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2015年9月20日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6:まとめ) …もうすぐ北海道から初雪の便り?

「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉の通り,これから各地で秋が深まっていく季節になりました。
平年では,北海道の山間部ではそろそろ初雪の便りが来るころです。ちなみに,昨年の大雪山の初雪は,平年より9日早い9月16日だったそうです。
さて,「降る」の最後は「雪が降る」を詠んだ万葉集の和歌を見ていくことにします。

最初は,山部赤人のもっとも有名な次の短歌です。

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける(3-318)
<たごのうらゆうちいでてみれば ましろにぞふじのたかねに ゆきはふりける>
<<田子の浦を通って,海岸に出て見れば,ああ真っ白だ。富士山の高嶺に雪が降ったので>>

高橋虫麻呂も同様の富士山の雪について,短歌を詠んでいます。

富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり(3-320)
<ふじのねにふりおくゆきは みなづきのもちにけぬれば そのよふりけり>
<<富士山に降る雪は六月十五日に消えるのだが,その夜からまた降るのだ>>

2004年有人の富士山測候所が廃止になる前までは。富士山の初雪を同測候所が発表していたとのことです。しかし,富士山は真夏でも雪が降ることがあり,いつが初雪か区別がつきにくいため,今は富士山の初雪は発表されていないようです。
ただし,麓から見た初冠雪は継続して発表がされているようです。
初雪といえば,次の大原今城(おほはらのいまき)が,天平勝宝8(756)年11月23日に大伴池主邸で開かれた宴の席で詠んだとされる短歌があります。

初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ(20-4475)
<はつゆきはちへにふりしけ こひしくのおほかるわれは みつつしのはむ>
<<初雪は幾重にも降り重なれよ。恋しさが多く積もった私は,それを見てあなたのことを思いめぐらすでしょう>>

この短歌から,初雪というものに対する良いイメージが私には伝わってきます。
実は,どちらが参考にしたか分かりませんが,よく似た詠み人知らずの短歌(柿本人麻呂歌集から)が万葉集に出てきます。

沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日長き我れは見つつ偲はむ (10-2334)
<あわゆきはちへにふりしけ こひしくのけながきわれは みつつしのはむ>
<<沫雪は幾重にも降り重なれよ。恋しさが続いている私は,それを見てあなたのことを思いめぐらすでしょう>>

柿本人麻呂歌集が人麻呂が生きていて時に編纂されたものなら,大原今城のほうが参考にした可能性が高いことになりますね。
最後は,天平16年1月5日に安倍虫麻呂邸で行われた宴席で出席者の誰かが詠んだとされる愉快な短歌です。

我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ(8-1041)
<わがやどのきみまつのきに ふるゆきのゆきにはゆかじ まちにしまたむ>
<<私の家の君を待つ(松)の木に降る雪のような二つの状況では,行き(雪)は行かないけれど,待つ(松)ことは待ちましょうね>>

行くべきか待つべきか,恋のゲームでの戦術に迷うとき,雪はすぐ消えてしまうけれど,松の木はずっとあるから,行きより待つが正解と諭した短歌でしょうか。
慌てて行動するより,じっくり状況を見て,ベストなタイミングまで待つほうが物事が良いように向かうことが多いという考えの短歌なら,私は賛同します。
さて,次回から動きの詞シリーズは少しお休みして,2015シルバーウィークスペシャルの投稿をします。
2015シルバーウィークスペシャル(1)に続く。

2015年9月16日水曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)…高級「霜降り」の和牛ステーキが食べたいよ

日本では,ようやく異常な秋の長雨も終わり,秋晴れの日が続きそうな天気予報になりましたね。
茨城県常総市でおきた鬼怒川の堤防決壊の被害に遭われた方々,他の雨の被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて,今回からは,雨以外の降るモノを見ていきます。今回季節的に少し早いかもしれませんが「霜が降る」を万葉集で探します。
まず,次の詠み人知らずの短歌ですが,北海道,東北地方では,もうこんな季節に近づいているのかもしれませんね。

さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(10-2220)
<さをしかのつまよぶやまの をかへなるわさだはからじ しもはふるとも>
<<牡鹿が妻を呼ぶ鳴き声がする丘のまわりにある早稲田の稲は刈らないで欲しい。霜が降るような季節になっても>>

解釈がいろいろできる短歌だと思いますが,作者にとってかけがいの無い風景,雰囲気なのでしょうね。ずっとこの風景の美しさと鹿の恋(自分たちの恋?)の季節が続いていてほしいと思ているのかもしれません。
さて,「霜が降る」を詠んだ有名な和歌がたくさん万葉集にはあります。このブログですでに紹介したものもありますが,次々と見ていきましょうか。
次は志貴皇子が慶雲3(706)年文武天皇(草壁皇子の長男)の行幸で難波に随行したときに詠んだ有名な短歌です。

葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)
<あしへゆくかものはがひに しもふりてさむきゆふへは やまとしおもほゆ>
<<葦のまわりを行く鴨の羽がいに霜が降って寒い夕暮は,大和がしきりと思われることよ>>

