2017年1月31日火曜日

序詞再発見シリーズ(6) ‥ 東歌の序詞から見える東国名産の動物は何だ?

序詞について,万葉集の東歌(巻14)を見ていくのは今回が最後です。
今回取り上げるのは,動物(哺乳類)です。
まずは,鹿が出てくる東歌を見てみましょう。

さを鹿の伏すや草むら見えずとも子ろが金門よ行かくしえしも(14-3530)
さをしかのふすやくさむら みえずともころがかなとよゆかくしえしも
<<オスの鹿とて草むらに伏していたら見えないように,(あの子からは見えないと思うが)あの子が住む家の金門の前を気づかれないようにそっと通っていくのはワクワクするよ>>

この短歌はいろいろな解釈ができそうですが,私なりの解釈で訳してみました。
ただ,今のテーマは序詞に出で来る鹿ですからそれに焦点を当てましょう。鹿は当時の奈良盆地にも多く生息していたと思われます。なぜなら,東歌以外の京に住む人たちが歌った万葉集の100を超える和歌に鹿が出てくるからです。
東歌では,これ以外に1首出てくるだけなので,逆に東歌では注目度が低い動物なのかもしれません。
奈良盆地では,鹿は山や林に住んでいて,時々里や街に出てきたのだと思われます。東国では歌に詠むテーマとして取り上げるほどではなく,この作者が東国人だとすると,私は「草むらに伏す」というところに注目します。
大きな鹿が伏していると見えないくらい背の高い草原が東国にはあるということです。
その豊富な草原があることが,次に示す動物のに関わるのだと私は想像します。

春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも(13-3532)
はるののに くさはむこまのくちやまず あをしのふらむいへのころはも
<<春の野に草を食む馬の口が途切れない,俺のことを常に想っていることだろう,家に残した彼女は>>

東国には近畿地方にはない広く豊富な草原があり,馬を放牧するにはもってこいの土地だったのではなかったかと私は想像します。
現代でも北海道は馬を育てるには適したところらしいですが,当時は京人(みやこびと)から見て東国がそんなイメージの場所だったのではないでしょうか。きっと,途切れることなく草を食べる駒(若い馬)は,成長が早く,元気で力強い馬に育ったのだと思います。
次はさらに強い馬を育てるために草だけではなく,麦までも食べさせている事例か窺える短歌です。

くへ越しに麦食む小馬のはつはつに相見し子らしあやに愛しも(14-3537)
くへごしにむぎはむこうまの はつはつにあひみしこらし あやにかなしも
<<馬柵越しに子馬が麦を食むように,めったに見ないような可愛いあの娘がすごく愛しい>>

現代でも,和牛の肉質を良くするためにビールを飲ませている牛牧場があると聞くことがあります。
豊富な草があるのに高価な麦まで馬に食べさせるこだわりこそ,その牧場の「ブランド化」「差別化」を意図したものだったのではないかと私は想像を膨らませます。そのうわさが,広まり,珍しいことの代名詞になったのかもしれませんね。
最後は,東国の馬がどんなに強いかを想像させる短歌です。

あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも(14-3541)
あずへからこまのゆごのすあやはとも ひとづまころをまゆかせらふも
<<断崖の上を駒が行く様子は危ないなあと感じるが,危なくても行きたい気持ちにさせる人妻,見ているだけではすまない>>

天の川 「たびとはん。この短歌の後半のほうが興味があるのとちゃうか?」

そう,「人妻に魅力を感じるこの短歌の作者の気持ちはよ~くわかる」と言いたいところだけど,天の川君の邪魔は放っておき,前半の駒の様子を分析しましょう。
危険な段階の上でも平気に行く馬ということは,放牧した馬でも,野生と劣らず強い馬がいるということを示します。
こうして育てられた馬は牧場主にとってどんなメリットがあるのでしょうか?
まず,特に優秀な馬は軍馬として各氏族に高く買ってもらえたのではないかということです。
その次の優秀な馬は,箱根や碓氷峠のような急峻な街道近く,そして橋のない大きな川の両側などの駅(はゆま)に配置し,人や荷物を起伏の厳しい道,水の流れの早い環境での運搬に耐える輸送馬として高値で取引された可能性があります。
また,比較的平らな街道では,走るスピードを生かして,騎手が乗馬して,駅間を速達便輸送馬として活躍したかもしれません。
その他には,現代の「ばんえい馬」のような農耕用の大型で力強い馬,馬肉として食用にする馬も飼われていたかもしれません。
いずれにしても,東歌の序詞を改めてみると,私には1300年前のフロンティア(開拓地)的な息遣いと活気が伝わってくるのです。
さて,次回からは京人が詠んだと思われる巻11に出てくる和歌の序詞について見ていきます。
(序詞再発見シリーズ(7)に続く)

