2009年11月30日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(へ~,ほ~)

引き続き,「へ」「ほ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

舳(へ)…船の舳先。
綜麻(へそ)…つむいだ糸をつないで、環状に幾重にも巻いたもの。
端,辺(へた)…はし。へり。
秀(ほ)…秀でていること。外に現れ出ること。
霍公鳥(ほととぎす)…ホトトギス
仄か(ほのか)…はっきりと見分けや聞き分けができないさま。かすか。
朴、厚朴(ほほがしは)…ホオの異称。

今回は,朴、厚朴(ほほがしは)を詠んだ短歌を紹介します。

我が背子が捧げて持てる厚朴あたかも似るか青き蓋(19-4204)
わがせこが ささげてもてる ほほがしは あたかもにるか あをききぬがさ
<<貴殿が高く捧げてお持ちの朴葉(ほうば)の立派さは,高貴な方が頭にかぶる蓋(きぬがさ)のようですね>>

皇祖の遠御代御代はい重き折り酒飲みきといふぞこの厚朴(19-4205)
すめろきの とほみよみよは いしきをり きのみきといふぞ このほほがしは
<<遠い昔の天皇の世では,朴葉を折りたたんでお酒を入れて飲んだということですよ>>

越中国守になって4年以上すぎた家持が氷見へ遊覧した際,参加者の一人(恵行という名の僧侶)が詠んだ短歌が前の1首。そして,大伴家持がそれに返歌したのが後の1首です。
この和歌のやり取りの場面は,家持が遊覧先の宴席で参加者が料理を取るための皿の代わりに立派な朴葉(ほうば)を用意したのがきっかけだと私は思います。
家持自らが朴葉の重ねたものを捧げ持ってきたのを見た参加者の一人が,その立派さを驚きとともに讃えたところ,家持は朴葉の由来を返歌したのでしょう。
今でも,朴葉はその肉厚で丈夫な大きな葉を利用して料理(ほうば焼き,ほうば寿司など)に使われます。万葉時代のさらに昔から,朴葉は,外出した際持ち運びが軽く,使用後は捨てられる便利さから,皿・コップ・炭火焼きの鉄板の代わりとして利用されてきたようです。
恐らく,家持は家臣に今まで見たこともないような上質の朴葉を用意させていたのでしょう。
「折りたためばお酒のコップにも使える」と返歌した家持は,同行者に日頃の国を守るための協力に対し「この立派な朴葉を使って飲んでもよいほどたくさんお酒も持ってきましたから,今日は大いに飲んでほしい」という意味を込めて返歌したのだろうと思います。
家持は翌年には5年に渡る越中赴任を終わり都に戻ります。
家持が赴任終了が近付いていることを知っていたかどうか分かりませんが,この日の和歌がこの他に数首万葉集に残っていますから,かなり盛大な遊覧旅だったのかもしれませんね。
(「ま」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月24日火曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(ふ~)

引き続き,「ふ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

更く(ふく)…(夜が)ふける。
葺く(ふく)…(屋根を)ふく。
塞ける(ふさける)…さえぎって通れなくする。
衾(ふすま)…布などで作り,寝るとき身体を覆う夜具。
絆(ふもだし)…馬をつなぐ綱。

今回は「更く(ふく)」が詠まれている和歌を紹介します。この言葉はほとんどが「夜が更ける」または「小夜更けて」という使い方で万葉集には約60首に現れます。今回紹介するのは,その中で高市黒人が羇旅歌8首の中で詠んだ次の短歌です。

我が船は比良の港に漕ぎ泊てむ 沖へな離り小夜更けにけり(3-274)
わがふねは ひらのみなとに こぎはてむ おきへなさかり さよふけにけり
<<この船は 比良の港に 漕ぎ寄って停泊することにしよう 船は沖の方へ離れるなよ 夜が更けてきたからな>>

