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2016年2月14日日曜日

今もあるシリーズ「池(3)」…池の中で生きている植物はどうだ?

「池」の3回目は池の水に生えている植物(水生植物など)を万葉集で見ていきます。
万葉時代に池が多く作られたり,自然の池が憩いの場として注目されるようになってきたためか,池の周りに生えているまたは植えられた植物だけでなく,池の水生植物についても万葉集で詠まれた和歌が出てきます。
たとえば,山部赤人が奈良で詠んだとされる次の短歌です。

いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり(3-378)
<いにしへのふるきつつみは としふかみいけのなぎさに みくさおひにけり>
<<昔からあるの古い堤は幾年も経て,池の渚に水草が生えていた>>

この短歌の題詞には「山部宿祢赤人詠故太上大臣藤原家之山池歌一首」とあるとのことです。
この題詞,亡くなった太政大臣の藤原家の庭園に造られた築山の池についての歌という意味でしょうか。
太政大臣とは持統天皇時代から頭角を現した藤原不比等(ふぢはらのふひと)のようです。
赤人は「藤原家の歴史を感じる」といいたかったのか,それとも「手入れがされていない」といいたかったのか私の想像力では確定ができません。
いずれにしても,水草がどんな種類で,どんな感じで繁茂していたか知たくなる短歌です。
次は,柿本朝臣人麻呂歌集から転載したという池に生息する菱について詠んだ短歌です。

君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも(7-1249)
<きみがためうきぬのいけの ひしつむとわがそめしそで ぬれにけるかも>
<<君のために浮沼の池の菱を摘んだので,私の染めた袖を濡らしてしまいました>>

菱の実を茹でるか蒸したものは,万葉時代から健康食として食べられていたようです。
「浮沼の池」は島根県大田市にある池との説が有力のようで,そこに旅で訪れたとき,残してきた妻に贈ろうと菱の実を採ろうとしたのでしょう。
そうしたら,私のきれいに染めてある(染めてくれたのは妻)袖が濡れてしまった。
その結果,ますます妻のことが恋しくなったという思いを詠んだ短歌だと私は思います。
ところで,菱形は菱の葉か実の形から名付けられたとといいます。
また,三菱グループのロゴマークは白い菱形が三つで,長い方の1点が同じ位置にあり,それぞれ三方(上,左下,右下)に広がった形をしています。
他の大きな企業グループのロゴマークがある程度の年数が立つと変えられるのに対して,三菱グループのロゴマークがずっと変わらないのは正直すごいことだなと私は感心しています。
ところで,3月のひな祭りには菱餅がひな壇に飾られますが,菱形をした餅なので菱餅と呼ばれるようになったのでしょう。
次は,皆さんが池でよく見るものとして「蓮」を詠んだ女性(詠み人知らず)の長歌です。

み佩かしを剣の池の 蓮葉に溜まれる水の ゆくへなみ我がする時に 逢ふべしと逢ひたる君を な寐ねそと母聞こせども 我が心清隅の池の 池の底我れは忘れじ 直に逢ふまでに(13-3289)
<みはかしをつるぎのいけの はちすばにたまれるみづの ゆくへなみわがするときに あふべしとあひたるきみを ないねそとははきこせども あがこころきよすみのいけの いけのそこわれはわすれじ ただにあふまでに>
<<剣の池の蓮の葉に溜まっている水がころころとどちらこぼれるか予測できないように,私がどうすれば迷っていると「逢いなさい」と神のお告げがあったの。でも,お母さんは彼に体を許しちゃだめだっていうから,私の心は清隅の池の池の底に沈んだよう。でも,あなたのこと絶対忘れない。本当に逢えるまでは>>

なかなか,具体的な表現の相聞歌ですね。
池に蓮の葉が立派に現れるのは夏です。夏が終わるころに妻問が活発になります。それを待つ女性の気持ちでしょう,この長歌は。
最後は池に生える「菅(すげ)」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