2017年1月22日日曜日

序詞再発見シリーズ(5) ‥ 東歌の序詞には東国の大きな鳥類も紹介?

今年は酉年ですが,万葉集東歌の短歌で使われている序詞には何種類かの(雉,鷲,鴨,鶴,アジ)が出てきます。
今回は鳥を中心に紹介します。最初は「」です。

筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに(14-3390)
つくはねにかかなくわしの ねのみをかなきわたりなむ あふとはなしに
<<筑波嶺でけたたましく鳴きたてる鷲の鳴き声が山々に響き渡るように泣き続けよう,もう君と逢うことができないから>>

鷲は万葉集では3首でしか出てきません。筑波嶺が2首で,越中が1首です。
そのため,関西地方には当時鷲はあまり目立った存在ではなかったのではないかと想像で
きます。
まさに,東国の筑波山や越中に行けば,大きな声で鳴くワシを見ることができると,旅行に誘っているように私は感じます。

次は東歌でが出てくる短歌を見てみましょう。
まを薦の節の間近くて逢はなへば沖つま鴨の嘆きぞ我がする(14-3524)
まをごものふのまちかくて あはなへばおきつまかもの なげきぞあがする
<<細か編んだムシロの節の間が短いようには逢えず,沖にいるマガモが嘆き鳴くように僕も泣く>>

もう1首はアジガモを詠んだ短歌です。

あぢの棲む須沙の入江の隠り沼のあな息づかし見ず久にして(14-3547)
あぢのすむすさのいりえの こもりぬのあないきづかし みずひさにして
<<須沙の入江にあるひっそりたたずむ沼に棲むアジガモのように,ああなんて大きなため息がでるのだろう。君に長らく逢えなくて>>

アジガモは食用にされた鴨で,人間に食べられる運命か,大きなため息をついているように聞こえたのかもしれません。
最後は東歌に出てくるを見ます。

坂越えて安倍の田の面に居る鶴のともしき君は明日さへもがも(14-3523)
さかこえて あへのたのもにゐるたづの ともしききみはあすさへもがも
<<坂を越えて安倍の田にいる鶴たちのように恋しいあの方に明日も一緒にいたいなあ>>

安倍の田は,安倍川の周辺にある稲田のことでしょうか。万葉時代には,多くの鶴が高い山を越えて越冬に来ていたのかもしれませんね。
つがいの鶴がいっぱいいて,仲良さそうにしているのがうらやましく感じたのでしょうね。
<愛猫「あう」天寿全う>
さて,我が家のネコたちのなかで最年長だった「あう」が先週死にました。
あう」は2010年8月に「ラン」が死んだあと,我が家で長老として君臨してきました。

写真はまだ元気だったころのものです。長生きネコちゃんとして,近所でも評判でした。
段ボールにあうの遺体と,近所の人が「入れてあげて」とくださった花,庭に一輪だけ咲いていた水仙と椿の花,樒(シキミ)の葉を入れ,近くのお寺に納め,荼毘に付してもらいました。
野良ネコとして我が家に十数年前に来て,享年はおそらく20歳ぐらいだったと思います。
3週間ほど前から食事をほとんど食べなくなり,衰弱が急速に進み始めました。
最期は,昼過ぎに妻が買い物から帰ってくるのを待っていたように,妻があうの顔をのぞき込んだとき,妻に顔を向け,少し大きな息をして,小さな鳴き声を発し,そのあと少しして息をしなくなったとのことです。
妻から勤務先に「あうが死んだ」とのメールがあり,夜帰宅してあうの顔を見て,安らかな最期だったことを確認できました。
他のネコたちも「あう」がいなくなって,落ち着かない様子がまだ続いています。

