2018年9月21日金曜日

続難読漢字シリーズ(34)…乍(なが)ら

しばらくアップが途絶えてしまいました。
8月7日,6カ月超の病気休職から職場復帰を果たしたのですが,やはりIT業務における約半年のブランクを埋めるのは結構大変でした。ようやく職場復帰も軌道に乗ってきたのでアップする時間が何とか作れました。
プロスポーツ選手や音楽のプロ演奏家が6カ月まったくその仕事や練習に関わらなかったら,すぐ元に戻らないのと同じかも知れません。
特に,既存システムのソフトウェア保守をやっていると,半年の間にシステムの稼働環境やアプリの更新が結構進んでいて,多数の更新の内容,理由,運用への影響,各種文書の更新状況も把握する必要があり,時間がとられたこともあります。何せ,40数年間ITの仕事をしてきて,仕事を離れたのは結婚のときに約2週間休んだのが最長で,6カ月間以上まったくITの仕事を休むなんてことは初めてだったこともありました。
アップできなかった言い訳はこのくらいにして,今回は「乍(なが)ら」について万葉集をみていきます。
「音楽を聞き乍ら,仕事をする」といった使い方をする「ながら」です。「ながら族」という言葉が流行った時代もありましたが,若い人は知らないかも知れません。
最初は,もっとも多く万葉集に出てくる「神乍(かむなが)ら」という言葉が使われている,持統天皇が吉野に何度目かはわかりませんが行幸(みゆき)したとき柿本人麻呂が詠んだとされる長歌の反歌を紹介します。

山川も依りて仕ふる神乍らたぎつ河内に舟出せすかも(1-39)
<やまかはもよりてつかふる かむながらたぎつかふちにふなでせすかも>
<<山川の神も同様に服従する大君は,激流の川を抱えた宮地より舟出なさる>>

「神乍(かむなが)ら」とは,神と同じという意味ととらえられます。これは「天皇は神と同じ」という讃嘆の意味で宮廷歌人たちが儀礼的に使用する言葉だったのでしょう。
次に紹介するのは,仏教の無常観を色濃く詠んだと思われる短い長歌風の和歌です。

高山と海とこそば 山乍らかくもうつしく 海乍らしかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人(13-3332)
<たかやまとうみとこそば やまながらかくもうつしく うみながらしかまことならめ ひとははなものぞ うつせみよひと>
<<高山と海はまさに,山は山として存在し,海は海としてあるがままに存在する。
ところが,人は花がすぐ散るように,はかなくこの世に生きているのである>>

人があっけなく死んでしまうことが多かった万葉時代ですから,こんな和歌を詠ませたのかも知れません。ただ,作者は人の命の「はかなさ」を花にたとえているのですから,また咲いてくれることを想定していると私は感じます。そのことを意識して詠んだとすれば,作者は「生命は死んだら終わり」という考えを持っていない可能性があります。
仏教には「生命は永遠である」と教える経典もあります。前世,現世,来世(三世)というように,生命はずっと続くというのです。
作者が知っていたかどうかは定かではないですが,前世が終わって,現世に生まれてくることは非常に稀有なことだから,現世での命を大切にし,世のために尽くして,充実した人生を歩むことが,来世も幸福な生命として産まれてくるために大切と説く仏教の経典もあります。
さて,次に紹介するのは,越後で詠まれたという仏足石歌体(五・七・五・七・七・七)という珍しい歌体の和歌です。万葉集では,この歌体とされるのは,この1首のみです。

弥彦の神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮衣着て角つき乍ら(16-3884)
<いやひこの かみのふもとに  けふらもか しかのふすらむ かはころもきて つのつきながら>
<<弥彦の神山の麓に今日もまた鹿がひれ伏しているのか,皮衣を着て角をつけたまま >>

この和歌は「神の使いである鹿が,霊験あらたかな弥彦山の神に山麓でひれ伏しいる。まさにそれは鹿で,皮の色も鹿の模様で角もちゃんとあったよ」といったくらいの軽い意味にとらえておけばよいと私は考えます。
作者が今の新潟県にある弥彦山に旅で寄った時,麓で休んでいる鹿を見て感じたことを(最後の七文字)も付け加えたくて作ったのでしょう。「そういえば鹿だから角もあったことも入れないとね」といった具合に。
最後に紹介するのは,大伴池主が越中で,大伴家持から贈り物としてもらった針袋に対して返答した短歌の1首です。

針袋帯び続け乍ら里ごとに照らさひ歩けど人も咎めず(18-4130)
<はりぶくろおびつつけながら さとごとにてらさひあるけど ひともとがめず>
<<針袋を腰につけたままいろいろ里を歩いてみましたが,誰も取り立てて話しかけてくれませんでしたよ>>

この短歌は,非常に難解だと私は感じます。
大伴池主と家持との間柄は,通常の親戚との付き合いではなく,特殊な関係があったかもしれないと感じるからです。
池主が家持からもらった針袋(旅のときに携帯するためのものの一つ)について,返答の歌を贈っていであることは分かりますが,それにしては,あまり有難さを伝えようとした感じがありません。
「私は越中にいるが家持殿と違い現地の人からまだ受け入れられず,旅の途中の人とみられているから,旅の用具を身につけても何も里人から変に思われない」ということか?
将又(はたまた)「家持殿からこれを贈られたのは,『早く旅立って京に帰れ』という指示で,里人もそのことを知っており,私が旅の携帯品の針袋を持って歩いていても,何も言わない」ということか?
いずれにしても,この二人の関係は儀礼的な感謝の気持ちを返すだけの関係でなかったことだけは確かでしょう。
(続難読漢字シリーズ(35)につづく)

2018年8月4日土曜日

続難読漢字シリーズ(33)…響む(とよむ)

今回は「響(とよ)む」について万葉集をみていきます。大きな音を発して,うるさい状況を表す意味です。現在では「ひびく」と読みますが,万葉時代は「とよむ」という言葉が多く使われていたようです。。
「とよむ」はその後「どよめく」という言葉に変化していったのかもと私は想像します。
万葉集で「響む」の代表格は「霍公鳥(ほととぎす)」がうるさく鳴く表現が12首ほどに出てきます。今回は「霍公鳥」の鳴き声の「響む」は取り上げず,その他の音に関する「響む」について詠まれているものを取り上げます。
最初は,大きな音ではないのに「響む」を使った女性作の短歌です。

敷栲の枕響みて寐ねらえず物思ふ今夜早も明けぬかも(11-2593)
<しきたへのまくらとよみて いねらえず ものもふこよひはやもあけぬかも>
<<あなたの枕が大きな音を立て寝られない。物思いにふけった今夜も もうじき朝になるのね>>

「枕が大きな音を立てる」というのはどう解釈すればよいのでしょうか。
私の勝手な解釈ですが,夫の妻問いを待つため,夫用の枕を自分の枕の横に用意しているけれど,一向に夫は来ない。
使われていない夫用の枕(当時は木製?)を,うつらうつらしている間に誤って触って倒すと大きな音がする。その音に目が覚め,その後は「なぜ夫は来ないのか」と物思いにふけっていると,夜が明けてしまいそうだという情景です。
さて,次に紹介するのは,波の潮騒が響くことを詠んだ,これも女性作の短歌とされるものです。

牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ(11-2731)
<うしまどのなみのしほさゐ しまとよみよそりしきみは あはずかもあらむ>
<<牛窓の波の潮騒が島全体に響くように周囲が騒がしいようです。寄りそうあなた様としばらく逢えないかもしれません>>

牛窓は,瀬戸内海に面した今の岡山県牛窓町付近とされているようです。
牛窓には前島などいくつかの島がすぐ前にあり,島間の海流が激しく,潮騒の音が大きく響くことで京にも知られた場所だったのかもしれません。
この短歌の作者がここを訪れたわけではなく,牛窓の瀬の地域情報を序詞に引用して作歌したと私は思います。それにしても,どれだけ二人は関係は騒がれたのでしょうか。
最後に紹介するのは,東歌です。

植ゑ竹の本さへ響み出でて去なばいづし向きてか妹が嘆かむ(14-3474)
<うゑだけのもとさへとよみ いでていなばいづしむきてか いもがなげかむ>
<<竹林の根元まで響くように大騒ぎして私が旅立った後,どこを居ても妻は嘆くことだろう>>

おそらくですが,作者(夫)が徴兵か徴用で遠くへ旅立つ際の見送りのとき,近所の人たちが集まり,みんなで旅の無事や引き立てられた仕事の活躍と幸運を祈り,チャンスが来たことを祝い,盛大に見送ったのでしょう。
見送る側は,作者の名前を連呼し,飛び上がってバンザイのようなことをしたのかも知れません。その見送り時の人が飛び跳ねる音は,竹林も揺るがすような大きな音だったと作者は感じたのです。
しかし,妻だけは,そんな大騒ぎの陰で自分が居なくなったことに悲しみ暮れるだろうと思われることがツライ。そんな気持ちが伝わってきます。
日本人は「響む」ような大きい音に対して,その反対の静けさをも大切にする割と少数の民族かもしれないと私は感じます。場所にもよりますが,お隣の韓国や中国の人々は大声で話をするほうがポジティブに感じるようです。しかし,日本人は周りに気を遣い,空気を読んで静かに話すほうがポジティブに感じる人が多いのではないでしょうか。
日本人が静けさを大切にするのは,実はさまざまな小さな「音」(例:笹の葉が微風に揺らされ擦れ合う音,池に小さなカエルが跳び込む音,小川のせせらぎの音など)に対して,繊細で敏感な感性を持っているからかも知れません。そのヒントが万葉集を分析すれば分かるかもしれませんが,今後の課題ですね。
(続難読漢字シリーズ(34)につづく)

2018年7月17日火曜日

続難読漢字シリーズ(32)…艫(とも)

今回は「艫(とも)」について万葉集をみていきます。船の後方,船尾の意味です。船の前方である船首は舳先(または単に舳)といいます。舳先(へさき)は,今でもよく使いますので,読める人は多いかもしれませんが,艫はさすがに難読でしょうね。
最初に紹介するのは,船の前後にどんな波が寄せてくることを序詞に詠んだ詠み人しらずの短歌です。

大船の艫にも舳にも寄する波寄すとも我れは君がまにまに(11-2740)
<おほぶねのともにもへにも よするなみよすともわれは きみがまにまに>
<<大船の船首や船尾にも波は打ち寄せる波のように嫌な噂が大きく立っていますが,私はあなたの想いのままに従います>>

万葉時代大きい船といっても,今の外洋船に比べたら,ごく小さな船だったでしょうね。
転覆しないように,船は波の線の垂直方向に向かって進まないと,横波を受けて簡単に沈没する恐れが高くなります。
波に垂直に向かって進むことが安全とはいえ,波が大きいと船の先端や後尾は大きく上下に揺れます。この短歌の作者は,そんな荒れた海で船旅をしたことがあるのでしょうか。
さて,次に紹介するのは,最初に紹介した短歌とよく似ているように見えますが,東歌です。

大船を舳ゆも艫ゆも堅めてし許曽の里人あらはさめかも(14-3559)
<おほぶねを へゆもともゆもかためてし こそのさとびとあらはさめかも>
<<大船を船首や船尾も綱で固く結んであるように,地元の里人も見ない振りをしてくれるだろうよ>>

恋の歌を示すものはどこにも出てこないのですが,この短歌は一つ前の女性作と思われる短歌への返歌と考えられます。二人の仲がしっかり結ばれていることを相手に伝えたい思いからの作でしょうね。

逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも(14-3558)
<あはずしてゆかばをしけむ まくらがのこがこぐふねに きみもあはぬかも>
<<遭わないで都に行ってしまわれるのは残念です。まだ,枕香が残る古河を行く船でお逢いできないものでしょうか>>

最後に紹介するのは,天平5年に遣唐使が航路の安全を難波の住吉の神に祈願したと伝承された長歌の一部です。

~ 住吉の我が大御神 船の舳に領きいまし 船艫にみ立たしまして さし寄らむ礒の崎々 漕ぎ泊てむ泊り泊りに 荒き風波にあはせず 平けく率て帰りませ もとの朝廷に(19-4245)
<~ すみのえのわがおほみかみ ふなのへにうしはきいまし ふなともにみたたしまして さしよらむいそのさきざき こぎはてむとまりとまりに あらきかぜなみにあはせず たひらけくゐてかへりませ もとのみかどに>
<<~ 住吉の我らの大御神様,船の舳先をなすがままにされるべく艫に立たれ,立ち寄る磯の崎々へすべて無事に着き,停泊ができますように。停泊する崎々で暴風や荒波に遇うことなく,どうか平穏に帰れますように,もとの朝廷に>>

遣唐使は大阪の南にある住吉津(すみのえのつ)にあった港から出港し,出港の前には奈良の京から大勢の人が大和川を下って見送りに来て,航海の安全を祈願するために建てられたであろう住吉神社(現:住吉大社)に,皆で海路の安全を祈願に詣で,旅立つ人を盛大に見送ったのだろうと想像できます。
住吉津は,古墳時代から国内外の多くの人や荷物を扱う港として大いに繁栄したと考えられます。その豊かさで,百舌鳥(もづ)古墳群や黒姫山古墳のような古墳群を作る財力と,人力が集まったのだと私は思います。
後の堺(さかい)という都市の大きな発展は,こういった地の利の良さも大きな要因だと私は考えてしまいます。
(続難読漢字シリーズ(33)につづく)

2018年7月3日火曜日

続難読漢字シリーズ(31)…常滑(とこなめ)

今回は「常滑(とこなめ)」について万葉集をみていきます。常滑焼という陶器を知っている人や愛知県常滑市をご存知の方にはすぐ読める漢字でしょうね。
早速,最初に紹介するのは,柿本人麻呂が,何度か行われた持統天皇の吉野行幸のうちで詠んだといわれる有名な短歌(長歌の反歌)です。

見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む(1-37)
<みれどあかぬよしののかはの とこなめのたゆることなく またかへりみむ>
<<見飽きることのない吉野の川底が常に滑らかであるように、絶えることなくまた見ましょう>>

奈良盆地の川は,吉野の川に比べて,川床に泥が堆積し,草木も生えて「常滑」とはいえなかったのでしょう。
その点,天武天皇ゆかりの地で,避暑地で別荘地の吉野の川は,激しい水流に洗われた川床や岩は「常滑」にふさわしいものだったとこの短歌からは読み取れます。
さて,次に紹介するのは,柿本人麻呂歌集から転載されたという短歌です。

妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも(9-1695)
<いもがかど いりいづみがはのとこなめに みゆきのこれりいまだふゆかも>
<<妻の家の門を入って出る(いず)という泉川の常滑の石の上には,雪が解けずに残っているので,このあたりの季節はまだ私の心のように寒い冬なんだなあ>>

