2011年2月19日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…去ぬ(3:まとめ)

万葉集で「去ぬ」を使った和歌の多くは相聞歌です。やはり,恋人や夫が去ってしまうことの辛さを詠ったものが多いのです。
ただ,雑歌や防人歌にも「去ぬ」が使われているものが一部にはあります。それを2首紹介します。

さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる(8-1599)
さをしかの むなわけにかも あきはぎの ちりすぎにける さかりかもいぬる
<<牡鹿が通ったとき胸にあたったのかなあ。秋萩が散ってしまい,盛りが過ぎてしまった>>

この短歌は,大伴家持が天平15(743)年8月(家持25歳の時)に詠んだ秋の歌3首の内の1首です。
家持が詠んだ場所は,恭仁京(現在の京都市木津川市)の近くと思われます。
秋萩が散ってしまったところがあった。きっと牡鹿が通って胸にあたった花がその勢いで散ってしまい,早々と盛りが過ぎてしまったことを嘆いているように私には感じられます。
家持がこの短歌で恭仁京造営が挫折している状況を秋萩で表していると考えると考えすぎでしょうか。
聖武天皇が恭仁京を新しい都にしようとして造営を始めたが,最初の構想とは裏腹に資金,氏族思惑などで計画がとん挫し始めていたことを暗に示したと読めるような気がします。
朝,白露で美しく見えた秋萩が一瞬の内に牡鹿によって散らされてしまう。そんな果敢ない姿を恭仁京造営の当時の状況に当てはめているのかもしれません。

暁のかはたれ時に島蔭を漕ぎ去し船のたづき知らずも(20-4384)
あかときの かはたれときに しまかぎを こぎにしふねの たづきしらずも
<<夜明け前の東側が明るくなった時間に島の向こうに漕ぎ去った船。今はどうしているのだろう>>

これは,助丁(すけのよぼろ)海上郡(うなかみのこほり)海上国造(うなかみのくにのみやつこ)他田日奉直(をさだのひまつりのあたひ)得大理(とこたり) という下総(今の千葉県)出身の防人が詠んだ短歌です。
この短歌の作者は国造という役職から下総出身の防人部隊のリーダ的存在だったのだろうと思われます。
これから防人として筑紫へ向かう前,先に向かった防人の船は無事に着いているのだろうかという不安はあるが,極力冷静に詠んでいるなと私は感じます。
リーダとしては,メンバの不安を増幅させるようなおろおろした表現や残してきた自分家族と会いたいといったプライベートなことを表現はしにくいですからね。
でも,本当は残してきた家族ことが恋しいという軟派な歌を詠いたかったのかもしれません。

さて,万葉集に出てくる「去ぬ」について見てきましたが,当時の「去ぬ」の意味は現代の「去(さ)る」に近いように感じます。それも,かなり重く,暗い,悲しいイメージが強いように私は感じます。
一方,万葉集では「去る」という言葉も出てきます。次回からは万葉集における「去る」はどんな意味なのかについて見ていきましょう。
去る(1)に続く。

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