真野の池の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか(11-2772)
<まののいけのこすげをかさに ぬはずしてひとのとほなを たつべきものか>
<<真野の池に生える小菅を笠に縫わないのに(契りもしていないのに),世間の人は二人の浮き名を立てるものだ>>

菅は湿地,池,湖沼,川沿いの浅い場所など水が多い場所を好んで生育するようです。
ここで出てくる「真野の池」には,たくさんの菅が生えていたのでしょう。
その菅の小さいのを使って笠を編んで送り合うような深い関係にまだなっていないのに,世間の人はいろいろあらぬことを噂して,二人が愛を深め行くプロセスの邪魔をしていることを嘆いた短歌のような気がします。
このように池に生える植物も多様なものが万葉集に出てきて,当時の人が池に対する見方の多様性が改めて確認できたかもしれません。
今もあるシリーズ「池(4:まとめ)」に続く。

2016年2月8日月曜日

今もあるシリーズ「池(2)」…池のほとりに植えられた木は訪問者に安らぎを与える?

「池」の2回目は,池の周りに植えられていた植物について,見てみましょう。
当時,庭に掘った池やため池の周りには,植物を植えていたことが,万葉集から分かります。
さっそくその例を紹介します。まず,天平宝字2(758)年2月中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)邸の宴で甘南備伊香(かむなびのいかご)が詠んだとされる池の周りの馬酔木からです。

礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも(20-4513)
<いそかげのみゆるいけみづ てるまでにさけるあしびの ちらまくをしも>
<<磯影の映っている池の水面を照らすように咲いている馬酔木の花が散ってしまうのは惜しいですね>>

清麻呂邸の庭園の池の傍に植えられた馬酔木の白い可憐な花が満開で見事だったのでしょうね。
この前の短歌でも大伴家持が同様にその馬酔木を賛美して詠っています。
さて,次は池の傍に柳を植えることを詠んだ東歌です。

小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも(14-3492)
<をやまだのいけのつつみに さすやなぎなりもならずも なとふたりはも>
<<小山田の池の堤に挿し木した柳の小枝が,根を張り成長するかどうかのように,この恋が成るか成らないかはあなたと私のふたりが決めることですね>>

当時,柳も挿し木で増やすことが可能であることを知っており,池の堤に植えられた柳は挿し木で植えられた可能性を示唆する短歌だと私は思います。
それから,この恋人同士が挿した柳が育っていって,二人が結婚し,子供ができ,その子共たちに「この木がお父さんとお母さんが出逢ったときに植えた柳の木なんだよ」なんて話をする光景があるといいですね。
今度は短歌の作者は分からないが,聖武(しあうむ)天皇が池の傍で冬に開いた宴席で阿倍虫麻呂(あへのむしまろ)が覚えていて,伝誦したという池の松を詠んだという1首です。

池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む(8-1650)
<いけのへのまつのうらばに ふるゆきはいほへふりしけ あすさへもみむ>
<<池のほとりの松の葉先に降る雪は幾重にも積ってほしいですね。明日も見られますから>>

あまり雪が降らない平城京で,珍しく雪が降ったのでしょうか。池の傍で雪見の宴を催したのでしょうね。
池の傍に植えられた松の葉に雪が積もって,普段とは違う美しさを感じたのでしょうか。
最後は,池の傍に生えているケヤキの古名の槻と笹が出くる柿本人麻呂歌集よりの旋頭歌です。

池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ(7-1276)
<いけのへのをつきのしたのしのなかりそね それをだにきみがかたみにみつつしのはむ>
<<池のそばの槻の下の小竹を刈らないでぐたさいな。それだけでもあなたと見て,逢ったときのことを思い出すでしょう>>

恋人と池のほとりのケヤキの木の下で逢ったのでしょうか。
下に生えていた小竹を採って,恋人は渡してくれた。そんな思い出があったのに,それを刈ってしまってはその時のことが偲ばれなくなってしまうという気持ちが私には伝わってきます。
今も公園の池のほとりのベンチは恋人どうしが逢って話をする場所です。また,木蔭を作るためにいろいろな木を植えている状況は,当時は今と同じような雰囲気だったかもしれませんね。
今もあるシリーズ「池(3)」に続く。

2015年9月26日土曜日

2015 シルバーウィークスペシャル(3) … 台北観光でハイキング?

