2017年4月27日木曜日

序詞再発見シリーズ(14) ‥ 植物(スゲ)と序詞

今回から,万葉集の巻11と巻12に出てくる序詞で植物を内容に入れたものを紹介していきます。
今回は植物の中でもスゲ(菅)が含まれる序詞を使った短歌を紹介します。
実は,巻11,12でスゲが序詞に出てくる短歌が14首も出てきます。

天の川 「へ~,スゲ~やんか」

...。 気を取り直して,短歌の紹介をします。
最初は,山菅(山に生える菅)を序詞に詠んだ短歌です。

山川の水陰に生ふる山菅のやまずも妹は思ほゆるかも(12-2862)
やまがはのみづかげにおふる やますげのやまずもいもは おもほゆるかも
<<山川の水辺に生えている山菅の「やます」というよう,「止まず」あなたを恋しく思っているよ>>

ヤマスゲの「やます」から「止まず」を引いたと私は解釈しました。
スゲ属は多くの種類があるようですが,万葉集でで来るスゲは,菅笠や蓑を作ることができる大ぶりのカサスゲ(現在の分類)だったのかも知れません。
スゲは水辺を好む植物ですので,山の中に流れる川にもスゲの大群落があっても不思議ではないですね。また,山中のスゲの群落がある名所が京人に知られていたのかもしれません。
次は海の入り江の水辺に生えるシラスゲを序詞に詠んだ短歌です。

葦鶴の騒く入江の白菅の知らせむためと言痛かるかも(11-2768)
あしたづのさわくいりえのしらすげのしらせむためとこちたかるかも
<<葦辺で鶴が騒いでいる入江の白菅(シラスげ)の名前のように(あの人と私のことを)知らす(シラス)ことをしたためか,世間は煩わしいほど噂をしているようだ>>

「知らす」を言いたいためにわざわざ「葦鶴の騒く入江の」が要るのか?という疑問を持つ人には興味がない短歌かもしれません。
でも,私はシラスゲが海の近くに生えていたかも?ということに興味を持ちます。
葦が生えているのは,完全な海水ではなく,多くが海水と川の水が混じる汽水域だと想像します。
そんな場所にシラスゲが生えている場所があり,多くの人がそのことを知っていたことが私にとって重要です。
実は,琵琶湖のような淡水湖にも入り江はありますので,海とは断定できないのです。こういった可能性のある情景をいろいろイメージすることが序詞を鑑賞する楽しみの一つなのです。
最後は,スゲの根を序詞に詠んだ短歌です。

浅葉野に立ち神さぶる菅の根のねもころ誰がゆゑ我が恋ひなくに(12-2863)
あさはのにたちかむさぶる すがのねのねもころたがゆゑ あがこひなくに
<<浅葉野に立つと神々しく見える菅の根のように ねんごろに それは誰に対してでもなく,わたし自身を恋しさでもない。あなだへの恋しさなのですよ>>

スゲの根は意外としっかり張られていて,スゲを簡単に抜くことはできないようです。スゲの根はそんなイメージを当時の人々は持っていたのでしょう。
根が強くなければ簡単に引っこ抜いてスゲ笠などの材料として容易に採取できたのが,根が強いものだから当時高価だった鎌などの刃物で刈り取るしかなかったのかも知れません。
スゲはさまざまな用具の材料となりえるものだったのですが,最終の障害となる根の張りが強い特徴も「ねのころ」につながったのかもしれません。
ところで,浅葉野は場所が不明らしく,日本のあちこちで「ここが浅葉野だ」とこの短歌の歌碑が立てられているようです。
私の別の珍説は「浅葉野」は地名ではなく,スゲがまだそれほど伸びていない季節の野原という一般名詞で,それでも根はしっかり張っている状況を「神さぶる」と表現したのではないかということです。

天の川 「たびとはん。単なる思い付きやろ?」

はい。そのとおりで~す。
(序詞再発見シリーズ(15)に続く)