高市黒人は万葉集で旅先で詠んだ歌のみが残っている謎の歌人です。
山部赤人も旅の歌人と呼ばれていますが,黒人は赤人のように長歌は残っておらず,18首ほどの短歌のみです。
この短歌は黒人が近江の海(琵琶湖)を船で渡って旅をしている途中,比良の港(近江舞子付近?)に停泊したい気持ちを詠ったものです。
黒人の8首の羇旅歌は,場所もいろいろあって一度の紀行で8首すべてを詠んだのかは定かではありませんが,すくなくともこの短歌の前後を併せた3首は琵琶湖の旅を詠んだ一連のものだと私は推測します。
前の短歌では,琵琶湖にはたくさんの港があり,そこでは鶴がたくさん鳴いている情景を詠んでいます。
また,後の短歌では高島の地で夜が更けてどこで泊まろうかを思案している短歌です。
この3首が一連の短歌だとすると,黒人は琵琶湖を南の多くの港があるどこかの港から高島の港を目指し,北へ船旅をして詠んだのだと思います。
では,なぜ黒人は高島の港に直接向かわず比良の港にとまることを望んだのでしょうか?
可能性のあると考えるものをいくつか挙げてみました。

①夜陸地から離れた航行は危険であったから。
②比良港近辺に寄りたい場所があったから。
③綺麗な琵琶湖の湖岸を明日陸路で楽しみたかったから。

私は,この地を幾度も訪れた経験から③を選びたいと思います。
琵琶湖は私が生まれた京都市に近く,幼いころから現在(今は関東南部に在住)に至るまで頻繁に訪れている場所なのです。
最近は周辺住民や関連自治体の努力によって琵琶湖の水質が著しく改善されているようで,琵琶湖の美しさを訪れるこどに感じるようになっています。
比良の港がある琵琶湖西岸は比良山系から湖岸まで急斜面で湖底も遠浅ではありません(東岸と対照的)。
変化に富んだ湖岸線,水の色の変化(浅い所から深い所への色の変化),白い砂浜,どこまでも続く松林,湖岸から間近に望む比良山系と,琵琶湖の中でいつ訪れて美しいと感じる場所のひとつです。
琵琶湖西岸の港で万葉集によく出てくるのは高島の港です。但し,いまの高島港より北の安曇(あど)川の河口付近にあったのだろうと私は想像します。東を向いていますから,早朝,日の出が水平線上に出て美しい場所だったのかもしれません。

              <写真は安曇川の河口付近>
高島の港あたりは,琵琶湖の西岸でも安曇川が運んできた土砂が堆積し,湖に突き出て平野が広がった場所です。
若狭湾で獲れた魚を若狭街道(通称:鯖街道)を使って,高島の港まで運び,琵琶湖を縦断して瀬田川を下り宇治田原あたりで荷を下ろし,陸路田辺辺りへ運び,再び木津川の船に載せ,木津川を逆上り,現在の木津辺りで荷を下ろし,陸路奈良明日香へ輸送していたのだろうと思います。
黒人の詠んだ時代と今の地形とそれほど変わらないとすると,比良の港辺りから最短コースで高島の港に向かう場合,船はかなり陸から離れ沖先のコースをとることになるのです。
この短歌はそれをやめて比良の港に停泊を迫ったのです。
黒人は比良の港で船中か民家に泊り,翌日③の理由から湖岸沿いに陸路で高島に向かったのだと私は思います。
比良の港(近江舞子付近)から高島の港まで15㌔程です。いくら徒歩でも一日あれば十分行ける距離のはずです。
しかし,この後ででてくる次の短歌で詠っているように,高島の港町のかなり手前にある勝野の原で日が暮れてしまい,どこで泊ろうかと思案をしたのです。

いづくにか我は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば(3-275)
いづくにかわれはやどらむ たかしまのかちののはらに このひくれなば
<<私はどこでわたしは宿ろうか、高島の勝野の原にこの日が暮れてしまったら>>

これは黒人が道に迷ったというより,あまりの風景の美しさに立ち止まって時間を過ごすことが多くなりすぎたことにより,たどり着けなかったのだと私は思いたいのです。
琵琶湖を次いつ頃訪れることができるか分かりませんが,今まで経験のない湖西線近江舞子駅から近江高島駅まで湖岸をできれば歩いてみて,黒人が感じた美しさに思いを馳せてみたいと私は願っています。
(「へ」「ほ」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月15日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(ひ~)

引き続き,「ひ」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)。

醤酢(ひしほす)…ひしお(味噌・醤油の原型)と酢。ひしおに酢を加えたもの。
聖(ひじり)…太陽のように天下を知る人。天皇。清酒の異称。
直土(ひたつち)…地べた。
漬つ(ひつ)…水に漬かる。濡れる。ひたす。
純裏(ひつら)…衣服の表と裏が同じ色のこと。
人嬲(ひとなぶり)…人をいじめること。
鄙(ひな)…都を離れた土地。田舎。
雲雀(ひばり)…ヒバリ(鳥)。
褨襁(ひむつぎ)…幼児の肌をくるむ着物。
蒜(ひる)…ねぎ,にんにく,のびるなどの総称。
嚔る(ひる)…くしゃみをする。はなひる。
領巾(ひれ)…首にかけ、左右に長く垂らした女性用の服飾具。別れを惜しむ時に振った。