<台湾旅行最終日>
台北旅行最終日の夜が明けました。名残惜しいですが,私たちは今日の夜遅くに羽田に戻る飛行機で帰国します。
ただ,それまで今日もたっぷり時間があるので,買い物などをゆっくりと楽しみたいと考えています。
さて,昨日は台湾の国家公園(日本の国立公園にあたる)の一つ陽明(ヤンミン)山に行きました。日本の観光会社台北ツアーのコースには恐らく入ることが無い場所でしょうね。
陽明山に行くには,MRT劍譚駅のバス停から,だいたい10分に1本程度の頻度で陽明山バスターミナル行のバスが出ていますから,不便はあまりありません。
私たちも駅のバス停に9時頃到着後にすぐ着たバスに乗ることができました。バスは途中から急な山道を登りに登って,約40分ほどで陽明山バスターミナルに到着しました。
近くのセブンイレブンで昼食用のおにぎりを買いました。10時過ぎにバスターミナルから陽明山の見どころを循環する小型バスに乗り換えました。
バスが走る車道はながめの良い道でしたが,バスは小型であるためか満員の乗客がいても猛スピードに感じる速さでヘヤピンカーブを疾走しました。
私たちは最初の目的地である二子坪(アールシーピン)というバス停でバスを下りました。
バス停から2㎞ほど,よく整備され,平坦な緑道を歩いた先に二子坪の池が見えてきました。


山道の途中では,様々な植物に出会い,時々人を恐れない太った?リスにも出会い,木洩れ日を浴びながら気持ちの良い緑道歩きができました。

二子坪の池周辺の散策を終え,二子坪のバス停まで同じ緑道を戻りました。
二つ目の目的地も有名な擎天崗(キンティアンガン)という所です。
擎天崗のバス停付近は,二子坪のバス停も同じでしたが駐車場やビジターセンターもあり,国家公園としてよく整備されています。
擎天崗は一体に牧草地帯(牛も放牧されています)やススキの草原が広がり,雄大な眺めが楽しめるとところでした。

次の万葉集の柿本人麻呂歌集から転載された詠み人知らずの短歌を思い出しました。

秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも(10-2242)
<あきのののをばながうれの おひなびきこころはいもに よりにけるかも>
<<秋の野の尾花の先がなびくように,心はあの娘になびき寄ってしまったよ>>

牛たちはそんな気持ちを持っているかもですね。放牧された牛は遊歩道のすぐ近くでひたすら草を食んでいました。

1周が5㎞ぼとの周遊できる遊歩道があり,私たちはそれを1周することにしました。
遊歩道は,ほとんどが石で敷き詰められ,急傾斜のところでは階段状になっていて,結構な高低差がありますが年配者でも歩きやすいように整備されていました。


その遊歩道のもっとも高いところ(標高800m弱)で,昼食のおにぎりを食べて,近くの草原一体と遠くの陽明山山系の山々の景色を楽しみました。


これで,陽明山国家公園のハイキングを終え,午後2時過ぎには劍譚駅に戻ることができました。本当に気軽に豊かな自然を楽しめる場所が近くにある台北は良いところです。
それから,ホテルに戻り,台北101に行き(上に登らずウィンドウショッピングのみ),夕食は前日夕食を食べた京鼎楼にしました。
昼食はコンビニのおにぎりだったので,京鼎楼では一番高そうな400元(日本円で約1600円弱)する料理(ホタテ・エビ・野菜の炒めもの)を頼みました(写真の右端の料理)。


ボリュームは2人で分け合うのに十分な量がありました。その他に昨日とは違う種類の小龍包,そして〆は餃子並みの大きさのワンタンが6個も入ったワンタン麺を頼みました。
ハイキングで消費したカロリーを完全にオーバする量を食べてしまいました。反省。
2015 シルバウィークスペシャル(4:まとめ)に続く。

2015年8月25日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(2) …「抹茶金時アイスしぐれ」に,スイカとメロンをトッピングね!

