今日後わずかで2014年も終わります。今月5本の投稿を目標としていましたので,急いで投稿をしなければなりません。そんなことで,今回も解説は最小限にして,「照る」を詠んだ万葉集の歌の中で,前3回で紹介できなかった「照る」の対象を詠んだものを見ていきます。
最初は長屋王(ながやのおほきみ)が「もみじが照る」を詠んだ短歌です。秋のもみじの歌です。
味酒三輪のはふりの山照らす秋の黄葉の散らまく惜しも(8-1517)
<うまさけみわのはふりの やまてらすあきのもみちの ちらまくをしも>
<<三輪神社のご神体である山を照らすほど色づいた秋のもみじが散ってしまうのが惜しい>>
次は「天の川」が照ることを詠んだ詠み人知らず(但し,柿本人麻呂歌集から)の短歌です。
天の川水さへに照る舟泊てて舟なる人は妹と見えきや(10-1996)
<あまのがはみづさへにてる ふねはててふねなるひとは いもとみえきや>
<<天の川はその水も照り輝いている。舟は泊り場に着いた。舟人(牽牛)は恋人(織姫)と逢っただろうか>>
次は「玉が照る」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
大海の水底照らし沈く玉斎ひて採らむ風な吹きそね(7-1319)
<おほうみのみなそこてらし しづくたまいはひてとらむ かぜなふきそね>
<<大海の底を照らしている玉を取るつもりだ。海をつかさどる神に祈りるから風は吹くなよ>>
最後は「山橘の実が照る」を詠んだ大伴家持の短歌です。
この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む(19-4226)
<このゆきのけのこるときに いざゆかなやまたちばなの みのてるもみむ>
<<この雪が消えてしまわないうちに、さあ行きましょう。山橘の実が熟れて美しく照り生えているのを見に>>
これで,4回に渡って投稿してきました「照る」を締めくくります。
この1年を振り返ってみますと,結構さまざまな経験を積みました。新しい出会いがあり,寂しい別れもありました。
読者の皆さん,途中長い中断があれましたが,1年間本ブログのご愛読ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。
2015新年スペシャル(1)に続く。
2014年12月31日水曜日
2014年12月30日火曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3) 花や実は我々の心を明るく照らす?
<年末の我が家>
あっという間に年末近くになりました。庭の木の剪定と落ち葉掃除は終わりましたが,部屋は一向に片付きません。年越のゴミはかなりまた出そうです。そのためか妻はイライラしています。
3匹の我が家の猫はホットカーペットの上でおとなし寝ているのがほとんどですが,相変わらず大飯食らいです。
この前買った焼酎「天の川」はあっという間に飲んでしまいました。
私は,一昨日からスポーツジムに通い始めました。ジムで体脂肪を測ったら体脂肪がめちゃくちゃ増えていました。ショックでしたが,これでジムに通い続けられそうです。
ジムの体脂肪計は最初はワザと高く出るようにしているなんて疑いません。身体のためにそうしてくれているのかもしれませんから。今日は2回目で,ジムの女性コーチが私専用のトレーニングメニューを作ってくれるとのこと。これからいそいそと準備して通うことになりそうです。
と,こんな年末を過ごしていて,休日ですが,ブログがなかなか書けません。
<やっと本題>
さて,今回は「花が照る」「植物の実が照る」という表現で万葉集で見ていきましょうか。
分かりやすい短歌ばかりを選びましたので,解説はほとんどなしで,紹介のみしていきます。
先ず「桜」の花から行きましょう。詠み人知らずの短歌です。
あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも(10-1864)
<あしひきのやまのまてらす さくらばな このはるさめにちりゆかむかも>
<<山のきわを照らしている(映えさせている)桜の花がこの春雨で散ってゆくのだなあ>>
次は「桃」の花です。巻19の冒頭を飾る大伴家持作の有名な短歌です。
春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)
<はるのそのくれなゐにほふ もものはな したでるみちにいでたつをとめ>
<<春の庭で紅色に美しく色づいている桃の花。それが照らす下にいる乙女(がさらに美しい)>>
最後は「橘」の熟した実です。藤原八束(ふぢはらのやつか)が新嘗祭(にひなめのまつり)の宴席で詠んだ短歌です。
島山に照れる橘うずに刺し仕へまつるは卿大夫たち(19-4276)
<しまやまにてれるたちばな うずにさしつかへまつるは まへつきみたち>
<<庭園の池の島山に照り輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えするは,大君の御前の多くの官人たちであるよ>>
ところで,中国語でハナミズキのことを「四照花」と書くそうです。
日本では「花が照る」という表現は現代ではあまり使わなくなったようですが,中国では今も健在なのかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(4:まとめ)に続く。
あっという間に年末近くになりました。庭の木の剪定と落ち葉掃除は終わりましたが,部屋は一向に片付きません。年越のゴミはかなりまた出そうです。そのためか妻はイライラしています。
3匹の我が家の猫はホットカーペットの上でおとなし寝ているのがほとんどですが,相変わらず大飯食らいです。
この前買った焼酎「天の川」はあっという間に飲んでしまいました。
私は,一昨日からスポーツジムに通い始めました。ジムで体脂肪を測ったら体脂肪がめちゃくちゃ増えていました。ショックでしたが,これでジムに通い続けられそうです。
ジムの体脂肪計は最初はワザと高く出るようにしているなんて疑いません。身体のためにそうしてくれているのかもしれませんから。今日は2回目で,ジムの女性コーチが私専用のトレーニングメニューを作ってくれるとのこと。これからいそいそと準備して通うことになりそうです。
と,こんな年末を過ごしていて,休日ですが,ブログがなかなか書けません。
<やっと本題>
さて,今回は「花が照る」「植物の実が照る」という表現で万葉集で見ていきましょうか。
分かりやすい短歌ばかりを選びましたので,解説はほとんどなしで,紹介のみしていきます。
先ず「桜」の花から行きましょう。詠み人知らずの短歌です。
あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも(10-1864)
<あしひきのやまのまてらす さくらばな このはるさめにちりゆかむかも>
<<山のきわを照らしている(映えさせている)桜の花がこの春雨で散ってゆくのだなあ>>
次は「桃」の花です。巻19の冒頭を飾る大伴家持作の有名な短歌です。
春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)
<はるのそのくれなゐにほふ もものはな したでるみちにいでたつをとめ>
<<春の庭で紅色に美しく色づいている桃の花。それが照らす下にいる乙女(がさらに美しい)>>
最後は「橘」の熟した実です。藤原八束(ふぢはらのやつか)が新嘗祭(にひなめのまつり)の宴席で詠んだ短歌です。
島山に照れる橘うずに刺し仕へまつるは卿大夫たち(19-4276)
<しまやまにてれるたちばな うずにさしつかへまつるは まへつきみたち>
<<庭園の池の島山に照り輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えするは,大君の御前の多くの官人たちであるよ>>
ところで,中国語でハナミズキのことを「四照花」と書くそうです。
日本では「花が照る」という表現は現代ではあまり使わなくなったようですが,中国では今も健在なのかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(4:まとめ)に続く。
2014年12月21日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2) ♪照る照る坊主,照る坊主。♪雨,雨,降れ,降れ。
<転職先は自分に合っていた>
今月転職したばかりの新しい職場にも,かなり慣れてきました。やはり,求められるいる技術とマッチ度が高いと職場に居場所ができるのに時間をあまり必要としないことを改めて感じられ,不安感はほぼなくなりました。
16日は新職場での最初の給料が振り込まれ,翌々日には長崎県壱岐の麦焼酎「天の川 壱岐づくし 3年古酒」(写真)を成城石井で奮発して買いました。
今晩,連れの天の川君にも,たまには私が飲ませてあげようと一緒に飲むつもりです。
天の川 「もう~,たびとは~ん。早よ飲もうな~。何でそんなに焦らすねん。」
いやいや,天の川君,22日は19年ぶりの朔旦冬至(さくたんとうじ)だから,その前夜をこの焼酎で祝おうということにしたのだよ。朔旦冬至とはね,...
天の川 「そんなこと知らんでかい。19年一度,冬至に八朔(はっさく)と文旦(ぶんたん)を食べてやな,寒い冬でも風邪ひかんようにお呪いする日やんか。どや。」
間違った知識で天の川君の「どや顔」を見せられてもね。19年に一度,冬至と新月が重なる日が朔旦冬至。これから日が長くなっていく,そして同じように新しい月も最初から満ちていく。そんな意味で心が改まる冬至の日と考える人もいるようだね。
<本題>
さて,天の川君にいまさら教養を深めてもらっても仕方がないので,本題に入りましょう。今回は,「照る」の2回目で,現代の私たちにとって最も身近な「日が照る」を万葉集で見ていきます。
最初の1首は,柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が草壁皇子の死を悼んで詠んだとされる挽歌(長歌)の反歌を紹介します。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)
<あかねさすひはてらせれど ぬばたまのよわたるつきの かくらくをしも>
<<日の光はいつも照らすけれども,夜を渡る月が欠けてしまうようにお隠れになってしまわれたことが惜しまれる>>
人麻呂にとって,太陽の照らす力は満ち欠けすることはない(日蝕以外)。しかし,月には満ち欠けがあり,その照らす力は人の命のように果かないものである象徴だったのかもしれませんね。
次は,真夏の強烈な日の光に照らされることをイメージした詠み人知らずの短歌です。
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)
<みなづきのつちさへさけて てるひにもわがそでひめや きみにあはずして>
<<六月の地面が裂けてしまうほど照る日光に干しても,(涙に濡れた)私の袖が乾くことがないのです。あなたに逢わないので>>
旧暦の6月は新暦ではだいたい7月ですから,田んぼの土も干上がって,ひび割れた状態になります。そんな強烈な日光でも恋が成就しないために流す涙の多さで,涙を拭う袖を乾かせない,作者の気持ちが伝わってきます。
次は,日照りで雨乞いをしたくなるほど相手の来訪を待ち望む気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌・女歌)です。
金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも(14-3561)
<かなとだをあらがきまゆみ ひがとればあめをまとのす きみをとまとも>
<<我が家の門近くの田に荒垣で身を清めて日照りに対して雨を強く待ちたくなるように,あなた様が来られるのを心待ちにしております>>
家の近くにある門田には,自分の家の田であることを示すためや動物に荒らされないようにするため,荒垣(生垣)を植えていたのでしょう。
しかし,日照りが続くと生垣が枯れてしまう恐れがあり,身を清めて雨乞いの祈りをする気持ちが強くなります。このまま,あなた様が来てくださらないと,私の身体は干ばつの生垣のように,枯れてしまうようだと作者は訴えたいのでしょうね。
最後は,自身の孤独感を詠んだことでよく知られている大伴家持の短歌です。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらにてれるはるひに ひばりあがりこころかなしも ひとりしおもへば>
<<うららかな春の日に雲雀が上空を飛んでいる。でも,(のどかな気持ちになれずに)うら悲しい。今自分一人であることを思うと>>
家持の孤独感の原因が何か,いろいろな説があるようですが,私は越中赴任から帰任して,中央政府の中の力関係に順応することへの難しさからくるものも一つにはあったような気がします。
<私の経験に当てはめる>
私が勤めていた会社で,新入社員から15年以上,三多摩方面の事業所で働いていた後,そこでの成果を認められ,新宿区の本社技術スタッフとして配属されたことがありました。しかし,私はその後何年も本社勤めの役員や管理職とのコミュニケーションがうまく行かずに悩んだ時期が続きました。
事業所で「成果を出したやつのお手並み拝見」といった非協力的な周囲に対して,どう協力を取りつけるかに,回答が出せないとき,この家持の孤独感に共感する気持ちが表れてきました。
その後,その時悩んだ経験がさまざまな場面で協力を取り付けるスキルの向上に役立ったのは事実かもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3)に続く。
今月転職したばかりの新しい職場にも,かなり慣れてきました。やはり,求められるいる技術とマッチ度が高いと職場に居場所ができるのに時間をあまり必要としないことを改めて感じられ,不安感はほぼなくなりました。
16日は新職場での最初の給料が振り込まれ,翌々日には長崎県壱岐の麦焼酎「天の川 壱岐づくし 3年古酒」(写真)を成城石井で奮発して買いました。
今晩,連れの天の川君にも,たまには私が飲ませてあげようと一緒に飲むつもりです。
天の川 「もう~,たびとは~ん。早よ飲もうな~。何でそんなに焦らすねん。」
いやいや,天の川君,22日は19年ぶりの朔旦冬至(さくたんとうじ)だから,その前夜をこの焼酎で祝おうということにしたのだよ。朔旦冬至とはね,...
天の川 「そんなこと知らんでかい。19年一度,冬至に八朔(はっさく)と文旦(ぶんたん)を食べてやな,寒い冬でも風邪ひかんようにお呪いする日やんか。どや。」
間違った知識で天の川君の「どや顔」を見せられてもね。19年に一度,冬至と新月が重なる日が朔旦冬至。これから日が長くなっていく,そして同じように新しい月も最初から満ちていく。そんな意味で心が改まる冬至の日と考える人もいるようだね。
<本題>
さて,天の川君にいまさら教養を深めてもらっても仕方がないので,本題に入りましょう。今回は,「照る」の2回目で,現代の私たちにとって最も身近な「日が照る」を万葉集で見ていきます。
最初の1首は,柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が草壁皇子の死を悼んで詠んだとされる挽歌(長歌)の反歌を紹介します。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)
<あかねさすひはてらせれど ぬばたまのよわたるつきの かくらくをしも>
<<日の光はいつも照らすけれども,夜を渡る月が欠けてしまうようにお隠れになってしまわれたことが惜しまれる>>
人麻呂にとって,太陽の照らす力は満ち欠けすることはない(日蝕以外)。しかし,月には満ち欠けがあり,その照らす力は人の命のように果かないものである象徴だったのかもしれませんね。
次は,真夏の強烈な日の光に照らされることをイメージした詠み人知らずの短歌です。
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)
<みなづきのつちさへさけて てるひにもわがそでひめや きみにあはずして>
<<六月の地面が裂けてしまうほど照る日光に干しても,(涙に濡れた)私の袖が乾くことがないのです。あなたに逢わないので>>
旧暦の6月は新暦ではだいたい7月ですから,田んぼの土も干上がって,ひび割れた状態になります。そんな強烈な日光でも恋が成就しないために流す涙の多さで,涙を拭う袖を乾かせない,作者の気持ちが伝わってきます。
次は,日照りで雨乞いをしたくなるほど相手の来訪を待ち望む気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌・女歌)です。
金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも(14-3561)
<かなとだをあらがきまゆみ ひがとればあめをまとのす きみをとまとも>
<<我が家の門近くの田に荒垣で身を清めて日照りに対して雨を強く待ちたくなるように,あなた様が来られるのを心待ちにしております>>
家の近くにある門田には,自分の家の田であることを示すためや動物に荒らされないようにするため,荒垣(生垣)を植えていたのでしょう。
しかし,日照りが続くと生垣が枯れてしまう恐れがあり,身を清めて雨乞いの祈りをする気持ちが強くなります。このまま,あなた様が来てくださらないと,私の身体は干ばつの生垣のように,枯れてしまうようだと作者は訴えたいのでしょうね。
最後は,自身の孤独感を詠んだことでよく知られている大伴家持の短歌です。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらにてれるはるひに ひばりあがりこころかなしも ひとりしおもへば>
<<うららかな春の日に雲雀が上空を飛んでいる。でも,(のどかな気持ちになれずに)うら悲しい。今自分一人であることを思うと>>
家持の孤独感の原因が何か,いろいろな説があるようですが,私は越中赴任から帰任して,中央政府の中の力関係に順応することへの難しさからくるものも一つにはあったような気がします。
<私の経験に当てはめる>
私が勤めていた会社で,新入社員から15年以上,三多摩方面の事業所で働いていた後,そこでの成果を認められ,新宿区の本社技術スタッフとして配属されたことがありました。しかし,私はその後何年も本社勤めの役員や管理職とのコミュニケーションがうまく行かずに悩んだ時期が続きました。
事業所で「成果を出したやつのお手並み拝見」といった非協力的な周囲に対して,どう協力を取りつけるかに,回答が出せないとき,この家持の孤独感に共感する気持ちが表れてきました。
その後,その時悩んだ経験がさまざまな場面で協力を取り付けるスキルの向上に役立ったのは事実かもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3)に続く。
2014年12月14日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1) 万葉時代,月夜は今よりもっと明るかった?
<転職して2週間。一番苦しいところ>
新しい職場に勤務を開始して2週間。やっと,周りの仕事の内容が見えてきたところです。
以前にも述べましたが,私が専門としている稼働中ソフトウェアの保守開発の仕事は「たかがちょっとした修正でしょ」といった簡単なものではありません。
対象コンピュータシステムに搭載されたソフトウェアがどのようなことを重視して初期開発されたのか,その後どのような問題に遭遇し,どのような改修をされてきたのかなどの経緯が分からないと,コスト的,将来的,緊急対応度,対応困難度,対応影響範囲などの観点から,最適な対応(改修)方法を導き出すのが簡単にはできないのです。
対象システムが大規模なため,現状を理解するだけでなく,そういった今までの経緯を含めて完全に理解をするのは,まだまた時間が必要です。
しかし,すべてが理解できていなくても課題の解決を行いながら理解を深めていくことも現実的な対応で,限られた情報しかなくても最適な対応方法を素早く見つける技もプロフェッショナルとして必要な技量かもしれません。
<本題>
さて,近況はそのくらいにして,今回から「照る」について万葉集を見ていきましょう。万葉集で「照」の漢字があてられている和歌は100首以上もあります。「照る」の意味は,明るくかがやく・ひかるという意味と,つやが良いといあ意味があります。また,枕詞(高照らす,押し照る)に使われていて,それ自体に直接的な意味がない場合もあります。
その中を見ていくと,「照らしている」ものの本体は次のようなものに分類できます。
・月
・日
・花
・その他(玉,黄葉,雪,天の川などの星,天など)
今回はまず「照りかがやくものとしての月」や「月が照っている月夜」を見ていきます。これらを詠んだ和歌は50首ほど万葉集で出てきます。
1首目は,長屋王(ながやのおほきみ)の娘とされている賀茂女王(かものおほきみ)が詠んだ相聞歌1首です。
大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも(4-565)
<おほとものみつとはいはじ あかねさしてれるつくよに ただにあへりとも>
<<あなた様を見たとは言わないことにしましょう。すごく明るく月が照っている夜にあなた様と直(じか)に逢うことができたとしても>>
誰に贈ったかは不明のようですが,これも女王の他の相聞歌に出てくる大伴三依(おほとものみより)だったのではないかと私は思います。
三依はこれを受けて詠んだかどうか不明ですが,同じ巻4の中で次の短歌を詠んでいます。
照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに(4-690)
<てるつきをやみにみなして なくなみだころもぬらしつ ほすひとなしに>
<<明るい月夜が闇夜に見えるほど泣いた涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人などいないのに>>
この両短歌が女王と三依の間のものであったとしたら,ふたりの間は悲恋となったことになります。
何が二人を逢えなくさせる要因となったのか分かりませんが,政治的な問題(長屋王の変)が影響したのかもしれないと私には感じられます。
次は,志貴皇子(しきのみこ)の子であり,光仁(こうにん)天皇の弟である湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだ短歌を紹介します。
はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる(6-986)
<はしきやしまちかきさとの きみこむとおほのびにかも つきのてりたる>
<<すぐ近くの里に住むあのお方が来てくださるようだ。大きな満月が照りはえている>>
この短歌は,女性の立場で詠んだようのではないかと私は感じます。満月の夜は,道を明るく照らし,出る時間帯も日が暮れたら直ぐなので,夜に行われる妻問にはもってこいです。今夜は素晴らしく明るい満月が照っているので,あの方は今夜こそきっと来るだろうと待ち望んている女性の気持ちを詠んだのではないでしょうか。
この湯原王は,政治的にはほとんど記録に残っていない人物ですが,万葉集に19首の短歌を残しています。天武系の天皇が続く天平時代に,天智天皇系の志貴皇子の血筋をもった人たちは,和歌を詠みながら時代の変化をひたすら待っていたのかもしれません。
長屋王のように天武系であっても敵を作ってしまい,粛清の憂き目に遇うのは避けたいですからね。
最後は,詠み人知らずの短歌ですが,大伴氏の繁栄を願って詠んだと考えられるものです。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって,国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
このように月が照ることが,現代と比べ物にならないほど,当時の人々にとって大きな意味を持っていたのだろうと私は想像します。きっと,明るく照った月夜は,普通の夜と違う元気が出る夜だったのでしょう。
それは,今の季節,あちこちで通りで綺麗で豪華なイルミネーションが点灯されると,寒さなんか忘れて,出かけてみようと思う気持ちと同じかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2)に続く。
新しい職場に勤務を開始して2週間。やっと,周りの仕事の内容が見えてきたところです。
以前にも述べましたが,私が専門としている稼働中ソフトウェアの保守開発の仕事は「たかがちょっとした修正でしょ」といった簡単なものではありません。
対象コンピュータシステムに搭載されたソフトウェアがどのようなことを重視して初期開発されたのか,その後どのような問題に遭遇し,どのような改修をされてきたのかなどの経緯が分からないと,コスト的,将来的,緊急対応度,対応困難度,対応影響範囲などの観点から,最適な対応(改修)方法を導き出すのが簡単にはできないのです。
対象システムが大規模なため,現状を理解するだけでなく,そういった今までの経緯を含めて完全に理解をするのは,まだまた時間が必要です。
しかし,すべてが理解できていなくても課題の解決を行いながら理解を深めていくことも現実的な対応で,限られた情報しかなくても最適な対応方法を素早く見つける技もプロフェッショナルとして必要な技量かもしれません。
<本題>
さて,近況はそのくらいにして,今回から「照る」について万葉集を見ていきましょう。万葉集で「照」の漢字があてられている和歌は100首以上もあります。「照る」の意味は,明るくかがやく・ひかるという意味と,つやが良いといあ意味があります。また,枕詞(高照らす,押し照る)に使われていて,それ自体に直接的な意味がない場合もあります。
その中を見ていくと,「照らしている」ものの本体は次のようなものに分類できます。
・月
・日
・花
・その他(玉,黄葉,雪,天の川などの星,天など)
今回はまず「照りかがやくものとしての月」や「月が照っている月夜」を見ていきます。これらを詠んだ和歌は50首ほど万葉集で出てきます。
1首目は,長屋王(ながやのおほきみ)の娘とされている賀茂女王(かものおほきみ)が詠んだ相聞歌1首です。
大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも(4-565)
<おほとものみつとはいはじ あかねさしてれるつくよに ただにあへりとも>
<<あなた様を見たとは言わないことにしましょう。すごく明るく月が照っている夜にあなた様と直(じか)に逢うことができたとしても>>
誰に贈ったかは不明のようですが,これも女王の他の相聞歌に出てくる大伴三依(おほとものみより)だったのではないかと私は思います。
三依はこれを受けて詠んだかどうか不明ですが,同じ巻4の中で次の短歌を詠んでいます。
照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに(4-690)
<てるつきをやみにみなして なくなみだころもぬらしつ ほすひとなしに>
<<明るい月夜が闇夜に見えるほど泣いた涙で衣を濡らしてしまった。干してくれる人などいないのに>>
この両短歌が女王と三依の間のものであったとしたら,ふたりの間は悲恋となったことになります。
何が二人を逢えなくさせる要因となったのか分かりませんが,政治的な問題(長屋王の変)が影響したのかもしれないと私には感じられます。
次は,志貴皇子(しきのみこ)の子であり,光仁(こうにん)天皇の弟である湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだ短歌を紹介します。
はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる(6-986)
<はしきやしまちかきさとの きみこむとおほのびにかも つきのてりたる>
<<すぐ近くの里に住むあのお方が来てくださるようだ。大きな満月が照りはえている>>
この短歌は,女性の立場で詠んだようのではないかと私は感じます。満月の夜は,道を明るく照らし,出る時間帯も日が暮れたら直ぐなので,夜に行われる妻問にはもってこいです。今夜は素晴らしく明るい満月が照っているので,あの方は今夜こそきっと来るだろうと待ち望んている女性の気持ちを詠んだのではないでしょうか。
この湯原王は,政治的にはほとんど記録に残っていない人物ですが,万葉集に19首の短歌を残しています。天武系の天皇が続く天平時代に,天智天皇系の志貴皇子の血筋をもった人たちは,和歌を詠みながら時代の変化をひたすら待っていたのかもしれません。
長屋王のように天武系であっても敵を作ってしまい,粛清の憂き目に遇うのは避けたいですからね。
最後は,詠み人知らずの短歌ですが,大伴氏の繁栄を願って詠んだと考えられるものです。
靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし(7-1086)
<ゆきかくるとものをひろき おほともにくにさかえむと つきはてるらし>
<<矢筒を背負い朝廷に仕える丈夫の大伴氏によって,国はいよいよ栄えゆく証しとして,月もさやかに照るっているようだ>>
このように月が照ることが,現代と比べ物にならないほど,当時の人々にとって大きな意味を持っていたのだろうと私は想像します。きっと,明るく照った月夜は,普通の夜と違う元気が出る夜だったのでしょう。
それは,今の季節,あちこちで通りで綺麗で豪華なイルミネーションが点灯されると,寒さなんか忘れて,出かけてみようと思う気持ちと同じかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2)に続く。
2014年12月7日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ) 暑中から雪踏む季節まで休載でした
<たびとは転職しました>
このブログの読者のみなさん。今年の8月4日を最後にずっとこのブログへのアップを個人的な事情があり休止していました。申し訳ありません。
実は,この「踏む」を取り上げた初回(7月19日アップ)に書いたように,人生の分かれ道に差し掛かったのです。社会人になってからずっと勤めてきた同じ企業グループの会社から,全く別の勤め先に転職するかどうかでした。
結論としては,11月末でそれまで勤めていた会社を円満に退職し,12月から別の勤務先で勤務するようになりました。
これまでと対象のシステムは異なりますが,同じソフトウェア保守開発の仕事ですので,最初の1週間でほぼ求められる仕事をこなせる自信が大体できたのは良かったです。
8月から11月まで,休日は転職に関する検討,エントリーシート作成や面接の準備(転職経験がないので両方とも社会人になって初めての経験),内定後の諸手続きに忙殺され,ブログをアップする余裕がありませんでした。
天の川 「たびとはん。おかげさんでゆっくり休めさせてもろたわ。また,ちょこちょこちょっかい出すさかい,せいぜい頑張ってんか。」
天の川君の出番がないように頑張って見ますかね。
<このテーマの本題>
さて,「踏む」のまとめとして季節が冬になったため「雪を踏む」を取り上げたいと思います。
次は三方沙弥(みかたのさみ)という歌人が詠んだ長歌と短歌(反歌)です。ただ,長歌と言っても普通の形式ではなく,語り口調のように感じます。今で言うとラップのような感じでしょうか。
大殿の この廻りの雪な踏みそね しばしばも降らぬ雪ぞ 山のみに降りし雪ぞ ゆめ寄るな人やな踏みそね 雪は(19-4227)
<おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね しばしばもふらぬゆきぞ やまのみにふりしゆきぞ ゆめよるなひとやなふみそね ゆきは>
<<御殿の周りに降り積もった雪は踏むでないぞ。めったには降らない雪であるぞ。山にしか降らない雪であるぞ。ゆめゆめ近寄るでないぞ。人よ踏むでないぞ。この雪は>>
ありつつも見したまはむぞ大殿のこの廻りの雪な踏みそね(19-4228)
<ありつつもめしたまはむぞ おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね>
<<あるがままをご覧になられようとするのだぞ。御殿の周りの雪は踏むでないぞ>>
この大殿(御殿)の持ち主は,藤原不比等(ふぢはらのふひと)の二男である藤原房前(ふぢはらのふささき)とこの和歌の左注には書かれています。
房前が周りの侍従に指示した内容が長歌の方で,反歌は三方沙弥の考えを詠ったものかもしれません。いずれにしても,この反歌は房前が生きていたときの権力の強さを象徴している(茶化している)ようにも見えませんか?
さて,次はこのブログで何度も取り上げている次の大伴家持の短歌です。
大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し(19-4285)
<おほみやのうちにもとにも めづらしくふれるおほゆき なふみそねをし>
<<宮中の内にも外にもめずらしく大雪が降った。この白雪をどうか踏み荒らさないで頂きたいものだ。(きれいな雪景色が荒らされるのが)惜しいから>>
この短歌について,今までこのブログでいろいろ書いてきましたが,また違った視点で今回は分析します。
<家持の願い>
家持は「雪を踏まないで欲しい」の誰に言っているのでしょうか。おそらく,家持にとっては空気が読めない,自然の美しさを感じられない,無粋な人たちなのでしょうね。
もちろん,その雪を踏んだのが,門の鍵を開けた守衛だったり,朝早く納品にやってくる業者だったり,朝食を作るために出勤してきた賄いさんだったりで,自らの仕事をこなすためにやむを得ず雪を踏み荒らしたのかもしれません。
珍しい自然現象に気にも留めず,定型作業を機械的に繰り返すだけの大宮で働く多くの人たちに「もう少し美しい風景を大切にしてほしい」という家持の気持ちも分からなくはありません。
一方,働く人たち側は,雪で仕事が大変になったと積雪を恨めしく思っているかもしれません。
ちなみに私の住んでいるマンションの住込み管理人は雪が降ると,人の通り道はすぐに雪かきをしてしまいます。
ところで,踏むのが鳥だったり,リスだったり,ウサギだったり,シカだったら,家持は許せたのでしょうか。おそらく,それは許したのでしょうね。なぜなら,それは自然の営みだからです。
人間には自然に対する価値観が異なる(価値を感じない)人がいて,特に効率最優先で仕事を進めようとする人たちは自然との調和の重要性を軽視し,自然を無理に変えようとしてしまう。
歌人家持はそんな人たちが幅を利かせる効率化のみ重視する大宮の仕組み自体がこのとき許せない感じたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1)に続く。
このブログの読者のみなさん。今年の8月4日を最後にずっとこのブログへのアップを個人的な事情があり休止していました。申し訳ありません。
実は,この「踏む」を取り上げた初回(7月19日アップ)に書いたように,人生の分かれ道に差し掛かったのです。社会人になってからずっと勤めてきた同じ企業グループの会社から,全く別の勤め先に転職するかどうかでした。
結論としては,11月末でそれまで勤めていた会社を円満に退職し,12月から別の勤務先で勤務するようになりました。
これまでと対象のシステムは異なりますが,同じソフトウェア保守開発の仕事ですので,最初の1週間でほぼ求められる仕事をこなせる自信が大体できたのは良かったです。
8月から11月まで,休日は転職に関する検討,エントリーシート作成や面接の準備(転職経験がないので両方とも社会人になって初めての経験),内定後の諸手続きに忙殺され,ブログをアップする余裕がありませんでした。
天の川 「たびとはん。おかげさんでゆっくり休めさせてもろたわ。また,ちょこちょこちょっかい出すさかい,せいぜい頑張ってんか。」
天の川君の出番がないように頑張って見ますかね。
<このテーマの本題>
さて,「踏む」のまとめとして季節が冬になったため「雪を踏む」を取り上げたいと思います。
次は三方沙弥(みかたのさみ)という歌人が詠んだ長歌と短歌(反歌)です。ただ,長歌と言っても普通の形式ではなく,語り口調のように感じます。今で言うとラップのような感じでしょうか。
大殿の この廻りの雪な踏みそね しばしばも降らぬ雪ぞ 山のみに降りし雪ぞ ゆめ寄るな人やな踏みそね 雪は(19-4227)
<おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね しばしばもふらぬゆきぞ やまのみにふりしゆきぞ ゆめよるなひとやなふみそね ゆきは>
<<御殿の周りに降り積もった雪は踏むでないぞ。めったには降らない雪であるぞ。山にしか降らない雪であるぞ。ゆめゆめ近寄るでないぞ。人よ踏むでないぞ。この雪は>>
ありつつも見したまはむぞ大殿のこの廻りの雪な踏みそね(19-4228)
<ありつつもめしたまはむぞ おほとののこのもとほりの ゆきなふみそね>
<<あるがままをご覧になられようとするのだぞ。御殿の周りの雪は踏むでないぞ>>
この大殿(御殿)の持ち主は,藤原不比等(ふぢはらのふひと)の二男である藤原房前(ふぢはらのふささき)とこの和歌の左注には書かれています。
房前が周りの侍従に指示した内容が長歌の方で,反歌は三方沙弥の考えを詠ったものかもしれません。いずれにしても,この反歌は房前が生きていたときの権力の強さを象徴している(茶化している)ようにも見えませんか?
