2012年5月21日月曜日

私の接した歌枕(18:葛飾)

<結婚後の住まい>
私は妻と結婚するにあたり,それまで住んでいた独身用アパートから夫婦で生活をするための住まいを探しました。その結果,空き家が出るのを待たなくても入れるという埼玉県北葛飾郡(当時)にある公団(現UR)賃貸住宅に住むことにしました。
妻の実家(茨城県古河市)から比較的近い場所(車で40分)でした。勤務先(東京多摩地域)に通うのは多少時間が掛かりますが,武蔵野線で乗り換えなしで行けることから選びました。また,江戸川が近く,河川敷ゴルフ場や船橋や取手など近辺のゴルフ場にゴルフ仲間とゴルフに行く機会もかなり増えました。
ただ,入居した公団住宅の棟は敷地のもっとも北端で,駅からもっとも遠い場所でした。我が家の棟の北側は一面の稲田で,夏には牛ガエルの鳴声が大きく響き渡るような田舎でした。我が家(5階)の北側の部屋からの眺めは結構古い昔の農村風景を感じさせるような光景でした。

さて,万葉時代の葛飾について考えます。万葉時代の葛飾は,千葉東京埼玉にまたがる大きな地域だったようです。川の氾濫で住まいが水没する危険はありましたが,川の恵を受ける風光明媚な水郷地帯だったのだろうと思います。
川魚(ウナギ,ナマズ,ドジョウ,コイ,フナなど)は豊富に捕れ,稲作や畑作にも適していました(山は少なく開墾が楽だったようです)。レンコン,セリ,ジュンサイ,フキ,アサツキ,ミツバ,マコモ,ヒシ,ガマ,クワイなど沼地で採れる食用,薬用の植物が豊富だったと考えられます。
海に面している地域もあるため,もちろん海の幸(魚介類)も豊富に収穫できたのでしょう。
万葉集で葛飾を詠った歌のほとんどが次の高橋虫麻呂歌集に出てくる短歌のように真間の井(ままのゐ)の場所でいつも水汲みをしていた手児名(てこな)伝説をモチーフに詠んだ歌です。

勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ(9-1808)
かつしかのままのゐみれば たちならしみづくましけむ てごなしおもほゆ
<<葛飾の真間の井戸を見るといつもここで水を汲んだという手児名のことが思い起こされます>>

手児名伝説とは,手児名と呼ばれた娘が昔いて,その美貌のため,真間の井に水汲みに来る時は多くの男達がやってきて,言い寄ったのです。その中で二人の男が手児名を求めて争ったのですが,その激しさに手児名は戸惑い,耐えられずついに海に身を投げて自殺したというものです。
ちなみに高橋虫麻呂歌集から万葉集に転載した歌には,各地の伝説が多く載せられています。
もしかしたら,高橋虫麻呂歌集は旅行ガイドブックのような目的で編まれたのではないかと思いたくなるほどです。
そして,もう一人,万葉集で旅行評論家のような有名な歌人がいます。そうです。その歌人は山部赤人です。赤人も真間の井を詠んでいます。次はそれを詠んだ長歌に対する反歌2首です。

我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ(3-432)
われもみつひとにもつげむ かつしかのままのてごなが おくつきところ
<<私もここまできて見た。そのことを人に告げよう。葛飾の真間の手児名の塚のあるところを>>

葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ(3-433)
かつしかのままのいりえに うちなびくたまもかりけむ てごなしおもほゆ
<<葛飾の真間の入江で揺れる海藻を採っていた手児名がどんなに可愛かった想像してみよう>>

こういった,男が自分のために激しく争う姿を見かねて自殺してしまう伝説は他の地方にもあります。例えば,兵庫県神戸市東部に伝わる菟原処女(うなゐをとめ)伝説です。
この類の伝説は,無用な争いをすればすべてを無くしてしまい,悲劇を呼ぶことを諭したものと私は考えます。
当時,各地にある伝説の地を訪れる旅を企画したエージェントのような組織があったのではないでしょうか。赤人や虫麻呂歌集の和歌を披露し,旅への誘いをして,参加者から代金を徴収し,旅の手配やガイド(赤人,虫麻呂もそうだったかも?)を同行させるようなビジネスだったかも知れません。
もし,万葉時代にこのようなビジネスが成り立っていたとしたら,万葉時代は私たちが考える以上にサービス産業が活性化した時代だったという視点で見直す必要がある気がします。
さて,これで遅くなりましたが,今回のゴールデンウィーク特集は終り,次回から対語シリーズに戻ります。
対語シリーズ「拾ふと捨(棄)つ」に続く。

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