今回は「降る」対象が「時雨(しぐれ)」の場合,万葉集ではどう詠まれているかを見ていきましょう。
「時雨」とは,広辞苑によると「秋の末から冬の初め頃に,降ったりやんだりする雨」というように書かれています。
ただ,この季節に雨が降ったりやんだりするまさに「時雨」の状況が見られる地域は限られていると私は思います。時雨が頻繁に観測できるのは,初期の冬型気圧配置で日本海側から湿った風が高くはないが複雑な山の間を一部がすり抜け,そのため微妙に雨が降る地域に限られるような気がします。
私は京都生まれ京都育ちですが,成人になった以降は東京都八王子市や埼玉県川口市などに住むようになりました。関東南部では京都で見慣れたような「時雨」に出会うことがほとんど無くなりました。
まれにそのような天気に遭遇して,地元の人に「今日は時雨れていますね」と言おうものなら「何それ?」という顔をされることが多かったように思います。
万葉集などに出てくる「時雨」を詠んだ和歌を鑑賞しようとしても,「時雨」自体に遭遇することが少ない地域に住んでいる人には雰囲気が理解しにくい面があるのではないかと私は考えてしまいます。
<京都では気候だけでなく,かき氷でもポピュラー>
京都では,「時雨」が非常に身近なものですから,「時雨」を使った言葉がたくさんあります。
たとえば,私の小さいころ京都では「かき氷」のことを「しぐれ」と呼んでいました。
「抹茶金時ミルクしぐれ」のかき氷を美味しそうに食べている人を横目に,小遣いに不自由していた私は抹茶しぐれで我慢したのを覚えています。
また,京都では「北山(きたやま)時雨」という言葉を使います。名前が示す通り京都の北にある山懐に「北山」という地名があります。
こで植林されている杉は「北山杉」というブランドで出荷されています。植林された杉は1本1本真っ直ぐになるよう手入れがされ,すべての木の枝葉は下から上部10%部分のみに綺麗に剪定されています。
その風景がまた絵になることから,京都の観光名所の一つになっています。
この北山での時雨は,直立して並ぶ北山杉の深緑をさっと白い細かい雨でぼやかせたと思うと,すぐに止んでまた元の北山杉の林立が現れます。
この予測ができない(雨の強弱,降る/止むの間隔,風の向きや強弱,時より雲間から入る太陽光の強弱などの組合せによる)千差万別の変化は,1枚の写真や短時間の動画ではとても表現しきれないものだと私は感じます。
ところで,京都の他の場所での時雨は大したことが無いかというと,そんなことは全然ないというのが私の感想です。
<京都の散策は12月30日がおススメ>
「北山時雨」のような特別な名前が無い理由は,「北山時雨」は背景が北山や北山杉に限られているので差別(ブランド)化ができるのですが,京都の市街地に入ると有名な背景があまりに多すぎて差別化できないためではないかと私は考えます。
嵯峨野・嵐山の時雨,東山の時雨,金閣寺の時雨など,その瞬間を是非味わいたいために,私は若いころ年末・年始京都に帰省すると,京都のあちこちを歩いたことを思いだします。
特に,12月30日の午前中は,観光客や参拝客も非常に少なく,地元の人たちだけが正月の準備に忙しくは動いている姿を見ながら,時雨が降る古都を歩くのは私にとって無上に好きな雰囲気の一つでした。
さて,万葉集で「時雨が降る」を詠んだ何首かを紹介します。
万葉時代では時雨は黄葉を一層進めるという考え方があったようです。次は市原王(いちはらのおほきみ)が詠んだそんな短歌です。