さて,次はこのブログで何度も取り上げている次の大伴家持の短歌です。
大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し(19-4285)
<おほみやのうちにもとにも めづらしくふれるおほゆき なふみそねをし>
<<宮中の内にも外にもめずらしく大雪が降った。この白雪をどうか踏み荒らさないで頂きたいものだ。(きれいな雪景色が荒らされるのが)惜しいから>>
この短歌について,今までこのブログでいろいろ書いてきましたが,また違った視点で今回は分析します。
<家持の願い>
家持は「雪を踏まないで欲しい」の誰に言っているのでしょうか。おそらく,家持にとっては空気が読めない,自然の美しさを感じられない,無粋な人たちなのでしょうね。
もちろん,その雪を踏んだのが,門の鍵を開けた守衛だったり,朝早く納品にやってくる業者だったり,朝食を作るために出勤してきた賄いさんだったりで,自らの仕事をこなすためにやむを得ず雪を踏み荒らしたのかもしれません。
珍しい自然現象に気にも留めず,定型作業を機械的に繰り返すだけの大宮で働く多くの人たちに「もう少し美しい風景を大切にしてほしい」という家持の気持ちも分からなくはありません。
一方,働く人たち側は,雪で仕事が大変になったと積雪を恨めしく思っているかもしれません。
ちなみに私の住んでいるマンションの住込み管理人は雪が降ると,人の通り道はすぐに雪かきをしてしまいます。
ところで,踏むのが鳥だったり,リスだったり,ウサギだったり,シカだったら,家持は許せたのでしょうか。おそらく,それは許したのでしょうね。なぜなら,それは自然の営みだからです。
人間には自然に対する価値観が異なる(価値を感じない)人がいて,特に効率最優先で仕事を進めようとする人たちは自然との調和の重要性を軽視し,自然を無理に変えようとしてしまう。
歌人家持はそんな人たちが幅を利かせる効率化のみ重視する大宮の仕組み自体がこのとき許せない感じたのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(1)に続く。
2014年8月4日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3) 岩の神よ,踏んでも怒らないでね
前回は石を踏むでしたが,今回は万葉集で岩を踏むを取り上げます。
現在,岩は大きな石というような意味とされていますが,当時,石と岩とでは意味に大きな違いがあったのではないかと私は考えます。
岩は岩倉(磐座,磐倉)というように,神が宿る場所や岩そのものが神であるという古代信仰があったらしいとの説を受け入れると,岩は単なる石とは大きく異なり,神聖なものとしての認識があったと私は想像します。その岩を「踏む」ことに対しても,通常の石を踏むのとは違う感覚があるのかもしれません。
では,万葉集の訓読で「岩を踏む」が出てくる和歌を見ていきましょう。なお,訓読で「岩」も「石」も万葉仮名では「石」と記されている場合があるようです。これを「いし」と読むか「いは」と読むかは,後代の万葉学者先生による訓読の判断によります。一般的な訓読に従ってみました。
妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る(15-3590)
<いもにあはずあらばすべなみ いはねふむいこまのやまを こえてぞあがくる>
<<君に逢わずにいられないから,岩根を踏んで生駒の山を越えて僕は還って来るよ>>
この短歌は,遣新羅使が詠んだとされています。岩根は根が生えたような大きくて,上がごつごつした岩を意味するようです。生駒山自体,万葉時代には,三輪山などと同様に神の山とされていたようです。その山(神体)の岩根を踏むわけですから,大変です。実際の道の険しさよりも,神の怒りに触れないようにしてまでも彼女のために帰ってくる決意をした短歌だと私は解釈します。
次は柿本人麻呂歌集にあったという彼を待っている女性の短歌です(といっても,上の遣新羅使の短歌とは無関係です)。
来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに(11-2421)
<くるみちはいはふむやまは なくもがもわがまつきみが うまつまづくに>
<<お出でになる道に岩を踏むような険しい山がなければいいのに。私が待つあなたが乗る馬が躓いてしまわないかと>>
実際に彼の家と彼女(この短歌の作者)の家の間に岩だらけの山があったかどうかわかりません。それよりは,彼が通ってくる途中に邪魔が入ったり,障害が起ったりしないことをひたすら祈りながら彼の来るのを待っている気持ちの表れかもしれませんね。
そして,この後に出てくる次の短歌(同じく柿本人麻呂歌集にある歌)は,まさに前の短歌と呼応しているように私には思えます。
岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも(11-2422)
<いはねふみへなれるやまは あらねどもあはぬひまねみ こひわたるかも>
<<岩根を踏むような険しい山は無いのに逢えないでままの日が多いから恋しくい気持ちが募るよ>>
逢えない原因が何であるかいろいろ考えられます。いずれかの親の反対,周囲の目,仕事の忙しさ,金銭的な問題(妻問もタダではできない)などでしょうか。そういった障害がある状態の方がお互いの恋慕の情が高まることが少なくないのは不思議なことです。
いっぽう,障害や反対が無いのに,ちょっとしたことですぐに別れてしまうような関係に逆になりやすいのかもしれません。親の中には,子ども恋愛関係の強さを確かめようと,わざといったん反対のポーズをとる親があります。それは,子どもに対する親の(二人の関係をより強くするための)愛情行動の一つといえるのでしょうか。
さて,最後に同じく「岩を踏む」をテーマに娘子(をとめ)と藤井大成(ふぢゐのおほなり)が別れを惜しみ掛け合う2首を紹介します。
まず,大成が京に帰任することに対して娘子からの短歌です。
明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば(9-1778)
<あすよりはあれはこひむな なほりやまいはふみならし きみがこえいなば>
<<明日からは私ともう逢えず寂しくてならないでしょうね。名欲山の岩を踏み均してあなた様が超えていかれた後は>>
それに対して大成が返します。
命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む(9-1779)
<いのちをしまさきくもがも なほりやまいはふみならし またまたもこむ>
<<どうか達者でな。名欲山の岩を踏み均して,何度もやって来るからな>>
ここに出てくる名欲山は,大分県にある山を指すようです。奈良の京より遠いですが,別府あたりの港から船を利用して,難波港と行き来すれば,以外と楽な行路かもしれません。いずれにしても内容は「またね!」という別れの決まり文句です。
我々は,地方に赴任した大成のことを「地元の娘子とうまいことやったやん」なんて羨ましがってもいけませんよ。偶然かもしれませんが,1300年後も残るお二人の相聞歌を残せたこと自体を羨ましいと思うべきですよね~。まったく。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ)に続く。
現在,岩は大きな石というような意味とされていますが,当時,石と岩とでは意味に大きな違いがあったのではないかと私は考えます。
岩は岩倉(磐座,磐倉)というように,神が宿る場所や岩そのものが神であるという古代信仰があったらしいとの説を受け入れると,岩は単なる石とは大きく異なり,神聖なものとしての認識があったと私は想像します。その岩を「踏む」ことに対しても,通常の石を踏むのとは違う感覚があるのかもしれません。
では,万葉集の訓読で「岩を踏む」が出てくる和歌を見ていきましょう。なお,訓読で「岩」も「石」も万葉仮名では「石」と記されている場合があるようです。これを「いし」と読むか「いは」と読むかは,後代の万葉学者先生による訓読の判断によります。一般的な訓読に従ってみました。
妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る(15-3590)
<いもにあはずあらばすべなみ いはねふむいこまのやまを こえてぞあがくる>
<<君に逢わずにいられないから,岩根を踏んで生駒の山を越えて僕は還って来るよ>>
この短歌は,遣新羅使が詠んだとされています。岩根は根が生えたような大きくて,上がごつごつした岩を意味するようです。生駒山自体,万葉時代には,三輪山などと同様に神の山とされていたようです。その山(神体)の岩根を踏むわけですから,大変です。実際の道の険しさよりも,神の怒りに触れないようにしてまでも彼女のために帰ってくる決意をした短歌だと私は解釈します。
次は柿本人麻呂歌集にあったという彼を待っている女性の短歌です(といっても,上の遣新羅使の短歌とは無関係です)。
来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに(11-2421)
<くるみちはいはふむやまは なくもがもわがまつきみが うまつまづくに>
<<お出でになる道に岩を踏むような険しい山がなければいいのに。私が待つあなたが乗る馬が躓いてしまわないかと>>
実際に彼の家と彼女(この短歌の作者)の家の間に岩だらけの山があったかどうかわかりません。それよりは,彼が通ってくる途中に邪魔が入ったり,障害が起ったりしないことをひたすら祈りながら彼の来るのを待っている気持ちの表れかもしれませんね。
そして,この後に出てくる次の短歌(同じく柿本人麻呂歌集にある歌)は,まさに前の短歌と呼応しているように私には思えます。
岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも(11-2422)
<いはねふみへなれるやまは あらねどもあはぬひまねみ こひわたるかも>
<<岩根を踏むような険しい山は無いのに逢えないでままの日が多いから恋しくい気持ちが募るよ>>
逢えない原因が何であるかいろいろ考えられます。いずれかの親の反対,周囲の目,仕事の忙しさ,金銭的な問題(妻問もタダではできない)などでしょうか。そういった障害がある状態の方がお互いの恋慕の情が高まることが少なくないのは不思議なことです。
いっぽう,障害や反対が無いのに,ちょっとしたことですぐに別れてしまうような関係に逆になりやすいのかもしれません。親の中には,子ども恋愛関係の強さを確かめようと,わざといったん反対のポーズをとる親があります。それは,子どもに対する親の(二人の関係をより強くするための)愛情行動の一つといえるのでしょうか。
さて,最後に同じく「岩を踏む」をテーマに娘子(をとめ)と藤井大成(ふぢゐのおほなり)が別れを惜しみ掛け合う2首を紹介します。
まず,大成が京に帰任することに対して娘子からの短歌です。
明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば(9-1778)
<あすよりはあれはこひむな なほりやまいはふみならし きみがこえいなば>
<<明日からは私ともう逢えず寂しくてならないでしょうね。名欲山の岩を踏み均してあなた様が超えていかれた後は>>
それに対して大成が返します。
命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む(9-1779)
<いのちをしまさきくもがも なほりやまいはふみならし またまたもこむ>
<<どうか達者でな。名欲山の岩を踏み均して,何度もやって来るからな>>
ここに出てくる名欲山は,大分県にある山を指すようです。奈良の京より遠いですが,別府あたりの港から船を利用して,難波港と行き来すれば,以外と楽な行路かもしれません。いずれにしても内容は「またね!」という別れの決まり文句です。
我々は,地方に赴任した大成のことを「地元の娘子とうまいことやったやん」なんて羨ましがってもいけませんよ。偶然かもしれませんが,1300年後も残るお二人の相聞歌を残せたこと自体を羨ましいと思うべきですよね~。まったく。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ)に続く。
2014年7月28日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2) 40年ぶりに「山辺の道」を踏み歩く
<真夏の山の辺の道>
一昨日の土曜,猛暑の中,学生時代に歩いたことがある,山辺の道(やまのべのみち。天理市~桜井市たの内,天理~柳本)を歩きました。
実は,その前の金曜日は大阪への出張があり,その日は大阪市内に宿泊しました。翌朝完全な軽装に着替えをして,朝からJRで天理駅に移動し,そこから歩いたのです。
学生時代は確か2月か3月の春のうららかな日和でしたが,今回はペットボトルを離さずに熱中症にならないよう気を付けながらでした。
一緒に大阪主張に行った会社の同僚も一緒に行きたいと言ってくれたので,男二人で汗をかきながらの奮闘でした。
猛暑の中でしたが,懐かしい場所に戻ってきた感を多くの場所で持て,思い出話や歴史の話を同僚としながらの気持ち良い散策でした。
午後は同僚が東京に戻り,私一人奈良に来るとよく利用する奈良駅前の天然温泉浴場のあるビジネスホテルに宿泊しました。
<翌日はミカン農園で摘果して帰路に>
翌日の27日は毎年みかんの木のオーナーになっている明日香村の農園に行き,ミカンの実の摘果(傷ついた実や小さな実を取り去ること)を行い,午後東京に戻りました。
今回奈良で踏みしめた道や地面は,アスファルトやコンクリート,土,砂利,石を敷き詰めた路面,草地,藁をぶ厚く敷き詰めたみかん畑の地面などで,踏みしめ感がいろいろでした。
特に山辺の道で坂が急に場所には,ごつごつした石を敷き詰めいてる場所がありました。ビジネスシューズで同行した同僚には大変な苦労をさせてしまいました。
今回は,前回の巨勢道の短歌でも出てきた石を踏む場面の和歌を見ていきます。
佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか(4-525)
<さほがはのこいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは としにもあらぬか>
<<佐保川の小石を踏みながら川を渡って,黒馬が来る夜は年に一度はくらいはあっていいのではないでしょうか>>
この短歌は,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が藤原麻呂(ふしはらのまろ)に贈った内の1首です。織姫と牽牛でさえ年に1回は逢えるというのにどうしてあなた様(藤原麻呂)はなかなか来てくださらないのですか?という恨み言のように私には思えます。
藤原麻呂と郎女の家の間には佐保川が流れていて,郎女へ家へ妻問するには川を渡ってくる必要があったこと,そして,佐保川には橋が掛かっておらず,川の石を踏んで渡る必要があったことがこの短歌から見えてきます。
さて,これとよく似た詠み人知らずの短歌が巻13に出てきます。
川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも(13-3313)
<かはのせのいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは つねにあらぬかも>
<<川の瀬の石を踏んで渡って黒馬に乗ったあなた様が来る夜は常にあってほしいのです>>
実はこの短歌は長歌の反歌なのです。
直前の長歌では,泊瀬の国の天皇が作者の女性の相手だということが詠まれています。長歌では,親に知れると困るので妻問に来てくださるのは止めてほしいという内容ですが,短歌では全く逆のこと(いつも来てね)を詠っています。
さて,泊瀬の国の天皇といえば,すぐに思い浮かぶのが雄略天皇ということになります。
しかし,どう考えてもこの長短歌が雄略天皇が生きていた時に,雄略天皇に対して詠まれたとは考えにくいと私は感じます。
それよりも「女の恋心は複雑なのよ。たとえ相手がすごい天皇であっても,大好きでも,いろいろ気になって素直になれないの」といった奈良時代に巷で流行っていた歌謡ではないかと私は想像します。
最初に紹介した坂上郎女の短歌もその歌謡をパロディーしたか,逆に歌謡の作者が坂上郎女の短歌を真似たのかのどちらかが興味深いところです。
私は坂上郎女の和歌が当時一般に公開されたり,出版されたりする可能性が少ないと考えると,前者(郎女が後からまねて作歌)の可能性が高いと考えています。
さて,最後は石の多い道は馬に乗って移動するのが,万葉時代あこがれの手段だったことを思わせる詠み人知らずの短歌です。
馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ(13-3317)
<うまかはばいもかちならむ よしゑやしいしはふむとも わはふたりゆかむ>
<<馬を買うと,おまえだけが歩くことになる。石を踏んで苦労は多くとも,僕はおまえと二人で歩いて行くよ>>
夫婦愛の理想を詠ったような短歌ですね。
欲しいもの(当時の馬を今に例えれば,一人乗りのモトクロスモーターバイク)を我慢してでも一緒に同じ方向,同じスピードで暮らしていくのが理想の夫婦なのかもしれません。
ただ,今は価値観やそれまで得てきた情報の多様化・偏重によって,相手の気持ちを理解して,お互いが納得する我慢の度合いを見つけあうのが難しい時代になってきているような気がします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3)に続く。
一昨日の土曜,猛暑の中,学生時代に歩いたことがある,山辺の道(やまのべのみち。天理市~桜井市たの内,天理~柳本)を歩きました。
実は,その前の金曜日は大阪への出張があり,その日は大阪市内に宿泊しました。翌朝完全な軽装に着替えをして,朝からJRで天理駅に移動し,そこから歩いたのです。
学生時代は確か2月か3月の春のうららかな日和でしたが,今回はペットボトルを離さずに熱中症にならないよう気を付けながらでした。
一緒に大阪主張に行った会社の同僚も一緒に行きたいと言ってくれたので,男二人で汗をかきながらの奮闘でした。
猛暑の中でしたが,懐かしい場所に戻ってきた感を多くの場所で持て,思い出話や歴史の話を同僚としながらの気持ち良い散策でした。
午後は同僚が東京に戻り,私一人奈良に来るとよく利用する奈良駅前の天然温泉浴場のあるビジネスホテルに宿泊しました。
<翌日はミカン農園で摘果して帰路に>
翌日の27日は毎年みかんの木のオーナーになっている明日香村の農園に行き,ミカンの実の摘果(傷ついた実や小さな実を取り去ること)を行い,午後東京に戻りました。
今回奈良で踏みしめた道や地面は,アスファルトやコンクリート,土,砂利,石を敷き詰めた路面,草地,藁をぶ厚く敷き詰めたみかん畑の地面などで,踏みしめ感がいろいろでした。
特に山辺の道で坂が急に場所には,ごつごつした石を敷き詰めいてる場所がありました。ビジネスシューズで同行した同僚には大変な苦労をさせてしまいました。
今回は,前回の巨勢道の短歌でも出てきた石を踏む場面の和歌を見ていきます。
佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか(4-525)
<さほがはのこいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは としにもあらぬか>
<<佐保川の小石を踏みながら川を渡って,黒馬が来る夜は年に一度はくらいはあっていいのではないでしょうか>>
この短歌は,坂上郎女(さかのうへのいらつめ)が藤原麻呂(ふしはらのまろ)に贈った内の1首です。織姫と牽牛でさえ年に1回は逢えるというのにどうしてあなた様(藤原麻呂)はなかなか来てくださらないのですか?という恨み言のように私には思えます。
藤原麻呂と郎女の家の間には佐保川が流れていて,郎女へ家へ妻問するには川を渡ってくる必要があったこと,そして,佐保川には橋が掛かっておらず,川の石を踏んで渡る必要があったことがこの短歌から見えてきます。
さて,これとよく似た詠み人知らずの短歌が巻13に出てきます。
川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも(13-3313)
<かはのせのいしふみわたり ぬばたまのくろまくるよは つねにあらぬかも>
<<川の瀬の石を踏んで渡って黒馬に乗ったあなた様が来る夜は常にあってほしいのです>>
実はこの短歌は長歌の反歌なのです。
直前の長歌では,泊瀬の国の天皇が作者の女性の相手だということが詠まれています。長歌では,親に知れると困るので妻問に来てくださるのは止めてほしいという内容ですが,短歌では全く逆のこと(いつも来てね)を詠っています。
さて,泊瀬の国の天皇といえば,すぐに思い浮かぶのが雄略天皇ということになります。
しかし,どう考えてもこの長短歌が雄略天皇が生きていた時に,雄略天皇に対して詠まれたとは考えにくいと私は感じます。
それよりも「女の恋心は複雑なのよ。たとえ相手がすごい天皇であっても,大好きでも,いろいろ気になって素直になれないの」といった奈良時代に巷で流行っていた歌謡ではないかと私は想像します。
最初に紹介した坂上郎女の短歌もその歌謡をパロディーしたか,逆に歌謡の作者が坂上郎女の短歌を真似たのかのどちらかが興味深いところです。
私は坂上郎女の和歌が当時一般に公開されたり,出版されたりする可能性が少ないと考えると,前者(郎女が後からまねて作歌)の可能性が高いと考えています。
さて,最後は石の多い道は馬に乗って移動するのが,万葉時代あこがれの手段だったことを思わせる詠み人知らずの短歌です。
馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ(13-3317)
<うまかはばいもかちならむ よしゑやしいしはふむとも わはふたりゆかむ>
<<馬を買うと,おまえだけが歩くことになる。石を踏んで苦労は多くとも,僕はおまえと二人で歩いて行くよ>>
夫婦愛の理想を詠ったような短歌ですね。
欲しいもの(当時の馬を今に例えれば,一人乗りのモトクロスモーターバイク)を我慢してでも一緒に同じ方向,同じスピードで暮らしていくのが理想の夫婦なのかもしれません。
ただ,今は価値観やそれまで得てきた情報の多様化・偏重によって,相手の気持ちを理解して,お互いが納得する我慢の度合いを見つけあうのが難しい時代になってきているような気がします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3)に続く。
2014年7月19日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1) ♪遠い遠いはるかな道は ~ 銀色のはるかな道
<土踏まずの役割>
人間は常時直立二足歩行する数少ない動物らしいです(鳥類やカンガルーは二足歩行ではあるが直立二足歩行でない)。その結果,人間の足の裏は立つとき,歩くとき,走るときに分けて,十分機能するような構造になっているようです。
たとえば,足の裏にある「土踏まず」は,石がゴロゴロしているような山道や悪路を素早く移動するとき,足や膝への衝撃を緩和するようために備わっているという見方があるようです。悪路を裸足で歩いたり,走ったりすることがほとんどなくなった現代では,「土踏まず」の必要性が減り,平均的に「土踏まず」は退化傾向(偏平足の人が増加傾向)となり,その結果,逆にちょっとした坂や階段の昇り降り(上り下り)で膝への負担が増すようになってきているのかもしれません。
<本題>
さて,万葉時代はどんな場所を踏んで歩いていたのでしょうか。当然,今のようなクッション性の高い靴はありませんでしたから,踏んだ時の感触や感じ方の変化は今より大きいものがあったと想像できそうです。
万葉集で「踏む」を見ていきましょう。屋外での移動で踏むものとして,まず「道」が考えられます。
まず,有名な東歌(女性作)からです。
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(14-3399)
<しなぬぢはいまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ>
<<信濃への道は完成直後の道だから,木の切り株で足を踏み抜かないよう沓を履いていってね,私のあなた>>
人がまだ踏み均(なら)していない道はやはり歩きにくい道だったのでしょうね。
今は,舗装技術が発達していますので,逆に新道のほうが快適に歩き易かったりしますが,万葉時代は逆だったのでしょう。ただ,今でも登山者が歩く登山道は人が踏み均した場所を選んで上り下りした方が楽だと聞きます。
次も歩行が厳しい道を詠んだ詠み人知らず(女性作)の短歌です。
直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ(13-3320)
<ただにゆかずこゆこせぢから いはせふみもとめぞわがこし こひてすべなみ>
<<真っ直ぐに行かずに、あえて巨勢道の石だらけの道を踏みしめ、苦労をいとわずにわたしは来ました。あなたを恋しくてたまらなくなったので>>
巨勢道は,今の橿原市から南に御所市,五條市,橋本市まで続く,当時山中の街道で,楽な道ではなかったようですね。道は整備されておらず,石だらけの道では,その石を踏むときの痛さに耐えながら進む必要があったのでしょうか。
この道を選んで行くということは,当時はあえて苦難を覚悟で,困難な道を進むことをイメージしていたのかもしれません。作者の恋は,さまざまな苦難との戦いの連続だったけれど,相手を想う気持ちで乗り越えてきたことを伝えたい,そんな情熱的な短歌だと私は感じます。
最後は,少し政治的なにおいのする短歌です。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘のもとで道を踏み歩く,その多く分かれた道にやってきて,どちらの道にいくか心の中で決めました。あの人に知られないままにして>>
この短歌は,天平11(730)年8月30日に橘諸兄邸で行われた宴席で出席者の当時,大宰府の次官である大宰大弐(だざいだいに)高橋安麻呂が古歌として紹介したと左注に記されています。さらに左注では「この古歌の作者は豊嶋采女(としまのうねめ)である」と書かれ,続いて「別の本には,この古歌の作者は三方沙弥(みかたのさみ)で,妻の苑臣(そののおみ)を恋いて詠んだ」と書かれています。また,「別の本が正しいなら,宴席でこの短歌を詠いあげたのが豊嶋采女であったのではないか」という趣旨が書かれています。
安麻呂が主人である橘諸兄にこの古歌を披露したは,「橘の木が立つ分かれ道で橘諸兄様の向かわれる方向の道に私も進む決意をしています」という忠誠心を示したものと解釈できることだと私は思います。
<どの道を選ぶか>
さて,人生において,多くの分かれ道に出会うことがあります。そして,どの道を行くかを決断をせざるを得ない時があります。行ってみなければ分からないことを行く前に決断しなければならない訳ですから,迷いもするし,後悔しないように決めたいというプレッシャーも強い状況であることは間違いありません。可能な限り情報を集め,相談できる人にはできるだけ多く相談し,そして最終的に自分の判断を信じて決めるしかないのかもしれません。
<選んだ道はまずは進むこと>
最大限の努力をして決めたのなら,たとえ最適な道でないことやまわり道だたことを後で気がついても後悔することなく,その気が付いたことを新たの情報として,以降の最適な道筋を決めていけばよいと私は思います。
一番やってはいけないことは,最適な道を選べたことで安心をしたり,努力を怠ったりすることだと思います。他人よりハンディを背負っている方が「負けるものか」という強い気持ちになり,他人よりアドバンテージを持っていると「まあ少しぐらいいいや」という弱い心境になってしまうのが人間の性(さが)ではないでしょうか。
繰り返すようですが,たとえ道の選択を間違ってハンディを背負っても,そのハンディ自体を強い気持ちを維持する糧とし,努力を惜しず未来に向かって進めば,後悔の念に打ち勝てる可能性が高くなると私は信じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2)に続く。
人間は常時直立二足歩行する数少ない動物らしいです(鳥類やカンガルーは二足歩行ではあるが直立二足歩行でない)。その結果,人間の足の裏は立つとき,歩くとき,走るときに分けて,十分機能するような構造になっているようです。
たとえば,足の裏にある「土踏まず」は,石がゴロゴロしているような山道や悪路を素早く移動するとき,足や膝への衝撃を緩和するようために備わっているという見方があるようです。悪路を裸足で歩いたり,走ったりすることがほとんどなくなった現代では,「土踏まず」の必要性が減り,平均的に「土踏まず」は退化傾向(偏平足の人が増加傾向)となり,その結果,逆にちょっとした坂や階段の昇り降り(上り下り)で膝への負担が増すようになってきているのかもしれません。
<本題>
さて,万葉時代はどんな場所を踏んで歩いていたのでしょうか。当然,今のようなクッション性の高い靴はありませんでしたから,踏んだ時の感触や感じ方の変化は今より大きいものがあったと想像できそうです。
万葉集で「踏む」を見ていきましょう。屋外での移動で踏むものとして,まず「道」が考えられます。
まず,有名な東歌(女性作)からです。
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背(14-3399)
<しなぬぢはいまのはりみち かりばねにあしふましなむ くつはけわがせ>
<<信濃への道は完成直後の道だから,木の切り株で足を踏み抜かないよう沓を履いていってね,私のあなた>>
人がまだ踏み均(なら)していない道はやはり歩きにくい道だったのでしょうね。
今は,舗装技術が発達していますので,逆に新道のほうが快適に歩き易かったりしますが,万葉時代は逆だったのでしょう。ただ,今でも登山者が歩く登山道は人が踏み均した場所を選んで上り下りした方が楽だと聞きます。
次も歩行が厳しい道を詠んだ詠み人知らず(女性作)の短歌です。
直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ(13-3320)
<ただにゆかずこゆこせぢから いはせふみもとめぞわがこし こひてすべなみ>
<<真っ直ぐに行かずに、あえて巨勢道の石だらけの道を踏みしめ、苦労をいとわずにわたしは来ました。あなたを恋しくてたまらなくなったので>>
巨勢道は,今の橿原市から南に御所市,五條市,橋本市まで続く,当時山中の街道で,楽な道ではなかったようですね。道は整備されておらず,石だらけの道では,その石を踏むときの痛さに耐えながら進む必要があったのでしょうか。
この道を選んで行くということは,当時はあえて苦難を覚悟で,困難な道を進むことをイメージしていたのかもしれません。作者の恋は,さまざまな苦難との戦いの連続だったけれど,相手を想う気持ちで乗り越えてきたことを伝えたい,そんな情熱的な短歌だと私は感じます。
最後は,少し政治的なにおいのする短歌です。
橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(6-1027)
<たちばなのもとにみちふむ やちまたにものをぞおもふ ひとにしらえず>
<<橘のもとで道を踏み歩く,その多く分かれた道にやってきて,どちらの道にいくか心の中で決めました。あの人に知られないままにして>>
この短歌は,天平11(730)年8月30日に橘諸兄邸で行われた宴席で出席者の当時,大宰府の次官である大宰大弐(だざいだいに)高橋安麻呂が古歌として紹介したと左注に記されています。さらに左注では「この古歌の作者は豊嶋采女(としまのうねめ)である」と書かれ,続いて「別の本には,この古歌の作者は三方沙弥(みかたのさみ)で,妻の苑臣(そののおみ)を恋いて詠んだ」と書かれています。また,「別の本が正しいなら,宴席でこの短歌を詠いあげたのが豊嶋采女であったのではないか」という趣旨が書かれています。
安麻呂が主人である橘諸兄にこの古歌を披露したは,「橘の木が立つ分かれ道で橘諸兄様の向かわれる方向の道に私も進む決意をしています」という忠誠心を示したものと解釈できることだと私は思います。
<どの道を選ぶか>
さて,人生において,多くの分かれ道に出会うことがあります。そして,どの道を行くかを決断をせざるを得ない時があります。行ってみなければ分からないことを行く前に決断しなければならない訳ですから,迷いもするし,後悔しないように決めたいというプレッシャーも強い状況であることは間違いありません。可能な限り情報を集め,相談できる人にはできるだけ多く相談し,そして最終的に自分の判断を信じて決めるしかないのかもしれません。
<選んだ道はまずは進むこと>
最大限の努力をして決めたのなら,たとえ最適な道でないことやまわり道だたことを後で気がついても後悔することなく,その気が付いたことを新たの情報として,以降の最適な道筋を決めていけばよいと私は思います。
一番やってはいけないことは,最適な道を選べたことで安心をしたり,努力を怠ったりすることだと思います。他人よりハンディを背負っている方が「負けるものか」という強い気持ちになり,他人よりアドバンテージを持っていると「まあ少しぐらいいいや」という弱い心境になってしまうのが人間の性(さが)ではないでしょうか。
繰り返すようですが,たとえ道の選択を間違ってハンディを背負っても,そのハンディ自体を強い気持ちを維持する糧とし,努力を惜しず未来に向かって進めば,後悔の念に打ち勝てる可能性が高くなると私は信じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(2)に続く。
2014年7月14日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ) そんな重いモノまで引くの?