2017年4月16日日曜日

序詞再発見シリーズ(13) ‥ その他の地名と序詞

序詞の中に地名が出てくる万葉集の和歌の紹介を今回で終わりにします。
今まで紹介してこなかった地名が序詞の中に出で来る短歌を見ていきますが,最初は百人一首の歌にも出てくる「大江山」です。

丹波道の大江の山のさな葛絶えむの心我が思はなくに(12-3071)
たにはぢの おほえのやまのさなかづら たえむのこころわがおもはなくに
<<丹波街道の大江山にきれいな葛が絶えず伸びつづけるように,あなたと慕う気持ちが絶えるなどと私が思うでしょうか>>

丹波道(街道)は,今の京都から亀岡(明治初期までは亀山と呼んでいた),今の園部を通って北上し,日本海に抜け,西(山陰地方)に向かう街道です。大江山を過ぎると日本海の海岸まであと少しです。不安な旅人も気持ちとして大分楽に感じるようによったでしょう。
大江山のふもとでは,夏になると(カズラ:つる草の総称)がすごい勢いで伸びでいたのだと思います。
行きは早春で林野は見通しが良く,広々としたいたのが,何カ月後の帰りには,うっそうとつる草が生い茂り,蔓は木を取り巻くだけでなく,木の上まで伸びていたと想像できます。
景色がガラッと変わってしまうくらい伸び続ける葛の勢いと同じくらいあなたのことを思っているという短歌ですが,京人にとっては大江山の葛の繁茂の早さはすでに有名だったのかも知れませんね。
さて,次は今の滋賀県(近江地方)の川の名前を序詞に入れた短歌です。

高湍なる能登瀬の川の後も逢はむ妹には我れは今にあらずとも(12-3018)
たかせなのとせのかはの のちもあはむいもにはわれは いまにあらずとも
<<急流である能登瀬川の名のように後の世に逢おう。彼女と私が逢うことは今は叶わないが>>

この能登瀬川は,同じ名前川は今の地図上残っていません。しかし,滋賀県米原市にある天野川の旧称が能登瀬川とのこと殺目山らしく,この短歌に出てくるのが天野川だとされているようです。
もし,そうだとしたら,同じ名が万葉集に出てくる以上は,安易に名前を変えないでほしいなあと私は思います。
そのほか,滋賀県では少し似た能登川という地名があります。この地名は川があったからではなく名付けられたようで,地域も平野で小さく,とても早瀬をもつ川とは無縁だと考えられそうです。
能登(のと)と後(のち)の発音が似ていたということ。また,瀬(せ)と世(せ)が同じ音読みだということが当時一般に知られていたら,「後は」の意味がより限定されたものになると私は考えます。
最期は,三重県の伊勢を序詞に詠んだ短歌を紹介します。

伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして(11-2798)
いせのあまのあさなゆふなにかづくといふ あはびのかひのかたもひにして
<<伊勢の海人が朝夕に潜って獲るというアワビの貝の殻が片側にしかないと同じように私は片思いをしている>>

天の川 「なんや。この短歌,序詞ばっかりえろ~長くて,言いたいことは『俺,片思いしてんねん』だけやんか」

天の川君の感想はもっともだと思うよ。万葉集が質の高い名歌を集めた歌集なら,こんな短歌が入っている訳がないよね。
<万葉集を文学と見るから苦しい>
万葉集を文学として高く評価する批評家さんたちは苦し紛れに「万葉集は名もない庶民が詠んだ素朴な和歌も載っている」などと説明しているけれど,万葉集を文学作品オンリーと見るから説明が苦しくなるだけだと私は思うね。
万葉集には文学的に優れた和歌もないわけではないが,情報提供(何らかの広報)を目的としたものであれば,話は全然別になるよね。情報提供が目的ならば,作者の感情の表現がうまいか下手かは無関係。その短歌がもつ情報の量や質が優劣を評価する基準になる。
<天の川君よろしく!>
天の川 「そんなら,この短歌は『伊勢では若くて可愛いピチビチの大勢の海女さんたちが,朝から夕方まで濡れたらスケスケの衣を着て潜り,身のほうは煮ても焼いてもおいしいし,乾燥させたら日持ちがして,水に戻せばそれはそれでおいしい,そして貝殻の裏はきれいに輝いて首飾りの材料にもなるアワビをたくさん獲っているから,みんなで伊勢へおいでやす』というような情報があるということやな」

