2011年1月28日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…侘ぶ(2)

「侘ぶ」という言葉が出てくる万葉集の巻はかなり偏っています。
多くが巻4と巻12の短歌に出てきているのです。巻4の短歌は作者が誰であるか題詞や左注に書かれていますが,巻12はすべて詠み人知らずの短歌です。
今回は,巻4に「侘ぶ」が出てくる短歌で,それも女性が詠んだと考えられる短歌3首を紹介します。

1首目は大神女郎(おほみわのいらつめ)が大伴家持に贈った短歌です。

さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふと侘びをる時に鳴きつつもとな(4-618)
さよなかにともよぶちとり ものもふとわびをるときに なきつつもとな
<<夜中に友を呼ぶチドリが,私があなたのことを思って落ち込んでいる時,しきりに鳴いていて,まあいらいらするわね>>

2首目は志貴皇子の子である湯原王と結構きわどい相聞を繰り返した娘子(をとめ)の短歌の1首です。

絶ゆと言はば侘びしみせむと焼大刀のへつかふことは幸くや我が君(4-641)
たゆといはば わびしみせむと やきたちのへつかふことは さきくやあがきみ
<<「もう別れよう」とあなたが言ったら私がしょげかえると思って,本当のことを言わないあなたはそれで幸せなの?>>

最後の1首は大伴田村大嬢(たむらのおほをとめ)が,後に家持の正妻になる異母妹の大伴坂上大嬢(さかのうえのおほをとめ)に贈った短歌です。

遠くあらば侘びてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ(4-757)
とほくあらばわびてもあらむを さとちかくありとききつつみぬがすべなさ
<<遠くに住んでいるならば寂しく思うだけですが、住む里が近くにあると聞いていてもあなたと会えないなんて芸の無いことですよね>>

いずれの短歌も「侘ぶ」という自分の気持ちを詠んで,相手に少し皮肉(恨みごと)を伝えようとしているように私には感じられます。
1首目と3首目は返歌がありません。ただ,2首目は湯原王が娘子の気持ちをはぐらかすような次の短歌を返しています。

我妹子に恋ひて乱ればくるべきに懸けて寄せむと我が恋ひそめし(6-642)
わぎもこに こひてみだれば くるべきに かけてよせむと あがこひそめし
<<あなたに恋して心が乱れても、乱れた心を糸車に掛けて縒り合わせればよいと思ってあなたを恋し始めたのです>>

なんだか湯原王は返答に困って苦し紛れに返したようにも思えますね。
侘ぶ(3:まとめ)に続く。

2011年1月22日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…侘ぶ(1)

「侘ぶ(わぶ)」は,現在では「詫びる(謝罪する)」といった表現で使われることが多いですね。
万葉時代では,現在イメージとは少し違う意味合いで使われているようです。

万葉集紀女郎がやがて別れを告げることになる夫へ恨みを詠んだ短歌を紹介しましょう。

今は我は侘びぞしにける息の緒に思ひし君をゆるさく思へば (4-644)
いまはわは わびぞしにける いきのをに おもひしきみを ゆるさくおもへば
<<今となっては私はどうしょうもなく気落ちして心乱れるばかりです。一生一緒に暮らすと決めていた貴方と,とうとう別れることになることを思えば>>

紀女郎については,昨年1月15日の投稿で大伴家持との関係を中心に少し紹介しています。
この短歌は夫の安貴王(あきのおほきみ)のスキャンダル(神職の女性との密通事件)によって,離別を余儀なくさせられたときに夫に対して詠んだと言われている3首の短歌の1首です。
この短歌で「侘ぶ(わぶ)」は,単なる「気落ちする」や「がっかりする」といった意味だけでなく,もっと強い「怒り」や「困惑」までも含んだ複雑な心情を表す言葉のように感じます。
他の2首も気になるでしょうから,併せて紹介します。

世の中の女にしあらば我が渡る痛背の川を渡りかねめや(4-643)
よのなかの をみなにしあらば わがわたる あなせのかはを わたりかねめや
<<普通の女性なら私には背が痛くなるような川も簡単に渡って(悔しい気持ち切り替えて)しまうのでしょう>>

白栲の袖別るべき日を近み心にむせひ音のみし泣かゆ(4-645)
しろたへの そでわかるべき ひをちかみ こころにむせひ ねのみしなかゆ
<<別れの日が近づいて,私の心にはむせぶ音のみするように泣いてばかりいるのです>>

