今回から何回か「池(いけ)」にいて,万葉集を見ていきます。
「池」を広辞苑で見ると「土を掘って人工的に水をためた所。自然の土地のくぼみに水のたまった所。」とあります。
広辞苑では,池には人工的に作られたものと自然が偶然作ったものとがあることを説明していることになりそうです。
後者(自然の池)は,長野県上高地にある大正池,同じく長野県白馬村にある八方池,富山県立山室堂にあるミクリガ池,リンドウ池,ミドリガ池などがその事例でしょうか。
前者(人工に作られた池)は,一般的な言葉として「ため池」,「貯水池」,「遊水地」,「養魚池」(ウナギ養殖では特に「養鰻(ようまん)池」と呼ぶ)などがそれにあたるのでしょう。
万葉時代は,大陸からの新しい文化や建築技法が流入し,貴族や豪族といった富裕層が,積極的に当時としては豪華な住居や集会する場所を建設していった中で,「池」のある造園も盛んになったのだと思います。
また,高度な農業技術の流入もあり,干ばつを防止するたの「ため池」が農地の中や周辺に多数掘られたのだろうと思います。
さらに,それらの「ため池」には,川や湖沼にいる魚(ドジョウ,コイ,フナなど)や鳥を生きたまま移住,繁殖させ,タンパク源となる食糧の採取にも利用した可能性があります。
そのため,万葉集に出てくる「池」は人工の池が比較的多く出てきます。
最初は,天武天皇の子である草壁皇子が27歳で亡くなった時(689年),それに対して柿本人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)からです。
嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず(2-170)
<しまのみやまがりのいけの はなちとりひとめにこひて いけにかづかず>
<<嶋の宮(皇子の邸宅)の池に放し飼いにされている鳥も,皇子の目が恋しくて水に潜ることもしない>>
草壁皇子の邸宅には,立派な庭とその中に鳥を放し飼いにできるほど大きな池があったのだろうと想像できます。
次も人麻呂が詠んだ挽歌(その中の反歌1首)ですが,亡くなったのはやはり天武天皇の子である高市皇子(696年)です。享年42歳。
埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ(2-201)
<はにやすのいけのつつみの こもりぬのゆくへをしらに とねりはまとふ>
<<埴安にある周囲の堤に生えた草で水面が見えないほどになっている沼池の水がどこにあるか分からないように,これからどうしたものかわからず舎人は途方にくれて惑うばかりだ>>
埴安の池は天の香具山の近くあったようですが,「堤」とあるように人工的に作られた様子がうかがえます。
最後の池を詠んだ短歌は,あの有名な天武天皇の子である大津皇子の辞世(686年)の1首です。享年24歳。
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(3-416)
<ももづたふいはれのいけに なくかもをけふのみみてや くもがくりなむ>
<<磐余の池に鳴く鴨を今日までしか見ることができないようだ。私は雲に隠れてしまうから>>
この3人の天武天皇の皇子たちの死に対して「池」のイメージが何か独特の雰囲気を醸し出しているように私は感じます。
「池」が生の場所であり,そこから永遠に離れることが結局死をイメージするような雰囲気かなと思うのです。
「生ける」の文語表現である「生く」の已然形「生け」と「池」は同じ発音であったすればなおさらでしょうか。
今もあるシリーズ「池(2)」に続く。
2016年1月31日日曜日
2015年9月16日水曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(5)…高級「霜降り」の和牛ステーキが食べたいよ
日本では,ようやく異常な秋の長雨も終わり,秋晴れの日が続きそうな天気予報になりましたね。
茨城県常総市でおきた鬼怒川の堤防決壊の被害に遭われた方々,他の雨の被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて,今回からは,雨以外の降るモノを見ていきます。今回季節的に少し早いかもしれませんが「霜が降る」を万葉集で探します。
まず,次の詠み人知らずの短歌ですが,北海道,東北地方では,もうこんな季節に近づいているのかもしれませんね。
さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(10-2220)