天の川 「あうちゃんにはいっぱい遊んであげたさかい,やっぱり寂しいな~。」

私のプロフィールのあうの写真は,もう少しそのままにしておきます。
(序詞再発見シリーズ(6)に続く)

2017年1月14日土曜日

序詞再発見シリーズ(4) ‥ 東歌の序詞にはまだまだ植物が出てきます

前回は東歌序詞に出てくる比較的有用な植物について紹介しましたが,そのほかにもいろいろ植物の名(楢,葛,ねっこぐさ,薦<まこも>,いはいつら,藤,麦,草,玉藻,わかめ,など)が万葉集に出てきます。
最初は,の木が出てくる短歌です。

下つ毛野みかもの山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ(14-3423)
しもつけのみかものやまの こならのすまぐはしころは たがけかもたむ
<<下野のみかもの山に生える楢の若木のよう可愛いあの娘たちは誰のための食器を持つのか>>

今の栃木県栃木市にある三毳山(標高229m)と言われています。当時ここには,楢の群生地があり,伐採した後の切り株から,また苗木がきれいにたくさん出ていたのかもしれませんね。この短歌作者は,若い女の子たちを見て,三毳山の楢の苗木の若々しさを思い浮かべたのでしょうか。
栃木県の南部は比較的平坦で,水耕に適しており,山には楢などの広葉樹がたくさん生え,枯葉を肥料にしたり,焚き木や炭に使える木も豊富で,伐採した後からまた若木が生えていくのです。
次は,葛粉,葛切り,葛餅,葛根湯などで今でも知られているを詠んだ短歌です。

上つ毛野久路保の嶺ろの葛葉がた愛しけ子らにいや離り来も(14-3412)
かみつけのくろほのねろのくずはがた かなしけこらにいやざかりくも
<<上野の黒保根の葛の葉が大きくなるのと同じほど愛しいあの娘からかなり遠く離れたところにきてしまった>>

群馬県桐生市にある黒保根町(以前は1889年から黒保根村として村立し,2005年桐生市に併合された)の黒保根という村名はこの短歌に由来して名付けられたそうです。
今の黒保根地区の場所であれば赤城山の南東斜面であり,日当たりもよく,植物はよく育つ場所だったと想像できます。成長が早いクズもさらに速いスピードで成長したのではないかと思います。
なお,時代が平安時代想定に進みますが「葛の葉」という人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本があります。白狐が「葛の葉」という名の人間の若い女性に化け,狐の時自分を助けてくれた若者と結婚するというストーリです。その子供があの陰陽師で有名な安倍晴明という奇想天外なものです。クズの葉の形が見方によっては若い女性を示すものとして,万葉時代からイメージされていてもおかしくないと私は思っています。
最後は地面に生える草系の「いはゐつら」を詠んだ短歌です。

入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね(14-3378)
いりまぢのおほやがはらの いはゐつらひかばぬるぬる わになたえそね>
<<入間道の於保屋が原に生えている「いはゐつら」をやさしく引っ張ると切れずにするすると引けるように私との間が切れることがにいようにね>>

入間道於保屋が原は場所が特定されていないようで,入間市やその近辺にこの短歌の歌碑がいくつも立てられているようです。
「いはゐつら」は食用や薬草にもなる「スベリヒユ」の仲間という説が有力のようです。
確かに,スベリヒユがある程度育った全体の形を見ると「削りかけ」をした「いはゐぎ(祝い木)」(アイヌや神道の儀式に使う)に似ていなくもありませんね。
いずれにしても,東歌の序詞から,東国に魅力的な植物が豊富にあることをアピールしているように私は感じてしまいます。
(序詞再発見シリーズ(5)に続く)

2017年1月11日水曜日

序詞再発見シリーズ(3) ‥ 東歌の序詞は東国の高価値植物案内?

