2015年9月16日水曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)…高級「霜降り」の和牛ステーキが食べたいよ

日本では,ようやく異常な秋の長雨も終わり,秋晴れの日が続きそうな天気予報になりましたね。
茨城県常総市でおきた鬼怒川の堤防決壊の被害に遭われた方々,他の雨の被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて,今回からは,雨以外の降るモノを見ていきます。今回季節的に少し早いかもしれませんが「霜が降る」を万葉集で探します。
まず,次の詠み人知らずの短歌ですが,北海道,東北地方では,もうこんな季節に近づいているのかもしれませんね。

さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(10-2220)
さをしかのつまよぶやまの をかへなるわさだはからじ しもはふるとも
<<牡鹿が妻を呼ぶ鳴き声がする丘のまわりにある早稲田の稲は刈らないで欲しい。霜が降るような季節になっても>>

解釈がいろいろできる短歌だと思いますが,作者にとってかけがいの無い風景,雰囲気なのでしょうね。ずっとこの風景の美しさと鹿の恋(自分たちの恋?)の季節が続いていてほしいと思ているのかもしれません。
さて,「霜が降る」を詠んだ有名な和歌がたくさん万葉集にはあります。このブログですでに紹介したものもありますが,次々と見ていきましょうか。
次は志貴皇子が慶雲3(706)年文武天皇草壁皇子の長男)の行幸で難波に随行したときに詠んだ有名な短歌です。

葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)
あしへゆくかものはがひに しもふりてさむきゆふへは やまとしおもほゆ
<<葦のまわりを行く鴨の羽がいに霜が降って寒い夕暮は,大和がしきりと思われることよ>>

文武天皇が宮中を離れて,難波に行くことは,志貴皇子には快く思われなかったのかもしれません。天皇はまだ23歳ほどの若さでしたが,恐らく脆弱な体調だったのでしょう(翌年死去)。実権は母(後の元明天皇)が握っていたと考えられます。
志貴皇子にとって,政治的に大和で何が進んでいるか気になるところだったのだろうと,私はこの短歌から感じます。
次は,天平8(736)年に聖武天皇橘諸兄葛城王から橘姓を聖武天皇から授かった時)に贈ったといわれる短歌です。

橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
たちばなはみさへはなさへ そのはさへえにしもふれど いやとこはのき
<<橘という木は,実も花もその葉も,枝に霜が降るような季節になっても葉は美しい緑であることよ>>

これを拝受した橘諸兄の地位はかなり盤石になったと私は想像します。
次は,悲運の皇子として語り継がれいる大津皇子が詠んだとされる短歌です。

経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(8-1512)
たてもなくぬきもさだめず をとめらがおるもみちばに しもなふりそね
<<(機織で)縦糸も横糸も定めずに乙女らが(規則性無く)織ってしまったような黄葉に霜が降らないでほしいものだ>>

黄葉のグラデーションの美しさと色合いの多様さを見事に(おそらく錦織による)機織で例示した短歌だと私は思います。美しさに感動した強さを「霜が降らないでほしい」(いつまでも続いていてほしい)と皇子は表現しています。
こういった例示こそが万葉集に残された和歌の情報量の多さを物語っていると私は考えます。
一つのことを単に示すだけの情報量と,何かと何かを比較して示す情報量は,前者の2倍よりもかなり大きいと私は考えます。
すなわち,比較すれば,ぴったり合う部分と多少合わない部分が出てきます。それが,それぞれ個々の情報量に加え,比較で見えるさまざまな差という情報がプラスアルファされるのです。
<万葉集の和歌は多くの人に多くの情報を与える>
また,詠まれた和歌を聞いた人は,作者が具体的にどれとどれを比較して詠っているのかを考えたり,想像したり,後で調べたりすることになります。結果的に,その和歌を見た人に多くの情報を与えることになるのです。
説明的に違うものを比較するより,あるものにだけ焦点をあて素晴らしさを表現するほうが文学的には優れているという考え方もあるかもしれません。ただ,文学的には平凡といわれる和歌でも,考えたり,想像したり,調べたりして結果的にそこから得られる情報量が多ければ,私的には優れた和歌なのだと考えます。
この私的評価基準は,もし万葉集が文学作品集ではなく,万葉時代の社会の全体像を理解してもらうために編纂されたとすれば,なおさら明確です。
次は,天平5(733)年,我が子が遣唐使として送り出した母が,安全を祈って我が子に贈ったとさける短歌(長歌の反歌)です。

旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)
たびひとのやどりせむのに しもふらばあがこはぐくめ あめのたづむら
<<旅人が一夜を明かす野に霜が降ったら,我が子を羽の下に包んでやっておくれ,空飛ぶ鶴の群よ>>

奈良時代,遣唐使船は,行き,帰りとも難破することが多く,何度も渡航し直したり,遣唐使の命を受けても辞退者が続出する状況だったようです。
そのような中で,我が子を送り出す母の気持ちは,この短歌で本当にわかる気がします。何せ,現代宇宙ステーションに人を送るよりはるかに死亡率が高かった航海ですから。母が詠んだ「霜が降る」は我が子が遭遇する苦難の象徴なのでしょう。
果たして,我が子は無事母のもとに帰ることができたのでしょうか。Wikipediaによると天平5年の遣唐使はすべての人が無事に帰れたわけではないようです。
でも,この人たちのような命を危険にさらす努力によって,(西方の大陸からさまざまな影響を受けた)今の日本の文化が育まれたことだけは事実でしょう。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6)に続く。

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