2012年5月11日金曜日

私の接した歌枕(16:三輪山)

この季節,奈良盆地を囲む山々が新緑の時期を迎えます。 奈良には何度も行っていますが,そんなにいろいろな場所に行っているわけではありません。 やはり,よく行くのは奈良市内と明日香ですが,大和古道の一つ山の辺の道も1~2度行っています。
 山の辺の道は天理市から奈良盆地の東側の山に沿って南の方に延びている古道です。 南の端に三輪(みわ)山があります。 万葉集では,三輪山,三輪の山,三諸(みもろ)の山と表現しています。 次は額田王が三輪山を詠んだ有名な短歌です。三輪山を望むあちこちにこの歌の歌碑が立っています。 

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(1-18)
 <みわやまをしかもかくすか くもだにもこころあらなも かくさふべしや
<<三輪山をそんなふうに隠すのか。せめて雲だけでも情けがあってほしい。隠すなんてことがあってよいのだろうか>> 

この短歌は,天智天皇飛鳥を離れ,滋賀県大津に京を移すことを決め,飛鳥を離れる時に詠んだとされるものです。 私は万葉集が歌物語と考えるとストーリの始まりは大津京遷都のような気がします。 もちろん,それ以前和歌も載っていますが,それはストーリ開始以前の思い出として出てくる和歌の位置づけでしかないように思うのです。
 大津京遷都の後,天智天皇が亡くなり,壬申の乱,京は飛鳥に戻ります。天武天皇持統天皇と続く天武系の天皇が治める時代(奈良時代中期まで)を万葉集はさまざさまな歌人を通して物語ります。 まさに天皇から下級官僚,名も無い庶民,防人に至るまでです。
そして,その物語のシナリオにそって和歌を集め,万葉集を編纂したのはやはり大伴家持であることは間違いないと思います。
 なお,次の短歌(1首目は丹波大女娘子の短歌,2首目は柿本人麻呂歌集にあったという詠み人知らずの短歌)から三輪山には万葉時代から杉や桧の森林が発達していたと想像できます。

 味酒を三輪の祝がいはふ杉手触れし罪か君に逢ひかたき(4-712)
 <うまさけをみわのはふりが いはふすぎてふれしつみか きみにあひかたき
 <<三輪の神に仕えるものたちが大切に祀っている大杉に手を触れた罪なのか。君に逢うことがむずかしいのは>>

 いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の桧原にかざし折りけむ(7-1118)
いにしへにありけむひとも わがごとかみわのひはらに かざしをりけむ
<<昔に暮らしていた人も,今の私たちのように三輪の桧原で小枝を折って髪に挿したのでしょうか>>

 万葉時代から,山の樹木(特にスギやヒノキの常緑樹)は人に霊気や癒しを与えるものと考えられたのでしょう。 そのため,神体とあがめられた三輪山も樹木で埋め尽くされ,各地の神社にも鎮守の杜(もり)が作られ,霊験新たかな場所のイメージを演出してきたのかも知れません。 今で言えば,森林浴のフィトンチッド(針葉樹に多く含まれているという)の癒し効果を人々は昔から何となく感じていたのかも知れませんね。
また,三輪は素麺で有名ですが,地元産は結構いい値段です。そこで,私は三輪素麺の切れ端である「ふし」を買って,自宅のお土産にします。 近いうちに再び山の辺の道を散策し,三輪山を眺めてみたいと考えています。
 私の接した歌枕(17:丹波)に続く。

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