今回で「引く」の最終回となります。「引く」対象として,今まで取り上げてこなかった万葉集の和歌を紹介します。
まず,大伴家持が坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)に贈った重い岩を引くことを例とした相聞歌です。
我が恋は千引の岩を七ばかり首に懸けむも神のまにまに(4-743)
<あがこひはちびきのいはを ななばかりくびにかけむも かみのまにまに>
<<私の恋は千人で引くくらい重い岩を七つも首に下げたほど苦しいものだけど,このような試練も神の意志でしょうか>>
この短歌は家持が大嬢を正妻とする相手と認識して贈った多くの相聞歌の1首と私は考えます。
ただ,なかなか靡いてくれない大嬢に対して,苦しい胸を内を大袈裟な譬えを使って表現しています。靡かないのは大嬢がマリッジブルーになっていたのか,当時の風習として正妻にする前には男性側が「好きです」「愛してます」「お願い妻になってください」という和歌をたくさん贈らないといけないという男性側にとって重い風習があったためでしょうか。
さて,次は「引板」を譬えに詠んだ短歌です。
衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し(8-1634)
<ころもでにみしぶつくまで うゑしたをひきたわがはへ まもれるくるし>
<<衣の袖に泥で色が変わるまで丹精込めて植えた田を,引板(鳴子)を私に張り巡らせて守もろうとするのはつらいですね>>
この短歌,ある人が尼に贈ったと題詞にあります。いろいろ解釈ができるのでしょうが,ここに出てくる「田」というのは尼の娘さんだという説が一般的なようです。
一生懸命育てた娘に私(作者の男性)が近づかないように守っておられるのは気になりすという歌を,母親の尼に贈ったのでしょう。結局「娘さんを僕にくれませんか?」という意味に解釈することもできるかもしれません。
さて,引板は鳴子の意味だとすると,男が近づくと警報が鳴るような仕組みとは,いったいどんなものだったのか。私がすぐ思いつくのは,母(尼)が娘に対する手紙を全部先に見てチェックし,娘には見せず代って「お断りの手紙」を書くことかもしれませんね。美貌の噂が高い娘であれば,男から手紙も多くくるでしょうし,音が出る板をたくさんつけた重い鳴子を引っ張って張り巡らせるのと同じように,それは母にとって大変だったのでしょう。
最後は「都引く」を見ます。「引く」対象は「都」ですから,これ以上重いものは考えにくいですね。難波宮を造営した藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が自慢げに詠んだ短歌です。
昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり(3-312)
<むかしこそなにはゐなかといはれけめ いまはみやこひきみやこびにけり>
<<昔は「難波田舎」と言われたようだが,今は都を引いてきた(遷してきた)ように都らしくなったものだ>>
神亀三年(726)十月に聖武(しやうむ)天皇の命(知造難波宮事)により宇合は難波宮を造営を開始し,その完成を見て聖武天皇は天平15(744)年に平城京から遷都したのです。しかし,18年もかけて造営した難波宮も翌年の1月には都ではなくなってしまったようです。
聖武天皇はこのような遷都先の造営といった大規模な公共投資(その他に奈良の大仏建立や全国各地に国分寺・国分尼寺の建立もその一つ)を強力に引っ張る(推進する)ことによって,当時財政は膨大な赤字になったけれど,後に仏教芸術や建物を中心とする「天平文化」と呼ばれるものを残すことができたのだろうと私は思います。
今の奈良市は,そのおかげもあってか,世界文化遺産にも登録され,多くの観光収入を得ることができているわけです。
私も何度か奈良公園に行って,聖武天皇がした支出額に対する(1300年近く経っていますので)利息の何兆分の一かもしれませんが「鹿せんべい」を公園の売店で買って,シカに食べさせてあげたことがあります。
天の川 「たびとはんな。奈良に行ったら聖武さんみたいに,もっと豪勢に,パァッとお金を使わんとアカンがな。」
例が悪かったせいか,天の川君に突っ込まれてしまいました。
さて,奈良に行って感じることは,中途半端な公共投資は無駄の温床になりやすいのですが,同じやるなら歴史に長く残るようなチャレンジゃブルな公共投資はありだと思いますね。
<国家的大規模プロジェクト推進の原動力>
現代における公共投資は,土木工事や建築物だけではありません。素晴らしいディジタルコンテンツ(コンピュータ上のアートや有益な情報)やシステムを残すことも候補としてあるのだろうと私は思います。
ところで,大きな仕事をこなすチーム(プロジェクト)を引っ張るリーダは大変だというのが私の仕事上の経験(小規模プロジェクトばかりの経験ですが)からの感想です。一生懸命目標に向かって工程ごとの成果を出すようチームのメンバーに指示を出すのだけれども,思うようにチーム内のメンバーが動いてくれないことも少なくないのです。
奈良時代に(完了しなかったものも多かったと思いますが)国家的な難しい大プロジェクトをいくつも実施できた力は何処から出てきたのでしょうか?
万葉集には,前代未聞の大プロジェクトによって影響を間接的にせよ受けた側(プロジェクト実行側ではなく)の和歌のほうが多く含まれているのかもしれません。また,そのような影響を受けて嘆き悲しんだり,自分を慰めたりしている和歌のほうが現代でも多くの人たちにとって,文学的共感をえられる可能性が高いようにも感じます。
しかし,当時大きな変化を伴う国家的プロジェクトを実施した(引き起こした)ポテンシャル(潜在的な力)は,やはり東の果ての小さな島国をさまざまな面で大陸に負けない強い国家にしたいという強い意思が当時の為政者やそのブレーンにあったのだろうと思います。
その強い国家のイメージが軍事的なものではなく,産業,技術,芸術などの非軍事分野の高度化に向けられたのは,当時の仏教思想による影響が非常に大きかったのではないでしょうか。
これで4回に渡った「引く」はこれで終わりとし,次からは「踏む」について万葉集を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1)に続く。
まず,大伴家持が坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)に贈った重い岩を引くことを例とした相聞歌です。
我が恋は千引の岩を七ばかり首に懸けむも神のまにまに(4-743)
<あがこひはちびきのいはを ななばかりくびにかけむも かみのまにまに>
<<私の恋は千人で引くくらい重い岩を七つも首に下げたほど苦しいものだけど,このような試練も神の意志でしょうか>>
この短歌は家持が大嬢を正妻とする相手と認識して贈った多くの相聞歌の1首と私は考えます。
ただ,なかなか靡いてくれない大嬢に対して,苦しい胸を内を大袈裟な譬えを使って表現しています。靡かないのは大嬢がマリッジブルーになっていたのか,当時の風習として正妻にする前には男性側が「好きです」「愛してます」「お願い妻になってください」という和歌をたくさん贈らないといけないという男性側にとって重い風習があったためでしょうか。
さて,次は「引板」を譬えに詠んだ短歌です。
衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し(8-1634)
<ころもでにみしぶつくまで うゑしたをひきたわがはへ まもれるくるし>
<<衣の袖に泥で色が変わるまで丹精込めて植えた田を,引板(鳴子)を私に張り巡らせて守もろうとするのはつらいですね>>
この短歌,ある人が尼に贈ったと題詞にあります。いろいろ解釈ができるのでしょうが,ここに出てくる「田」というのは尼の娘さんだという説が一般的なようです。
一生懸命育てた娘に私(作者の男性)が近づかないように守っておられるのは気になりすという歌を,母親の尼に贈ったのでしょう。結局「娘さんを僕にくれませんか?」という意味に解釈することもできるかもしれません。
さて,引板は鳴子の意味だとすると,男が近づくと警報が鳴るような仕組みとは,いったいどんなものだったのか。私がすぐ思いつくのは,母(尼)が娘に対する手紙を全部先に見てチェックし,娘には見せず代って「お断りの手紙」を書くことかもしれませんね。美貌の噂が高い娘であれば,男から手紙も多くくるでしょうし,音が出る板をたくさんつけた重い鳴子を引っ張って張り巡らせるのと同じように,それは母にとって大変だったのでしょう。
最後は「都引く」を見ます。「引く」対象は「都」ですから,これ以上重いものは考えにくいですね。難波宮を造営した藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)が自慢げに詠んだ短歌です。
昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり(3-312)
<むかしこそなにはゐなかといはれけめ いまはみやこひきみやこびにけり>
<<昔は「難波田舎」と言われたようだが,今は都を引いてきた(遷してきた)ように都らしくなったものだ>>
神亀三年(726)十月に聖武(しやうむ)天皇の命(知造難波宮事)により宇合は難波宮を造営を開始し,その完成を見て聖武天皇は天平15(744)年に平城京から遷都したのです。しかし,18年もかけて造営した難波宮も翌年の1月には都ではなくなってしまったようです。
聖武天皇はこのような遷都先の造営といった大規模な公共投資(その他に奈良の大仏建立や全国各地に国分寺・国分尼寺の建立もその一つ)を強力に引っ張る(推進する)ことによって,当時財政は膨大な赤字になったけれど,後に仏教芸術や建物を中心とする「天平文化」と呼ばれるものを残すことができたのだろうと私は思います。
今の奈良市は,そのおかげもあってか,世界文化遺産にも登録され,多くの観光収入を得ることができているわけです。
私も何度か奈良公園に行って,聖武天皇がした支出額に対する(1300年近く経っていますので)利息の何兆分の一かもしれませんが「鹿せんべい」を公園の売店で買って,シカに食べさせてあげたことがあります。
天の川 「たびとはんな。奈良に行ったら聖武さんみたいに,もっと豪勢に,パァッとお金を使わんとアカンがな。」
例が悪かったせいか,天の川君に突っ込まれてしまいました。
さて,奈良に行って感じることは,中途半端な公共投資は無駄の温床になりやすいのですが,同じやるなら歴史に長く残るようなチャレンジゃブルな公共投資はありだと思いますね。
<国家的大規模プロジェクト推進の原動力>
現代における公共投資は,土木工事や建築物だけではありません。素晴らしいディジタルコンテンツ(コンピュータ上のアートや有益な情報)やシステムを残すことも候補としてあるのだろうと私は思います。
ところで,大きな仕事をこなすチーム(プロジェクト)を引っ張るリーダは大変だというのが私の仕事上の経験(小規模プロジェクトばかりの経験ですが)からの感想です。一生懸命目標に向かって工程ごとの成果を出すようチームのメンバーに指示を出すのだけれども,思うようにチーム内のメンバーが動いてくれないことも少なくないのです。
奈良時代に(完了しなかったものも多かったと思いますが)国家的な難しい大プロジェクトをいくつも実施できた力は何処から出てきたのでしょうか?
万葉集には,前代未聞の大プロジェクトによって影響を間接的にせよ受けた側(プロジェクト実行側ではなく)の和歌のほうが多く含まれているのかもしれません。また,そのような影響を受けて嘆き悲しんだり,自分を慰めたりしている和歌のほうが現代でも多くの人たちにとって,文学的共感をえられる可能性が高いようにも感じます。
しかし,当時大きな変化を伴う国家的プロジェクトを実施した(引き起こした)ポテンシャル(潜在的な力)は,やはり東の果ての小さな島国をさまざまな面で大陸に負けない強い国家にしたいという強い意思が当時の為政者やそのブレーンにあったのだろうと思います。
その強い国家のイメージが軍事的なものではなく,産業,技術,芸術などの非軍事分野の高度化に向けられたのは,当時の仏教思想による影響が非常に大きかったのではないでしょうか。
これで4回に渡った「引く」はこれで終わりとし,次からは「踏む」について万葉集を見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(1)に続く。
2014年7月6日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3) 海で引くといえば何?
「引く」の3回目は,何らかのモノを引くことを詠んだ万葉集の和歌をみていきましょう。
最初は「舟(船)を引く」からです。次は山上憶良が福岡にある志賀の島に住む若き漁師荒雄の遭難死の悲しさを,その妻の立場で詠んだかもしれないとされる1首です。
大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも(16-3869)
<おほぶねにをぶねひきそへ かづくともしかのあらをに かづきあはめやも>
<<大船に小舟を引き添えて海に潜って捜そうとも志賀の荒雄に海中で逢うことができるだろうか>>
この短歌は10首詠まれた中の最後の1首です。10首が詠まれた背景として,荒雄が出港したいきさつなどが左注として詳しく書かれています。遭難し,行方不明になった荒雄を探すため,大きな船で遭難した可能性のある海域まで行き,一緒に引いて行った小舟に素潜りができる海人が乗り移り,小舟を浮きとして潜っては浮かびを繰り返して捜索をしようとした様子が伺えます。いくら多くの舟を出しても広い海の中から沈んでいる荒雄を見つけることは困難ですが,大船に小舟を引かせることが当時行われていたことを伺わせます。
次は「網を引く」を見ましょう。
大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声(3-238)
<おほみやのうちまできこゆ あびきすとあごととのふる あまのよびこゑ>
<<宮殿の中まで聞こえてきます。「網を引くぞ!」と網子を指揮する漁師の呼び声が>>
この短歌は,長意吉麻呂(ながのおきまろ)が難波の宮に行幸していた天皇から和歌を詠むよう指示されて詠んだとされる1首です。難波の宮は海の近くにあり,地引網漁をしている声が宮中まで聞こえてきたのでしょう。恐らく地引網漁は行幸に来た天皇のために行ったイベントであり,網子を指揮する漁師の声が宮中まで届いたので,意吉麻呂は地引網漁が始まったことを知らせ,御簾越にご覧になることを天皇に勧めたのかもしれません。地引網漁は,奈良や飛鳥の盆地ではけっして体験できないイベントですから,さぞや盛り上がったのではないかと私は想像します。
次は「楫を引く」を見ましょう。
我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに(7-1221)
<わがふねのかぢはなひきそ やまとよりこひこしこころ いまだあかなくに>
<<舟の梶を引かないで欲しい。大和よりもってきた恋しい心は,まだ萎えてしまっていないのに>>
この短歌は,左注に藤原卿作とあり,藤原房前(ふささき)か藤原麻呂(まろ)のどちらかが詠んだとの説があるそうです。旅先で,舟が先に進んで大和の京から離れていくにしたがって,都に残した恋人への思いが薄くなるどころか,さらに募り,舟を止めてほしいという思いを詠んだのでしょうか。楫は舟の方向を決めるもの(舵)とは異なり,櫓(ろ)や櫂(かい)をさします。したがって「楫を引く」ということは舟を漕ぐことと同じ意味になります。
さて,次回はその他の引くものを取り上げ「引く」のまとめとします。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ)に続く。
最初は「舟(船)を引く」からです。次は山上憶良が福岡にある志賀の島に住む若き漁師荒雄の遭難死の悲しさを,その妻の立場で詠んだかもしれないとされる1首です。
大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも(16-3869)
<おほぶねにをぶねひきそへ かづくともしかのあらをに かづきあはめやも>
<<大船に小舟を引き添えて海に潜って捜そうとも志賀の荒雄に海中で逢うことができるだろうか>>
この短歌は10首詠まれた中の最後の1首です。10首が詠まれた背景として,荒雄が出港したいきさつなどが左注として詳しく書かれています。遭難し,行方不明になった荒雄を探すため,大きな船で遭難した可能性のある海域まで行き,一緒に引いて行った小舟に素潜りができる海人が乗り移り,小舟を浮きとして潜っては浮かびを繰り返して捜索をしようとした様子が伺えます。いくら多くの舟を出しても広い海の中から沈んでいる荒雄を見つけることは困難ですが,大船に小舟を引かせることが当時行われていたことを伺わせます。
次は「網を引く」を見ましょう。
大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声(3-238)
<おほみやのうちまできこゆ あびきすとあごととのふる あまのよびこゑ>
<<宮殿の中まで聞こえてきます。「網を引くぞ!」と網子を指揮する漁師の呼び声が>>
この短歌は,長意吉麻呂(ながのおきまろ)が難波の宮に行幸していた天皇から和歌を詠むよう指示されて詠んだとされる1首です。難波の宮は海の近くにあり,地引網漁をしている声が宮中まで聞こえてきたのでしょう。恐らく地引網漁は行幸に来た天皇のために行ったイベントであり,網子を指揮する漁師の声が宮中まで届いたので,意吉麻呂は地引網漁が始まったことを知らせ,御簾越にご覧になることを天皇に勧めたのかもしれません。地引網漁は,奈良や飛鳥の盆地ではけっして体験できないイベントですから,さぞや盛り上がったのではないかと私は想像します。
次は「楫を引く」を見ましょう。
我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに(7-1221)
<わがふねのかぢはなひきそ やまとよりこひこしこころ いまだあかなくに>
<<舟の梶を引かないで欲しい。大和よりもってきた恋しい心は,まだ萎えてしまっていないのに>>
この短歌は,左注に藤原卿作とあり,藤原房前(ふささき)か藤原麻呂(まろ)のどちらかが詠んだとの説があるそうです。旅先で,舟が先に進んで大和の京から離れていくにしたがって,都に残した恋人への思いが薄くなるどころか,さらに募り,舟を止めてほしいという思いを詠んだのでしょうか。楫は舟の方向を決めるもの(舵)とは異なり,櫓(ろ)や櫂(かい)をさします。したがって「楫を引く」ということは舟を漕ぐことと同じ意味になります。
さて,次回はその他の引くものを取り上げ「引く」のまとめとします。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(4:まとめ)に続く。
2014年6月28日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(2) 心も体も引かれていきます
「引く」の2回目は,自分の体の一部や心を引くことについて,万葉集を見ていくことにしましょう。
最初は彼女が眉を引く(描く)姿が忘れられないという詠み人知らずの短歌です。
我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも(12-2900)
<わぎもこがゑまひまよびき おもかげにかかりてもとな おもほゆるかも>
<<彼女が微笑みながら眉を引いていた。その面影は幻としてしきりに浮んできて気掛りに思われることだなあ>>
彼女がお化粧をしているところを見たのでしょうか。作者にとって非常に魅力的に感じたのかもしれません。それが頭によぎって,彼女のことばかり考えている自分が居ることに気づき,この短歌を詠んだのだろうと私は考えたくなります。
次は,自分黒髪を引き解くことを詠んだ女性作と思われる短歌です。
ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも(11-2610)
<ぬばたまのわがくろかみを ひきぬらしみだれてさらに こひわたるかも>
<<私の黒髪を引き解いても心乱れて,あなたをさらに恋い慕い続けています>>
結った黒髪を引き解くということは女性がメークを落とすような時間帯なのでしょうか。一日のやるべきことを終えて(奈良時代では女性は家で機織や家事が主な仕事),仕事をやるうえで邪魔になるため結っていた髪を引き解いたときは,1日の終わりでようやくリラックスできる時間だったのかもしれません。そのときでも,彼を恋い慕う気持ちで心が乱れてしまう,そんな心情を表現したものだと私は思いたい短歌です。
今回の最後の和歌は,心を引くを詠んだ東歌(女性作)を紹介します。
赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ(14-3536)
<あかごまをうちてさをびき こころひきいかなるせなか わがりこむといふ>
<<赤駒を鞭打って緒を引き立てるように,私の心を引き立てるどのような殿方が私のところに来るというのでしょう(あなたしかいませんよ)>>
この東歌もなかなかの表現力をもった短歌だと私は思います。この女性は東国の野原で育ち,きっと馬にも乗れる活発な女性ではないかと私は想像します。そんな女性がこんな短歌を詠むということを知った京の男性はどう思ったでしょうか。親が家から出さず,気軽に逢うこともままならない京の女性とは違った,あこがれに似た強い魅力を感じたのかもしれません。
東歌を集めた大伴家持は東国の魅力を京人にアピールしたかったのではないかと,私は常々考えています。東国の物産の京での消費(引き)を増やし,東国が繁栄することで,当時の平城京を含む日本全体が豊かになると家持は考え,東歌を万葉集に入れたと仮説するのは論理が飛躍しすぎているのでしょうか。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3)に続く。
最初は彼女が眉を引く(描く)姿が忘れられないという詠み人知らずの短歌です。
我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも(12-2900)
<わぎもこがゑまひまよびき おもかげにかかりてもとな おもほゆるかも>
<<彼女が微笑みながら眉を引いていた。その面影は幻としてしきりに浮んできて気掛りに思われることだなあ>>
彼女がお化粧をしているところを見たのでしょうか。作者にとって非常に魅力的に感じたのかもしれません。それが頭によぎって,彼女のことばかり考えている自分が居ることに気づき,この短歌を詠んだのだろうと私は考えたくなります。
次は,自分黒髪を引き解くことを詠んだ女性作と思われる短歌です。
ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも(11-2610)
<ぬばたまのわがくろかみを ひきぬらしみだれてさらに こひわたるかも>
<<私の黒髪を引き解いても心乱れて,あなたをさらに恋い慕い続けています>>
結った黒髪を引き解くということは女性がメークを落とすような時間帯なのでしょうか。一日のやるべきことを終えて(奈良時代では女性は家で機織や家事が主な仕事),仕事をやるうえで邪魔になるため結っていた髪を引き解いたときは,1日の終わりでようやくリラックスできる時間だったのかもしれません。そのときでも,彼を恋い慕う気持ちで心が乱れてしまう,そんな心情を表現したものだと私は思いたい短歌です。
今回の最後の和歌は,心を引くを詠んだ東歌(女性作)を紹介します。
赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ(14-3536)
<あかごまをうちてさをびき こころひきいかなるせなか わがりこむといふ>
<<赤駒を鞭打って緒を引き立てるように,私の心を引き立てるどのような殿方が私のところに来るというのでしょう(あなたしかいませんよ)>>
この東歌もなかなかの表現力をもった短歌だと私は思います。この女性は東国の野原で育ち,きっと馬にも乗れる活発な女性ではないかと私は想像します。そんな女性がこんな短歌を詠むということを知った京の男性はどう思ったでしょうか。親が家から出さず,気軽に逢うこともままならない京の女性とは違った,あこがれに似た強い魅力を感じたのかもしれません。
東歌を集めた大伴家持は東国の魅力を京人にアピールしたかったのではないかと,私は常々考えています。東国の物産の京での消費(引き)を増やし,東国が繁栄することで,当時の平城京を含む日本全体が豊かになると家持は考え,東歌を万葉集に入れたと仮説するのは論理が飛躍しすぎているのでしょうか。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(3)に続く。
2014年6月22日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1) 植物は無闇に採ってはいけません
<私の引き際>
私の同年輩の人たちには,そろそろ現役を引退する人が増えています。「人間引き際が肝心」とか「引退しても悠々自適」とか「顧問として引く手あまた」とか,「引退」に関して世間ではいろいろと言われることがありますね。
私自身は「引き際を忘れて,往生際が悪く,仕事にしがみついて,一向に現役から引く気配を見せない」といったところでしょうか。理由は表向き「引き取り手がないので」ということにしていますが,本当は今の仕事(ソフトウェア保守開発の現場)は私には向いているし,好きだからです。
<本題>
さて,今回からしばらくは動詞「引く」を万葉集で見ていくことにします。実は,2012年7月8日の当ブログで,対語シリーズ「押すと引く」というテーマで「引く」を少し取り上げています。しかし,「引く」を国語辞典で(それこそ)引くとたくさんの説明が出てきます。
広い意味を持つ言葉のためか,状況や「引く」対象によって意味が異なる場合,次のように当てる漢字を別のものにすることがあります。
弾く,惹く,曳く,牽く,轢く,退く,挽く
万葉集に出てくる「引く」の対象も,次のようにさまざまです。
麻,網,石,板,馬,枝,帯,楫(かぢ),梶(かぢ),葛(くず),黒髪,心,琴,自分,裾(すそ),弦(つる),蔓(つる),幣(ぬさ),根,花,人,舟,眉,都(みやこ),藻(も),弓,緒(を)
今回は,その中で植物のさまざまな部分を「引く」動作を詠んだ和歌を見ていきましょう。
最初は梅の枝に関したものです。
引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも(8-1644)
<ひきよぢてをらばちるべみ うめのはなそでにこきいれつ しまばしむとも>
<<枝を引き寄せて折ったら梅の花が散ってしまいそう。花だけをしごいて袖に入れよう。花の色が袖に染まっても>>
この短歌は,大伴旅人の従者であった三野石守(みののいそもり)が詠んだとされる1首です。大伴旅人は大宰府長官としての赴任中,梅の花の美しさを愛でる和歌を従者とともに多く残しています。その影響なのかはわかりませんが,太宰府天満宮周辺には6,000本もの梅の木が植えられているそうです。
次は,夏になってものすごい勢いで伸びる葛を引く(駆除する)作業をしている乙女たちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女(10-1942)
<ほととぎすなくこゑきくや うのはなのさきちるをかに くずひくをとめ>
<<ほととぎすの鳴く声をもう聞いたかい? 卯の花が見事に咲いて,地面にも花弁が散っている丘で伸びた葛のつたを引いている早乙女たちよ>>
ほととぎすと卯の花から次の歌詞で始まる「夏は来ぬ」という唱歌を私は思い出しました。
♪卯の花の におう垣根に ほととぎす 早やも来啼(な)きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
この唱歌の作詞者を改めて調べてみました。すると,何と歌人で国文学者の佐々木信綱(1872~1963)ではないですか。今までこの唱歌の作詞者について私は全く意識していませんでした。佐々木信綱は万葉集にも造詣が深く,万葉集に関する本をたくさん出しています。もしかしたら佐々木信綱先生「夏は来ぬ」の作詞をするとき,この短歌も参考にしたのでは?と私は勝手な想像をしています。
最後は橘の花を引っ張る東歌です。
小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
<をさとなるはなたちばなを ひきよぢてをらむとすれど うらわかみこそ>
<<小さな里にある橘の花を引き寄せて折ろうとするが、まだ若々しく柔らかいので(折ることができないよ)>>
ここでの橘の花は目当ての女性を指していそうですね。この短歌の作者がお目当ての相手はまだ幼い少女で,なかなかうまく靡いてこないことを嘆いているようにも私には思えます。
実は万葉集の東歌には,このように女性の譬えとして花などを詠った優れた譬喩歌が何首も残されています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(2)に続く。
私の同年輩の人たちには,そろそろ現役を引退する人が増えています。「人間引き際が肝心」とか「引退しても悠々自適」とか「顧問として引く手あまた」とか,「引退」に関して世間ではいろいろと言われることがありますね。
私自身は「引き際を忘れて,往生際が悪く,仕事にしがみついて,一向に現役から引く気配を見せない」といったところでしょうか。理由は表向き「引き取り手がないので」ということにしていますが,本当は今の仕事(ソフトウェア保守開発の現場)は私には向いているし,好きだからです。
<本題>
さて,今回からしばらくは動詞「引く」を万葉集で見ていくことにします。実は,2012年7月8日の当ブログで,対語シリーズ「押すと引く」というテーマで「引く」を少し取り上げています。しかし,「引く」を国語辞典で(それこそ)引くとたくさんの説明が出てきます。
広い意味を持つ言葉のためか,状況や「引く」対象によって意味が異なる場合,次のように当てる漢字を別のものにすることがあります。
弾く,惹く,曳く,牽く,轢く,退く,挽く
万葉集に出てくる「引く」の対象も,次のようにさまざまです。
麻,網,石,板,馬,枝,帯,楫(かぢ),梶(かぢ),葛(くず),黒髪,心,琴,自分,裾(すそ),弦(つる),蔓(つる),幣(ぬさ),根,花,人,舟,眉,都(みやこ),藻(も),弓,緒(を)
今回は,その中で植物のさまざまな部分を「引く」動作を詠んだ和歌を見ていきましょう。
最初は梅の枝に関したものです。
引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも(8-1644)
<ひきよぢてをらばちるべみ うめのはなそでにこきいれつ しまばしむとも>
<<枝を引き寄せて折ったら梅の花が散ってしまいそう。花だけをしごいて袖に入れよう。花の色が袖に染まっても>>
この短歌は,大伴旅人の従者であった三野石守(みののいそもり)が詠んだとされる1首です。大伴旅人は大宰府長官としての赴任中,梅の花の美しさを愛でる和歌を従者とともに多く残しています。その影響なのかはわかりませんが,太宰府天満宮周辺には6,000本もの梅の木が植えられているそうです。
次は,夏になってものすごい勢いで伸びる葛を引く(駆除する)作業をしている乙女たちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女(10-1942)
<ほととぎすなくこゑきくや うのはなのさきちるをかに くずひくをとめ>
<<ほととぎすの鳴く声をもう聞いたかい? 卯の花が見事に咲いて,地面にも花弁が散っている丘で伸びた葛のつたを引いている早乙女たちよ>>
ほととぎすと卯の花から次の歌詞で始まる「夏は来ぬ」という唱歌を私は思い出しました。
♪卯の花の におう垣根に ほととぎす 早やも来啼(な)きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
この唱歌の作詞者を改めて調べてみました。すると,何と歌人で国文学者の佐々木信綱(1872~1963)ではないですか。今までこの唱歌の作詞者について私は全く意識していませんでした。佐々木信綱は万葉集にも造詣が深く,万葉集に関する本をたくさん出しています。もしかしたら佐々木信綱先生「夏は来ぬ」の作詞をするとき,この短歌も参考にしたのでは?と私は勝手な想像をしています。
最後は橘の花を引っ張る東歌です。
小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ(14-3574)
<をさとなるはなたちばなを ひきよぢてをらむとすれど うらわかみこそ>
<<小さな里にある橘の花を引き寄せて折ろうとするが、まだ若々しく柔らかいので(折ることができないよ)>>
ここでの橘の花は目当ての女性を指していそうですね。この短歌の作者がお目当ての相手はまだ幼い少女で,なかなかうまく靡いてこないことを嘆いているようにも私には思えます。
実は万葉集の東歌には,このように女性の譬えとして花などを詠った優れた譬喩歌が何首も残されています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(2)に続く。
2014年6月14日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ) 胸が焼き焦げるほど一緒に暮らしたいよ~
<秋田訪問報告>
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
9日~11日の秋田出張では,ナマハゲがいろんなところで出迎えてくれました。
秋田の地酒や美味しいもの(刺身,ハタハタ塩焼き,ブリコ,生ガキ,稲庭うどん,いぶりがっこ,きりたんぽ,比内地鶏の親子丼やつくね,ババヘラ,などなど)を堪能できました。
また,少し時間の調整ができたので,大仙市角間川町を訪問しました。突然の訪問にも関わらず,非常に手厚く対応頂いたのを見て,秋田の人々の人情の厚さに触れることもできました。
新幹線の帰りの日の朝には,夕方帰る私には特に影響はありませんが,田沢湖線で新幹線がクマをはねたというニュースが入りました。やはり旅では非日常的なニュースに遭遇し,楽しいものです。
<「焼く」の最終回>
さて,「焼く」の最後の回となりました。占いのために骨を焼いて,その割れ具合で吉兆を占ったという風習があったことを示す長歌から見ていきます。この長歌は,遣新羅使の六人部鯖麻呂(むとべのさばまろ)が同行の雪宅麻呂(ゆきのやかまろ)の死を悼んで詠んだ中の1首です。
