2017年12月30日土曜日

序詞再発見シリーズ(30:本シリーズおわり) … 万葉時代の高級な「衣」とは?

今回は,前回のような粗末な単衣ではなく,裏地の付いた当時としては高級な「衣」を序詞に詠んだ万葉集の短歌を紹介します。
最初は,中国や朝鮮から輸入されたものか,その輸入服の形に国内で縫製された「韓衣」について詠んだ短歌です。

朝影に我が身はなりぬ韓衣裾のあはずて久しくなれば(11-2619)
あさかげに あがみはなりぬからころも すそのあはずてひさしくなれば
<<我が身は朝の人影のようにやせ細ってしまった。韓衣のすそが合わないように君と久しく逢っていないから>>

作者の気持ちはよくわかるのですが,このシリーズとしては韓衣のすそが合わない理由が気になります。
韓衣は中国風の服ですから体をすべて覆うような服であり,錦織の技法で文様を織り込んでいたと考えられます。奈良時代には,錦織部(にしごりべ)という錦織の技術を研究,普及,産業振興する組織が大和政権にあったようです。ですので,韓衣といっても輸入品ではなく,国内で縫製する技術があったのでしょう。
しかし,すそは足の先に行くほど広く作るのが当時のデザインだとすると,錦織の絵柄を縫い合わせできちっと合わせてすそを仕立てるのが難しく,高度な技術が必要だったのでしょう。結局,すその文様が合っているかいないかで,仕立ての出来が左右され,値段も大きく変わったのかも知れません。
「高級韓衣がこんな信じられない値段で買えます!」という売り手のトークに乗って買ってしまったら,細かい部分が雑だったということを昔もあったのかも知れませんね。
さて,次は裏地がちゃんとついている衣を序詞で詠んだ短歌です。

橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ(12-2965)
つるはみのあはせのころも うらにせばわれしひめやも きみがきまさぬ
<< ツルバミで染めた袷(あはせ)の着物を裏返すような仕打ちをなさるなら,私は無理に来てとは言いません。あなたが来ないことに対して>>

この短歌は,2011年10月22日の投稿で紹介したものです。
ただ,それは心の裏側を説明したものでしたが,今回は衣がテーマですので,「袷衣(あはせころも)」について考えます。裏地が付いている「袷」の反対は,裏地のない「単(ひとへ)」です。
橡で染めた袷の衣はきっと高価なものだったのでしょう。それは女性のほうから男性へ贈ったものと考えてよいでしょうね。贈った側の気持ち(逢いに来てほしいという気持ち)を無視して踏みにじる(送った衣を裏返しに着る)のは許せない。「もういいです!」と言いたいのですよね,作者は。
最後は,裏地のある豪華な衣を序詞に詠んだ短歌です。

赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも(12-2972)
あかきぬの ひたうらのきぬながくほり あがおもふきみがみえぬころかも
<<赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣を私が長い間いつも欲しいと願っているのと同じほど思い慕うあなた様,この頃はお見えになりませんね>>

この短歌も2012年11月1日の投稿で紹介しています。ただ,ここも違う視点で説明します。
「赤絹のついた裏地が直に縫いこまれた衣」というのはどんな衣なんでしょうか?
まず,裏地が赤色に染められた布ということですから,相当濃い色ですよね。裏地が濃い色ということは,表地は裏地の色が透けてこないほどもっと濃い色であるか,表地の生地自体が透けないような相当厚みがあるものである必要がありそうです。
そして,「直に縫い込まれている」ということは,表地と裏地に隙間が無いように,丁寧にしっかり縫われていることを示します。このような表現が,女性ならきっと来てみたいと思う豪華な衣のイメージを表していることがわかります。 
さて,まだまだ序詞に使われている言葉はたくさんありますが,30回続きましたのでここで「序詞再発見シリーズ」は一区切りをつけることにします。
次回は2018年正月スペシャルを投稿します。
(2018年正月スペシャル‥万葉集から犬について考える につづく)

2017年12月20日水曜日

序詞再発見シリーズ(29) … 万葉時代の粗末な「衣」とは?