<さをしかのつまよぶやまの をかへなるわさだはからじ しもはふるとも>
<<牡鹿が妻を呼ぶ鳴き声がする丘のまわりにある早稲田の稲は刈らないで欲しい。霜が降るような季節になっても>>
解釈がいろいろできる短歌だと思いますが,作者にとってかけがいの無い風景,雰囲気なのでしょうね。ずっとこの風景の美しさと鹿の恋(自分たちの恋?)の季節が続いていてほしいと思ているのかもしれません。
さて,「霜が降る」を詠んだ有名な和歌がたくさん万葉集にはあります。このブログですでに紹介したものもありますが,次々と見ていきましょうか。
次は志貴皇子が慶雲3(706)年文武天皇(草壁皇子の長男)の行幸で難波に随行したときに詠んだ有名な短歌です。
葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)
<あしへゆくかものはがひに しもふりてさむきゆふへは やまとしおもほゆ>
<<葦のまわりを行く鴨の羽がいに霜が降って寒い夕暮は,大和がしきりと思われることよ>>
文武天皇が宮中を離れて,難波に行くことは,志貴皇子には快く思われなかったのかもしれません。天皇はまだ23歳ほどの若さでしたが,恐らく脆弱な体調だったのでしょう(翌年死去)。実権は母(後の元明天皇)が握っていたと考えられます。
志貴皇子にとって,政治的に大和で何が進んでいるか気になるところだったのだろうと,私はこの短歌から感じます。
次は,天平8(736)年に聖武天皇が橘諸兄(葛城王から橘姓を聖武天皇から授かった時)に贈ったといわれる短歌です。
橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
<たちばなはみさへはなさへ そのはさへえにしもふれど いやとこはのき>
<<橘という木は,実も花もその葉も,枝に霜が降るような季節になっても葉は美しい緑であることよ>>
これを拝受した橘諸兄の地位はかなり盤石になったと私は想像します。
次は,悲運の皇子として語り継がれいる大津皇子が詠んだとされる短歌です。
経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(8-1512)
<たてもなくぬきもさだめず をとめらがおるもみちばに しもなふりそね>
<<(機織で)縦糸も横糸も定めずに乙女らが(規則性無く)織ってしまったような黄葉に霜が降らないでほしいものだ>>
黄葉のグラデーションの美しさと色合いの多様さを見事に(おそらく錦織による)機織で例示した短歌だと私は思います。美しさに感動した強さを「霜が降らないでほしい」(いつまでも続いていてほしい)と皇子は表現しています。
こういった例示こそが万葉集に残された和歌の情報量の多さを物語っていると私は考えます。
一つのことを単に示すだけの情報量と,何かと何かを比較して示す情報量は,前者の2倍よりもかなり大きいと私は考えます。
すなわち,比較すれば,ぴったり合う部分と多少合わない部分が出てきます。それが,それぞれ個々の情報量に加え,比較で見えるさまざまな差という情報がプラスアルファされるのです。
<万葉集の和歌は多くの人に多くの情報を与える>
また,詠まれた和歌を聞いた人は,作者が具体的にどれとどれを比較して詠っているのかを考えたり,想像したり,後で調べたりすることになります。結果的に,その和歌を見た人に多くの情報を与えることになるのです。
説明的に違うものを比較するより,あるものにだけ焦点をあて素晴らしさを表現するほうが文学的には優れているという考え方もあるかもしれません。ただ,文学的には平凡といわれる和歌でも,考えたり,想像したり,調べたりして結果的にそこから得られる情報量が多ければ,私的には優れた和歌なのだと考えます。
この私的評価基準は,もし万葉集が文学作品集ではなく,万葉時代の社会の全体像を理解してもらうために編纂されたとすれば,なおさら明確です。
次は,天平5(733)年,我が子が遣唐使として送り出した母が,安全を祈って我が子に贈ったとさける短歌(長歌の反歌)です。
旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)
<たびひとのやどりせむのに しもふらばあがこはぐくめ あめのたづむら>
<<旅人が一夜を明かす野に霜が降ったら,我が子を羽の下に包んでやっておくれ,空飛ぶ鶴の群よ>>
奈良時代,遣唐使船は,行き,帰りとも難破することが多く,何度も渡航し直したり,遣唐使の命を受けても辞退者が続出する状況だったようです。