時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ(8-1551)
<ときまちてふれるしぐれの あめやみぬあけむあしたか やまのもみたむ>
<<ようやく降り出したしぐれの雨が上がった。明日の朝には山が黄葉しているだろうか>>

もう1首は,寺の法会(ほうえ)で唄いあげたという詠み人知らずの短歌です。

時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも(8-1594)
<しぐれのあめまなくなふりそ くれなゐににほへるやまの ちらまくをしも>
<<時雨の雨よ休む間もなく降らないでくれ。紅色に映えている山の木の葉の散るのが惜しいから>>

この短歌の左注には,このとき琴を弾いたのが市原王,忍坂王(おさかのおほきみ,後に大原真人と呼ばれた)で,唄ったのは田口家守(たぐちのやかもり),河邊東人(かはへのあづまと),置始長谷(おきそめのはせ)等,十数人であったと記されているとのことです。
何せこの法会は1日中行われたとその左注に記されているとのことで,かなり盛大な音楽イベントだったと想像できます。
こういう楽しみをプログラムに入れて多くの参加者を集め,最後は僧侶が参加者に仏経典の説法した(この短歌からは世の無常を説いた)のかもしれませんね。
ところで,現代アメリカのキリスト教教会が黒人や若者の参加者を集めるためにやったミサの前のゴスペルコーラスも似たような演出のような気がします。
さて,時雨は黄葉以外に萩と結び付けて詠まれた万葉集の短歌もあります。次は柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの1首です。

さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも(10-2029)
<さをしかのこころあひおもふ あきはぎのしぐれのふるに ちらくしをしも>
<<牡鹿が心に思う秋萩が時雨が降って散るのが惜しいことだ>>

最期は,恋愛で時雨が関わる短歌2首です。2首とも柿本人麻呂歌集から転載の詠み人知らずの短歌です。

一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む(10-2234)
<ひとひにはちへしくしくに あがこふるいもがあたりに しぐれふれみむ>
<<一日のうち何度しくしくと時雨が降り続くように恋いしく思い続けることか,彼女が住むあたりに時雨よ降って僕の気持ちを見せてくれ>>

玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ(10-2236)
<たまたすきかけぬときなし あがこひはしぐれしふらば ぬれつつもゆかむ>
<<成就を願わぬこと時がない私の恋は,たとえ時雨が降って濡れることがあっても続けていくんだ>>

時雨が降る多様な情景が,人間の感性の多様さを表す手段の一つとして,万葉時代から存在したことは事実のようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(3)に続く。

2015年7月28日火曜日

2015 盛夏スペシャル(3) 名張から初瀬街道を少し歩き,明日香でみかんの摘果を行う

<翌日明日香村へ>
7月26日(日)は名張の宿泊先を早朝5時前に出発し,前夜の花火大会の賑わいが嘘のように静かな名張の街を少し散策し,初瀬街道を西に向かいます。


赤目口まで,一面に青々とした田,田に水を供給する水路の水の流れる音,周囲の里山,宇陀川の清流の風景を眺めながら,朝の涼しい風を受けすがすがしい気持ちで歩くことができました。

赤目口で,また街道沿いの古い民家の中を歩き,赤目口を過ぎると,宇陀川沿いに少しずつ山間に入っていきます。そして,奈良県の宇陀市室生地区に入ります。



朝9時頃までに榛原まで初瀬街道を歩き,近鉄で橿原市の岡寺駅まで行くつもりでしたが,途中風景を楽しみながらゆっくり歩いたので,榛原まではその時間までに着くのは無理を判断し,一つ手前室生口大野駅から近鉄電車に乗りました。