作者は,奈良の京から旅に出て,木津川あたりでこの短歌を詠んだとされています。
木津川あたりにまで来ると,これから人家の少ない心細い道を行くことになるため,少しのことで寒さを感じたのでしょうか。
最後も,二番目に紹介した短歌とは別の巻に出てきますが,柿本人麻呂歌集から転載されたという短歌です。

こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ(11-2511)
<こもりくのとよはつせぢは とこなめのかしこきみちぞ こふらくはゆめ>
<<山に囲まれたが立派な泊瀬街道は,初瀬川を渡る箇所が多くあり,水の上に出た岩の上は滑りやすいので,渡るときは注意が必要な道です。恋の道も渡る時も(滑りやすいので)油断しないことが肝要>>

なかなか教訓的な短歌ですね。「万葉集教訓歌」という本を出すと選ばれそうな気がします。
私が初瀬街道を歩いた経験と写真を2015年7月28日投稿しています。この短歌も載せていますが,その時感じた新鮮さで訳しています。今回はその奥にある教訓めいた部分を強調するために,背景的な訳も入れて訳してみました。
以上3首のように,万葉時代「常滑」の状態というのは,いつも清水に洗われているツルツルした岩をイメージしていたのでしょう。
また,そんないつもきれいに磨き上げられた表面に万葉人は憧れていたと私は想像します。常滑の岩以外にも,磨き上げられた手鏡や仏像,大黒柱や床柱,琴の板や太鼓の胴,磁器やガラス器,漆塗りの箱や厨子,宝石でできた玉や瓶など,表面が「常滑」に感じられるものの価値は高かったのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(32)につづく)

2018年6月24日日曜日

続難読漢字シリーズ(30)…常磐(ときは)

今回は「常磐(ときは)」について万葉集をみていきます。現代では,常磐は「ときわ」または音読みで単に「じょうばん」と読み,意味として,常陸の国と磐城の国の併称,福島県いわき市,その地域の施設(常磐公園=偕楽園)や史跡(常磐神社=偕楽園内にある水戸光圀を祀る神社)を指す言葉として使われているようです。
しかし,万葉集では別のいくつかの意味で詠まれています。
最初に紹介するのは,山上憶良が世の無常を神亀5(728)年7月21日に太宰府で詠んだとされる短歌です。

常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(5-805)
<ときはなすかくしもがもと おもへども よのことなればとどみかねつも>
<<大きな岩のようにいつまでも変わらずにいて欲しいと思いたいが,世の中のことはひと時も変わらないことがない>>

憶良は仏教の無常観から「無常」の反対語として「常磐」という言葉を使い,この短歌を詠んだのだろうと私は思います。
人間は「常磐」のように絶対的に変化しない状態(真実は一つ)がいつまでも続いてほしいと願うものである。その絶対的なものにすがることが安心・安寧な幸せな人生だと考える人が多いが,世の中は「生老病死」という苦悩が常にいろいろな形で予断無くやってきて,それを許してくれないと。
ところで,万葉時代は「生老病死」の苦悩の中でも「老病死」の比率が高かったと想像できます。ただ,今の時代では「生きる」の苦悩の比率が高いのかも知れません。
人間関係の悪化,他人との比較での落胆,人生の目的や夢の喪失,仕事のスキルアンマッチなどにより,社会の中で「生きる」こと自体が苦しいと感じ,場合によっては精神疾患になる人が少なくない現代社会になっているような気がします。
「これだけをやっておけば大丈夫」というもの(宣伝文句によく使われる?)を求め,面倒なことを避けたり,今やるべきことを先送りしていた結果,あるとき「こんなはずではなかった」と気が付いてしまうのです。その失敗を繰り返し,(悪いのは他人だと思いつつも)失敗の後悔が重なることで「生きる」苦悩が強くなり,「生きている今の自分」を「その自分」が責め,苦しめることになってしまうのです。そして,自殺を選んだ人の中にはそんな「生きている自分」に対し,自分自身が作る苦悩に耐えられなくなった人も多いのでしょうか。
私は,世の中は無常(常に変化するもの)が前提と考え,常に状況の変化を注視し,先の変化を的確に予測できる能力を磨いていく努力が,「生きる」苦悩を乗り越え,「生きる」楽しさを得る有効な道の一つだと考えています。
さて,次に紹介するのは,常緑樹の橘の葉を形容として「常磐」を使い,大伴家持が高岡で元正(げんしやう)上皇崩御を悼み,その後見役の橘諸兄(たちばなのもろえ)に期待する短歌です。

大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして(18-4064)
<おほきみはときはにまさむ たちばなのとののたちばな ひたてりにして>
<<太上天皇は常磐の橘の葉ようにそのお力は不変です。橘様の橘もいつも照り輝き続けています>>

京では藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)の力が増大し,強引なやり方をセーブする役割として諸兄にいつまでも(常磐に)期待している家持の気持ちが表れた短歌だと私は感じます。
最後に紹介するのは,同じく家持が天平宝字2(758)年2月に式部大輔(しきぷのたいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)宅の宴で,変わらぬ結束の誓いを詠んだ短歌です。

八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな(20-4501)
<やちくさのはなはうつろふ ときはなるまつのさえだを われはむすばな>
<<いろんな花がありますが,みないずれ色あせてしまいますが,いつまでも変わらぬ色の葉を持つ松の枝のように私たちは友情を結び合いましょう>>

家持より10歳以上年上だが将来は大臣になると目される清麻呂との関係を強く持ちたいという家持の思いがこの短歌から読み取れます。この10年余り後,家持が光仁朝になって昇進を速めるのですが,その当時清麻呂は右大臣に昇進していたのです。家持の期待通り,清麻呂と家持の関係は比較的良かったのではないかと私は思います。
ところで,広辞苑で「常磐」を引いてみると,この3首が3つの意味の違いの用例として出ているのです。約1300年前に「ときは」という言葉が,どのような異なる意味で使われていたかを万葉集はそれぞれ別用例で示してくれているのです。
万葉集は,五十音順などの並び順でないことを気にしなければ,まるで当時の日本語(ヤマト言葉)の辞書か文法書のような目的で編纂されたのではないかと感じてしまう私がいます。
(続難読漢字シリーズ(31)につづく)

2018年6月14日木曜日

続難読漢字シリーズ(29)…黄楊(つげ)

今回は「黄楊(つげ)」について万葉集をみていきます。「黄楊」は植物の名前です。小さな丸みのある葉の常緑樹で。丸い形に剪定して庭木などにします。私の庭にもまだ幼木ですが植えています。
ツゲは漢字で「柘植」とも書きますが,万葉集の万葉仮名ではツゲを詠んだすべての和歌で「黄楊」が使われています。「柘植」は三重県などに地名としてありますので読める人も結構いらっしゃるかも知れませんが,「黄楊」はなかなかの難読漢字でしょうか。
さて,最初に紹介するのは,播磨地方(今の兵庫県)に着任していた役人の石川大夫が京に選任され(帰任),地元を離れるときに地元の娘子が別れを惜しんで贈ったされる短歌です。

君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず(9-1777)
<きみなくはなぞみよそはむ くしげなるつげのをぐしも とらむともおもはず>
<<あなた様が京に帰られたたら,私は身を装いましょうか。化粧箱の黄楊の櫛を取ろうとさえ思いませんわ>>

黄楊の幹は非常に硬く,櫛の歯のような細い切り込み加工をしても,歯が折れたりすることがすくなく,万葉時代から櫛の材料として非常に重宝されていたのです。高級なツゲの櫛ももう使う必要なくなりましたという歌意でしょう。
なお,今でも国産のツゲの木で作った櫛は,最高級品で2万円以上していそうですが,それでも購入して利用する人がいるようです。
次に紹介するのは,柿本人麻呂歌集に出ていたという,黄楊の枕を詠んだ短歌です。

夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき(11-2503)
<ゆふさればとこのへさらぬ つげまくらなにしかなれが ぬしまちかたき>
<<夕方になると夜床の傍らから離しはしないぞ黄楊の枕よ。何か彼女を夢に見させておくれ>>

黄楊の木を細かくしたものの角を削り丸くしたチップを枕に入れると,頭に当てて寝返りをするとサラサラと音がして気持ちが良かったのかも知れませんね。今でも,木片やプラスチックのチップ,そば殻などを枕の中に入れたものが売られています。
最後に紹介するのは,やはり黄楊の櫛に関するものですが,黄楊の産地が分かるものです。

朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ(11-2500)
<あさづきのひむかつげくし ふりぬれどなにしかきみが みれどあかざらむ>
<<日向の黄楊櫛は使い古して古くなりましたが,どうしてあなたはいつ見ても見飽きないのでしょう>>

日向(ひむか)はどこの場所か私は知りませんが,良い櫛の材料となる黄楊の木がたくさん生えていて,日向黄楊櫛は万葉時代長持ちする櫛の高級ブランドだったのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(30)につづく)

2018年6月6日水曜日

続難読漢字シリーズ(28)…搗く(つく)

今回は「搗く(つく)」について万葉集をみていきます。意味は杵(きね)や棒の先で打って押しつぶす動作です。「餅を杵で搗く」「戦時中の疎開先で,一升瓶に入れた玄米を棒で搗いて白米にした」といった使い方をします。
最初に紹介するのは東歌で「搗く」がでくるものです。

おしていなと稲は搗かねど波の穂のいたぶらしもよ昨夜ひとり寝て(14-3550)
<おしていなといねはつかねど なみのほのいたぶらしもよ きぞひとりねて>
<<強いて嫌だと思って稲を搗いてあなたを待っていたのではないのよ。せっかく搗いたのに搗く前の稲穂が揺れるように心が不安定になっているの。昨夜はひとりで寝ることになってしまったから>>

何もしないで彼が来るのを待っているのは,時間の流れが遅いので,辛い力仕事だけど稲を搗いて待っていた彼女たけれど,結局来てくれなくて昨晩は一人で寝ることになった。搗く前の稲穂のように心がゆれ「待っている時間にやっていた稲を搗いた作業が無駄になったのよ」という彼女の気持ちが私には伝わってきますね。
次に紹介するのは,過去のブログでも何回か紹介している短歌です。

醤酢に蒜搗きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱の羹(16-3829)
<ひしほすにひるつきかてて たひねがふわれになみえそ なぎのあつもの>
<<醤に酢を入れ,蒜を潰して和えた鯛の膾(なます)を食べたいと願っている私に,頼むからミズアオイの葉っぱしか入っていない熱い吸い物を見せないでくれよ>>

この短歌の説明は2009年11月15日の投稿をご覧ください。前半の部分は「なめろう」のような料理をイメージしている料理だったのでしょうか。期待していたその料理が出ずに,〆の吸い物が出そうなので,作者は非常に残念がっている表現力に私は感心します。
さて,最後に紹介するのは,長歌の一部です。

~ 天照るや日の異に干し さひづるや韓臼に搗き 庭に立つ手臼に搗き ~(16-3886)
<~ あまてるやひのけにほし さひづるやからうすにつき にはにたつてうすにつき ~>
<<~ 日ごとに干して,韓臼で搗き,庭に据えた手臼で搗いて粉にし ~>>

干した蟹を粉々にするために搗く部分です。なんでそんなことをするのかは,2015年3月1日の投稿で詳しく私の考察を述べています。
この長歌全体を是非見てほしいと私はお薦めします。
(続難読漢字シリーズ(29)につづく)

2018年5月30日水曜日

続難読漢字シリーズ(27)…官(つかさ)

今回は「官(つかさ)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「つかさ」と読む漢字は「司」「寮」というものもあります。意味は,役所や官庁,官職,役人などの意味で万葉集では使われています。
最初に紹介するのは,禁酒令を今晩は許してほしいという詠み人しらずの短歌です。敢て作者名を隠しているのかも知れませんね。

官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ(8-1657)
<つかさにもゆるしたまへり こよひのみのまむさけかも ちりこすなゆめ>
<<お上からお許しが出たぞ。今夜だけ飲める酒になってしまうのか。梅の花よ散らないほしい>>

万葉時代の花見といえば「梅見」です。禁酒令が出ているのですが,梅の花が咲いているときの「梅見」では多少飲んでも良いということになっていたのでしょうか。それとも,「きっと許してくれるに違いない」と勝手な解釈をして詠んだのかも。
明日も飲みたいから,名残の梅の花は散らないでほしいという酒好きの偽らざる気持ちをストレートに詠んだに違いないと私は思います。
さて,日本人が比較的寛容な民族なのは,移ろいゆく季節の変化と実は関係があるような気がします。季節の変化で長く同じ状態が続かないのだから,たとえば花見ができる今の時期だけは少し大目にみてあげようという気持ちになるというのがこの持論です。
次に紹介するのは,大宰府で山上憶良が対馬海峡で水難に遭い亡くなった志賀白水郎という船人を悼んで詠んだ10首の和歌の中の1首です。

官こそさしても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る(16-3964)
<つかさこそさしてもやらめ さかしらにゆきしあらをら なみにそでふる>
<<お役所の仕事なら命じて遣わすだろうけれど,自らの意思で海に出たあの勇者たち,波をものともせず袖を振っていた>>

本当は,お役所が責任をもってやるべき危険な仕事を民間の若者が買って出て,尊い命を落としてしまった。
現代でも,よく役所が怠慢で住民がケガをしたとか,役所がやらないので善意でやったら勝手なことをしたと訴えられたとか,同じようなことがありそうですね。
為政者による社会の制度は,あくまで全体としての社会システムの効率化に帰する目的で作られますが,法律や規則で規定されている以外のことには役所は手を出そうとしないのは基本的に今も昔も変わらないのかも知れません。
三権分立が確立された現代では,法律の内容や行政の実行不備は立法府や司法によって是正されますが,万葉時代ではなかなか役所は動いてくれなかったのは想像に難くありません。
有識者の憶良なら,そんな制度上の問題も意識して作歌していたのでしょうね。
最後に紹介するのは,天平感宝元(749)年閏(うるふ)5月に越中で大伴家持が詠んだ長歌の冒頭の一部です。

大君の遠の朝廷と 任きたまふ官のまにま み雪降る越に下り来 あらたまの年の五年~(18-4113)
<おほきみのとほのみかどと まきたまふつかさのまにま みゆきふるこしにくだりき あらたまのとしのいつとせ~>
<<天皇に任命された職務の内容により,雪がたくさん降る越中に下って来て5年の間~>>

天平感宝は,天平21年4月14日に改元され,約3か月半後(閏月含む)の天平感宝元年7月2日に天平勝宝に改元されてしまいます。
この短い間に家持は何首もの和歌を詠んでいます。越中にもそういった情報がかなりの早さで伝わり,それを記録しつつ作歌する家持の几帳面さを感じてしまいます。
この長歌は,家持には珍しく「越中のど田舎に5年も住んでもう飽きた」という内容で終わっています。
改元が頻繁に行われるような京の急な動きが気になっているので,のんびりとした越中にいる家持をなおさらそんな気にさせているのでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(28)につづく)