そのような中で,我が子を送り出す母の気持ちは,この短歌で本当にわかる気がします。何せ,現代宇宙ステーションに人を送るよりはるかに死亡率が高かった航海ですから。母が詠んだ「霜が降る」は我が子が遭遇する苦難の象徴なのでしょう。
果たして,我が子は無事母のもとに帰ることができたのでしょうか。Wikipediaによると天平5年の遣唐使はすべての人が無事に帰れたわけではないようです。
でも,この人たちのような命を危険にさらす努力によって,(西方の大陸からさまざまな影響を受けた)今の日本の文化が育まれたことだけは事実でしょう。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6)に続く。
茨城県常総市でおきた鬼怒川の堤防決壊の被害に遭われた方々,他の雨の被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。
さて,今回からは,雨以外の降るモノを見ていきます。今回季節的に少し早いかもしれませんが「霜が降る」を万葉集で探します。
まず,次の詠み人知らずの短歌ですが,北海道,東北地方では,もうこんな季節に近づいているのかもしれませんね。
さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも(10-2220)
<さをしかのつまよぶやまの をかへなるわさだはからじ しもはふるとも>
<<牡鹿が妻を呼ぶ鳴き声がする丘のまわりにある早稲田の稲は刈らないで欲しい。霜が降るような季節になっても>>
解釈がいろいろできる短歌だと思いますが,作者にとってかけがいの無い風景,雰囲気なのでしょうね。ずっとこの風景の美しさと鹿の恋(自分たちの恋?)の季節が続いていてほしいと思ているのかもしれません。
さて,「霜が降る」を詠んだ有名な和歌がたくさん万葉集にはあります。このブログですでに紹介したものもありますが,次々と見ていきましょうか。
次は志貴皇子が慶雲3(706)年文武天皇(草壁皇子の長男)の行幸で難波に随行したときに詠んだ有名な短歌です。
葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ(1-64)
<あしへゆくかものはがひに しもふりてさむきゆふへは やまとしおもほゆ>
<<葦のまわりを行く鴨の羽がいに霜が降って寒い夕暮は,大和がしきりと思われることよ>>
文武天皇が宮中を離れて,難波に行くことは,志貴皇子には快く思われなかったのかもしれません。天皇はまだ23歳ほどの若さでしたが,恐らく脆弱な体調だったのでしょう(翌年死去)。実権は母(後の元明天皇)が握っていたと考えられます。
志貴皇子にとって,政治的に大和で何が進んでいるか気になるところだったのだろうと,私はこの短歌から感じます。
次は,天平8(736)年に聖武天皇が橘諸兄(葛城王から橘姓を聖武天皇から授かった時)に贈ったといわれる短歌です。
橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(6-1009)
<たちばなはみさへはなさへ そのはさへえにしもふれど いやとこはのき>
<<橘という木は,実も花もその葉も,枝に霜が降るような季節になっても葉は美しい緑であることよ>>
これを拝受した橘諸兄の地位はかなり盤石になったと私は想像します。
次は,悲運の皇子として語り継がれいる大津皇子が詠んだとされる短歌です。
経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね(8-1512)
<たてもなくぬきもさだめず をとめらがおるもみちばに しもなふりそね>
<<(機織で)縦糸も横糸も定めずに乙女らが(規則性無く)織ってしまったような黄葉に霜が降らないでほしいものだ>>
黄葉のグラデーションの美しさと色合いの多様さを見事に(おそらく錦織による)機織で例示した短歌だと私は思います。美しさに感動した強さを「霜が降らないでほしい」(いつまでも続いていてほしい)と皇子は表現しています。
こういった例示こそが万葉集に残された和歌の情報量の多さを物語っていると私は考えます。
一つのことを単に示すだけの情報量と,何かと何かを比較して示す情報量は,前者の2倍よりもかなり大きいと私は考えます。
すなわち,比較すれば,ぴったり合う部分と多少合わない部分が出てきます。それが,それぞれ個々の情報量に加え,比較で見えるさまざまな差という情報がプラスアルファされるのです。
<万葉集の和歌は多くの人に多くの情報を与える>
また,詠まれた和歌を聞いた人は,作者が具体的にどれとどれを比較して詠っているのかを考えたり,想像したり,後で調べたりすることになります。結果的に,その和歌を見た人に多くの情報を与えることになるのです。
