2014年1月26日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3) そんなもん,知らんがな!

<情報は知れば知るほどもっと欲しくなる?>
情報の価値に対する重要性がますます高くなっている現代,各種手続き方法,欲しいものやサービスを安く手に入れる方法,重要なイベントの挨拶の仕方,さまざまなマナーについてなど「知っていればこんなに苦労したり,損しした気持ちになることはなかったのに」と思うことが少なくないのではないでしょうか。
また,さまざまな情報が溢れている現代では,どれが正しい情報なのか,自分にとって有益な情報なのかを判断する方法(それも情報)を知っておくことの大切さもますます高くなっているような気がします。
さらに,自分にとって知りたくない情報を知らされてしまう,知ってはいけない情報を知ってしまう,無関係な情報を大量に押し付けられるといった,知ることや知らされることがいつも良いこととは限らないケースに遭遇することも増えている時代かも知れません。
<万葉時代では?>
万葉時代は現代に比べれば情報の絶対量ははるかに少なかったと考えられます。しかし,それまでの時代に比べ,制度,技術,文化,習慣,宗教,思想などの情報が中国朝鮮半島から大量に入ってきて,それらを知り,消化し,自分のものにすることが求められた時代だと私は想像します。
また,海外からインプットされた情報から当時の日本に制度,技術,文化,宗教などを融合したり,それぞれを組合わせた新たな情報が大量に生まれてきた時代でもあったかもしれません。
万葉集には「知らないので」「知ることができず」「知っていれば」「知りようもなく」といった表現で,知らない,分からない,経験しことがない,想像できないといったことの残念さ,無念さ,諦めを表現したものが多く出てきます。
次は,額田王(ぬかだのおほきみ)が天智(てんぢ)天皇が崩御したのことを悲嘆して詠んだ短歌です。

かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを(2-151)
かからむとかねてしりせば おほみふねはてしとまりに しめゆはましを
<<こうなると前から知っているのでしたら天皇がお乗りになる大御舟の泊まっている港に標を張り廻らせましたものを(あの世に旅立たれないようにするために)>>

この短歌から,額田王が天智天皇との関係の強さや深さを私は感じます。
次は,柿本人麻呂近江(天智天皇がかつて京を置いた場所)から奈良に向かった際に詠んだとされる有名な短歌です。

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(3-264)
もののふのやそうぢかはの あじろきにいさよふなみの ゆくへしらずも
<<宇治川にたてられた網代木のあちこちでてきる波の行き先は予測できないなあ>>

あえて直訳をしてみました。世の無常を詠んだのか,短命の近江京を果無んだのか,壬申の乱などで多くの戦士が亡くなったことを弔ったのか,それとも...。
一見分かりやすそうであるけど解釈はいろいろできそうです。ただ,万葉集の中でも覚えやすい短歌の一つであることは間違いなさそうですね。
さて,次は天の香具山の近くに住んでいる人と思われる詠み人知らずの短歌です。

いにしへのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山(7-1096)
いにしへのことはしらぬを われみてもひさしくなりぬ あめのかぐやま
<<昔の謂れは知らないが,私が眺めるようになって年数がたってしまったなあ,天の香久山は>>

この作者は,天の香具山が古事記日本書紀に出てくる神話上の物語があることは恐らく知っていたと思われますが,その詳しい内容については知らない(興味が無い)のだと思います。
平城京になって,飛鳥地方は古墳などたくさんあっても,単なる郊外の静かな農村になってしまったと私は想像します。この作者が飛鳥地方を統括する官吏だとすると,この地に長く住み,すっかり暮らしにも慣れ,この地が神話の宝庫であるとか,かつてどんな京があったかはもうどうでもよいという気持ちで詠んだと言えないでしょうか。
最後は坂上郎女大伴家持越中国主として赴任するため,旅たちの別れを惜しんだ短歌です。

道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまはな(17-3930)
みちのなかくにつみかみは たびゆきもししらぬきみを めぐみたまはな
<<越中の国の神様には,越中への旅の行き方もよく知らない家持様の無事をどうかお恵みください>>

家持にとっては,役人になってから初めての遠い地方の赴任であり,坂上郎女にとっては気が気ではなかったのでしょう。
不安とは初めてのこと,情報が極端に少ないことから人に襲い掛かってくるものだろうと私は思います。その不安を取り除くため「知る」ことの大切さを当時の和歌からも学ぶことができるのではないかと私は感じます。
次回は「知る」の最終回として,その他の「知る」を詠んだ万葉集の和歌を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(4:まとめ)に続く。

2014年1月19日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…知る(2) ここは余の領地と知れ!