この判断は正解で,何せ室生口大野から榛原までは電車で6分,私鉄1駅区間運賃としては異例の260円です(営業距離 7.1㎞)。電車と違いカーブの多い道を歩くのですから,相当時間を要することが考えられます。
次回の機会にチャレンジしたいと思います。
ここで,初瀬(泊瀬)について万葉集で詠まれた何首かを紹介しましす。
最初は,柿本人麻呂歌集に出ていたという短歌です。

こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ(11-2511)
<こもりくのとよはつせぢは とこなめのかしこきみちぞ こふらくはゆめ>
<<泊瀬の山道は滑りやすい恐ろしい道。恋路とて同じ。あまりお急ぎめさるな>>

写真は宇陀川の川床ですが,この地帯は岩石が地表に出ていて,雨の日は街道にもすべやすいところがあったのだろうと私は想像します。

もう1首,石ころだらけの険しい道であったことを詠んだ詠み人知らずの短歌(長歌の反歌)です。

隠口の泊瀬小国に妻しあれば石は踏めどもなほし来にけり(13-3311)
<こもりくのはつせをぐにに つましあればいしはふめども なほしきにけり>
<<泊瀬の里に妻がいるので,石ころだらけの険しい道を踏んで,それでも僕はやってきた>>

今の初瀬街道も旧道に入ると,今にも崩れ落ちそうな岩がむき出しになり,植物の根が中に入れず,網の目のように這い覆っているところがありました。
最後は,泊瀬の山が豊かな森林おおわれていたことを思わせるこれも詠み人知らずの短歌です。

三諸つく三輪山見れば隠口の泊瀬の桧原思ほゆるかも(7-1095)
<みもろつくみわやまみれば こもりくのはつせのひはら おもほゆるかも>
<<三輪山を見ると,泊瀬の檜木の山林を思い出してしまうなあ>>

「三諸つく」は三輪山,「隠口の」は泊瀬に掛かる枕詞です。この作者は,泊瀬出身か,行商で今の初瀬街道を行き来した人ではないでしょうか。
ご神体として山林が手つかずの三輪山を見て,山深い泊瀬の山の山林に負けないくらい立派だと詠んだのでしょう。
さて,私は岡寺駅からはみかん畑まで,20分あまり上り坂を歩きました。この時間帯になると暑さが強烈になり始めます。水分を補給して今年も頑張ります。

いつも楽しみにしている道途中のハス池は,今年も綺麗に咲いていました。

みかん畑について,さっそく摘果を開始します。上の写真の2つの実は傷がついているので,残念ですが摘果。下の写真の実は残します。


こうやって,傷ついた実,発育の悪い実を袋いっぱいの実を摘果しました。摘果した実は,家で搾り,焼酎の炭酸割にたっぷりと入れて,爽やか味わいを存分に楽しみました。

2015 盛夏スペシャル(4)に続く。

2014年8月4日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(3) 岩の神よ,踏んでも怒らないでね

前回は石を踏むでしたが,今回は万葉集で岩を踏むを取り上げます。
現在,岩は大きな石というような意味とされていますが,当時,石と岩とでは意味に大きな違いがあったのではないかと私は考えます。
岩は岩倉(磐座,磐倉)というように,神が宿る場所や岩そのものが神であるという古代信仰があったらしいとの説を受け入れると,岩は単なる石とは大きく異なり,神聖なものとしての認識があったと私は想像します。その岩を「踏む」ことに対しても,通常の石を踏むのとは違う感覚があるのかもしれません。
では,万葉集の訓読で「岩を踏む」が出てくる和歌を見ていきましょう。なお,訓読で「岩」も「石」も万葉仮名では「石」と記されている場合があるようです。これを「いし」と読むか「いは」と読むかは,後代の万葉学者先生による訓読の判断によります。一般的な訓読に従ってみました。

妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る(15-3590)
<いもにあはずあらばすべなみ いはねふむいこまのやまを こえてぞあがくる>
<<君に逢わずにいられないから,岩根を踏んで生駒の山を越えて僕は還って来るよ>>