文武天皇が宮中を離れて,難波に行くことは,志貴皇子には快く思われなかったのかもしれません。天皇はまだ23歳ほどの若さでしたが,恐らく脆弱な体調だったのでしょう(翌年死去)。実権は母(後の元明天皇)が握っていたと考えられます。
志貴皇子にとって,政治的に大和で何が進んでいるか気になるところだったのだろうと,私はこの短歌から感じます。
次は,天平8(736)年に聖武天皇が橘諸兄(葛城王から橘姓を聖武天皇から授かった時)に贈ったといわれる短歌です。

橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
<たちばなはみさへはなさへ そのはさへえにしもふれど いやとこはのき>
<<橘という木は,実も花もその葉も,枝に霜が降るような季節になっても葉は美しい緑であることよ>>

これを拝受した橘諸兄の地位はかなり盤石になったと私は想像します。
次は,悲運の皇子として語り継がれいる大津皇子が詠んだとされる短歌です。

経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(8-1512)
<たてもなくぬきもさだめず をとめらがおるもみちばに しもなふりそね>
<<(機織で)縦糸も横糸も定めずに乙女らが(規則性無く)織ってしまったような黄葉に霜が降らないでほしいものだ>>

黄葉のグラデーションの美しさと色合いの多様さを見事に(おそらく錦織による)機織で例示した短歌だと私は思います。美しさに感動した強さを「霜が降らないでほしい」(いつまでも続いていてほしい)と皇子は表現しています。
こういった例示こそが万葉集に残された和歌の情報量の多さを物語っていると私は考えます。
一つのことを単に示すだけの情報量と,何かと何かを比較して示す情報量は,前者の2倍よりもかなり大きいと私は考えます。
すなわち,比較すれば,ぴったり合う部分と多少合わない部分が出てきます。それが,それぞれ個々の情報量に加え,比較で見えるさまざまな差という情報がプラスアルファされるのです。
<万葉集の和歌は多くの人に多くの情報を与える>
また,詠まれた和歌を聞いた人は,作者が具体的にどれとどれを比較して詠っているのかを考えたり,想像したり,後で調べたりすることになります。結果的に,その和歌を見た人に多くの情報を与えることになるのです。
説明的に違うものを比較するより,あるものにだけ焦点をあて素晴らしさを表現するほうが文学的には優れているという考え方もあるかもしれません。ただ,文学的には平凡といわれる和歌でも,考えたり,想像したり,調べたりして結果的にそこから得られる情報量が多ければ,私的には優れた和歌なのだと考えます。
この私的評価基準は,もし万葉集が文学作品集ではなく,万葉時代の社会の全体像を理解してもらうために編纂されたとすれば,なおさら明確です。
次は,天平5(733)年,我が子が遣唐使として送り出した母が,安全を祈って我が子に贈ったとさける短歌(長歌の反歌)です。

旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)
<たびひとのやどりせむのに しもふらばあがこはぐくめ あめのたづむら>
<<旅人が一夜を明かす野に霜が降ったら,我が子を羽の下に包んでやっておくれ,空飛ぶ鶴の群よ>>

奈良時代,遣唐使船は,行き,帰りとも難破することが多く,何度も渡航し直したり,遣唐使の命を受けても辞退者が続出する状況だったようです。
そのような中で,我が子を送り出す母の気持ちは,この短歌で本当にわかる気がします。何せ,現代宇宙ステーションに人を送るよりはるかに死亡率が高かった航海ですから。母が詠んだ「霜が降る」は我が子が遭遇する苦難の象徴なのでしょう。
果たして,我が子は無事母のもとに帰ることができたのでしょうか。Wikipediaによると天平5年の遣唐使はすべての人が無事に帰れたわけではないようです。
でも,この人たちのような命を危険にさらす努力によって,(西方の大陸からさまざまな影響を受けた)今の日本の文化が育まれたことだけは事実でしょう。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6)に続く。

2015年9月8日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(4) …秋の長雨がjまだ続く。秋晴れの続く日が早く来て欲しい!

雨を対象とした「降る」の最後は,しっかりした雨を詠んだ万葉集の和歌をとりあげます。
まず,「夕立」からです。晴れた日の夏,夕方近くに急に厚い雲が出てきて,暗くなり,豪雨が降るのを私の少年時代は普通に「夕立ち」と呼んでいました。
今は,「今日は大気が不安定になり,ところどころで雷雨が発生するでしょう」とか,「今日は大気が不安定で,各地でゲリラ豪雨が発生しました」といった味気ない天気関連ニュースが繰り返されているようです。
それに比べ,非常にアナログチックな「夕立ち」という言葉は科学的に厳密ではないため,天気予報や天気情報にはあまり使われなくなったのかもしれませんね。私はやはり「夕立ち」という言葉は無くなってほしくないと思います。
万葉集で「夕立」を詠んだ短歌が次の2首あります。

夕立の雨降るごとに春日野の尾花が上の白露思ほゆ(10-2169)
<ゆふだちのあめふるごとに かすがののをばながうへの しらつゆおもほゆ>
<<夕立の雨が降ると春日野の尾花の上の白露を思い起こす>>

夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露思ほゆ(16-3819)
<ゆふだちのあめうちふれば かすがののをばながうれの しらつゆおもほゆ>
<<夕立の雨が強く降ると春日野の尾花の先の白露を思い起こす>>