万葉集の代表的歌人のひとりである山部赤人は各地を旅し(主に天皇の行幸に同行?),天皇を礼賛したり,行った先の土地を賛美したりした和歌を多く万葉集に残しています。柿本人麻呂ほど長文ではないですが,長歌も多く詠っています。
たとえば,今の兵庫県播磨の海岸の美しさを詠んだ次の長歌です。

やすみしし我が大君の 神ながら高知らせる 印南野の大海の原の 荒栲の藤井の浦に 鮪釣ると海人舟騒き 塩焼くと人ぞさはにある 浦をよみうべも釣りはす 浜をよみうべも塩焼く あり通ひ見さくもしるし 清き白浜(6-938)
やすみししわがおほきみの かむながらたかしらせる いなみののおふみのはらの あらたへのふぢゐのうらに しびつるとあまぶねさわき しほやくとひとぞさはにある うらをよみうべもつりはす はまをよみうべもしほやく ありがよひみさくもしるし きよきしらはま
<<我が大君が神として治められた印南野の大海の原の藤井の浦で,鮪を釣ろうと海人の舟が盛んに行き交い,そして塩を焼く人々が大勢見える。なるほど浦が良いから魚釣りが,浜が良いから塩を焼くのが盛んなのだ。何度も大君が通われて御覧になるのも当然だ。この美しい白浜よ>>

ここで,使っている「高知らせる」は「立派に統治される」という意味になるようです。印南は古事記日本書紀播磨国風土記日本武尊(やまとたける)の時代(神話時代)にすでに出ているようです。瀬戸内海に面したここで詠われている海岸は当時本当に美しく,鮪など高級魚がたくさん獲れ,高品質な塩が生産されていたに違いないと感じます。
もう一首山部赤人が天平8年6月の聖武天皇が今の奈良県吉野に行幸したとき,同行して詠んだ吉野を礼賛する反歌(長歌に併せた短歌)を紹介します。

神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ(6-1006)
かむよよりよしののみやに ありがよひたかしらせるは やまかはをよみ
<<神代の昔から吉野の宮に通い続けられ,ここに立派な宮を建てられ治めてこられたのは山と川が素晴らしいからなのですね>>

吉野は奈良盆地大和盆地)の南の山間地で,この行幸のように天皇の夏の避暑地として離宮を造営していたのだろうと想像できます。川は吉野川(現在では「紀の川」の上流になる奈良県内の通称)の清流であり,当時から風光明媚だったのでしょう。そして,吉野は万一地方で何か反乱があっても,すぐに(奈良),難波(大阪),紀国(和歌山),伊勢(三重)に行ける要所であったと私は考えます。
こういう場所をいくつも天皇が統治し,豊かな物資や情報を流通させ,その価値を民に知らしめることでヤマトの国を統一していったのでしょうか。
さて,今回の最後は大伴家持が大伴氏の功名を世の中に知らしめよと詠んだ反歌を紹介します。

大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく(18-4096)
おほとものとほつかむおやの おくつきはしるくしめたて ひとのしるべく
<<大伴氏の遠い神代からの祖先の墓所には,はっきりと標を立てよ。世の人々が大伴氏の墓と知るように>>

これは,家持が越中に赴任中,陸奥で黄金の鉱脈が見つかったという知らせを聞いて詠んだ長歌の反歌です。当時,大仏建立で大仏を黄金に飾るための金が不足していたときであったので,大伴氏が所轄している陸奥で大量の金が産出できることが分かり,家持は大伴氏の手柄を世に知らしめたかったのだろうと私は感じます。
「知らしめる」ということは,世の人に権威,威厳,威光を伝え,反抗したり,けなしたりすると大変なこと,良くないことになるぞというニュアンスを含んでいるように感じます。
次は現代の表現の仕方で「知らない」という表現を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(3)に続く。

2014年1月13日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…知る(1) 知られたくない。でも,知ってほしい!

