2014年6月28日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…引く(2)  心も体も引かれていきます

「引く」の2回目は,自分の体の一部や心を引くことについて,万葉集を見ていくことにしましょう。
最初は彼女が眉を引く(描く)姿が忘れられないという詠み人知らずの短歌です。

我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも(12-2900)
わぎもこがゑまひまよびき おもかげにかかりてもとな おもほゆるかも
<<彼女が微笑みながら眉を引いていた。その面影は幻としてしきりに浮んできて気掛りに思われることだなあ>>

彼女がお化粧をしているところを見たのでしょうか。作者にとって非常に魅力的に感じたのかもしれません。それが頭によぎって,彼女のことばかり考えている自分が居ることに気づき,この短歌を詠んだのだろうと私は考えたくなります。
次は,自分黒髪を引き解くことを詠んだ女性作と思われる短歌です。

ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも(11-2610)
ぬばたまのわがくろかみを ひきぬらしみだれてさらに こひわたるかも
<<私の黒髪を引き解いても心乱れて,あなたをさらに恋い慕い続けています>>

結った黒髪を引き解くということは女性がメークを落とすような時間帯なのでしょうか。一日のやるべきことを終えて(奈良時代では女性は家で機織や家事が主な仕事),仕事をやるうえで邪魔になるため結っていた髪を引き解いたときは,1日の終わりでようやくリラックスできる時間だったのかもしれません。そのときでも,彼を恋い慕う気持ちで心が乱れてしまう,そんな心情を表現したものだと私は思いたい短歌です。
今回の最後の和歌は,心を引くを詠んだ東歌(女性作)を紹介します。

赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ(14-3536)
あかごまをうちてさをびき こころひきいかなるせなか わがりこむといふ
<<赤駒を鞭打って緒を引き立てるように,私の心を引き立てるどのような殿方が私のところに来るというのでしょう(あなたしかいませんよ)>>

この東歌もなかなかの表現力をもった短歌だと私は思います。この女性は東国の野原で育ち,きっと馬にも乗れる活発な女性ではないかと私は想像します。そんな女性がこんな短歌を詠むということを知った京の男性はどう思ったでしょうか。親が家から出さず,気軽に逢うこともままならない京の女性とは違った,あこがれに似た強い魅力を感じたのかもしれません。
東歌を集めた大伴家持東国の魅力を京人にアピールしたかったのではないかと,私は常々考えています。東国の物産の京での消費(引き)を増やし,東国が繁栄することで,当時の平城京を含む日本全体が豊かになると家持は考え,東歌を万葉集に入れたと仮説するのは論理が飛躍しすぎているのでしょうか。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3)に続く。

2014年6月22日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1) 植物は無闇に採ってはいけません

<私の引き際>
私の同年輩の人たちには,そろそろ現役を引退する人が増えています。「人間引き際が肝心」とか「引退しても悠々自適」とか「顧問として引く手あまた」とか,「引退」に関して世間ではいろいろと言われることがありますね。
私自身は「引き際を忘れて,往生際が悪く,仕事にしがみついて,一向に現役から引く気配を見せない」といったところでしょうか。理由は表向き「引き取り手がないので」ということにしていますが,本当は今の仕事(ソフトウェア保守開発の現場)は私には向いているし,好きだからです。
<本題>
さて,今回からしばらくは動詞「引く」を万葉集で見ていくことにします。実は,2012年7月8日の当ブログで,対語シリーズ「押すと引く」というテーマで「引く」を少し取り上げています。しかし,「引く」を国語辞典で(それこそ)引くとたくさんの説明が出てきます。
広い意味を持つ言葉のためか,状況や「引く」対象によって意味が異なる場合,次のように当てる漢字を別のものにすることがあります。

弾く,惹く,曳く,牽く,轢く,退く,挽く
万葉集に出てくる「引く」の対象も,次のようにさまざまです。

麻,網,石,板,馬,枝,帯,楫(かぢ),梶(かぢ),葛(くず),黒髪,心,琴,自分,裾(すそ),弦(つる),蔓(つる),幣(ぬさ),根,花,人,舟,眉,都(みやこ),藻(も),弓,緒(を)
今回は,その中で植物のさまざまな部分を「引く」動作を詠んだ和歌を見ていきましょう。
最初は梅の枝に関したものです。