この短歌は,遣新羅使が詠んだとされています。岩根は根が生えたような大きくて,上がごつごつした岩を意味するようです。生駒山自体,万葉時代には,三輪山などと同様に神の山とされていたようです。その山(神体)の岩根を踏むわけですから,大変です。実際の道の険しさよりも,神の怒りに触れないようにしてまでも彼女のために帰ってくる決意をした短歌だと私は解釈します。
次は柿本人麻呂歌集にあったという彼を待っている女性の短歌です(といっても,上の遣新羅使の短歌とは無関係です)。

来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに(11-2421)
<くるみちはいはふむやまは なくもがもわがまつきみが うまつまづくに>
<<お出でになる道に岩を踏むような険しい山がなければいいのに。私が待つあなたが乗る馬が躓いてしまわないかと>>

実際に彼の家と彼女(この短歌の作者)の家の間に岩だらけの山があったかどうかわかりません。それよりは,彼が通ってくる途中に邪魔が入ったり,障害が起ったりしないことをひたすら祈りながら彼の来るのを待っている気持ちの表れかもしれませんね。
そして,この後に出てくる次の短歌(同じく柿本人麻呂歌集にある歌)は,まさに前の短歌と呼応しているように私には思えます。

岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも(11-2422)
<いはねふみへなれるやまは あらねどもあはぬひまねみ こひわたるかも>
<<岩根を踏むような険しい山は無いのに逢えないでままの日が多いから恋しくい気持ちが募るよ>>

逢えない原因が何であるかいろいろ考えられます。いずれかの親の反対,周囲の目,仕事の忙しさ,金銭的な問題(妻問もタダではできない)などでしょうか。そういった障害がある状態の方がお互いの恋慕の情が高まることが少なくないのは不思議なことです。
いっぽう,障害や反対が無いのに,ちょっとしたことですぐに別れてしまうような関係に逆になりやすいのかもしれません。親の中には,子ども恋愛関係の強さを確かめようと,わざといったん反対のポーズをとる親があります。それは,子どもに対する親の(二人の関係をより強くするための)愛情行動の一つといえるのでしょうか。
さて,最後に同じく「岩を踏む」をテーマに娘子(をとめ)と藤井大成(ふぢゐのおほなり)が別れを惜しみ掛け合う2首を紹介します。
まず,大成が京に帰任することに対して娘子からの短歌です。

明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば(9-1778)
<あすよりはあれはこひむな なほりやまいはふみならし きみがこえいなば>
<<明日からは私ともう逢えず寂しくてならないでしょうね。名欲山の岩を踏み均してあなた様が超えていかれた後は>>

それに対して大成が返します。

命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む(9-1779)
<いのちをしまさきくもがも なほりやまいはふみならし またまたもこむ>
<<どうか達者でな。名欲山の岩を踏み均して,何度もやって来るからな>>

ここに出てくる名欲山は,大分県にある山を指すようです。奈良の京より遠いですが,別府あたりの港から船を利用して,難波港と行き来すれば,以外と楽な行路かもしれません。いずれにしても内容は「またね!」という別れの決まり文句です。
我々は,地方に赴任した大成のことを「地元の娘子とうまいことやったやん」なんて羨ましがってもいけませんよ。偶然かもしれませんが,1300年後も残るお二人の相聞歌を残せたこと自体を羨ましいと思うべきですよね~。まったく。
動きの詞(ことば)シリーズ…踏む(4:まとめ)に続く。