両首ともほとんど同じ内容ですね(ちなみに,上の写真は9月5日に新潟県津南町を訪れた時撮った尾花<ススキ>の原です)。前の方は詠み人知らずの短歌とされ,後の方は小鯛王(をたいのおほきみ)が詠んだとされています。
小鯛王は奈良時代中期(万葉集としては後期)の歌人と考えられるため,前の短歌の記憶不確かで詠んでしまった,それとも前の短歌をパクッて少しだけ変え自分のオリジナルと主張して詠んだのかもしれません。なお,小鯛王はその後置始多久美(おきそめのたくみ,置始工とも書く)という名前に変更したとこの短歌の左注にあるとのことです。
さて,現代は知的財産権(著作権,工業所有権,営業機密保護等)について非常に厳しい時代といえそうです。なぜなら,昔はモノ自体に価値の中心があったようですが,今は情報にも価値の中心が移っています。
2020年東京オリンピックのエンブレムがいったん決まったにも関わらず,類似のデザインがあるとのことで,取り下げられたのは記憶に新しいところです。
これは,デザインという情報が保護されるべきとの考え方からきています。ポスターに印刷したものはだめで,マグカップに焼きつけたものはOKという,モノに依存した考えではありません。
小鯛王が前の短歌のパクリをしたのでしたら,今では大変なことになります。
しかし,万葉時代以前は和歌はほとんど伝誦(でんしょう)されてきたものと考えられるため,記憶違いやオリジナル作者の不詳など当たり前で,和歌の著作権を統括する組織も当然無かったでしょう。
もしかしたら,万葉集は「和歌の作者の認定や盗作者の洗出しなどを明らかにする目的で編集された」なんてことは考えすぎでしょうね。
さて,次はパッと降る「夕立」ではなく「長雨が降る」を詠んだ詠み人知らずの短歌です。

秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き(10-2262)
<あきはぎをちらすながめの ふるころはひとりおきゐて こふるよぞおほき>
<<秋萩を散らす長雨が降るころは,ひとりで寝ずに夫を恋したう夜が多い>>

秋の長雨(まさに今の日本がそうでしょうか?)は,秋萩を散らすくらい冷たいし,降る量も多いので,夫はなかなか来てくず,恋しさが募るという女性の気持ちを詠んだのだろうと私は解釈します。
逆に男性が作者とすると「妻のところへ行けなくて,恋しさが募る」となるのでしょうね。
最後は,しっかり「降る」の象徴ともいえる「村雨が降る」を見ていきます。「村雨」の「村」は集落の意味ではなく,『群がる』から来ていて「叢雨」と書くこともあります。
万葉集では次の詠み人知らずの1首のみですが,「村雨」が秋の情景描写として詠まれています。

庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり(10-2160)
<にはくさにむらさめふりて こほろぎのなくこゑきけば あきづきにけり>
<<庭の草に村雨が降ってコオロギが鳴く声を聞くと,秋になったなあと感じる>>

私の自宅からはいつの間にか蝉の声は消え,自宅(マンション)の専用庭にも秋の虫の鳴き声が徐々に大きく聞こえるこの頃となってきました。
雨続きで庭のいわゆる雑草を抜くことができず,伸び放題になってきています。ただ,秋の虫たちにとっては居心地が良いのかもしれませんね。
次回からは「雨」以外が「降る」を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)に続く。

2015年8月29日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(3) … ♪永谷園の麻婆春雨っ!

前回は降る対象が「時雨(しぐれ)」でした。今回は「春雨(はるさめ)」です。
「しぐれ」が「かき氷」の別称だったように,「春雨」は中国由来の乾麺「粉条(フェンティアオ)」の日本での名前です。
「麻婆春雨」「春雨サラダ」という料理が有名で,「春巻き」の具(ぐ)になったり,てんぷらの衣に入れて触感に変化を与える「春雨揚げてんぷら」に使われることもあります。
食品の「春雨」の生産が盛んなのは,万葉集にも縁が強い奈良県の桜井市だそうです。三輪そうめんや葛きりの技術がいきているのかもしれませんね。
さて,本題の雨の方の「春雨が降る」を詠んだ万葉集の和歌を紹介します。「春雨が降る」を詠んだ万葉集の和歌は10首ほど出てきます。
最初は「桜」と「春雨」の組合せた短歌2首です。最初1首は前回アップしたブログにも法会で演奏をしたとして出てきた河邊東人が詠んだとされています。2首目は詠み人知らずの短歌です。

春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ(8-1440)
<はるさめのしくしくふるに たかまとのやまのさくらは いかにかあるらむ>
<<春雨がしとしと降続いているので,高円の山の桜はどんなふうになっているのでしょうか>>

春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも(10-1870)
<はるさめはいたくなふりそ さくらばないまだみなくに ちらまくをしも>
<< 春雨よ,そんなに降らないでくれ。桜の花をまだ見ないで散ってしまったら惜しいから>>

春雨が降ると桜を早く散らしてしまい,桜の花を楽しみにしている人には邪魔な存在だったのでしょうね。
では,梅はどうでしょうか。次の短歌は梅の花をも散らす強い春雨に,旅先の夫(?)を心配する詠み人知らずのものです。

梅の花散らす春雨いたく降る旅にや君が廬りせるらむ(10-1918)
<うめのはなちらすはるさめ いたくふるたびにやきみが いほりせるらむ>
<<梅の花を散らしてしまうほど春雨が強く降っている。旅先のあなたは雨を防ぐ庵を見つけられているのだろうか>>