2018年5月28日月曜日

続難読漢字シリーズ(26)…衢(ちまた)

今回は「衢(ちまた)」について万葉集をみていきます。同様の意味で「ちまた」と読む漢字は「街」「港」「岐」というものもあります。
「ちまた」が出で来る万葉集の和歌の万葉仮名は意味からとった「街」「衢」が使われています。
そのため,漢字かな交じりでもこの二つの漢字がほぼそのまま使われてきたのかも知れません。今回紹介するのは「衢」の字だけです。
最初に紹介するのは,飛鳥時代の歌人といわれる三方沙弥(みかたのさみ)が園臣生羽(そののおほみいくは)の娘を娶ったが,それほど経たないうちに病に臥したときに作った3首の中の1首です。

橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして(2-125)
<たちばなのかげふむみちの やちまたにものをぞおもふ いもにあはずして>
<<橘の木蔭を踏んで行く道が八方に分かれているように思い乱れている。逢いに行くことができずに>>

橘は柑橘系の常緑樹です。万葉時代の街では,街路樹として橘を植え,夏の暑い時でも,分厚い葉で木陰を作って,快適にショッピングや散歩ができるようにしたのではないでしょうか。
木陰を選んで歩きたいが,あまりにも枝が分かれていて,どの枝の影を選べばよいか分からない。妻問に行けない自分の心の乱れは,まさにそんな気持ちだと作者は表現したいのでしょう。
さて,次に紹介するのは,時代は奈良時代の天平11(739)年8月に橘諸兄邸で行われた宴席で,高橋安麻呂が三方沙弥が詠んだ上の巻2の短歌を意識して,故人である豊島采女(とよしまのうねめ)が詠んだとして紹介した短歌のようです。

橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘の下で道を踏む影が八衢に分かれるように,あれこれと物思いをしてしまう。人に知られもしないで>>

宴席の主人である橘諸兄を意識して,橘様の下で何にお役に立てるか思い悩んでいますという諸兄へのヨイショの気持ちを表した短歌と感じてしまいます。何せ,あくまで宴席で披露された短歌ですからね。
最後に紹介するのは,車持娘子(くるまもちのいらつめ)が病に臥し,臨終のときに,ようやく訪れた夫の前で詠んだとされる長歌の反歌です。

占部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも(16-3812)
<うらへをも やそのちまたもうらとへど きみをあひむたどきしらずも>
<<占い師を招いたり道の四つ辻占いなど無用です。あの方に逢える手段など知らないのですもの>>

どんな占いに頼ってもだめでしたという諦め感が娘子を襲っています。妻問婚がどれほど妻にとって苦痛の慣習だったか,この和歌を始め万葉集に出てくる多くの妻の和歌から想像できます。
妻はただ待つだけしかできない。できることといえば,夫に和歌を送り,ただひたすら訪ねてきてほしいことを訴えるしかないのです。
夫に別の妻が何人もできたとしても,それを知る由もない。こんな理不尽なことを万葉集は多くの和歌で示しているのです。
しかし,万葉集を研究してきた人は圧倒的に男性が多く,こういった女性の苦痛を広く知らしめることは日本の風習だからとしてスルーされてきたように思います。
つい最近まで,たとえ夫婦が同じ家で暮らすようになっても,夫が外で勤め,妻が夫の帰りを何時になっても待つという専業主婦という標準家庭が前提での制度が残ってきたのです。
万葉集の編者は,律令制度などの当時としては先進的な制度の導入によって発生しうる影の部分も和歌として,客観的にそのまま残そうとしたと私には思えてなりません。
しかし,万葉集は後の為政者や研究者にとって都合よいところだけを秀歌などと称して利用され,ほんの一部の和歌だけでイメージが(編者の意図に反して)後世の人たちの好き嫌いや都合によってゆがめられて形作られてしまっているのです。
私は,これからも万葉集の和歌に優劣を付けず,先入観を排除した万葉集の和歌を情報としてリバーズエンジニアリング(あくまで現物全体から編者の意図解析)を続けていこうと考えています。
(続難読漢字シリーズ(27)につづく)

2018年5月25日金曜日

続難読漢字シリーズ(25)…携ふ(たづさふ)

今回は「携ふ(たづさふ)」について万葉集をみていきます。同伴する,連れ立つ,互いに手を取るといった意味に万葉集では使われています。現代仮名遣いでは「携える(たずさえる)」が多用されます。
最初に紹介するのは,恋人と手を携えて床を共にしたい気持ちを詠んだ詠み人しらずの短歌です。

人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば(10-1983)
<ひとごとは なつののくさのしげくとも いもとあれとしたづさはりねば>
<<夏野の草が刈ってもすぐ出てくるように他人の噂が五月蠅いけど,お前と私が手をとって寝てしまえばよいのさ>>

この作者,かなりやけっぱちになっていそうですね。彼女の手を携えて,それから共に寝たら,誰が何を言おうと幸せだという願いが伝わってきます。
次に紹介する短歌は,柿本人麻呂歌集に出てくる初冬の紀伊の国の浜辺で詠まれたとされるものです。

黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし礒を見れば悲しも(9-1796)
<もみちばのすぎにしこらと たづさはりあそびしいそを みればかなしも>
<<もみじの葉が散るように死んでしまった子と手を取り合って遊んだ磯を見うると悲しい>>

この作者は,幼いころ遊んだ懐かしい磯に来たが,そのとき手をつないで遊んだ子は今は死んでいない。その悲しさがこみあげて,この短歌を詠んだのでしょうか。
最後に紹介するのは,最愛の妻が亡くなったことに対する夫の慟哭の長歌(作者不詳)です。

天地の神はなかれや 愛しき我が妻離る 光る神鳴りはた娘子 携はりともにあらむと 思ひしに心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに 木綿たすき肩に取り懸け 倭文幣を手に取り持ちて な放けそと我れは祈れど 枕きて寝し妹が手本は 雲にたなびく(19-4236)
<あめつちのかみはなかれや うつくしきわがつまさかる ひかるかみなりはたをとめ たづさはりともにあらむと おもひしにこころたがひぬ いはむすべせむすべしらに ゆふたすきかたにとりかけ しつぬさをてにとりもちて なさけそとわれはいのれど まきてねしいもがたもとは くもにたなびく>
<<天地に神が無いのか,愛おしい妻は去ってしまった。光る神のような美しい機織り娘だった。手に手を取って共に生きようと思ったのに願いは通じなかった。言うべき言葉もなく,為すすべも知らずに,木綿襷を肩に掛け倭織の幣を手に持ち,僕たちを離れ離れにしないでと祈ったが,抱いて寝た妻の腕は雲のように白く横たわっている>>

おそらく病気で妻は亡くなったのでしょう,妻の最期に寄り添った夫の無念さが本当に伝わってくる長歌です。
現代では,病気の治療技術や予防技術により,若いうちに病気で死亡する人の割合が100年,200年前に比べ格段に減っています。マスコミ等で若くして亡くなった人の報道がされますが,それはニュースになるから敢てとりあげられているのであって,10万人あたりといった全体統計では,昔に比べて大きく減っているのは事実です。そのため,生命保険の保険料も値下げになっているくらいです。
ただし,比率は減っても,ゼロではありません。私の友人にお子さんまだ幼いうちに夫を急病で亡くされた女性がいます。また,私も今回大病を患い,想定寿命を見直し,余生をどう過ごすか,再検討をしているところです。
生きていることの大切さと,いつ終わるか分からない生きているとき何を生きがいとして,幸福感をもって誰と生きていくか,定期的に考えることが求められる状況になりました。
ただ,それはそれで,いろんな選択肢があり,想像力を働かせ,どれが最適か私は前向きに取り組んでいます。
(続難読漢字シリーズ(26)につづく)

2018年5月21日月曜日

続難読漢字シリーズ(24)…激る(はしる)激つ(だきつ)

今回は「激る(はしる)激つ(だきつ)」について万葉集をみていきます。「激つ(だきつ)」は現代仮名遣いでは「激る(たぎる)」となります。なお,現在では「水がはしる」という言い方はしなくなったようです。「激流」「激水」「激浪」「激端」などの音読み言葉ばかりで,この訓読みは両方とも思い出しにくいかもしれません。
今回は,「激る(はしる)」「激つ(だきつ)」が使われている,それぞれ長歌を紹介します。
最初に紹介する長歌は,「激る(はしる)」が詠み込まれている柿本人麻呂が吉野の離宮を賛美したものです。持統天皇が吉野に行幸したときに詠んだとされています。

やすみしし我が大君の きこしめす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太敷きませば ももしきの大宮人は 舟並めて朝川渡る 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆることなく この山のいや高知らす 水激る瀧の宮処は 見れど飽かぬかも(1-36)
<やすみししわがおほきみの きこしめすあめのしたに くにはしもさはにあれども やまかはのきよきかふちと みこころをよしののくにの はなぢらふあきづののへに みやばしらふとしきませば ももしきのおほみやひとは ふねなめてあさかはわたる ふなぎほひゆふかはわたる このかはのたゆることなく このやまのいやたかしらす みづはしるたきのみやこは みれどあかぬかも>
<<今の我が君が統治されている土地は天の下に多くあるけれど,山も川も清き河内の地とお好きな吉野の国の花散る秋津の野辺に,宮柱も太き宮殿を建立され,多くの大宮人は舟を浮かべて朝川を渡り,舟を競って夕川を渡っている。この川が絶えることのないように,この山がいつまでも高くそびえ立つように,我が君も永遠に高々と統治されることだ。水が大変な速さで走るように流れるこの滝の都はいくら見ても素晴らしい>>

吉野は,天武天皇のゆかりの地であり,暑い奈良盆地の夏の時期の避暑地として離宮を整備したのだと思います。
避暑地である吉野に到着した持統天皇一向に対して,人麻呂は吉野の素晴らしさを読み上げ,「素敵な吉野での避暑をお過ごしください」と,ここまでの旅の疲れをこの和歌で癒したのでしょうか。奈良盆地に流れる川と比較にならない水量,流の早さ,水の冷たさ,清らかさが,きっと天皇の心を潤すに違いないとこの長歌は締めているように私は解釈します。
紹介するもう一つの長歌は,「激つ(だきつ)」が詠み込まれた大伴家持が越中で詠んだとされるものです。

あらたまの年行きかはり 春されば花のみにほふ あしひきの山下響み 落ち激ち流る辟田の 川の瀬に鮎子さ走る 島つ鳥鵜養伴なへ 篝さしなづさひ行けば 我妹子が形見がてらと 紅の八しほに染めて おこせたる衣の裾も 通りて濡れぬ(19-4156)
<あらたまのとしゆきかはり はるさればはなのみにほふ あしひきのやましたとよみ おちたぎちながるさきたの かはのせにあゆこさばしる しまつとりうかひともなへ かがりさしなづさひゆけば わぎもこがかたみがてらと くれなゐのやしほにそめて おこせたるころものすそも とほりてぬれぬ>
<<年があらたまって春になると花々が美しく咲く。(雪解け水で)山のふもとを轟かして激しく流れくだる辟田川。(夏になると)その川の瀬では鮎の元気に泳ぐ姿が見える。(夏の夜)鵜飼仲間と伴って,篝火をかざして川を行くと,我が妻が形見と思ってと,紅色に幾度も染めて送ってくれた着物がすっかり水に濡れてしまった>>

この長歌から家持は越中の春から夏にかけての自然を謳歌している気持ちが私に伝わってきます。特に,鵜飼は家持にとって大変楽しみな夏の夜にみんなで興じるスポーツだったのです。
妻が気を付けてほしいという気持ちで作らせた女性が着るような派手な着物も,楽しくてしょうがない鵜飼に興じているうちに,スプ濡れになったのでしょう。
水量が「激る」ほど豊かで,アユがたくさんいる辟田川の自然がどれたけ家持の気持ちを癒したか,私には共感するものが多くあります。
(続難読漢字シリーズ(25)につづく)

2018年5月13日日曜日

続難読漢字シリーズ(23)…験(しるし)

今回は「験(しるし)」について万葉集をみていきます。漢字体から見ると馬を識別するために確認したマークを付けるような意味でしょうか。
最初に紹介するのは,坂上郎女が詠んだ短歌です。

まそ鏡磨ぎし心をゆるしてば後に言ふとも験あらめやも(4-673)
<まそかがみとぎしこころを ゆるしてば のちにいふともしるしあらめやも>
<<磨きあげた鏡のような無垢な気持ちをゆるめてしまったら,後で悔やんでみても意味がないのです>>

実は坂上郎女が詠んだ和歌には「験」を詠み込んでものがいくつかあります。郎女は「験」という言葉に何らかの思い入れがあったのかも知れません。
次は,海犬養岡麻呂(あまのいぬかひのをかまろ)という官僚が聖武天皇を称え天平6(735)年に詠んだとされる短歌です。

御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば(6-996)
<みたみわれいけるしるしあり あめつちの、かゆるときに あへらくおもへば>
<<陛下のもとに生まれた私は生きがいを確実に感じております。天地が栄えているこの時に生まれ合わせたことを思いますとなお更でございます>>

「験あり」を「確実に」と訳してみました。天平文化が最高潮に達した時代を良くあらわした天皇ヨイショの短歌ですね。
最後は,遣新羅使(けんしらぎし)の一人が,天平8年に北九州の港に船が立ち寄り停泊しているときに詠んだという短歌です。

秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験なし旅にしあれば(15-3677)
<あきののをにほはすはぎはさけれども みるしるしなしたびにしあれば>
<<秋の野に美しく萩は咲いている時期だが,私には見る当てがない。旅の途中なので>>

遣新羅使の「旅」の意味は,今の観光旅行とは全然違いのでしょう。
新羅がある朝鮮半島までは,壱岐,対島を経由すれば,そう遠距離でない船旅ですが,対馬海峡は波が比較的穏やかな瀬戸内海とは違い,当時の造船技術では難破する事故が絶えなかったのだろうと推測されます。
美しく咲いているだろう秋萩を,遣新羅使にとっては楽しんでゆっくり観る余裕なんかないという気持ちが伝わってきます。
(続難読漢字シリーズ(24)につづく)

2018年5月10日木曜日

続難読漢字シリーズ(22)…標(しめ)

