2010年7月24日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…争ふ(3:まとめ)

何回か前の投稿で触れましたが,我が家の近くの街路樹の百日紅の花が咲き競っています。
猛暑でかなりつらいこの夏ですが,この花の勢いある咲き具合と爽やかな色合いを見ているとしばし暑さを忘れてしまいます。

ところで,万葉集では「争ふ」のほかに「競(きほ)ふ」を詠んだ和歌が10首以上出てきます。
たとえば,次の短歌もそうです。

今日降りし雪に競ひて我が宿の冬木の梅は花咲きにけり (8-1649)
けふふりし ゆきにきほひて わがやどの ふゆきのうめは はなさきにけり
<<今日降った雪と競争するように私の家の冬枯れの梅の木は花が咲いて来たなあ>>

夕されば雁の越え行く龍田山時雨に競ひ色づきにけり (10-2214)
ゆふされば かりのこえゆく たつたやま しぐれにきほひ いろづきにけり
<<夕方になって雁が上を越えていく龍田山が時雨の始まりと競い合って色づいて来たなお>>

これら2首は,季節の移り変わりを示す変化が競っていることを詠っているようです。
太平洋側に近い場所(近畿南部,東海,関東など)は,真冬は寒いばかりで雪はあまり降りません。逆に春が近付くと雪が降る機会が多くなります。
また,山の紅葉は,冷たい時雨(しぐれ)が降る頃になると一層鮮やかに色づき始めます。
このように,季節の移り変わりに同時に起こる変化をとらえて,どちらが先に変化するかを心の中で競わせる。
万葉人の四季に対する思い入れの強さを「争ふ」だけでなく,「競ふ」を使った和歌でも私は感じてしまいます。
「競う」と「争う」
さて,「競う」と「争う」を合わせた言葉に「競争」があります。現代は国際的に熾烈な経済競争が行われていると言われています。
各国は自国の豊さや経済発展を求めて他国や他の地域連合とさまざまな競争をしています。
たとえば,先進国の多くは石油や天然ガスといったエネルギー資源,電子機器,電池などに欠かせないレアメタルなどの鉱物資源,膨大な研究投資で得た技術などの知的財産権といったものを他国に対して優先的に獲得したり保護したりすることに血眼になっています。
そういった努力をしていない国は,例え今が豊かでもやがて技術革新に乗り遅れ,国の富を増加させる手段を無くし,経済的に貧しい国になっていくのです。
そして,国際的な経済競争に取り残され,経済の破たんの危機に直面します。そんな危機に直面した国は,まず食料確保を優先し,医療,福祉,教育といった分野は後回しにされます。
「貧しい国になるリスク
そういう国では,死ななくてもよい治療法の確立されている病気の人が死んだり,将来国を託す人材が育たずさらに貧困を増大させるリスクを負います。
いっぽう,競争に勝つため必死に努力している国も,競争に負け,膨大な研究投資をしたほどは国の富を増加させることができず,経済的に貧しい国になってしまうリスクもあります。
厳しい国と国との競争に勝つためには,国内の企業も競争力をさらにつけていく必要があるといわれています。
そんな企業で働く人々は,結果として社内での成果主義に基づく競争にさらされ,それに勝ち抜く力を求められるのです。
個人は国と国との競争にとどう関わるべきか
私の知人の企業では,勝負にこだわる精神力が強いとうことで,一流スポーツ選手として経験持つ人を社員として積極的に採用しているとの話も聞きます。
これからの社会は,最後は周りの人間に負けない強いメンタルを持つ人たちが生き残っていく勝負の世界が,ますます広がっていくのではないかと私は考えてしまいます。
その意味で,競争(「競う」「争う」)という言葉が持つ今の厳しさと,万葉時代の「競ふ」「争ふ」の柔らかさに大きな違いを感じるのは私だけでしょうか。
私は,人が競い合うことは必要だと思います。ただ,自然を破壊してまで,また万葉集に出てくるような自然と調和しつつ向き合う心の余裕を捨ててまで競争を求められるこれからの時代を,明るい時代だと確信をもってはいえないのです。
遊ぶ(1)に続く。

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