ 篝(かがり)さし」とあります。
まさに,今の観光用のう飼いのイメージに近いものがありますね。観光用にう飼いの行事を決めた後世の人もこの長歌短歌を参考にした可能性は大だと私は思います。
家持は各地で鵜匠を育成し,遊び(スポーツ)としての「う飼い」を流行らせた可能性も否定できません。鵜匠はプロで,家持たち金持ちはアマチュアで楽しむといったことかもしれません。
そんな状況を表した短歌が同じく越中で家持が天平20(748)年春に詠んだ次の1首です。

婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり(17-4023)
めひがはのはやきせごとに かがりさしやそとものをは うかはたちけり
<<婦負川の早瀬ごとに篝火をかざし,大勢の男性役人達がう飼いを楽しんでいる>>

家持が越中に赴任して2年目。これを見て,家持はスポーツとしての「う飼い」をやってみたいと思ったのでしょうか。
「う飼い」の和歌が万葉集に残されていることで,将来日本には環境保護により清流がさらに増え,鮎の放流が盛んになれば,渓流釣りよりハードなスポーツとしての「う飼い」も復活するかもしれませんね。
最後は,海に住む鵜を旅先(瀬戸内海の兵庫県付近を西航している船)で詠んだ山部赤人の短歌です。

玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ(6-943)
たまもかるからにのしまに しまみするうにしもあれや いへおもはずあらむ
<<見えてきた唐荷の島の上を旋回して飛んでいる鵜でさえ,自分の家のことを忘れることはないだろう>>

赤人が京からどんどん遠く離れて旅することでますます自分の家が恋しくなる気持ちを詠んだと考えられます。
鵜は自由に空が跳べ,ましてすぐ近くの美しい唐荷の島に巣があるのだろう。そんな鵜でさえ夜になったら巣に帰るのにという旅先の寂しさを痛感する思いなのでしょう。
今もあるシリーズ「筵(むしろ)」に続く。

2016年1月3日日曜日

400回記念スペシャル(3:まとめ)…2016年も「爆買い」期待?

正月休みもあっという間に終わり,明日からは私の専門職であるソフトウェア保守開発の職場に向かいます。正月は担当システムで正常でないことが起これば携帯電話に連絡が入り,自宅から関係者に連絡をする手配を用意していました。今年の3ヶ日は,システムすべて正常に動作したようで,気持ちよく出勤ができそうです。
400回記念スペシャルも今回が最後で,次からはまた「今もあるリーズ」に戻ります。
今回は,勝手ながらまず今年の予測をしてみたいと思います。
(1)企業の業績
今年の景気は良さそうだという予測がいくつかのメディアから出ています。
私もそう思いますが,来年4月の消費税率を8%から10%へアップする前の駆け込み需要を割り引いて考えないといけないのかなと思います。
来年は4月以降景気が凹む恐れを考える必要がありそうですね。
(2)街角景気
非正規社員が減り,正規社員が増えるようなことはそれほど期待できないと思います。理由は自動化ロボット化が進み,ヒトが今まで担当していた定型業務をロボットや機械が代替できる分野がひろがる,またITC(情報通信技術)によりネットショップがさらに拡大し,店舗従業員や営業担当者が不要となるビジネスが広がると予測できるからです。
一般論として,景気が良くなると企業は儲かったお金を従業員を増やすことよりも,従業員を増やさずに業績を伸ばすこと(機械設備)に投資する傾向があるためです。また,ITCが急速に進展する今の時代,全企業トータルの業績が伸びても,大きく伸ばす会社と競争に負けて業績を落とす会社の格差が大きくなることも考えられます。ある企業が一人勝ちのような産業の場合,その他の企業では従業員の削減を行う企業が出る場合も考えられます。
(3)明るい予測
暗いことばかりでなく,明るい話をすると外国人訪日旅行客(インバウンド)が今まで以上に増えそうだということです。まだ日本観光局(http://www.jnto.go.jp/jpn/)から発表はありませんが,昨年(2015年)は恐らく2,000万人に近い外国の人が日本を訪問したと思われます。2014年の同実績が1,200万人余りですから,その伸び方は半端ではありませんでした。
今年もさらに伸びると私は予測します。なぜなら,昨年訪日した外国の人たちがTwitterやFacebookなどのSNS,旅行情報サイトなどの口コミに概ねポジティブな評価を次々とアップしているからです。それを見た日本を訪問したことのない人は「次は日本に行こう」,既に日本を訪問した人は「日本の別の場所に行ってみよう」という気持ちになると考えられます。
それと2,000万人というのはすごく大きな数字のようですが,香港やマレーシアを訪れるその国以外の人数より,まだまだ少ない数なのです。日本は香港の350倍近い面積があります。そして,日本には香港に様な気候の場所もあれば,冬には香港ではまず見ることができない天然の雪に必ず接することができる場所があります。日本が今までいかに外国人観光客に対して閉鎖的だったか分かります。
ただ,これからはインバウンド数を増やしていくだけでなく,リピート訪問率を如何に増やすかがポイントとなるでしょう。「爆買い」を期待することは二の次にして,日本にしかないものと,日本に来て癒されると感じるものを増やしていく努力が必要だと私は思います。
そのためには,外国語の研究も必要でしょう。訪れた人たちの母国語で,上から目線ではなく,聞き心地の良い言葉でまず迎えることが必要だと私は思います。それがないと日本の本当の良さを相手に理解されず,単なる押し付けになってしまいます。私も海外に何度か旅行に行っていますが,現地観光ガイドが日本語は上手くても,「日本よりすごいだろ」みたいな上から目線のガイドをする人に何人も会い,楽しめなかったことがありました。
日本の良さを説得するのではなく,感じとってもらうこと,発見してもらうこと,そして訪日客の質問に丁寧かつ正確に答えることができれば確実に日本及び日本人を好きになってもらえると私は思います。
私は万葉集に長く接することで,日本人の感性のルーツが何であるかを感じることが少しずつできてきいるような気がします。外国から来た方に日本をイメージしてもらうために紹介する万葉集の短歌としては,私は次の3首のいずれかなど,どうかなと思います
まず,日本の山を見て季節感をイメージしてもらうための1首です(現代語は意訳)。

