2012年4月29日日曜日

私の接した歌枕(15:湯河原)

<1度目の訪問>
私が大学時代に万葉集の研究クラブに所属していたことは何度もこのブログで紹介していますが,私は部長も経験しました。
私の2年後輩で私の次に部長となった部員が神奈川県湯河原に親戚がいて,温泉旅館を経営しているということで,その温泉旅館でクラブの合宿を行ったのが最初に湯河原を訪れたときです。
そして,湯河原温泉は万葉集にも詠まれている場所であることをその時初めて知りました。

あしがりの土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに子ろが言はなくに(14-3368)
あしがりのとひのかふちにいづるゆの よにもたよらにころがいはなくに
<<足柄の土肥の河内に湧き出す湯が川の流れの中にただようようなことをあの娘は言わなかったのに>>

「足柄の土肥の河内」が今の湯河原を指すのだそうです。
いずれにしても今の湯河原に温泉が豊富に湧いていることは万葉時代から知られていたようです。
最初に訪れたときの季節がいつだったかは定かではありませんが,温泉が素晴らしかったのと,クラブメイトと楽しい語らいの時間を過ごしたことを覚えています。
<2度目の訪問の前に事故>
その後(恐らく,最初訪れた2年後の年末),私は就職した会社の部門の忘年会旅行の企画を任され,湯河原の同じ旅館にしました。
金曜日,勤務先(東京都府中市)の仕事を終えてから,参加者が車に分乗して湯河原まで移動することにしました。
幹事の私も車を出すことになっており,朝から勤め先まで車で移動しました。
12月も半ばに入り,気温はそれほど寒くはなかったのですが,みぞれ交じりの雨が降っていました。
後少しで勤め先に到着する場所で信号待ちしていた私の車に灯油を運ぶ小型(8トン級)タンクローリーのトラックが後ろから急速に近づいて来たと思った瞬間,鈍い音がして車体が大きく揺れました。
後ろを振り返るとリアウィンドウの向こうにトランクを覆うボディーがせりあがっていました。
私の車はそのトラックに追突されたのです。車を降りて後ろに回ると完全にトランク潰れた状態でした。幸いなことに,旅行用具はすべて座席に置いていたので無事でした。
トラックはほとんど損傷ないようです。ただ,タイヤを見ると溝がほとんど無いように見えました。シャーベット状の路面で急ブレーキを掛けてしまったようです。
トラックの運転手(50歳代位)は「すみません。御怪我は?」と聞いてきました。車を道路の脇に停め,近くの公衆電話で事故に遭ったことを会社に知らせました。
会社の上司から「念のため,病院でムチ打ち症になっていないか,診てもらった方が良い」と助言があり,ぶつかったトラックに乗り,近くの病院で診てもらことにしました。
その後,警察に行き,事故の説明をして,会社まで送ってもらいました。私の車はトラックを所有する会社がレッカーを呼び,持って行きました。
<遅い時間の宴会>
幹事の車が事故で来れないばかりか,幹事は別の車に載せてもらう破目になりました。
夕方,勤め先を出発しましたが道が渋滞し,着いたのは夜の9時近くなりました。その後の時間からの宴会でしたが旅館の取り計らいでスムーズに実施でき,幹事の荷が下りました。
<その後は頻繁に訪問>
最近湯河原には2~3年に一回は行っています。それは会社の保養所があるからです。
冬は温泉に温まりに,夏はホタルを見に行き,秋は紅葉,春は花を楽しめます。
最近の湯河原にGW近辺に行くと,湯河原サンサン通りのハナミズキの街路樹が非常に綺麗でした。
湯河原以外に,熱海,伊東,北川(ほっかわ),熱川(あたがわ),稲取,下田,石部,堂ヶ島,宇久須,土肥(とい),戸田(へだ)などの伊豆半島を取り巻く温泉地に行った経験がありますが,やはり湯河原にはそれなりの長い歴史を感じます。
私の接した歌枕(16:三輪山)に続く。

2012年4月25日水曜日

200回特集‥高岡の集い

この前の土曜日と日曜日,富山県高岡市に大学時代活動していた万葉集の研究クラブのOB・OGが集まり,旧交を温めました。
高岡の古城公園(日本の桜百選)周辺は桜が満開でした。初日は各地から集まった参加者は午後高岡駅近くの料亭で再会の宴を楽しく行った後,古城公園を散策しました。
参加者(関東,関西,中京から参加)は,皆今年の桜の開花が遅れ,ちょうど見ごろになった幸運を喜び合ったのです。再会の宴では,私が顧問の先生の研究室にあった昔の写真などをパソコンに取り込んで,スライド投影しました。
懐かしい写真を見て,今回参加しなかったメンバーも含め,「○○に旅行に行ったときだ!」「このときの大学祭の準備はたいへんだったなあ~」「そういえばこの人どうしたのかなあ?」とっいた話が盛り上がり,時間の経過も忘れるほどでした。
その後も2次会,ホテルの部屋での語らいと夜の更けるのも忘れるくらいでした。

