2018年6月24日日曜日

続難読漢字シリーズ(30)…常磐(ときは)

今回は「常磐(ときは)」について万葉集をみていきます。現代では,常磐は「ときわ」または音読みで単に「じょうばん」と読み,意味として,常陸の国と磐城の国の併称,福島県いわき市,その地域の施設(常磐公園=偕楽園)や史跡(常磐神社=偕楽園内にある水戸光圀を祀る神社)を指す言葉として使われているようです。
しかし,万葉集では別のいくつかの意味で詠まれています。
最初に紹介するのは,山上憶良が世の無常を神亀5(728)年7月21日に太宰府で詠んだとされる短歌です。

常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(5-805)
<ときはなすかくしもがもと おもへども よのことなればとどみかねつも>
<<大きな岩のようにいつまでも変わらずにいて欲しいと思いたいが,世の中のことはひと時も変わらないことがない>>

憶良は仏教の無常観から「無常」の反対語として「常磐」という言葉を使い,この短歌を詠んだのだろうと私は思います。
人間は「常磐」のように絶対的に変化しない状態(真実は一つ)がいつまでも続いてほしいと願うものである。その絶対的なものにすがることが安心・安寧な幸せな人生だと考える人が多いが,世の中は「生老病死」という苦悩が常にいろいろな形で予断無くやってきて,それを許してくれないと。
ところで,万葉時代は「生老病死」の苦悩の中でも「老病死」の比率が高かったと想像できます。ただ,今の時代では「生きる」の苦悩の比率が高いのかも知れません。
人間関係の悪化,他人との比較での落胆,人生の目的や夢の喪失,仕事のスキルアンマッチなどにより,社会の中で「生きる」こと自体が苦しいと感じ,場合によっては精神疾患になる人が少なくない現代社会になっているような気がします。
「これだけをやっておけば大丈夫」というもの(宣伝文句によく使われる?)を求め,面倒なことを避けたり,今やるべきことを先送りしていた結果,あるとき「こんなはずではなかった」と気が付いてしまうのです。その失敗を繰り返し,(悪いのは他人だと思いつつも)失敗の後悔が重なることで「生きる」苦悩が強くなり,「生きている今の自分」を「その自分」が責め,苦しめることになってしまうのです。そして,自殺を選んだ人の中にはそんな「生きている自分」に対し,自分自身が作る苦悩に耐えられなくなった人も多いのでしょうか。
私は,世の中は無常(常に変化するもの)が前提と考え,常に状況の変化を注視し,先の変化を的確に予測できる能力を磨いていく努力が,「生きる」苦悩を乗り越え,「生きる」楽しさを得る有効な道の一つだと考えています。
さて,次に紹介するのは,常緑樹の橘の葉を形容として「常磐」を使い,大伴家持が高岡で元正(げんしやう)上皇崩御を悼み,その後見役の橘諸兄(たちばなのもろえ)に期待する短歌です。

大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして(18-4064)
<おほきみはときはにまさむ たちばなのとののたちばな ひたてりにして>
<<太上天皇は常磐の橘の葉ようにそのお力は不変です。橘様の橘もいつも照り輝き続けています>>

京では藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)の力が増大し,強引なやり方をセーブする役割として諸兄にいつまでも(常磐に)期待している家持の気持ちが表れた短歌だと私は感じます。
最後に紹介するのは,同じく家持が天平宝字2(758)年2月に式部大輔(しきぷのたいふ)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろあそみ)宅の宴で,変わらぬ結束の誓いを詠んだ短歌です。

八千種の花は移ろふ常盤なる松のさ枝を我れは結ばな(20-4501)
<やちくさのはなはうつろふ ときはなるまつのさえだを われはむすばな>
<<いろんな花がありますが,みないずれ色あせてしまいますが,いつまでも変わらぬ色の葉を持つ松の枝のように私たちは友情を結び合いましょう>>

家持より10歳以上年上だが将来は大臣になると目される清麻呂との関係を強く持ちたいという家持の思いがこの短歌から読み取れます。この10年余り後,家持が光仁朝になって昇進を速めるのですが,その当時清麻呂は右大臣に昇進していたのです。家持の期待通り,清麻呂と家持の関係は比較的良かったのではないかと私は思います。
ところで,広辞苑で「常磐」を引いてみると,この3首が3つの意味の違いの用例として出ているのです。約1300年前に「ときは」という言葉が,どのような異なる意味で使われていたかを万葉集はそれぞれ別用例で示してくれているのです。
万葉集は,五十音順などの並び順でないことを気にしなければ,まるで当時の日本語(ヤマト言葉)の辞書か文法書のような目的で編纂されたのではないかと感じてしまう私がいます。
(続難読漢字シリーズ(31)につづく)

2018年6月14日木曜日

続難読漢字シリーズ(29)…黄楊(つげ)