今回は,「」それも当時粗末と扱われていた「衣」が序詞にどのように詠まれていたかを万葉集で見ていきます。
万葉時代では,すでに何らかの染色の技術,特に草木染の技法はかなり広まっていたことが万葉集からも想像ができます。ただ,染める目的は,染めていない布や衣よりもきれいに,かつ豪華に見せることがすぐに思い浮かびます。
ただ,日常使う衣で,汚れや黄ばみが目立たなくするために染めるという目的もあったかも知れません。
次は,そんな衣庶民的な衣を序詞に詠んだ短歌です。

橡の一重の衣うらもなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも(12-2968)
つるはみのひとへのころも うらもなくあるらむこゆゑ こひわたるかも
<<ツルバミに染めた一重の衣に裏地が無いように,あの娘の心は裏表がなく純真だからよけい恋しくなってしまう>>

ドングリの一種で,その葉や実を草木染の染色材として使ったとすれば,色は茶系だったろうと想像します。一重の衣ですから,その色に染めることで,白色に比べ衣の下が透けて見えるのを防止に役立ったのかも知れません。
この短歌の作者は,裏地のある高級な衣を着ているような金持ちは心に裏表があるかもしれないが,一重の廉価な衣を着ている娘は,世間ずれしないで純真で無垢な心をもっていると思ったのでしょう。
次は,製塩に携わる漁師が着る衣について,序詞に詠んだ短歌です。

志賀の海人の塩焼き衣なれぬれど恋といふものは忘れかねつも(11-2622)
しかのあまのしほやきころもなれぬれど こひといふものはわすれかねつも
<<志賀島の漁師がいつも着る塩焼き衣が定番のように私の恋というものも常時記憶からなくならない>>

万葉時代は,製塩を漁師やその家族が,漁の合間や夫や親が漁で留守の間にやっていたのだと私は想像します。
製塩技法は,海水を綺麗な砂を敷き詰めた塩田に撒き,天日で水分を飛ばし,砂と一緒に乾いた塩を採取。それを少量の真水に溶かし,砂が沈んだ上澄みの濃縮塩水を焚火で焼いた石の上に振りかけ,水分が飛んで石に残った塩を採取するような製法だったと私は想像します。
その作業をする人たちは,屋外での作業で長く使っていても丈夫な麻などの不厚い衣だったのかも知れません。今でいうデニムのような生地かもですね。当然,長く着ているうたに,塩を焼く焚火のススやに直射日光にあたり,古びた柔道着の色のように,独特の色に変化していたのでしょう。
それが,製塩作業をする人の定番作業着として,作業を見学する人たちには映っていたのだろうと私はこの短歌から想像します。
次は,製塩作業する人の作業着として,別の呼び方の衣があったことを物語る短歌です。

大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも(12-2971)
おほきみのしほやくあまのふぢころも なれはすれどもいやめづらしも
<<献上する塩を焼く漁師が着る藤衣は着慣れているところを見るときっと特別に仕立てたものなのだろう>>

この短歌に出てくる「藤衣」については,どんな衣か諸説があるようです。
2012年11月1日の投稿では「藤衣はとても織り目が粗く,肌が透けて見えるほど」と私は書いていますが,今は少し違ったものではないかと考えています。
それは,御門に献上するための特別な塩田などで製塩作業をしている人を区別するため,着ていた藤色に染めた作業着のことを指したのではないかと。
藤衣は塩焼き衣に比べたら,薄くて丈夫じゃなさそうに見えるけれど,作業している人たちがテキパキとやっているのを見ると,サマになっていると作者は感じたのかも知れません。
当然でしょうね。大君に献上するような塩を作っている製塩のプロですから,漁師の片手間とは違うスピード感で作業を進めているようにも感じます。
万葉時代は製塩は漁師が片手間にやる作業という常識から,高品質な献上塩を作る専門の製塩工プロという職業が生まれ始めた時期なのかもしれません。
(序詞再発見シリーズ(30:本シリーズおわり)に続く)

2017年12月14日木曜日

序詞再発見シリーズ(28) … 「舟」の用途や形は多様だった?

フルタイムの本業(ソフトウェアの保守開発)の忙しさがなかなか解消せず,またこのブログの投稿が滞ってしまいました。当面引退とはいかずに,私の本業はまだまだ続きそうです。
ただ,来年の2月を過ぎるとこのブログを立ち上げて10年目に入ります。満10年に向け,来年は少し頑張って投稿を多くしたいと考えていますが,結果はどうでしょうか。
今回は,「舟」やそれに関連するものが万葉集の序詞としてどのように詠まれているかを見ていきます。
まずは,が密生しているような潟にも入っていけるような小さな舟について詠んだ短歌です。

港入りの葦別け小舟障り多み今来む我れを淀むと思ふな(12-2998)
みなといりのあしわけをぶねさはりおほみいまこむわれをよどむとおもふな
<<入港する葦別け小舟にはいろいろ支障が多いように,差し障りが多くて今そちらへ着くのが遅れても,私のあなたへの気持ちが淀んだと思わないで>>