今回も前回に引き続き,東歌で使われている序詞について万葉集を見ていくことにします。
前回は地名でしたが,今回は植物の名が出てくる東歌の序詞にポイントを絞ります。

我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを(14-3379)
わがせこをあどかもいはむ むざしののうけらがはなの ときなきものを
<<あの子がいう武蔵野のうけらの花のように目立つようなそぶりを出さずにいられようか>>

ここに出てくる「うけら」は,後に「を(お)けら」と呼ばれ,大晦日から元旦にかけて京都の八坂神社に詣でる「おけら詣り」,また正月の屠蘇散(正月に飲む薬)の原料(漢方)の一つとして根が使われ,根を焼いた煙は蚊取り線香の煙のように夏の虫よけにもなっていたらしいというものです。
「うけら」は万葉集ではこの他に2首に出てきますが,どれも東歌です。
薬効のある「うけら」が関東の武蔵野という地に群生していた可能性が万葉集から想像できます。
仮に「うけら」が万葉時代では貴重な薬効植物で,常に不足している状態とすれば,東国は不足資源の供給地として注目されることになります。
次は,について詠んだ短歌です。

上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ(14-3404)
かみつけのあそのまそむら かきむだきぬれどあかぬを あどかあがせむ
<<上野(かみつけ)の安蘇の地で採れる麻の束を抱くようにお前を抱いて寝るのをずっと続けたい。俺はどうしたらよいのか>>

上野(今の群馬県か栃木県の一部)の安蘇の地は,栃木県に以前あった安蘇郡との関係もあるかもしれません。
その地では,麻の栽培が盛んだったことがこの短歌からうかがえます。
この地にヤマト民族は東国に先住していたアイヌ民族を追い払うという侵略を行い,入植し,開墾,広い土地に農作物の大量に栽培をしていたのでしょうか。
特に,麻は成長が早く,衣類,漁網,工作物,そして高い薬効など,その用途も広く,需要は絶えることは無かったと想像します。
最後は「大藺草」(「イグサ」の大きいものではなく「フトイ」という植物らしい)を詠んだ短歌です。

上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ(14-3417)
かみつけのいならのぬまのおほゐぐさ よそにみしよはいまこそまされ
<<上野の伊奈良の沼に生えている大藺草が遠くで見るより近くで見るほう美しいように,今近くで見ているお前がずうっと恋しく幸せだよ>>

この短歌の「伊奈良の沼」は,今の群馬県の南東部にあり,そして近くには大きな渡良瀬遊水地がある板倉町あたりに当時あった沼のことらしいです。
この短歌の主人公の男性は「大蘭草」を近くで見て形の良いものを選別して刈り取り,束ね揃えて出荷する仕事をしていたのかもしれません。
また,「大藺草」は遠くからは目立たない小さい花を咲かせるため,その花を見るには近くで見る必要があったようです。

天の川 「たびとはんな。わてにも顔の真ん中に可憐な小さなハナがあるで。近こう来て見て~な。」

天の川君の顔は,できるだけ遠くから眺めることにしましょう。
さて,「大蘭草」(フトイ)は乾燥させて,すだれ,行李(旅行鞄),部屋の仕切りや屋根葺きの材料,夏の敷物,着火性の良い燃料,かがり火,松明などに使われる好材料だったのだと私は思います。
これらの短歌を当時の中国大陸朝鮮半島の人たちが見ると,日本はヤマト朝廷の京(みやこ)がある近辺だけでなく,その東方に有用な植物資源が豊富にある土地が広くあり,日本はそれらの輸入先として貿易相手国になるえると考えたかもしれません。
その結果,万葉時代の東国からは,近畿へ多くの物資が陸路・海路で送られ,その中には朝鮮,中国に輸出されたものもたくさんあったと私は思いを巡らせるのです。
(序詞再発見シリーズ(4)に続く)

2017年1月6日金曜日

序詞再発見シリーズ(2) ‥ 東歌の序詞は立派な観光案内?