今回は「標(しめ)」について万葉集をみていきます。標縄を「しめなわ」と読める人には,難読漢字に入らないかも知れませんね。
意味は,「記憶,記録,区別のために何らかの印しを残しておいたもの」というような意味です。
最初に紹介するのは,「標」について詠んだ万葉集の和歌の中で一番有名だと言っても良い額田王(ぬかだのおほきみ)が大海人皇子(後の天武天皇)に向けて詠んだものです。このブログでも何度か紹介しています。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(1-20)
<あかねさす むらさきのゆきしめのゆき のもりはみずやきみがそでふる>
<<薬草園に行ったときも猟地に行ったときも番人が見ているにも関わらず貴方がお袖をお振りになる>>

ここに出てくる「標野」は,後続の猟場であることを柵や溝などで区切ってあり,それで区切られた中の野のことだと思われます。
このように何らかの意味を持たせた区切りを示すものも「標」と呼んだことが想定できます。
次に紹介するのは山部赤人が春の野に出て春菜を摘みに出ようとしたときに詠んだ短歌です。

明日よりは春菜摘まむと標し野に昨日も今日も雪は降りつつ(8-1427)
<あすよりははるなつまむと しめしのにきのふもけふも ゆきはふりつつ>
<<季節は春になったので,明日あたりから春菜を摘もうと,自分用の野に出ようとしているが,昨日も今日も雪が降り続いている>>

ワラビ,ゼンマイ,ツクシ,フキノトウ,タケノコ,ウド,フキ,カタクリ,ヨモギ,セリ,ワサビ,タラの芽などの春菜は,万葉時代どこまでどんな料理方法で食べられていたか分かりませんが,春を恵みをいただくという意味で,待ち遠しいのは今と変わらない気がします。
ところが,季節が冬に逆戻りして,雪が降ってしまい,春菜を摘みに出られない赤人の残念な気持ちが表れています。
この短歌で「標し野」とあるように,どこで春菜を摘んでも良いというわけではなく,自分用に所有または借用している区画があったことが分かります。
最後に紹介するのは,大伴家持が越中で平城京の人を懐かしんで詠んだ短歌です。

あをによし奈良人見むと我が背子が標けむ紅葉地に落ちめやも(19-4223)
<あをによしならひとみむと わがせこがしめけむもみち つちにおちめやも>
<<奈良の人に見せようと我が友が標を結った黄葉です。地に散って落ちて朽ち果てることなどないですよ>>

富山の黄葉は見事だったのでしょう。それを奈良にいる人に見せたい。友人にここの黄葉の木が最高だよと標を付けてもらった。
きっと,毎年見事な黄葉を見せてくれるに違いないという家持の感動を詠んだものと私は解釈します。
(続難読漢字シリーズ(23)につづく)

2018年5月6日日曜日

続難読漢字シリーズ(21)…撓ふ(しなふ)

今回は「撓ふ」について万葉集をみていきます。現代仮名遣いでは「撓る」です。
「枝が撓る」「竿が撓る」「弓が撓る」などと使われ,まっすぐなものが元の形に戻る力を保って(弾力性を維持し)曲がる様子を表します。
では,最初に紹介するのは,小田事(をだのつかふ)という歌人が藤原京末期に旅で和歌山県の勢能山を越えるときに詠んだといわれる短歌1首です。

真木の葉の撓ふ背の山偲はずて我が越え行けば木の葉知りけむ(3-291)
<まきのはのしなふせのやま しのはずてわがこえゆけば このはしりけむ>
<<真木の葉が少し曲がっている。勢能山の山深さが心細いが,山を越えて行くとき,その曲がっている木の葉がこれから行く道を知っているで安心だ>>

訳は,次の論文を参考に,自分なりに現代語にしました。
http://manyo-world.com/files/TakefuMS-2010-005a.pdf
葉が曲がっているのは人が踏んだ後だと解釈すれば,そこを歩けば,道に迷わずに済むということのようです。
次は,緩やかに揺れ曲がった合歓木の花を彼女に見立てた詠み人しらずの短歌です。

我妹子を聞き都賀野辺の撓ひ合歓木我れは忍びず間なくし思へば(11-2752)
<わぎもこをききつがのへのしなひねぶ われはしのびずまなくしおもへば>
<<あの娘の噂を聞いては、都賀野辺にしなやかに揺れて咲いている合歓の花のようなあの娘に恋している気持ちを隠すことができない>>

男性から見て魅力的な女性はやはり直線イメージはなく,曲線イメージといっていいでしょう。合歓木の枝がそよ風に揺れて,そこに咲く花がより美しく見える姿を彼女の顔の美しさに喩えたのでしょうか。残念ながら,当時の服装では,体の曲線美はよく見えなかったと思われますので。
最後に紹介するのは,京に向かう上総国郡司大原今城(かみふさのくにのこほりのつかさ おほはらのいまき)の妻が見送るときに詠んだ歌です。

立ち撓ふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ(20-4441)
<たちしなふきみがすがたを わすれずはよのかぎりにや こひわたりなむ>
<<あなたのしなやかに立つお姿を忘れられないで,いつまでも恋い慕いながらずっと過ごしていくのよ>>

「しなやかに立つ」は夫の優しさも含めて,表現しているのでしょうか。
夫の今城は郡司ですから,地元トップの要人です。一人で旅をするわけではなく,お付きの人も多く付くはずです。ただ,今の千葉県から奈良県までの旅は,万葉時代,整備されていない道もあり,陸路では1カ月以上掛かったかも知れません。その間,夫が病気になる,ケガをする,盗賊に遭う,道に迷って行き倒れになるなど,妻にとっては心配なことだらけでしょう。
今では,旅行や外出などの移動中に事故や事件に遭う確率と,自宅にいて,災害,事故,事件に遭う確率にあまり差は無くなっている時代なのかも知れません。
それでも,家から出かけたり,帰る途中の家族に「気を付けてね」という気持ちと言葉は忘れたくないものですね。
(続難読漢字シリーズ(22)につづく)

2018年4月27日金曜日

続難読漢字シリーズ(20)…柵(しがらみ)

今回は「柵(しがらみ)」について,万葉集を見ていきます。柵は水流をせき止めるために、川の中に杭を打ち並べて、それに木の枝や竹などを横に結びつけたもののことで,水の流れを堰き止めるために使われたと言われています。現代語で使われる「過去のしがらみで」という使い方のように「邪魔するもの」という意味の元の意味です。
最初は,柿本人麻呂が,文武(もんむ)天皇4(700)年4月,天智(てんぢ)天皇の皇女である明日香皇女(あすかのひめみこ)が亡くなったことへの挽歌(長歌)に併せて詠んだ短歌です。

明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし(2-197)
<あすかがは しがらみわたしせかませば ながるるみづものどにかあらまし>
<<明日香川に柵(しがらみ)を渡して水の流れを堰き止めたら,流れる水も緩やかになるのに>>

明日香皇女を明日香川の水に喩え,流れ去る水を皇女の寿命とすれば,柵を渡し,もう少し皇女の寿命が去るのを延ばせたのではないかと人麻呂は詠んだのでしょうか。
次は,もう一首明日香川と柵を詠んだ恋の短歌です。

明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに(7-1380)
<あすかがはせぜにたまもはおひたれど しがらみあればなびきあはなくに>
<<明日香川の瀬ごとにきれいな藻が生えているけれど,柵があるので靡くこともできない>>

明日香川は,流れを緩やかにするため,または魚を獲るためなどに柵をあちこちに作っていたのでしょうか。
本当は柵がなく淀むことなくスムーズに水が流れるように,順調に自分たちの恋が進めばよいのに,堰き止める(邪魔する)ものがあるので,うまく進まない。そんな作者の恋の苦しみが私には伝わってきます。
最後は,恋の柵(邪魔もの)何するものぞという詠み人しらずの短歌です。

我妹子に我が恋ふらくは水ならばしがらみ越して行くべく思ほゆ(11-2709)
<わぎもこにあがこふらくは みづならばしがらみこして ゆくべくおもほゆ>
<<吾が妻を恋しいと思う気持ちを水の流れに喩えれば,どんな柵も通りこしてゆく激流のように思える>>

実は,人間を強い気持ちにさせていくには,少し抵抗や邪魔があったほうが良いのかも知れません。
仕事や付き合いで「やりにくいなあ」と感じたとき,「すごく嫌だな」と考えるか,自分のメンタル面を強くする材料と考えるかで,生きていく上での前向きさに差が出てくるような気がします。
4月からあたらしい環境に入った人たちには,慣れないために発生する様々な壁や嫌なことにぶつかるかも知れません。
その壁を成長のチャンスと感じられることが多いことを祈りたいですね。
(続難読漢字シリーズ(21)につづく)

2018年4月25日水曜日

続難読漢字シリーズ(19)…棹(さを)

今回は「棹(さを)」(当ブログでは基本旧かなづかいでふりがなを付けています)について,万葉集を見ていきます。棹は細い棒のことで,舟を動かすときに岸や海川などの底に差して行うときに使うものです。
最初に紹介するのは,鴨足人(かものたりひと)という人物が,藤原京の近くにあった天の香具山を詠んだ長歌です。ただし,京は廃され,平城京に遷った後を詠んだもののようです。

天降りつく天の香具山  霞立つ春に至れば  松風に池波立ちて  桜花木の暗茂に  沖辺には鴨妻呼ばひ  辺つ辺にあぢ群騒き  ももしきの大宮人の  退り出て遊ぶ船には  楫棹もなくて寂しも 漕ぐ人なしに(3-257)
<あもりつくあめのかぐやま かすみたつはるにいたれば まつかぜにいけなみたちて さくらばなこのくれしげに おきへにはかもつまよばひ へつへにあぢむらさわき ももしきのおほみやひとの まかりでてあそぶふねには かぢさをもなくてさぶしも こぐひとなしに>
<<天から降ってきたという天の香具山は霞が立つ春になると,松に吹く風に池は波立ち,桜の花は桜木の下のほうまでもたくさん咲き,池の辺りでは鴨が妻を求めて鳴き,岸辺ではあじ鴨の群れが騒いでいる。大宮人がいなくなり,大宮人が遊ぶ船には楫も棹もなくて寂しいことだ。そして 漕ぐ人もいない>>

ここに出てくる池は天の香具山の北東にある古池なのでしょうか。浅い池で船遊びの舟を動かすのは棹を使っていたのでしょう。なお,楫(かぢ)は舟の方向を調整する棒状のものだったようです。
万葉集には,京が廃された後に訪れで詠んだ和歌が複数出てきます。中でも有名なのは天智天皇が造営した大津京の廃墟を柿本人麻呂が見て詠んだ長歌(1-29)と反歌(1-30,31)があります。
そこでも,大宮人は船遊びをしていたことを想像させる表現があります。
次に紹介するのは,七夕を詠んだ詠み人しらずの短歌です。

我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て(10-2088)
<わがかくせるかぢさをなくてわたりもり ふねかさめやもしましはありまて>
<<わたしが隠してしまった楫棹がなくては渡し守よ舟は貸せないでしょう。楫棹を探してもう暫らく待って>>

七夕のときに舟で天の川を渡ってくるように恋人が来てくれた。楫と棹を隠してしまい,彼が帰れなくなるようにしてしまえば,いつまでも一緒にいられるという作者の気持ちでしょう。
最後は,聖武(しやうむ)天皇の前の天皇である女帝元正(げんしやう)天皇が難波宮(なにはのみや)に行幸したときに詠んだ歌を,同行していた田辺福麻呂(たなべのふくまろ)が代わって詠唱したと伝えられるものです。

夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ(18-4062)
<なつのよはみちたづたづし ふねにのりかはのせごとにさをさしのぼれ>
<<夏の夜は木々が生い茂って道を行くのが大変である。船に乗り,川の瀬ごとに棹を差して進んでいくのが良いであろう>>

確かに,夏になると路傍の草木が生い茂り,細い道なら道全体を覆って進みづらくなる経験を私の子供のとき,田舎道で頻繁に経験したことがあります。
難波宮付近は海にそそぐ川がたくさんあり,水上交通のほうが盛んだったのを意識した短歌かも知れませんね。
(続難読漢字シリーズ(20)につづく)

2018年4月22日日曜日

続難読漢字シリーズ(18)…鞘(さや)

今回は「鞘(さや)」について,万葉集を見ていきます。鞘は刀剣の刀身の部分を入れる筒のことです。
最初に紹介するのは,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が恋人の男性に贈った短歌です。

人言を繁みか君が二鞘の家を隔てて恋ひつつまさむ(4-685)
<ひとごとをしげみかきみが ふたさやのいへをへだてて こひつつまさむ>
<<人の噂が五月蠅いので,二鞘の中に隔てがあるように家を隔て(私に接することなく)恋い焦がれていらっしゃる>>

「二鞘」は2本の刀を一緒に入れることのできる鞘で,中に隔てがあるところから,「二鞘の」は「隔つ」にかかる枕詞とするようです。私は枕詞とはせず,そのまま現代訳にしてみました。
郎女は他人の噂を気にしてなかなか逢いに来てくれないことを嘆いて詠んだのでしょうか。
次は,柿本人麻呂歌集に出てくる旋頭歌を紹介します。

大刀の後鞘に入野に葛引く我妹真袖もち着せてむとかも夏草刈るも(7-1272)
<たちのしりさやにいりのにくずひくわぎも まそでもちきせてむとかもなつくさかるも>
<<太刀を使った後で鞘に入れることで思い出す入野で葛を引いているお前。あなたに袖付きの衣を作って着せてあげたいれで夏草を刈っているのよ>>

旋頭歌なので,男女の掛け合い(前半が男,後半が女)で現代語訳をしてみました。入野が地名なのか,入ることが許されている土地なのかは不明だそうです。その入野を引くために鞘がこの旋頭歌では使われています。
最後は,詠み人しらずの羇旅の長歌の一部です。

~ 道の隈八十隈ごとに 嘆きつつ我が過ぎ行けば  いや遠に里離り来ぬ  いや高に山も越え来ぬ  剣太刀鞘ゆ抜き出でて  伊香胡山いかにか我がせむ ゆくへ知らずて(13-3240)
<~ みちのくまやそくまごとに なげきつつわがすぎゆけば いやとほにさとさかりきぬ いやたかにやまもこえきぬ つるぎたちさやゆぬきいでて いかごやまいかにかわがせむ ゆくへしらずて>
<<~ 道の曲がり角や沢山の曲がり角でも, それごとに京を離れることを嘆きつつ我が旅行くと,なんと遠くまで住んでいた里を離れて来たことか,なんと高い山を越えて来たことか,剣太刀を鞘から抜くように速く,急いで旅してきた,伊香胡の山よこれから私はいかにしょうか,これからの道に迷って>>

この長歌の作者は本当に道に迷ったのか分かりませんが,故郷の近江の唐崎(次の反歌で詠まれている)のことが忘れられない気持ちの強さをどうしても表現したかったのでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(19)につづく)

