2018年5月25日金曜日

続難読漢字シリーズ(25)…携ふ(たづさふ)

今回は「携ふ(たづさふ)」について万葉集をみていきます。同伴する,連れ立つ,互いに手を取るといった意味に万葉集では使われています。現代仮名遣いでは「携える(たずさえる)」が多用されます。
最初に紹介するのは,恋人と手を携えて床を共にしたい気持ちを詠んだ詠み人しらずの短歌です。

人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば(10-1983)
<ひとごとは なつののくさのしげくとも いもとあれとしたづさはりねば>
<<夏野の草が刈ってもすぐ出てくるように他人の噂が五月蠅いけど,お前と私が手をとって寝てしまえばよいのさ>>

この作者,かなりやけっぱちになっていそうですね。彼女の手を携えて,それから共に寝たら,誰が何を言おうと幸せだという願いが伝わってきます。
次に紹介する短歌は,柿本人麻呂歌集に出てくる初冬の紀伊の国の浜辺で詠まれたとされるものです。

黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし礒を見れば悲しも(9-1796)
<もみちばのすぎにしこらと たづさはりあそびしいそを みればかなしも>
<<もみじの葉が散るように死んでしまった子と手を取り合って遊んだ磯を見うると悲しい>>

この作者は,幼いころ遊んだ懐かしい磯に来たが,そのとき手をつないで遊んだ子は今は死んでいない。その悲しさがこみあげて,この短歌を詠んだのでしょうか。
最後に紹介するのは,最愛の妻が亡くなったことに対する夫の慟哭の長歌(作者不詳)です。

天地の神はなかれや 愛しき我が妻離る 光る神鳴りはた娘子 携はりともにあらむと 思ひしに心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに 木綿たすき肩に取り懸け 倭文幣を手に取り持ちて な放けそと我れは祈れど 枕きて寝し妹が手本は 雲にたなびく(19-4236)
<あめつちのかみはなかれや うつくしきわがつまさかる ひかるかみなりはたをとめ たづさはりともにあらむと おもひしにこころたがひぬ いはむすべせむすべしらに ゆふたすきかたにとりかけ しつぬさをてにとりもちて なさけそとわれはいのれど まきてねしいもがたもとは くもにたなびく>
<<天地に神が無いのか,愛おしい妻は去ってしまった。光る神のような美しい機織り娘だった。手に手を取って共に生きようと思ったのに願いは通じなかった。言うべき言葉もなく,為すすべも知らずに,木綿襷を肩に掛け倭織の幣を手に持ち,僕たちを離れ離れにしないでと祈ったが,抱いて寝た妻の腕は雲のように白く横たわっている>>

おそらく病気で妻は亡くなったのでしょう,妻の最期に寄り添った夫の無念さが本当に伝わってくる長歌です。
現代では,病気の治療技術や予防技術により,若いうちに病気で死亡する人の割合が100年,200年前に比べ格段に減っています。マスコミ等で若くして亡くなった人の報道がされますが,それはニュースになるから敢てとりあげられているのであって,10万人あたりといった全体統計では,昔に比べて大きく減っているのは事実です。そのため,生命保険の保険料も値下げになっているくらいです。
ただし,比率は減っても,ゼロではありません。私の友人にお子さんまだ幼いうちに夫を急病で亡くされた女性がいます。また,私も今回大病を患い,想定寿命を見直し,余生をどう過ごすか,再検討をしているところです。
生きていることの大切さと,いつ終わるか分からない生きているとき何を生きがいとして,幸福感をもって誰と生きていくか,定期的に考えることが求められる状況になりました。
ただ,それはそれで,いろんな選択肢があり,想像力を働かせ,どれが最適か私は前向きに取り組んでいます。
(続難読漢字シリーズ(26)につづく)

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