桜は弱い春雨でもすぐ散ってしまうのですが,梅はなかなか散らないので,相当強い雨だったのでしょうね。旅先の夫を心配する気持ちは分かろうというものです。
最後は,やはり恋心に対して「春雨が降る」ことがどう影響するかを表現した詠み人知らずの女性が詠んだ短歌2首で締めくくります。

春雨に衣はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや(10-1917)
<はるさめにころもはいたく とほらめやなぬかしふらば なぬかこじとや>
<<春雨は着物をそんなに濡らしてしまうのですか?春雨が7日間降ったらその7日は来ないつもりなのですか?>>

春雨のやまず降る降る我が恋ふる人の目すらを相見せなくに(10-1932)
<はるさめのやまずふるふる あがこふるひとのめすらを あひみせなくに>
<<春雨が止むことなしに降り続いている。私が恋してるあの方お目にかかることすらさせてくれないのです>>

春になって,寒い冬に比べ,彼が逢いにくる可能性が高くなる季節のはずが,春雨が邪魔をしてなかなか逢いに来てくれないという作者のいら立ちが見られますね。
今,日本は秋雨前線が停滞して,夏の太陽が終わってしまったと思えるほどうっとしい天候が続いています。
夏の暑さを期待して夏物商品の売上増,農産物の豊作,熱い恋の進展を期待している人々にとっては邪魔な秋雨ですが,残念ながら万葉集に秋雨という言葉を使った和歌は出てきません。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(4)に続く。

2015年8月25日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(2) …「抹茶金時アイスしぐれ」に,スイカとメロンをトッピングね!

今回は「降る」対象が「時雨(しぐれ)」の場合,万葉集ではどう詠まれているかを見ていきましょう。
「時雨」とは,広辞苑によると「秋の末から冬の初め頃に,降ったりやんだりする雨」というように書かれています。
ただ,この季節に雨が降ったりやんだりするまさに「時雨」の状況が見られる地域は限られていると私は思います。時雨が頻繁に観測できるのは,初期の冬型気圧配置で日本海側から湿った風が高くはないが複雑な山の間を一部がすり抜け,そのため微妙に雨が降る地域に限られるような気がします。
私は京都生まれ京都育ちですが,成人になった以降は東京都八王子市や埼玉県川口市などに住むようになりました。関東南部では京都で見慣れたような「時雨」に出会うことがほとんど無くなりました。
まれにそのような天気に遭遇して,地元の人に「今日は時雨れていますね」と言おうものなら「何それ?」という顔をされることが多かったように思います。
万葉集などに出てくる「時雨」を詠んだ和歌を鑑賞しようとしても,「時雨」自体に遭遇することが少ない地域に住んでいる人には雰囲気が理解しにくい面があるのではないかと私は考えてしまいます。
<京都では気候だけでなく,かき氷でもポピュラー>
京都では,「時雨」が非常に身近なものですから,「時雨」を使った言葉がたくさんあります。
たとえば,私の小さいころ京都では「かき氷」のことを「しぐれ」と呼んでいました。
「抹茶金時ミルクしぐれ」のかき氷を美味しそうに食べている人を横目に,小遣いに不自由していた私は抹茶しぐれで我慢したのを覚えています。
また,京都では「北山(きたやま)時雨」という言葉を使います。名前が示す通り京都の北にある山懐に「北山」という地名があります。
こで植林されている杉は「北山杉」というブランドで出荷されています。植林された杉は1本1本真っ直ぐになるよう手入れがされ,すべての木の枝葉は下から上部10%部分のみに綺麗に剪定されています。
その風景がまた絵になることから,京都の観光名所の一つになっています。
この北山での時雨は,直立して並ぶ北山杉の深緑をさっと白い細かい雨でぼやかせたと思うと,すぐに止んでまた元の北山杉の林立が現れます。
この予測ができない(雨の強弱,降る/止むの間隔,風の向きや強弱,時より雲間から入る太陽光の強弱などの組合せによる)千差万別の変化は,1枚の写真や短時間の動画ではとても表現しきれないものだと私は感じます。
ところで,京都の他の場所での時雨は大したことが無いかというと,そんなことは全然ないというのが私の感想です。
<京都の散策は12月30日がおススメ>
「北山時雨」のような特別な名前が無い理由は,「北山時雨」は背景が北山や北山杉に限られているので差別(ブランド)化ができるのですが,京都の市街地に入ると有名な背景があまりに多すぎて差別化できないためではないかと私は考えます。
嵯峨野・嵐山の時雨,東山の時雨,金閣寺の時雨など,その瞬間を是非味わいたいために,私は若いころ年末・年始京都に帰省すると,京都のあちこちを歩いたことを思いだします。
特に,12月30日の午前中は,観光客や参拝客も非常に少なく,地元の人たちだけが正月の準備に忙しくは動いている姿を見ながら,時雨が降る古都を歩くのは私にとって無上に好きな雰囲気の一つでした。
さて,万葉集で「時雨が降る」を詠んだ何首かを紹介します。
万葉時代では時雨は黄葉を一層進めるという考え方があったようです。次は市原王(いちはらのおほきみ)が詠んだそんな短歌です。