今回は,醤酢(ひしほす)と蒜(ひる)が出てくる短歌を紹介します。
作者は今までこのブログでも何度か登場している万葉集の「綾小路きみまろ」こと長忌寸意吉麻呂(ながの いみき おきまろ)です。
宴席でもとめられた物名歌(いくつかのモノを詠み込み即興で和歌にしたもの)です。
宴席では意吉麻呂のユーモアのある即興歌を創る能力に定評があると分かっているのか,何と食材など「酢」、「醤」、「蒜」、「鯛」、「水葱(なぎ)」の5語も詠み込んで面白い和歌を詠めということになったようです。

醤酢に 蒜搗きかてて 鯛願ふ 我れにな見えそ 水葱の羹(16-3829)
ひしほすに ひるつきかてて たひねがふ われになみえそ なぎのあつもの
<<醤に酢を入れ,ニンニクを潰して和えた鯛の膾(なます)を食べたいと願っている私に,頼むからミズアオイの葉っぱしか入っていない熱い吸い物を見せないでくれよ>>

宴席で吸い物が出るのはもうお開きという意味だったと私は想像します。
まだ呑み足らない意吉麻呂は「なんだ酒の肴として期待していた鯛の膾は出ないのかよ。お開きのサインなんて見たくもない」という気持ちを詠ったのだと思いますね。
それにしても,酢醤油にニンニクを潰して入れたタレで作った鯛の膾は,ニンニクが生の鯛の臭みを取り,酢が殺菌をして,醤が鯛のうま味を引き立てる,本当に美味そうですよね。今度妻がいない時に作ってみよう。
一方,ミズアオイの葉は分厚く,細かく切り十分煮て,吸い物にしても結構にがかったのだと思います。後に食べなくなったことを考えると,当時他によい具がなくて仕方なく食べた。ただ,にがみ成分が胃腸には良かったのかも知れませんね。
私は,この短歌は食べたかった料理の美味しさと宴席の雰囲気を見事にイメージさせる素晴らしい即興歌だと思います。

最後に私のパロディ1首。
海苔干物 玉子を溶きて 飯願ふ 我れにな見えそ 古トースター 

(「ふ」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月8日日曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(は~)

引き続き,「は」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

将や(はたや)…もしや。あるいは。ひょっとして。
徴る(はたる)…徴収する。取り立てる。駆りだす。
埴生(はにふ)…粘土のある土地。
唐棣(はずね)…庭梅、庭桜の古名か。
柞(ははそ)…小楢(こなら)、橡(くぬぎ)、大楢(おおなら)の総称。
祝(はふり)…神に仕えるのを職とする者。
葬り(はぶり)…ほうむること。
隼人(はやひと)…九州南部の風俗習慣を大和朝廷とは異にしていた人々。後に従属。
駅馬(はゆま)…律令制で駅に用意し、管用に供した馬。
墾る(はる)…新たに土地を切り開く。

今回は,駅馬(はゆま)が出現する短歌の一つを紹介します。この短歌は大伴家持が越中赴任時,家持の部下が遊女(うかれめ)との度が過ぎた浮気をその部下に諭す長歌,短歌3首の二日後に詠んだものです。

左夫流子が斎きし殿に 鈴懸けぬ駅馬下れり 里もとどろに(18-4110)
さぶるこが いつきしとのに すずかけぬ はゆまくだれり さともとどろに
<<遊女左夫流子を本妻のようにして住まわせているお前の家に鈴を懸けない(私用の)駅馬が都から走ってきた。ひずめの音が里中に響き渡る勢いで>>