正月休みはあっという間に終わり,私「たびと」は本業のソフトウェア保守開発の職場に出勤しています。今日は通院のため午前休暇で,ついでにこのブログをアップしています。
相変わらず,私の本業の仕事は無くなりません。ただ,つき合っている人たちのモチベーションがソフトの保守というだけで,下がってしまうのは何とかしてほしいですね。
本業のブログ( http://ameblo.jp/tabito-2016/  )も年明け快調にアップしていますよ。
さて,序詞再発見の2回目からしばらくは,巻14の東歌を見ていくことにします。
東歌で序詞に出てくるものはいろいろありますが,地名がたくさん使われていることが特徴の一つだと私は思います。
たとえば,次の短歌です。

鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ(14-3365)
かまくらのみごしのさきの いはくえのきみがくゆべき こころはもたじ
<<鎌倉の見越しの崎の岩が崩れるような,この恋が崩れてあなたが悔やむような気持は一切ないよ>>

ここから東国には鎌倉(可麻久良)と呼ばれる地がある。その近くに海岸があり,見越しの崎( 美胡之能佐吉)と呼ばれる場所がある。
見越しの崎は長年の浸食によって,今にも崩れそうな奇岩があることが見えます。
少なくとも,奈良にいる京人は「今にも崩れそうな奇岩とはどんなものだろう」と興味を持つのではないかと私は想像します。
その結果,鎌倉と見越しの埼という地名は京人にインプットされ,東国へ出張する役人に「見てきてほしい」と頼む人が出てくるかもしれません。
東歌にはそのような事例が他にも多くあります。

相模道の余綾の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも(14-3372)
さがむぢのよろぎのはまの まなごなすこらはかなしく おもはるるかも
<<相模街道に面した余綾の浜のきれいな砂が無数にあるのように,あの娘のことが限りなくい恋しく思われるなあ>>

相模道という街道があって,その街道は海岸沿いに通っている。
海岸には余綾の浜(余呂伎能波麻)という砂浜が延々と続いている場所(現在の大磯近辺?)がある。
その砂浜はきれいな砂でずっと被われている。
こんか風光明媚な場所であることが想像できます。

筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに(14-3392)
つくはねのいはもとどろに おつるみづよにもたゆらに わがおもはなくに
<<筑波嶺で岩をも響かせる滝の水の跳ねる方向が定まらないような私の気持ちではないのに>>

筑波嶺という大きな山があり,そこには硬い岩をも響かせるような大きな滝がある。
滝の水は勢いがよく四方八方に飛び散っている。
ところが,現在の筑波山には残念ながら大きな滝がないのです。万葉時代は今とは違っていたかもしれませんが,地形が大きく変わっていないとすれば大きな滝があった可能性は低そうです。
もしかして,この短歌は誇大広告だったのかも?

天の川 「そんなことは,ようあることやんか。ベルギーの『小便小僧』,デンマークの『人魚姫』,シンガポールの『マーライオン』おまけに大阪の『通天閣』なんか,初めて見た人は『がっかり』するそうやで。」

天の川君は意外と物知りだね。感心したよ。

天の川 「ちょっと前にパソコンをええやつに変えてな,ネットに「ねっとり」はまってんねん。まあ,その受け売りやねっと。」

天の川君のくだらないダジャレはスルーしましょう。
東歌にはそのほかにもたくさん地名が出てくる序詞があります。東歌は京人に東国へいざなう観光ガイドブックではないかと私が感じるゆえんです。
多くの人が東国と行き来すれば,東国の発展が促されるだけでなく,途中の街道の宿場町なども活気づくわけですからね。
(序詞再発見シリーズ(3)に続く)

2017年1月1日日曜日

序詞再発見シリーズ(1) ‥ 序詞は添え物か?

あけましておめでとうございます。たびとです。
8か月間もこのブログへの新しい投稿をしていませんでした。申し訳ありません。
体調が悪かったわけではなく,本業の多忙さ,本業のITに関係する学会での発表準備,本業をテーマとしたソフトウェア保守に関するブログ(アメブロ上)の開始などが重なり,手が回らなかったのです。
その間,国内,国外からこのブログに過去投稿した記事に対して,継続した閲覧,時として大量の閲覧を頂きました。あまり長くお休みするのも申し訳なく,再開を決意しました。
ただ,上記の忙しさは今年もあまり変わりそうにないので,再開しても毎週記事をアップするのは難しいかもしれません。
できるだけ,1回の記事の量を少なくして軽い読み物にしたいのですが,文章が下手なものですから,やはり冗長なものになってしまうかもしれません。
さて,昨年途中で終わった万葉集の「枕詞シリーズ」は中断し,今年から気分を変えて新しいシリーズを始めることにします。
そのシリーズは「序詞再発見シリーズ」というものです。