時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ(8-1551)
<ときまちてふれるしぐれの あめやみぬあけむあしたか やまのもみたむ>
<<ようやく降り出したしぐれの雨が上がった。明日の朝には山が黄葉しているだろうか>>

もう1首は,寺の法会(ほうえ)で唄いあげたという詠み人知らずの短歌です。

時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも(8-1594)
<しぐれのあめまなくなふりそ くれなゐににほへるやまの ちらまくをしも>
<<時雨の雨よ休む間もなく降らないでくれ。紅色に映えている山の木の葉の散るのが惜しいから>>

この短歌の左注には,このとき琴を弾いたのが市原王,忍坂王(おさかのおほきみ,後に大原真人と呼ばれた)で,唄ったのは田口家守(たぐちのやかもり),河邊東人(かはへのあづまと),置始長谷(おきそめのはせ)等,十数人であったと記されているとのことです。
何せこの法会は1日中行われたとその左注に記されているとのことで,かなり盛大な音楽イベントだったと想像できます。
こういう楽しみをプログラムに入れて多くの参加者を集め,最後は僧侶が参加者に仏経典の説法した(この短歌からは世の無常を説いた)のかもしれませんね。
ところで,現代アメリカのキリスト教教会が黒人や若者の参加者を集めるためにやったミサの前のゴスペルコーラスも似たような演出のような気がします。
さて,時雨は黄葉以外に萩と結び付けて詠まれた万葉集の短歌もあります。次は柿本人麻呂歌集から転載したという詠み人知らずの1首です。

さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも(10-2029)
<さをしかのこころあひおもふ あきはぎのしぐれのふるに ちらくしをしも>
<<牡鹿が心に思う秋萩が時雨が降って散るのが惜しいことだ>>

最期は,恋愛で時雨が関わる短歌2首です。2首とも柿本人麻呂歌集から転載の詠み人知らずの短歌です。

一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む(10-2234)
<ひとひにはちへしくしくに あがこふるいもがあたりに しぐれふれみむ>
<<一日のうち何度しくしくと時雨が降り続くように恋いしく思い続けることか,彼女が住むあたりに時雨よ降って僕の気持ちを見せてくれ>>

玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ(10-2236)
<たまたすきかけぬときなし あがこひはしぐれしふらば ぬれつつもゆかむ>
<<成就を願わぬこと時がない私の恋は,たとえ時雨が降って濡れることがあっても続けていくんだ>>

時雨が降る多様な情景が,人間の感性の多様さを表す手段の一つとして,万葉時代から存在したことは事実のようです。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(3)に続く。

2015年8月18日火曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…降る(1) …雨よ私の恋の邪魔をしないでね!

先週は通勤時間帯の交通機関乗客数も非常に少なく,通勤がすごく楽でした。
さて,動きの詞シリーズを再開します。今回からしばらくは「降る」について,万葉集を見ていきしょう。
「降る」は「○○が降る」というように「降る」対象があります。
ポピュラーなものとしては,雨,雪あたりでしょうか。
その他のモノとして,霜,霰,露,神(降臨)といったところでしょうか。
まずは普通の「雨が降る」を見ていきます。
実は雨にもいろいろ種類があります。
万葉集で出くる「降る」雨には,単なる雨の他,春雨,小雨,村雨(しきりに強く降る雨),時雨(しぐれ),長雨,夕立の雨などがあります。
今回は,万葉集で多く詠まれている(単に)雨が降る情景について,何首か見ていくことにします。
旅の途中に雨に降られるといやなものですね。天候が良ければ心も軽やかに旅路も進みますが,雨だと我慢の連続となりますね。
最初は,そんな旅先(紀州の新宮あたり?)の憂鬱な気持ちを詠んだ長意吉麻呂(ながのおきまろ)の短歌です。

苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに(3-265)
<くるしくもふりくるあめか みわのさきさののわたりに いへもあらなくに>
<<苦しい旅路に輪をかけて降って来る雨だよ。三輪の崎の狭野のあたりに雨宿りする家なんかあるわけないのに>>

昔の僻地を通る旅は大変だったのが窺い知れます。
次は,雨の降る日,家にじっとしていると恋人のことばかり考えてしまう気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌です。

韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を(11-2682)
<からころもきみにうちきせ みまくほりこひぞくらしし あめのふるひを>
<<韓衣を着た姿をあなたに見せてあげたたいと恋しい気持ちでおります。この雨の降る日を>>

いろいろな解釈ができる1首ですが,女性が夫が恋人が来るのをきれいな着物に着替えて待っているが,雨なので来てもらえそうにない残念な気持ちを詠んだのではないかと私は解釈しました。
最後は,「雨ニモ負ケズ」ではないけれど,雨が降るような障害となることがあってもあなたへの気持ちは変わらないと詠んだ情熱的な短歌です。

紅に染めてし衣雨降りてにほひはすともうつろはめやも(16-3877)
<くれなゐにそめてしころも あめふりてにほひはすとも うつろはめやも>
<<紅色に染めた衣,雨が降って濡れてしまっても,紅色が一層鮮やかになり,紅色がぼやけてしまうようなことはないですよ>>

この短歌は,九州の豊後國(今の大分県あたり)の白水郎と呼ばれた人物が詠んだとされています。
衣は自分の気持ち,紅色は相手に対する気持ち,雨が降ることは周囲の反対や環境上の障害でしょうか。
一途な恋をしているときはどんな反対を受けても,恋の気持ちはより強くなることはあっても弱くなることはないという気持ちになるのでしょうね。
ただ,人の心は実は「うつろはめやも」とは反対に「うつろいやすい」ことも事実。熱くなり過ぎず冷静な気持ちで相手をしっかりする恋愛も重要だとこの短歌は教えているのかもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(2)に続く。

2015年7月12日日曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(3:まとめ) 都会のみなさん,「浮子」と「沈子」の読み方を知っていますか?