紀女郎にとって,夫を許すことができない本当に悲しい別離だったのでしょう。
したがって,4-644の短歌に出てくる「侘びぞしにける」という表現は,不本意な別離を決意した紀女郎の耐え難い苦悩を表した言葉ということになると私は思います。
万葉時代,恋人や夫婦における別離の原因の多くは,死別,戦地や地方への赴任,罪に問われて囚われの身になるなど,2人にとってどうしょうもない運命や権力によって引き裂かれることが一般だったのでしょう。
それらの原因の場合,周囲からは同情の念で見られることもあったかもしれません。
しかし,紀女郎の場合は,夫の社会的に許されない不貞が原因ということですから,当時としては世間の目も今とは比べ物にならないほど厳しいものがあったのではないでしょうか。
被害者であるはずの紀女郎も,その事実が公に知れ渡ったため周囲から冷たい目で見られたかも知れません。
この紀女郎の短歌に対する返歌は万葉集には残っていません。
安貴王は返歌(言い訳)すらできなかったのか,家持が万葉集編纂時に安貴王の名誉を考え,返歌をカットしたのか,私には分かりません。
侘ぶ(2)に続く。

2011年1月15日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…凌ぐ(3:まとめ)

ここまで,万葉集では「凌ぐ」は「覆い隠す」や「踏みつける」という意味で使われることが多いと書いてきました。
ただ,1首だけですが,現代の意味に少し近づいた「乗り越える」という意味で詠まれている長歌の一部を紹介します。

~ 旗すすき 本葉もそよに 秋風の 吹きくる宵に 天の川 白波凌ぎ 落ちたぎつ 早瀬渡りて 若草の 妻を巻かむと 大船の 思ひ頼みて 漕ぎ来らむ その夫の子が ~(10-2089)
<~ はたすすき もとはもそよに あきかぜの ふきくるよひに あまのがは しらなみしのぎ おちたぎつ はやせわたりて わかくさの つまをまかむと おほぶねの おもひたのみて こぎくらむ そのつまのこが ~>
<<~ 旗のように長く伸びたススキの根元の葉をそよと秋風が吹きぬける今宵に,天の川の白波を越え,落ちたぎる早瀬を渡って,妻の手を枕に共寝しようと心に思い,漕いでくるその男が ~>>

何かを「乗り越える」ためには忍耐を要するところから,「凌ぐ」に「耐える」とか「我慢する」といった意味を持たせるような変化が時とともに進んでいったのでしょう。
次回から3回に渡って説明する「侘ぶ(侘びる)」も同様に万葉時代と現代では意味が変化していった動詞だろうと思います。
どんな変わり方をしてきたか,次回以降のブログを楽しみご覧ください。

天の川 「たびとはん。この長歌は『天の川』が3回も出てくる珍しい長歌やで。ちゃんと紹介してえ~な!」

最近の寒さで,布団の中から出てこれない天の川君もやっぱり,ここは言っておきたいようだね。
まあ,今度の7月に万葉集の「天の川特集」(君の特集じゃないよ)をやる予定なので,そのときまで取っておきましょう。
侘ぶ(1)に続く。

2011年1月10日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…凌ぐ(2)

「凌ぐ」の2回目は「踏みつける」という意味で使われている万葉集の短歌をまず紹介します。

君に恋ひうらぶれ居れば 敷の野の秋萩凌ぎ さを鹿鳴くも(10-2143)
きみにこひ うらぶれをれば しきののの あきはぎしのぎ さをしかなくも
<<あなたを恋しいと思い,切ない気持でいると,敷の野の秋萩を踏みつけて牡鹿が(妻が欲しいと)鳴いているなあ>>

作者(詠み人知らず)は,恋しい気持ちをどう伝えればと悩んでいるとき,可憐な秋萩もお構いなしに踏みつけ,大きな鳴き声で「恋しい恋しい」と鳴き叫ぶことができる牡鹿を羨ましく思っているのでしょうか。
実は,万葉集の中で萩と鹿のセットになっている和歌が23首と割と多く詠まれています。
そのうち3首(上の短歌以外に8-1609と20-4297)が上の短歌のように「秋萩凌ぎ」となっています。可憐な秋萩は牡鹿に踏みつけられる運命にあるというイメージがあったのかも知れません。
まさか,3首ともれっきとした妻(秋萩に例えて)がいるのにそれを踏みつけて(別れて),別の女性を恋しいと叫びたいという気持ちを詠んだ不倫歌ではないと思いますが,どうでしょうか。

