2015年1月3日土曜日

2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(2)」 家持,クニク(恭仁苦)の作?

今回は「未(ひつじ)」年に詠まれた万葉集の和歌の2回目として天平15(743:癸未<みづのとひつじ>)年に詠まれたとされるものを見ていきます。
天平15年は,5月に開墾した土地は永年自分の土地となるという「墾田永年私財法」が発布され,10月には「大仏造立の詔」が聖武天皇により出された年です。
大伴家持は25歳になっており,久邇京内舎人(うどねり:名家の子弟が担当する天皇の警備などを行う付き人)として働いていたとされる年です。
この年に詠まれたと明確に万葉集の題詞や左注で記されているのは,すべて大伴家持が恭仁(久邇,久迩)京で8月(新暦では9月)に詠んだ短歌6首です。なお,恐らくその年に詠まれたと推定できる和歌もありますが,今回は割愛します。では,家持の6首を一挙紹介します。
最初は久邇京を賛美した1首です。これだけが何故か巻6に納められています。

今造る久迩の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし(6-1037)
いまつくるくにのみやこは やまかはのさやけきみれば うべしらすらし
<<造営中の久迩の都は周辺の山川が清らかなのを見ると,ここに造ろうとされた理由が分かります>>

次の3首はおそらく久邇京の周辺の山野で秋萩を見て詠んだと思われる短歌です。なお,3首目ですが,新暦9月秋萩がちょうど盛りの時期なので,家持の問いかけはの答えとして,秋萩を散らしたのは牡鹿しかないということになります。
秋萩を久邇京,牡鹿を聖武天皇の譬えとすると,家持の気持ちの別の側面が見えてくるようです。

秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり(8-1597)
あきののにさけるあきはぎ あきかぜになびけるうへに あきのつゆおけり
<<秋の野に咲いている秋萩の花が秋風に靡き,その花の上が秋の露に光っている>>

さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露(8-1598)
さをしかのあさたつのへの あきはぎにたまとみるまで おけるしらつゆ
<<牡鹿が朝立ち寄った野辺の秋萩の花に玉のように美しく付いた白露よ>>

さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる(8-1599)
さをしかのむなわけにかも あきはぎのちりすぎにける さかりかもいぬる
<<牡鹿が胸で押し分けて通ったからだろうか。それとも萩が散ったのは盛りを過ぎているためだろうか>>

次の2首は,鹿の鳴き声を聞いて詠んだものです。

山彦の相響むまで妻恋ひに鹿鳴く山辺に独りのみして(8-1602)
やまびこのあひとよむまで つまごひにかなくやまへに ひとりのみして
<<やまびこが響き合うほど激しく鳴く山辺の鹿。たった一頭で>>

このころの朝明に聞けばあしひきの山呼び響めさを鹿鳴くも(8-1603)
このころのあさけにきけば あしひきのやまよびとよめ さをしかなくも
<<この季節,明け方に聞こえてくるのは山を響かせて牡鹿が激しく鳴く声>>

この2首も牡鹿を聖武天皇に譬えてしまうと,結局後の5首は「内舎人として久邇京に赴任したが,天皇は一向に来ない。いつも山(紫香楽宮)から強烈な通達が来るばかりだ。久邇京の造営は進まず,一部には荒れだところも出てきている。」といった心情が私には見えてきます。
以上6首は,ほぼ同じ時期に家持によって詠まれたとされますが,最初1首だけが別の巻に入れられたのは,その内容から分かる気がします。
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(3:まとめ)」に続く。

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