説明的に違うものを比較するより,あるものにだけ焦点をあて素晴らしさを表現するほうが文学的には優れているという考え方もあるかもしれません。ただ,文学的には平凡といわれる和歌でも,考えたり,想像したり,調べたりして結果的にそこから得られる情報量が多ければ,私的には優れた和歌なのだと考えます。
この私的評価基準は,もし万葉集が文学作品集ではなく,万葉時代の社会の全体像を理解してもらうために編纂されたとすれば,なおさら明確です。
次は,天平5(733)年,我が子が遣唐使として送り出した母が,安全を祈って我が子に贈ったとさける短歌(長歌の反歌)です。
旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群(9-1791)
<たびひとのやどりせむのに しもふらばあがこはぐくめ あめのたづむら>
<<旅人が一夜を明かす野に霜が降ったら,我が子を羽の下に包んでやっておくれ,空飛ぶ鶴の群よ>>
奈良時代,遣唐使船は,行き,帰りとも難破することが多く,何度も渡航し直したり,遣唐使の命を受けても辞退者が続出する状況だったようです。
そのような中で,我が子を送り出す母の気持ちは,この短歌で本当にわかる気がします。何せ,現代宇宙ステーションに人を送るよりはるかに死亡率が高かった航海ですから。母が詠んだ「霜が降る」は我が子が遭遇する苦難の象徴なのでしょう。
果たして,我が子は無事母のもとに帰ることができたのでしょうか。Wikipediaによると天平5年の遣唐使はすべての人が無事に帰れたわけではないようです。
でも,この人たちのような命を危険にさらす努力によって,(西方の大陸からさまざまな影響を受けた)今の日本の文化が育まれたことだけは事実でしょう。
動きの詞(ことば)シリーズ…降る(6)に続く。
2015年6月14日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(2) さまざまな別れの和歌に使われる「参ゐる」
今回は,「参ゐる」を詠んだ悲しい万葉集の和歌3連発で行きます。
まず最初は,草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼んで舎人(とねり)たちが詠んだ二十三首の晩歌のうちの一首です。
一日には千たび参ゐりし東の大き御門を入りかてぬかも(2-186)
<ひとひにはちたびまゐりし ひむがしのおほきみかどを いりかてぬかも>
<<一日に何度も参上した東の大きな御門も,今となっては入ることができないなあ>>
この挽歌を詠んだ舎人は草壁皇子に仕えた人でしょう。訪問客の相手や連絡事項を伝えるため,草壁皇子が仕事をする建物がある東の門を何度もくぐって参上したが,その仕事も皇子が死去した今となっては必要がなくなったのですね。
次は,持統(ぢとう)天皇,文武(もんむ)天皇の時代に活躍し,左大臣・大納言まで勤めた石上麻呂(いそのかみのまろ)の息子であった石上乙麻呂(おとまろ)の長歌です。
父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
<ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを>
<<父君にとって私は愛おしい子である。母君にとっても私は愛おしい子である。京へ参上する多くの人々が無事を祈り手向けして越える恐坂に私が幣を奉り、長い土佐道を>>
乙麻呂は藤原宇合の妻で女官であった久米若賣(くめのわかめ)と密通した(今で言う不倫関係になった)という罪で土佐に流された際に詠んだとされるものです。この長歌に出てくる「畏の坂」はどこか分かりませんが,平城京から土佐まで行く主要街道の一つの峠だったのだと私は思います。
さて,最後は下総(今の千葉県)出身の防人雀部廣嶋(きざきべのひろしま)が詠んだとされる防人歌です。
大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを(20-4393)
<おほきみのみことにされば ちちははをいはひへとおきて まゐできにしを>
<<大君のご命令なので父母を斎瓶(神に捧げる壺)とともに家に置いて参り来たのだなあ>>
自分には,頼りにできる父母も,無事を祈ることができる神も家に置いて,天皇を命により防人として参上したことに対する不安がよく表れた秀歌だと私は思います。
これから何を頼りにしていけばいいのか?天皇は自分を守ってくれるのか?九州の地での自分の状況を家の父母に知らせてくれるのか?