2018年4月19日木曜日

続難読漢字シリーズ(17)…細れ(さざれ)

今回は「細れ(さざれ)」について,万葉集を見ていきます。「細」を「さざれ」と読むのは,難読としました。「細れ」というと思い出すのが,日本国歌に「~さざれ石の~」として出てくる言葉です。
万葉集でも「細れ石」を詠んだ東歌があります。最初にそれを紹介します。

細れ石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりかも(14-3542)
<さざれいしにこまをはさせて こころいたみあがもふいもが いへのあたりかも>
<<小石だらけの道に馬を走らせて馬が大変だと心が痛むほどに思い詰めている彼女の家は多分ここらあたりかな>>

悪路の近道を選んで馬を走らせたのかも知れません。それだけ「早く彼女に逢いたい。馬には悪いが」といった作者の意図でしょうか。
さて,次は同じく細れ石を詠んだ東歌ですが,詠み方が「さざれし」となっています。東国の一部の方言かもしれません。

信濃なる千曲の川の細れ石も君し踏みてば玉と拾はむ(14-3400)
<しなぬなるちぐまのかはの さざれしもきみしふみてば たまとひろはむ>
<<信濃の国にある千曲川の小石も,あなた様が踏んだならば玉のように大切に思って拾おう>>

状況がよくわからず,想像に任せるしかないこの短歌ですが,住んでいる場所が千曲川の近くで,恋人は何らかの事情で旅立った。その時,千曲川を渡ったか,千曲川の河原に沿って下っていったのかも知れません。残された女性が詠んだ短歌と私は考えます。
最後は,「細れ波」を詠んだ短歌ですが,初瀬川には海にある磯が無くて残念だという長歌の反歌を紹介します。

さざれ波浮きて流るる泊瀬川寄るべき礒のなきが寂しさ(13-3226)
<さざれなみうきてながるる はつせがはよるべきいその なきがさぶしさ>
<<さざ波を水面に浮べて流れる初瀬川 だが釣り舟を寄せられそうな磯のないのが何とも寂く物足りない>>

山の中や盆地を流れる初瀬川に海の磯のような平らな場所を求めても無駄に決まっているのに,なぜこんな長歌と反歌を詠んだのかわかりません。作者が伊勢まで行くことが遠くて叶わず嘆いて詠んだのかも知れないと私は想像します。
(続難読漢字シリーズ(18)につづく)

2018年4月17日火曜日

続難読漢字シリーズ(16)… 防人(さきもり)

今回は防人(さきもり)という言葉が出てくる万葉集の短歌を紹介します。防人を「さきもり」と読める人は結構いらっしゃるかもしれませんが,漢字の読みから想像できないという意味で難読としました。
防人の制度は,大宝律令などで飛鳥時代から奈良時代に掛けて行われた,中国,朝鮮等から攻めてこられた場合を想定して九州に置かれた防衛軍でした。
防人の徴兵は,東国からも多数行われたことが万葉集の防人の歌から分かります。
この東国からの徴兵の厳しい状況を詳らかに万葉集に記録したのが大伴家持でした。
最初に紹介するのは,巻7にある古歌17首の中に出てくる短歌です。

今年行く新防人が麻衣肩のまよひは誰れか取り見む(7-1265)
<ことしゆくにひさきもりが あさごろもかたのまよひは たれかとりみむ>
<<今年新任で派遣される防人が着る麻布の粗末な衣の肩のほつれは誰が繕ってやるのか>>

家持は天平勝宝7(755)年あたりから担当していた,防人を難波の港から九州に順次派遣する職務中に,この古歌を見つけたようです。万葉集に残しただけでなく,着るものにも事欠く貧しい生活者が派遣される防人の悲哀を感じ,防人に同情感をもったのかもしれません。
次に紹介するのは,東歌の巻(巻14)に「防人」が登場する短歌です。

防人に立ちし朝開の金戸出にたばなれ惜しみ泣きし子らはも(14-3569)
<さきもりにたちしあさけのかなとでに たばなれをしみなきしこらはも>
<<防人の徴兵され,家の戸を出たあの夜明け方の門出に別れを惜しんで泣いた子が思われる>>

「金戸」は金属でできた戸とすれば,作者の家は結構立派な家と想像できます。徴兵された作者は東国でも裕福な家の若者だったのかもしれません。
最後に紹介するのは,巻20の防人の歌群から那須郡(なすのこほり:今の栃木県那須町付近)の大伴部廣成(おほともべのひろなり)という徴兵された作者の短歌です。

ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人にさす(20-4382)
<ふたほがみあしけひとなり あたゆまひわがするときに さきもりにさす>
<<「ふたほがみ」氏は悪い人である。なぜなら,私が「あたゆまひ」になっている時に,私を防人に指名する>>

東国において,防人の徴兵は地域にとって深刻な問題だったのでしょう。
誰が徴兵され,誰が徴兵を赦されるのか? どういった基準で徴兵者に選ばれるのか? その基準が住民に明確に知らされていたとは限りません。
徴兵された人は不満が発生する当然でしょう。
「ふたほがみ」とは何かわかりませんが,作者とってもよく分からない悪い徴兵選抜基準をイメージしているものだと私は思います。
また,「あたゆまい」とは,「ゆまい」が「やまい」の東国方言であれば,何かの病気に作者は罹っていた可能性があります。
そうなると,「何で健常者でない俺が?」ということになってしまいそうです。
世界には徴兵制度を実施している国はそんなに多くないようです。将来日本でこんな歌が詠まれることのないことを祈りたいものです。
(続難読漢字シリーズ(17)につづく)

2018年4月13日金曜日

続難読漢字シリーズ(15)… 蟋蟀(こほろぎ)

今回は蟋蟀(こほろぎ)について,万葉集を見ていきます。「蟋蟀」は昆虫のコオロギのことです。なかなかの難読漢字であるだけでなく,書くほうも大変な漢字ですね。
「こほろぎ」の原文(万葉仮名)の字は「蟋蟀」が使われています。当時の中国語で使われていた漢字がそのまま万葉仮名として使われていたことに興味を感じます。
最初に紹介するのは,志貴皇子の皇子の一人である湯原王が詠んだ代表作の短歌です。

夕月夜心もしのに白露の置くこの庭に蟋蟀鳴くも(8-1552)
<ゆふづくよこころもしのに しらつゆのおくこのにはに こほろぎなくも>
<<夕月の夜に心がしなえるほどに白露がおりているこの庭にコオロギが鳴いている>>

情景だけを詠んだだけのように思えますが,白露に濡れて悲しげに鳴いているコオロギのような自分がいるということでしょうか。
次に紹介するのは,詠み人しらずの相聞歌です。

蟋蟀の待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは(10-2264)
<こほろぎのまちよろこぶる あきのよをぬるしるしなし まくらとわれは>
<<コオロギが恋の季節が来たと歓喜の音色を奏でる秋の夜,私には時にあらずで,枕としか一緒に寝られない>>

コオロギたちは待ちに待った恋の季節である秋になって,相手と逢って恋の思いを鳴き声で伝えている。でも,自分はその相手がいないので,枕とともにするしかないという作者の気持ちでしょうか。
最後に紹介するのは,旋頭歌です。

蟋蟀の我が床の辺に鳴きつつもとな 置き居つつ君に恋ふるに寐ねかてなくに(10-2310)
<こほろぎのあがとこのへになきつつもとな おきゐつつきみにこふるにいねかてなくに>
<<コオロギが私の寝室の近くでしきりに鳴いている その状態で君恋しと待ちかねながら寝ようにも寝付かれない>>

万葉時代は妻問婚を考えると蚊が舞う頃より,虫が鳴く秋のほうが恋の季節としては良かったのかも知れません。でも,事情や都合でなかなか逢えない場合は,夜が長くなってより切ない気持ちになった季節でもあったと私は感じます。
(続難読漢字シリーズ(16)につづく)

2018年4月12日木曜日

続難読漢字シリーズ(14)… 薦(こも)

今回は「薦(こも)」について,万葉集を見ていきます。「薦」はマコモの古称で使われる場合と薦で作った筵(むしろ)や畳(たたみ)という意味で使われる場合があります。
最初に紹介するのは,加工品でない植物である薦を詠んだ東歌です。

まを薦の節の間近くて逢はなへば沖つま鴨の嘆きぞ我がする(14-3524)
<まをごものふのまちかくて あはなへばおきつまかもの なげきぞあがする>
<<薦の節の間のようにとても近くにいるのに逢えなので,私は沖のマガモのように嘆いていますよ>>

「まを薦」は「薦」の美称と考えられるので,「薦」と現代訳としました。
マコモは,節をもつ小さな「マコモダケ」と呼ばれるものができます(食用)。その節と節の間が近いように,すぐ近くにいるのに逢いに来てくれない寂しい気持ちが,マガモの鳴き声と同じ悲しげな泣き声を発しているという作者の気持ちが素直に出ていると私は感じます。
次に紹介するのは,薦で編んだ敷物について詠んだ短歌です。

畳薦へだて編む数通はさば道の芝草生ひずあらましを(11-2777)
<たたみこもへだてあむかず かよはさばみちのしばくさ おひずあらましを>
<<畳薦は何度も薦を通して編むといいます。そのように何度もあなたが来てくだされば,道の芝草も生え放題にならないでしょうに>>

万葉時代,水辺に生える大量の薦を刈り取って乾燥させ,それを編んで筵や畳に加工したのだと思います。
畳は筵よりもきめ細かく編み,表面が筵に比べてなめらかで,座り心地が良かったのかも知れません。丁寧に編み込んで作られる畳薦のイメージが,この恋の歌で見えてくるように私は感じます。
さて,最後に紹介するのは,薦で作った敷物が元の薦の1本1本にバラバラに朽ちても恋人の来訪を待ち続ける気持ちを詠んだ短歌です。

ひとり寝と薦朽ちめやも綾席緒になるまでに君をし待たむ(11-2538)
<ひとりぬとこもくちめやも あやむしろをになるまでに きみをしまたむ>
<<一人で寝ているだけで薦の敷物が朽ちてしまうでしょうか。 それでも,その敷物が紐になるまでもあなたを待ちます>>

今回紹介した短歌3首はすべて作者が分からないもので,私は女性が詠んだものだと感じます。
この3首で「薦」というものが,寝具や敷物の材料として定着していたことが改めて確認できたのではないでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(15)につづく)

2018年4月1日日曜日

続難読漢字シリーズ(13)… 幾許(ここだ)

今回は幾許(ここだ)について,万葉集を見ていきます。「幾許」は「たくさん」「たいそう」「はなはだ」という意味です。
最初に紹介するのは,万葉集の愛好家なら多くの方が知っている,そして,このブログでも何回か紹介している東歌です。

多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子の幾許愛しき(14-3373)
<たまかはにさらすたづくり さらさらになにぞこのこの ここだかなしき>
<<多摩川にさらす手織りの布がさらにさらにきれいになるように,どうしてあの娘がこんなに愛おしいのだろう>>

この短歌の良さはやはり作者の「幾許(ここだ)」の気持ちがポイントといえるだろうと私は思います。
次に紹介するのは相手が雪が降る中逢いに来てくれた喜びを詠んだ娘子作の短歌です。

ぬばたまの黒髪濡れて沫雪の降るにや来ます幾許恋ふれば(16-3805)
<ぬばたまのくろかみぬれて あわゆきのふるにやきます ここだこふれば>
<<黒髪は沫雪が降って濡れています。それでも貴方来てくれました。私がいっぱいあなたを慕っていたからてすね>>

この短歌も「幾許」の気持ちの大きさがポイントだと私は思います。
最後の短歌は,橘諸兄の使者として越中の大伴家持を訪れた田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が宴席で詠んだものです。

いかにある布勢の浦ぞも幾許くに君が見せむと我れを留むる(18-4036)
<いかにあるふせのうらぞも ここだくにきみがみせむと われをとどむる>
<<一体どんな処なんでしょう,布勢の浦は。こうまで熱心に貴君が見せようと私を引き留めるのは>>

家持が京から来た福麻呂に「布勢の浦は絶景だから是非見てから帰ってくれ」と誘ったのでしょう。
布勢の浦は,今の立山連峰を遠くに臨む氷見海岸あたりと思われます。
こういう強い(幾許くに)誘いを使者の福麻呂にした家持には,橘諸兄にも越中に来てほしいという強い気持ちがあったのでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(14)につづく)

2018年3月31日土曜日

続難読漢字シリーズ(12)… 蓋し(けだし)

今回は蓋し(けだし)について,万葉集を見ていきます。「蓋し」は「ひょっとして」「もしかして」「もしや」「思うに」という意味です。
最初に紹介するのは,弓削皇子(ゆげのみこ)から贈られた歌に対して糠田王(ぬかだのおほきみ)が詠んで返した短歌です。

いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥 蓋しや鳴きし我が念へるごと(2-112)
<いにしへにこふらむとりは ほととぎすけだしやなきし あがもへるごと>
<<昔を恋しいと鳴くその鳥は霍公鳥でしょう。たしかに(昔が恋しいと)鳴いていますね。私が思っているのと同じように>>

この短歌で詠まれている「昔」とは,天武天皇がまだ存命で統治していたころだろうと言われています。そのころに比べて,今は悲しいことが多い(文武に優れた大津皇子の氾濫・粛清など)というのが,作者の感想だったのかも知れません。
さて,次に紹介するのは,恋人が来るのを待つ女性が詠んだ恋の歌です。

馬の音のとどともすれば松蔭に出でてぞ見つる蓋し君かと(11-2653)
<うまのおとのとどともすれば まつかげにいでてぞみつる けだしきみかと>
<<馬の足音がドドっとするので,庭の松の木の下まで出てみたのよ。もしかしてあなたが来たのかもしれないって思ったから>>

恋人の来るのを待つ身の辛さを「蓋し」という言葉が表しています。万葉時代,いろんな思いをして恋人または夫を待っていた女性が詠んだ短歌がたくさん万葉集には出てきます。
最後に紹介するのは,山上憶良が九州と対馬を結ぶ航路の海難で帰らぬ人となった志賀白水郎という航海士を偲んで詠んだとされる10首の内の1首です。

沖行くや赤ら小舟につと遣らば蓋し人見て開き見むかも(16-3868)
<おきゆくやあからをぶねに つとやらばけだしひとみて ひらきみむかも>
<<沖を行くあの赤い丹塗り小舟に土産をことづけたら,もしかしたら(白水郎がいて)開いて見るかもしれない>>

この人物は,地元の志賀島では多くの人に慕われていたのでしょう。
だから,「蓋し」がこの短歌に使われているように,何とか生きていてほしいという気持ちが捨てられないのです。そんな,残された人たちの気持ちを憶良は詠んだのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(13)につづく)

2018年3月22日木曜日

続難読漢字シリーズ(11)… 奇し(くすし)

