2012年5月4日金曜日

対語シリーズ「干潮と満潮」‥潮汐,それは生き物への贈り物

日本で潮の干満の差が大きい場所として有名なのはハゼの仲間のムツゴロウで知られる有明海でしょう。大潮の干潮時には6㎞先まで干潟ができるそうです。しかし,フランスのノルマンディ地方にある世界遺産モンサンミシェルが面しているサン・マロ湾は同干潮時には18㎞先まで干潟ができるとのことです。
干潟と言えば何といっても潮干狩りですね。まだ少し先ですが早いところでは3月上旬から潮干狩りができるところがあるようです。潮干狩りは春の季語だそうで,やはり干満の差が一番大きくなる大潮のときが潮干狩りに最適と言われています。大潮の干潮では,大潮以外の干潮では海底だった部分が潟として直接外気に触れる場所が出てきます。そこに住んでいる貝は大潮の干潮以外は海の底ですから,鳥などに食べられる危険性が少ないため,たくさんの貝が生息している可能性が高いことになります。
太古から干潟が貝や小さなカニなどの宝庫であることを知っていたのは鳥たちでしょう。

奈呉の海に潮の早干ばあさりしに出でむと鶴は今ぞ鳴くなる(18-4034)
なごのうみにしほのはやひば あさりしにいでむとたづは いまぞなくなる
<<奈呉の海で潮が引き始めたすぐに餌をあさりに出ようと鶴は今やしきりに鳴いています>>

この万葉集にでてくる短歌は,天平20(748)年3月23日大伴家持が越中に赴任中,左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の使者田邊福麻呂(たなべのさきまろ)が越中の家持邸を訪れた宴で詠んだとされています。福麻呂には,よほど餌が獲れるとうるさく鳴いているように感じたのでしょうね。
さて,万葉時代から大潮や小潮と月の満ち欠けに有意な相関があることを知っていたのだろうと次の有名な額田王の短歌でもわかります。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)
にぎたつにふなのりせむと つきまてばしほもかなひぬ いまはこぎいでな
<<熟田津から船に乗って出発しょうと月を待っていたが,潮の具合が出航ができる状況になってきた。今こそ漕ぎ出しましょう>>

待っている月は満月であり,満月のとき(新月のともそうですが)は大潮です。大潮のときの満潮時に船を出し,強い引き潮を利用して外海に出るのに適していたのでしょう。
潮が満ちることと船の到来の関係を大伴家持が越中で詠んだ短歌をもう一つ紹介します。

沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ(18-4045)
おきへよりみちくるしほのいやましに あがもふきみがみふねかもかれ
<<沖の方から満ちてくる潮がいよいよ海の水が増えて行くようにだんだん近づいて大きく見えるあの船は私が慕う貴方の船だろうか>>

これも当時満ち潮に合わせて船を沿岸に近づける操船が行われていたことを示すものだと私は想像します。
次に干潮を詠んだ詠み人知らずの旋頭歌を紹介します。
この歌は万葉集の中でも思想的にかなり深い意味が込められている1首だと私が感ずるものです。

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ(16-3852)
いさなとりうみやしにするやまやしにする しぬれこそうみはしほひてやまはかれすれ
<<海も死ぬのか。山も死ぬのか。そう,海も山も死ぬからこそ海は干潮になり,山は冬枯れになる>>

わざと似た訳にしませんでしたが,この訳で思い出した人もいるかもしれません。
そう,さだまさしの「防人の詩」(映画「二百三高地」の主題歌)の歌詞「~ ♪海は死に~ま~すか 山は死に~ま~すか ~」です。
3852の旋頭歌は万葉時代の防人が詠んだのではなさそうですが,世の無常さ,人の命はかなさを知った人(仏教の深い知識を持った人)が詠んだ歌でしょう。
ところで,Wikipediaでは,さだはこの旋頭歌を意識して「防人の詩」の歌詞をつくったのだろうされています。
<激動の社会をしたたかに生き抜くには>
この旋頭歌の作者は万葉時代,飢饉,疫病,火災,風水害,地震などで多くの人が死んでいったり,苦しんだりしているのを見て,そういったことの原因は人間など生き物の宿命なのかという問いに対して,ノーと答えているのだろうと思います。
生き物でない海だって,山だって死ぬのだ,潮が引いて海の一部がでなくなったり,山が雪に覆われてしまい死んだようになったりするではないかと言っているのです。そして作者はこの旋頭歌の内容を受け入れるとしたら次はどう考えればよいか「考えなさい」と問いかけていると私は思うのです。
一見命を持たないと思われる自然も死んだように見えることがあるが,しばらく経ったら元の姿(潮が満ちて元の海,春が来て生き生きとした山の姿)に戻る。
だから,人の命も人の不幸もやがて生まれ変わることができ(輪廻転生<りんねてんしょう>),また生きるなかで不幸や苦悩から脱することができる(煩悩即菩提<ぼんのうそくぼだい>)ことを示したかったと私は感じます。
私もそのうちの一人ですが,今悩ましいことだらけで,つらく苦しい思いがいつまでたっても無くならないと感じている人も多いかもしれません。
私はこの旋頭歌が今や過去の苦労や不幸ばかりにとらわれることなく,前向きに生きて行くことよって,良い方に向かっていくことを示してくれているように感じます。
いずれにしても潮汐の変化をうまく利用してしたたかに生きている生き物は少なくないと思います。
変化の激しい現代社会,その変化の先を見極めて,したたかに生き抜くことこそが未来の世代に対する私たちの責任ではないでしょうか。
対語シリーズ「明と暗」に続く。

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