「浮く」の最終回は,「船」でもなく「天の川」でもない「浮く」について,万葉集を見ていきます。
最初は,杯(さかづき)に入れた酒に梅の花を浮かせて飲む行為が宴で行われていたことを示す短歌です。作者は,天平2(730)年1月13日,大宰府で大伴旅人が開催した梅見の宴の出席者が詠んだとされるものです。

春柳かづらに折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に(5-840)
<はるやなぎかづらにをりし うめのはなたれかうかべし さかづきのへに>
<<春柳を髪飾り用に折っているうちに,どなたかが私の盃に梅の花を浮かべたようですね>>

まあ,この梅見の宴はかなり盛り上がっていたのでしょう。作者は,頭に柳の枝を差して舞でも踊ろうとしたのでしょうか。
その間に,作者の盃になみなみとお酒が入れられ,たっぷり梅の花を浮かべて,「さあ梅の花の香りがする酒をどうぞ」と飲み干すように勧められたのかもしれません。
楽しそうな雰囲気が宴会好きな私には伝わってきますね。
さて,次は万葉時代の漁法がうかがえる詠み人知らずの短歌です。

住吉の津守網引のうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは(11-2646)
<すみのえのつもりあびきのうけのをの うかれかゆかむこひつつあらずは>
<<住吉港の津守が引く網の浮き紐のように,ただ浮くままにまかせよう,恋いしいと思い続けないで>>

前半はいわゆる序詞と呼ばれている部分です。
この短歌の作者が言いたいことは前半ではなく,後半にある苦しい恋を如何に自分自身でコントロールしようとしているのだが,なかなかうまく行かないという思いなのでしょうか。
万葉集の和歌を文学として見るようないわゆる有名な短歌評論家さんは,恐らくこの短歌は論評に値しない,その他雑多な短歌でしかないのかもしれません。
しかし,万葉集を当時の社会や経済の状況を表す貴重な歴史情報資産と見た場合,この短歌は非常に価値が高いと私は思います。
この短歌から,当時網を使った漁法がすでに確立されており,巻網漁(まきあみりょう),刺網漁(さしあみりょう)で使う「浮子(あば)」や「沈子(いわ)」のようなものが網に付けられていたことが想像できます。
今も巻網漁,刺網漁は実際に行われており,この短歌はこれらがまさに1300年以上の歴史を持つ漁法である裏付け資料の一つとなります。
私は何度もこのブログで書いていますが,序詞や枕詞を「単なるツカミ」と見るのではなく,当時の習慣や社会経済学的な背景をしっかり歴史的に分析し,万葉集の和歌を鑑賞すべきだというのが私の考えです。
最後に紹介するのは,観察眼が鋭い詠み人知らずの短歌です。

潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我はなりてしか恋ひは死なずて(11-2734)
<しほみてばみなわにうかぶまなごにも わはなりてしかこひはしなずて>
<<潮が満ちてくるとみなわ(水泡)に浮かぶ細かい砂のように私はなってしまったのか。恋いしさに死ぬような思いをすることだなあ>>

私が小学生のころ,両親が毎年夏になると1~2回は福井県の若狭湾などに海水浴に連れていってくれたことを以前このブログでも書きました。
そのとき,確かに潮が満ちて来るとき(波が穏やかな入り江の場合),今まで乾いた砂地に初めて海水が流れてくる先頭は少し泡が立って,乾いた海藻のかけらや小さな砂が浮いていたことを思い出しました。
この短歌は,そんな情景を詠んだと思われますが,海岸にあまり行ったことの無い京人に理解できたのか疑問に思います。
<万葉集の編者はこの短歌を万葉集に入れることで何を残したかったのか?>
少なくとも,この短歌を万葉集に残そうとした編者は,作者のこの観察眼(沈むはずの砂が死んだ人間のように浮いている状況をイメージした)を評価したのだと私は思います。
普通砂は水に沈むのに,海のある状態では砂が海水に浮くことがあると聞いた人たちは,それを見にその海岸に行ってみたいと思わないでしょうか。
今風でいえば「知的好奇心」を持った人たちの心をくすぐる効果があります。
そのような人たちにとっては,この短歌の前半に興味をもち,後半は実はどうでもいいのかもしれませんね。
万葉集の編者は誰で,その編集意図は何かをもっと広い経験者(行政長官,公務員,経営者,役職者,一般ビジネスマン,○○士と呼ばれるコンサルタント,技能者,私のような技術者,学生,専業主婦,フリーターなど),研究者(文学,哲学,心理学,宗教学,政治学,法学,歴史学,社会学,経済学,教育学,理学,工学,自然科学,医学,薬学,情報技術など)が集まり,多角的な視点で検討する機会があれば,是非参加したいと思います。
さて,次回からは動きの詞シリーズはお休みして,2015盛夏スペシャルをお送りいたします。
2015盛夏スペシャル(1)に続く。

2015年6月29日月曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(1) 万葉時代の船旅は今の豪華なクルージングとはいかず?