「動きの詞(ことば)シリーズ」第1段は,2010年2月から2011年7月まで投稿を続けました。その時取り上げなかった万葉集に比較的多く出てくる動詞について,同シリーズの第2段としてしばらくお送りします。第2段の最初は「知る」について,何回かに分け万葉集を見ていきたいと思います。
<万葉時代の律令制>
万葉時代は,律令制の導入によって,力(武力)によって社会の秩序を保つのではなく,法を守ることによって社会の秩序を守る制度が浸透し始めた時代ではないかと私は感じます。
ところが,当時の法律は漢文で書かれていましたから,必ずしも庶民を含めた国民全員が一気に法律で決められたこと,守らなければならないことを知っていたわけでも,理解できていたわけでもないと思います。物事をスムーズに進めるためには,法律及び法律を施行する仕組み(行政)について,知っておく必要があったのですが。
<律令制が浸透するまで>
逆に,法律の意味を十分知り(理解し),行政側の施策を先読みし,その受け皿を他に先駆けて用意しておけば,合法的に富を得られることになります。その情報をいち早く知るため,官僚に取入り,情報を先に知っておくことの重要性も高くなっていったと思われます。
法律を知らないとせっかく努力したことが,法に違反をしていて,受け付けられなかったり,場合によっては罪になり,刑罰を受ける事態にもなったのです。
いつの時代もそうですが,いわゆる犯罪者と呼ばれる者たちは,人に知られないように法を犯した悪事をはたらき,不法に金品を取得する(盗むことなど)ことをする場合も出てきます。
<いつの時代でも不法行為は無くならない>
複数の人間(仲間)がその不法行為を行う場合,その行為が法律の番人に知られない(バレない)ように,その行為自体をたとえ家族や世話になった人であっても秘密にします。
不法行為が知れてしまうと,どれほど重い刑罰を受けることも知っていたからでしょう。
このように,律令制により「知っている」「知らない」「知らせない(秘密にする)」「知らせる(公表する)」ことが,それまでの部族(豪族)内や部族間の力の支配による時代と比べて非常に大きな意味を持つようになったのではないかと私は考えます。
さらに,万葉時代はさまざまな品物や農産物を作る技術も発達し,生産技術や知識を知って,使えるようになることで,自身の生活を安定させることができるようになった時代ともいえそうです。
<「知る」ことの重要性>
極めつけは,人の気持ち,考え,行動予定を正確に知ることが,恋,仕事,親子などにおける人間関係を円滑に進めるうえで大切だということもわかってきた時代だったのかもしれません。
そのため,万葉集ではさまざまなシーンで「知る」を使った和歌が270首以上も出てきます。
どんなシーンで詠まれているか見ていきましょう。

思ふ人来むと知りせば八重葎覆へる庭に玉敷かましを(11-2824)
おもふひとこむとしりせば やへむぐらおほへるにはに たましかましを
<<あなたが来られると知っていたら八重葎に覆われた庭に玉砂利を敷いておきましたのに>>

何の前触れもなく,妻問に来た夫に対して,妻(詠み人知らず)が詠んだのでしょう。事前に連絡が欲しいということです。当たり前ですね。一緒に暮らしていても「何時に帰る」くらい奥さん伝えておかないと,家に入れてもらえない,夕飯にありつけないこともあるくらいです(私の経験ではありませんが)。事前に「知らせる」ということが,訪問する際のマナーなのだと,この短歌は教えているように私は感じます。
次は,二人の恋を他人に知られてしまったことを詠った,これも詠み人知らずの短歌です。

山川の瀧にまされる恋すとぞ人知りにける間なくし思へば(12-3016)
やまがはのたきにまされる こひすとぞひとしりにける まなくしおもへば
<<あいつは山にある滝の急流に勝るような大恋愛をしているぞと他の人に知られてしまった。いつもいつも君のことを思っているからか>>

恋愛関係を知られると何かと恋路の邪魔をしたり,干渉する人が出てくることもあります。しかし,誰にも知られずに逢える場所も少ない当時だろうと想像できますから,他人に知られずに相手には恋しい自分の気持ちをどう伝え,その気持ちを相手に知ってもらい,確認し合うことができるのか。それが大きな問題です。
<機密情報の扱い>
今の世の中,たとえば秘密情報保護に関する法律も同じような問題を抱えているのかも知れませんね。重要な秘密情報は他国や自国内でも極端に不安に思うような人には知られたくないが,自国の関係者の間では適切な対応をするため正確な情報を共有しなければならない。そのためには,情報の発信源を確認したり,裏付けをとったりする必要があるけど,その確認作業自体,情報が関係者以外に漏れるリスクが高くなります。
<恋人同士も同じ?>
秘密にしておきたい(無関係な人に知られたくない)ことと,恋人同士や関係機関内の人の間では絶対誤解が無いように正確な気持ちや情報を共有し合って(知って)おかなければならないことの二律背反は同様に悩ましい話かもしれません。
さて,次は無駄なことだと知ってはいても,相手を恋する気持ちは止められないことを詠んだ坂上郎女の短歌です。

