2009年4月5日日曜日

万葉集編纂は誰が思いついたか

前投稿で述べたように,大伴家持が奈良で急速に昇進していった50歳代から60歳代に万葉集を編纂したと仮定すると,家持にいったい誰が万葉集の編纂を命じたのか。
もちろん,家持自身の意思で編纂を思いついた可能性もありますが,私は何かしらのスポンサーがいたのだと考えてしまいます。
ここからは,私の勝手な想像です。歴史小説(フィクション)の世界といえるのかもしれませんね。
私が有力なスポンサーとして考えるのは,当時即位していた光仁天皇です。
光仁天皇は,歴代でもっとも高齢の何と62歳で770年(神護景雲4年)に即位したのです。
それも順当な皇位継承ではなく,閣議の合議で決定されたようですから,一種の中継ぎ天皇といってもいいのかも。
記録には天皇は結構改革も行ったように書かれています。でも,藤原氏が陰でいろいろ仕組み,天皇の権威を利用し,行ったとの説もあるようです。60歳代の天皇は,実態は隠居のような立場であった可能性があります。そこへ地方から帰ってきた50歳代(初老)で,極端に遅咲きの家持と話がよく合ったと想像できそうです。
二人は,頻繁に若いころの話やそれぞれの父親(志貴皇子,大伴旅人)等の話をしたでしょう。また,家持は,天皇に諸国赴任時の地方の話や交流のあった人の話をたくさんしたのではないかと想像できます。
光仁天皇は,権力抗争により次々と粛清される優秀な人材が後を絶たず,国全体や地方を含む一般庶民の幸せを顧みない権力者達を憂うようになったのかも知れません。
また,遣唐使などの海外留学者による闇雲な海外の文化の導入,日本的な調和を忘れた政治制度への転換と強制が急激に進んでいること。それによって,それまでの日本人が長年培ってきた文化,風習,慣習を新興世代が尊重せず,世代,親子,都と地方,官僚と庶民などとの間に大きなギャップが生まれてきたことを残念に思っていたのかもしれません。
光仁天皇と家持は,残された短い人生で一体何が残せるか考えたのではないでしょうか。
ただ,政争の具になるようなものでは,そのプロジェクト自体妨害を受ける。そこで,家持が集めていた和歌の記録,宮廷に残っている和歌の記録などを集め,大和言葉の用例として整理し,官僚の姉弟や渡来人の教育(国語,歴史,風習,地理・風土など)に役立てることを目的として万葉集編纂プロジェクトがロートル家持をマネージャとして開始されたと私は想像します。
できた万葉集が,権力者(主に藤原氏)の姉弟,影響力を増しつつある渡来人の教育に利用され,それを学んだ人たちが将来為政に関わるようになったとき,日本人の心と融合した政策をもっと考え,政策を実施してくれるのではないかと考えたのかもしれません。時は,平安京遷都まであと十数年にせまった頃です。
さて,万葉集は和歌集としてではなく,大和言葉の用例集としてならば,歌の順序の是非についてや作者に名もない庶民が含まれていたとしても,とやかく言われる筋合いはないずですよね。

0 件のコメント:

コメントを投稿