ところで,花札をご存知の方は,鹿が紅葉とセットで出てくるのを知っていらっしゃるでしょうか。
この鹿がこちらを見ず横を向いているので,シカトが無視するという意味になったということは広辞苑にものっている話です。
ただ,万葉集では鹿と紅葉をセットで詠んだ和歌はないようです。
一方,萩はイノシシとセットで花札に出てきます。これも同様,万葉集では萩とイノシシのセットにした和歌はありません。

天の川 「たびとはん。花札やったらまかせといてんか。即興で花札短歌創ったで~。
      花合わせ 松桐坊主 猪鹿蝶 手札場札 残りは山札
      桜幕 菊に杯 月坊主 花見で一杯! 月見で一杯!
    どや?」

鹿,イノシシ,紅葉,萩を詠んだ万葉集の和歌を鑑賞するとき,どうやら花札(江戸時代に考案されたらしい)をイメージしない方が良いみたいですね。
凌ぐ(3:まとめ)に続く。

2011年1月9日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…凌ぐ(1)

年末年始スペシャルで,動きの詞シリーズは少しお休みしていましたが,万葉集に出てくる「凌ぐ」から再開します。
「急場を凌ぐ」「前回を凌ぐ成績を残せた」「凌ぎやすい季節になった」などの表現で,「我慢する」「乗り越える」という意味合いで今も使われている「凌ぐ」は,万葉集ではどのような意味で使われていたのでしょうか。
万葉集では,10首ほど「凌ぐ」を使った和歌が出てきます。次は,その中の1首です。

奥山の菅の葉凌ぎ降る雪の消なば惜しけむ雨な降りそね(3-299)
おくやまの すがのはしのぎ ふるゆきの けなばをしけむ あめなふりそね
<<人里離れた山奥のスゲの葉を覆い隠すほど降った雪が,消えてしまうのは心残りだから雨よ降ってくれるな>>

大伴旅人が詠んだとされるこの短歌で「凌ぐ」は「覆い隠す」という意味で使われています。
スゲの葉は,冬枯れ葉色でそれほど綺麗でもないが,その上に雪がたくさん降り積もって,美しく白銀色に染めている状態が続くよう,雨なんか降って雪を溶かしてほしくないという感情を詠んだものと理解できます。
この前後の短歌は羈旅の雑歌ですので,旅人が人里離れた山奥を旅程で通った時,見た風景を詠んだのでしょう。
<中高生のころの話>
そういえば,少し状況は異なるのですが,若いころの私も似たような気持ちになったことがあります。
私は高校卒業後浪人生活を1年送りました。高校生の時,クラブ(ブラスバンド部)活動や地域音楽サークル活動ばかりやっていたため,勉強をまったくといっていいほどしませんでした。
予習や宿題は無視し,定期試験前の一夜漬け以外,自宅で教科書を開いたことはほとんどありませんでした。また,授業中は教師の話はそっちのけで,クラスのクラブメイトに「早く授業時間が終わって,部室に行きたいね」といった合図ばかり送っていたのです。
成績も5段階評価で体育会系クラブではないのに保健体育だけは5,ブラスバンド部なのに何と音楽は3,他の教科は2,英語に至っては1,2学期は1(赤点),3学期留年を防ぐため,お情けで2にしてもらった状況でした。
<浪人時代の受験勉強の話>
大学受験は当然失敗し,浪人(予備校生)生活へ。ただ,高校時代では勉強が嫌いだったのではなく,クラブを優先しただけだと,前向きに気持ちを切り替え,受験勉強に突入しました。
1日13時間以上,勉強の時間割を1時間単位で作成し,予備校の授業を除く時間(平日7時間,休日15時間)は徹底して,受験雑誌などの問題を解くことに専念しました。
さすがに高校時代ほとんど勉強していなかったハンディは大きく,夏休み前まではいくら受けても模擬テストの成績は一向に伸びませんでした。
ただ,夏休み期間中も毎日13~15時間勉強を休まず続けたおかげか,9月の模擬テストで国語(現代国語,古典を合わせたもの)で,予備校で全体で200位以内に入り初めて名前が貼り出されました。勉強で名前が貼り出されるなんてことは今までなかったので,自信が湧いてきたのです。
そこから,模擬テストを重ねるごとに,化学,世界史,物理,数学の順で200位以内入りました。そして11月にはあの高校時代赤点常連だった英語までもが200位以内となり,そのころには総合でも100位以内に入るようになったのです。年が明けると,予備校の総合ランクトップ10にも顔を出すようになりました。
2月上旬最後の追い込みのとき,その日は雪の朝でした。前夜は今までなかなか解けなかった数学の超難問(京大理系の過去問)の正解を出すまで遅くまでかかり,その寝不足解消に冷たい風に当ろうと,めったに行かない予備校の屋上に行きました。
屋上からは京都市周辺の山並みの麓に連なる寺院の甍(いらか)が雪で白く覆われているのが一望できました。今まで黒ずんで見えていたものが本当に美しく浮かび上がって見え,清々しい気持ちになったのです。
ここまでの受験勉強の成果からその朝のように白く美しい結果はある程度予測できそうでしたが,体調不良などのアクシデントで黒ずんだ結果にならないよう願ったのを覚えています。
結局,そしてその願いは叶い,次の短歌の予想のように志望校の受験に落ちることはなく済んだのです。

