<長浜城に寄る>
この前の土日は今年もみかんの木の年間オーナーになって,「今年の木」の抽選会に出るために奈良の明日香村に行きました。行きの土曜日は,途中,長浜城に寄り,長浜城の天守から晴天の琵琶湖を眺めることができました。
また,長浜城の近くのお蕎麦屋さんで,昼食に「にしんそば」ではなく,おそらく日本海産のサバが主役の「サバそうめん」定食を食べました。サバの甘露煮がボリューム満点で満足な昼食でした。
<明日香ミカン農園に着く>
みかん農園から見た明日香村方面も晴天で遠くの方まで見ることができました。畝傍山と二上山がはっきりと見えました。
<本題>
さて,「置く」の最終回は今まで出てきた用法以外の「置く」について見ていきます。
「置く」には置く対象があるはずですね。万葉集で「置く」の対象を見ていきますと,まず「幣(ぬさ)」がみつかります。「幣」とは神前に折りたたんで供える布,紙を指します。万葉集では旅の安全を祈るため,各地場の神々に幣を供えることが出てきます。
山科の石田の杜に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも(9-1731)
<やましなのいはたのもりに ぬさおかばけだしわぎもに ただにあはむかも>
<<山科の石田の社に幣を捧げて祈ったらすぐ妻に逢えないだろうか>>
この短歌は2012年8月11日の本ブログにも紹介している藤原宇合(ふじはらのうまかひ)が詠んだというものです。
私が育った京都市山科にある石田(いわた)神社は奈良の京から逢坂山を通って近江や東国へ行く無事を祈って幣を供える(手向ける)ことが流行っていたのだろうと私は想像します。
スムーズに旅が進むよう加護される霊験が大きいといわれている石田神社に幣を手向ければ(置けば),待っている妻とすぐ逢えると考えこの短歌を宇合は詠んだのかもしれませんね。
次は馬酔木の花を「置く」場所について詠んだ短歌です。
かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ(10-1868)
<かはづなくよしののかはの たきのうへのあしびのはなぞ はしにおくなゆめ>
<<カエルが鳴いている清らかな吉野川の滝の上に咲いていた馬酔木の花ですぞ。隅の方に置いてはなりません>>
この場合のカエルはカジカガエルなのでしょうね。そんな清らかな場所のさらに滝の上の採りにくい場所に咲いていた馬酔木の花をなのだから粗末に扱わず,ちゃんとした場所に飾るようにこの短歌は促しています。
ここでいう「置く」は飾るという意味に近いように感じます。
次も植物を置くことを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌)ですが,その植物は別のものの譬えです。
あしひきの山かづらかげましばにも得がたきかげを置きや枯らさむ(14-3573)
<あしひきのやまかづらかげ ましばにもえがたきかげを おきやからさむ>
<<山に生えている珍しいヒカゲノカズラ。これは滅多に得られないもの。置いたままにして枯らすようなことは決してすまいぞ>>
「山かづら」は,この短歌の作者が恋している彼女のことを譬えていると考えても良いでしょう。
やっと最高の恋人ができた。絶対離したくない。放っておかない。そんな思いがこの短歌から見えます。
最後もそのままにするという意味の「置く」を詠んだ詠み人知らずの女性が詠んだ,または女性の立場で詠んだと思われる短歌です。
あしひきの山桜戸を開け置きて我が待つ君を誰れか留むる(11-2617)
<あしひきのやまさくらとを あけおきてわがまつきみを たれかとどむる>
<<山桜戸を開けたまま,私が待っているあの人を,誰が引き留めているのでしょう>>
私はいつでもOKなのに,なかなか来てくれない彼。もしかしたら誰かが私のところに行けないように引き留めているのではないかと思いたくなるくらい待ち遠しい。「いつでもOK」という気持ちを「山桜戸を開け置きて」という美しい表現を使っているこの短歌を見て,この作者に同情する私がいます。
そして,藤原定家が恋人が来るのを待つ少女の立場で詠んだ百人一首の短歌を思い出しました。
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ(97番)
ここまで多様な「置く」の表現を万葉集で見てきました。次回からはこの百人一首の短歌にも出てくる「焼く」を万葉集で見ていくことにします。
動きの詞(ことば)シリーズ…焼く(1)に続く。
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