思へども験もなしと知るものを何かここだく我が恋ひわたる(4-658)
おもへどもしるしもなしとしるものを なにかここだくあがこひわたる
<<いくら思っても実を結ばない恋だと知っているのに,どうして私は恋し続けてしまうのだろう>>

当時の厳格な階級制度,一夫多妻制,妻問婚が是とされる世の中でも,「未亡人であっても,身分や家柄が違っても,大好きな人に自分から恋して何が悪いの?」といった郎女の熱い気持ちの表れでしょうか。郎女には男性を中心とする律令制下の法律,しきたり,倫理観などを知っていても,恋愛については受け入れることはできなかったのかも知れません。
今回は恋愛のシーンを中心に「知る」を見てみました。次回は,「知らす(治める)」について見ていきたいと考えています。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(2)に続く。

2014年1月5日日曜日

年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(4:まとめ)」

万葉集で馬や駒を詠んだ和歌シリーズの最後は,少しきわどいもの,滑稽なものを揃えてみました。今までの投稿ですでに紹介しているものもありますが,馬という切り口で見ていきたいと思います。
まず,前回では紹介しませんでしたが,東歌に出てくる短歌です。

あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも(14-3541)
あずへからこまのゆごのす あやはともひとづまころを まゆかせらふも
<<崖の上の端を駒に乗って進むのは危険だが,あの若い人妻にはそんな危険を冒してでも近づきたいなあ>>

う~ん。こんな訳でよいのかな~。これを当時の東国は大らかで羨ましいと見るか,東国の男は気を付けろという警告として採録されたと見るか,読者側の感性や倫理観に大きく左右されそうですね。これ以上コメントすると天の川君が余計なことを言いそうなので,やめておきます。
次は2012年1月15日の投稿で紹介しました土の駒形の玩具か置物を作る土師(はじ)に対して,日焼けした巨勢豊人という人物(木こり?)が嘲笑して詠んだ短歌です。

駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を(16-3845)
こまつくるはじのしびまろ しろくあればうべほしからむ そのくろいろを
<<いつも部屋ん中で土の駒人形ばっかり作っている志婢麻呂さんはいつも青白い顔なので,日焼けした黒い肌が羨ましいんじゃないのかな?>>

馬自体とは関係ありませんが,当時馬の玩具や置物が結構人気があって,そういっものを作る専門技能を持った職人がいたことを想像させますね。
次は,2012年7月8日の投稿で紹介しました僧侶の無精ひげを馬に繋いで引かせるなんて,とんでもない短歌です。

法師らが鬚の剃り杭馬繋いたくな引きそ法師は泣かむ(16-3846)
ほふしらがひげのそりくひ うまつなぎいたくなひきそ ほふしはなかむ
<<横着して鬚を剃らないで伸びて来た坊さんの鬚に馬を繋いで強く引かせてはいけないよ。坊さん泣くだろうからね>>

万葉時代,仏教の僧侶は法師と呼ばれ,時代の先端を行くエリート職のようでした。いつの時代でもそうですが,中にはとてもそれに似つかわしくない僧侶がいたようですね。そんなことしちゃいけないと詠んでいますが,あまりにもひどい格好だったので,馬に引かせるという短歌になったのでしょうか。
さて,最後は2009年11月8日と2013年1月27日に紹介した越中で大伴家持が部下の浮気を諭した短歌です。

左夫流子が斎きし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに(18-4110)
さぶるこがいつきしとのに すずかけぬはゆまくだれり さともとどろに
<<左夫流子という遊女を正妻のように住まわせている君の家に,鈴も付けずに駅を経由して奥さんを乗せた早馬がやってきたぞ。その蹄の音を里中に轟かせてな>>

