2012年11月19日月曜日

今もあるシリーズ「飯(いひ)」

私は,昨日明日香村でミカン狩りを行い,ミカン狩りの会場(農家)で飛鳥米の小袋をプレゼントされました。飛鳥米は明日香村の農家で作られたコメのブランドです。ミカン狩りの帰りに,村の産直市場で玄米5キロを買いました。写真はミカン狩りで収穫したミカン(ほんの一部です。実際に収穫した量は次回の投稿で紹介します)とプレゼントされた飛鳥米です。

<3度の食事は朝飯,昼飯,夕飯>
さて,朝飯,昼飯,夜飯と私たちは1日にふつう何度も食事をします。最近,1日1食で良いという人の本が出ているようですが,長年行ってきた3度の食事を減らしたりするのは,健康な人にとってどのような影響があるのか?と私は思います。
現代では,「飯」は「めし」または「はん」と発音します。そして,朝パンや昼ラーメンを食べても「朝ご飯」や「昼ご飯」と呼びます。パン,パスタ,そば,うどん,ピザ,お好み焼き,もんじゃ焼き,たこ焼き,たい焼きを3食の代わりにだべたとしても,やはりご飯と言います。
それだけ,日本人の食事にとってご飯は大きなウェイトを占めてきた証ではないでしょうか。コメのご飯を食べる場合は,あえて「米飯(べいはん)」と呼ぶほどです。
<万葉時代は?>
万葉集では米飯のことを「飯(いひ)」として出ています。
今,飯を「いひ(い)」と発音するのは名前や地名で飯田,飯島,飯塚,飯野,飯見,飯沢,飯沼,飯岡,飯倉,飯詰,飯盛,飯井,飯浦などで使われていますが,それ以外で使われることは少ないのかもしれません。
万葉集で「飯(いひ)」を詠んだ短歌でよく引用されるのが,孝徳(かうとく)天皇(在位645~654)の皇子有間皇子(ありまのみこ)が中大兄皇子(なかのおほえのわうじ。後の天智天皇)に謀反の罪により18歳で処刑される際に辞世の和歌として詠んだとされる次の短歌ではないでしょうか。

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(2-142)
いへにあればけにもるいひを くさまくらたびにしあれば しひのはにもる
<<家で暮らしていれば食器に盛るご飯も,旅先ではご飯を盛る器がなく,椎の葉をその代りに使って盛るしかないのだ>>

この短歌は有間皇子が処刑場に護送される旅の途中で詠んだとされているようです。
次は,飯(いひ)をわが娘に譬えたの短歌です。ただし,尼が詠んだのは上の句だけで,下の句は大伴家持(おほとものやかもち)が上の句に続けて読んだ蓮歌とされているものです。

佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を刈れる初飯はひとりなるべし(8-1635)
さほがはのみづをせきあげて うゑしたをかれるはついひは ひとりなるべし
<<佐保川の水を堰き止めて植えた稲田で(尼作)刈った新米のご飯は母親一人のものです(家持作)>>

これは,自分の娘を養女として預けたある人物から,預かっている子は外には出さない(育ての親のものだ)という意図の歌に対して返歌をしたもののようです。この後どうなったか興味がありますが,万葉集には何も書かれていません。
最後は,橘諸兄(たちばなのもろえ)の弟である佐為王(さゐのおほきみ)の家で住み込みで仕えていたが詠んだ長歌です。

飯食めどうまくもあらず 行き行けど安くもあらず あかねさす君が心し 忘れかねつも(16-3857)
いひはめどうまくもあらず ゆきゆけどやすくもあらず あかねさすきみがこころし わすれかねつも
<<飯を食べてもおいしいと感じない。忙しく働いていても心は安らかでもない。私の心に火をともす恋人が心から離れないのです>>

娘のこの歌を聞いた佐為王は,哀れと思いしばらくは住み込みを許したと伝えられていると左注に記されています。当時は使用人が主に対して要望を行う場合も和歌を使ったこともあるということでしょうか。
今も昔も他人を動かす表現力や説得力がものをいうのは変わらないという気がします。
さて,次回は今で言うならミカンということになりますが,「橘(たちばな)」を取り上げます。
今もあるシリーズ「橘(たちばな)」に続く。

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