天の川 「な~んや,『枕詞』が『序詞』に変わっただけやんか。」

そうそう,このシリーズでは,あの関西弁でうるさくチャチャを入れる「天の川君」も再登場してまいります。

天の川 「天の川ファンのみんななあ,おまっとうさん。「たびと」はんの記事にこれからめっちゃ突っ込みを入れていきまっせ。」

お手柔らかに願いたいね。天の川君。
さて,枕詞も序詞も文学的表現からいうと付け足しのようなもので,それ自体訳さない解説本も多いかもしれません。
特に,序詞に至っては,枕詞に比べ文字数が多く,序詞を除いた部分が俳句の文字数にも満たない短歌もあります。
序詞はさらに説明調であり,文学的表現から見て稚拙な和歌な印象を拭うことができなさそうです。
短歌のように文字数が限られているため,情景や想いを少ない文字に詰め込んで表現しようとする歌人にとっては,なんともったいない,初級の作歌方法だと思われてしまうかもしれません。結局,序詞を含む和歌は,即興で読んだり,和歌を作る能力が未熟な人が読んだもので,文学的評価をするに足らないと万葉集の解説本にもあまり出てこないようです。しかし,私はそんな序詞に注目します。
序詞が使われた和歌が比較的多く出てくる万葉集の巻は,巻14,巻11,巻12です。
巻14は東歌の巻で,その巻に出てくる短歌の30%近くが序詞を含むものです。
巻11,12は両方とも恋の気持ちを詠んだ巻ですが,出で来る短歌の20%以上が序詞を含むものです。
他の巻には序詞を含む和歌の比率が極端に少なく,巻5,巻9には1首も序詞を含む和歌が出てこないようです。
このように,序詞が含む和歌の出現する巻が偏っているように私には見えます。
そこに,編者の意図を私は感じます。
それを探るのが,このシリーズの目的です。
さて,最初に巻11の1首を紹介します。

宇治川の水泡さかまき行く水の事かへらずぞ思ひ染めてし(11-2430)
うぢかはのみなあわさかまき ゆくみづのことかへらずぞおもひそめてし
<<宇治川の水の泡が逆巻くように激しく流れるように(以上序詞),もとに静かな思い帰ることができなくなってしまった。貴女への激しい恋心で>>

私は何度もこのブログで,万葉時代には京都の宇治川の流れが激しいことが一般に知られていたということを述べてきましたが,これもそれを裏付ける1首です。
今の宇治川も結構な水量で流れが速いのですが,上流の南郷洗堰(なんごうあらいぜき)や天ケ瀬(あまがせ)ダムで,水量の平準化と周辺への利水などを行っていてのことです。
そんなダムがなかった万葉時代の宇治川は,たとえば琵琶湖でまとまった雨が降ると宇治川の流れの激しさは恐ろしいほどのものがあったと考えられそうです。
宇治平等院があるところより下流の平らな万葉集にも出てくる木幡(こはた,こばた,こわた)地区の宇治川沿いなどは,洪水の常襲地帯だったようです。
私が小学生のころ,一度ですが宇治川にかかる観月橋付近で大きな洪水が発生したというラジオのニュースで聞き,近くの椥辻(なぎつじ)という京阪バスのバス停から終点の六地蔵(ろくじぞう)までバスで行き,後片付けの野次馬をした記憶がよみがえります。

天の川 「たびとはんは,ちっこい頃から,名神高速の起工式や,こんな洪水の野次馬が好きやったんやね。興味の塊みたいな坊主やったんか?」

天の川君の言う通りかもね。何か珍しいものに興味をもったし,結構今も覚えていることも多いね。
保育園にいたころだと思うけど,天ケ瀬ダムができる前まで渓谷を走っていた「おとぎ電車」に両親と一緒に乗った楽しい記憶が乗っているんだよ。
何年か後に「また乗れへんか?」と両親に言ったら「ダムができて線路は水の下になるよって,もうて乗れへんね」と言われ,大変残念だったことも記憶しているね。

天の川 「その割には,たびとはんは最近のことをよう忘れるようになったんと違うか?」
‥。
(序詞再発見シリーズ(2)に続く)