2011年11月にこのブログの『対語シリーズ「浮と沈」‥心の浮き沈みが起きたとき,あなたならどうする?』で取り上げた中で,「浮く」を改めて万葉集を詳しく見ていくことにします。
「浮く」の対象が何かや何の上に浮いているのかによって,イメージする情景は結構変わります。
今回は,池,海などに浮く鳥のイメージについて,万葉集に詠まれている和歌を見ていきましょう。
最初は,丹波大女娘子(たにはのおほめのをとめ)という女性が恋人と逢えないツライ気持ちを詠んだされる短歌です。

鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに(4-711)
<かもどりのあそぶこのいけに このはおちてうきたるこころ わがおもはなくに>
<<鴨が遊ぶこの池に木の葉は落ちて浮かんでふらふらしているような浮ついた心で恋しいと思ってはいないのに>>

池で鴨が水面を移動したり,羽ばたいたり,飛び立ったり,着水したりすることで,木から落ちて浮いている木の葉はその影響を受け,浮いたり,沈んだり,集まったり,離れたりするのでしょう。
万葉集で,彼女の詠んだ続く2首を見ると,そんな浮き沈みのあるような弱い気持ちで恋しているのではないのに,いろいろ邪魔が入り,相手は遭ってくれないと嘆いています。
さて,次も鴨を題材に詠んだ遣新羅使作の短歌ですが,場所は池ではなく海上です。

鴨じもの浮寝をすれば蜷の腸か黒き髪に露ぞ置きにける(15-3649)
<かもじものうきねをすれば みなのわたかぐろきかみに つゆぞおきにける>
<<鴨のように波の上に浮寝をしていると,黒い私の髪に露が付いてしまった>>

停泊して,宿に泊まるのではなく,船中で波に揺られながら一夜を明かすと,海の湿気や波しぶきで,黒い髪に(多分塩分を含んだ)水滴が付いて濡れてしまうという情景を詠っていますが,この表現で作者の航海における不安な気持ちが何故か良く伝わってくるように私は感じます。
次は,鴨ではなく,一般の海鳥を題材にした,詠み人知らずの羈旅の短歌です。

鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも(7-1184)
<とりじものうみにうきゐて おきつなみさわくをきけば あまたかなしも>
<<鳥のように海に浮かんでいて,沖の波が騒がしい(荒れている)ということを聞くと大変悲しい>>

荒れた海を避けて,入江に退避している船で何日も過ごさなければならない状況となり,非常に悲しい気持ちを作者は読んでいるのでしょうか。
次も類似の気持ちを詠んだ詠み人知らずの羈旅の短歌(万葉集では古歌としている)です。

波高しいかに楫取り水鳥の浮寝やすべきなほや漕ぐべき(7-1235)
<なみたかしいかにかぢとり みづとりのうきねやすべき なほやこぐべき>
<<波が高いな。どうだろう船頭さん,水鳥のように浮寝をしたほうがよいかい,それともやはり漕ぎ続けるかい>>

海が荒れてきたので心配になり,「入江に避難して一晩やり過ごす」か「このまま漕ぎ続けて進む」か,船頭に聞きたいという心の動きを詠んでいると私は思います。
当然,作者である旅人は航海について詳しくはなく,海がどの程度の荒れであるかに詳しいわけでもありません。
でも,船旅に慣れていない旅人は船の揺れを思いの外大きく感じたのかもしれず,プロである船頭に聞いてしまったという情景も想像できそうです。
この旅人の問いに対して,船頭はどう答えたかは残っていません。「この位の波や揺れは大したことはないし,進んで危険はないよ」「プロに任せろ」くらいは言ったかもしれませんね。
動きの詞(ことば)シリーズ…浮く(2)に続く

2015年5月16日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1) 「Win・Winの関係」をより進めて「栄・栄の関係」へ

<日本人はすぐに謝る?>
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。

はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>

余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。

我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>

この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。

天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>

奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。

2015年5月9日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…折る(3:まとめ) 植物は無闇に折らず,あるがままがいいですね

我が家の庭(マンションの専用庭)に20年以上前から植えていたサクランボは,例年全く実をつけないか,つけても数粒だったのですが,今年は比較的たくさん実をつけてくれました。

手で折ってしまうのは惜しい気がして,そのままにして,毎日色づきの変化を楽しんでいます。そのうち,鳥が食べてしまうかもしれませんが。
さて,「折る」の最後は初回に紹介した「梅の花を折る」以外の植物を「折る」について,万葉集を見ていきます。
まず,大伯皇女(おほくのひめみこ)が弟の大津皇子(おほつのみこ)が処刑されたことを悲しむ挽歌に出てくる「馬酔木」からです。

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(2-166)
<いそのうへにおふるあしびを たをらめどみすべききみが ありといはなくに>
<<岩の上に咲く馬酔木を手折りました。ただ,お見せしたいあなたがまだ生きているとは誰も言う人はいない>>