今回は奇し(すくし)について,万葉集を見ていきます。「奇し」は「珍しい」「神秘的」という意味です。
最初に紹介するのは,藤原宮の役民が作歌した長歌の一部です。

~我が国は 常世にならむ  図負へるくすしき亀も  新代と泉の川に  持ち越せる真木のつまでを  百足らず筏に作り  泝すらむいそはく見れば(1-50)
<~わがくにはとこよにならむ あやおへるくすしきかめも あらたよといづみのかはに もちこせるまきのつまでを ももたらずいかだにつくり のぼすらむいそはくみれば かむながらにあらし>
<<~私たちの国は永遠に続く。吉兆を知らせる有難い亀は新しい時代を祝福して現れ,また泉の川の多くの角材で筏を作り,忙しく働く様子は天皇が神だからだろう>>

平城京の前の京である藤原京ができたことを喜んで,多分藤原京設立に深く関わった役人が詠んだ長歌です。藤原京はたった16年間だけ存在した京ですが,平城京を作るうえでの京作りの参考になった(奇し)京のではないかと私は考えます。
次に紹介するのは,平城京前期の皇族であった長田王(ながたのおほきみ)が詠んだ羇旅(旅先は九州隈本)の短歌です。

聞きしごとまこと尊くくすしくも神さびをるかこれの水島(3-245)
<ききしごとまことたふとく くすしくもかむさびをるか これのみづしま>
<<聞いていたとおり,尊い気配に満ちた不思議なほど神々しい さまであるこの水島は>>

万葉時代には全国の名所や珍しい(奇し)場所に関する情報が広く広まるようになったと私は考えます。
最後に紹介するのは,大伴家持が七夕を詠んだ長歌の一部です。

~うつせみの 世の人我れも  ここをしも あやにくすしみ 行きかはる年のはごとに 天の原振り放け見つつ 言ひ継ぎにすれ(18-4125)
<~うつせみのよのひとわれも ここをしもあやにくすしみ ゆきかはるとしのはごとに あまのはらふりさけみつつ いひつぎにすれ>
<<~現世の人間である我らも,これ(天の川に橋や渡しがなく,向こうにいる恋人と逢えないこと)を何とも不思議に神秘なこととして,行き代わる年ごとに天空を振り仰いでは語り継いできたのだ>>

男女の恋の実現の難しさを,橋も無く,渡し舟で渡るのも難しい(年に1回のみ)神秘的な天の川を例として,家持は詠んでいると私は理解します。
(続難読漢字シリーズ(12)につづく)

2018年3月16日金曜日

続難読漢字シリーズ(10)… 隈廻(くまみ)

今回は隈廻(くまみ)について,万葉集を見ていきます。「隈廻」は道の曲がり角という意味です。
最初に紹介するのは,天武天皇の皇女であった但馬皇女(たじまのひめみこ)が同じく天武天皇の皇子であった穂積皇子(ほづみのみこ)に贈った相聞歌です。
二人は,母は違っていても兄妹の関係で,許されない恋愛に苦しんでいます。

後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背(2-115)
<おくれゐてこひつつあらずはおひしかむ みちのくまみにしめゆへわがせ>
<<後に残され恋に苦しんでいるぐらいならいっそ追いかけてゆきたいのです。だから道の曲がり角ごとに分かるように目印をつけておいてくださいな,私のあなた>>

次に紹介するのは,若くして一生を終えた天武天皇の皇子である草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼み,仕えていた舎人(とねり)が詠んだ挽歌です。

夢にだに見ずありしものをおほほしく宮出もするかさ桧の隈廻を(2-175)
<いめにだにみずありしものを おほほしくみやでもするか さひのくまみを>
<<夢にも想像しなかったものを暗い気持ちで任務のために桧の隈廻(皇子の墓の地名)を通って宮に行くのだなあ>>

草壁皇子に仕えていた舎人には,お世話する人がもういないことに対する切ない気持ちがよく伝わってきます。
最後は,少し前の2018年1月6日にアップした「続難読漢字シリーズ(2)… 労(いたは)し 」でも紹介した山上憶良が詠んだ長歌に「隈廻」が出てきますので,再掲します。

うちひさす宮へ上ると  たらちしや母が手離れ  常知らぬ国の奥処を  百重山越えて過ぎ行き  いつしかも都を見むと  思ひつつ語らひ居れど  おのが身し労しければ  玉桙の道の隈廻に  草手折り柴取り敷きて  床じものうち臥い伏して  思ひつつ嘆き伏せらく  国にあらば父とり見まし  家にあらば母とり見まし  世間はかくのみならし  犬じもの道に伏してや命過ぎなむ(5-886)
<うちひさすみやへのぼると たらちしやははがてはなれ つねしらぬくにのおくかを ももへやまこえてすぎゆき いつしかもみやこをみむと おもひつつかたらひをれど おのがみしいたはしければ たまほこのみちのくまみに くさたをりしばとりしきて とこじものうちこいふして おもひつつなげきふせらく くににあらばちちとりみまし いへにあらばははとりみまし よのなかはかくのみならし いぬじものみちにふしてやいのちすぎなむ>
<<京へ行くため母のもとを離れ,知らなかった国の奥の方へと行って,幾重にも重った山を越えて,早く京を見ようと同行の人々と話し合っていたが,自分の体力が耐えられず,道の曲り角の土手の草を手折り,小枝を下に敷いて、それを床のようにして倒れ伏して,ため息をつき,いろいろ寢ながら考えたことは,生まれ故郷にいたら父が,家にいたら母が看病してくれる。しかし,世の中は思うようには行かないものだ。犬のように道端に伏して,最後は命が終わってしまうのだろう>>

急な峠を越える街道では,急勾配を緩和するために,どうしても道を曲線にしているところが多いのです。
そして,その隈廻・曲がり角(カーブ)ごとに名前を付け(日光の「いろは坂」のように),後どれだけ曲がれば峠に到達するかを思いつつ,苦しい登り道を上っていったのでしょう。
(続難読漢字シリーズ(11)につづく)

2018年3月12日月曜日

続難読漢字シリーズ(9)… 釧(くしろ)

今回は釧(くしろ)について万葉集を見ていきます。もちろん,北海道の釧路(くしろ)市を読める人にとっては,難しい感じではないかも知れません。
しかし,突然「釧」が出てきたら,サッと「くしろ」が出てきて,その意味(古代に使われていた腕輪)も分かる人は少ないのかも知れません。
最初に紹介する短歌は,持統天皇が伊勢に行幸した時,京に残った柿本人麻呂が行幸に同行した宮人たちのことを想像して詠んだものです。

釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ(1-41)
<くしろつくたふしのさきに けふもかもおほみやひとの たまもかるらむ>
<<答志の崎で,今日は大宮人たちは天皇に食べてもらうよう,綺麗でおいしい海藻を刈っているのでしょう>>

「釧着く」は「答志」を導く枕詞ですので,特に訳すことはしませんでした。「答志島」は,鳥羽市の沖にある三重県内最大の島です。
次は,振田向(ふるたのむけ)という役人が,筑紫の国を退る時に詠んだ歌です。

我妹子は釧にあらなむ左手の我が奥の手に巻きて去なましを(9-1766)
<わぎもこはくしろにあらなむ ひだりてのわがおくのてに まきていなましを>
<<貴女が釧だったらなあ,自分の奥の手に巻いて,遥か遠い筑紫まで一緒に行けるだろうに>>

赴任中に仲良くなった女性に贈った短歌でしょう。儀礼的な別れの歌といえなくもないですね。
最後は,妻を残して旅に出なければならなくなった夫が旅先で詠んだ短歌です。

玉釧まき寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎(12-3148)
<たまくしろまきねしいもを つきもへずおきてやこえむ このやまのさき>
<<綺麗な釧を腕にしたままで一緒に寝た妻と結ばれてからまだ日も経っていないのに,妻を残してこの山を越えて先に行く>>

「釧」は,万葉時代,女性の腕輪アクセサリとして,使われていたのでしょう。
(続難読漢字シリーズ(10)につづく)

2018年3月7日水曜日

続難読漢字シリーズ(8)… 昨夜(きぞ)

続難読漢字シリーズに戻ります。
今回は昨夜(さくや)の別の読み方「きぞ」について,万葉集を見ていきます。
最初は,大伴女郎(おほとものいらつめ)がなかなか妻問に来てくれなかったが,ようやく昨晩来てくれた夫に送った短歌です。

雨障み常する君はひさかたの昨夜の夜の雨に懲りにけむかも(4-519)
<あまつつみつねするきみはひさかたの きぞのよのあめにこりにけむかも>
<<雨を口実に来れないといつも言い訳するあなたは、昨夜の逢瀬の雨に濡れて懲りてしまわれたですか>>

昨晩雨だったのに妻問に来てくれた夫に対する返礼の歌ですが,待つだけの身である妻の立場の複雑な気持ちを詠んだ秀歌と私は思います。
来てくれたのは本当にうれしい。でも,それがもうこれっきり(最後)にならないことを願う気持ちをどう表現するか。それを相手のなかなか来てくれない言い訳を逆手にとって,相手に伝えようとしている表現力に
次は,若い頃の大伴家持が紀女郎(きのいらつめ)に対して贈った5首の内の1首です。

ぬばたまの昨夜は帰しつ今夜さへ我れを帰すな道の長手を(4-781)
<ぬばたまのきぞはかへしつ こよひさへわれをかへす なみちのながてを>
<<暗い夜道を昨夜は私を帰しましたよね。今夜は私を帰さないでください。長い道のりなんですから>>

家持は,年上の紀女郎の気持ちを自分に靡かせようと頑張って詠んだようです。
結果は,成功とはいかなかったようです。
最後は,信州地方にある川を題材に詠んだ東歌です。

うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も(14-3505)
<うちひさつ みやのせがはのかほばなの こひてかぬらむきぞもこよひも>
<<宮能瀬川のヒルガオの花がいつまでも恋人が来てほしい咲いているように,昨夜も今夜も恋しいと思いながらひとり寝てるだけかな>>

今は,「昨夜」を「きぞ」と言うことは現代ではほとんど無くなってしまったようですが,「昨日」を「きのふ(う)」と言うのが今に残ったのは,前者に比べ,偶然よく使われ言葉だったことが理由なのかも知れません。
万葉集は,1300年の間のそんな言葉の流行りすたりも,現代の私たちに教えてくれるのです。
(続難読漢字シリーズ(9)につづく)

2018年2月27日火曜日

本ブログ開始10年目突入スペシャル…病は突然やってくる

難読漢字シリーズを中断し「本ブログ開始10年目スペシャル」をお送りします。早いもので,このブログを開始して10年目に入りました。
この9年間には,私にとっていろんなことがありましたが,万葉集の奥深さと,現代に通じるヒトの感性の多様さを感じながら続けることができました。
最近は,海外からのアクセス(特にヨーロッパ)のほうが多くなっており,海外に住む日本人の方からのアクセスや,翻訳ソフトが良くなったことと日本ブームの影響もあるのかなと思います。
さて,人間が生きていくうえで「生老病死」という苦しみが襲ってくることを以前このブログでも書いたことがあります。
実は,私今そのうちの「病」の苦しみと闘っています。昨年,11月ころまでは,私は健康そのものでしたが,急な体調不良が発生し,いくつかの医療機関を受診した結果,現在は東京都心の大学病院に入院中です。
緊急手術を受け,その後の状況は,一応安定していますが,今後の治療効果を見極めながら,場合によっては強い副作用も覚悟すべき闘病が続きそうです。
それでも,このブログ満10年までに500投稿を目指していきたいと考えています。

古人のたまへしめたる吉備の酒病めばすべなし貫簀賜らむ(4-554)
<ふるひとのたまへしめたるきびのさけやめばすべなしぬきすたばらむ>
<<賜りいただいた昔から飲まれているという吉備の酒も,病には効きませんね,私の辺りを隠す簀をくださいな>>

この短歌は,奈良の京で病に伏している丹生女王(にふのおほきみ)が,大宰府にいる大伴旅人から送られてきた吉備(今の瀬戸内地方の一部)の酒に対して返信したものです。
私の解釈では「病人に酒を送ってきて,どうすんねん?」という内容ですが,真に受けてクレームの短歌だと思う人はいないでしょう。
無類の酒付きの旅人は「酒は百薬の長」ときっと思っているのでしょう。今も「養〇酒」のように,薬用酒も製品として販売されていますしね。
ただ,丹生女王は,旅人にあまり酒を飲みすぎないように注意するようにと返したのだのだろうというのが私の解釈です。
そういえば,私が入院している部屋も相部屋で,それぞれのベッドはカーテンで仕切られているだけですが,それがあるだけで心が落ち着きます。
お酒は,お正月にビールを少し飲んだ以降,私は飲んでいません(当然,病院では絶対飲めませんが)。
それでも,今私はお酒が無性に飲みたいとは思いません。「たびと」と「旅人」の違いですかね。
まとまらないスペシャル議事となりましたが,今回はとりあえずここまで。
(続難読漢字シリーズ(8)につづく)

2018年2月5日月曜日

続難読漢字シリーズ(7)… 畏し(かしこし)

今回は,畏し(かしこし)について,万葉集を見ていきます。「畏」という漢字は「畏怖(いふ)」で出てきますので,見たことはある人は多いかもしれません。
最初は,羇旅の短歌からです。

大海の波は畏ししかれども神を斎ひて舟出せばいかに(7-1232)
<おほうみのなみはかしこし しかれどもかみをいはひてふなでせばいかに>
<<大海の波は怖ろしいけれど,海神に無事を祈って船出をすればどうだろう>>

作者は,何日も海が凪ぐのを待っている船に乗っている旅人なのでしょう。
待ちくたびれて,海神に祈れば行けるのではとイライラしながら作ったのでしょうか。
次も羇旅の短歌ですが,女性作と言われています。

海の底沖は畏し礒廻より漕ぎ廻みいませ月は経ぬとも(12-3199)
<わたのそこおきはかしこし いそみよりこぎたみいませ つきはへぬとも>
<<海の深い沖は恐ろしいので,磯伝いに漕ぎう回してくださいませ。多少月数がかかっても>>

女性らしい危険を避けたい気持ちを素直に詠んだと私は感じます。
スミマセン。「女性らしい」というのは,あくまで私の勝手な感覚です。こんなことに気を付けなければいけない時代になったのですね。
最後は,ガラッと変わって恋愛の短歌です。

妹と言はばなめし畏ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも(12-2915)
<いもといはばなめしかしこし しかすがにかけまくほしき ことにあるかも>
<<彼女を最愛の恋人と言ったら無作法で,恐れ多い。そうはいうものの本当にそう言ってみたいことだ>>