この駅馬に乗って都からはるばる越中まで飛んできたのは,もちろん都に残してきた部下の本妻です。
この前に長歌,短歌3首では,もう浮気というより左夫流子を本妻のように振舞わせていることが詠まれているくらいですから(家持はその4首で許されないことだよと諭しています),それを聞きつけた都にいる本妻の怒りの度合がいかばかりか「里もとどろに」でよく分かりますよね。
そして,越中の夫の家に着いた本妻は,戸を勢いよく開け,夫や左夫流子にどういう口調でどう言ったのかは,現代のわれわれにも容易に想像できそうです。
「そら見ろ。言わんこっちゃない」という上司家持の気持ちがこの短歌からにじみ出ています。
ただ,この前の長歌と短歌3首(浮気を諭す内容)から二日後にこの短歌を詠んでいるのは少しストーリができすぎている感も否めませんね。
部下側の和歌も残っていないことを考えると部下たちへの規律教育的見地から作ったフィクションまたは事実としても多少誇張した創作の可能性もありそうです。

天の川「ところで,たびとはんもきっとそんなえらい(大変な)目に今まで何度もおうたことあるんやろ?」

こういう話になるときまって出てくるのが天の川のやつ。無視,無視。(「ひ」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月4日水曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(の~)

引き続き,「の」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

拭ふ(のごふ)…ぬぐう。
荷前,荷向(のさき)…毎年諸国から奉る貢の初物。
野阜(のづかさ)…小高い所。野にある岡。
祈まく、祷まく(のまく)…祈ること。
法、則、範、典(のり)…おきて。法令。法度。

ここでは,拭ふ(のごふ)が出現する長歌を紹介します。この長歌は大伴家持が難波の港を筑紫の赴任先へ出港しようする防人に成代わって詠んだものです。連用形「拭ひ」が前半若妻が涙を拭うシーンで出てきます。

大君の命畏み 妻別れ悲しくはあれど 大夫の心振り起し 取り装ひ門出をすれば たらちねの母掻き撫で 若草の妻は取り付き 平らけく我れは斎はむ ま幸くて早帰り来と 真袖もち涙を拭ひ 咽ひつつ言問ひすれば 群鳥の出で立ちかてに 滞りかへり見しつつ いや遠に国を来離れ いや高に山を越え過ぎ 葦が散る難波に来居て 夕潮に船を浮けすゑ 朝なぎに舳向け漕がむと さもらふと我が居る時に 春霞島廻に立ちて 鶴が音の悲しく鳴けば はろはろに家を思ひ出 負ひ征矢のそよと鳴るまで 嘆きつるかも(20-4398)
おほきみの みことかしこみ つまわかれ かなしくはあれど ますらをの こころふりおこし とりよそひ かどでをすれば たらちねの ははかきなで わかくさの つまはとりつき たひらけく われはいははむ まさきくて はやかへりこと まそでもち なみだをのごひ むせひつつ ことどひすれば むらとりの いでたちかてに とどこほり かへりみしつつ いやとほに くにをきはなれ いやたかに やまをこえすぎ あしがちる なにはにきゐて ゆふしほに ふねをうけすゑ あさなぎに へむけこがむと さもらふと わがをるときに はるかすみ しまみにたちて たづがねの かなしくなけば はろはろに いへをおもひで おひそやの そよとなるまで なげきつるかも
<<天皇の命を受け妻との別れは悲しいが,ますらおの心を振り起こして,旅立ちの準備をして家の門まで出たら,母は私の頭をかき撫でた。まだうら若い妻は私に取り付き「ご無事を私は身を清めて祈ります。幸運を得て早く帰って来て!」と,私の袖を持って涙を拭い,むせび泣きつつ私に訴え,旅立ちはなかなかできなかった。道中出てきた国を振り返りつつ,いくつもの国を越え,山を越えいよいよ難波に来た。筑紫へ行く船が出港すると春霞が島の周りに立ち込め,鶴が悲しげな鳴き声で鳴けば,はるかに出てきた家を思い出し,背負った矢が嗚咽で「そよ」と音がするまで嘆いたことよ>>

