2011年6月21日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…住む(3:まとめ)

<東日本大震災の被害の甚大さがやっと見えてきた>
2011年3月11日は東日本大震災(大地震と大津波)が多くの尊い命と,さらに多くの人々の住む場所を奪ってしまった日でした。
住む場所を奪われた方々の今なお続く避難生活や仮住まいの状況をテレビのニュースやインターネットで目の当りにすると,いかに住む家の存在自体が貴重なものであったかを身にしみて感じさせてくれます。
その後発生した電力不安は今も続き,これまでの安寧(あんねい)がいつ奪われてしまうか分からない(いつまでも豊かで平和であるとは限らない)ことを今回の大災害が改めて教えてくれたのではないでしょうか。
私は仏教についてごく浅い知識しか持っていませんが,仏教が説く無常(一切のものは生滅・変化して常住<じょうじゅう>のものはない)観がまさに今の日本にとって現実のものとなっているようにも思えます。
<万葉集の仏教感>
万葉集には,当時中国(唐)などから入ってきた斬新な仏教の教えにあるそのような無常観を前提に詠んだと思われる短歌が出てきます。

世間の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも(16-3850)
よのなかのしげきかりほにすみすみて いたらむくにのたづきしらずも
<<この世の中のわずらわしい仮の住みかに長く住んで,いずれ行くあの世とやらがどんなものかも私にはわからない>>

この短歌は,河原寺(かわはらでら)の仏堂の裏に置かれていた琴に書いてあったと左注に書かれていますので,僧侶が琴を使ってこの内容を唄うように伝えたのかも知れません。
この短歌はさまざまな仏教の経典によって,解釈がいろいろできるかも知れませんが,私なりに解釈すると次のようになります。

私達が喧騒のこの世の中で住んでいる家は仮の庵(いおり)のようなものである(常住ではなく,いつ無くなるかも知れない)。
そんな無常な世の中を穢土(えど。けがれた場所)であると諦め,今はひたすら経文を唱え我慢して住み続けても,あの世に行ったとき西方浄土(さいほうじょうど)がどんなに極楽な場所なのか分からない。
やっぱり,仮庵と言われようが穢土と言われようが,この世の中では仏教の教えに帰依し,自らを高め,積極的に行動して住み続けて行くことしかない。


ところで,人々が苦しい暮らしの中でも前向きに生きようという気持ちを支えてくれる大きな力の一つに家族があるのではないでしょうか。

家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも(20-4419)
いはろにはあしふたけども すみよけをつくしにいたりて こふしけもはも
<<家では葦火を焚いていたけれど住みよかったなあ。筑紫に着いても家を恋しく思うだろうなあ>>

この短歌(防人歌)は,防人として武蔵の国から来た物部真根(もののべのまね)という人が家族あてに贈ったものとされています。
葦火(あしふ)とは,葦を燃料としたものです。炭に比べて火持ちが悪く,火をコントロールするのには小まめに燃料をくべたりする必要があるため,いつも火の周りについていなければなりません。
炭を買えず,葦火で我慢しなければならないような貧しい暮らしでも「住みよかった」と感じるのは,家族がいるからなのでしょう。
この防人の歌には,真根の妻からの愛情に満ち溢れた返歌までもが万葉集に載っています。

草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し(20-4420)
<くさまくら たびのまるねの ひもたえば あがてとつけろ これのはるもし
<<道中,着衣のまま寝ているうちに着物の紐が切れてしまったなら,わたしの手だと思って,この針を使ってね>>

この夫婦のやり取りに私は感動するのは,私が家族の絆の価値に重きを置くからであり,「自分の好きなことができれば家族がいなくても良い」という考え方にどうしても賛成できないからなのかも知れません。
もちろん,家族を構成しようと努力した結果として,どうしても独身で暮らすことになる人はいると思います。
でも,その人は家族を構成しようとして精一杯努力した人ですから,家族の絆の価値を感じない人ではありません。その価値を感じる人はたとえ独身でも「住む」地域の絆を大切にする人のはずです。
いっぽう,気楽な生き方をしたいがためだけ,趣味や仕事を絶対に犠牲したなくないがためだけで,最初から「結婚しない」,「子供は作らない」という考え方の人は家族や「住む] 」地域の絆の価値を感じたり,共有したりすることができるのでしょうか。
<世の中は度し難いことだらけ?
世の中には度し難いことがたくさんあります。貧富の差,世代間の格差,政治や行政の怠慢,倫理観の欠如,利己主義,地域エゴ,その場主義など,この世の中嫌なことだらけで,この世の中をまさに穢土そのものと感じ,衣食住で自分が満足できる状況に無いと感ずる方々は多いのかも知れません。
それでも世の中や自分を儚(はかな)んだり,諦(あきら)めたりしてはならないと私は思います。
穢土の中に「住み」,困難に打ち勝とう,自分の状況(仏教では「境界(きょうがい)」といいます)を少しずつでも高めようと前向きに生きて行く姿こそが,実は人として真の幸せな状態だと私は思いたいのです。

さて,そろそろ七夕が近づいてきましたので,動きの詞シリーズは小休止して,次回から3回に渡り「天の川君」特集ではなく「天の川」特集をお送りします。
天の川(1)に続く。

0 件のコメント:

コメントを投稿