引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも(8-1644)
ひきよぢてをらばちるべみ うめのはなそでにこきいれつ しまばしむとも
<<枝を引き寄せて折ったら梅の花が散ってしまいそう。花だけをしごいて袖に入れよう。花の色が袖に染まっても>>

この短歌は,大伴旅人の従者であった三野石守(みののいそもり)が詠んだとされる1首です。大伴旅人は大宰府長官としての赴任中,梅の花の美しさを愛でる和歌を従者とともに多く残しています。その影響なのかはわかりませんが,太宰府天満宮周辺には6,000本もの梅の木が植えられているそうです。
次は,夏になってものすごい勢いで伸びる葛を引く(駆除する)作業をしている乙女たちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。

霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女(10-1942)
ほととぎすなくこゑきくや うのはなのさきちるをかに くずひくをとめ
<<ほととぎすの鳴く声をもう聞いたかい? 卯の花が見事に咲いて,地面にも花弁が散っている丘で伸びた葛のつたを引いている早乙女たちよ>>

ほととぎすと卯の花から次の歌詞で始まる「夏は来ぬ」という唱歌を私は思い出しました。

卯の花の におう垣根に ほととぎす 早やも来啼(な)きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

この唱歌の作詞者を改めて調べてみました。すると,何と歌人で国文学者の佐々木信綱(1872~1963)ではないですか。今までこの唱歌の作詞者について私は全く意識していませんでした。佐々木信綱は万葉集にも造詣が深く,万葉集に関する本をたくさん出しています。もしかしたら佐々木信綱先生「夏は来ぬ」の作詞をするとき,この短歌も参考にしたのでは?と私は勝手な想像をしています。
最後はの花を引っ張る東歌です。

小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
をさとなるはなたちばなを ひきよぢてをらむとすれど うらわかみこそ
<<小さな里にある橘の花を引き寄せて折ろうとするが、まだ若々しく柔らかいので(折ることができないよ)>>

ここでの橘の花は目当ての女性を指していそうですね。この短歌の作者がお目当ての相手はまだ幼い少女で,なかなかうまく靡いてこないことを嘆いているようにも私には思えます。
実は万葉集の東歌には,このように女性の譬えとして花などを詠った優れた譬喩歌が何首も残されています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(2)に続く。

2014年6月14日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ)  胸が焼き焦げるほど一緒に暮らしたいよ~

<秋田訪問報告>
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。


秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。





また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。





新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。

わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>

旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。

武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>

この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。

夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>

家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。

2014年6月9日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(2) 枯草はパチパチ燃え,焼きもちは膨らんでは萎む

<学会参加に秋田へ向かう>
今回の投稿は,今日から秋田市で開かれるソフトウェア関連の学会に参加するため移動中の秋田新幹線のきれいな最新型「こまち」の中からアップしています。飛行機での移動も考えたのですが,開催場所が秋田駅のすぐ近くで,自宅から大宮経由で新幹線で行く時間と飛行機を使った時間はほとんど変わらず,さらにパソコンが自由に使える新幹線にしました。
それにしても,盛岡から秋田までは車両は新幹線のままですが,ローカル線をガタンゴトンと,のどかに走る列車旅ですね。


さて,「焼く」の2回目は「焼く」対象を前回で示した「塩」「太刀」以外のものを万葉集で見ていくことにします。
まず,最初は現在でも「野焼き」という言葉あるように,「野を焼く」とを詠んだ長歌(一部)です。この長歌,笠金村作といわれ,志貴皇子が亡くなったことに関連して詠んだとされています。