おいおい,天の川君,そんな「ピチピチ,スケスケ」まではこの短歌は書いてないぞ。ただ,スケベな平城京のオジさんたちはそんな妄想をしたかもしれないね。

天の川 「なんやて! 俺がスケベオヤジやと言ってんのと同じやんか!」

天の川君,おっと,悪い悪い。
さて,これで,地名を入れた序詞がある和歌の紹介を終わり,次回からは植物をテーマとして序詞に入れた巻11,巻12の短歌を見ていきます。
(序詞再発見シリーズ(14)に続く)

2017年4月6日木曜日

序詞再発見シリーズ(12) ‥ 和歌山は和歌の浦だけではないぞ!

万葉集の巻11,巻12の序詞で地名がで来る短歌の紹介を続けます。
前回,和歌山の地名で和歌の浦にまつわるものを紹介しましたが,今回はその他の和歌山県の地名が序詞に入った短歌を紹介します。
最初は,和歌山県南部の田辺市の秋津野を序詞に入れた羇旅の短歌です。

留まりにし人を思ふに秋津野に居る白雲のやむ時もなし(12-3179)
とまりにしひとをおもふに あきづのにゐるしらくもの やむときもなし
<<家にいる人への思いは秋津野の白雲のように絶える時がない>>

秋津野は田辺市秋津町付近のこととされているようです。田辺市は和歌山市からおおよそ50km南に位置する市です。近くに風光明媚で知られる南紀白浜があります。最近ではパンダの繁殖を続けている白浜アドベンチャーワールドが有名かもしれません。
この辺りは,紀伊水道に面している和歌山市付近と違い,太平洋からの風をまともに受け,背後には紀伊山地の山々が控えているため,雲が発生しやすい地形だといえそうです。
Googleのストリートビューを見ても,比較的良い天気日に取っているようですが,そらは雲が大半を占めています。
「白雲のやむ時もなし」という表現にぴったりの場所だったことが,万葉時代から知られていたのかも知れません。
次は,万葉集でよく出てくる山「真土山」を序詞に入れた恋の短歌です。

橡の衣解き洗ひ真土山本つ人にはなほしかずけり(12-3009)
つるはみのきぬときあらひ まつちやまもとつひとには なほしかずけり
<<橡で染めた衣脱いで洗い打つ真土山ではないが,元の彼には今も誰よりも好き>>

「打つ」,「真土(まつち)」,「本つ(もとつ)」との音の近さは当時はもっと近い発音だったのかわかりませんが,かなり苦しいこじ付けかもしれませんね。
「○○商会」の「□□めーる」というオフィス用品の通信販売サービスのテレビCMに出てくるおやじギャグ程度と考えれば違和感はありません。

天の川 「『A4サイズ無いよ~。そうだ頼めば~よん。』『バインダがないよ。そうだ,頼めばいんだ。』ってやっちやな。」

天の川君,ありがとう。それ,それ。それです。
さて,(つるはみ)は今ではクヌギと呼ぶ樹木で,樹皮などは万葉時代にはすでに染料として使われていたことが,この短歌から想像できます。
それにしても,別れた後,別の異性とつきあってみて,元カレ(元カノ)の良さが分かったという経験をした人は,古今東西いたようですね。
最後に田辺市より少し北にある印南町の切目付近の山を序詞に詠んだ恋の短歌を紹介します。

