2015年5月16日土曜日

動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1) 「Win・Winの関係」をより進めて「栄・栄の関係」へ

<日本人はすぐに謝る?>
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。

はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>

余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。

我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>

この短歌は天武天皇持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。

天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>

奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。

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