翌日は万葉歴史館を訪れ,大伴家持の越中での足跡を改めてたどりました。ボランティアの説明員の方が,親切に私たちに説明くださいました。歴史館の裏の高台から見た白雪をかぶった立山連邦もハッキリと見えました。
歴史館では堅香子(かたかご)の花を植えていました。歴史館に行く途中では,家の前にはコブシやモクレン,チューリップも咲いていました。その後,二上山山頂まで車で満開の桜の中をドライブして,山頂を目指しました。
家持が天平勝宝2(750)年春に越中で詠んだ峰の上の桜を詠んだ短歌があります。

今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり(19-4151)
けふのためとおもひてしめし あしひきのをのへのさくら かくさきにけり
<<今日のこの日のためにと思い,しるしをつけておいた峰の桜がこんなに綺麗に咲きました>>

山頂から家持が歩いたであろう国府の場所,また見たであろう海山川の地形をこの目で確認しました。また,山頂では(うぐいす)が鳴いていて,家持が天平19(747)年のちょうど今頃越中で詠んだ次の短歌を思い浮かべました。

玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり(17-3987)
たまくしげふたがみやまに なくとりのこゑのこひしき ときはきにけり
<<二上山に鳴く鳥の声が美しい季節がやってきたよ>>

なお,この短歌の鳥は鶯ではなく霍公鳥(ほととぎす)のようです。いずれにしても,家持が二上山で鳥がにぎやかに鳴く春の到来を喜んだのは間違いないでしょう。
こうやって,あっという間の2日間が終り,参加者はそれぞれ帰路につきました。
参加者が帰宅した後,今回の集いが大変楽しく,また越中という土地の自然の豊かさ,恵まれた環境を感じられた思い出に残るものだったとのメールを多数頂いたのです。
<事前の回遊>
ちなみに,土曜日の宴の前,私は早めに富山に到着できたので,ひとりで砺波平野の散居村展望台に車で行き,登りました。
写真はその時展望台から撮ったものです。いくつかの田んぼでは水がはられ始めていました。

富山がまさに「富んだ山」から流れてくる川の雪解け水に潤わされ,花で満たされた春爛漫と暖かい心で満たされた旧友たちと過ごした素晴らしい2日間でした。

山は雪川は速水(はやみ)と里の花 海山幸に交わす杯(さかずき)

今回も企画から準備,開催まで1年以上掛けた甲斐があったようです。
このブログ,次はGWスペシャル「私の接した歌枕」シリーズの続きをお送りします。お楽しみに。
私の接した歌枕(15)「湯河原」に続く。

2012年4月15日日曜日

投稿200回特集(「のぞみ」車窓の桜)