わたつみの畏き道を 安けくもなく悩み来て 今だにも喪なく行かむと 壱岐の海人のほつての占部を 肩焼きて行かむとするに 夢のごと道の空路に 別れする君(15-3694)
<わたつみのかしこきみちを やすけくもなくなやみきて いまだにももなくゆかむと ゆきのあまのほつてのうらへを かたやきてゆかむとするに いめのごとみちのそらぢに わかれするきみ>
<<海神がいる恐ろしい道を安らかな思いもなく,つらい思いで来て,今からは禍なく行こうと壱岐の海人部の名高い占いで肩骨を焼いて進もうとする矢先,夢のように空へ旅立つ別れをする君よ>>
旅の安全を占うために,鹿の肩骨を焼き,吉凶を占う有名な占い師が壱岐の海人(漁師というより水先案内人のような人たち?)の中にいたようです。ただ,その占いは吉と出たが,同行の雪宅麻呂が何の病気なのか分かりませんが突然逝ってしまったのです。それを悼んで3人が挽歌を詠んでいます。鯖麻呂はその一人です。
次は同じく,占いで肩骨を焼くことを詠んだ東歌(詠み人知らずの短歌)です。
武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり(14-3374)
<むざしのにうらへかたやき まさでにものらぬきみがな うらにでにけり>
<<武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ってもらったら,どこにもまったく打ちあけていないのに,あなた様を恋い慕っていることが占いの結果に出てしまいました>>
この短歌は昨年5月5日のブログでも取り上げています。女性作のようですが,なかなか優れた表現の短歌ではないかと私は思います。自分が相手の男性を恋い慕っていて,他の男性には目もくれず,一筋であること。それを占いの結果として伝えることで,相手にさりげなく(変なプレッシャーを与えることなく)分かってもらうようにしている点を私は評価します。もしかしたら,東国とはいえ,けっこう教養の高い家の娘で,母親などが和歌を詠む方法を指南したかもしれませんね。
「焼く」の最後として「胸を焼く」という表現を見ます。
次は大伴家持が後に自身の正妻になる坂上大嬢に贈った短歌です。
夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし(4-755)
<よのほどろいでつつくらく たびまねくなればあがむね たちやくごとし>
<<夜明けに君の家から帰ることがたび重なり,僕の胸はもう切り裂かれて焼かれるようだ>>
家持はこのころ(20歳代半ば)には大嬢と一緒に暮らしたいと心から思っていたように私には思えます。今の結婚観では夫婦が一緒に暮らすのは当たり前です。しかし,万葉時代の上流階級の結婚観は妻問婚が一般的のようでしたから,一緒に暮らすことは簡単ではありませんでした。
当時夫婦が一生添い遂げるといったことは必須ではなく,同居していない夫が子供の育児にかかわることもほとんどなかったようです。
また,家持は京から離れた場所への赴任が多いため,さらに一緒に暮らすことや妻問を定期的にすること自体が難しくなります。父の大伴旅人が赴任先の大宰府に妻を呼んだように,妻との同居や叔母の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の積極的な男性へのアプローチなどを見て,妻問婚ではなく,夫婦が一緒に暮らすことに家持はあまり抵抗はなかったのかもしれません。夫婦がお互いの愛を確かめるうえで,また自分の子ともを愛するうえで,必要な行為だと家持は年を重ね考えるようになったのでは?と私は感じます。
最近,私自身は,それぞれいろいろな事情があるにせよ,夫婦や子供を含めた家族が一緒に暮らすことのメリットをもっと評価し,一緒に暮らすためにお互いが(公平に)自制し合うことに,大きな価値を多くの人がもっと感じてほしいと,万葉集を愛している影響なのか,そう願うことが多くなっています。
動きの詞(ことば)シリーズ…引く(1)に続く。
2014年6月9日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(2) 枯草はパチパチ燃え,焼きもちは膨らんでは萎む
<学会参加に秋田へ向かう>
今回の投稿は,今日から秋田市で開かれるソフトウェア関連の学会に参加するため移動中の秋田新幹線のきれいな最新型「こまち」の中からアップしています。飛行機での移動も考えたのですが,開催場所が秋田駅のすぐ近くで,自宅から大宮経由で新幹線で行く時間と飛行機を使った時間はほとんど変わらず,さらにパソコンが自由に使える新幹線にしました。
それにしても,盛岡から秋田までは車両は新幹線のままですが,ローカル線をガタンゴトンと,のどかに走る列車旅ですね。
さて,「焼く」の2回目は「焼く」対象を前回で示した「塩」「太刀」以外のものを万葉集で見ていくことにします。
まず,最初は現在でも「野焼き」という言葉あるように,「野を焼く」とを詠んだ長歌(一部)です。この長歌,笠金村作といわれ,志貴皇子が亡くなったことに関連して詠んだとされています。
~立ち向ふ高円山に 春野焼く野火と見るまで 燃ゆる火を何かと問へば 玉鉾の道来る人の 泣く涙こさめに降れば 白栲の衣ひづちて 立ち留まり我れに語らく なにしかももとなとぶらふ~(2-230)
<~たちむかふたかまとやまに はるのやくのびとみるまで もゆるひをなにかととへば たまほこのみちくるひとの なくなみたこさめにふれば しろたへのころもひづちて たちとまりわれにかたらく なにしかももとなとぶらふ~>
<<~向こうに見える高円山に,春野を焼く野火かと見えるほどの火を,『何の火ですか』と尋ねると,道をやって来る人が泣く涙は雨のように流れ,衣も濡れて,立ち止まりわたしに言うのは,『どうしてそんなこと聞くのか?』~ >>
高円山の春野を焼く野火に見えたのは,実際は野火ではなく志貴皇子が亡くなった葬式の行列の松明(たいまつ)の火だったのです。隊列をなして松明の火が遠くから見ると野を焼く火が一列になって燃え進んでいく様子と似ていたと感じた作者だが,少し様子が違うので,「何の火か?」と尋ねた。そうしたら,来る人はみんな涙に濡れていて,「志貴皇子のお葬式の隊列の火であることを知らないのか?」という返事が返ってくるというストーリーの挽歌なのです。
もう1首「野を焼く」が出てくる詠み人知らずの短歌を紹介します。
冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く(7-1336)
<ふゆこもりはるのおほのを やくひとはやきたらねかも わがこころやく>
<<春,広い野を焼く人は,野を焼くだけでは足りず,私の心まで焼いてしまう>>
春の野焼きを見ていた作者は,枯草がパチパチと音を立てて燃えるさまが,恋の炎で燃える自分の心と同じイメージができ上がったのかもしれません。
心が焼けるとは,恋の苦しさの喩えなのか,それとも相手に対する深い情念を表しているのか,焼きもちを焼いている(嫉妬心に燃えている)ことか,いや過去の恋の清算を表しているのか,この短歌は見た人のさまざまな恋の経験からいろいろな想像をさせてくれます。
結局「野焼き」は譬えであり,この短歌での焼く対象は「自分の心」ということになります。
では,次は「自分の心を焼く」を突き詰めた詠み人知らずの長歌と反歌を紹介します。
さし焼かむ小屋の醜屋に かき棄てむ破れ薦を敷きて 打ち折らむ醜の醜手を さし交へて寝らむ君ゆゑ あかねさす昼はしみらに ぬばたまの夜はすがらに この床のひしと鳴るまで 嘆きつるかも(13-3270)
<さしやかむこやのしこやに かきうてむやれごもをしきて うちをらむしこのしこてを さしかへてぬらむきみゆゑ あかねさすひるはしみらに ぬばたまのよるはすがらに このとこのひしとなるまで なげきつるかも>
<<焼いてしまいたいような醜い小屋,すぐ棄ててしまいたいような破れた薦を敷いた床で,へし折ってしまいたいような醜い手を絡めて他の女と寝ているあなた。それを想像すると,昼も夜も通して私が寝ている床はヒシヒシと音がするほどに嫉妬に暮れているのです>>
我が心焼くも我れなりはしきやし君に恋ふるも我が心から(13-3271)
<わがこころやくもわれなり はしきやしきみにこふるも わがこころから>
<<私の心を嫉妬心で焼くのも私の心がしていること。すべてそれほどあなたのことを恋している私の心のせいなのです>>
私は,この2首は女性の立場になって男性が詠んだか,女性でもあっても結構年配の女性が,若い男子に「複雑な女性の気持ちをちゃんと理解しなさい。女性は怖いのよ」と諭している和歌のようにも感じます。
天の川 「あ~あッ。ちょっと待って~な。たびとはん。」
おッ。雨が降り続いていて,ずっと寝床にいて,蒲団がカビ臭くなってきたのか,しばらくぶりに起きてきたな天の川君。
天の川 「いくら何でも,この2首は過激やあらへんか? それに,こんな喩えで若い男連中が女の気持ち分かるんか?」
私にはよく理解できるような気がするけどね。
天の川 「なるほどな。たびとはんは,よっぽと,怖い目に遭うてきはったんやな。」
余計なことを言うな! 天の川君。寝床に引っ込んでいなさい。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ)に続く。
今回の投稿は,今日から秋田市で開かれるソフトウェア関連の学会に参加するため移動中の秋田新幹線のきれいな最新型「こまち」の中からアップしています。飛行機での移動も考えたのですが,開催場所が秋田駅のすぐ近くで,自宅から大宮経由で新幹線で行く時間と飛行機を使った時間はほとんど変わらず,さらにパソコンが自由に使える新幹線にしました。
それにしても,盛岡から秋田までは車両は新幹線のままですが,ローカル線をガタンゴトンと,のどかに走る列車旅ですね。
さて,「焼く」の2回目は「焼く」対象を前回で示した「塩」「太刀」以外のものを万葉集で見ていくことにします。
まず,最初は現在でも「野焼き」という言葉あるように,「野を焼く」とを詠んだ長歌(一部)です。この長歌,笠金村作といわれ,志貴皇子が亡くなったことに関連して詠んだとされています。
~立ち向ふ高円山に 春野焼く野火と見るまで 燃ゆる火を何かと問へば 玉鉾の道来る人の 泣く涙こさめに降れば 白栲の衣ひづちて 立ち留まり我れに語らく なにしかももとなとぶらふ~(2-230)
<~たちむかふたかまとやまに はるのやくのびとみるまで もゆるひをなにかととへば たまほこのみちくるひとの なくなみたこさめにふれば しろたへのころもひづちて たちとまりわれにかたらく なにしかももとなとぶらふ~>
<<~向こうに見える高円山に,春野を焼く野火かと見えるほどの火を,『何の火ですか』と尋ねると,道をやって来る人が泣く涙は雨のように流れ,衣も濡れて,立ち止まりわたしに言うのは,『どうしてそんなこと聞くのか?』~ >>
高円山の春野を焼く野火に見えたのは,実際は野火ではなく志貴皇子が亡くなった葬式の行列の松明(たいまつ)の火だったのです。隊列をなして松明の火が遠くから見ると野を焼く火が一列になって燃え進んでいく様子と似ていたと感じた作者だが,少し様子が違うので,「何の火か?」と尋ねた。そうしたら,来る人はみんな涙に濡れていて,「志貴皇子のお葬式の隊列の火であることを知らないのか?」という返事が返ってくるというストーリーの挽歌なのです。
もう1首「野を焼く」が出てくる詠み人知らずの短歌を紹介します。
冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く(7-1336)
<ふゆこもりはるのおほのを やくひとはやきたらねかも わがこころやく>
<<春,広い野を焼く人は,野を焼くだけでは足りず,私の心まで焼いてしまう>>
春の野焼きを見ていた作者は,枯草がパチパチと音を立てて燃えるさまが,恋の炎で燃える自分の心と同じイメージができ上がったのかもしれません。
心が焼けるとは,恋の苦しさの喩えなのか,それとも相手に対する深い情念を表しているのか,焼きもちを焼いている(嫉妬心に燃えている)ことか,いや過去の恋の清算を表しているのか,この短歌は見た人のさまざまな恋の経験からいろいろな想像をさせてくれます。
結局「野焼き」は譬えであり,この短歌での焼く対象は「自分の心」ということになります。
では,次は「自分の心を焼く」を突き詰めた詠み人知らずの長歌と反歌を紹介します。
さし焼かむ小屋の醜屋に かき棄てむ破れ薦を敷きて 打ち折らむ醜の醜手を さし交へて寝らむ君ゆゑ あかねさす昼はしみらに ぬばたまの夜はすがらに この床のひしと鳴るまで 嘆きつるかも(13-3270)
<さしやかむこやのしこやに かきうてむやれごもをしきて うちをらむしこのしこてを さしかへてぬらむきみゆゑ あかねさすひるはしみらに ぬばたまのよるはすがらに このとこのひしとなるまで なげきつるかも>
<<焼いてしまいたいような醜い小屋,すぐ棄ててしまいたいような破れた薦を敷いた床で,へし折ってしまいたいような醜い手を絡めて他の女と寝ているあなた。それを想像すると,昼も夜も通して私が寝ている床はヒシヒシと音がするほどに嫉妬に暮れているのです>>
我が心焼くも我れなりはしきやし君に恋ふるも我が心から(13-3271)
<わがこころやくもわれなり はしきやしきみにこふるも わがこころから>
<<私の心を嫉妬心で焼くのも私の心がしていること。すべてそれほどあなたのことを恋している私の心のせいなのです>>
私は,この2首は女性の立場になって男性が詠んだか,女性でもあっても結構年配の女性が,若い男子に「複雑な女性の気持ちをちゃんと理解しなさい。女性は怖いのよ」と諭している和歌のようにも感じます。
天の川 「あ~あッ。ちょっと待って~な。たびとはん。」
おッ。雨が降り続いていて,ずっと寝床にいて,蒲団がカビ臭くなってきたのか,しばらくぶりに起きてきたな天の川君。
天の川 「いくら何でも,この2首は過激やあらへんか? それに,こんな喩えで若い男連中が女の気持ち分かるんか?」
私にはよく理解できるような気がするけどね。
天の川 「なるほどな。たびとはんは,よっぽと,怖い目に遭うてきはったんやな。」
余計なことを言うな! 天の川君。寝床に引っ込んでいなさい。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(3:まとめ)に続く。
2014年5月30日金曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(1) ブランド好みいつの世も
今回から動詞「焼く」について,万葉集を見ていくことにします。
今の季節,紫外線が結構強い時期ですので,肌を焼く場合,無理に焼きすぎないように気を付けたいものですね。そのほか,現代で「焼く」対象といえば,肉,魚介類,野菜,栗,芋,せんべい,小麦粉やトウモロコシを水で溶いたものなど食用のための焼く,有田焼,清水焼,九谷焼,信楽焼,瀬戸焼,益子焼などの陶芸品を焼くなどがすぐ出てくるかもしれません。また,「お節介を焼く」,「世話を焼く」,「手を焼く」などの慣用句も結構使われるのではないでしょうか。
さて,万葉集では「焼く」という動きの対象は結構多岐にわたっていますので,順番に見ていくことにしましょう。
万葉集で一番多く出てくる「焼く」対象は,「塩」を焼くという表現です。
須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも(17-3932)
<すまひとのうみへつねさらず やくしほのからきこひをも あれはするかも>
<<須磨の人がいつも海辺で焼いている塩が辛いように私は辛い恋をしています>>
この短歌は平群氏女郎(へぐりうぢのいらつめ)が越中赴任中の大伴家持宛に詠んだ12首のなかの1首です。この短歌から,塩は須磨産のものが有名であり,海水を濃くして最後は火で焼いて作ること,須磨産の塩は辛さが強いことなどが想像できます。
この短歌の最初の五七五(いわゆる上の句)は典型的な序詞です。結局言いたいことは下の句の「辛き恋をも我れはするかも」です。文学として見た場合,あまり高評価な短歌ではないかもしれません。でも,このような「序詞」を使った和歌が,当時多くの人に知られていたことや社会の動きを知るうえで貴重な情報源だと私は評価すべきと考えます。
他に塩を焼く場所として万葉集に出てくるのは,志賀の海(今の福岡市志賀島),縄の浦(今の兵庫県相生市),手結が浦(今の福井県敦賀市),松帆の浦(今の兵庫県淡路市),藤井の浦(今の兵庫県明石市)です。これらの塩の産地が当時有名だったとすると,瀬戸内海の波が穏やかで比較的少雨の場所に多くあり,遠く離れていても平城京に船で運びやすい場所(次の長歌の一部に出てくる敦賀は琵琶湖水運を利用)であるなどの傾向が私には伺えます。
~ 喘きつつ我が漕ぎ行けば ますらをの手結が浦に 海女娘子塩焼く煙 草枕旅にしあれば ひとりして見る験なみ ~(3-366)
<~ あへきつつわがこぎゆけば ますらをのたゆひがうらに あまをとめしほやくけぶり くさまくらたびにしあれば ひとりしてみるしるしなみ ~>
<<~ 喘ぎながら私が乗る船が漕ぎ進むと,手結が浦に若い海女乙女たちが塩を焼く煙が見える。ただ,旅の途中ひとりで見てもつまらない ~>>
この長歌は,笠金村(かさのかねむら)が越前を旅していて,一人旅の寂しさを詠んだもののようです。
さて,次に「焼く」対象として出てくるのが「太刀」です。万葉時代の「剣(つるぎ)」は戦争の武器としてポピュラーにものだったと考えられます。その切れ味や相手との勝負を有利にするために大型化,軽量化,そして強度を増すことが求められていたと考えられます。そのため,比較的加工しやすい軟鉄で刀の形に加工し,良い形ができた時点で,焼き入れをして,鋼鉄に変えることで,切れ味を増し,丈夫になります。
万葉集では「焼き太刀の」または「焼き太刀を」という表現が出てきます。これらは「利(と)」や「辺(へ)」に掛かる枕詞であるという説が一般的のようです。
焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ(18-4085)
<やきたちをとなみのせきに あすよりはもりへやりそへ きみをとどめむ>
<<砺波の関所に明日にはもっと多くの番兵を差し向けて,あなたがお帰りになられるのを引き留めましょう>>
この短歌は大伴家持が天平感宝元年5月5日に東大寺から越中に来た僧たちが京に戻るとき設けられた宴の席で僧たちに贈ったといわれる1首です。「焼き太刀を」は砺波(となみ)の「と」に掛かる枕詞であろうとして使用されている例です。
ただ,次の湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだとされる短歌にでてくる「焼き太刀の」は,枕詞としてではない使用例のようです。
焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
<やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり>
<<焼き太刀の鋭い刃で石を打って出た火を使い,屈強な男性がしっかり仕込んで醸造したという上等な酒に私は酔ってしまったなあ>>
私はこの短歌から万葉時代の貴族など比較的裕福な人たちに対し,酒の作成過程を提示して高級な製品(他製品との差別化製品)であることを示していたことが伺えます。
今でも「天然水仕立て」「合成添加物無添加」「○○産自然塩使用」「手搾り感覚果実入り缶チューハイ」などのキャッチコピーで宣伝し,高品質を訴求している製品が溢れていますね。
万葉時代には酒の醸造技術も進化し,それまでに比べて格段に高品質な酒が出回るようになったのは間違いないでしょう。ただ,鋭い焼き太刀から出る火花の火で火を起こし,その火で米を蒸すとうまい酒ができるという根拠は薄いと私は思いますので,このキャッチコピーは単なるイメージ戦略かもしれませんね。
次回は,別の「焼く」対象について見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(2)に続く。
今の季節,紫外線が結構強い時期ですので,肌を焼く場合,無理に焼きすぎないように気を付けたいものですね。そのほか,現代で「焼く」対象といえば,肉,魚介類,野菜,栗,芋,せんべい,小麦粉やトウモロコシを水で溶いたものなど食用のための焼く,有田焼,清水焼,九谷焼,信楽焼,瀬戸焼,益子焼などの陶芸品を焼くなどがすぐ出てくるかもしれません。また,「お節介を焼く」,「世話を焼く」,「手を焼く」などの慣用句も結構使われるのではないでしょうか。
さて,万葉集では「焼く」という動きの対象は結構多岐にわたっていますので,順番に見ていくことにしましょう。
万葉集で一番多く出てくる「焼く」対象は,「塩」を焼くという表現です。
須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも(17-3932)
<すまひとのうみへつねさらず やくしほのからきこひをも あれはするかも>
<<須磨の人がいつも海辺で焼いている塩が辛いように私は辛い恋をしています>>
この短歌は平群氏女郎(へぐりうぢのいらつめ)が越中赴任中の大伴家持宛に詠んだ12首のなかの1首です。この短歌から,塩は須磨産のものが有名であり,海水を濃くして最後は火で焼いて作ること,須磨産の塩は辛さが強いことなどが想像できます。
この短歌の最初の五七五(いわゆる上の句)は典型的な序詞です。結局言いたいことは下の句の「辛き恋をも我れはするかも」です。文学として見た場合,あまり高評価な短歌ではないかもしれません。でも,このような「序詞」を使った和歌が,当時多くの人に知られていたことや社会の動きを知るうえで貴重な情報源だと私は評価すべきと考えます。
他に塩を焼く場所として万葉集に出てくるのは,志賀の海(今の福岡市志賀島),縄の浦(今の兵庫県相生市),手結が浦(今の福井県敦賀市),松帆の浦(今の兵庫県淡路市),藤井の浦(今の兵庫県明石市)です。これらの塩の産地が当時有名だったとすると,瀬戸内海の波が穏やかで比較的少雨の場所に多くあり,遠く離れていても平城京に船で運びやすい場所(次の長歌の一部に出てくる敦賀は琵琶湖水運を利用)であるなどの傾向が私には伺えます。
~ 喘きつつ我が漕ぎ行けば ますらをの手結が浦に 海女娘子塩焼く煙 草枕旅にしあれば ひとりして見る験なみ ~(3-366)
<~ あへきつつわがこぎゆけば ますらをのたゆひがうらに あまをとめしほやくけぶり くさまくらたびにしあれば ひとりしてみるしるしなみ ~>
<<~ 喘ぎながら私が乗る船が漕ぎ進むと,手結が浦に若い海女乙女たちが塩を焼く煙が見える。ただ,旅の途中ひとりで見てもつまらない ~>>
この長歌は,笠金村(かさのかねむら)が越前を旅していて,一人旅の寂しさを詠んだもののようです。
さて,次に「焼く」対象として出てくるのが「太刀」です。万葉時代の「剣(つるぎ)」は戦争の武器としてポピュラーにものだったと考えられます。その切れ味や相手との勝負を有利にするために大型化,軽量化,そして強度を増すことが求められていたと考えられます。そのため,比較的加工しやすい軟鉄で刀の形に加工し,良い形ができた時点で,焼き入れをして,鋼鉄に変えることで,切れ味を増し,丈夫になります。
万葉集では「焼き太刀の」または「焼き太刀を」という表現が出てきます。これらは「利(と)」や「辺(へ)」に掛かる枕詞であるという説が一般的のようです。
焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ(18-4085)
<やきたちをとなみのせきに あすよりはもりへやりそへ きみをとどめむ>
<<砺波の関所に明日にはもっと多くの番兵を差し向けて,あなたがお帰りになられるのを引き留めましょう>>
この短歌は大伴家持が天平感宝元年5月5日に東大寺から越中に来た僧たちが京に戻るとき設けられた宴の席で僧たちに贈ったといわれる1首です。「焼き太刀を」は砺波(となみ)の「と」に掛かる枕詞であろうとして使用されている例です。
ただ,次の湯原王(ゆはらのおほきみ)が詠んだとされる短歌にでてくる「焼き太刀の」は,枕詞としてではない使用例のようです。
焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり(6-989)
<やきたちのかどうちはなち ますらをのほくとよみきに われゑひにけり>
<<焼き太刀の鋭い刃で石を打って出た火を使い,屈強な男性がしっかり仕込んで醸造したという上等な酒に私は酔ってしまったなあ>>
私はこの短歌から万葉時代の貴族など比較的裕福な人たちに対し,酒の作成過程を提示して高級な製品(他製品との差別化製品)であることを示していたことが伺えます。
今でも「天然水仕立て」「合成添加物無添加」「○○産自然塩使用」「手搾り感覚果実入り缶チューハイ」などのキャッチコピーで宣伝し,高品質を訴求している製品が溢れていますね。
万葉時代には酒の醸造技術も進化し,それまでに比べて格段に高品質な酒が出回るようになったのは間違いないでしょう。ただ,鋭い焼き太刀から出る火花の火で火を起こし,その火で米を蒸すとうまい酒ができるという根拠は薄いと私は思いますので,このキャッチコピーは単なるイメージ戦略かもしれませんね。
次回は,別の「焼く」対象について見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(2)に続く。
2014年5月23日金曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(4:まとめ) 放って置かないで!
<長浜城に寄る>
この前の土日は今年もみかんの木の年間オーナーになって,「今年の木」の抽選会に出るために奈良の明日香村に行きました。行きの土曜日は,途中,長浜城に寄り,長浜城の天守から晴天の琵琶湖を眺めることができました。
また,長浜城の近くのお蕎麦屋さんで,昼食に「にしんそば」ではなく,おそらく日本海産のサバが主役の「サバそうめん」定食を食べました。サバの甘露煮がボリューム満点で満足な昼食でした。
<明日香ミカン農園に着く>
みかん農園から見た明日香村方面も晴天で遠くの方まで見ることができました。畝傍山と二上山がはっきりと見えました。
<本題>
さて,「置く」の最終回は今まで出てきた用法以外の「置く」について見ていきます。
「置く」には置く対象があるはずですね。万葉集で「置く」の対象を見ていきますと,まず「幣(ぬさ)」がみつかります。「幣」とは神前に折りたたんで供える布,紙を指します。万葉集では旅の安全を祈るため,各地場の神々に幣を供えることが出てきます。
山科の石田の杜に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも(9-1731)
<やましなのいはたのもりに ぬさおかばけだしわぎもに ただにあはむかも>
<<山科の石田の社に幣を捧げて祈ったらすぐ妻に逢えないだろうか>>
この短歌は2012年8月11日の本ブログにも紹介している藤原宇合(ふじはらのうまかひ)が詠んだというものです。
私が育った京都市山科にある石田(いわた)神社は奈良の京から逢坂山を通って近江や東国へ行く無事を祈って幣を供える(手向ける)ことが流行っていたのだろうと私は想像します。
スムーズに旅が進むよう加護される霊験が大きいといわれている石田神社に幣を手向ければ(置けば),待っている妻とすぐ逢えると考えこの短歌を宇合は詠んだのかもしれませんね。
次は馬酔木の花を「置く」場所について詠んだ短歌です。
かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ(10-1868)
<かはづなくよしののかはの たきのうへのあしびのはなぞ はしにおくなゆめ>
<<カエルが鳴いている清らかな吉野川の滝の上に咲いていた馬酔木の花ですぞ。隅の方に置いてはなりません>>
この場合のカエルはカジカガエルなのでしょうね。そんな清らかな場所のさらに滝の上の採りにくい場所に咲いていた馬酔木の花をなのだから粗末に扱わず,ちゃんとした場所に飾るようにこの短歌は促しています。
ここでいう「置く」は飾るという意味に近いように感じます。
次も植物を置くことを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌)ですが,その植物は別のものの譬えです。
あしひきの山かづらかげましばにも得がたきかげを置きや枯らさむ(14-3573)
<あしひきのやまかづらかげ ましばにもえがたきかげを おきやからさむ>
<<山に生えている珍しいヒカゲノカズラ。これは滅多に得られないもの。置いたままにして枯らすようなことは決してすまいぞ>>
「山かづら」は,この短歌の作者が恋している彼女のことを譬えていると考えても良いでしょう。
やっと最高の恋人ができた。絶対離したくない。放っておかない。そんな思いがこの短歌から見えます。
最後もそのままにするという意味の「置く」を詠んだ詠み人知らずの女性が詠んだ,または女性の立場で詠んだと思われる短歌です。
あしひきの山桜戸を開け置きて我が待つ君を誰れか留むる(11-2617)
<あしひきのやまさくらとを あけおきてわがまつきみを たれかとどむる>
<<山桜戸を開けたまま,私が待っているあの人を,誰が引き留めているのでしょう>>
私はいつでもOKなのに,なかなか来てくれない彼。もしかしたら誰かが私のところに行けないように引き留めているのではないかと思いたくなるくらい待ち遠しい。「いつでもOK」という気持ちを「山桜戸を開け置きて」という美しい表現を使っているこの短歌を見て,この作者に同情する私がいます。
そして,藤原定家が恋人が来るのを待つ少女の立場で詠んだ百人一首の短歌を思い出しました。
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(97番)
ここまで多様な「置く」の表現を万葉集で見てきました。次回からはこの百人一首の短歌にも出てくる「焼く」を万葉集で見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(1)に続く。
この前の土日は今年もみかんの木の年間オーナーになって,「今年の木」の抽選会に出るために奈良の明日香村に行きました。行きの土曜日は,途中,長浜城に寄り,長浜城の天守から晴天の琵琶湖を眺めることができました。
また,長浜城の近くのお蕎麦屋さんで,昼食に「にしんそば」ではなく,おそらく日本海産のサバが主役の「サバそうめん」定食を食べました。サバの甘露煮がボリューム満点で満足な昼食でした。
<明日香ミカン農園に着く>
みかん農園から見た明日香村方面も晴天で遠くの方まで見ることができました。畝傍山と二上山がはっきりと見えました。
<本題>
さて,「置く」の最終回は今まで出てきた用法以外の「置く」について見ていきます。
「置く」には置く対象があるはずですね。万葉集で「置く」の対象を見ていきますと,まず「幣(ぬさ)」がみつかります。「幣」とは神前に折りたたんで供える布,紙を指します。万葉集では旅の安全を祈るため,各地場の神々に幣を供えることが出てきます。
山科の石田の杜に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも(9-1731)
<やましなのいはたのもりに ぬさおかばけだしわぎもに ただにあはむかも>
<<山科の石田の社に幣を捧げて祈ったらすぐ妻に逢えないだろうか>>
この短歌は2012年8月11日の本ブログにも紹介している藤原宇合(ふじはらのうまかひ)が詠んだというものです。
私が育った京都市山科にある石田(いわた)神社は奈良の京から逢坂山を通って近江や東国へ行く無事を祈って幣を供える(手向ける)ことが流行っていたのだろうと私は想像します。
スムーズに旅が進むよう加護される霊験が大きいといわれている石田神社に幣を手向ければ(置けば),待っている妻とすぐ逢えると考えこの短歌を宇合は詠んだのかもしれませんね。
次は馬酔木の花を「置く」場所について詠んだ短歌です。
かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ(10-1868)
<かはづなくよしののかはの たきのうへのあしびのはなぞ はしにおくなゆめ>
<<カエルが鳴いている清らかな吉野川の滝の上に咲いていた馬酔木の花ですぞ。隅の方に置いてはなりません>>
この場合のカエルはカジカガエルなのでしょうね。そんな清らかな場所のさらに滝の上の採りにくい場所に咲いていた馬酔木の花をなのだから粗末に扱わず,ちゃんとした場所に飾るようにこの短歌は促しています。
ここでいう「置く」は飾るという意味に近いように感じます。
次も植物を置くことを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌)ですが,その植物は別のものの譬えです。
あしひきの山かづらかげましばにも得がたきかげを置きや枯らさむ(14-3573)
<あしひきのやまかづらかげ ましばにもえがたきかげを おきやからさむ>
<<山に生えている珍しいヒカゲノカズラ。これは滅多に得られないもの。置いたままにして枯らすようなことは決してすまいぞ>>
「山かづら」は,この短歌の作者が恋している彼女のことを譬えていると考えても良いでしょう。
やっと最高の恋人ができた。絶対離したくない。放っておかない。そんな思いがこの短歌から見えます。
最後もそのままにするという意味の「置く」を詠んだ詠み人知らずの女性が詠んだ,または女性の立場で詠んだと思われる短歌です。
あしひきの山桜戸を開け置きて我が待つ君を誰れか留むる(11-2617)
<あしひきのやまさくらとを あけおきてわがまつきみを たれかとどむる>
<<山桜戸を開けたまま,私が待っているあの人を,誰が引き留めているのでしょう>>
私はいつでもOKなのに,なかなか来てくれない彼。もしかしたら誰かが私のところに行けないように引き留めているのではないかと思いたくなるくらい待ち遠しい。「いつでもOK」という気持ちを「山桜戸を開け置きて」という美しい表現を使っているこの短歌を見て,この作者に同情する私がいます。
そして,藤原定家が恋人が来るのを待つ少女の立場で詠んだ百人一首の短歌を思い出しました。
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(97番)
ここまで多様な「置く」の表現を万葉集で見てきました。次回からはこの百人一首の短歌にも出てくる「焼く」を万葉集で見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(1)に続く。
2014年5月10日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(3) 水蒸気は気温で変化し,人間に和歌を詠ませる?