馬酔木(アセビ)は,毒があるけれど,そのため虫にも食われず,清涼な白い小さな花を咲かせます。清潔感のイメージが強かった大津皇子にお似合いの花だったのかもしれませんね。
次は,大伴家持が(まだ若いころ?)詠んだ「なでしこ」です。

我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも(8-1496)
<わがやどのなでしこのはな さかりなりたをりてひとめ みせむこもがも>
<<私の庭の撫子の花が今を盛りと咲いています。手折って一目見せてあげられる娘がいたらなあ>>

恐らく,家持は撫子の可憐で美しい色に魅了されたのでしょう。
次は,高橋虫麻呂歌集から転載されたという短歌で「桜」です。

暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを(9-1750)
<いとまあらばなづさひわたり むかつをのさくらのはなも をらましものを>
<<時間があれば川を渡って向こうの峰まで行き,峰の桜の花を手にとってみたいほどだ>>

きっと,そばまで行ってみたくなほど見事な山桜が遠くに見えたのでしょう。
最後は,家持が越中で平城京いる妹の留女女郎(とどめのいらつめ)に贈った短歌に出てくる「山吹」です。

妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし(19-4197)
<いもににるくさとみしより わがしめしのへのやまぶき たれかたをりし>
<<あなたに似た可愛い草だと見たので、私がしるしをつけた野辺の山吹なのに、誰が手折ってしまったのだろう>>

この短歌は,女郎が家持に贈った短歌(山吹を採って,寂しく平城京の自宅に残った家持の妻坂上大嬢(さかのうへのおほをとめ)に渡したよ)への返歌です。渡した山吹できっと大嬢への私の恋しい思いは伝わったという意味かと私は解釈します。大嬢はその後越中の家持のもとへ行ったと想像しますが,この短歌のやり取りが,越中へ行くきっかけになったのなら,面白いですね。
では,これで「折る」はお終いにして,次回からは「栄ゆ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1)に続く。

2015年4月18日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…尽く,尽くす(3:まとめ) そう,自分の思いは丁寧に丁寧に言わなきゃ伝わらないのだ

「尽く」,「尽くす」の最終回は,「言葉を尽くす」について,万葉集を見ていきましょう。
まず,以前このブログでも紹介した坂上郎女(さかのうへのいらつめ)の代表的な恋の短歌を紹介します。

恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば(4-661)
<こひこひてあへるときだに うるはしきことつくしてよ ながくとおもはば>
<<恋しい恋しいと思ってきて,ようやく逢えた時くらいは私が喜ぶ言葉をありったけ言い尽くしてくださいな。これからも二人の仲を長く続けようと思ってくださるならね>>

この短歌は,ありったけやさしい言葉を尽くして欲しい郎女の気持ちが強く表れています。
「好きだよ」「愛してる」「もう離さないから」「君は僕のすべてだよ」な~んて,「うるはしき」言葉を何度でも恋人の男性から聞きたいのが時代を超えた女性の心理ですよね。
さあ,世の男性諸君! 頑張って(態度だけでなく)繰り返し何度も口に出して恋しい相手に思いを告げなさい! こんなことをこの短歌は教えてくれているのかも。
次は,万葉集の巻16に出てくる竹取翁(たけとりのをきな)に対して,若い娘多たちが贈った短歌の1首です。

あにもあらじおのが身のから人の子の言も尽さじ我れも寄りなむ(16-3799)
<あにもあらじおのがみのから ひとのこのこともつくさじ われもよりなむ>
<<とはいうものの,私の身は普通の人の子でうまく言葉を尽くして表現できないですが,私もおじいさんが言う和歌の大切さに同感します>>

竹取翁といっても,かぐや姫が登場する竹取物語とは無関係で,80歳を超える老人が,若い娘たちに人の心を動かす和歌の大切さを表現した長歌・反歌2首を贈り,それに感心した娘たちが返歌をしたのです。
当時本当にこんな和歌のやり取りがあったのか,それとも教育的見地から創作されたお話なのか私には分かりません。しかし,万葉集に出てくる和歌の多様性を表すものの一つとして私は評価したいと思います。
さて,今回の最後は馬国人(うまのくにひと)という人物が天平勝宝8年,河内(今の大阪府東大阪市周辺)の自宅での宴にいた大伴家持に送った短歌の1首です。
万葉集で馬国人が詠んだとされる和歌はこの1首のみです。

にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも(20-4458)
<にほどりのおきながかはは たえぬともきみにかたらむ ことつきめやも>
<<息長川の流れが絶えることはあっても、あなたにお話ししたい言葉が尽きることはありません>>

息長川は滋賀県の伊吹(息吹)山から琵琶湖に注いでいた川であったようです。現在も,滋賀県米原市に「息長」という地名が残っています。
馬国人は,家持が難波で東国から集められた防人を筑紫へ船で送る役人をしていたときに,親交があったのかもしれません。そして,家持が難波での役目を解かれたとき,この宴をセッティングした可能性があると私は考えます。
さて,万葉集は,4500首余りという和歌,そして題詞,左注を通して,膨大な言葉を「尽くして」後世の私たちに何を示そうとしたのか,私の興味はまったく尽きません。
動きの詞(ことば)シリーズ…折る(1)に続く。