<大阪の困難な仕事も峠を越えた>
数日前私は仕事でお客様の本社がある大阪に出張しました。このお客様への出張は先月から数えて5回目でした。
それまでの4回は出張目的が十分果たせず,準備の苦労も回数を重ねるたびに増し,すべて日帰り出張で大変疲れ,往復の新幹線はいつも寝ているだけでした。
今回の出張は比較的良好な結果が得られ,さらに当日は大阪で1泊することが許され,ホテルで十分睡眠をとることができました。翌日は東京に帰るだけですが,いつものような疲れも無く,よい天気に恵まれ,久しぶりに爽やかな気分で帰路の新幹線に乗れました。予約で確保した座席は1E(ある号車の最後尾座席で,リクライニングを倒す時後ろを気にする必要がなく,そして山側(北側)で太陽の光が入らず,ブラインドを下げる必要のない席)です。
<帰京の「のぞみ」出発>
朝8時頃明るい朝日が射す中,新大阪が始発の「のぞみ」から,ちょうど満開の桜が沿線で良い天気に映えて綺麗に見られそうなので,車窓の景色を眺めながら過ごすことにしました(いい年をして)。好都合なことに隣の座席(1D)は誰もいません。私が窓の外ばかり見ていても,変に思う人もいないのです。
「のぞみ」は早速淀川の河川敷の桜を見せてくれました。山崎のサントリーウィスキー工場の前を通過ししたときは,その周辺の桜が山麓を染めていました。京都駅周辺や京都駅を出た直後の鴨川の桜も綺麗に見えました。直後トンネルを通過して,私の育った山科に入ると,北の山沿いに掘られた京都疎水の岸に植えられている桜,連なって咲いているのが遠くですがハッキリとピンクの帯に見えました。
<滋賀県突入>
2番目のトンネルを通過し,大津に入ると瀬田川唐橋の周辺の桜の木が可憐に花を咲かせていました。草津を過ぎたあたりから,琵琶湖の向こう側の比良山系の峰々には雪がまだ残っていて青空に白く映えていました。琵琶湖に注ぐ愛知(えち)川を渡った先の一級河川宇曽(うそ)川両岸では隣を走る近江鉄道の鉄橋と岸の桜が趣のある風景を一瞬ですが見せてくれました。
彦根城を過ぎ,佐和山城跡には桜が結構植えられているようですが,まだ十分開花していませんでした。米原付近の桜はまだつぼみが赤くなってきた程度でした。遠くに見える福井方面の山はまだまだしっかり雪に覆われているように感じました。伊吹山の山肌の残雪はまだら模様で,鳥の頭の形をした雪形もはっきり見えました。
<中部地方突入>
寒いのでまだ桜は蕾と思い期待していなかった関ヶ原の桜は意外にも5分咲き以上でした。大垣市郊外に入ると工場の周辺の桜が満開でした。以降東京まで桜は満開ばかりでした。揖斐川の河川敷の菜の花が綺麗でした。
名古屋までの長良川木曽川では桜はまったく見えません。名古屋駅を出発してようやく中電研究所周辺の満開の桜並木を近くに見つけることができました。三河安城駅の前後にある用水路には桜と菜の花が植えられていて,両方とも精一杯咲いていて,まさに春を実感する光景でした。
Panasonic電工幸田工場周辺の桜が立派でした。その先蒲郡付近から豊橋付近に掛けての山にはたくさん山桜が花を咲かせていました。豊川用水(支流)の岸辺には菜の花が緑の草に映えていました。豊橋を過ぎた幸公園の桜も見事でした。日東電工の工場の桜も見ごたえがありました。
<東海地方突入>
浜名湖周辺や浜松駅付近は残念ながら桜はほとんど見えませんでしたが,天竜川鉄橋の手前のローム(ROHM)浜松の工場の桜は目立っていました。天竜川鉄橋を越えると磐田用水という用水路がたくさんある地域では,用水路の岸に桜,菜の花が所々に植えられ,花を咲かせていました。今後も整備を進め,新幹線の車窓を楽しませてくれることを期待したいですね。NTN磐田製作所の桜も目立っていました。
いよいよ静岡の茶畑がたくさん見える地域に差し掛かりましたが,期待した茶畑の緑と満開の桜のコントラストが美しい風景は見られませんでした。桜の木を近くで並べて植えるのは茶畑にとって良くないのかも知れませんね。ただ,里(茶畑農家)には桜が結構あったように見えました。大井川鉄橋を渡ると科研製薬の工場,静岡駅手前の清掃工場には桜や菜の花が綺麗でした。
清水市からのトンネルを抜け富士市に入ると王子特殊紙,新富士駅を過ぎた後,JATCO,鈴与物流センター,UCCの工場の桜が楽しめました。三島駅の先の山麓には山桜の群落がありました。新丹那トンネルを抜け新熱海駅付近では山桜,民家や別荘の桜が綺麗に咲いていました。
<関東地方突入>
またいくつかのトンネルを抜けて小田原に近付くとみかんのような実がたくさん熟しているのか見えました。遅い品種なのでしょうか。小田原市内に入ると桜の木が多く,少し遠くの山麓にもたくさん桜の木があるように見えました。
並走する厚木小田原道路のも桜がたくさん植えられていました。東京に近付くにつれ,学校,公共施設(役所,公民館,ホールなど),お寺,神社の周辺に植えられた桜が目立つようになりました。
こうして,10時半頃品川駅に到着したのですが,この2時間半,私は万葉集に出てくる次の詠み人知らずの短歌の気持ちだったのでしょう。

見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも(10-1872)
みわたせば かすがののへに かすみたち さきにほへるは さくらばなかも
<<見渡すと春日の野辺に霞が立ったように咲誇っているのは桜の花なのでしょうか>>

そして,日本人が本当に桜好きで,遠い昔から多くの場所に桜を植え楽しんでいるのだということを私は改めて強く感じたのです。
次回は投稿200回特集の第2弾として「万葉の友,高岡の集い」をお送りします。