早馬には鈴を付けることになっていたようですが,部下の奥さんは鈴を付ける時間も惜しく,急いで駆け付けてきた。どうせ,越中だから分かるわけないと,同僚たちの前で左夫流子と付き合っているところを見せびらかしたり,自慢げに話したのでしょうね。それが京にいる奥さんの耳に入ったのですから,それはもう大変な騒ぎ。
「黙ってリゃよかったのに」なんて,馬馬,いや努努思ってはならないのですぞ,おのおの方(馬を詠んだ和歌シリーズのまとめ)。
2014年正月休みも今日までで明日からは多忙な仕事が待っています。年末年始スペシャルは以上で,次回からは以前シリーズ投稿しました「動きの詞(ことば)シリーズ」の第2段をお送りします。
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(1)に続く。

2014年1月3日金曜日

年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(3)」

この正月もあっという間に3が日が過ぎようしています。
馬を詠んだ万葉集の和歌の3回目は東歌で詠まれたものを見ていきます。東歌が詠まれた東国は今の静岡県辺りから中部・関東・甲信越をおおよそ指しているようです。平城京から見ると未開の地に見えたのかもしれません。
ただ,私の住む埼玉県には,さきたま古墳群など古墳の跡と思われる場所がたくさんあります。
国宝の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)と呼ばれる鉄拳には雄略天皇との関わりが書かれているとの説が有力とのこと。そのため,衆議をする場所,住居,工場,市場,物資配送施設など都市に近いものを地方豪族主体に発達させていた可能性も否定できないと考えられます。
関東平野に限っていうと物資の移送は,川の場合上り下りだけでなく渡しも舟だったと想像できます。陸の移送は馬が主体だったのではないでしょうか。そのためか,万葉集の東歌に船,舟,馬,駒を詠んだ歌が結構でてきます。
舟と船はまたの機会として,馬と駒が出てくる東歌を紹介します。なお,東歌では圧倒的に馬よりも駒が多く出てきます。その理由は「馬」をタクシーや乗合バス,「駒」を自家用車に譬えればわかりやすいかもしれません。
大都会や住宅密集地では自分用の馬(駒)を所有することは難しく,東国のように広い土地がある場合は自分用の馬(駒)や馬屋を所有することが比較的用意だったと感じます。
現在の東京周辺よりも少し離れた郊外に住む世帯の方が自家用車の所有率が高いはずです。
では,まず東歌で馬が出てくる短歌を紹介します。

鈴が音の早馬駅家の堤井の水を給へな妹が直手よ(14-3439)
すずがねのはゆまうまやの つつみゐのみづをたまへな いもがただてよ
<<鈴の音をひびかせる早馬の駅家にある堤井の水をくれるかい,直に君の手から>>

早馬は街道の駅家間を高スピートで人,物資,書類などを運ぶことを専門とする馬です。所有者は馬による輸送を業としているプロです。なので,個人が飼っていて自由に使える駒とは違います。この短歌の作者は早馬の騎手か早馬専用の駅家で働いている駅員ではないかと私は想像します。
彼女も駅家で働いている若い女性で,この短歌の作者はその可愛さに僕に水をおくれよと声を掛けた情景でしょうか。
次は駒が出てくる東歌の1首目です。

足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ(14-3387)
あのおとせずゆかむこまもが かづしかのままのつぎはし やまずかよはむ
<<足音のしないでゆく馬がいたらよいのに。葛飾の真間の継橋をいつも通って行こけるのに>>

「真間の継橋」には,本当に好き同士の二人の間を継ぐことができる橋という言い伝えがあったのだろうと私は想像します。しかし,馬で駆け付け,密かに逢おうとするが,蹄の音で周りに分かってしまう。今で言うとエンジン音がしない自動車が欲しいといったところでしょうかね。電気自動車では可能でしょうか。
次は東国らしい駒の姿を詠んだ短歌です。

春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも(14-3532)
はるののにくさはむこまの くちやまずあをしのふらむ いへのころはも
<<春の野で草を食む駒の口がいつも動いているようにいつも俺のことを口に出して思ってくれているのだろう,家にいる妻は>>

東国ではこういう草の野がいっぱいあったのでしょう。
ちなみに,我が家の妻は私が仕事の都合で会社からたまに早く帰ると心配してくれます。「会社で干されたのではないかしら?」とか「テレビで見たいものがあって早く帰ってきたとしたら,ひとりで楽しみに見ようとしていた番組は急いでビデオに取っておく必要があるかしら?」などと。
最後は,自分の駒に悪いが彼女のところに悪路でも行きたいと詠んだ短歌です。

