2011年2月11日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…去ぬ(1)

今回からいつものように3回に渡り,万葉集の「去(い)ぬ」について考えてみます。
「去ぬ」は現在でも関西方面では普通に使われています。天の川君,いくつか用例をやってもらいましょうか。

天の川 「仕事の邪魔や。早よ去なんかい!」「わてが戻ってくるまでここに居てや。去んだらあかんで。」「えらい長いことお邪魔しました。ほんなら去にますワ。」

天の川君ありがとう。壱岐の麦焼酎「天の川」をまた買ってきてあげるからね。

天の川 「よっしゃ。けど,風呂桶(注)は許さへんで。」
  (注)風呂桶=湯(言う)だけ

実は万葉集では,同じ漢字を当てる「去る」の用例も出てきます(「去ぬ」と「去る」は異なる意味で使い分けているようです)。
その後長い年月を経て,関東では「去る」が「去ぬ」と同じ意味で使われるようになり,関西では「去ぬ」がそのまま残ったと考えると面白いかもしれません。
私が京都で暮らしていた頃「風と共に去(さ)りぬ」という映画のタイトルを見て,「カッコええタイトルやな~」と思ったのを記憶しています。
これが,「風と共に去(い)ぬる」だと,当時の私は「アカン。ダサい。」と思ったかもしれませんね。
<関西弁と標準語の違い>
東京に出てきて,たまたま見たテレビドラマで「貴方が突然去(さ)ってしまうなんて,私どうしたらいいの?」というようなヒロインのセリフを聞いて「去った男は何て薄情な男なんや」と思ったのは,「去る」は「去ぬ」に比べて,永遠の別れを予感させる男側の強い意志を私は感じたからでしょうか。
しばらくして,東京で友達が何人かできた頃,その中でいつも難しい議論を吹っ掛けてくる関東出身の友達が同じ大学の寮にいました。
私が勉強中にその日また何回目か面倒な問いかけだったので「今日はもうええわ。去んでんか?」と私が笑いながら言ったら,その友達はプライドを大きく傷つけられたと感じたのか,それからなかなか口をきいてくれませんでした。
<万葉集では>
さて,万葉集で「去ぬ」はどんな使われ方をしているのでしょうか。今回,まずは仏教思想的な短歌での用例を見てみましょう。

世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし(3-351)
よのなかをなににたとへむ あさびらきこぎいにしふねのあとなきごとし
<<この世を何にたとえようか。朝、漕ぎ出していった舟の跡がすでに残っていないような世の中を>>

これは,有能な官僚から出家し,仏門に入った沙弥満誓が,筑紫で大伴旅人と一緒にいた時に詠んだ和歌の一首です。
一般的に世の中を儚(はかな)んだ暗い歌と解釈が多いようですが,私は次のように解釈します,

過去の栄光や成功にいつまでも浸っていてはいけない。また,前うまくいったやり方でこれからもうまくいくとは限らない。世の中は例えるものがないほど多様で常に変化しているのだから。
今朝は昨日とはもう違うのだ。昨日とは違った新しい世の中に適応していくことが,生きるる道であると。
<現代でも通じる無常観>
かなり飛躍した解釈だと思われるかもしれませんが,仏教の無常観は決して後ろ向きなものではないと私は思います。
世の中は常ではないから,今は辛くてもじっと我慢して待っていればそのうち良いこともあるだろうという「待ち」の考え方ではなく,次のように力強く生きて行くことを無常観は求めていると私は解釈しています。

今は如何に苦しい状況にあったとしても,逃げず創意工夫をして,常に自分を高め,自分自身を変革していくポテンシャルを持ち続け,人のために積極的に行動し,生きて行くことが無常な世界を生き抜く仏に近付く道であると。

仏教に深い造詣があった思われる山上憶良の次の「去ぬ」を使った短歌はまさにその気持ちを表しており,子育てに頑張っておられる方々に贈りたい一首だと私は思います。

すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へどこらに障りぬ(5-899)
すべもなくくるしくあれば いではしりいななとおもへど こらにさやりぬ
<<どうしようもなく苦しいので,この世から逃げ出して去ろうと思うけれど,この子たちがいるからそんな気持ちになることが妨げられる>>

去ぬ(2)に続く。

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