越中から帰任後,少納言,兵部少輔(国防を司る兵部省のナンバー2)になった家持38歳の時,難波で筑紫へ向かう防人達の管理する役目を担っていたようです。
この長歌は,その時いよいよ防人に向かう人が故郷で悲しみの別れをしたきた家族を思う姿を見て,防人の立場で詠ったものです。
家持が防人の気持ちになって詠んだ同様の長歌がこの他にも2首万葉集に残っています。
難波には,当時これから防人として筑紫へ向かう人たちが各地から続々と集まってきたようです。
難波にいた家持は,船の手配や潮待ちの間,その人たちに和歌の作り方を教えたり,家族や故郷を思う和歌を主題とした歌会を頻繁に行い,ねぎらったのではないかと想像します。
また,家持は自らお手本の和歌を作って彼らに示したのがこれらの長歌(と併せ短歌)だったのではないかとも。
防人に向かう若者たちは,家持の子供の年齢かそれより少し年上の人たちが多かったのではないでしょうか。
家持は彼らに故郷の家族や恋人を思う強い気持ちを持ち続けるよう和歌を通して教え続けた可能性があると私は思います(我が子のように)。
武門を伝統とする大伴氏は何よりも兵士を大切にするという血筋があり,官僚となった家持にもその思いが強かった。また,筑紫歌壇を形成した父旅人山上憶良が残した和歌の影響もあったのかもしれません。
そのような家持の指導により防人達が詠った和歌を家持は,政治的立場を顧みず積極的に収集し,残すようにした。
万葉集に燦然と輝く「防人の歌」が多く残ったのは,家持の地道な努力の賜物ではないかと私は考えるのです。
(「は」で始まる難読漢字に続く)

2009年11月2日月曜日

万葉集で難読漢字を紐解く(ぬ~,ね~)

引き続き,「ぬ」「ね」で始まる難読漢字を万葉集に出てくることばで拾ってみました(地名は除きます)

鵺、鵼(ぬえ)…トラツグミの異称。
額づく(ぬかづく)…額を地につけて礼拝する。丁寧にお辞儀をする。
流なふ(ぬがなふ)…時がたつ。ながらう。
貫簀(ぬきす)…竹で編んだすのこ。
幣(ぬさ)…祭祀で神への手向けたものの一種で,布や紙を竹または木に挟んだもの。
蓴(ぬなは)…ジュンサイ(蓴菜)の別名
哭(ね)…鳴き声。泣き声。
合歓木(ねぶ)…ネムノキ。
懇(ねもころ)…真心でするさま。丁寧。親切。

ここでは,懇(ねもころ)が使われている和歌(約30首)の中から,坂上郎女が作ったといわれる長歌を紹介します(長くなるため,一部割愛します)。

懇に 君が聞こして 年深く 長くし言へば通はしし 君も来まさず 玉梓の 使も見えず嘆けども 験をなみ 思へども たづきを知らに 手弱女と 言はくもしるく 手童の 音のみ泣きつつ た廻り 君が使を 待ちやかねてむ(4-619)
<~ ねもころに きみがきこして としふかく ながくしいへばかよはしし きみもきまさず たまづさの つかひもみえず なげけども しるしをなみ おもへども たづきをしらに たわやめと いはくもしるく たわらはの ねのみなきつつ たもとほり きみがつかひを まちやかねてむ
<<真心で貴方が仰っていた,いつまでもと。でも,あんなに通ってこられた貴方は来られなくなり,貴方の使者の姿も見えない。嘆いても甲斐がなく,恋しく思っても手かがりも分からず,手弱女の言葉通り,童のように号泣しつつ,貴方を求め廻り,貴方の使者を待ちわびる>>

この長歌は,坂上郎女の怨恨の歌という題詞が付いています。郎女は,あんなに優しかった(まさに懇ろ),そして自分も本心から恋した君が,突然通ってこなくなったことに対して,嘆き悲しみ,でもひたすら待っている自分の状況を切々と詠っているのだと思います。
そして,坂上郎女はその次の短歌で,本当に好きになってしまった後悔の念を詠うのです。

初めより長く言ひつつ たのめずはかかる思ひに 逢はましものか(4-620)
はじめより ながくいひつつ たのめずは かかるおもひに あはましものか
<<最初から貴方との関係は長くは続かないと知っていたのなら、その心積もりでいればよかったのに。でも、貴方に心を寄せたあまり、私は今までこんなにも苦しい思いにあったことがないのです>>

長歌にある恋しい人が再び戻ってくるのを「待つ」心の苦しさ,哀れさを,坂上郎女は痛切に感じ,この短歌を詠ったのかもしれません。

ところで,万葉集に出てくる重要なキーワードの一つにこの長歌にも出てくる「待つ」があるような気がします。
実は万葉集では「待つ」という言葉が300首近くの和歌に出てきます。
ひたすら,何か(恋人,花鳥風月,季節,時,大切な人の健康回復など)を「待つ」ことの切なさ,不安感,焦り,そして状況によって微妙に変化する期待感など複雑な心情を表そうとした和歌が万葉集では多く取り上げられているように私は感ずるのです。いずれ「待つ」をテーマとした投稿をしたいと考えています。(「の」で始まる難読漢字に続く)