奥山の真木の葉凌ぎ降る雪の降りは増すとも地に落ちめやも(6-1010)
おくやまの まきのはしのぎ ふるゆきの ふりはますとも つちにおちめやも
<<人里離れた山奥のヒノキの葉を覆い隠すように降る雪がさらに降っても,地に落ちることはありましょうか(いや,ありません)>>

凌ぐ(2)に続く。

2011年1月4日火曜日

私の接した歌枕(4:伊香保)

年末年始スペシャル「私の接した万葉集の歌枕」は今回の伊香保で終了です。
また,機会があればその他の歌枕も触れてみたいと思いますが,次回からは「動きの詞シリーズ」に戻します。
<伊香保訪問回数>
さて,社会人として従業員100人ほどの小さなソフトウェア企業で仕事を開始した私は,今ではあまり聞かない社員旅行なるものをその後毎年20年間ほど経験します(今は合併で会社が5千人きぼとなり社員旅行はありません)。
その社員旅行で2度,大学の万葉集研究サークルの旅行にOBとして1度,伊香保の温泉旅館に宿泊しています。
また,妻方の親戚の墓地が伊香保温泉近くにあり,お彼岸などお参りに行った帰りに,多くは公共浴場「石段の湯」に寄ります。趣味のゴルフでも伊香保温泉近くのゴルフ場には何度か行っています。
まったく万葉集の歌枕と無関係なのばかりですが,今までこれほど頻繁に行った温泉地は他にあまりありません。
それでも,歴史ある温泉地で,竹久夢二徳富蘆花夏目漱石萩原朔太郎野口雨情などが訪れたという雰囲気の良さを今でも感じます。

ところで,万葉集で伊香保を詠んだ東歌は9首で,すべてがたとえば次のような結構激しい恋の歌です。

伊香保ろの沿ひの榛原ねもころに奥をなかねそまさかしよかば(14-3410)
いかほろの そひのはりはら ねもころに おくをなかねそ まさかしよかば
<<伊香保の山沿いに生えているハンノキの群生が延々と続いているみたいなずっと先のことなど考えず,今が良ければ(2人だけで居られれば)それでいいじゃない>>

伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど我が恋のみし時なかりけり(14-3422)
いかほかぜ ふくひふかぬひ ありといへど あがこひのみし ときなかりけり
<<伊香保の強い風は吹く日もあれば吹かねえ日もあるだんべ。俺の恋しい思いべえは,収まる気配ね~んだがね>>

後の方の訳は,試しに今の群馬言葉にしたつもりです。違っていたらごめんなさい。
伊香保を取り上げた他の東歌は「一緒に寝ていたい」「さあ寝よう」「周りは気にせず2人だけでいよう」「何と苦しい恋よ」などいった,東歌らしい直接的な恋の表現が多いと私は感じます。伊香保はその激しい恋の気持ちを表すための序として使われています。
伊香保の嶺は今の榛名山と思われます。冬は冷たい風が榛名山から吹き下ろし,山頂は雪が積もり,頂上近くにある榛名湖は氷結します。夏は落雷や降雹が発生し,突風が吹いたりして,周辺は結構荒々しい気候だと思います。
<関東北部の人の言葉の率直さ>
当時周辺に住む人たちは,厳しい気候や突発的な気象変化に対応することが必要で,お互い強く,はっきりものを言い会うことが普通の会話となっていたのかも知れません。
群馬に以前から住んでいる私の知人は10人以上いますが,皆さんサッパリしていて,自分の気持ちを隠さず伝えてくれ,また私の話を素直に聞いてくれる良い人ばかりです。
やはり,気候風土による土地土地の人柄の違いを相互に理解し合い,いろんな地域の友人を多く持つことは自分の考えを柔軟にしたり,幅を広げるのに大きく役に立つといえるでしょう。万葉集はそういうことも私たちに教えてくれているような気がします。
さて,今日で正月休みも終り仕事開始です。また,週1回ペースに戻りますが,読者のみなさん今年もよろしくお願いします。
動きの詞シリーズ 凌ぐ(1)に続く。