今回は「黄楊(つげ)」について万葉集をみていきます。「黄楊」は植物の名前です。小さな丸みのある葉の常緑樹で。丸い形に剪定して庭木などにします。私の庭にもまだ幼木ですが植えています。
ツゲは漢字で「柘植」とも書きますが,万葉集の万葉仮名ではツゲを詠んだすべての和歌で「黄楊」が使われています。「柘植」は三重県などに地名としてありますので読める人も結構いらっしゃるかも知れませんが,「黄楊」はなかなかの難読漢字でしょうか。
さて,最初に紹介するのは,播磨地方(今の兵庫県)に着任していた役人の石川大夫が京に選任され(帰任),地元を離れるときに地元の娘子が別れを惜しんで贈ったされる短歌です。

君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず(9-1777)
<きみなくはなぞみよそはむ くしげなるつげのをぐしも とらむともおもはず>
<<あなた様が京に帰られたたら,私は身を装いましょうか。化粧箱の黄楊の櫛を取ろうとさえ思いませんわ>>

黄楊の幹は非常に硬く,櫛の歯のような細い切り込み加工をしても,歯が折れたりすることがすくなく,万葉時代から櫛の材料として非常に重宝されていたのです。高級なツゲの櫛ももう使う必要なくなりましたという歌意でしょう。
なお,今でも国産のツゲの木で作った櫛は,最高級品で2万円以上していそうですが,それでも購入して利用する人がいるようです。
次に紹介するのは,柿本人麻呂歌集に出ていたという,黄楊の枕を詠んだ短歌です。

夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき(11-2503)
<ゆふさればとこのへさらぬ つげまくらなにしかなれが ぬしまちかたき>
<<夕方になると夜床の傍らから離しはしないぞ黄楊の枕よ。何か彼女を夢に見させておくれ>>

黄楊の木を細かくしたものの角を削り丸くしたチップを枕に入れると,頭に当てて寝返りをするとサラサラと音がして気持ちが良かったのかも知れませんね。今でも,木片やプラスチックのチップ,そば殻などを枕の中に入れたものが売られています。
最後に紹介するのは,やはり黄楊の櫛に関するものですが,黄楊の産地が分かるものです。

朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ(11-2500)
<あさづきのひむかつげくし ふりぬれどなにしかきみが みれどあかざらむ>
<<日向の黄楊櫛は使い古して古くなりましたが,どうしてあなたはいつ見ても見飽きないのでしょう>>

日向(ひむか)はどこの場所か私は知りませんが,良い櫛の材料となる黄楊の木がたくさん生えていて,日向黄楊櫛は万葉時代長持ちする櫛の高級ブランドだったのかも知れません。
(続難読漢字シリーズ(30)につづく)

2018年6月6日水曜日

続難読漢字シリーズ(28)…搗く(つく)

今回は「搗く(つく)」について万葉集をみていきます。意味は杵(きね)や棒の先で打って押しつぶす動作です。「餅を杵で搗く」「戦時中の疎開先で,一升瓶に入れた玄米を棒で搗いて白米にした」といった使い方をします。
最初に紹介するのは東歌で「搗く」がでくるものです。

おしていなと稲は搗かねど波の穂のいたぶらしもよ昨夜ひとり寝て(14-3550)
<おしていなといねはつかねど なみのほのいたぶらしもよ きぞひとりねて>
<<強いて嫌だと思って稲を搗いてあなたを待っていたのではないのよ。せっかく搗いたのに搗く前の稲穂が揺れるように心が不安定になっているの。昨夜はひとりで寝ることになってしまったから>>

何もしないで彼が来るのを待っているのは,時間の流れが遅いので,辛い力仕事だけど稲を搗いて待っていた彼女たけれど,結局来てくれなくて昨晩は一人で寝ることになった。搗く前の稲穂のように心がゆれ「待っている時間にやっていた稲を搗いた作業が無駄になったのよ」という彼女の気持ちが私には伝わってきますね。
次に紹介するのは,過去のブログでも何回か紹介している短歌です。

醤酢に蒜搗きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱の羹(16-3829)
<ひしほすにひるつきかてて たひねがふわれになみえそ なぎのあつもの>
<<醤に酢を入れ,蒜を潰して和えた鯛の膾(なます)を食べたいと願っている私に,頼むからミズアオイの葉っぱしか入っていない熱い吸い物を見せないでくれよ>>

この短歌の説明は2009年11月15日の投稿をご覧ください。前半の部分は「なめろう」のような料理をイメージしている料理だったのでしょうか。期待していたその料理が出ずに,〆の吸い物が出そうなので,作者は非常に残念がっている表現力に私は感心します。
さて,最後に紹介するのは,長歌の一部です。

~ 天照るや日の異に干し さひづるや韓臼に搗き 庭に立つ手臼に搗き ~(16-3886)
<~ あまてるやひのけにほし さひづるやからうすにつき にはにたつてうすにつき ~>
<<~ 日ごとに干して,韓臼で搗き,庭に据えた手臼で搗いて粉にし ~>>

干した蟹を粉々にするために搗く部分です。なんでそんなことをするのかは,2015年3月1日の投稿で詳しく私の考察を述べています。
この長歌全体を是非見てほしいと私はお薦めします。
(続難読漢字シリーズ(29)につづく)