<東京ウォーキングフェスタに2度目の参加>
今年も東京ウォーキングフェスタ(5月3日・4日東京都立小金井公園がスタートゴール)に参加しました。
昨年は2日間とも30㎞コースだったので,当然今年も2日間とも30㎞コースを歩きました。少し暑かったですが,途中の公園,道路端,川原,民家の庭先に咲く多くの草花や新緑の木々を楽しむことができました。
写真は,新緑と花を歩きながら楽しめたスナップです。
<本題>
「置く」の3回目ですが,雪,露,霜などを「置く」という表現が多数万葉集に出てきますので,取り上げてみます。露と霜については,今年3月のブログでも紹介していますが,「置く」という動詞を視点に見ていきます。
さてまず,今の季節とは異なりますが雪から見ます。雪について「降り置く」という表現が多く使われています。
真木の上に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜問へ我が背(8-1659)
<まきのうへにふりおけるゆきの しくしくもおもほゆるかも さよとへわがせ>
<<真木の上に降り積もっている雪のように,幾重にもあなたのことが思われます。夜に来て下さいね,私のあなた>>
完全な逆ナンパの短歌ですね。この短歌の作者は他田廣津娘子(をさだのひろつのをとめ)という女性です。雪は大きな木の上にたっぷりと積もっていたのでしょう。男(夫)からすれば,「雪が積もる(降り置かれた)ような寒い夜に妻問に行けるわけないよ」という気持ちかもしれませんが,雪明りの夜は道も良く見え,音も静かでなかなか雰囲気が良いですよとでも娘子はいいたげですね。
次は,「降り置く」の表現は使っていませんが,積もった雪はすぐ消える惜しさを詠んだ坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の短歌です。
松蔭の浅茅の上の白雪を消たずて置かむことはかもなき(8-1654)
<まつかげのあさぢのうへの しらゆきをけたずておかむ ことはかもなき>
<<松の木蔭に低く生えた茅(ちがや)の上に積もった雪を積もったまま消えないようにするおまじないはないものかしら>>
茅のような低木の上に積もった雪は地熱の影響を受けず,また松の木の陰で直接太陽にも当たらない関係で,他の場所より長く雪が消えずに積もっ(置いた)たままになるのだろうと私は想像します。それでも,いつかは消える美しくもはかない雪。郎女自身の身体的な若さが徐々になくなっていく寂しさを譬えているのかもと私は思いたくなります。
次は「霜を置く」の例を見ます。
秋田刈る仮廬もいまだ壊たねば雁が音寒し霜も置きぬがに(8-1556)
<あきたかるかりいほもいまだ こほたねばかりがねさむし しももおきぬがに>
<<秋稲刈をするための小屋もまだ壊さない(稲刈りが終わっていない)時期にもう雁が寒そうに鳴いている。もう霜が降りしてしまうのか>>
この短歌は忌部黒麻呂(いみべのくろまろ)という人物が詠んだとされています。当時,稲刈りの時期には,自分の田の近くに仮廬(小屋)を作って,そこに稲刈りの道具や刈った稲を一時的に置いたりしたのかもしれません。
作者は農民の稲刈りの様子を眺めて,霜が置く(降りる)時期が早まることを心配してこの短歌を詠んだののだろうと私は思います。忌部氏は朝廷の祭事を担当していた氏族で,天候により豊作や凶作,農民の作業の進捗に関心があったのかもしれません。
最後は「露を置く」の例として,「霜を置く」の例で出した短歌と似ている詠み人知らずの短歌を紹介します。
秋田刈る仮廬を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける(10-2174)
<あきたかるかりいほをつくり わがをればころもでさむく つゆぞおきにける>
<<秋の田の稲刈りのために小屋を作ってそこにいると,袖が寒いなと思ったら,何と露に濡れていた>>
この作者は農民の立場か,稲泥棒や稲田を荒らす野生の動物(猪や鹿)を監視し,追い払う役目の人の立場で詠んでいそうです。監視作業は,秋が深まり,露に濡れるほど夜は冷えるツライ仕事であったのでしょう。ただ,実際に詠ったのは収穫が終わった後の祭りのときかもしれませんね。
「雪を置く」「霜を置く」「露を置く」を使った万葉集の和歌を見ると,それらの言葉が気候(湿度の高い日本の気候)の変化をとらえて恋,風景,仕事などの状況を詠む道具として使われていたように私は感じます。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(4:まとめ)に続く。
今年も東京ウォーキングフェスタ(5月3日・4日東京都立小金井公園がスタートゴール)に参加しました。
昨年は2日間とも30㎞コースだったので,当然今年も2日間とも30㎞コースを歩きました。少し暑かったですが,途中の公園,道路端,川原,民家の庭先に咲く多くの草花や新緑の木々を楽しむことができました。
写真は,新緑と花を歩きながら楽しめたスナップです。
<本題>
「置く」の3回目ですが,雪,露,霜などを「置く」という表現が多数万葉集に出てきますので,取り上げてみます。露と霜については,今年3月のブログでも紹介していますが,「置く」という動詞を視点に見ていきます。
さてまず,今の季節とは異なりますが雪から見ます。雪について「降り置く」という表現が多く使われています。
真木の上に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜問へ我が背(8-1659)
<まきのうへにふりおけるゆきの しくしくもおもほゆるかも さよとへわがせ>
<<真木の上に降り積もっている雪のように,幾重にもあなたのことが思われます。夜に来て下さいね,私のあなた>>
完全な逆ナンパの短歌ですね。この短歌の作者は他田廣津娘子(をさだのひろつのをとめ)という女性です。雪は大きな木の上にたっぷりと積もっていたのでしょう。男(夫)からすれば,「雪が積もる(降り置かれた)ような寒い夜に妻問に行けるわけないよ」という気持ちかもしれませんが,雪明りの夜は道も良く見え,音も静かでなかなか雰囲気が良いですよとでも娘子はいいたげですね。
次は,「降り置く」の表現は使っていませんが,積もった雪はすぐ消える惜しさを詠んだ坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の短歌です。
松蔭の浅茅の上の白雪を消たずて置かむことはかもなき(8-1654)
<まつかげのあさぢのうへの しらゆきをけたずておかむ ことはかもなき>
<<松の木蔭に低く生えた茅(ちがや)の上に積もった雪を積もったまま消えないようにするおまじないはないものかしら>>
茅のような低木の上に積もった雪は地熱の影響を受けず,また松の木の陰で直接太陽にも当たらない関係で,他の場所より長く雪が消えずに積もっ(置いた)たままになるのだろうと私は想像します。それでも,いつかは消える美しくもはかない雪。郎女自身の身体的な若さが徐々になくなっていく寂しさを譬えているのかもと私は思いたくなります。
次は「霜を置く」の例を見ます。
秋田刈る仮廬もいまだ壊たねば雁が音寒し霜も置きぬがに(8-1556)
<あきたかるかりいほもいまだ こほたねばかりがねさむし しももおきぬがに>
<<秋稲刈をするための小屋もまだ壊さない(稲刈りが終わっていない)時期にもう雁が寒そうに鳴いている。もう霜が降りしてしまうのか>>
この短歌は忌部黒麻呂(いみべのくろまろ)という人物が詠んだとされています。当時,稲刈りの時期には,自分の田の近くに仮廬(小屋)を作って,そこに稲刈りの道具や刈った稲を一時的に置いたりしたのかもしれません。
作者は農民の稲刈りの様子を眺めて,霜が置く(降りる)時期が早まることを心配してこの短歌を詠んだののだろうと私は思います。忌部氏は朝廷の祭事を担当していた氏族で,天候により豊作や凶作,農民の作業の進捗に関心があったのかもしれません。
最後は「露を置く」の例として,「霜を置く」の例で出した短歌と似ている詠み人知らずの短歌を紹介します。
秋田刈る仮廬を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける(10-2174)
<あきたかるかりいほをつくり わがをればころもでさむく つゆぞおきにける>
<<秋の田の稲刈りのために小屋を作ってそこにいると,袖が寒いなと思ったら,何と露に濡れていた>>
この作者は農民の立場か,稲泥棒や稲田を荒らす野生の動物(猪や鹿)を監視し,追い払う役目の人の立場で詠んでいそうです。監視作業は,秋が深まり,露に濡れるほど夜は冷えるツライ仕事であったのでしょう。ただ,実際に詠ったのは収穫が終わった後の祭りのときかもしれませんね。
「雪を置く」「霜を置く」「露を置く」を使った万葉集の和歌を見ると,それらの言葉が気候(湿度の高い日本の気候)の変化をとらえて恋,風景,仕事などの状況を詠む道具として使われていたように私は感じます。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(4:まとめ)に続く。
2014年5月1日木曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(2) 間を大切に!
「間(ま)を置く」という言葉があります。その「間」にはいろいろ意味がありますが,この場合は「時間」や「距離」の間を指すようです。
万葉集には「間(あひだ・ま)を置く」という表現を使った和歌がいくつか出てきます。
最初は安貴王(あきのおほきみ)が因幡八上采女(いなばのやかみのうねめ)と密通した罪で采女が郷里の因幡へ帰されたことに対して詠んだとされる長歌の反歌です。
敷栲の手枕まかず間置きて年ぞ経にける逢はなく思へば(4-535)
<しきたへのたまくらまかず あひだおきてとしぞへにける あはなくおもへば>
<<お互いの腕を枕にして寝ることがなく,長い年月が経ってしまったように感じる。逢えないことを思うと>>
他人の妻と密通して,女性の方が大きな罪に問われるのは何か釈然としないのですが,そういった時代だったのでしょうか。いずれにしても「貴族による不倫」という大きなスキャンダルだったに違いないのでしょうね。そして,渦中の人の感想を詠んだ歌を残すというワイドショー的な記事が万葉集にその他にも多く残されているのは興味深いことです。
この短歌で安貴王が詠んだ「間置く」の「間」はそんなに長い期間ではなかったけれど,つらくで何年もの長さに感じたのは間違いないと私は想像します。
さて,次は大伴家持が雨の日にホトトギスの鳴き声を聞いたときに詠んだ短歌です。
卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る(8-1491)
<うのはなのすぎばをしみか ほととぎすあままもおかず こゆなきわたる>
<<卯の花が散ってしまうのが惜しいと思ったのか霍公鳥が雨の間も無いくらい鳴き続けています>>
ホトトギスが白い卯の花の美しさが散ってしまうことで惜しんでいるわけではないでしょう。惜しいと感じているのは家持のほうです。その時,ホトトギスの鳴き声が途切れなく続いているので,きっとホトトギスも自分と同じ気持ちなのだろうと詠んでいるわけです。「雨間も置かず」は「雨が降り続いているのと同じ間隔で」という意味になりそうです。
「雨間」の次は「波間」です。
酢蛾島の夏身の浦に寄する波間も置きて我が思はなくに(11-2727)
<すがしまのなつみのうらに よするなみあひだもおきて わがおもはなくに>
<<酢蛾島の夏身の浦に寄せる波の間隔が繰り返されるような,あなたへ寄せる気持ちが強弱するような恋し方はしていないのに>>
この詠み人知らずの短歌は,恋しさに波があるようなことはないと宣言している1首だと私は感じます。
次は真珠のネックレスがぎっしり詰まっているような様子を形容して途切れ無い気持ちを詠んだ,詠み人知らずの短歌です。
玉の緒の間も置かず見まく欲り我が思ふ妹は家遠くありて(11-2793)
<たまのをのあひだもおかず みまくほりあがおもふいもは いへどほくありて>
<<珠の首飾りの珠が紐にすき間なく通されているように,休む間なく見ていたいよ。でも俺が思うおまえは遠くの家にいる>>
「玉の緒の」は間に掛かる枕詞という解釈が一般的ですが,私はあえて訳してみました。
最後は,天平12(740)年に中臣宅守(なかとみのやかもり)が流刑地の越前の国(今の福井県)から平城京にいると思われる狭野弟上娘子(さののちがみのをとめ)に贈ったといわれる歌の1首です。
霍公鳥間しまし置け汝が鳴けば我が思ふ心いたもすべなし(15-3785)
<ほととぎすあひだしましおけ ながなけばあがもふこころ いたもすべなし>
<<霍公鳥よ,鳴く間を少し開けてくれ。お前が鳴くと私が娘子を恋しく思う心を抑えることができなくなるから>>
流刑地の越前では,ホトトギスがしきりと鳴いていたのでしょう。それが妻を呼ぶ声に感じられた宅守には娘子と遠く離れざるを得ない自分を嘆くしかない心境だったのだと私は感じます。
「間を置く」の「間」は,作者の状況や心境などによって,ポジティブにもネガティブにも感じられたことが万葉集から私には見てとれます。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(3)に続く。
万葉集には「間(あひだ・ま)を置く」という表現を使った和歌がいくつか出てきます。
最初は安貴王(あきのおほきみ)が因幡八上采女(いなばのやかみのうねめ)と密通した罪で采女が郷里の因幡へ帰されたことに対して詠んだとされる長歌の反歌です。
敷栲の手枕まかず間置きて年ぞ経にける逢はなく思へば(4-535)
<しきたへのたまくらまかず あひだおきてとしぞへにける あはなくおもへば>
<<お互いの腕を枕にして寝ることがなく,長い年月が経ってしまったように感じる。逢えないことを思うと>>
他人の妻と密通して,女性の方が大きな罪に問われるのは何か釈然としないのですが,そういった時代だったのでしょうか。いずれにしても「貴族による不倫」という大きなスキャンダルだったに違いないのでしょうね。そして,渦中の人の感想を詠んだ歌を残すというワイドショー的な記事が万葉集にその他にも多く残されているのは興味深いことです。
この短歌で安貴王が詠んだ「間置く」の「間」はそんなに長い期間ではなかったけれど,つらくで何年もの長さに感じたのは間違いないと私は想像します。
さて,次は大伴家持が雨の日にホトトギスの鳴き声を聞いたときに詠んだ短歌です。
卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る(8-1491)
<うのはなのすぎばをしみか ほととぎすあままもおかず こゆなきわたる>
<<卯の花が散ってしまうのが惜しいと思ったのか霍公鳥が雨の間も無いくらい鳴き続けています>>
ホトトギスが白い卯の花の美しさが散ってしまうことで惜しんでいるわけではないでしょう。惜しいと感じているのは家持のほうです。その時,ホトトギスの鳴き声が途切れなく続いているので,きっとホトトギスも自分と同じ気持ちなのだろうと詠んでいるわけです。「雨間も置かず」は「雨が降り続いているのと同じ間隔で」という意味になりそうです。
「雨間」の次は「波間」です。
酢蛾島の夏身の浦に寄する波間も置きて我が思はなくに(11-2727)
<すがしまのなつみのうらに よするなみあひだもおきて わがおもはなくに>
<<酢蛾島の夏身の浦に寄せる波の間隔が繰り返されるような,あなたへ寄せる気持ちが強弱するような恋し方はしていないのに>>
この詠み人知らずの短歌は,恋しさに波があるようなことはないと宣言している1首だと私は感じます。
次は真珠のネックレスがぎっしり詰まっているような様子を形容して途切れ無い気持ちを詠んだ,詠み人知らずの短歌です。
玉の緒の間も置かず見まく欲り我が思ふ妹は家遠くありて(11-2793)
<たまのをのあひだもおかず みまくほりあがおもふいもは いへどほくありて>
<<珠の首飾りの珠が紐にすき間なく通されているように,休む間なく見ていたいよ。でも俺が思うおまえは遠くの家にいる>>
「玉の緒の」は間に掛かる枕詞という解釈が一般的ですが,私はあえて訳してみました。
最後は,天平12(740)年に中臣宅守(なかとみのやかもり)が流刑地の越前の国(今の福井県)から平城京にいると思われる狭野弟上娘子(さののちがみのをとめ)に贈ったといわれる歌の1首です。
霍公鳥間しまし置け汝が鳴けば我が思ふ心いたもすべなし(15-3785)
<ほととぎすあひだしましおけ ながなけばあがもふこころ いたもすべなし>
<<霍公鳥よ,鳴く間を少し開けてくれ。お前が鳴くと私が娘子を恋しく思う心を抑えることができなくなるから>>
流刑地の越前では,ホトトギスがしきりと鳴いていたのでしょう。それが妻を呼ぶ声に感じられた宅守には娘子と遠く離れざるを得ない自分を嘆くしかない心境だったのだと私は感じます。
「間を置く」の「間」は,作者の状況や心境などによって,ポジティブにもネガティブにも感じられたことが万葉集から私には見てとれます。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(3)に続く。
2014年4月27日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(1) 別離の歌に似合う「置く」
<今回GWスペシャルは無し>
ゴールデンウィーク(GW)がいよいよ始まりましたね。私の勤めている会社は4/28は営業日ですが,その他は5/6まで休業です。4/28に休む社員も割といて11連休を満喫するとのことです。
私は,4/28にソフトウェア保守契約をしてくださっているお客様との打ち合わせが入り,また小売業の別のお客様はGWに特段の休みがなく,その対応などで最大2日位の休日出勤を予定しています。
その他は,ゴルフのラウンドや昨年歩いた小金井公園から出発する2日間のウォーキングフェスタに参加予定です。
そんな関係で,このブログはGWスペシャルではなく,通常の投稿で進める予定です。
さて,今回から新しく取り上げる万葉集に出てくる動詞は,現代でも日常的に使用する「置く」です。
万葉集に出てくる「置く」の用例を見ていくと,現代での意味より広い意味で使われていたようです。それを何回かに分けて見て行きましょう。
今回は「残す」という意味の「置く」を見てみましょう。
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ(1-78)
<とぶとりのあすかのさとをおきていなば きみがあたりはみえずかもあらむ >
<<明日香の里を残して,余が去ってしまえば、(平城京からは)君がいるあたりはもう見えないのであろうか>>
この短歌は,平城京遷都(和同3年)に際して,明日香の藤原京から奈良の平城京に向かうとき,当時の在位していた元明天皇が詠んだとされるものです。明日香の里を残したものは何か? それは,27歳という若さで亡くなった夫の草壁皇子の霊だと私は思います。彼が生きていれば平城京遷都はどうなっていたのか,草壁皇子の魂が居る明日香からも遠く離れてしまう寂しさが私には感じられます。
次は,大伴家持が天平11(739)年に妻(正妻ではない)の死を悼んだ短歌(長歌の返歌)です。
時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹かみどり子を置きて(3-467)
<ときはしもいつもあらむを こころいたくいゆくわぎもか みどりこをおきて>
<<別の時があったろうに、私の心をこれ程痛ませ死んでしまった私の妻。幼い子を残して>>
この妻がどこの家の誰かは万葉集を含め,記録に残っていないそうです。また,「置かれた(残された)みどり子」がその後どうなったかも不明のようです。この後しばらくして家持の正妻になっとたという大伴大嬢との関係から,素性を残さなかったのかもしれません。ただ,家持はこの妻が亡くなったことへを悲しむ和歌を万葉集に10首以上残しています。
最後は,田部忌寸櫟子(たべのいみきいちひこ)が大宰府に赴任したとき,京に残した舎人吉年(とねりのよしとし)との相聞歌4首中に「置く」が出てくる3首を紹介します。
衣手に取りとどこほり泣く子にもまされる我れを置きていかにせむ(4-492)
<ころもでにとりとどこほり なくこにもまされるわれを おきていかにせむ>
<<衣の袖に取りついて泣く子にもまさって別れを悲しむ私を残して行ってしまわれる。どうしたらよいのでしょうか(吉年)>>
置きていなば妹恋ひむかも敷栲の黒髪敷きて長きこの夜を(4-493)
<おきていなばいもこひむかも しきたへのくろかみしきて ながきこのよを>
<<残して行ってしまったあなたを恋しく思うでしょう。黒髪を床に敷いて長いこの夜をずっと(櫟子)>>
朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて(4-495)
<あさひかげにほへるやまに てるつきのあかざるきみを やまごしにおきて>
<<朝日が映えて山の端に照る月を見飽きないほどに美しいあなたをはるかな山の彼方に残してしまった(櫟子)>>
これらの短歌は,櫟子が大宰府に赴任したときに櫟子自身が披露したものだろうと私は想像します。最初の短歌は京に残してきた吉年が詠んだとして紹介し,後はそれに対して櫟子自身の返歌としているようです。
状況から京に残った吉年は女性で,大宰府に行った櫟子は男性なのでしょう。櫟子が大宰府へ旅立つとき,吉年は自分の黒髪を一部切って,束ねて櫟子に渡したのかもしれません。それを床に敷いて寝て,京に残した吉年を朝まで思い,夜が明けたときの感傷がまた深いという遠距離恋愛のドラマが私の頭にイメージされます。
<グルーバル化によって離れ離れになる?>
それまで日本のどこかの農村で農家として暮らしていたら,恋人や妻とこのような別離はなかった。国の近代化(律令制度)やグローバル化(大陸との交渉,大陸からの防衛など)に係る身になって,仕事の場が距離的広がっていった当時の状況を私はイメージしてしまいます。
そして,現代の日本だけでなく,世界のどの国においても,近代化やグローバル化で,距離的,時間帯的,精神的な別離が避けられない状況が依然あると私は思います。
現代では,その別離で置かれた(残された)妻,夫,子供,親,祖父母,孫,そして恋人とを繋ぐ(スマホ,パソコン,テレビ電話などの)メディアも,そのような別離関係のデメリットを軽減する手段とて進歩しています。
ただ,メディアは文字通り媒体でしかありません。そこに流れるコンテンツ(文章やイメージ)にどれだけ相手を想う気持ちを伝えられる内容になっているかが重要であることに今も変わりがないのではないでしょうか。万葉集に古さを感じさせない表現があるのは,そのようにコンテンツで思いを一生懸命伝えようする表現努力が今も必要だからだろうと私は考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(2)に続く。
ゴールデンウィーク(GW)がいよいよ始まりましたね。私の勤めている会社は4/28は営業日ですが,その他は5/6まで休業です。4/28に休む社員も割といて11連休を満喫するとのことです。
私は,4/28にソフトウェア保守契約をしてくださっているお客様との打ち合わせが入り,また小売業の別のお客様はGWに特段の休みがなく,その対応などで最大2日位の休日出勤を予定しています。
その他は,ゴルフのラウンドや昨年歩いた小金井公園から出発する2日間のウォーキングフェスタに参加予定です。
そんな関係で,このブログはGWスペシャルではなく,通常の投稿で進める予定です。
さて,今回から新しく取り上げる万葉集に出てくる動詞は,現代でも日常的に使用する「置く」です。
万葉集に出てくる「置く」の用例を見ていくと,現代での意味より広い意味で使われていたようです。それを何回かに分けて見て行きましょう。
今回は「残す」という意味の「置く」を見てみましょう。
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ(1-78)
<とぶとりのあすかのさとをおきていなば きみがあたりはみえずかもあらむ >
<<明日香の里を残して,余が去ってしまえば、(平城京からは)君がいるあたりはもう見えないのであろうか>>
この短歌は,平城京遷都(和同3年)に際して,明日香の藤原京から奈良の平城京に向かうとき,当時の在位していた元明天皇が詠んだとされるものです。明日香の里を残したものは何か? それは,27歳という若さで亡くなった夫の草壁皇子の霊だと私は思います。彼が生きていれば平城京遷都はどうなっていたのか,草壁皇子の魂が居る明日香からも遠く離れてしまう寂しさが私には感じられます。
次は,大伴家持が天平11(739)年に妻(正妻ではない)の死を悼んだ短歌(長歌の返歌)です。
時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹かみどり子を置きて(3-467)
<ときはしもいつもあらむを こころいたくいゆくわぎもか みどりこをおきて>
<<別の時があったろうに、私の心をこれ程痛ませ死んでしまった私の妻。幼い子を残して>>
この妻がどこの家の誰かは万葉集を含め,記録に残っていないそうです。また,「置かれた(残された)みどり子」がその後どうなったかも不明のようです。この後しばらくして家持の正妻になっとたという大伴大嬢との関係から,素性を残さなかったのかもしれません。ただ,家持はこの妻が亡くなったことへを悲しむ和歌を万葉集に10首以上残しています。
最後は,田部忌寸櫟子(たべのいみきいちひこ)が大宰府に赴任したとき,京に残した舎人吉年(とねりのよしとし)との相聞歌4首中に「置く」が出てくる3首を紹介します。
衣手に取りとどこほり泣く子にもまされる我れを置きていかにせむ(4-492)
<ころもでにとりとどこほり なくこにもまされるわれを おきていかにせむ>
<<衣の袖に取りついて泣く子にもまさって別れを悲しむ私を残して行ってしまわれる。どうしたらよいのでしょうか(吉年)>>
置きていなば妹恋ひむかも敷栲の黒髪敷きて長きこの夜を(4-493)
<おきていなばいもこひむかも しきたへのくろかみしきて ながきこのよを>
<<残して行ってしまったあなたを恋しく思うでしょう。黒髪を床に敷いて長いこの夜をずっと(櫟子)>>
朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて(4-495)
<あさひかげにほへるやまに てるつきのあかざるきみを やまごしにおきて>
<<朝日が映えて山の端に照る月を見飽きないほどに美しいあなたをはるかな山の彼方に残してしまった(櫟子)>>
これらの短歌は,櫟子が大宰府に赴任したときに櫟子自身が披露したものだろうと私は想像します。最初の短歌は京に残してきた吉年が詠んだとして紹介し,後はそれに対して櫟子自身の返歌としているようです。
状況から京に残った吉年は女性で,大宰府に行った櫟子は男性なのでしょう。櫟子が大宰府へ旅立つとき,吉年は自分の黒髪を一部切って,束ねて櫟子に渡したのかもしれません。それを床に敷いて寝て,京に残した吉年を朝まで思い,夜が明けたときの感傷がまた深いという遠距離恋愛のドラマが私の頭にイメージされます。
<グルーバル化によって離れ離れになる?>
それまで日本のどこかの農村で農家として暮らしていたら,恋人や妻とこのような別離はなかった。国の近代化(律令制度)やグローバル化(大陸との交渉,大陸からの防衛など)に係る身になって,仕事の場が距離的広がっていった当時の状況を私はイメージしてしまいます。
そして,現代の日本だけでなく,世界のどの国においても,近代化やグローバル化で,距離的,時間帯的,精神的な別離が避けられない状況が依然あると私は思います。
現代では,その別離で置かれた(残された)妻,夫,子供,親,祖父母,孫,そして恋人とを繋ぐ(スマホ,パソコン,テレビ電話などの)メディアも,そのような別離関係のデメリットを軽減する手段とて進歩しています。
ただ,メディアは文字通り媒体でしかありません。そこに流れるコンテンツ(文章やイメージ)にどれだけ相手を想う気持ちを伝えられる内容になっているかが重要であることに今も変わりがないのではないでしょうか。万葉集に古さを感じさせない表現があるのは,そのようにコンテンツで思いを一生懸命伝えようする表現努力が今も必要だからだろうと私は考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(2)に続く。
2014年4月21日月曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(4:まとめ) 本当はどうなの?