2011年1月2日日曜日

私の接した歌枕(3:富士の高嶺)

私はまだ富士山頂に登ったことがありません。万葉歌人で唯一富士山頂まで登った可能性があるのは次の万葉集東歌の作者だけでしょうか。

富士の嶺のいや遠長き山道をも妹がりとへばけによばず来ぬ(14-3356)
ふじのねの いやとほながき やまぢをも いもがりとへば けによばずきぬ
<<富士山頂までのとっても長い山道でも、お前のところへと思えば、息も切らせずに来れたんだぜ>>

私が初めてこの目で富士山を見たのは小学5年生の1月下旬でした。京都から国鉄在来線団体夜行列車に乗り,富士駅でバスに乗り換え,富士宮市の寺院に参詣に行ったのが初めてです。
前々回の投稿でも書きましたが,我が家や親戚では,正月小倉百人一首の歌留多取りを毎年のようにやっていました。
当然次の百人一首の短歌を知っていましたので,行く前から富士山を見るのが本当に楽しみだったのです。

田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ(百人一首4:赤人)
<<田子の浦に出て富士を見ると、白妙のように真っ白に見える富士の高嶺には雪が繰り返し降り重なったからでしょう>>

富士宮から見た冬の快晴の富士山は一般によく描かれているような山頂付近が平らではなく,少しとがって見えました。富士山西側にある大澤崩れもハッキリ見え,全体としては非常に美しい優雅な富士山だけど,荒々しい一面を見ることができ感動しました。
また,今はない富士山レーダー(2001年撤去)のドームが冬晴れの朝日が当って,雪煙りが飛ぶ中,ハッキリ見えました。ちなみに,当時私は両眼とも視力2.0でした。

さて,万葉集でも富士山が詠われていることを多くの方がご存知だと思います。それは,次の山部赤人の短歌をご存知だからではないでしょうか。

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)
たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける
<<田子の浦を通って富士が見える場所にでると、おお真っ白だ!富士の高嶺には雪が降ったのだなあ>>

百人一首の短歌(新古今和歌集に収録)は,山部赤人ではなく後の人がアレンジしたのだと一般的に言われていますが,私にはあまり興味がないテーマです。万葉集の巻3-318の短歌でさえ赤人本人のオリジナルかどうか確実に証明できるものは何もありません。
ところで,万葉集で富士が入っている和歌は,上記赤人の短歌を含め11首ほどあります(実は,数え方で少し数が変わります)。ただ,その出現は非常に偏っています。巻3,巻11,巻14にしか富士は出てこないのです。
それも,巻3は317~321の連続した5首で,前の2首は赤人,後ろの3首は高橋虫麻呂が詠んだ長歌,短歌と言われています。
巻5は2695,2697の2首で間に別地名を詠んだ短歌はありますが,非常に近い場所に配置されてる詠み人知らず短歌です。
また,巻14も3355~3358の連続した4首で,すべて詠み人知らずの東歌です。
このように見てみると,富士山が万葉時代一般には知られていない様子がうかがえます。
どちらかと言うと,遠州(とほたふみ)駿河(するが)甲斐(かひ)の間に富士山と言う非常に高くて美しい山があること,東国人は富士を題材に短歌をつくっていることを都人に教える目的で万葉集に収録したとの編者の意図を私は感じます。
平安初期の伊勢物語の東下りの部分で,旧暦5月の富士山について次のように短歌を残し,この短歌の後の文で,少し誇張した表現ですが比叡山の20倍の高さだと書いています。

時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪の降るらむ(伊勢9段)
<<季節を選ばない山は富士山。いつもでも(旧暦5月でも),鹿の子供の毛色のようなまだら模様に雪が積もっている>>

同じく平安前期に創作されたという竹取物語の最後では,月に帰って行くかぐや姫が帝(みかど)に残した不老不死の薬と天の羽衣を駿河で一番高い富士山で燃やしたという部分があります。
どちらも,富士山を珍しい山だということを都人に知らせる役割をしたのは間違いないでしょう。

東京近辺に住みだしてからの私は,車で富士山の5合目まで登ったり,富士五湖をはじめ,何度も周辺の名所に足を運んだりしています。雰囲気の良い場所がいっぱいありますね。
また,朝の通勤では,今時分の冬の晴れた日に武蔵野線新座駅・東所沢駅間で(数十秒間だけ)見られる富士山の遠景を楽しんでいるこの頃です。
私の接した歌枕(4:伊香保)に続く