2014年1月1日水曜日

年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(1)」

2014年新春のお慶びを申し上げます。本年も『万葉集をリバースエンジニアリングする』のブログアップをよろしくお願いします。
おかげさまで,昨年の閲覧数は2012年に比べて約1.8倍に増えました。とりわけ,2011年7月に投稿しました『天の川特集(2)‥憶良・家持は「七夕」通? 』と昨年元旦に投稿しました『年末年始スペシャル「万葉集:新春の和歌(1)」』には非常に多くの閲覧をしていただきました。
見たけれど期待外れの内容だっと感じられた方も多かったかもしれませんが,万葉集に関し,多くの方が関心のあるキーワードを含んだ内容に少しはできているのではないかと感じています。
これからも意欲的に取り組む気持ちを保持できているのも閲覧数が励みになっていることも事実です。
さて,今年は午年(うまとし)ですね。万葉集の中で正月の和歌ではありませんが,馬や駒を詠んだ和歌について何回かに分けて投稿します。
まず,お正月ですので,縁起の良い「龍の馬」を詠んだ大伴旅人の短歌から紹介します。

龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため(5-806)
<たつのまもいまもえてしか あをによしならのみやこに ゆきてこむため>
<<龍の馬を今こそほしいものです。奈良の京に行って帰ってくるために>>

当時,陸路で一番速かった移動手段は馬に乗って移動することだったのだろうと私は思います。しかし,旅人はそのスピードでは満足できず,龍のように空を駆けるようなスピードの馬が欲しかったのでしょう。そうすれば,九州の大宰府にいても,仕事の少し空いた時間に平城京にいる会いたい人と会って,すぐまた戻ってこれる。
そんな夢ような馬(龍の馬)があれば良いのになあという願望がストレートにこの短歌には表れていると私は感じます。
今でも,新幹線の更なるスピードアップ,リニア新幹線の開業に向けたインフラ整備,飛行場へのアクセスの利便性向上など,短時間で目的の場所に移動できることへの欲求は無くなりません。
次は馬に乗って旅をしている途中の出来事を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

住吉の名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず(7-1153)
<すみのえのなごのはまへに うまたててたまひりひしく つねわすらえず>
<<住吉の名児の浜辺で馬をとめて玉を拾ったことがいつまでも忘れることができない>>

住吉の名児の浜辺は,大阪市の南部の海岸線だったのかもしれません。「すみのえ」と仮名を当てますが,万葉仮名は「住吉」です。
当時そこは風光明媚で,冬は温暖で,夏は海風で涼しく,新鮮な魚も食べられ,住みやすそうな場所だったのでしょう。海が無い盆地の平城京の人たちにとって,名児の浜辺は今で言う湘南海岸や葉山のような海浜高級別荘地のイメージだったのだろうと私は想像します。
馬に乗った(仕事の)旅の途中でその美しい海岸を通ったとき,馬から降りて,海岸で家に残してきた家族や実家近くの恋人のために綺麗な貝がらを拾ったことが嬉しくて忘れられない記憶となったのでしょう。
当時馬を手に入れる価格は,今で言えば高級車並みだったとすると,この旅人は中産階級以上ということになり,住吉はあこがれの地だったのかもしれませんね。
さて,馬が高級車とするとガソリンに当たる餌が必要になります。当時のそういった様子を伺うことができる旋頭歌(柿本人麻呂歌集より万葉集に転載)を次に紹介します。

この岡に草刈るわらはなしか刈りそねありつつも君が来まさば御馬草にせむ(7-1291)
<このをかにくさかるわらはなしかかりそね ありつつもきみがきまさむみまくさにせむ>
<<この岡で草を刈っている童よ,そんなに刈らないでおくれ。このままにしておけば彼が来たときのお馬にあげる草にできるから>>

今年は天の川君も馬を見習って馬力をかけてほしいものですね。

天の川 「たびとはん。頑張ってほしかったらなあ,正月の酒にもうちょっと上等なんにして~な。今からでも遅~ないで。」

今年も相変わらず憎まれ口だけは達者で期待はできない天の川君に邪魔をされないよう,本ブログは上品にいきたいものですが,さてどうでしょう。
年末年始スペシャル「馬を詠んだ和歌(2)」に続く。