さざれ石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりかも(14-3542)
さざれいしにこまをはさせて こころいたみあがもふいもが いへのあたりかも
<<小石の原に我が駒を走らせ心が少し痛むだけどよ,俺が思う彼女の家のあたりにどうしても来てしまうぜ>>

この短歌で,どうしても田舎の悪路をスカイラインGT-Rクラスのマニュアルシフトのスポーツカーでブイブイ飛ばして,大きな農家の入口の前で止めているお兄さんをイメージしてしまいます。
おっと,悪いイメージではけっしてありません。羨ましいなあというイメージです。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(4)」に続く。

2014年1月2日木曜日

年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(2)」

昨日の元旦は,このブログを始めて1日の閲覧数の過去最高を達成しました。閲覧記事の多くが年末年始スペシャルの記事で,海外からの閲覧も増えていますが,日本国内からの閲覧数が通常に比べて10倍以上となっています。日本に住む方のお正月に対する思いが非常に強いことが改めて感じられました。
ほとんど文字だけの地味な本ブログですが,今年も頑張ろうという気がさらに湧いてきています。
さて,「馬を詠んだ和歌」の2回目をお送りします。万葉集では馬や駒を詠んだ和歌がたくさんあります。馬自体ではありませんが,馬が入っている地名や馬酔木といった植物の名前が出てくるものもあります。
万葉仮名(原文)ではの字が多くがそのまま使われ,音読み(バ,マ,メ,クなど)も多少ありますが,訓読み(うま,ま,こま)もしっかりでてきます。この点を考えると,馬(うま,ま),駒(こま)と訓読みの対応付けは当時かなり浸透していたと考えてもよいと私は思います。
今回は駒が出てくる万葉集の和歌について,いくつか見ていきます(東歌で駒が出てくるものは除きます)。
万葉集では毛の色のちがいによって,黒駒赤駒青駒の3種類の駒が出てきます。それぞれ1首ずつを紹介します。

赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし(4-530)
あかごまのこゆるうませの しめゆひしいもがこころは うたがひもなし
<<赤毛の駒なら飛び越えるかもしれない柵だが,縄でしっかり結び固めておくように固い約束を結んだから,貴女の心に疑いはないよな>>

この短歌は聖武天皇(しやうむてんわう)が側室になる海上女王(うなかみのおほきみ)に送ったものです。女王は天智系の血筋(志貴皇子の娘)。この短歌の前半部分は周囲から二人の間にいろいろ邪魔が入る可能性があることの喩えではないかと私は想像してしまいます。

遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒(7-1271)
とほくありてくもゐにみゆる いもがいへにはやくいたらむ あゆめくろこま
<<遠くにある雲の向こうに見える妻の家に,早く着こう。歩を進め黒駒よ>>

この短歌は柿本人麻呂歌集から万葉集に転載されたものです。移動手段とスピード感は当時と違うかもしれませんが,現代の単身赴任の夫が早く家に帰り,妻の顔を見たい気持ちに通じるところがあるかもしれませんね。
3種の駒の最後は青駒を詠んだ柿本人麻呂自身が詠んだ短歌です。

青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける(2-136)
あをこまがあがきをはやみ くもゐにぞいもがあたりを すぎてきにける
<<青駒は駆けるのが速いので,妻が居る家が雲のかなたあたりなるところまで来てしまったなあ>>

青駒は毛が灰色をした馬のようで,駆け足が速かったのでしょうか。妻を残して遠くまで旅に出てしまったことへの寂しさを駒の足の速さで表しているように感じます。
いずれにしても,駒は人間が飼い,人間や荷物の運搬に供されている馬ということになりそうです。
そのため,飼っていた駒が飼い主に見捨てられるか,脱走した駒を,次の詠み人知らずの短歌のようにわざわざ「放れ駒」と当時読んでいたようです。

妹が髪上げ竹葉野の放れ駒荒びにけらし逢はなく思へば(11-2652)
いもがかみあげたかはのの はなれごまあらびにけらし あはなくおもへば
<<彼女の髪は竹葉野の放れ駒の毛のように荒れてしまったのか。逢わないことを考えれば>>

やはり人に可愛がられている駒は,当時でも毛並が良く,美しかったのだろうと私は思いたいですね。この短歌の作者の表現は傲慢のようにも見えますが,好きな人もおらず(人間嫌いになって)一人きりで閉じこもっていると外見だけでなく,心も磨かれなくなる(曇ってしまう)可能性が高くなる気が私にはします。もちろん,磨き方によっては逆に傷つく危険性もあります。
私は,ときどきは自分の欠点を適切に指摘してくれるような良い友達をもっと増やし,積極的に会って,話をして,自分を磨く,磨かれる1年にしたものです。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(3)」に続く。

