2012年5月27日日曜日

対語シリーズ「拾ふと捨(棄)つ」‥捨てる神あれば拾う神あり


<1神教でない日本のことわざ>
「捨てる神あれば拾う神あり」という有名な諺があります。自分の味方になってくれず遠ざけるしかない人もいれば,自分の味方になってくれて近しい関係になれる人もいるといった意味でしょうか。
すごく苦手な人や話が合わない人がたくさんいても,きっとどこかに自分を理解してくれる誰かがいると信じ,くよくよしないことを諭している諺のようです。
<苦手な人から逃げない>
若い頃の私は苦手な人とは付き合いを避けて(捨てて)いました。年齢を重ねた最近でも,どうしても苦手な人が私にはいます。しかし,今はそういった人を避けるのではなく,普通に付き合おうと努力しています。
当然苦手ですからコミュニケーションが円滑に進まないことが多々ありますが,「もう~。またかよ~?」と心の中で愚痴を言いながらも,我慢して付き合います。それを繰り返していくうちに,苦手意識は無くなるわけではありませんが,結果の悪さも予想の範囲内に収まるようなってきます。
<仲が良くても一定の距離は必要?>
逆に拾う神のコミュニケーションが円滑に進む近しい人には,無理してお互い相手に合わせていないか検証します。もし,仲の良さを維持するためだけに自分の本心と違うことを言っているようだと敢えて考えの違いを強調させることがあります。
当然それをやると今までの親しい関係が崩れるリスクの発生する恐れがありますが,より強いお互いの関係を築くためには避けて通れないものだと私は考えています。
さて,万葉集では「拾」の漢字を当てる和歌は20首余りあります。その多くが万葉仮名でも「拾」という字を当てています。いっぽう,「捨」か「棄」の漢字を当てる和歌は8首のみです。
「拾」は,20首あまりありますが,拾う対象は「玉」「貝」の2種類のみです。「捨」「棄」は,捨(棄)てる対象は「命」「古着」「子供」「我」「破れ薦」です。また「沓を脱ぎ棄てる」という表現もあります。
まず「拾」の和歌を紹介します。「玉を拾う」詠み人知らずの長歌です。

沼名川の底なる玉 求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく惜しも(13-3247)
ぬながはのそこなるたま もとめてえしたまかも ひりひてえしたまかも   あたらしききみがおゆらくをしも
<<沼名川の底にあるという玉。探し求めて得られる玉なのか川底から拾って得られる玉なのか。可愛い君が年をとって老いるのが惜しい>>

沼名川は長野県白馬村から新潟県糸魚川市へ北向し日本海に注ぐ姫川といわれているそうです。その川では昔から翡翠(ヒスイ)の産地のようで,その翡翠はそれを掛けると不老不死になるという評判があった玉のようでした。
その川まで行って,その玉を何とかして探し,年老いて行く最愛の妻に贈っていつまでも若くいてほしいという気持ちが表現されています。拾うはその川のどこかにきっとあるという意味で使ったのだと私は感じます。
次は旅立つとき,家族から綺麗な貝を拾ってお土産に持って帰って欲しいとせがまれ,その貝を拾おうとしている詠み人知らずの短歌(古歌)です。

つともがと乞はば取らせむ貝拾ふ我れを濡らすな沖つ白波(7-1196)
つともがと こはばとらせむ かひひりふ われをぬらすな おきつしらなみ
<<お土産とねだてられたら貝を拾っている私をそう濡らさないで欲しい。沖から寄せてくる白波よ>>

こういった歌が昔に詠まれたとあると当時の人もその地に行ってみたいと思うのではないでしょうか。波は荒いがきっと綺麗な真珠が採れるのではないかと期待して。
さて,次は捨(棄)てる方の歌(山上憶良作)を見てみましょう。

富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも(5-900)
とみひとのいへのこどもの きるみなみくたしすつらむ きぬわたらはも
<<金持ちの家の子は余るほどの着物を持っていて,持ち腐れにしては捨てている。それも綿入りの絹物をだ>>

万葉時代,律令制のよる出世意欲を煽るため,高級官僚と下級官僚との間,さらに農民やそこから駆り出される労働者との間の貧富の格差は非常に大きなものがあったのでしょう。
憶良はそんな世の中を憂い,無駄はやめ,富の再配分により,多数の中間層ができることを願ったのだろうと私は思いたいのです。そうすることで,経済が活性化し,本当の意味で持続的な経済成長が望めると考えたのかもしれません。
最後に,神は自分を捨てても構わない。自分も神を捨てる。その結果命が無くなってしまっても惜しくはないという激しい恋情を詠んだ詠み人知らずの短歌を紹介します。

霊ぢはふ神も我れをば打棄てこそしゑや命の惜しけくもなし(11-2661)
たまぢはふかみもわれをば うつてこそしゑやいのちのをしけくもなし
<<霊力のある神も私を打ち棄ててしまって私の命が無くなっても構わないの>>

この作者の恋の相手は許されない恋人同士になることが許されない関係なのでしょうか。
万葉集には優秀な人材であったが姦通罪で土佐に流罪になった石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)の例が掲載されています。その後の恩赦で流罪が解かれ,最後は従三位中納言まで上り詰めました。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」ですね。
対語シリーズ「手と足」に続く。


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