葦が群生しているような大きな川の河岸や海の潟では,葦を刈り取ったり,葦の群生の下に隠れているカニ,ウナギ,巻貝,二枚貝などを狩猟するための小さな舟が必要となります。
舟は小さいほど奥の方に入れますが,小さすぎると刈り取った葦や採取した魚介類を多く載せられないため,小さくするには限界があります。葦原の奥に行けば行くほど,良い葦や豊富な魚介類が獲れる可能性が高いのは分かっていても,葦に邪魔をされてなかなか先に行けない。
そんな情景が障害が多いなか君に会いに来たのに,なかなか来れないといって君への気持ちが淀んだと思わないでほしいというのが,作者の気持ちなのでしょうか。
<この作者は葦原での漁が大変なのを知っていた?>
ただ,私はこの序詞に注目したいのです。一般解釈とは違うかも知れませんが,葦に分け入って漁をする舟が大変だということを作者は知っていたということになります。
万葉時代には,さまざまな職業が生まれ,職業ごとのその大変さや面白さを紹介するメディアがあった可能性に私は注目します。すなわち,今で言えば職業紹介サイトのようなものです。もちろん,当時文字はまだ発達していなかったので,職業を紹介するようなガイドがいて,相談に乗っていたのかも知れません。「若人よ,来たれこの仕事に!」というような職業紹介イベントが定期的に行われていた可能性までも私は思いを巡らせます。
次は,逆にと港をつなぐ比較的大きな舟について詠んだ短歌です。

浦廻漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし(12-3172)
うらみこぐくまのぶねつきめづらしくかけておもはぬつきもひもなし
<<入江を漕ぎ巡る熊野舟はいつ見ても新鮮なように妻を心に懸けて思わぬ月日はない>>

熊野舟は,紀伊の国熊野の地で作られた丈夫で性能の良いブランド舟だったと私は思います。
港周辺で進んでいる舟がなかなかお目に掛かれないブランド舟の「熊野舟」を見た時の感動を作者は経験していたとも考えられそうです。
熊野の地は大木が生えている広大な森林地帯で,腕の良い木こり製材士運搬工がいて,山深くまで切り込んだ今の熊野川水系を使って木材を運ぶのに適した場所だったといえるかも知れません。当然,河口付近には腕の良い船大工が居て,品質の良い木台を入念に舟に仕立てたのでしょう。
そんな地で作られた船は品質が良く,丈夫で長持ちがするため,舳先の形を特殊なものにするなどしてブランド化し,高価で取引がされたと考えられます。それを手に入れられるのは,一部の裕福な漁師渡し舟経営者に限られていたと考えられます。そして,運よく熊野舟を手に入れられた人たちも,手持ちの舟のすべてを高価な熊野舟にできるわけがなく,一般の人はお目に掛かれるのがよほど稀で新鮮だったのかも知れません。
最後は,舟という言葉は出てきませんが,舟のを漕ぐ音を序詞に詠んだ短歌です。

漁りする海人の楫音ゆくらかに妹は心に乗りにけるかも(12-3174)
いざりするあまのかぢおとゆくらかにいもはこころにのりにけるかも
<<魚を獲りに出る漁師の舟の楫の音がゆっくり繰り返すように,だんだん彼女が心に乗り移ってきたなあ>>

海で漁をする漁師は毎日楫を漕いで漁に出るので,一番効率の良い,疲れの少ない漕ぎ方で楫を漕ぐのでしょう。そうすると,ギコー,ギコーという楫を漕ぐ音は,海辺の宿に泊まっていた作者にとっては,心地よい一定のリズムでのどかに感じられたのかも知れません。そのようなリズムで彼女は自分の心の中に入ってくるという短歌となります。
実は,父親が海辺の旅館や民宿に泊まるのが好きで,私が子供のころ一度和歌山県の和歌の浦付近の漁港近くの小さな旅館に泊まったとき,朝沖に向かって進む小さな漁船が発する「ポンポンポンポン..」という音と舟が残す波跡が,いかにものどかなリズムと映像を幼い私も感じた記憶があります。
父が「ポンポン船の音で目が覚めてしもたわ。朝早ようから漁師はんはご苦労なこっちゃなあ。」と起きてきたのを覚えています。そして「ポンポン船はなあ。焼玉エンジンちゅうのを載せている舟で,あんな音を出して動くんや」と私に教えてくれたのです。
当時は,ポンポン船はディーゼルエンジン付きの舟に急速に取り替えられつつある頃で,父もまだ現役として残っていることを珍しく感じたのかも知れません。
(序詞再発見シリーズ(29)に続く)