また,父母の健康状態を九州まで知らせてくれるのか?など,不安と表に出せない怒りを精いっぱいこの短歌は表していると私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ)に続く。
まず最初は,草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼んで舎人(とねり)たちが詠んだ二十三首の晩歌のうちの一首です。
一日には千たび参ゐりし東の大き御門を入りかてぬかも(2-186)
<ひとひにはちたびまゐりし ひむがしのおほきみかどを いりかてぬかも>
<<一日に何度も参上した東の大きな御門も,今となっては入ることができないなあ>>
この挽歌を詠んだ舎人は草壁皇子に仕えた人でしょう。訪問客の相手や連絡事項を伝えるため,草壁皇子が仕事をする建物がある東の門を何度もくぐって参上したが,その仕事も皇子が死去した今となっては必要がなくなったのですね。
次は,持統(ぢとう)天皇,文武(もんむ)天皇の時代に活躍し,左大臣・大納言まで勤めた石上麻呂(いそのかみのまろ)の息子であった石上乙麻呂(おとまろ)の長歌です。
父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
<ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを>
<<父君にとって私は愛おしい子である。母君にとっても私は愛おしい子である。京へ参上する多くの人々が無事を祈り手向けして越える恐坂に私が幣を奉り、長い土佐道を>>
乙麻呂は藤原宇合の妻で女官であった久米若賣(くめのわかめ)と密通した(今で言う不倫関係になった)という罪で土佐に流された際に詠んだとされるものです。この長歌に出てくる「畏の坂」はどこか分かりませんが,平城京から土佐まで行く主要街道の一つの峠だったのだと私は思います。
さて,最後は下総(今の千葉県)出身の防人雀部廣嶋(きざきべのひろしま)が詠んだとされる防人歌です。
大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを(20-4393)
<おほきみのみことにされば ちちははをいはひへとおきて まゐできにしを>
<<大君のご命令なので父母を斎瓶(神に捧げる壺)とともに家に置いて参り来たのだなあ>>
自分には,頼りにできる父母も,無事を祈ることができる神も家に置いて,天皇を命により防人として参上したことに対する不安がよく表れた秀歌だと私は思います。
これから何を頼りにしていけばいいのか?天皇は自分を守ってくれるのか?九州の地での自分の状況を家の父母に知らせてくれるのか?
また,父母の健康状態を九州まで知らせてくれるのか?など,不安と表に出せない怒りを精いっぱいこの短歌は表していると私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ)に続く。
2015年5月16日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(1) 「Win・Winの関係」をより進めて「栄・栄の関係」へ
<日本人はすぐに謝る?>
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>
余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>
この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。
天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>
奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。
「貴社 益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」という文を,正式なビジネスレターの冒頭に書くことがあります。私はこんな言葉で始まる文書を書いたり,関係部門が書いてきたものをお客様に説明した経験がたくさんあります。
私の仕事柄(ソフトウェアの保守),これらの文書は顧客への障害報告文書がほとんどで,冒頭の決まり文句の後には「このたびご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」と謝罪の言葉が続きます。
顧客が正式にクレームを入れてきた場合,日本のビジネス習慣では顧客との信頼関係から,損害賠償請求,そして裁判沙汰となってしまうことには恐らくならないだろうと判断すれば,こちらに非が100%ある訳でもないのに,まず謝罪文(申し訳ございません)から始めることが多いように思います。ここが,日本以外の国の人から見て「日本人は自分が全面的に悪いわけでもないのに,何で簡単に謝るのか?」という疑問が出そうな部分です。
<謝り合うのは仲が良い証拠?>
では日本人はどんな場合でもすぐ謝罪するかというと,そんなことはないと私は思います。
上で書いたようにお互いに信頼関係がある場合や,たとえ初対面でもこの人に謝ってもさらに攻撃されるようなことにならない良い人だとの判断をした場合に限られることが多いだろうと思います。
相手が「謝ったのだからお前が全責任を取れ!」とか「謝ったのだからこちらが納得するまで損害賠償を払い続けろ!」と言いそうな人には,たとえ日本人であっても安易に誤ったりしませんし,できません。
<第二次世界大戦の日本の戦争責任>