<記者会見の報道>
最近は,記者会見の模様がテレビニュースのトップやワイドショーで多くの時間を取って紹介されることが多いようです。たとえば,不透明なお金に関する政治家の会見,研究論文に関する研究者または研究機関の会見,公職にありながら私的発言を釈明する会見,ゴーストライターがいたことが明るみになり実態を釈明する会見などです。
記者会見では,まず会見参加者(記者)へ会見を開いた側が自分の考えを説明し,そして,記者からの質問にこたえるという段取りになると思います。
その質疑応答が長時間に及ぶことがありますが,もちろんそのすべてがニュースやワイドショーで紹介されるわけではありません。しかし,最近はネット上の動画サイトで会見のすべてが見られることも珍しくないようです(私はそれをすべて見る時間はありませんが)。
<悪人に仕立て上げられる会見者>
記者の質問は時として「悪者」を仕立てセンセーショナルな記事を書くべく,仕組まれた誘導的な質問もあるらしく,「記者も回答する方もお互い大変だなあ」とか「何かシナリオ(出来レース)があるのかなあ」とか思っいたりしたくなります。
さて,貧富の差は当然今よりも大きかったけれど,今ほど国民全体が「悪者探し」をしていなかった万葉時代の「問ふ」にいて見てきましたが,それでも「今風質問」や「詰問」に近い用例を万葉集で探し,「問ふ」のまとめとします。
まずはゴシップになるのを嫌った短歌です(柿本人麻呂歌集からの転載)。
誰ぞかれと我れをな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我れを(10-2240)
<たぞかれとわれをなとひそ ながつきのつゆにぬれつつ きみまつわれを>
<<「お前はどこの誰?」と私に問い質すのはやめてほしい。九月の夜露に濡れながら,あの人を待つ私に>>
旧暦の9月といえば,夜はかなり冷え込む頃です。そんな夜に密会するわけですから,それを見た庶民は興味津々ですわな。「何とかという偉いはんがな,ごっつうベッピンの女の人をいつも待ってはったで~」といったような噂がたつのは,本人にとってスキャンダルになってしまうのでしょうか。
次は,詠み人知らずの若い女性が詠んだと思われる短歌です。
玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ(11-2364)
<たまだれのをすのすけきに いりかよひこねたらちねの ははがとはさば かぜとまをさむ>
<<(私の部屋の)すだれのすき間から入ってきてね。気配で母が起きで「誰か来たの?」と訊かれたら,「風が吹いてすだれが揺れたのよ」と答えるわ>>
人が入ってきた気配を風が吹いたことにするのは,さすがに無理がありますよね。
最近の記者会見でも「そんな高い熊手があるのか?」と思いたくなるような政治家の無理な説明もありました(本人はユーモアのつもりで云ったのかもしれませんが)。
ただ,万葉時代の妻問は,女性側の両親とはいつ妻問をするかは合意ができていて,両親は娘には知らぬふりをしていたのではないかと私は思います。なので,こんな短歌を男性に渡すための使いの者から両親が内緒で見ることがあっても「娘はあの方のこと,まんざらでもなさそうね」とシナリオ通りに進んでいることに満足したのでしょうね。
<「出来レース」も有り?>
今の世の中もあるシナリオにより仕組まれた「出来レース」が結構多いような気がします。それとは知らない人たちが,話題の人がすぐバレるような説明をして,窮地に追い込まれ,マスコミがはそれを囃し立て,それを読んだり見たりする人はハラハラドキドキ感で興奮する。何十年も前,プロレスのテレビ放送を見て,最初は悪役に怒りを感じ,興奮し,最期はスッキリとしていた自分と同じように。
結局,仕組まれたかもしれないスキャンダルによって視聴率や購読数を伸ばすことになるメディアが潤うことに。また,良い悪いは別として知名度が極端に上がる人や組織が出現します。
さて,記者会見の記者から「恋人(婚約者)は誰?」自宅で「誰と逢ったのか?」「現金を受け取ったのは誰か?」「知っていたのは誰か?」などの人の名前をしつこく聞き出そうとする質問がでるようです。個人名が分かれば,またいろいろな憶測が可能になり,マスコミざたになりますからね。
次は,どんなに聞かれても名前は明かさない決意を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
荒熊のすむといふ山の師歯迫山責めて問ふとも汝が名は告らじ(11-2696)
<あらぐまのすむといふやまの しはせやませめてとふとも ながなはのらじ>
<<気性が荒い熊が住むという師歯迫山に屈強の人が熊退治にいくのと同じくらい強く詰問されても,あなたの名前は絶対に明かしませんよ>>
万葉時代でも,当然関係を他人に知られたくない人間関係があったのでしょうね。
さて,スキャンダルとして大々的にとりあげたマスコミも,あるとき別のスキャンダルが発生すると,以前のスキャンダルが無かったかのようにまったく扱わなくなります。当事者は,しつこい質問にさらされることがなくなってほっとするのかもしれませんが,事態は何も変わっていないのにまったく注目されなくなるのも寂しい気分になるのかもしれませんね。
次の詠み人知らずの短歌もそんな気持ちなのかもしれませんね。
解き衣の思ひ乱れて恋ふれども何のゆゑぞと問ふ人もなし(12-2969)
<とききぬのおもひみだれて こふれどもなにのゆゑぞと とふひともなし>
<<心が乱れるほど恋をしてしまったのに「なんでそんなに苦しそうなの?」と聞いてくれる人もいないの>>
スキャンダルになるのは困るけど,恋の苦しさをやさしく聞いてくれたり,相談できる人がいてほしいという気持ちが私には伝わってきます。苦しんでいる人を助けるためにも,相談を受けた人が依頼者の秘密を守ることの重要性が求められます。
私は,万葉集から意識するしないは別として,万葉時代ではすでに個人の情報が重要な意味を持つことに目覚め始めた時代ではないかと感じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(1)に続く。
最近は,記者会見の模様がテレビニュースのトップやワイドショーで多くの時間を取って紹介されることが多いようです。たとえば,不透明なお金に関する政治家の会見,研究論文に関する研究者または研究機関の会見,公職にありながら私的発言を釈明する会見,ゴーストライターがいたことが明るみになり実態を釈明する会見などです。
記者会見では,まず会見参加者(記者)へ会見を開いた側が自分の考えを説明し,そして,記者からの質問にこたえるという段取りになると思います。
その質疑応答が長時間に及ぶことがありますが,もちろんそのすべてがニュースやワイドショーで紹介されるわけではありません。しかし,最近はネット上の動画サイトで会見のすべてが見られることも珍しくないようです(私はそれをすべて見る時間はありませんが)。
<悪人に仕立て上げられる会見者>
記者の質問は時として「悪者」を仕立てセンセーショナルな記事を書くべく,仕組まれた誘導的な質問もあるらしく,「記者も回答する方もお互い大変だなあ」とか「何かシナリオ(出来レース)があるのかなあ」とか思っいたりしたくなります。
さて,貧富の差は当然今よりも大きかったけれど,今ほど国民全体が「悪者探し」をしていなかった万葉時代の「問ふ」にいて見てきましたが,それでも「今風質問」や「詰問」に近い用例を万葉集で探し,「問ふ」のまとめとします。
まずはゴシップになるのを嫌った短歌です(柿本人麻呂歌集からの転載)。
誰ぞかれと我れをな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我れを(10-2240)
<たぞかれとわれをなとひそ ながつきのつゆにぬれつつ きみまつわれを>
<<「お前はどこの誰?」と私に問い質すのはやめてほしい。九月の夜露に濡れながら,あの人を待つ私に>>
旧暦の9月といえば,夜はかなり冷え込む頃です。そんな夜に密会するわけですから,それを見た庶民は興味津々ですわな。「何とかという偉いはんがな,ごっつうベッピンの女の人をいつも待ってはったで~」といったような噂がたつのは,本人にとってスキャンダルになってしまうのでしょうか。
次は,詠み人知らずの若い女性が詠んだと思われる短歌です。
玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ(11-2364)
<たまだれのをすのすけきに いりかよひこねたらちねの ははがとはさば かぜとまをさむ>
<<(私の部屋の)すだれのすき間から入ってきてね。気配で母が起きで「誰か来たの?」と訊かれたら,「風が吹いてすだれが揺れたのよ」と答えるわ>>
人が入ってきた気配を風が吹いたことにするのは,さすがに無理がありますよね。
最近の記者会見でも「そんな高い熊手があるのか?」と思いたくなるような政治家の無理な説明もありました(本人はユーモアのつもりで云ったのかもしれませんが)。
ただ,万葉時代の妻問は,女性側の両親とはいつ妻問をするかは合意ができていて,両親は娘には知らぬふりをしていたのではないかと私は思います。なので,こんな短歌を男性に渡すための使いの者から両親が内緒で見ることがあっても「娘はあの方のこと,まんざらでもなさそうね」とシナリオ通りに進んでいることに満足したのでしょうね。
<「出来レース」も有り?>
今の世の中もあるシナリオにより仕組まれた「出来レース」が結構多いような気がします。それとは知らない人たちが,話題の人がすぐバレるような説明をして,窮地に追い込まれ,マスコミがはそれを囃し立て,それを読んだり見たりする人はハラハラドキドキ感で興奮する。何十年も前,プロレスのテレビ放送を見て,最初は悪役に怒りを感じ,興奮し,最期はスッキリとしていた自分と同じように。
結局,仕組まれたかもしれないスキャンダルによって視聴率や購読数を伸ばすことになるメディアが潤うことに。また,良い悪いは別として知名度が極端に上がる人や組織が出現します。
さて,記者会見の記者から「恋人(婚約者)は誰?」自宅で「誰と逢ったのか?」「現金を受け取ったのは誰か?」「知っていたのは誰か?」などの人の名前をしつこく聞き出そうとする質問がでるようです。個人名が分かれば,またいろいろな憶測が可能になり,マスコミざたになりますからね。
次は,どんなに聞かれても名前は明かさない決意を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
荒熊のすむといふ山の師歯迫山責めて問ふとも汝が名は告らじ(11-2696)
<あらぐまのすむといふやまの しはせやませめてとふとも ながなはのらじ>
<<気性が荒い熊が住むという師歯迫山に屈強の人が熊退治にいくのと同じくらい強く詰問されても,あなたの名前は絶対に明かしませんよ>>
万葉時代でも,当然関係を他人に知られたくない人間関係があったのでしょうね。
さて,スキャンダルとして大々的にとりあげたマスコミも,あるとき別のスキャンダルが発生すると,以前のスキャンダルが無かったかのようにまったく扱わなくなります。当事者は,しつこい質問にさらされることがなくなってほっとするのかもしれませんが,事態は何も変わっていないのにまったく注目されなくなるのも寂しい気分になるのかもしれませんね。
次の詠み人知らずの短歌もそんな気持ちなのかもしれませんね。
解き衣の思ひ乱れて恋ふれども何のゆゑぞと問ふ人もなし(12-2969)
<とききぬのおもひみだれて こふれどもなにのゆゑぞと とふひともなし>
<<心が乱れるほど恋をしてしまったのに「なんでそんなに苦しそうなの?」と聞いてくれる人もいないの>>
スキャンダルになるのは困るけど,恋の苦しさをやさしく聞いてくれたり,相談できる人がいてほしいという気持ちが私には伝わってきます。苦しんでいる人を助けるためにも,相談を受けた人が依頼者の秘密を守ることの重要性が求められます。
私は,万葉集から意識するしないは別として,万葉時代ではすでに個人の情報が重要な意味を持つことに目覚め始めた時代ではないかと感じています。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(1)に続く。
2014年4月13日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(3) 「質問する」以外の「問ふ」もある
<桜の季節に野川散策>
先日の4月5日,国分寺市付近に源を発し,小金井市,三鷹市,調布市などを経て世田谷区で多摩川に合流する野川の深大寺より上流を散策しました。都立武蔵野公園の少し上流付近の川の両側に植えられているしだれ桜が見ごろで,日本の花の美しさを感じさせてくれる場所を自分の目でまた見つけられた気がしました。写真は,そのとき撮ったものです。
<「訪問」の「問ふ」は?>
さて,「訪問」という言葉はご存知だと思います。「訪問」の「問」は訪問先の人に質問するという意味は必ずしも含まれていません。訪問して楽しく会話するだけ,訪問して品物を渡すだけ,訪問して訪問先の人に逆に質問されるだけのこともありますからね。
実は,万葉集でも「問ふ」という言葉は出てきますが,質問の意味がないものもあります。次は万葉集に8首を残し,天智系の皇族と推測される市原王が詠んだ短歌です。
言問はぬ木すら妹と兄とありといふをただ独り子にあるが苦しさ(6-1007)
<こととはぬきすらいもとせと ありといふをただひとりこに あるがくるしさ>
<<人間のように話すことができない木でさえ妹や兄があると言うのに,まったくの独りっ子であるわが身が寂しい>>
市原王には兄弟が居なかったのか,皆死んでしまったのかもしれません。ここでの「言問はぬ」は,単に「話す」という意味になりそうです。
この「言問はぬ木すら~」は万葉集の中で慣用的な使い方のようで,この1首以外に5首ほどに出てきます。
次は,旅先で妻を想って詠んだ詠み人知らずの短歌です。
かく恋ひむものと知りせば我妹子に言問はましを今し悔しも(12-3143)
<かくこひむものとしりせば わぎもこにこととはましを いましくやしも>
<<このようおまえのことを恋しく思っていたことを知っていれば,「恋しいおまえ」と口に出して言っておかなかったことを後悔しているのだ>>
「好きだよ」「愛している」「君といると最高に幸せ」などを奥さんに口に出して言っていますか?
この短歌は,後で後悔しないよう,世の夫は今からでも妻にこういうことを言うべきだと主張しているのです(私はできていませんが..)。
さて,「言問ふ」の最後は,同じく詠み人知らずの妻との別離を悲しむ短歌です。
たたなづく青垣山の隔なりなばしばしば君を言問はじかも(12-3187)
<たたなづくあをかきやまの へなりなばしばしばきみを こととはじかも>
<<幾重にも重なり,緑の木々が茂った垣のようにそびえる山々を隔てた場所に離れることになり,今までのように頻繁におまえの家を訪ねるこちができなくなるなあ>>
この短歌の「言問ふ」は今回の冒頭で述べた「訪問する」という意味に近いと私は解釈します。
このように「言問ふ」を万葉集で見てくると,「問ふ」という言葉は入っていても,尋ねる,質問するという意味での用例は少ないように感じます。
「言問ふ」が尋ねるという意味で和歌に出てくるのは,もしかしたら平安時代あたりからかもしれませんね。有名な伊勢物語の「東下り」の個所で出てくる次の短歌は尋ねるの意味といえそうです。
名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと(伊勢9段)
<なにしおはばいざこととはむみやこどり わがおもふひとはありやなしやと>
<<都という名を持っているなら、さあ尋ねよう、都鳥。私の恋しく思っているあの人は無事なのかと>>
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(4:まとめ)に続く。
先日の4月5日,国分寺市付近に源を発し,小金井市,三鷹市,調布市などを経て世田谷区で多摩川に合流する野川の深大寺より上流を散策しました。都立武蔵野公園の少し上流付近の川の両側に植えられているしだれ桜が見ごろで,日本の花の美しさを感じさせてくれる場所を自分の目でまた見つけられた気がしました。写真は,そのとき撮ったものです。
<「訪問」の「問ふ」は?>
さて,「訪問」という言葉はご存知だと思います。「訪問」の「問」は訪問先の人に質問するという意味は必ずしも含まれていません。訪問して楽しく会話するだけ,訪問して品物を渡すだけ,訪問して訪問先の人に逆に質問されるだけのこともありますからね。
実は,万葉集でも「問ふ」という言葉は出てきますが,質問の意味がないものもあります。次は万葉集に8首を残し,天智系の皇族と推測される市原王が詠んだ短歌です。
言問はぬ木すら妹と兄とありといふをただ独り子にあるが苦しさ(6-1007)
<こととはぬきすらいもとせと ありといふをただひとりこに あるがくるしさ>
<<人間のように話すことができない木でさえ妹や兄があると言うのに,まったくの独りっ子であるわが身が寂しい>>
市原王には兄弟が居なかったのか,皆死んでしまったのかもしれません。ここでの「言問はぬ」は,単に「話す」という意味になりそうです。
この「言問はぬ木すら~」は万葉集の中で慣用的な使い方のようで,この1首以外に5首ほどに出てきます。
次は,旅先で妻を想って詠んだ詠み人知らずの短歌です。
かく恋ひむものと知りせば我妹子に言問はましを今し悔しも(12-3143)
<かくこひむものとしりせば わぎもこにこととはましを いましくやしも>
<<このようおまえのことを恋しく思っていたことを知っていれば,「恋しいおまえ」と口に出して言っておかなかったことを後悔しているのだ>>
「好きだよ」「愛している」「君といると最高に幸せ」などを奥さんに口に出して言っていますか?
この短歌は,後で後悔しないよう,世の夫は今からでも妻にこういうことを言うべきだと主張しているのです(私はできていませんが..)。
さて,「言問ふ」の最後は,同じく詠み人知らずの妻との別離を悲しむ短歌です。
たたなづく青垣山の隔なりなばしばしば君を言問はじかも(12-3187)
<たたなづくあをかきやまの へなりなばしばしばきみを こととはじかも>
<<幾重にも重なり,緑の木々が茂った垣のようにそびえる山々を隔てた場所に離れることになり,今までのように頻繁におまえの家を訪ねるこちができなくなるなあ>>
この短歌の「言問ふ」は今回の冒頭で述べた「訪問する」という意味に近いと私は解釈します。
このように「言問ふ」を万葉集で見てくると,「問ふ」という言葉は入っていても,尋ねる,質問するという意味での用例は少ないように感じます。
「言問ふ」が尋ねるという意味で和歌に出てくるのは,もしかしたら平安時代あたりからかもしれませんね。有名な伊勢物語の「東下り」の個所で出てくる次の短歌は尋ねるの意味といえそうです。
名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと(伊勢9段)
<なにしおはばいざこととはむみやこどり わがおもふひとはありやなしやと>
<<都という名を持っているなら、さあ尋ねよう、都鳥。私の恋しく思っているあの人は無事なのかと>>
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(4:まとめ)に続く。
2014年4月6日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(2) いっぱいお聞きしたいので待っています
万葉集で「問ふ」の表現や意味を見ていますが,「待ち問ふ」という慣用的な表現が何首かに出てきます。今回はそれが詠み込まれている万葉集の和歌を見ていきます。
最初は,神社老麻呂(かみこそのおゆまろ)という人物が今の生駒山の西側にあったらしい草香山で詠んだという短歌です。
難波潟潮干のなごりよく見てむ家なる妹が待ち問はむため(6-976)
<なにはがたしほひのなごり よくみてむいへなるいもが まちとはむため>
<<難波潟で潮がひいた後の様子をしっかり見ておきましょう。家にいる妻が土産話を聞きたくて待っているから>>
この場合の「待ち問ふ」は家で夫が旅から帰るのを待っている妻が,家に戻ると「旅路はどうだった?」といろいろ聞きたくて待っている状態を表していると私は思います。生駒山の麓の西側の高台から西方の難波の干潟は一面に広がり,西日に照らされ,鏡のように見えたのかもしれません。
平城京にいたのではそんな光景は見られません。そんな珍しく,美しい光景を家からあまり遠くに行けない妻の質問に答えられるようにしっかり見ておこうというやさしい夫の気持ちが伝わっています。現在では,信貴生駒スカイラインの各展望台から見える大阪の素晴らしい夕景や夜景をしっかり見て,その美しさを妻に伝えようとしているようなものでしょうか。
次は,和歌山の若の浦付近にあったという玉津島に旅をした旅人に贈った詠み人知らずの短歌です。
玉津島よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに(7-1215)
<たまつしまよくみていませ あをによしならなるひとの まちとはばいかに>
<<玉津島をよく見てきてくださいませ。奈良の都にいる人があなたの帰りを待って(玉津島はどんなところだったと)質問したらどうします?>>
この旅人も平城京に住む人なのでしょう。平城京にいる「待ち問ふ」人のために,しっかり見ておきましょうというのは,最初の短歌と同じです。京に住む人たちは,珍しい情報に飢えているようです。旅から帰ってきた人には,いっぱい質問して知らない情報を得ようとしている人が多かったのでしょう。
これらの2首を見た平城京の人は,実際に「待ち問ふ」ことができるような旅から帰った人はいないけれど,難波潟も玉津島も素晴らしく景色の良い場所だろうと想像します。そして,当然の成り行きとして,そこへ行きたくなるはずです。
万葉時代の交通の便の悪さは今と比べ物にならないとはいえ,両方とも頑張れば,1日で歩ける距離です。年配の人が2~3泊の小旅行の行き先としては手頃ではないでしょうか。万葉集の和歌には旅行ガイドブック的なものが多いと以前にも書きましたが,「待ち問ふ」を意識した観光地の誘い方もあるのだなと私は感じました。
さて,最後は大伴家持が弟の書持(ふみもち)の訃報を越中で聞いて詠んだ悲しみの長歌の一部です。
~ 恋しけく日長きものを 見まく欲り思ふ間に 玉梓の使の来れば 嬉しみと我が待ち問ふに およづれのたはこととかも はしきよし汝弟の命 なにしかも時しはあらむを ~(17-3957)
<~ こひしけくけながきものを みまくほりおもふあひだに たまづさのつかひのければ うれしみとあがまちとふに およづれのたはこととかも はしきよしなおとのみこと なにしかもときしはあらむを ~>
<<~ 恋しく思う日々は長くなり,会いたいと思ううちに京から使が来たので,嬉しい気持ちで待ち様子を問うと,譫言であってほしい,いとしいわが弟は,何ということか,別の時でもよいものを ~>>
家持が京から到着した使者に京の様子や弟の様子を聞こうと待っていて,部屋に来た使者の言葉から弟の訃報を聞かされた家持はいかばかりだったのか,この長歌はその気持ちを十分表していると私は感じます。
こうしてみると「待ち問ふ」は遠くの状況や様子を知りたい,聞きたいと待っている気持ちを表した一つの言葉だと私は思うのですが,なぜか古い日本語も掲載している辞書には「待ち問ふ」という見出しはあまり載っていないようなのです。私にとって,少し不思議で残念な感もあります。
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(3)に続く。
最初は,神社老麻呂(かみこそのおゆまろ)という人物が今の生駒山の西側にあったらしい草香山で詠んだという短歌です。
難波潟潮干のなごりよく見てむ家なる妹が待ち問はむため(6-976)
<なにはがたしほひのなごり よくみてむいへなるいもが まちとはむため>
<<難波潟で潮がひいた後の様子をしっかり見ておきましょう。家にいる妻が土産話を聞きたくて待っているから>>
この場合の「待ち問ふ」は家で夫が旅から帰るのを待っている妻が,家に戻ると「旅路はどうだった?」といろいろ聞きたくて待っている状態を表していると私は思います。生駒山の麓の西側の高台から西方の難波の干潟は一面に広がり,西日に照らされ,鏡のように見えたのかもしれません。
平城京にいたのではそんな光景は見られません。そんな珍しく,美しい光景を家からあまり遠くに行けない妻の質問に答えられるようにしっかり見ておこうというやさしい夫の気持ちが伝わっています。現在では,信貴生駒スカイラインの各展望台から見える大阪の素晴らしい夕景や夜景をしっかり見て,その美しさを妻に伝えようとしているようなものでしょうか。
次は,和歌山の若の浦付近にあったという玉津島に旅をした旅人に贈った詠み人知らずの短歌です。
玉津島よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに(7-1215)
<たまつしまよくみていませ あをによしならなるひとの まちとはばいかに>
<<玉津島をよく見てきてくださいませ。奈良の都にいる人があなたの帰りを待って(玉津島はどんなところだったと)質問したらどうします?>>
この旅人も平城京に住む人なのでしょう。平城京にいる「待ち問ふ」人のために,しっかり見ておきましょうというのは,最初の短歌と同じです。京に住む人たちは,珍しい情報に飢えているようです。旅から帰ってきた人には,いっぱい質問して知らない情報を得ようとしている人が多かったのでしょう。
これらの2首を見た平城京の人は,実際に「待ち問ふ」ことができるような旅から帰った人はいないけれど,難波潟も玉津島も素晴らしく景色の良い場所だろうと想像します。そして,当然の成り行きとして,そこへ行きたくなるはずです。
万葉時代の交通の便の悪さは今と比べ物にならないとはいえ,両方とも頑張れば,1日で歩ける距離です。年配の人が2~3泊の小旅行の行き先としては手頃ではないでしょうか。万葉集の和歌には旅行ガイドブック的なものが多いと以前にも書きましたが,「待ち問ふ」を意識した観光地の誘い方もあるのだなと私は感じました。
さて,最後は大伴家持が弟の書持(ふみもち)の訃報を越中で聞いて詠んだ悲しみの長歌の一部です。
~ 恋しけく日長きものを 見まく欲り思ふ間に 玉梓の使の来れば 嬉しみと我が待ち問ふに およづれのたはこととかも はしきよし汝弟の命 なにしかも時しはあらむを ~(17-3957)
<~ こひしけくけながきものを みまくほりおもふあひだに たまづさのつかひのければ うれしみとあがまちとふに およづれのたはこととかも はしきよしなおとのみこと なにしかもときしはあらむを ~>
<<~ 恋しく思う日々は長くなり,会いたいと思ううちに京から使が来たので,嬉しい気持ちで待ち様子を問うと,譫言であってほしい,いとしいわが弟は,何ということか,別の時でもよいものを ~>>
家持が京から到着した使者に京の様子や弟の様子を聞こうと待っていて,部屋に来た使者の言葉から弟の訃報を聞かされた家持はいかばかりだったのか,この長歌はその気持ちを十分表していると私は感じます。
こうしてみると「待ち問ふ」は遠くの状況や様子を知りたい,聞きたいと待っている気持ちを表した一つの言葉だと私は思うのですが,なぜか古い日本語も掲載している辞書には「待ち問ふ」という見出しはあまり載っていないようなのです。私にとって,少し不思議で残念な感もあります。
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(3)に続く。
2014年4月2日水曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(1) 日本人は井戸端会議的「問ふ」が好き?
<ほとんど日本人しかいない普通の職場>
日本人は初対面の相手や疎遠な外国人に,自分考えを相手に誤解されないよう伝えるのが得意でないという評価があると聞くことがあります。それがすべての場合当てはまるかどうかは別として,私がこれまでの職場などでの経験からはこの評価には否定できない部分が少なくないと思います。
私の職場は,これまでほとんど同じ日本人ばかりの職場だったのです。ですから,思想信条,文化,社会的な習慣が全く異なる多くの人々と一緒に仕事をしたことなかったといっても良いかと思います。職場の同僚・先輩・上司・後輩は,日本人ですから日本語が流暢に話せ,日本で育ち,日本の学校に通い,正月・バレンタイン・花見・衣替え・紅葉狩り・クリスマスなどの日本の習慣を十分知っています。日本のテレビ放送を観て,日本で売れ筋の製品を使い,日本の流行に対して共通の情報を持ち,日本人として共通の基盤を持った人たちと仕事をしてきたのです。
<日本人間の考え方の違いは大したことがない>
「いや,日本人だって,年齢,地域,学歴などでいろんな人がいるし,考え方に大きなギャップもあるよ。日本人と一括りにするのはいかがなものだろうか?」と,私のような見方に賛成しない人もいるかと思います。でも,私はその違いはせいぜい日本人としての共通の基盤上での反対/賛成,賛同/拒否,同調/排除の違いでしかないと思います。たとえていえば,日本料理の中で「牛肉の肉じゃがが好き」,「いや豚肉の肉じゃがのほうが好きで,牛肉のは嫌い」といった,好き嫌いの範囲内のようなものかもしれません。
<世界は多様>
「東欧ハンガリーの料理『パプリカーシュチルケ・ノケドリヴェル』(鶏肉とハンガリアンパスタ,パプリカ添え)と南米スリナムの料理『モクシメティ』(ライスを添えた肉料理)とどちらが好き?」と仮に私が仕事仲間に聞いたら,十中八九「そんなん知らんがな,あっち行って!」という反応になりますよね。びっくりされるだけでなく,「お前,頭がおかしくなったのか?」と思われるような環境が私の職場でした(それが一般的な日本の職場かも?)。しかし,もし職場に世界のさまざまな国の人が居て,その人たちと仲良く仕事をするには,これくらいの知識を持っている必要があるのかもしれません。
そんな必要性がなかった私は,初対面の人に気を悪させず,いろいろ質問する(問う)ことが苦手でした。初対面の人とも会話が続かず,気まずい雰囲気が長く続くというツライ経験を私はたくさんしてきました。職場の同僚や後輩に同様の悩みを持ち,考えや文化の違う人と積極的に係らない人と多く出会いました。
<「動きの詞シリーズ」再開>
さて,再開した「動きの詞シリーズ」の最初は,日本人があまり得意としない「問ふ」です。万葉集には「問ふ」が入っている和歌が50首ほどは出てきます。万葉時代の日本人はどんな「問ふ」をしてきたのか何回かに分けて見ていきましょう。それが,今の日本人の「問う」との違いがあるのでしょうか。
最初の短歌は,天平勝宝7年2月に集められまれたという有名な防人歌です。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちどうしが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
防人歌といっても防人自身が詠んだもの以外に防人の妻が詠んだものも含まれています。
この短歌は防人に行く夫の妻が詠んだものですが,気持ちは<<>>内の私の現代語訳を見れば分かるかと思います。
さて,次は占いで当時許婚であった大伴大嬢(おほとものおほいらつめ)と逢う運勢を問うことを詠んだ大伴家持の短歌です。
月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り(4-736)
<つくよにはかどにいでたち ゆふけとひあしうらをぞせし ゆかまくをほり>
<<月夜には家の門の外まで出て立って夕占で問い,また足占もしましたよ。あなたの家へ行こうと>>
夕占とは広辞苑によると「夕方,辻に立って往来の人の話を聞き,それによって吉凶,禍福をうらなうこと」という意味です。家持は,逢いに行きたいという気持ちがいっぱいで,その準備をしていることを大嬢に伝えたかったのかもしれません。
これら2首の「問ふ」は,ある種の情報を得るためかもしれません。最初の防人歌では,作者ではなく近所のおばさんたちが井戸端会議的に防人に行く家はどこかの情報を収集しようとしていることは分かります。
また,後の家持の短歌は夕占という,(家の前の)通りに出て,行き交う人の質問をして,自分が大嬢に逢うのに良い運勢かを確認しています。
多分,大嬢の家に行く道すがらに何らかの障害になるものがあったり,何かの催し物で,人が多くいて,目立ち,噂が立ってしまうことも考えられます。運勢だけでなく,さまざまな情報から大嬢の家へ行く良いタイミングを夕占で見測ろうとして,足占で分析をしたのかもしれません。
今回紹介した「問ふ」は,相手のことを知ろうというよりも,情報収集の目的であったと私は感じます。
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(2)に続く。
日本人は初対面の相手や疎遠な外国人に,自分考えを相手に誤解されないよう伝えるのが得意でないという評価があると聞くことがあります。それがすべての場合当てはまるかどうかは別として,私がこれまでの職場などでの経験からはこの評価には否定できない部分が少なくないと思います。
私の職場は,これまでほとんど同じ日本人ばかりの職場だったのです。ですから,思想信条,文化,社会的な習慣が全く異なる多くの人々と一緒に仕事をしたことなかったといっても良いかと思います。職場の同僚・先輩・上司・後輩は,日本人ですから日本語が流暢に話せ,日本で育ち,日本の学校に通い,正月・バレンタイン・花見・衣替え・紅葉狩り・クリスマスなどの日本の習慣を十分知っています。日本のテレビ放送を観て,日本で売れ筋の製品を使い,日本の流行に対して共通の情報を持ち,日本人として共通の基盤を持った人たちと仕事をしてきたのです。
<日本人間の考え方の違いは大したことがない>
「いや,日本人だって,年齢,地域,学歴などでいろんな人がいるし,考え方に大きなギャップもあるよ。日本人と一括りにするのはいかがなものだろうか?」と,私のような見方に賛成しない人もいるかと思います。でも,私はその違いはせいぜい日本人としての共通の基盤上での反対/賛成,賛同/拒否,同調/排除の違いでしかないと思います。たとえていえば,日本料理の中で「牛肉の肉じゃがが好き」,「いや豚肉の肉じゃがのほうが好きで,牛肉のは嫌い」といった,好き嫌いの範囲内のようなものかもしれません。
<世界は多様>
「東欧ハンガリーの料理『パプリカーシュチルケ・ノケドリヴェル』(鶏肉とハンガリアンパスタ,パプリカ添え)と南米スリナムの料理『モクシメティ』(ライスを添えた肉料理)とどちらが好き?」と仮に私が仕事仲間に聞いたら,十中八九「そんなん知らんがな,あっち行って!」という反応になりますよね。びっくりされるだけでなく,「お前,頭がおかしくなったのか?」と思われるような環境が私の職場でした(それが一般的な日本の職場かも?)。しかし,もし職場に世界のさまざまな国の人が居て,その人たちと仲良く仕事をするには,これくらいの知識を持っている必要があるのかもしれません。
そんな必要性がなかった私は,初対面の人に気を悪させず,いろいろ質問する(問う)ことが苦手でした。初対面の人とも会話が続かず,気まずい雰囲気が長く続くというツライ経験を私はたくさんしてきました。職場の同僚や後輩に同様の悩みを持ち,考えや文化の違う人と積極的に係らない人と多く出会いました。
<「動きの詞シリーズ」再開>
さて,再開した「動きの詞シリーズ」の最初は,日本人があまり得意としない「問ふ」です。万葉集には「問ふ」が入っている和歌が50首ほどは出てきます。万葉時代の日本人はどんな「問ふ」をしてきたのか何回かに分けて見ていきましょう。それが,今の日本人の「問う」との違いがあるのでしょうか。
最初の短歌は,天平勝宝7年2月に集められまれたという有名な防人歌です。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちどうしが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
防人歌といっても防人自身が詠んだもの以外に防人の妻が詠んだものも含まれています。
この短歌は防人に行く夫の妻が詠んだものですが,気持ちは<<>>内の私の現代語訳を見れば分かるかと思います。
さて,次は占いで当時許婚であった大伴大嬢(おほとものおほいらつめ)と逢う運勢を問うことを詠んだ大伴家持の短歌です。
月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り(4-736)
<つくよにはかどにいでたち ゆふけとひあしうらをぞせし ゆかまくをほり>
<<月夜には家の門の外まで出て立って夕占で問い,また足占もしましたよ。あなたの家へ行こうと>>
夕占とは広辞苑によると「夕方,辻に立って往来の人の話を聞き,それによって吉凶,禍福をうらなうこと」という意味です。家持は,逢いに行きたいという気持ちがいっぱいで,その準備をしていることを大嬢に伝えたかったのかもしれません。
これら2首の「問ふ」は,ある種の情報を得るためかもしれません。最初の防人歌では,作者ではなく近所のおばさんたちが井戸端会議的に防人に行く家はどこかの情報を収集しようとしていることは分かります。
また,後の家持の短歌は夕占という,(家の前の)通りに出て,行き交う人の質問をして,自分が大嬢に逢うのに良い運勢かを確認しています。