立ち向ふ高円山に 春野焼く野火と見るまで 燃ゆる火を何かと問へば 玉鉾の道来る人の 泣く涙こさめに降れば 白栲の衣ひづちて 立ち留まり我れに語らく なにしかももとなとぶらふ~(2-230)
<~たちむかふたかまとやまに はるのやくのびとみるまで もゆるひをなにかととへば たまほこのみちくるひとの なくなみたこさめにふれば しろたへのころもひづちて たちとまりわれにかたらく なにしかももとなとぶらふ~>
<<~向こうに見える高円山に,春野を焼く野火かと見えるほどの火を,『何の火ですか』と尋ねると,道をやって来る人が泣く涙は雨のように流れ,衣も濡れて,立ち止まりわたしに言うのは,『どうしてそんなこと聞くのか?』~ >>

高円山の春野を焼く野火に見えたのは,実際は野火ではなく志貴皇子が亡くなった葬式の行列の松明(たいまつ)の火だったのです。隊列をなして松明の火が遠くから見ると野を焼く火が一列になって燃え進んでいく様子と似ていたと感じた作者だが,少し様子が違うので,「何の火か?」と尋ねた。そうしたら,来る人はみんな涙に濡れていて,「志貴皇子のお葬式の隊列の火であることを知らないのか?」という返事が返ってくるというストーリーの挽歌なのです。
もう1首「野を焼く」が出てくる詠み人知らずの短歌を紹介します。

冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く(7-1336)
ふゆこもりはるのおほのを やくひとはやきたらねかも わがこころやく
<<春,広い野を焼く人は,野を焼くだけでは足りず,私の心まで焼いてしまう>>

春の野焼きを見ていた作者は,枯草がパチパチと音を立てて燃えるさまが,恋の炎で燃える自分の心と同じイメージができ上がったのかもしれません。
心が焼けるとは,恋の苦しさの喩えなのか,それとも相手に対する深い情念を表しているのか,焼きもちを焼いている(嫉妬心に燃えている)ことか,いや過去の恋の清算を表しているのか,この短歌は見た人のさまざまな恋の経験からいろいろな想像をさせてくれます。
結局「野焼き」は譬えであり,この短歌での焼く対象は「自分の心」ということになります。
では,次は「自分の心を焼く」を突き詰めた詠み人知らずの長歌と反歌を紹介します。

さし焼かむ小屋の醜屋に かき棄てむ破れ薦を敷きて 打ち折らむ醜の醜手を さし交へて寝らむ君ゆゑ あかねさす昼はしみらに ぬばたまの夜はすがらに この床のひしと鳴るまで 嘆きつるかも(13-3270)
さしやかむこやのしこやに かきうてむやれごもをしきて うちをらむしこのしこてを さしかへてぬらむきみゆゑ あかねさすひるはしみらに ぬばたまのよるはすがらに このとこのひしとなるまで なげきつるかも
<<焼いてしまいたいような醜い小屋,すぐ棄ててしまいたいような破れた薦を敷いた床で,へし折ってしまいたいような醜い手を絡めて他の女と寝ているあなた。それを想像すると,昼も夜も通して私が寝ている床はヒシヒシと音がするほどに嫉妬に暮れているのです>>

我が心焼くも我れなりはしきやし君に恋ふるも我が心から(13-3271)
わがこころやくもわれなり はしきやしきみにこふるも わがこころから
<<私の心を嫉妬心で焼くのも私の心がしていること。すべてそれほどあなたのことを恋している私の心のせいなのです>>

私は,この2首は女性の立場になって男性が詠んだか,女性でもあっても結構年配の女性が,若い男子に「複雑な女性の気持ちをちゃんと理解しなさい。女性は怖いのよ」と諭している和歌のようにも感じます。

天の川 「あ~あッ。ちょっと待って~な。たびとはん。」

おッ。雨が降り続いていて,ずっと寝床にいて,蒲団がカビ臭くなってきたのか,しばらくぶりに起きてきたな天の川君。

天の川 「いくら何でも,この2首は過激やあらへんか? それに,こんな喩えで若い男連中が女の気持ち分かるんか?」

私にはよく理解できるような気がするけどね。

天の川 「なるほどな。たびとはんは,よっぽと,怖い目に遭うてきはったんやな。」

余計なことを言うな! 天の川君。寝床に引っ込んでいなさい。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ)に続く。