2012年4月10日火曜日

200号直前特集「これまでを振り返って」

<これまでの投稿を振り返る>
2009年2月28日に投稿を開始したこのブログは,万葉集に出てくる当時使われていた言葉(トークン)に焦点を当てて,その言葉をキーに万葉集を紐解きながら,私の勝手な感想を書いてきました。
3年以上,約200回の投稿ができたのは,万葉集に出てくる言葉がとにかく豊富であり,その言葉の用法(表現の仕方)を万葉集の中で見て行くと,私にとって興味ある発見が続いたからなのです。ただし,「発見」と言っても万葉集研究の専門家でない私にとっての話です。万葉集や国語学を専門に学術研究をなさっている方々にとっては,とっくに分かっていること,否定されていること,採るに足らないことの羅列かも知れません。
ブログという気軽かつ自由に自分の考えを表現できるツールができ,ITを使った関連情報の入手・整理がしやすくなったことが私のような素人でも万葉集に取り組むことができるきっかけになったことは間違いありません。
とはいうものの,多くの方が見る可能性があるブログである以上,何の裏付けも無く勝手な考え方を書くのは良くないことだと私は考えています。
時として,裏付けが乏しいけれど,推測で書きたい場合もあります。また,その推測を仮定として今後裏付けを探していきたい場合もあります。
推測である場合は推測であることをできるだけ示しつつ,表現していくことに心がけていこうとしてきました。
さて,これまで投稿してきた内容を分類すると次のような順序で進めてきました。
①テーマが定まらない時期(2009年2月~6月)
②難読漢字シリーズ(2009年6月~2010年1月)
③動詞シリーズ(2010年2月~2011年7月)
④対語シリーズ(2011年8月~現在進行中)
この間,正月,GW,七夕の時期には「私が接した歌枕シリーズ」「七夕シリーズ」を割り込ませてきました。
また,100回到達,3年目突入などでは,本ブログに関する総括的な投稿をしてきました。
体系的とはとても言えない内容ですが,自分の興味に関する部分を断片的に出すだけでなく,投稿する意図をできるだけ読む人に理解頂けるようシリーズ化して投稿してきたつもりです。
ただ,天の川君がときどきしゃしゃり出て,私の投稿意図を乱してしまうことがありますが,制御不能です。
このブログ,日本が圧倒的に多いですが,日本以外で閲覧数の多い国はアメリカ,ロシア,マレーシア,ドイツ,ラトビア,台湾の順です。アジアが意外と少なく,アフリカや中近東はほとんど閲覧がありません。
なお,ここまでで一番閲覧数が多かった記事は次の記事です。
★2011年 7月 2日(154号):天の川特集(2)‥憶良・家持は「七夕」通?
http://reverse-mannyou.blogspot.com/2011/07/2.html
また,2番目は次の記事です。
★2011年 6月26日(153号):天の川特集(1)‥万葉集は「七夕」を特別扱いしていた?
http://reverse-mannyou.blogspot.com/2010/02/3.html
どちらも昨年の七夕の時期に投稿した記事です。
これらの記事は季節がら瞬間的に閲覧数が多くなることはある程度予想していました。しかし,その後も継続的にアクセスを頂き,過去のトップ2をキープしています。
そのことから七夕という季節的な要因だけでなく,投稿内容そのものに対する興味を持って頂いたのではないかと考えています。
私が,これらの記事で一番言いたかったこと(必ずしも閲覧数が多い要因ではないかも)は,大伴氏(中心は家持)が七夕に関する和歌を利用して,七夕の行事を流行らせ,氏族が運営している製糸業,農業,製酒業,観光業,物品販売などのビジネスを活性化して,氏族の資産を増やそうとしていたのではないかということです。
そして,大伴氏がそのようなビジネスをプロモーション(営業推進)に使った和歌(口承で流行らせようしたもの)が万葉集の一部として残ったのかもしれないと考えたのです。
家持が万葉集最後の短歌の後,歌を詠んでいないように見えるのは,家持が歌を詠むのをやめたというより,和歌を使ってのビジネスプロモーションをしなくなったためではないかと私は推測しています。
だからと言って,万葉集の文学的な素晴らしさを否定するつもりはまったくありません。
紫式部清少納言吉田兼好鴨長明芥川龍之介夏目漱石太宰治志賀直哉も,結局ある種の出版ビジネスを成功させるために作品を書いのがほとんどだと私は思います。
目的はどうあれ,創作された文学作品が優れたものであれば,多くの人に支持され,ずっと歴史に残るものとなるのです。もちろん万葉集もそのひとつです。
200号特集「『のぞみ』車窓の桜」に続く。