多分,大嬢の家に行く道すがらに何らかの障害になるものがあったり,何かの催し物で,人が多くいて,目立ち,噂が立ってしまうことも考えられます。運勢だけでなく,さまざまな情報から大嬢の家へ行く良いタイミングを夕占で見測ろうとして,足占で分析をしたのかもしれません。
今回紹介した「問ふ」は,相手のことを知ろうというよりも,情報収集の目的であったと私は感じます。
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(2)に続く。
2014年3月21日金曜日
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(4:まとめ)」 霞や霰という天候
ここまで,万葉集に出てくる天候の多様さについて私の考えを説明してきました。今回のスペシャル記事の最後は「霞(かすみ)」「霰(あられ)」をとりあげます。
万葉集で「霞」が出てくる和歌は78首ほどあり,「霰」が出てくる和歌は10首ほどあります。ようやく春らしくなった昨日今日ですが,まずは春によく立つ「霞」から見ていきましょう。
霞といえば,大伴家持の次の短歌が有名です。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも(19-4290)
ただ,この短歌は2009年7月11日と2011年4月3日の当ブログで紹介済みなので割愛します。
次は同じ家持が越中守として赴任していた時期の旧暦3月16日に盟友の大伴池主に贈ったとされる1首です。
三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ(18-4079)
<みしまのにかすみたなびき しかすがにきのふもけふも ゆきはふりつつ>
<<三島野に霞がたなびいて,それなのに昨日も今日も雪は降り続いている>>
今日のニュースでは,北日本は大荒れの天気で強い風が吹き,雪も降る予報が出ているようです。霞がたなびく春になっても雪が降り続き,なかなか暖かくならない状況を家持はやや嘆いているようにも私は感じます。
しかし,次の詠み人知らずの短歌のように,春は確実にやってきます。
見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも(10-1872)
<みわたせばかすがののへに かすみたちさきにほへるは さくらばなかも>
<<見わたせば春日の野に霞が立ち,そして立派に咲いているのは桜の花だろうか>>
この短歌から,童謡「さくらさくら」の歌詞の「♪かすみか雲か」を思い出しました。
次は中臣武良自(なかとみのむらじ)が春の兆候を詠んだ短歌です。
時は今は春になりぬとみ雪降る遠山の辺に霞たなびく(8-1479)
<ときはいまははるになりぬと みゆきふるとほやまのへに かすみたなびく>
<<季節は今は春になったようだ。雪が降り積もる遠山のあたりに霞がたなびいているから>>
私が毎朝通勤の武蔵野線から見える富士山は日を追うごとにかすんでいきます。この短歌のように春になっている証拠なのかもしれませんね。
さて,最後は「霰」に関する万葉集の和歌を見ていきましょう。「霰」は広辞苑には,雪の結晶に過冷却状態の水滴が付着して凍り,白色不透明の氷の小塊になって地上降るものと説明されています。不安定な天候の時に発生するのだろうと私は想像します。
<「枕詞は常に訳さない」という考えは同意できない>
万葉集では,「霰降り」(鹿島,遠などにかかる),「霰打つ」(安良礼松原にかかる)という枕詞として出てくるものがほとんどです。枕詞なので「特に意味がない」と考えることに私は同調しません。和歌の主張する主体は別にあるとしても,文字がなかった時代,吟詠でそれを引き出すために枕詞は重要な役割を持っていたのではないでしょうか。枕詞に使われる言葉(この場合「霰」)は当時としては非常にポピュラーな言葉だったと私は想像します。
さて,枕詞としては使われていないと考えられる詠み人知らずの短歌(柿本人麻呂歌集に載っていたという)を紹介します。
我が袖に霰た走る巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため(10-2312)
<わがそでにあられたばしる まきかくしけたずてあらむ いもがみむため>
<<衣の袖に霰が玉になって飛びこんでくるので,溶けないように包み隠して妻に見せてあげたい>>
雪でもなく,雹(ひょう)でもない霰に対する作者のイメージが伝わってきます。
こうやって,万葉集に出てくる天候だけを見てみても,いくらでも書けそうな気になってくるのは,万葉集を愛する人の中で私だけでしょうか。「暑いですね」「冷えますね」「よく降りますね」「お天気雨で虹が出てましたよ」「風止みませんね」「今日は一雨きそうですね」そして「良いお天気ですね」など日本人は日常的に天気のことについてコミュニケーションします。
それだけ,日本の天候は変化が激しく,多様で,そのことによる生活への影響が少なからずある。でも,一方ではその天気の変化の中で見せる自然の美しさを愛で,相手に伝え,共有することで,その変化を楽しもうしている,それが日本人の特性の一つだと私は思いたいのです。
あまりまとまっていませんが,今回のスペシャル記事はここまでとして,動きの詞シリーズに戻ります。
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(1)に続く
万葉集で「霞」が出てくる和歌は78首ほどあり,「霰」が出てくる和歌は10首ほどあります。ようやく春らしくなった昨日今日ですが,まずは春によく立つ「霞」から見ていきましょう。
霞といえば,大伴家持の次の短歌が有名です。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも(19-4290)
ただ,この短歌は2009年7月11日と2011年4月3日の当ブログで紹介済みなので割愛します。
次は同じ家持が越中守として赴任していた時期の旧暦3月16日に盟友の大伴池主に贈ったとされる1首です。
三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ(18-4079)
<みしまのにかすみたなびき しかすがにきのふもけふも ゆきはふりつつ>
<<三島野に霞がたなびいて,それなのに昨日も今日も雪は降り続いている>>
今日のニュースでは,北日本は大荒れの天気で強い風が吹き,雪も降る予報が出ているようです。霞がたなびく春になっても雪が降り続き,なかなか暖かくならない状況を家持はやや嘆いているようにも私は感じます。
しかし,次の詠み人知らずの短歌のように,春は確実にやってきます。
見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも(10-1872)
<みわたせばかすがののへに かすみたちさきにほへるは さくらばなかも>
<<見わたせば春日の野に霞が立ち,そして立派に咲いているのは桜の花だろうか>>
この短歌から,童謡「さくらさくら」の歌詞の「♪かすみか雲か」を思い出しました。
次は中臣武良自(なかとみのむらじ)が春の兆候を詠んだ短歌です。
時は今は春になりぬとみ雪降る遠山の辺に霞たなびく(8-1479)
<ときはいまははるになりぬと みゆきふるとほやまのへに かすみたなびく>
<<季節は今は春になったようだ。雪が降り積もる遠山のあたりに霞がたなびいているから>>
私が毎朝通勤の武蔵野線から見える富士山は日を追うごとにかすんでいきます。この短歌のように春になっている証拠なのかもしれませんね。
さて,最後は「霰」に関する万葉集の和歌を見ていきましょう。「霰」は広辞苑には,雪の結晶に過冷却状態の水滴が付着して凍り,白色不透明の氷の小塊になって地上降るものと説明されています。不安定な天候の時に発生するのだろうと私は想像します。
<「枕詞は常に訳さない」という考えは同意できない>
万葉集では,「霰降り」(鹿島,遠などにかかる),「霰打つ」(安良礼松原にかかる)という枕詞として出てくるものがほとんどです。枕詞なので「特に意味がない」と考えることに私は同調しません。和歌の主張する主体は別にあるとしても,文字がなかった時代,吟詠でそれを引き出すために枕詞は重要な役割を持っていたのではないでしょうか。枕詞に使われる言葉(この場合「霰」)は当時としては非常にポピュラーな言葉だったと私は想像します。
さて,枕詞としては使われていないと考えられる詠み人知らずの短歌(柿本人麻呂歌集に載っていたという)を紹介します。
我が袖に霰た走る巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため(10-2312)
<わがそでにあられたばしる まきかくしけたずてあらむ いもがみむため>
<<衣の袖に霰が玉になって飛びこんでくるので,溶けないように包み隠して妻に見せてあげたい>>
雪でもなく,雹(ひょう)でもない霰に対する作者のイメージが伝わってきます。
こうやって,万葉集に出てくる天候だけを見てみても,いくらでも書けそうな気になってくるのは,万葉集を愛する人の中で私だけでしょうか。「暑いですね」「冷えますね」「よく降りますね」「お天気雨で虹が出てましたよ」「風止みませんね」「今日は一雨きそうですね」そして「良いお天気ですね」など日本人は日常的に天気のことについてコミュニケーションします。
それだけ,日本の天候は変化が激しく,多様で,そのことによる生活への影響が少なからずある。でも,一方ではその天気の変化の中で見せる自然の美しさを愛で,相手に伝え,共有することで,その変化を楽しもうしている,それが日本人の特性の一つだと私は思いたいのです。
あまりまとまっていませんが,今回のスペシャル記事はここまでとして,動きの詞シリーズに戻ります。
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(1)に続く
2014年3月17日月曜日
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(3)」 露という天候
今回は,前回の「霜」で出てきた「露霜」「露霜の」を除いた「露」について万葉集を見ていきたいと思います。
露の凍った状態を霜とすると,凍っていない露は降りるのは真冬以外のさまざまな季節で発生することになります。万葉集で霜については多様な表現で詠まれていますので,露も多様な表現で詠まれていると期待ができそうです。事実,露が出てくる万葉集の和歌は「露霜」「露霜の」を除いても,87首ほど出てきます。露という気象現象も万葉歌人にとって,比較的ポピュラーな和歌のテーマだったのかもしれませんね。
露についてどんな表現が使われているか見ていきましょうか。
暁露(あかときつゆ)‥夜明け前の少し明るくなったときに降りている露
朝露(あさつゆ)‥朝降りている露
朝露の‥「命」「消(け)」「置く」などにかかる枕詞
白露(しらつゆ)‥白く光って見える露
白露の‥「消(け)」「置く」にかかる枕詞
露の命(つゆのいのち)‥露のように消えやすい命
露原(つゆはら)‥露の多く降りている原。
露分け(つゆわけ)‥草原・野路などの,草の茂ったところの露を押し分けていくこと
露分け衣(つゆわけころも)‥露の多い草場などを分けていくときに着る衣
山下露(やましたつゆ)‥山中の木々の枝葉からこぼれ落ちる露
夕露(ゆうつゆ)‥夕方に降りている露
では,現代ではあまり見かけない言葉「山下露」の用例から見ていきましょう。
ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも(7-1241)
<ぬばたまのくろかみやまを あさこえてやましたつゆに ぬれにけるかも>
<<黒髪山を朝越えて、山中の木々の枝葉についていた露に濡れてしまったよ>>
この詠み人知らずの短歌を詠んだ作者は,平城京の北にある黒髪山を越えて,京の妻に逢いに来たのかもしれません。山越えをしなければ露に濡れることはなかったのに,遠回りしないで急いできたことを訴えたいのでしょうか。
次は「露分け衣」を詠んだこれも詠み人知らずの短歌です。
夏草の露別け衣着けなくに我が衣手の干る時もなき(10-1994)
<なつくさのつゆわけごろも つけなくにわがころもでの ふるときもなき>
<<夏草の露分け衣に着けなければならないようなところを来たわけでもないのに,私の衣の袖は乾くときがない>>
苦しい恋で涙が止まらず,その涙を拭く衣の袖が乾くことがないと嘆いている短歌といえそうですね。露をかき分けかき分け進むイメージは,恋の行く末が見えない暗い道筋と,当時の考えとしてはうまく合っていたのではないかと私は想像します。
次は,「露原」を詠んだ詠み人知らずの旋頭歌です。
朝戸出の君が足結を濡らす露原早く起き出でつつ我れも裳裾濡らさな(11-2357)
<あさとでのきみがあゆひをぬらすつゆはら はやくおきいでつつわれももすそぬらさな>
<<朝戸を出てゆくあなたの足結を濡らす露原。私も早く起きてそこに出てあなたと同じように裳の裾を濡らしましょう>>
この旋頭歌は,2011年9月25日に本ブログで紹介しています。露原を一緒に行って,妻問に来た夫を可能な限り遠くまで見送りたい気持ちが私には伝わってきます。
最後は「白露」を詠んだ湯原王(ゆはらのおほきみ)の短歌を紹介します。
玉に貫き消たず賜らむ秋萩の末わくらばに置ける白露(8-1618)
<たまにぬきけたずたばらむ あきはぎのうれわくらばに おけるしらつゆ>
<<玉にして緒に通して消えないままもらいましょう,秋萩の枝先の葉に置いた白露を>>
秋萩の枝先の葉に降りた露が白く輝き,美しかったのでしょうか。湯原王はその露を玉にして残したいと思ったのかもしれません。
このように見てくると,露は美しい風景を与えてくれるが,露は冷たく,それに濡れることは苦痛を伴うことなのです。露に濡れることが苦しい恋や別離の苦しさをイメージする際に使われていたのだろうと私は感じます。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(4)」に続く。
露の凍った状態を霜とすると,凍っていない露は降りるのは真冬以外のさまざまな季節で発生することになります。万葉集で霜については多様な表現で詠まれていますので,露も多様な表現で詠まれていると期待ができそうです。事実,露が出てくる万葉集の和歌は「露霜」「露霜の」を除いても,87首ほど出てきます。露という気象現象も万葉歌人にとって,比較的ポピュラーな和歌のテーマだったのかもしれませんね。
露についてどんな表現が使われているか見ていきましょうか。
暁露(あかときつゆ)‥夜明け前の少し明るくなったときに降りている露
朝露(あさつゆ)‥朝降りている露
朝露の‥「命」「消(け)」「置く」などにかかる枕詞
白露(しらつゆ)‥白く光って見える露
白露の‥「消(け)」「置く」にかかる枕詞
露の命(つゆのいのち)‥露のように消えやすい命
露原(つゆはら)‥露の多く降りている原。
露分け(つゆわけ)‥草原・野路などの,草の茂ったところの露を押し分けていくこと
露分け衣(つゆわけころも)‥露の多い草場などを分けていくときに着る衣
山下露(やましたつゆ)‥山中の木々の枝葉からこぼれ落ちる露
夕露(ゆうつゆ)‥夕方に降りている露
では,現代ではあまり見かけない言葉「山下露」の用例から見ていきましょう。
ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも(7-1241)
<ぬばたまのくろかみやまを あさこえてやましたつゆに ぬれにけるかも>
<<黒髪山を朝越えて、山中の木々の枝葉についていた露に濡れてしまったよ>>
この詠み人知らずの短歌を詠んだ作者は,平城京の北にある黒髪山を越えて,京の妻に逢いに来たのかもしれません。山越えをしなければ露に濡れることはなかったのに,遠回りしないで急いできたことを訴えたいのでしょうか。
次は「露分け衣」を詠んだこれも詠み人知らずの短歌です。
夏草の露別け衣着けなくに我が衣手の干る時もなき(10-1994)
<なつくさのつゆわけごろも つけなくにわがころもでの ふるときもなき>
<<夏草の露分け衣に着けなければならないようなところを来たわけでもないのに,私の衣の袖は乾くときがない>>
苦しい恋で涙が止まらず,その涙を拭く衣の袖が乾くことがないと嘆いている短歌といえそうですね。露をかき分けかき分け進むイメージは,恋の行く末が見えない暗い道筋と,当時の考えとしてはうまく合っていたのではないかと私は想像します。
次は,「露原」を詠んだ詠み人知らずの旋頭歌です。
朝戸出の君が足結を濡らす露原早く起き出でつつ我れも裳裾濡らさな(11-2357)
<あさとでのきみがあゆひをぬらすつゆはら はやくおきいでつつわれももすそぬらさな>
<<朝戸を出てゆくあなたの足結を濡らす露原。私も早く起きてそこに出てあなたと同じように裳の裾を濡らしましょう>>
この旋頭歌は,2011年9月25日に本ブログで紹介しています。露原を一緒に行って,妻問に来た夫を可能な限り遠くまで見送りたい気持ちが私には伝わってきます。
最後は「白露」を詠んだ湯原王(ゆはらのおほきみ)の短歌を紹介します。
玉に貫き消たず賜らむ秋萩の末わくらばに置ける白露(8-1618)
<たまにぬきけたずたばらむ あきはぎのうれわくらばに おけるしらつゆ>
<<玉にして緒に通して消えないままもらいましょう,秋萩の枝先の葉に置いた白露を>>
秋萩の枝先の葉に降りた露が白く輝き,美しかったのでしょうか。湯原王はその露を玉にして残したいと思ったのかもしれません。
このように見てくると,露は美しい風景を与えてくれるが,露は冷たく,それに濡れることは苦痛を伴うことなのです。露に濡れることが苦しい恋や別離の苦しさをイメージする際に使われていたのだろうと私は感じます。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(4)」に続く。
2014年3月12日水曜日
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(2)」 霜という天候
前回は天候(霧)の多様性を取り上げましたが,今回は天候(霜)の多様性を取り上げます。
万葉集では「霜」についても「霧」に負けないくらいいろいろなタイプの霜が出てきます。霧はある意味年間を通して出ますが,霜が出る時期や時間帯は霧に比べてはるかに限られているにも関わらずです。
まず,万葉集では「霜が降りる」ことを,「霜を置く」「霜が降る」と表現しています。事例を見ていきましょう。
この里は継ぎて霜や置く夏の野に我が見し草はもみちたりけり(19-4268)
<このさとはつぎてしもやおく なつののにわがみしくさは もみちたりけり>
<<この里はいつも霜の置くことがあるのか。夏の野で余が見た草はもう色づいていたぞよ>>
この短歌は天平勝宝4(752)年に孝謙天皇が藤原仲麻呂に贈ったとされる1首です。
夏に紅葉のように綺麗に色づく草が招待された仲麻呂邸の庭に植えられていたのを見た孝謙天皇は,「ここでは夏でも霜が降りるのか?」と詠って仲麻呂邸を褒めたと私は想像します。降りた(置かれた)霜によって,紅葉がきれいに色づくというのが,当時の常識的な見方だったのでしょう。
この短歌から,孝謙天皇はこのときここまで仲麻呂をヨイショするほど仲麻呂に頼っていたのだと私には伝わってきます。
はなはだも夜更けてな行き道の辺の斎笹の上に霜の降る夜を(10-2336)
<はなはだもよふけてなゆき みちのへのゆささのうへに しものふるよを>
<<夜も大変更けてしまっているのに行ってしまわないでください。道の傍の神聖な笹にも霜が降るような夜ですのに>>
この詠み人知らずの短歌は,女性作で,妻問に来た夫を返したくない気持ちを詠んだものだといえるでしょう。人が安易に触ってはいけない神にささげる笹の葉に霜が降りる,でもその霜を蹴散らしながら私のことなんか忘れて帰るのでしょうねと夫に伝えていると私は感じます。
ここでは紹介しませんが,この夫はこの短歌を贈られて,そんなことをいって引き止める妻のことをますます思わずにはいられないという短歌を返しています。
さて,霜の種類もいくつか万葉集には出てきます。「露霜」「朝霜」「霜枯れ」「霜曇り」「霜夜」がそうです。一番多く出てくる「露霜」は「消(け)」,「置く」,「古」かかる枕詞「露霜の」として使われるほか,本来の「秋が深まり露が凍って霜に変わった」という意味の「露霜」も多く詠まれています。
次はそのなかの1首です。
妻恋ひに鹿鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく(8-1600)
<つまごひにかなくやまへの あきはぎはつゆしもさむみ さかりすぎゆく>
<<妻を恋う鹿が鳴く山辺の秋萩は,露霜が降りるほど寒くなったので,花の盛りが過ぎてゆく>>
これは内舎人の石川広成という人物が詠んだとされる短歌です。鹿は妻を恋う自分自身を示し,いくら鳴いてもなかなか妻は逢ってくれないので,妻の盛りも過ぎてしまわないかとを心配して詠んだ短歌だろうと私は解釈します。妻がなかなか逢ってくれない理由がわからない広成の戸惑いが私には見えます。
さて,最後は今はあまり使われない「霜曇り」が出てくる詠み人知らずの短歌を紹介します。
霜曇りすとにかあるらむ久方の夜渡る月の見えなく思へば(7-1083)
<しもぐもりすとにかあるらむ ひさかたのよわたるつきの みえなくおもへば>
<<霜が降りるために曇っているためだあろうか。夜を渡る月が見えないと思われる訳は>>
万葉時代,霜が降りるためにはそれなりの湿気が必要だと考えられていた可能性がありそうです。
夜曇っていて,未明に雲がとれて放射冷却が発生すると霜が降りやすいといえるのかもしれません。そのため,この短歌の作者は月の光に霜が輝く美しさを見たい,早く雲が取れてくれないかなと待っている姿を私は感じます。
<何度目かの台湾訪問>
さて,私は3月5日から8日まで約3年ぶりに台北に観光に行ってきました。
寒い日本を離れて,南国の気候を期待していましたが,台北はずっと小雨か曇りの天気で,南国の太陽を目にすることはありませんでした。最高気温も16度程度,最低気温は10度くらいまで下がり,現地の人たちはダウンジャケット,ブーツ,マフラー姿です。服装だけ見れば日本の真冬と変わらない服装をしていました。
それでも,台北市内で美味しいものを次々と食べ歩き,足裏マッサージも堪能。台北市立動物園でパンダの親子をゆっくり見学,猫空ロープウェイから台北市内を遠望し,九份老街もしっかり散策しました。
今回,空港と台北市内,観光地の移動はすべて地下鉄(MRT)かバスを使い(支払はプリペイドカード),結局タクシーは一度も使いませんでした。台北の多様な見どころを満喫し,公共交通機関の便利さと安さに改めて感心させられ旅行でした。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(3)」に続く。
万葉集では「霜」についても「霧」に負けないくらいいろいろなタイプの霜が出てきます。霧はある意味年間を通して出ますが,霜が出る時期や時間帯は霧に比べてはるかに限られているにも関わらずです。
まず,万葉集では「霜が降りる」ことを,「霜を置く」「霜が降る」と表現しています。事例を見ていきましょう。
この里は継ぎて霜や置く夏の野に我が見し草はもみちたりけり(19-4268)
<このさとはつぎてしもやおく なつののにわがみしくさは もみちたりけり>
<<この里はいつも霜の置くことがあるのか。夏の野で余が見た草はもう色づいていたぞよ>>
この短歌は天平勝宝4(752)年に孝謙天皇が藤原仲麻呂に贈ったとされる1首です。
夏に紅葉のように綺麗に色づく草が招待された仲麻呂邸の庭に植えられていたのを見た孝謙天皇は,「ここでは夏でも霜が降りるのか?」と詠って仲麻呂邸を褒めたと私は想像します。降りた(置かれた)霜によって,紅葉がきれいに色づくというのが,当時の常識的な見方だったのでしょう。
この短歌から,孝謙天皇はこのときここまで仲麻呂をヨイショするほど仲麻呂に頼っていたのだと私には伝わってきます。
はなはだも夜更けてな行き道の辺の斎笹の上に霜の降る夜を(10-2336)
<はなはだもよふけてなゆき みちのへのゆささのうへに しものふるよを>
<<夜も大変更けてしまっているのに行ってしまわないでください。道の傍の神聖な笹にも霜が降るような夜ですのに>>
この詠み人知らずの短歌は,女性作で,妻問に来た夫を返したくない気持ちを詠んだものだといえるでしょう。人が安易に触ってはいけない神にささげる笹の葉に霜が降りる,でもその霜を蹴散らしながら私のことなんか忘れて帰るのでしょうねと夫に伝えていると私は感じます。
ここでは紹介しませんが,この夫はこの短歌を贈られて,そんなことをいって引き止める妻のことをますます思わずにはいられないという短歌を返しています。
さて,霜の種類もいくつか万葉集には出てきます。「露霜」「朝霜」「霜枯れ」「霜曇り」「霜夜」がそうです。一番多く出てくる「露霜」は「消(け)」,「置く」,「古」かかる枕詞「露霜の」として使われるほか,本来の「秋が深まり露が凍って霜に変わった」という意味の「露霜」も多く詠まれています。
次はそのなかの1首です。
妻恋ひに鹿鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく(8-1600)
<つまごひにかなくやまへの あきはぎはつゆしもさむみ さかりすぎゆく>
<<妻を恋う鹿が鳴く山辺の秋萩は,露霜が降りるほど寒くなったので,花の盛りが過ぎてゆく>>
これは内舎人の石川広成という人物が詠んだとされる短歌です。鹿は妻を恋う自分自身を示し,いくら鳴いてもなかなか妻は逢ってくれないので,妻の盛りも過ぎてしまわないかとを心配して詠んだ短歌だろうと私は解釈します。妻がなかなか逢ってくれない理由がわからない広成の戸惑いが私には見えます。
さて,最後は今はあまり使われない「霜曇り」が出てくる詠み人知らずの短歌を紹介します。
霜曇りすとにかあるらむ久方の夜渡る月の見えなく思へば(7-1083)
<しもぐもりすとにかあるらむ ひさかたのよわたるつきの みえなくおもへば>
<<霜が降りるために曇っているためだあろうか。夜を渡る月が見えないと思われる訳は>>
万葉時代,霜が降りるためにはそれなりの湿気が必要だと考えられていた可能性がありそうです。
夜曇っていて,未明に雲がとれて放射冷却が発生すると霜が降りやすいといえるのかもしれません。そのため,この短歌の作者は月の光に霜が輝く美しさを見たい,早く雲が取れてくれないかなと待っている姿を私は感じます。
<何度目かの台湾訪問>
さて,私は3月5日から8日まで約3年ぶりに台北に観光に行ってきました。
寒い日本を離れて,南国の気候を期待していましたが,台北はずっと小雨か曇りの天気で,南国の太陽を目にすることはありませんでした。最高気温も16度程度,最低気温は10度くらいまで下がり,現地の人たちはダウンジャケット,ブーツ,マフラー姿です。服装だけ見れば日本の真冬と変わらない服装をしていました。
それでも,台北市内で美味しいものを次々と食べ歩き,足裏マッサージも堪能。台北市立動物園でパンダの親子をゆっくり見学,猫空ロープウェイから台北市内を遠望し,九份老街もしっかり散策しました。
今回,空港と台北市内,観光地の移動はすべて地下鉄(MRT)かバスを使い(支払はプリペイドカード),結局タクシーは一度も使いませんでした。台北の多様な見どころを満喫し,公共交通機関の便利さと安さに改めて感心させられ旅行でした。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(3)」に続く。
2014年3月2日日曜日
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(1)」 霧という天候
このブログを始めて満5年が経ち,6年目に入ります。
これまで320件ほど記事をアップしてきました。アップした記事が増えていますから当たり前なのかもしれませんが,おかげさまで記事件数の増加ペース以上で年々閲覧数が増えています。
このブログをここまで続けてこられたのは,以前にも述べましたが,万葉集の根底にあるさまざまな意味での「多様性」があるからだと私は感じています。もし,この万葉集にこのような「多様性」がなかったら,根っからの飽き性である私の性格からは,同じようなことを繰り返す記事ばかり書くのを嫌い,おそらく続かなかったとと思います。
万葉集の多様性については,多くの分野(動植物,衣食住,染色,文化,芸能,宗教,経済など)を専門を研究する研究者の方々が研究された成果があるようです。
それでも,私は,この節目で自分の感じた焦点を絞った視点(ビュー)から,万葉集の「多様性」をいくつかの切り口で書いてみたくなったのです。
<万葉集で表れる霧の多様性>
今回は天候(霧)の多様性を取り上げます。気象予報士の試験があるように,天候を予測したり,天候の変化に備えたりするには,自然現象である天候の性質について詳しく知っておく必要がありそうです。天気が変わるとは,ある天候の状態から別の天候の状態に変化することです。たとえば,晴れていたのに急に曇り出したとか,ザザ振りの雨が止み太陽が出て虹がかかったといった変化です。
気象庁の天気図に書かれる天気記号の種類には,快晴,晴,薄曇,曇,煙霧,砂塵嵐,地吹雪,霧,霧雨,雨,霙(みぞれ),雪,霰(あられ),雹(ひょう),雷があるそうです。
万葉集ではどんな天候が出くるのでしょうか。
2011年11月にアップした対語シリーズ「晴と雨」のように,晴や雨は万葉集でたくさん詠まれています。その他を見ていくと,霧がなんと80首ほどの和歌で詠まれているのです。万葉時代は,それだけ霧は和歌のテーマとしてポピュラーであり,霧はそれまで見えていた風景を一変させるような心理的効果があったのかも知れないと私は思います。
特に朝霧は昨日見ていた遠くの風景が隠され,近くものほどはっきりと見え,少しずつ遠くに行くほどぼやけていく姿を万葉歌人も幻想的と感じたのでしょう。
朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(10-1831)
<あさぎりにしののにぬれて よぶこどりみふねのやまゆ なきわたるみゆ>
<<朝霧にしっかり濡れて呼子鳥が三船の山を通って鳴きながら飛んでいくのが見える>>
この詠み人知らずの短歌は風景描写と自分の気持ちを詠んだ良い歌だと私は思います。呼子鳥がどのくらい霧で濡れているかはおそらく作者には見えていないのだろうと思います。三船山の上を飛んでいる呼子鳥の姿が朝霧の中でうっすらと見え,鳴き声だけは鮮明に聞こえたので,呼子鳥は長い時間霧の中を飛んでさぞや濡れて,ツラく感じているのだろうと作者は思った可能性があります。
作者自身も恋なのか仕事なのか,霧に隠されて方向性が見えず,涙で濡れている,そんな心境を前提にしてこの短歌を詠んだのかもしれませんね。
朝霧以外に,夕霧と夜霧が万葉集で詠まれています。
次は天武天皇のひ孫にあたる圓方女王(まとかたのおほきみ)が義理の姉だと云われる智努女王(ちぬのおほきみ)の死去に際して詠んだ短歌です。
夕霧に千鳥の鳴きし佐保路をば荒しやしてむ見るよしをなみ(20-4477)
<ゆふぎりにちどりのなきし さほぢをばあらしやしてむ みるよしをなみ>
<<夕霧が立って千鳥の鳴いていた佐保路を荒れるままにしてしまうのでしょうか。もうお会いすることができずに>>
夕霧の中,千鳥が鳴いている佐保路を皇族の二人はよく一緒に歩いたのでしょうか。夕霧が出る頃ですから,辺りは薄暗くなって,二人だけで誰にも邪魔されず,いろんなことを話できたのかもしれません。そんな佐保路でもうお話ができなくなるので,道が荒れてしまうのではと残念がっています。佐保路は皇族がよく歩く道だとすると,きちっと整備されていたのでしょう。
次は夜霧について柿本人麻呂歌集で天武天皇の子である舎人皇子(とねりのみこ)が詠んだとされる短歌です。
ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに(9-1706)
<ぬばたまのよぎりはたちぬ ころもでのたかやのうへに たなびくまでに>
<<夜霧が高屋の上にたなびくほどたっている>>
山の上の方は月明かりで見えていたが,下の方は夜霧で白くたなびいた水墨画のような風景だったのかもしれません。
このほかにも,さまざまな状況の霧を詠んだ和歌で万葉集には出てきます。日本の多様な気候の変化とその変化を受け止める繊細な万葉人の感性があったればこそだと私は思うのです。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(2)」に続く。
これまで320件ほど記事をアップしてきました。アップした記事が増えていますから当たり前なのかもしれませんが,おかげさまで記事件数の増加ペース以上で年々閲覧数が増えています。
このブログをここまで続けてこられたのは,以前にも述べましたが,万葉集の根底にあるさまざまな意味での「多様性」があるからだと私は感じています。もし,この万葉集にこのような「多様性」がなかったら,根っからの飽き性である私の性格からは,同じようなことを繰り返す記事ばかり書くのを嫌い,おそらく続かなかったとと思います。
万葉集の多様性については,多くの分野(動植物,衣食住,染色,文化,芸能,宗教,経済など)を専門を研究する研究者の方々が研究された成果があるようです。
それでも,私は,この節目で自分の感じた焦点を絞った視点(ビュー)から,万葉集の「多様性」をいくつかの切り口で書いてみたくなったのです。
<万葉集で表れる霧の多様性>
今回は天候(霧)の多様性を取り上げます。気象予報士の試験があるように,天候を予測したり,天候の変化に備えたりするには,自然現象である天候の性質について詳しく知っておく必要がありそうです。天気が変わるとは,ある天候の状態から別の天候の状態に変化することです。たとえば,晴れていたのに急に曇り出したとか,ザザ振りの雨が止み太陽が出て虹がかかったといった変化です。
気象庁の天気図に書かれる天気記号の種類には,快晴,晴,薄曇,曇,煙霧,砂塵嵐,地吹雪,霧,霧雨,雨,霙(みぞれ),雪,霰(あられ),雹(ひょう),雷があるそうです。
万葉集ではどんな天候が出くるのでしょうか。
2011年11月にアップした対語シリーズ「晴と雨」のように,晴や雨は万葉集でたくさん詠まれています。その他を見ていくと,霧がなんと80首ほどの和歌で詠まれているのです。万葉時代は,それだけ霧は和歌のテーマとしてポピュラーであり,霧はそれまで見えていた風景を一変させるような心理的効果があったのかも知れないと私は思います。
特に朝霧は昨日見ていた遠くの風景が隠され,近くものほどはっきりと見え,少しずつ遠くに行くほどぼやけていく姿を万葉歌人も幻想的と感じたのでしょう。
朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(10-1831)
<あさぎりにしののにぬれて よぶこどりみふねのやまゆ なきわたるみゆ>
<<朝霧にしっかり濡れて呼子鳥が三船の山を通って鳴きながら飛んでいくのが見える>>
この詠み人知らずの短歌は風景描写と自分の気持ちを詠んだ良い歌だと私は思います。呼子鳥がどのくらい霧で濡れているかはおそらく作者には見えていないのだろうと思います。三船山の上を飛んでいる呼子鳥の姿が朝霧の中でうっすらと見え,鳴き声だけは鮮明に聞こえたので,呼子鳥は長い時間霧の中を飛んでさぞや濡れて,ツラく感じているのだろうと作者は思った可能性があります。
作者自身も恋なのか仕事なのか,霧に隠されて方向性が見えず,涙で濡れている,そんな心境を前提にしてこの短歌を詠んだのかもしれませんね。
朝霧以外に,夕霧と夜霧が万葉集で詠まれています。
次は天武天皇のひ孫にあたる圓方女王(まとかたのおほきみ)が義理の姉だと云われる智努女王(ちぬのおほきみ)の死去に際して詠んだ短歌です。
夕霧に千鳥の鳴きし佐保路をば荒しやしてむ見るよしをなみ(20-4477)
<ゆふぎりにちどりのなきし さほぢをばあらしやしてむ みるよしをなみ>
<<夕霧が立って千鳥の鳴いていた佐保路を荒れるままにしてしまうのでしょうか。もうお会いすることができずに>>
夕霧の中,千鳥が鳴いている佐保路を皇族の二人はよく一緒に歩いたのでしょうか。夕霧が出る頃ですから,辺りは薄暗くなって,二人だけで誰にも邪魔されず,いろんなことを話できたのかもしれません。そんな佐保路でもうお話ができなくなるので,道が荒れてしまうのではと残念がっています。佐保路は皇族がよく歩く道だとすると,きちっと整備されていたのでしょう。
次は夜霧について柿本人麻呂歌集で天武天皇の子である舎人皇子(とねりのみこ)が詠んだとされる短歌です。
ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに(9-1706)
<ぬばたまのよぎりはたちぬ ころもでのたかやのうへに たなびくまでに>
<<夜霧が高屋の上にたなびくほどたっている>>
山の上の方は月明かりで見えていたが,下の方は夜霧で白くたなびいた水墨画のような風景だったのかもしれません。
このほかにも,さまざまな状況の霧を詠んだ和歌で万葉集には出てきます。日本の多様な気候の変化とその変化を受け止める繊細な万葉人の感性があったればこそだと私は思うのです。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(2)」に続く。
2014年2月23日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(3:まとめ) 無理でも告げて!