律令制度の階級が違う家間の恋愛には,ハードルがあったかもしれません。
この男性は階級がかなり上の家の女性を好きになったのでしょう。
しょうがないですね。人を好きになるのに家柄などは関係ないですからね。
万葉集は律令制度の良さを認めながらも,制度がもつさまざまな人への影響を見逃さず残しているところに,編集の意図の多様性を強く感じ,また凄さも感じる私です。
(続難読漢字シリーズ(8)につづく)

2018年1月27日土曜日

続難読漢字シリーズ(6)… 燕子花(かきつはた)

今回は,燕子花(かきつはた)をとりあげます。もちろん,現代用語では燕子花は「かきつばた」と書かないと正解にはならないと思います。
燕子花は,5~6月に咲く,アヤメ科の植物で,アヤメ,花菖蒲と見分けがつきにくいほどよく似ています。万葉時代は,その区別が完全になされていたは不明です。
後で紹介しますが,万葉時代には「かきつはた」と「かきつばた」と両方の発音をすることがあったようですが,伊勢物語の第九段では「かきつばた」となっていることから平安時代初期には濁音が主流になっていたのでしょうか。
では,燕子花を詠んだ万葉集の短歌を紹介していきます。なお,万葉集の漢字かな交じり文にはひらがなで「かきつはた」と書いているものが多いようですが,敢て「燕子花」と漢字にしています。
最初は,美しいカキツバタの花を夢に見るという詠み人しらず(作者未詳)の短歌です。

常ならぬ人国山の秋津野の燕子花をし夢に見しかも(7-1345)
<つねならぬひとくにやまの あきづののかきつはたをしいめにみしかも>
<<滅多に見ることができない人国山の秋津野に咲くカキツバタを夢にまで見たことよ>>

次は,カキツバタのような可愛い女性を詠んだ,これも詠み人しらずの短歌です。

燕子花丹つらふ君をいささめに思ひ出でつつ嘆きつるかも(11-2521)
<かきつはたにつらふきみをいささめに おもひいでつつなげきつるかも>
<<カキツバタのように愛らしく,頬をほんのり赤く染める君をふと思い出してはため息をつく>>

最後は,大伴家持が天平16年4月(新暦では花の咲くころ)にカキツバタを詠んだ短歌を紹介します。

燕子花衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり(17-3921)
<かきつばたきぬにすりつけますらをのきそひかりするつきはきにけり>
<<カキツバタを衣に摺り付けて,大夫が着重ねをして狩りをする時期になったなあ>>

ここでは「かきつばた」と濁音の「ば」で発音しています。
大伴家持は濁音で発音するのが好きだったのか,歌人の中では流行っていたのかわかりません。この短歌がきっかけで「かきつはた」から「かきつばた」に変わったということは,まさかないと思いますが。
(続難読漢字シリーズ(7)につづく)

2018年1月15日月曜日

続難読漢字シリーズ(5)… 陽炎(かぎろひ)

今回は,陽炎(かぎろひ)を見ていきます。もちろん,現代用語では陽炎は「かげろう」と読まないと正解にはなりません。
万葉時代には,「かげろう」は「かぎろひ」と発音していましたが,広辞苑などによると「かぎろひ」から「かげろう」になったのは事実のようです。万葉集では「陽炎」は日の出前に東の空にさす光という意味で使われている場合と「陽炎の」として,春や燃えるの枕詞として使われる場合があります。
古今集の時代になると「陽炎」を今の「かげろう」の意味で詠んだ,次の詠み人しらずの短歌が出てきますので,平安時代に入って意味が今の「かげろう」に近づいていったのでしょうか。

陽炎のそれかあらぬか春雨の古人なれば袖ぞ濡れぬる(古今集巻14-731)
<<陽炎のようにゆれているあなたのお気持ちなのかどうか,春雨の時期になってもあなたを待っている私は,あなたにとって過去の相手かもしれませんが,私の袖は濡れているのです>>

さて,万葉集の和歌の紹介に移りますが,陽炎を詠んだ有名な万葉集の短歌は次の柿本人麻呂が詠んだとされる次のものです。この短歌の解説については,2010年12月5日に投稿した「動きの詞(ことば)シリーズ…立つ(5:まとめ) 」に記していますので,省略します。

東の野に陽炎の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(1-48)
<ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ>
<<東の方向の野に日の出前に東の空にさす光が見えて,後ろを見たら月が西方に沈みかけている>>

次の詠み人しらずの短歌は,もしかしら今の「かげろう」の意味に近い用法の短歌かもしれません。

今さらに雪降らめやも陽炎の燃ゆる春へとなりにしものを(10-1835)
<いまさらにゆきふらめやも かぎろひのもゆるはるへと なりにしものを>
<<もう雪は降らないだろう。陽炎が燃える春にきっとなったことだから>>

「陽炎の」を「燃ゆる」の枕詞だとする説があります。でも,ここは「かげろう」が盛んに出ることを「燃ゆる」という言葉で形容したのだという風に訳してみました。
次は,「陽炎の」が枕詞として使われている例(田辺福麻呂歌集にあったという長歌の一部)です。

~ 八百万千年を兼ねて 定めけむ奈良の都は 陽炎の春にしなれば 春日山御笠の野辺に 桜花木の暗隠り 貌鳥は間なくしば鳴く ~(6-1047)
<~ やほよろづちとせをかねて さだめけむならのみやこは かぎろひのはるにしなれば かすがやまみかさののへに さくらばなこのくれがくり かほどりはまなくしばなく ~>
<<~ ずっと未来のことも見据えて定められた奈良の都は,春になると春日山の三笠の野に桜花が木を覆い隠すように咲き,貌鳥は絶間なくしきりに鳴く ~>>

奈良の京(みやこ)を讃嘆している長歌です。「陽炎の」は「春」の枕詞として訳しませんでした。ちなみに「貌鳥」も難読の漢字の一つでしょうか。
最後は,巻は異なりますが,同じく田辺福麻呂歌集にあったという長歌(弟の死別に対して詠んだもの)の一部です。

~ 天雲の別れし行けば 闇夜なす思ひ惑はひ 射ゆ鹿の心を痛み 葦垣の思ひ乱れて 春鳥の哭のみ泣きつつ あぢさはふ夜昼知らず 陽炎の心燃えつつ 嘆く別れを(9-1804)
<~ あまくものわかれしゆけば やみよなすおもひまとはひ いゆししのこころをいたみ あしかきのおもひみだれて はるとりのねのみなきつつ あぢさはふよるひるしらず かぎろひのこころもえつつ なげくわかれを>
<<~ (弟が)別れて行ってしまったので,闇夜に迷ふように心迷いをして,矢で射られた鹿ように心が傷むので,思い乱れて激しく泣きながら夜も昼も心が燒けるように嘆いているこの別れよ>>

やはり,長歌では5文字の句は枕詞として使われる場合が多いので,ここでも枕詞として「陽炎」は訳しませんでした。
これら万葉集の和歌から「陽炎(かぎろひ)」は今の「陽炎(かげろう)」より,もう少し抽象的な概念を表す言葉だったと考えてもよいでしょう。
(続難読漢字シリーズ(6)につづく)

2018年1月12日金曜日

続難読漢字シリーズ(4)… 篝(かがり)

今回は,篝火(かがりび)の篝について,万葉集を見ていきます。今回紹介する3首はすべて大伴家持作の長歌2首(一部もあり)と短歌一首です。
日本では各地でかがり火を焚く祭りが多く行われていますので,かがり火という言葉知っていても,篝火を読める人は全員ではなさそうですね。
ところで,万葉集で「篝」を詠んだ和歌は,これから紹介する3首のみです。
別の言い方をすると,大伴家持以外のこの「篝」という言葉を使った和歌を万葉集では誰も詠んでいないということになります。さて,家持が「篝」という言葉をどう使って和歌を詠んだのかを探ってみたいと思います。
最初は,越中で詠んだ短歌1首からです。

婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり(17-4023)
<めひがはのはやきせごとに かがりさしやそとものをは うかはたちけり>
<<婦負川の早瀬ごとに篝火をかざし,大勢の男性役人達がう飼いを楽しんでいる>>

この短歌は,2016年1月13日の投稿「今もあるシリーズ「鵜(う)」…「う飼い」は「渓流釣り」より古いスポーツ? 」で一度紹介しています。この時は「鵜飼」がテーマでしたが,今回は篝火がテーマです。
実は昨年,愛知県犬山市の犬山城の近くで行われている木曽川鵜飼を観光船に乗って見学しました。鵜飼舟の先頭に突き出した金属製のカゴに火力が強く長持ちする松の木を燃やしたかがり火を焚きます。その光に寄ってくるアユを鵜がのどまで飲み込んだら,鵜匠が引き寄せ,吐かせるという実演でした。かがり火の火力の強さと鵜匠が素早く薪を投入し火力を維持する行動から,かがり火一つをとってもかなりの訓練が必要と感じました。
この短歌は家持が越中に赴任してそれほど立っていない時期で,初めて見た鵜飼に家持は魅せられたのですが,かがり火の列(当時は舟の上ではなく,河原に立てた)壮観さにも感動したのでしょう。
次は,同じく越中で鷹狩の鷹を逃がしてしまった家臣への怒りを詠んだ長歌の一部です。

~ 鮎走る夏の盛りと 島つ鳥鵜養が伴は 行く川の清き瀬ごとに 篝さしなづさひ上る 露霜の秋に至れば 野も多に鳥すだけりと 大夫の友誘ひて 鷹はしもあまたあれども 矢形尾の我が大黒に ~(17-4011)
<~ あゆはしるなつのさかりと しまつとりうかひがともは ゆくかはのきよきせごとに かがりさしなづさひのぼる つゆしものあきにいたれば のもさはにとりすだけりと ますらをのともいざなひて たかはしもあまたあれども やかたをのあがおほぐろに ~>
<<~ 川にアユが泳ぎ走る夏の盛りには鵜飼をする家臣が流れが清らかな瀬ごとにかがり火を立てて,川の水に入って鵜飼をする。露や霜が降りる秋になれば,野に多く鳥の巣ができるので,屈強な友を呼び出して,自分は鷹は多くもっているが,その中でも屋形尾の緒をもった真っ黒な大黒という名前の鷹 ~>>

この後,世話をさせていた家臣に大黒という一番気に入っていた鷹を逃がしてしまったことに対して延々とや家持は悪態をつくのですが,それはここでは触れません。
結局,「篝」はやはり,前段の鵜飼の話で使用されています。
最後も家持4年目の越中において鵜飼の話で「篝」を詠んだ長歌です。短いのですべて紹介します。

あらたまの年行きかはり  春されば花のみにほふ  あしひきの山下響み  落ち激ち流る 辟田の川の瀬に 鮎子さ走る  島つ鳥鵜養伴なへ  篝さしなづさひ行けば  我妹子が形見がてらと 紅の八しほに染めて  おこせたる衣の裾も 通りて濡れぬ(19-4156)
<あらたまのとしゆきかはり はるさればはなのみにほふ あしひきのやましたとよみ おちたぎちながるさきたの かはのせにあゆこさばしる しまつとりうかひともなへ かがりさしなづさひゆけば わぎもこがかたみがてらと くれなゐのやしほにそめて おこせたるころものすそも とほりてぬれぬ>
<<年が変わり春がやってきたので,花が美しく咲いている山の下に轟音を響かせて落ちて激して流れる辟田の川の瀬に,アユが泳ぎ走っているので,鵜飼の篝火を立てて,水につかって鵜飼をすると,妻が形見のついでにと贈ってくれた紅の色深く染めた著物の襴までも通って水に濡れたよ>>

家持は越中の生活にもすっかり慣れ,毎年季節ごとにやってくる楽しみも分かってきたのでしょう。
その中でも,この長歌から春になってアユが現れる夜に,かがり火を立てて行う鵜飼が家持にとっては楽しみでしょうがなかったのでしょうね。
越中赴任当初は,鵜飼は見ているだけだったのが,この歌を詠んだ頃には,自分が鵜匠となって鵜飼を楽しんだ様子が読み取れます。
結局,篝はこの3首のみ鵜飼との関連でしか,万葉集では使われていないようです。
そのため,かがり火を使った鵜飼という狩猟技法は,越中で考案され,スポーツとしても盛んになり,家持が万葉集で紹介したことで,全国各地で行われるようになったと考えるのは考えすぎでしょうか。
(続難読漢字シリーズ(5)につづく)

2018年1月8日月曜日

続難読漢字シリーズ(3)… 末(うら,うれ)

今回は「末」の漢字を「うら」「うれ」と発音するケースについて万葉集を見ていきます。何かの末端(先のほう)や終端(終わりのほう)という意味です。
なお,万葉集でも「末」を今でも使う「すゑ」と発音する歌はたくさんあります。そのほか,「末」を「ぬれ」と発音する歌もあります。
その「末」の部分ですが,元の万葉仮名に「末」という漢字がすでに使われている歌も多くあります。
「すゑ」と読む発音する万葉集の歌は,万葉集の中でも比較的後ろの時代のもののようです。そのため,もしかしたら「すゑ」という発音は奈良時代に入ってから流行り出した言い方かも知れませんね。
「ぬれ」「すゑ」と発音する歌については,後の機会に触れることにして,今回は「う」で始まる「うら」「うれ」について紹介していきます。
最初の短歌は,今の季節を詠んだものです。

池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
<いけのへの まつのうらばにふるゆきは いほへふりしけあすさへもみむ>
<<庭園の池の脇に生えている松の葉先に降る雪は,幾重にも積もるといい,明日も見たい気持ちです>>

この短歌は,作者が未詳だが,阿部虫麻呂が宴席で披露したと左注に書かれています。
松は尖った葉が隙間をもって放射状に生えています。そのため,葉先に積もった雪は,外気のみにさらされ,ある部分が融けても,融けた水は下の落ち,他の雪をさらに融かしてしまうことがありません。雪がなかなか解けないので,その上に新たな雪が重なって積もってくことになります。
その雪が,明日まで残るだけでなく,さらにこれから幾重にもたくさん積もったものを見たいという気持ちを詠んだものだと私は考えます。
宴席のとき,外は雪が降ってきて,雪が積もることは良いことが重なるというイメージがあり,宴席参加者の幸(さち)多きを願って,披露したのだろうと想像ができます。
さらに想像を膨らませると阿部虫麻呂は宴席の司会のような役目だったとイメージしてしまいます。
さて,次も同じ季節で,やはり松が出てきます。家の外に出て詠んだものだと考えられます。

巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る(10-2314)
<まきむくの ひはらもいまだくもゐねば こまつがうれゆあわゆきながる>
<<巻向山の裾野のヒノキ原にはまだ雪を降らすような雲も見えないのに,近くの松の葉先に泡雪がどこからか漂っている>>