春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも(10-2177)
はるはもえなつはみどりに くれなゐのまだらにみゆる あきのやまかも
<<日本には春は花がきれいに咲き,夏はみずみずしい緑一色になり,秋には紅葉のグラデーションが見事な山がいくつもありますよ>>

リアス式の海辺に小さな漁港が近くにある旅館や民宿(私は外国の人に是非泊まってほしいと思っています)。そこに泊まる人たちに勧めたいのが,次の遣新羅使が詠んだとされる1首です。

山の端に月傾けば漁りする海人の燈火沖になづさふ(15-3623)
やまのはにつきかたぶけば いざりするあまのともしび おきになづさふ
<<山の向こうに月が隠れると沖に漂う漁師の舟の明かりがよりはっきり見えますね>>

最後は,日本庭園を鑑賞する人たちに勧めたいのが,大伴家持が詠んだとされる1首です。

秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも(20-4453)
あきかぜのふきこきしける はなのにはきよきつくよに みれどあかぬかも
<<秋風が吹いて散った花びらが敷き詰められた庭は,清らかな月の光を浴びて見飽きることがないのです>>

日本庭園を訪れる時が秋(新暦で夏も)でなくてもよいのです。昼間でも構いません。花は無くても,月が出ていない夜でもよいのです。今見ている日本庭園が夜,そして散った花が敷き詰められて,月が照らしている情景がどんなに美しいだろうとイメージしてもらうことが必要だと思います。
無いものを有るとしたときの変化,それを考えて(シミュレーションして)作られ日本庭園の奥深さを感じ取ってもらえれば,「また来たい」という気持ちになってもらえるかもしれません。
日本の四季は実は四つではありません。初春,早春,春真っ盛り,晩春,初夏,盛夏,真夏,挽夏,初秋,秋寒,晩秋,初冬,真冬,晩冬といった四季をさらに細かく分類するような言葉で季節の変化を日本人は感じ取っています。このほかにも立春,立夏,立秋,立冬などの24節季,さらに細かく分類した72候というの言葉があります。
24節季や72候は中国から伝来した分類方法が基になっているようですが,その後日本で作られた俳諧歳時記に載せられている季語は何と3,000位をあるとのことです。季節に関する言葉が昔からこれほど多い国は他国になく,それを日常としている日本人の細かい感性も比類がないと私は想像しますがいかがでしょうか。
今もあるシリーズ「鵜(う)」に続く。

2016年1月2日土曜日

400回記念スペシャル(2)…万葉時代,猿はどうみられていたか?

新年あけましておめでとうございます。
今回で当ブログ投稿400回目になりました。各回平均3個の和歌を紹介してきたとすると1200首となりますが,重複もありますので約1,000首を紹介してきたことになりそうです。これでも,万葉集全4,516首の20%余りでしかありません。まだまだ続けられそうです。
また,昨年5月から始めた姉妹ブログの「万葉集に関するクイズです」(http://quiz-mannyou.blogspot.jp/)も初級問題29回(145問),中級問題5回(25問),上級問題1回(5問)をアップしてきました。問題を作成していく上で,4,516首に対して,語句の意味や読み,作者当て,虫食い,その他万葉集全般や作者に関するものを合せると少なくとも何万問という数の問題ができそうです。
さて,これまで多く閲覧頂いている投稿は,やはり正月や七夕といった季節ものになります。
ただ,季節とは関係がないのですが,なぜか多くの人に閲覧して頂いている投稿があります。それは,2010年3月1日に投稿した「待つ(4)」(http://reverse-mannyou.blogspot.com/2010/03/4.html)です。
この中で特別なことを書いたとすれば「日本人の特徴は,いつも待つほうばかりで,積極性が劣り,受け身なのか?」という問いに対する私の考えを書いたことでしょうか。日本人が受け身のように見えるのは,変化に対して絶妙なタイミングを見計らって対応することが得意だからだと分析しています。まだご覧になっていない方は見ていただければと思います。
今年は申年ですが,万葉集には猿を取りあげた和歌は1首しかありません。申年の人には申し訳ありませんが,良いイメージ詠んだものでは無いのです。
大伴旅人が13首詠んだ賛酒歌(酒を賛むる歌)のうちの1首です。

あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(3-344)
あなみにくさかしらをすと さけのまぬひとをよくみば さるにかもにむ
<<ああ何と醜い。賢そうにして酒を飲まない人をよく見ると,猿に似てくる>>

当時,猿は「猿神」として崇められていたという説があるとのことです。なので,何十年か前に「エテ公」とさげすまれていたのとは,全然違います。信仰の対象だった可能性もあります。各地に「猿神」の小さな石像(石猿)が祀られてあったのかもしれません。その像が,いかにも賢そうで表情が無かったことを,旅人は皮肉ったのではないかと私は想像します。
今年が,みなさまにとって孫悟空觔斗雲(きんとうん)に乗って空を跳ぶように,飛躍の年となりますように。
400回記念スペシャル(3:jまとめ)に続く。