万葉集での「告ぐ」の用法として,前々回の山背王の短歌のように和歌の最後に「告げこそ」という言い回しで終わる歌が多くあります。これは手紙の最後に「よろしくお伝えください」といった決まり文句のようなものだったのかもしれません。
いくつかの例を示します。
我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば我れに告げこそ(7-1248)
<わぎもことみつつしのはむ おきつものはなさきたらば われにつげこそ>
<<今度は妻と一緒に見にきて,「本当にきれいだなあ」と感じ合いたい。今度沖の藻の花が咲いたら私に知らせてくださいな>>
この短歌は,柿本人麻呂歌集に出てくる詠み人知らずの羈旅の歌です。作者は透明度の高い美しい海岸に来て,たまたま海草(アマモかも?)の花が咲いているところを見て,その美しさから,今度は妻と着たいから,咲いたら告げて(教えて)欲しいと詠っているのでしょうか。当時,1日2日でそういった知らせを伝える手段はないでしょうから「無理を承知で告げて欲しいほど美しい」といいたいのだと私は感じます。
次も詠み人しらずの羈旅の短歌です。
妹が目を見まく堀江のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ(13-3024)
<いもがめをみまくほりえの さざれなみしきてこひつつ ありとつげこそ>
<<妻に目を見たい(逢いたい)。堀江のさざ波よ,おまえが繰り返し繰り返し寄せてくるように俺の恋しい気持ちが積み重なっていることを妻に告げてくれ>>
何を見ても家にいる妻が恋しくて仕方がないという雰囲気が伝わってきます。妻は家の近くには堀江があったのかもしれませんね。
次は,大伴坂上郎女が詠んだ相聞歌の中の1首です。
暇なみ来まさぬ君に霍公鳥我れかく恋ふと行きて告げこそ(8-1498)
<いとまなみきまさぬきみに ほととぎすあれかくこふと ゆきてつげこそ>
<<ホトトギスよ,忙しいといって来ないあの人へ,私がこんなに恋しがっていると今すぐ飛んで行って教えてあげて>>
この短歌から,一人淋しく夫の妻問を待つ郎女の気持ちが私には素直に伝わってきます。ただ,この短歌もホトトギスが自分の気持ちを夫に伝えてくれるはずがないのは分かっていて,それでもそれを頼みたくなるくらい淋しい気持ちだと訴えたいのでしょうね。
このように「告げこそ」の短歌を見てくると,自分の気持ちを伝える(告げる)努力が自分にはまだまだ足らないと私は感じてしまいます。私の妻に対して,自分の気持ちを十分伝えていないのではないかと反省しています。
天の川 「ほんまにか~? この前,奥さんにたびとはんがメールで『愛してる』って出したら『メールアドレスの間違いではないですか?』って返信されたそうやんか。」
天の川君! 誤解されるような表現はやめなさい。これで,ちゃんと伝わっているです。たっ,たっ,多分ね。
え~と。これで「動きの詞(ことば)シリーズ」の「告ぐ」は終わりとします。
なお,来週から何回かは「動きの詞(ことば)シリーズ」はお休みし,「本ブログ6年目突入スペシャル」をお送りします。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(1)」に続く。
いくつかの例を示します。
我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば我れに告げこそ(7-1248)
<わぎもことみつつしのはむ おきつものはなさきたらば われにつげこそ>
<<今度は妻と一緒に見にきて,「本当にきれいだなあ」と感じ合いたい。今度沖の藻の花が咲いたら私に知らせてくださいな>>
この短歌は,柿本人麻呂歌集に出てくる詠み人知らずの羈旅の歌です。作者は透明度の高い美しい海岸に来て,たまたま海草(アマモかも?)の花が咲いているところを見て,その美しさから,今度は妻と着たいから,咲いたら告げて(教えて)欲しいと詠っているのでしょうか。当時,1日2日でそういった知らせを伝える手段はないでしょうから「無理を承知で告げて欲しいほど美しい」といいたいのだと私は感じます。
次も詠み人しらずの羈旅の短歌です。
妹が目を見まく堀江のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ(13-3024)
<いもがめをみまくほりえの さざれなみしきてこひつつ ありとつげこそ>
<<妻に目を見たい(逢いたい)。堀江のさざ波よ,おまえが繰り返し繰り返し寄せてくるように俺の恋しい気持ちが積み重なっていることを妻に告げてくれ>>
何を見ても家にいる妻が恋しくて仕方がないという雰囲気が伝わってきます。妻は家の近くには堀江があったのかもしれませんね。
次は,大伴坂上郎女が詠んだ相聞歌の中の1首です。
暇なみ来まさぬ君に霍公鳥我れかく恋ふと行きて告げこそ(8-1498)
<いとまなみきまさぬきみに ほととぎすあれかくこふと ゆきてつげこそ>
<<ホトトギスよ,忙しいといって来ないあの人へ,私がこんなに恋しがっていると今すぐ飛んで行って教えてあげて>>
この短歌から,一人淋しく夫の妻問を待つ郎女の気持ちが私には素直に伝わってきます。ただ,この短歌もホトトギスが自分の気持ちを夫に伝えてくれるはずがないのは分かっていて,それでもそれを頼みたくなるくらい淋しい気持ちだと訴えたいのでしょうね。
このように「告げこそ」の短歌を見てくると,自分の気持ちを伝える(告げる)努力が自分にはまだまだ足らないと私は感じてしまいます。私の妻に対して,自分の気持ちを十分伝えていないのではないかと反省しています。
天の川 「ほんまにか~? この前,奥さんにたびとはんがメールで『愛してる』って出したら『メールアドレスの間違いではないですか?』って返信されたそうやんか。」
天の川君! 誤解されるような表現はやめなさい。これで,ちゃんと伝わっているです。たっ,たっ,多分ね。
え~と。これで「動きの詞(ことば)シリーズ」の「告ぐ」は終わりとします。
なお,来週から何回かは「動きの詞(ことば)シリーズ」はお休みし,「本ブログ6年目突入スペシャル」をお送りします。
本ブログ6年目突入スペシャル「万葉集の多様性に惚れ込む(1)」に続く。
2014年2月15日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2) 恋しさを誰に告げてもらおうか?
今朝の自宅付近は大雪と雨で外に出られる状態ではありませんでした。2週連続の大雪で,さまざまな影響が出ていますが,休日のお客さんを当てにしていたレジャー業界にとっては特に影響が大きかったのではないかと心配しています。
さて,「告ぐ」の2回目は,万葉集で恋人や妻に恋しい気持ちを自分では伝えられないので,誰に告げてもらおうかと思案する和歌を見ていきます。
自分の気持ちを相手に伝えることは実は簡単でも単純でもありません。伝え方によっては相手が誤解してしまうこともあります。
まして,恋しい気持ちが募ると冷静ではいられませんから,伝える方も余計なことを考えてしまい,結局うまく伝えることができないこともよくあるのではないでしょうか。
また,告げようにも,遠く離れていて直接告げることができない状況もあり得ます。
最初は死にそうに切ない恋心を相手に告げられない苦しい思いを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく(11-2370)
<こひしなばこひもしねとや たまほこのみちゆくひとの こともつげなく>
<<苦しい恋で死んでしまったら,その恋自体も死んで無くなってしまうというが,そこまで苦しい俺の気持ちを誰か道行く人が俺の代わりに彼女に伝えてくれるのだろうか?>>
「そんなに苦しいほど思っているなら,相手に直接気持ちを伝えたらいいじゃん」なんていう助言はこの人には通じないでしょうね。気持ちを告げたら,相手の女性が速攻「ごめんなさ~い」となると,それを想像しただけでも耐えられないのでしょう。男は筋力は強くても,心力(しんりょく)のほうは意外と弱い面もあるのではと私は最近思うことが多いのです。
しかし,一方でこんな短歌を詠めるのはまだ心に余裕がある証拠。黙ってストーカー行為に走る男より心的にはずっとマシといえるでしょうね。
次は,女性(詠み人知らず)の短歌ですが,こちらは告げてほしくない,でも作者のウキウキしたした感じ伝わってくるものです。
葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ(13-3279)
<あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ>
<<「庭の葦垣の上部をかき分けてあの人がきましたよ」とほかの人に聞こえるように告げないで。空気を読んでよね>>
大きな声で告げたのは彼女(この短歌の作者)の世話役でしょうか。それとも,飼っている鶏や犬でしょうか。世話役だとすると空気を読まず早く教えてあげようと大きな声をだしたのでしょう。彼女にしてみれば彼氏との時間に第三者が興味津々と聞き耳を立てているようなことをされたくはないですからね。
最後は大伴家持が越中の国守をしていた天平勝宝2年2月に,国府があったとされる場所から南西へ20㎞ほど離れたところの「藪波の里」に新たに,開墾した田を視察するため泊まりがけで出かけた際に詠んだ短歌です。
薮波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げつや(18-4138)
<やぶなみのさとにやどかり はるさめにこもりつつむと いもにつげつや>
<<藪波の里で宿借りているが,春雨に降りこめられて帰れないと妻に告げてくれましたか>>
ここでの春雨はシトシト降る雨ではなく,結構な嵐だったようです。なかなか帰れないので,妻である坂上大嬢(家持が越中に赴任して4年になり大嬢を呼び寄せていたと考えられます)にその旨を告げてほしいという気持ちを詠んだものだと私は解釈します。
では,家持は誰に対して帰れないことを告げたかを確認しているかというと,使者ではなく,春雨君だろうと私は思います。家持が越中で妻と住む家から20㎞くらいしか離れていないので,妻が居る家でも春雨は降っていて,この強さでは夫はすぐには帰ってこれないだろうという状況が伝わっていてほしい(本当は直接告げたいが)という願いを詠んだものと考えてしまいます。
電話など遠隔とのコミュニケーション手段が無い時代のほうが,お互いを思う気持ちが強かったのかも知れませんね。
今,携帯電話やスマホなどがないと非常に不安になる人がいると聞きます。そういう人は,ある時間ネットから隔離した状態(ネット経由で誰からも告げられないし,告ぐこともできない状態)で,自分の精神をコントロールする訓練をする必要があるのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(3:まとめ)に続く
さて,「告ぐ」の2回目は,万葉集で恋人や妻に恋しい気持ちを自分では伝えられないので,誰に告げてもらおうかと思案する和歌を見ていきます。
自分の気持ちを相手に伝えることは実は簡単でも単純でもありません。伝え方によっては相手が誤解してしまうこともあります。
まして,恋しい気持ちが募ると冷静ではいられませんから,伝える方も余計なことを考えてしまい,結局うまく伝えることができないこともよくあるのではないでしょうか。
また,告げようにも,遠く離れていて直接告げることができない状況もあり得ます。
最初は死にそうに切ない恋心を相手に告げられない苦しい思いを詠んだ詠み人知らずの短歌です。
恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく(11-2370)
<こひしなばこひもしねとや たまほこのみちゆくひとの こともつげなく>
<<苦しい恋で死んでしまったら,その恋自体も死んで無くなってしまうというが,そこまで苦しい俺の気持ちを誰か道行く人が俺の代わりに彼女に伝えてくれるのだろうか?>>
「そんなに苦しいほど思っているなら,相手に直接気持ちを伝えたらいいじゃん」なんていう助言はこの人には通じないでしょうね。気持ちを告げたら,相手の女性が速攻「ごめんなさ~い」となると,それを想像しただけでも耐えられないのでしょう。男は筋力は強くても,心力(しんりょく)のほうは意外と弱い面もあるのではと私は最近思うことが多いのです。
しかし,一方でこんな短歌を詠めるのはまだ心に余裕がある証拠。黙ってストーカー行為に走る男より心的にはずっとマシといえるでしょうね。
次は,女性(詠み人知らず)の短歌ですが,こちらは告げてほしくない,でも作者のウキウキしたした感じ伝わってくるものです。
葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ(13-3279)
<あしかきのすゑかきわけて きみこゆとひとになつげそ ことはたなしれ>
<<「庭の葦垣の上部をかき分けてあの人がきましたよ」とほかの人に聞こえるように告げないで。空気を読んでよね>>
大きな声で告げたのは彼女(この短歌の作者)の世話役でしょうか。それとも,飼っている鶏や犬でしょうか。世話役だとすると空気を読まず早く教えてあげようと大きな声をだしたのでしょう。彼女にしてみれば彼氏との時間に第三者が興味津々と聞き耳を立てているようなことをされたくはないですからね。
最後は大伴家持が越中の国守をしていた天平勝宝2年2月に,国府があったとされる場所から南西へ20㎞ほど離れたところの「藪波の里」に新たに,開墾した田を視察するため泊まりがけで出かけた際に詠んだ短歌です。
薮波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げつや(18-4138)
<やぶなみのさとにやどかり はるさめにこもりつつむと いもにつげつや>
<<藪波の里で宿借りているが,春雨に降りこめられて帰れないと妻に告げてくれましたか>>
ここでの春雨はシトシト降る雨ではなく,結構な嵐だったようです。なかなか帰れないので,妻である坂上大嬢(家持が越中に赴任して4年になり大嬢を呼び寄せていたと考えられます)にその旨を告げてほしいという気持ちを詠んだものだと私は解釈します。
では,家持は誰に対して帰れないことを告げたかを確認しているかというと,使者ではなく,春雨君だろうと私は思います。家持が越中で妻と住む家から20㎞くらいしか離れていないので,妻が居る家でも春雨は降っていて,この強さでは夫はすぐには帰ってこれないだろうという状況が伝わっていてほしい(本当は直接告げたいが)という願いを詠んだものと考えてしまいます。
電話など遠隔とのコミュニケーション手段が無い時代のほうが,お互いを思う気持ちが強かったのかも知れませんね。
今,携帯電話やスマホなどがないと非常に不安になる人がいると聞きます。そういう人は,ある時間ネットから隔離した状態(ネット経由で誰からも告げられないし,告ぐこともできない状態)で,自分の精神をコントロールする訓練をする必要があるのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(3:まとめ)に続く
2014年2月8日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1) 密告という報告
<あわや孤独死>
昨日,自宅から少し離れた場所にあるアパートで身寄りの少ないひとり暮らしをしている同年輩の友人が,持病の重い肝硬変が急変し,亡くなり,今朝何人かの友人とともに火葬場で懇ろに冥福を祈り送りました。関東地方は朝から雪で,故人も白無垢の関東平野を見下ろしつつ旅立っていったことでしょう。
ひとり暮らしなので,たまたま別の友人が訪問をしなかったら,アパートで孤独死をしていたところだったかもしれません。先月下旬に体調の急変にその友人が気づき,病院へ救急車で搬送し,終末ケアや友人が親戚縁者にも連絡をして,最期は病院で亡くなることができたのです。
ひとり暮らしの人が増えている中,孤独死を防ぐため,訪問を主体とした組織的できめ細かいボランティア支援制度が必要ではないかと私は考えています。ただ,詐欺のような悪質訪問販売と混同されないようにする手立て(公式なICカードによる認定証の提示,認定証訪問記録のシステム保存,状況報告の分析と必要な対処のオーソライズ,個人情報の確実な保護など)が必要だろうと私は考えます。
<本題>
さて,今回から3回ほどに渡り「告(つ)ぐ」を取りあげます。口語では「告げる」となります。
万葉集で「告ぐ」を入れた和歌は70首ほどあります。なお,これは「告(の)る」は除いた数字です。
この中でまず紹介したいのは,長屋王(ながやわう)の子といわれる山背王(やましろわう)が出雲の国にいた天平勝宝8(756)年11月8日,出雲掾(いづものじょう)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家で奈杼麻呂が京に上る旅の前に行われた送別の宴で詠んだ短歌です。
うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ(20-4473)
<うちひさすみやこのひとに つげまくはみしひのごとく ありとつげこそ>
<<京にいる人々に告げたいことがあります。「以前京でお会いしたときと同じように元気でいます」と告げてください>>
神亀6(729)年長屋王の変で長屋王とともに長屋王の子の多くが死ぬことになりましたが,山背王は幸運にも生き延びた王子の一人です。この短歌で,送る側の山背王が自分が元気で出雲の国でやっていることを京の人に伝えたかったのでしょう。山背王は翌年に起こる橘奈良麻呂の変で橘奈良麻呂が謀反を起こす計画をしているという密告をした人物と続日本記には書かれているそうです。
そして,その功績で3階級も官位が上がったとのことです。天皇家の血を引く子孫が粛清されていく中で,したたかに奈良時代を生き抜いた人物かもしれません。本人は「密告なんてとんでもない。知っていることを報告しただけ」というだけでしょうか。
万葉集の編者である大伴家持は,後年万葉集を編纂するときには山背王が橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の企てを密告したことは知っていただろうと私は思います。家持が4473の短歌を載せたのは,山背王の「このまま出雲に引き籠っているわけには行かない」という野心みたいなものをこの時点で感じたからかもしれませんね。
さて,次は遣新羅使が船旅の途中で,家族や妻に告げたい思いを詠んだ2首を紹介します。
都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ(15-3640)
<みやこへにゆかむふねもが かりこものみだれておもふ ことつげやらむ>
<<都の方に行く船が欲しい。刈り薦のように乱れているこの思いを妻に言告げしたいのだよ>>
沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを(15-3643)
<おきへよりふなびとのぼる よびよせていざつげやらむ たびのやどりを>
<<沖の船の旅人が都へ上る。呼び寄せて,さあ都の妻へ告げに行ってもらおう。今までの旅で泊まった場所を>>
遠くに旅をしていると家族との間で消息を知りたい気持ちになります。そのとき「無事でいるのか」「旅は順調か」「家族は元気か」などの情報が知りたくなるのはいつの時代でも変わりません。
今のように,スマホ,携帯電話,パソコンで遠くにいても消息がすぐ分かる時代です。そのため,今では国内,国外の旅に出る場合にそれほどお互い心配しないようなっているのかもしれません。
万葉時代はそういった通信手段がないため,何かに託して状況を告げたい(伝えたい)気持ちが,この短歌のように今よりずっと強かったと私は想像します。
災害などで通信手段が途絶えた時,その重要性が改めて分かるのですが,万葉集を見ていくことで,そういったときの気持ちを想像することが少しはできるのでは私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2)に続く
昨日,自宅から少し離れた場所にあるアパートで身寄りの少ないひとり暮らしをしている同年輩の友人が,持病の重い肝硬変が急変し,亡くなり,今朝何人かの友人とともに火葬場で懇ろに冥福を祈り送りました。関東地方は朝から雪で,故人も白無垢の関東平野を見下ろしつつ旅立っていったことでしょう。
ひとり暮らしなので,たまたま別の友人が訪問をしなかったら,アパートで孤独死をしていたところだったかもしれません。先月下旬に体調の急変にその友人が気づき,病院へ救急車で搬送し,終末ケアや友人が親戚縁者にも連絡をして,最期は病院で亡くなることができたのです。
ひとり暮らしの人が増えている中,孤独死を防ぐため,訪問を主体とした組織的できめ細かいボランティア支援制度が必要ではないかと私は考えています。ただ,詐欺のような悪質訪問販売と混同されないようにする手立て(公式なICカードによる認定証の提示,認定証訪問記録のシステム保存,状況報告の分析と必要な対処のオーソライズ,個人情報の確実な保護など)が必要だろうと私は考えます。
<本題>
さて,今回から3回ほどに渡り「告(つ)ぐ」を取りあげます。口語では「告げる」となります。
万葉集で「告ぐ」を入れた和歌は70首ほどあります。なお,これは「告(の)る」は除いた数字です。
この中でまず紹介したいのは,長屋王(ながやわう)の子といわれる山背王(やましろわう)が出雲の国にいた天平勝宝8(756)年11月8日,出雲掾(いづものじょう)安宿奈杼麻呂(あすかべのなどまろ)の家で奈杼麻呂が京に上る旅の前に行われた送別の宴で詠んだ短歌です。
うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ(20-4473)
<うちひさすみやこのひとに つげまくはみしひのごとく ありとつげこそ>
<<京にいる人々に告げたいことがあります。「以前京でお会いしたときと同じように元気でいます」と告げてください>>
神亀6(729)年長屋王の変で長屋王とともに長屋王の子の多くが死ぬことになりましたが,山背王は幸運にも生き延びた王子の一人です。この短歌で,送る側の山背王が自分が元気で出雲の国でやっていることを京の人に伝えたかったのでしょう。山背王は翌年に起こる橘奈良麻呂の変で橘奈良麻呂が謀反を起こす計画をしているという密告をした人物と続日本記には書かれているそうです。
そして,その功績で3階級も官位が上がったとのことです。天皇家の血を引く子孫が粛清されていく中で,したたかに奈良時代を生き抜いた人物かもしれません。本人は「密告なんてとんでもない。知っていることを報告しただけ」というだけでしょうか。
万葉集の編者である大伴家持は,後年万葉集を編纂するときには山背王が橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の企てを密告したことは知っていただろうと私は思います。家持が4473の短歌を載せたのは,山背王の「このまま出雲に引き籠っているわけには行かない」という野心みたいなものをこの時点で感じたからかもしれませんね。
さて,次は遣新羅使が船旅の途中で,家族や妻に告げたい思いを詠んだ2首を紹介します。
都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ(15-3640)
<みやこへにゆかむふねもが かりこものみだれておもふ ことつげやらむ>
<<都の方に行く船が欲しい。刈り薦のように乱れているこの思いを妻に言告げしたいのだよ>>
沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを(15-3643)
<おきへよりふなびとのぼる よびよせていざつげやらむ たびのやどりを>
<<沖の船の旅人が都へ上る。呼び寄せて,さあ都の妻へ告げに行ってもらおう。今までの旅で泊まった場所を>>
遠くに旅をしていると家族との間で消息を知りたい気持ちになります。そのとき「無事でいるのか」「旅は順調か」「家族は元気か」などの情報が知りたくなるのはいつの時代でも変わりません。
今のように,スマホ,携帯電話,パソコンで遠くにいても消息がすぐ分かる時代です。そのため,今では国内,国外の旅に出る場合にそれほどお互い心配しないようなっているのかもしれません。
万葉時代はそういった通信手段がないため,何かに託して状況を告げたい(伝えたい)気持ちが,この短歌のように今よりずっと強かったと私は想像します。
災害などで通信手段が途絶えた時,その重要性が改めて分かるのですが,万葉集を見ていくことで,そういったときの気持ちを想像することが少しはできるのでは私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(2)に続く
2014年2月1日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(4:まとめ) 松は知っているか?
「知る」の最終回は「知る」に関するその他の表現で特徴的なものを万葉集から紹介します。
まず,18歳の若さで謀反の罪により中大兄皇子(後の天智天皇)に処刑された有間皇子が愛していた土地で処刑された場所でもある紀州への行幸にお供したとき,磐白(いはしろ)の地で山上憶良が詠んだ短歌です。
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
<とりはなすありがよひつつ みらめどもひとこそしらね まつはしるらむ>
<<皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては見たであろうが,そのことを人は知らないだけで,(磐白の)松はきっと知っているだろう>>
これは,有間皇子が紀州の処刑地に移送される途中の磐白で詠んだとされる次の辞世の歌を意識していることは間違いないでしょう。
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)
憶良が詠んだ当時は有間皇子処刑から40年以上たち,辞世の歌を詠んだという磐白の浜松は,非業の死を遂げた皇子を偲ぶ場所として観光スポット化していたのかも知れませんね。
さて,次は 神亀5(728)年6月23日に大宰府の長官をしていた大伴旅人が,いろいろな良くない出来事が続けて発生しているという知らせを受けて詠んだ短歌です。
世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)
<よのなかはむなしきものと しるときしいよよますます かなしかりけり>
<<世の中は無常であることを悟っているつもりだが,本当にますます悲しい気持ちになった>>
旅人が大宰府に赴任してそれほど立たない時期にこれを詠んでいるので,おそらく京や各地で起きた悲惨な災害や事件のニュースを受けたものかと私は思います。
大宰府には山上憶良や沙弥満誓(さみまんぜい)など仏教の知識を豊富にもった旅人の友人がいました。当然,旅人も彼らとの語らいの中で,仏教が教える無常観をしっかり理解していたと私は思います。仏教は世の中に絶対的なものを求める行為の虚しさを説いていると私は思います。
<仏教の無常観>
でも,やはりあってほしい物や人がなくなる。いつまでも変わらないでほしいものが変わってしまう。それを目の当たりにすると,無常であることは知っていてもやはり悲しい。それが人間としての自然の姿だと私は信じます。
仏教はそんな悲しさを感じることが重要であるが,その悲しさに絶望をしてはいけないと説きます。
無常な世界を生き抜くより強い心,そして無常な世界でほんろうされ,悩む他人を思いやる(他人の悲しさを理解できる)心を持った自分(仏の世界に近づいた自分)を作ることがきっとできるのだと説きます。そして,だんだん力強く,思いやりをもった気持ちや心(菩薩の心)が自分自身に備わってくると,関係する周囲の人や環境も無常の世界を克服できるものに変わっていくと,当時から日本に広く弘ろまっていったいわゆる大乗仏教では説きます。
旅人のこの短歌もただただ悲しんでいると解釈するのではなく,仏教的な観点からそれを乗り越えていく気持ちの強さを求めようとしていると私は解釈します。
<次の和歌>
さて,次は女性が天武天皇の子である新田部皇子(にひたべのみこ)をからかって贈った短歌です。
勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし(16/3835)
<かつまたのいけはわれしる はちすなししかいふきみが ひげなきごとし>
<<勝間田の池は私が知る限り蓮はありませんよ。そういうあなた様の顔に髭がないように>>
皇子はまだ髭も生えてこないくらい若かったのでしょうか。まだ若くて女性を見る目がないとこの女性は言いたかったのだと私は想像します。ただ,本当に皇子にある女性が直接贈ったのではなく,後世の誰かが面白おかしく作り話として創作した短歌かも知れませんね。
「知る」の最後は,物部道足(もののべのみちたり)という常陸国出身の防人が詠んだという短歌です。
常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ(20-4366)
<ひたちさしゆかむかりもが あがこひをしるしてつけて いもにしらせむ>
<<常陸をめざして行く雁はいないかあ。私の恋しい思いを書き記して付けて妻に知らせることができるのに>>
この歌の詠み手は当時ちゃんとした漢字の読み書きができる教育を受けていた可能性はあります。ヤマト朝廷によって日本が統一された後,律令を書いた漢文を地方に徹底させるには,単に律令を渡すだけでなく,読める教育をする必要があったはずです。そうして,初めて律令の内容を知っている人が増え,戸籍や住民の管理ができたはずです。
このように見てくると万葉時代は「知る」「知らせる」ことの重要性に人々に気づき始めた時代だったように私は想像します。
次回からは,情報を相手に知らせる「告ぐ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1)に続く
まず,18歳の若さで謀反の罪により中大兄皇子(後の天智天皇)に処刑された有間皇子が愛していた土地で処刑された場所でもある紀州への行幸にお供したとき,磐白(いはしろ)の地で山上憶良が詠んだ短歌です。
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
<とりはなすありがよひつつ みらめどもひとこそしらね まつはしるらむ>
<<皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては見たであろうが,そのことを人は知らないだけで,(磐白の)松はきっと知っているだろう>>
これは,有間皇子が紀州の処刑地に移送される途中の磐白で詠んだとされる次の辞世の歌を意識していることは間違いないでしょう。
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)
憶良が詠んだ当時は有間皇子処刑から40年以上たち,辞世の歌を詠んだという磐白の浜松は,非業の死を遂げた皇子を偲ぶ場所として観光スポット化していたのかも知れませんね。
さて,次は 神亀5(728)年6月23日に大宰府の長官をしていた大伴旅人が,いろいろな良くない出来事が続けて発生しているという知らせを受けて詠んだ短歌です。
世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)
<よのなかはむなしきものと しるときしいよよますます かなしかりけり>
<<世の中は無常であることを悟っているつもりだが,本当にますます悲しい気持ちになった>>
旅人が大宰府に赴任してそれほど立たない時期にこれを詠んでいるので,おそらく京や各地で起きた悲惨な災害や事件のニュースを受けたものかと私は思います。
大宰府には山上憶良や沙弥満誓(さみまんぜい)など仏教の知識を豊富にもった旅人の友人がいました。当然,旅人も彼らとの語らいの中で,仏教が教える無常観をしっかり理解していたと私は思います。仏教は世の中に絶対的なものを求める行為の虚しさを説いていると私は思います。
<仏教の無常観>
でも,やはりあってほしい物や人がなくなる。いつまでも変わらないでほしいものが変わってしまう。それを目の当たりにすると,無常であることは知っていてもやはり悲しい。それが人間としての自然の姿だと私は信じます。
仏教はそんな悲しさを感じることが重要であるが,その悲しさに絶望をしてはいけないと説きます。
無常な世界を生き抜くより強い心,そして無常な世界でほんろうされ,悩む他人を思いやる(他人の悲しさを理解できる)心を持った自分(仏の世界に近づいた自分)を作ることがきっとできるのだと説きます。そして,だんだん力強く,思いやりをもった気持ちや心(菩薩の心)が自分自身に備わってくると,関係する周囲の人や環境も無常の世界を克服できるものに変わっていくと,当時から日本に広く弘ろまっていったいわゆる大乗仏教では説きます。
旅人のこの短歌もただただ悲しんでいると解釈するのではなく,仏教的な観点からそれを乗り越えていく気持ちの強さを求めようとしていると私は解釈します。
<次の和歌>
さて,次は女性が天武天皇の子である新田部皇子(にひたべのみこ)をからかって贈った短歌です。
勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし(16/3835)
<かつまたのいけはわれしる はちすなししかいふきみが ひげなきごとし>
<<勝間田の池は私が知る限り蓮はありませんよ。そういうあなた様の顔に髭がないように>>
皇子はまだ髭も生えてこないくらい若かったのでしょうか。まだ若くて女性を見る目がないとこの女性は言いたかったのだと私は想像します。ただ,本当に皇子にある女性が直接贈ったのではなく,後世の誰かが面白おかしく作り話として創作した短歌かも知れませんね。
「知る」の最後は,物部道足(もののべのみちたり)という常陸国出身の防人が詠んだという短歌です。
常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ(20-4366)
<ひたちさしゆかむかりもが あがこひをしるしてつけて いもにしらせむ>
<<常陸をめざして行く雁はいないかあ。私の恋しい思いを書き記して付けて妻に知らせることができるのに>>
この歌の詠み手は当時ちゃんとした漢字の読み書きができる教育を受けていた可能性はあります。ヤマト朝廷によって日本が統一された後,律令を書いた漢文を地方に徹底させるには,単に律令を渡すだけでなく,読める教育をする必要があったはずです。そうして,初めて律令の内容を知っている人が増え,戸籍や住民の管理ができたはずです。
このように見てくると万葉時代は「知る」「知らせる」ことの重要性に人々に気づき始めた時代だったように私は想像します。
次回からは,情報を相手に知らせる「告ぐ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1)に続く
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