今回は「降る」対象が「時雨(しぐれ)」の場合,万葉集ではどう詠まれているかを見ていきましょう。
「時雨」とは,広辞苑によると「秋の末から冬の初め頃に,降ったりやんだりする雨」というように書かれています。
ただ,この季節に雨が降ったりやんだりするまさに「時雨」の状況が見られる地域は限られていると私は思います。時雨が頻繁に観測できるのは,初期の冬型気圧配置で日本海側から湿った風が高くはないが複雑な山の間を一部がすり抜け,そのため微妙に雨が降る地域に限られるような気がします。
私は京都生まれ京都育ちですが,成人になった以降は東京都八王子市や埼玉県川口市などに住むようになりました。関東南部では京都で見慣れたような「時雨」に出会うことがほとんど無くなりました。
まれにそのような天気に遭遇して,地元の人に「今日は時雨れていますね」と言おうものなら「何それ?」という顔をされることが多かったように思います。
万葉集などに出てくる「時雨」を詠んだ和歌を鑑賞しようとしても,「時雨」自体に遭遇することが少ない地域に住んでいる人には雰囲気が理解しにくい面があるのではないかと私は考えてしまいます。
<京都では気候だけでなく,かき氷でもポピュラー>
京都では,「時雨」が非常に身近なものですから,「時雨」を使った言葉がたくさんあります。
たとえば,私の小さいころ京都では「かき氷」のことを「しぐれ」と呼んでいました。
「抹茶金時ミルクしぐれ」のかき氷を美味しそうに食べている人を横目に,小遣いに不自由していた私は抹茶しぐれで我慢したのを覚えています。
また,京都では「北山(きたやま)時雨」という言葉を使います。名前が示す通り京都の北にある山懐に「北山」という地名があります。
こで植林されている杉は「北山杉」というブランドで出荷されています。植林された杉は1本1本真っ直ぐになるよう手入れがされ,すべての木の枝葉は下から上部10%部分のみに綺麗に剪定されています。
その風景がまた絵になることから,京都の観光名所の一つになっています。
この北山での時雨は,直立して並ぶ北山杉の深緑をさっと白い細かい雨でぼやかせたと思うと,すぐに止んでまた元の北山杉の林立が現れます。
この予測ができない(雨の強弱,降る/止むの間隔,風の向きや強弱,時より雲間から入る太陽光の強弱などの組合せによる)千差万別の変化は,1枚の写真や短時間の動画ではとても表現しきれないものだと私は感じます。
ところで,京都の他の場所での時雨は大したことが無いかというと,そんなことは全然ないというのが私の感想です。
<京都の散策は12月30日がおススメ>
「北山時雨」のような特別な名前が無い理由は,「北山時雨」は背景が北山や北山杉に限られているので差別(ブランド)化ができるのですが,京都の市街地に入ると有名な背景があまりに多すぎて差別化できないためではないかと私は考えます。
嵯峨野・嵐山の時雨,東山の時雨,金閣寺の時雨など,その瞬間を是非味わいたいために,私は若いころ年末・年始京都に帰省すると,京都のあちこちを歩いたことを思いだします。
特に,12月30日の午前中は,観光客や参拝客も非常に少なく,地元の人たちだけが正月の準備に忙しくは動いている姿を見ながら,時雨が降る古都を歩くのは私にとって無上に好きな雰囲気の一つでした。
さて,万葉集で「時雨が降る」を詠んだ何首かを紹介します。
万葉時代では時雨は黄葉を一層進めるという考え方があったようです。次は市原王(いちはらのおほきみ)が詠んだそんな短歌です。
時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ(8-1551)
<ときまちてふれるしぐれの あめやみぬあけむあしたか やまのもみたむ>
<<ようやく降り出したしぐれの雨が上がった。明日の朝には山が黄葉しているだろうか>>
もう1首は,寺の法会(ほうえ)で唄いあげたという詠み人知らずの短歌です。
時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも(8-1594)
<しぐれのあめまなくなふりそ くれなゐににほへるやまの ちらまくをしも>
<<時雨の雨よ休む間もなく降らないでくれ。紅色に映えている山の木の葉の散るのが惜しいから>>
この短歌の左注には,このとき琴を弾いたのが市原王,忍坂王(おさかのおほきみ,後に大原真人と呼ばれた)で,唄ったのは田口家守(たぐちのやかもり),河邊東人(かはへのあづまと),置始長谷(おきそめのはせ)等,十数人であったと記されているとのことです。
何せこの法会は1日中行われたとその左注に記されているとのことで,かなり盛大な音楽イベントだったと想像できます。
こういう楽しみをプログラムに入れて多くの参加者を集め,最後は僧侶が参加者に仏経典の説法した(この短歌からは世の無常を説いた)のかもしれませんね。
ところで,現代アメリカのキリスト教教会が黒人や若者の参加者を集めるためにやったミサの前のゴスペルコーラスも似たような演出のような気がします。
さて,時雨は黄葉以外に萩と結び付けて詠まれた万葉集の短歌もあります。次は柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの1首です。
さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも(10-2029)
<さをしかのこころあひおもふ あきはぎのしぐれのふるに ちらくしをしも>
<<牡鹿が心に思う秋萩が時雨が降って散るのが惜しいことだ>>
最期は,恋愛で時雨が関わる短歌2首です。2首とも柿本人麻呂歌集から転載の詠み人知らずの短歌です。
一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む(10-2234)
<ひとひにはちへしくしくに あがこふるいもがあたりに しぐれふれみむ>
<<一日のうち何度しくしくと時雨が降り続くように恋いしく思い続けることか,彼女が住むあたりに時雨よ降って僕の気持ちを見せてくれ>>
玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ(10-2236)
<たまたすきかけぬときなし あがこひはしぐれしふらば ぬれつつもゆかむ>
<<成就を願わぬこと時がない私の恋は,たとえ時雨が降って濡れることがあっても続けていくんだ>>
時雨が降る多様な情景が,人間の感性の多様さを表す手段の一つとして,万葉時代から存在したことは事実のようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(3)に続く。
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