2014年1月1日水曜日

年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(1)」

2014年新春のお慶びを申し上げます。本年も『万葉集をリバースエンジニアリングする』のブログアップをよろしくお願いします。
おかげさまで,昨年の閲覧数は2012年に比べて約1.8倍に増えました。とりわけ,2011年7月に投稿しました『天の川特集(2)‥憶良・家持は「七夕」通? 』と昨年元旦に投稿しました『年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」』には非常に多くの閲覧をしていただきました。
見たけれど期待外れの内容だっと感じられた方も多かったかもしれませんが,万葉集に関し,多くの方が関心のあるキーワードを含んだ内容に少しはできているのではないかと感じています。
これからも意欲的に取り組む気持ちを保持できているのも閲覧数が励みになっていることも事実です。
さて,今年は午年(うまとし)ですね。万葉集の中で正月の和歌ではありませんが,馬や駒を詠んだ和歌について何回かに分けて投稿します。
まず,お正月ですので,縁起の良い「龍の馬」を詠んだ大伴旅人の短歌から紹介します。

龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため(5-806)
たつのまもいまもえてしか あをによしならのみやこに ゆきてこむため
<<龍の馬を今こそほしいものです。奈良の京に行って帰ってくるために>>

当時,陸路で一番速かった移動手段は馬に乗って移動することだったのだろうと私は思います。しかし,旅人はそのスピードでは満足できず,龍のように空を駆けるようなスピードの馬が欲しかったのでしょう。そうすれば,九州の大宰府にいても,仕事の少し空いた時間に平城京にいる会いたい人と会って,すぐまた戻ってこれる。
そんな夢ような馬(龍の馬)があれば良いのになあという願望がストレートにこの短歌には表れていると私は感じます。
今でも,新幹線の更なるスピードアップ,リニア新幹線の開業に向けたインフラ整備,飛行場へのアクセスの利便性向上など,短時間で目的の場所に移動できることへの欲求は無くなりません。
次は馬に乗って旅をしている途中の出来事を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

住吉の名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず(7-1153)
すみのえのなごのはまへに うまたててたまひりひしく つねわすらえず
<<住吉の名児の浜辺で馬をとめて玉を拾ったことがいつまでも忘れることができない>>

住吉名児の浜辺は,大阪市の南部の海岸線だったのかもしれません。「すみのえ」と仮名を当てますが,万葉仮名は「住吉」です。
当時そこは風光明媚で,冬は温暖で,夏は海風で涼しく,新鮮な魚も食べられ,住みやすそうな場所だったのでしょう。海が無い盆地の平城京の人たちにとって,名児の浜辺は今で言う湘南海岸や葉山のような海浜高級別荘地のイメージだったのだろうと私は想像します。
馬に乗った(仕事の)旅の途中でその美しい海岸を通ったとき,馬から降りて,海岸で家に残してきた家族や実家近くの恋人のために綺麗な貝がらを拾ったことが嬉しくて忘れられない記憶となったのでしょう。
当時馬を手に入れる価格は,今で言えば高級車並みだったとすると,この旅人は中産階級以上ということになり,住吉はあこがれの地だったのかもしれませんね。
さて,馬が高級車とするとガソリンに当たる餌が必要になります。当時のそういった様子を伺うことができる旋頭歌(柿本人麻呂歌集より万葉集に転載)を次に紹介します。

この岡に草刈るわらはなしか刈りそねありつつも君が来まさば御馬草にせむ(7-1291)
このをかにくさかるわらはなしかかりそね ありつつもきみがきまさむみまくさにせむ
<<この岡で草を刈っている童よ,そんなに刈らないでおくれ。このままにしておけば彼が来たときのお馬にあげる草にできるから>>

今年は天の川君も馬を見習って馬力をかけてほしいものですね。

天の川 「たびとはん。頑張ってほしかったらなあ,正月の酒にもうちょっと上等なんにして~な。今からでも遅~ないで。」

今年も相変わらず憎まれ口だけは達者で期待はできない天の川君に邪魔をされないよう,本ブログは上品にいきたいものですが,さてどうでしょう。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(2)」に続く。