殺目山行き返り道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらむ(12-3037)
きりめやまゆきかへりぢのあさがすみ ほのかにだにやいもにあはざらむ
<<殺目山を行き来する道に立つ朝霧のようにせめてほのかでもあの娘に逢えないかな>>

殺目山の殺目は,今は切目とされています。万葉集では地名の音を万葉仮名に当てはめているだけなので,漢字の文字の意味にこだわる必要はありません。
殺目山は険しい山ではなく,太平洋に面して農作に適していた高台がたくさんあったのかもしれません。そのため,すでに山道が整備されていて,そこを朝行き来するとき,下界に霞がかかっていることが多かったのでしょう。
その朝霞のわずかなすき間(切れ目)や霞が薄い部分に下界の家,農地,川,池などがほのかに見え隠れしたのだろうと思います。
兵庫県朝来市にある竹田城の雲海の写真を見て「行ってみたい」と思う人がたくさんいるように,この短歌を聞いて殺目山に行ってみたいと思った京人がいたかもしれませんね。
序詞は本当に私の想像を豊かにしてくれます。
(序詞再発見シリーズ(13)に続く)

2017年4月1日土曜日

序詞再発見シリーズ(11) ‥ 和歌山県の県名は和歌の浦から?

万葉集の巻11,巻12の序詞で地名がで来る短歌の紹介を続けます。
今回は今の和歌山県の地名を序詞に入れて詠んだ短歌です。
和歌山の県名には「和歌」がついています。もっと,日本の「和歌」について詳しい県というイメージ作りを地道に醸成していけば,県の活性化につながるような気がします。

紀の浦の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに(11-2730)
きのうらのなたかのうらに よするなみおとだかきかも あはぬこゆゑに
<<紀の海にある名高の浦に寄せる波音のように周りがうるさい。あの子とは逢ってもいないのに>>

名高の浦」は,今の和歌浦湾の奥あたりのようです。
和歌浦湾はそんなに奥まった湾ではないので,寄せる波は弱いものではなかったというのが,当時のイメージだったのでしょう。
この短歌の作者は,「名高」で周りに知れ渡ってしまっていること,「寄する波音」で噂が広まってしまっていることを表そうとしているように感じます。
まるで,今のワイドショーで取り上げられるタレントの密会や不倫の報道が止まらない状況と似ているのかも知れません。
そして本人曰く「会ったこともございません」といえば,さらに疑惑が広がるといった状況ですね。
ただ,「名高の浦」は当時の平城京の京人にとっては,それこそ有名な場所だったのでしょうね。
もう一つ「名高の浦」を序詞に使った短歌を紹介します。

紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを(11-2780)
むらさきのなたかのうらの なびきものこころはいもに よりにしものを>
<<紫色の名高の海で靡いている藻のように,僕の心はあなたに靡いてしまっています>>

紫色の海藻といえば,海藻サラダに使われる「トサカノリ」がありますが,実際はどんな海藻を指していたのかわかりません。
でも,この短歌で当時の和歌浦湾内の海岸には,温暖な黒潮が紀伊水道に入り込み,色とりどりの多くの海藻が所狭しと生え,波に揺れている姿が想像できます。
今回の最後は,和歌の浦を序詞に詠んだ短歌です。

衣手の真若の浦の真砂地間なく時なし我が恋ふらくは(12-3168)
ころもでのまわかのうらのまなごつち まなくときなしあがこふらくは
<<袖に隙間がある「ま」と同じ音の真(本当の)若の浦の真砂子の海岸が間なく(ずっと)続くように間なく続くわが恋の苦しさは>>

枕詞も訳を省略せず訳してみました。「ま」がポイントだと分かっていただけましたでしょうか。
この短歌を文学的にどう評価するかは私にとって興味がなく,当時の和歌の浦は白い細かい砂浜が続いていたということをみんなが知っていたことを序詞から想像できる事実のほうが私にとっては興味を持てることです。
(序詞再発見シリーズ(12)に続く)