2010年5月22日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…頼む(3:まとめ)

「頼む」相手は,まさに信頼できる「頼もしい」(頼むの形容詞形)相手,そして「頼れる」相手であることが前提となります。

大伴の名に負ふ靫帯びて万代に頼みし心いづくか寄せむ (3-480)
おほともの なにおふゆきおびて よろづよに たのみしこころ いづくかよせむ
<<大伴の名を伝える靫を着け、万代まであなたを頼りにしたかった私の心は、何を頼りにすればよいのでしょう>>

この短歌,万葉集題詞によると天平16年大伴家持が26歳のとき,17歳の安積皇子(あさかのみこ)が急死したことに対して詠んだ一連の挽歌の最後の一首です。
安積皇子は難波宮(なにはのみや)への行幸(みゆき)の途中脚気(かっけ)で危篤になり,恭仁京(くにのみやこ)に戻ってすぐに亡くなったようです。
この急死は,当時聖武天皇(しやむてんわう)の下で政権を掌握していた橘諸兄(たちぱなのもろえ)を引きずり降ろそうとしていた藤原仲麻呂(ふぢはらのなかまろ)による毒殺という説もあります。そのくらい,当時の権力争い(どの氏の血縁が天皇になるか)が本当に激しかったのだろうと私は想像しています。
当時,聖武天皇には歴史に名をとどめる夫人が2人いたようです。安積皇子はその夫人2人の内で,橘諸兄と縁の深い県犬養広刀自(あがたのいぬかひのひろとじ)という夫人の子でした。
もう1人の夫人は藤原仲麻呂の叔母にあたる光明皇后(くわうみやうくわうごう)です。
安積皇子は聖武天皇の第2皇子です。ただ,光明皇后が生んだ皇太子(第一皇子)はすでに亡くなっていたため,次の天皇へと期待が高まっていたのです。この急死は橘諸兄派にとって大きなショックだったのだろうと想像します。家持のこの短歌で安積皇子の将来に対する期待(頼りにしていたこと)が崩れた悲しみと不安を家持は表現していると感じます。
藤原仲麻呂は,この後聖武天皇がやむなく娘の孝謙天皇(かうけんてんわう)に譲位した後,政権を恣(ほしいまま)にしようとします。
<藤原仲麻呂の野望と家持の苦節>
橘諸兄側を頼りにしていたと考えられる大伴家のプリンス家持の不安は的中し,藤原仲麻呂台頭とともに家持は徐々に不遇の扱いを受け,出世を妨げられていくのです。
家持がこの挽歌を詠った15年ほど後,頼みにしていた橘諸兄も没し,因幡の国(鳥取県)に左遷された家持は万葉集最後の短歌を詠んでいます。

新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重げ吉事(10-4516)
あたらしきとしのはじめのはつはるのきょうふるゆきのいやしけよごと
<<新たな年(春)の始まりに降った雪が降り積もっていくように本当に良いことが重なってほしいことよ>>

頼れる人達の影が次々といなくなっていく不安を40歳を過ぎた家持は神仏を頼りにしたいような気持でこの短歌を詠ったのかもしれません。
家持は,その後は和歌の収集や記録を止めて,大伴氏存続のためにさまざまな努力をしていったのだと私は思います。
しかし,そのような家持の我慢も5年ほどで終わることになります。藤原仲麻呂のクーデターが失敗し,その後家持は復活を遂げるのです。
<苦節に立ち向かう自分は変革のチャンス>
さて,現在の私たちも頼みにする人が亡くなったり,離れて行ったとき,不安になったり,悲嘆に暮れたりすることがあるかもしれません。
ただ,その状態は自分自身が頼みにされる側(より強い自分)に変革する大きなチャンスではないでしょうか。
その変革とは,他人に頼るだけの(逃げの)自分から,その逆境に自らが立ち向かう勇気と(自立した)気持ちに切り替えることだと私は思うのです。
そのチャンスを生かし自分をより精神的に強い人間に変えることができた人の中には,時としてある歌人や詩人が詠んだ詩歌に接し,その感動が変換点になった人も多かったのだろうと私は想像します。
「添ふ(1)」に続く。

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