巻向山(567m)は三輪山(467m)の東に位置し,奈良盆地から見た場合,三輪山の奥に立つ山となります。作者は,奈良盆地ではなく初瀬街道の長谷寺がある付近にいて,この短歌を詠んだのかも知れません。
山は晴れてはっきり見えるけれど,雪がちらつくのは山に囲まれた地方では珍しくないと私は思うのですが,作者は京から来た都会人で,これを珍しいこととして詠んだと私は想像します。
特に松の葉は濃い緑なので,葉先の前を風に流されていく雪がはっきり見えたことに驚きを感じたと考えます。
最後は,少し早いですが,春の気配を感じさせる柳が出てくる女性が詠んだとされる東歌です。

恋しけば来ませ我が背子垣つ柳末摘み枯らし我れ立ち待たむ(14-3455)
<こひしけばきませわがせこ かきつやぎうれつみからし われたちまたむ>
<<そんなに恋しいなら,早く来て。垣根の柳の葉先を摘みとってしまうくらい私はじっと立ってお待ちしているのよ>>

柳は春になると枝の先を中心に新芽がたくさん芽吹きます。それを全部摘み取ってしまうくらい,長い時間待っている気持ちを知ってほしいと詠んだものでしょうか。
春になって,少しずつ温かくなり,移動も楽になってくると,待ちに待った彼との恋の季節が始まる期待があふれる乙女心を感じますね。
東歌の女性作の相聞歌は気持ちをストレートに表現する積極さがいいですね。
(続難読漢字シリーズ(4)につづく)

2018年1月6日土曜日

続難読漢字シリーズ(2)… 労(いたは)し

今回は,「労(いたは)し」について,万葉集の用例を見ていきます。
この言葉は,「残された子がいたわしい」という言葉が普通に使われているため,難読のレベルは低いと思う方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし,万葉時代で使われている意味は今と少し違っていたようです。
まず最初は山上憶良が詠んだとされる長歌の紹介です。

うちひさす宮へ上ると  たらちしや母が手離れ  常知らぬ国の奥処を  百重山越えて過ぎ行き  いつしかも都を見むと  思ひつつ語らひ居れど  おのが身し労しければ  玉桙の道の隈廻に  草手折り柴取り敷きて  床じものうち臥い伏して  思ひつつ嘆き伏せらく  国にあらば父とり見まし  家にあらば母とり見まし  世間はかくのみならし  犬じもの道に伏してや命過ぎなむ(5-886)
<うちひさすみやへのぼると たらちしやははがてはなれ つねしらぬくにのおくかを ももへやまこえてすぎゆき いつしかもみやこをみむと おもひつつかたらひをれど おのがみしいたはしければ たまほこのみちのくまみに くさたをりしばとりしきて とこじものうちこいふして おもひつつなげきふせらく くににあらばちちとりみまし いへにあらばははとりみまし よのなかはかくのみならし いぬじものみちにふしてやいのちすぎなむ>
<<京へ行くため母のもとを離れ,知らなかった国の奥の方へと行って,幾重にも重った山を越えて,早く京を見ようと同行の人々と話し合っていたが,自分の体力が耐えられず,道の曲り角の土手の草を手折り,小枝を下に敷いて、それを床のようにして倒れ伏して,ため息をつき,いろいろ寢ながら考えたことは,生まれ故郷にいたら父が,家にいたら母が看病してくれる。しかし,世の中は思うようには行かないものだ。犬のように道端に伏して,最後は命が終わってしまうのだろう>>

この長歌は,京(みやこ)に向かったが,志半ばで路上に倒れてしまった人を見て,またはそれをイメージして,倒れた人の思いを想像して憶良が詠んだと考えられます。
この中に出てくる「おのが身し労しければ」は,倒れた旅人は最初集団で京を目指して移動したのだが,病気になったか,ケガをしたか,からだがひ弱だったのか,みんなに付いてくことができず,動けなくなってしまったのでしょう。
この場合の「労し」は「思うようにならない」という意味が近いのではないかと私は思います。
次も行き倒れ(ただし,溺死者)を詠んだ詠み人しらずの長歌です。

玉桙の道行く人は  あしひきの山行き野行き  にはたづみ川行き渡り  鯨魚取り海道に出でて  畏きや神の渡りは  吹く風ものどには吹かず 立つ波もおほには立たず  とゐ波の塞ふる道を  誰が心労しとかも直渡りけむ直渡りけむ(13-3335)
<たまほこのみちゆくひとは あしひきのやまゆきのゆき にはたづみかはゆきわたり いさなとりうみぢにいでて かしこきやかみのわたりは ふくかぜものどにはふかず たつなみもおほにはたたず とゐなみのささふるみちを たがこころいたはしとかも ただわたりけむただわたりけむ>
<<旅する人は山を行き,野を行き,川を渡渡り,海路に出で,荒神がいる渡り場は,吹く風も激しく,立つ波も高く,しきりなくおし寄せる波が邪魔をする道を,誰のことがひどく気になったのか分からいが,無理に渡ってしまった>>

この長歌に出てくる「誰が心 労しとかも」は,誰かのことが非常に気になって冷静さを欠いた状況になったと私は解釈します。渡し場にいる人たちは,「無理だ」「渡れないから止めとけ」といったのを溺死した人は聞かなかったのでしょう。
最後は,大伴家持が天平勝宝2年5月6日に兎原娘子(うなひをとめ)の物語を題材に詠んだ長歌の一部です。

~ たまきはる命も捨てて  争ひに妻問ひしける  処女らが聞けば悲しさ  春花のにほえ栄えて  秋の葉のにほひに照れる  惜しき身の盛りすら  大夫の言労しみ ~(19-4211)
<~ たまきはるいのちもすてて あらそひにつまどひしける をとめらがきけばかなしさ はるはなのにほえさかえて あきのはのにほひにてれる あたらしきみのさかりすら ますらをのこといたはしみ ~>
<<~命さへも捨てて,(二人の男が)競って求婚した娘のことは聞くも哀れなことである。春の花のように美しく,秋の黄葉のような見事さをもった娘子は,(その二人の)男たちからの命を顧みない求愛の言葉をつらく感じて~>>

この長歌の後の部分では,兎原娘子は自らの惜しき命を絶ってしまったとあります。「丈夫の言労しみ」は,二人の男から言い寄られ,どうすればよいか分からない兎原娘子の気持ちの戸惑いを「労し」は表現していると感じます。
「労し」のようなの心理的な辛さを表す言葉は,時代やその背景となる状況の違い,感じる人の立場(今回はすべて当事者の気持ちを代弁する作者の立場)の違いなどで現代語に訳すと微妙にニュアンスが変化するようです。
(続難読漢字シリーズ(3)につづく)

2018年1月3日水曜日

続難読漢字シリーズ(1)…可惜(あたら),可惜(あたら)し

今回から,新シリーズを開始します。
このシリーズは,2009年6月28日~2010年1月11日の間にアップした「万葉集で難読漢字を紐解く」シリーズで,紹介し切れなかった難読漢字について,万葉集ではどう詠まれているか私の考えをアップしていきます。
初回は,難読漢字「可惜」について,万葉集を見ていきます。これは「あたら」と読みます。一般的な意味は,「可惜」は「惜しむべき」「もったいないことに」といいった感動詞的に使われるものということです。
「可惜し」は形容詞で「立派だ」「素晴らしい」「惜しい」といった意味です。
では,万葉集での用例を紹介します。なお,紹介する歌で「可惜」としている部分は,ひらがなで書かれていることが多いようですが,敢て「可惜」という漢字にしています。

鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつ可惜船木を(3-391)
とぶさたて あしがらやまにふなぎきり きにきりゆきつあたらふなぎを>
<<鳥総を立てて足柄山に生えている船材として伐れる木を,細かい木材として伐って行ってしまった。惜しいなあ船材にできるのに>>

この短歌は沙弥満誓(さみのまんせい)が筑紫で詠んだとされているものです。
勿体ないような才能や容姿をもつ人をその特長をより導き出すように周りは気を付けなければならない(特長を潰してはいけない)という教訓の歌のように私には思えます。

秋の野に露負へる萩を手折らずて可惜盛りを過ぐしてむとか(20-4318)
あきののに つゆおへるはぎをたをらずて あたらさかりをすぐしてむとか
<<秋の野に露に濡れた萩の花を手で折って生けることをせず,そのままにしておいたら,あら惜しいこと,盛りを過ぎてしまったなあ>>

この短歌は,天平勝宝6年,36歳の大伴家持が詠んだとされるものです。
家持にとって,露に濡れた萩が美しいから,ついそのままにしておいたが,盛りを過ぎてしまい部屋に飾れなくて残念という気持ちを詠んだものでしょうか。
ただ,これまで惜しいチャンスをいくつも逃し,昇進がほとんどできずに年齢を重ねてしまった家持の気持ちが詠ませたのかも知れないと私は思いをめぐらしてしまいます。

秋萩に恋尽さじと思へどもしゑや可惜しまたも逢はめやも(10-2120)
あきはぎに こひつくさじとおもへども しゑやあたらしまたもあはめやも
<<秋萩の花を長く深く愛でていたいと思うのだが,あ~,惜しいことにもう散ってしまう。また逢うことはないのだろうか>>

作者不明の短歌で,秋萩の花を題材にした季節の移ろいを詠んだものと考えられます。
しかし,「恋尽さじ」や「逢はめやも」という言葉から,「可惜し」の対象の秋萩の花は,可憐な女性のことを譬喩したものかも知れません。
最後に,万葉時代から200年以上後の平安時代中期には「あたら」の意味として「新しい」の「新」の意味が出てきたのです。万葉時代では「新しい」という意味のヤマト言葉は「あらたし」でした。
平安時代に仮名が使われるようになった際,まちがって「新し」の読みを「あらた」から「あたら」取り違えられたとの説があるようです。そのため,それまで「あたら」と発音する「可惜」が,利用する頻度から比較的陰に隠れてしまったのかもしれません。
(続難読漢字シリーズ(2)につづく)

2018年1月1日月曜日

2018年正月スペシャル‥万葉集から日本人と犬について考える

戌(いぬ)年の2018年が始まりました。みなさん,どんな気持ちで新年を迎えていらっしゃいますか?
昨年はこのブログ(万葉集をリバースエンジニアリングする),思うように投稿できませんでした。しかし,今年はあと少ししたら,このブログを立ち上げて10年目に入ります。来年の満10年で500投稿を達成するためには,週1回の投稿をキープする必要がありますので,気を引き締めていきたいと考えていますので,今年もよろしくお願いします。。
さて,後で紹介しますが,万葉集でについて詠んだ歌は多くありません。犬についてWikipediaなどでは,縄文遺跡に犬(縄文犬)の骨が発見されているとあることから,犬は古来狩猟犬などの目的で日本に人間と暮らしていたと考えられそうです。
飛鳥時代には渡来人系ともいわれる豪族犬上氏が琵琶湖に面した北東部の地域で大きな勢力を持ちました。日本書紀に出てくる犬上御田鍬(いぬかみのたすき)は,遣隋使遣唐使にもなっていて,朝鮮半島経由で中国にも渡ったとの記録があるとのことです。
犬のことを(こま)と呼びます。高麗も「こま」と発音する場合があり,神社の社殿の前に置かれる狛犬像は朝鮮半島系の犬をモチーフにしていたのかもしれません。飛鳥時代では,犬は狛犬のイメージから番犬の役目で飼育されていたケースが少なくなかったと想像できそうです。
さて,朝鮮半島では,古くから(現在もそうですが)犬食文化があります。明治維新の文明開化で肉食文化が日本で急速に普及したように,飛鳥時代にはイノシシ,ブタ,クマ,ウマ,ウシ,シカ,サル,ニワトリそしてイヌなどの肉食習慣が大陸,朝鮮半島から入り,繁殖,屠殺(さばき),販売,料理の専業化など商業的に広まった可能性があります(それまでも家畜の犬を食べることはあったかもしれませんが)。
それがあまりに盛んになりすぎ,何らかの弊害が出たり,殺生に否定的な仏教との兼ね合いのためか,日本書紀には天武天皇5(675)年には,農産物が豊富にとれる夏から秋の期間だけですが肉食の禁止令が出たとの記載があります。その禁止動物の中に犬が含まれています。そのため,当時の日本では犬食は,相当広まっていたとみてよいかと思います。
その後,殺生を嫌う仏教をさらに重視した日本では犬を含む肉食文化が衰退していったのに対し,儒教に重きを置いた朝鮮半島では犬食も含む肉食文化がずっと残ったとみることができるかもしれません。
さて,万葉集では,犬はどう詠われているでしょうか。
まず,巻13に出てくる長歌(前半男,後半女)で,犬を含むさまざまな動物が出てくる歌を紹介します。

赤駒を馬屋に立て  黒駒を馬屋に立てて  そを飼ひ我が行くがごと  思ひ妻心に乗りて  高山の嶺のたをりに  射目立てて鹿猪待つがごと 床敷きて我が待つ君を  犬な吠えそね(13-3278)
<あかごまをうまやにたて くろこまをうまやにたてて そをかひわがゆくがごと おもひづまこころにのりて たかやまのみねのたをりに いめたててししまつがごと とこしきてわがまつきみを いぬなほえそね
<<(男)赤い馬を馬屋を建てて飼い,黒い馬をおなじく馬屋を建てて飼い,その馬に乗って俺は行く愛するお前のことばかり考えてな。(女)高い山の嶺のくぼみに待ち伏せ小屋を建てて,シカやイノシシを待つように,床を敷いて待つあなたのことを番犬ちゃんは吠えないでね>>

この長歌には,主語として犬(番犬)自体は出てきませんが,その犬に向けて詠んだ反歌があります。

葦垣の末かき分けて 君越ゆと人にな告げそ 事はたな知れ(13-3279) 
あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ
<<(女)葦垣の上をかきわけ,あの人が越えてやってきたと人に聞こえるように吠えないでおくれ。彼との関係が人に知られてしまうから>>

この和歌から,当時は番犬を飼っていた家があっただろうということが想像できます。
もう一首犬を詠んだ旋頭歌を紹介します。

垣越しに犬呼び越して鳥猟する君青山の茂き山辺に馬休め君(7-1289)
かきごしにいぬよびこしてとがりする きみあをやまのしげきやまへにうまやすめきみ>
<<垣越しに犬を呼び寄せて鷹狩りをなさっているあなた。青々と葉が茂っている山辺で馬を休ませてあげてね,あなた>>

この和歌から,鷹狩で捕らえたけものを獲りに行って,銜えて帰ってくる猟犬がいただろうことがわかります。
いずれにしても,万葉時代から,日本人とって犬は良き伴侶だったことがわかります。
(続難読漢字シリーズ(1)につづく)