2011年5月27日金曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…恋ふ(3)


<台湾旅行>
今,私はプライベートの観光で台北に来ています。このブログも台北のホテルから投稿しています。天の川君はもちろん連れてきていません。
台北は梅雨シーズンで,羽田を発つときの予報では雨の日ばかりでした。台風も近付いていて台北での散策ができるか心配でした。現地に着いて見ると,晴れている時間が大半で,さらに真夏の暑さはまだ来ておらず,思った以上に過ごしやすい気候で,故宮博物院(上は今回私が撮った写真です)などさまざまなところを廻れています。
それにしても,台北の人達にとっては肌寒いと感じる人もいるらしく,長袖の人の方が多かっただけでなく,カーディガンやジャケットを羽織っている人が普通にいたのに少し驚きました。
<「恋しい」と「死にそう」
さて,ブログのテーマに戻りましょう。「死ぬほど恋している」とか「恋いする苦しさで死にそうだ」とか「私の恋が死んでしまった」というように,恋と死が揃って出てくる表現を日本人はすることがあります。
万葉集でも,恋と死が揃って出てくる表現が40首を超える和歌で出てきます。

朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋ひわたるかも(4-599)
あさぎりのおほにあひみしひとゆゑに いのちしぬべくこひわたるかも
<<朝霧の中で見たようにぼんやりと見ただけの人なのに私は生命が絶たれ死ぬほどに恋しているのよ>>

この短歌は大伴家持に対する情熱的な恋の短歌を多く残した情熱の歌人笠女郎が24首まとめて家持に贈った短歌の1首です。
「貴方とはぼんやりと見ただけ」という表現は,なかなか逢ってくれない家持を示しているのだと私は思います。
それでも「死ぬほど恋している」自分の状況を本当にそのままストレートに訴えているのです。
そこまでストレートに恋する気持ちを表現する女性は,日本で「はしたない」という評価がその当時から既にあったのか無かったのか興味がありますね。
笠女郎はこの一つ前の短歌では,恋で人間が死ぬことがあるらしい,私はその方向に進んでいるのでは?という次の歌を送っています。

恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我れ痩す月に日に異に(4-598)
こひにもぞひとはしにする みなせがはしたゆわれやす つきにひにけに
<<恋によっても人間は死ぬことがあるといいます。貴方にお目に掛かれない(見無せ川)状況の下で私は恋の病で日に日に痩せて行きます>>

この2首は「貴方(家持)様がもう少しお会いしてくだされは,私の恋の病も快方に向かうかもしれない」という願いが込められていると私は思います。
さて,笠女郎からこんな情熱的な短歌を多数贈られた家持はというと,そっけない短歌を少しだけ返すだけでした。
ところが,家持は将来自分の正妻となる坂上大嬢に対して次のような「恋ふ」と「死ぬ」を入れた短歌を贈っています。

夢にだに見えばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか(4-749)
いめにだに みえばこそあれ かくばかり みえずてあるは こひてしねとか
<<せめて夢にでも姿を見せて欲しいのに,このように姿を見ることが出来ないのは恋の思いで死ねという事でしょうか>>

笠女郎は大伴家持を死ぬほど恋い慕い,大伴家持は坂上大嬢を死ぬほど恋い慕う。人が人を「恋ふ」ことは本当に難しいものですね。
相手の「恋ふ」対象が自分だけなのか?その「恋ふ」強さは無くなっていないか?という心配が,「恋ふ」を「死ぬ」ような苦しさに至るのかも知れませんね。
恋ふ(4)に続く。

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