日本の現総理大臣が戦後70年の談話や諸外国でのスピーチで第二次世界大戦当時の日本軍の行為について「謝罪しないのはけしからん」という国の政府やその国の人々の主張があります。日本人の中にも,第二次世界大戦で侵略や攻撃を加えた国にまず謝罪をすべきだと強くいう人もいます。
私は第二次世界大戦における日本軍等が行った他国民への残虐行為について,相当ひどいことをしたのだろうと想像はできますが,正確な情報を持ち合わせていません。「謝罪すべき」かそうでないかについて,私は第二次世界大戦前後を専門にする歴史家でもないため,どちらが正しいかを判断できる立場にもありません。当然ですが,不正確な情報や予測だけで,ああだこうだと決めつけるのは私の主義に反します。
ただ,私の「謝罪」という行為に関する一般的な考えとして,「謝れ」「謝らない」とい言い合っている状況を解消するには,お互いの信頼関係確立が重要(先)という意見には賛成します。
いっぽう,「こちらとの信頼関係が欲しかったらそちらが謝るのが先だ」という主張には賛同できません。なぜなら,一方の謝罪によって信頼関係が薄い状態が改善されるとは限らないからです。
<国家間の謝罪は慎重であるべき?>
謝罪を受けた側が「お前ら,ようやく謝ったのか。早く謝ればよかったんだよ。遂にこちらが正しいことを認めたのだな。それじゃあしょうがない信頼関係構築でも検討してやるか」という上から目線で,真の信頼関係が醸成されるとは私は思わないからです。
過去の行為について今の世代がどこまで責任をもつのか,過去の過ちの再発防止のために今の世代が何をすべきか,今の世代の人たち同士が正確な情報(これまでの双方の関係改善努力も含む)を基に腹を割って話し合うことが信頼関係醸成には必要であると私は思います。
その行為の継続の中で,お互いの過去(今の世代ではない)の非を可能な形で相互が許容し合い,今協力しあえることがあれば気持ちよく協力し合うこと,これが相互繁栄を築く早道のような気がします。
<ベトナム戦争の戦後処理の例>
ベトナム戦争で多くのベトナム人を犠牲にした(戦死者100万人以上との情報も)アメリカは,ベトナムに対して明確な謝罪や賠償をしていないようです。しかし,アメリカとベトナムとは和解し,なぜ戦争が起こったかを双方でスタディし,ベトナムの経済発展のために民間を動かして尽力をしているように見えます。
今のベトナムの若い人々には,あれほど凄惨な攻撃をしてきた国なのに,割と親米な人も多いとの報道もあります。今のベトナムは未来への繁栄に向けアメリカの力を借りて着実に経済成長をしているように見えます。このベトナムとアメリカの戦後処理がベストだったかどうかを評価できる能力は私にはありません。しかし,この例から見ても「日本の謝罪が唯一の選択肢」という主張を妥当と思えない私がいます。
<本題>
今回,かなり前置きが長くなりましたが,今回から「栄ゆ」を万葉集でどう表現されているか見ていきましょう。
最初は,大伴旅人が亡くなったことを受け,旅人の資人(つかいびと)であった余明軍(よのみやうぐに)が詠んだという悲しみの短歌です。
はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを(3-454)
<はしきやしさかえしきみの いましせばきのふもけふも わをめさましを>
<<慕われ,そして栄光に満ちた殿が生きておられたら,昨日も今日も私をお呼びになったものを>>
余は中国または朝鮮系の姓にあるため,余明軍は渡来人か帰化人で,旅人の優秀なブレーンの一人だったのかもしれません。ここでの「栄えし」は,旅人の業績や亡くなったとき大納言という高貴な位を象徴して表したものだろうと私は思います。
次も挽歌です。
我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも(2-183)
<わがみかどちよとことばに さかえむとおもひてありし われしかなしも>
<<私が仕えた御子(草壁皇子)の宮殿は千代(永遠)という言葉がふさわしいほど栄えると思っていた私は悲しいばかりだ>>
この短歌は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子(くさかべのみこ)に仕えていた舎人(とねり)がよんだものとされています。天武天皇や持統天皇の後継と目され,ライバルの大津皇子(草壁皇子の異母弟)は処刑され,間違いなく草壁皇子は次の天皇になり,天武,持統体制をさらに繁栄させていく期待があったにも関わらず,27歳の若さで亡くなった。
期待が大きかっただけに,この短歌は舎人の気持ちを素直に表したものだと私は考えます。
最後は,天平勝宝4(752)年11月25日の新嘗祭の宴の冒頭で大納言巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)が詠んだ短歌です。
天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき(19-4273)
<あめつちとあひさかえむと おほみやをつかへまつれば たふとくうれしき>
<<天地と共に繁栄されるようにとずっと大宮に奉仕してまいりました。貴重な経験をさせていただき嬉しい限りてございます>>
奈弖麻呂はこのとき83歳とのことで,それが正しいとすると当時としては異常なほどの長寿であったと思われます。この年は大仏開眼が行われた年です。「この歳まで平城京の繁栄に貢献できたことを嬉しく思う」というこの短歌には,何の気負いも野心もない枯れた思いが込められているように私は感じます。彼は恭仁京造営の最高責任者を長く勤めたため,同造営事業にかかわった若き家持とは接点が多かった可能性があります。
都市や国の共存共栄は,それに貢献する人たちが相互に憎しみ,野心,過度な競争心などをもっていたのでは円滑に進まないような気がします。人々の喜びや楽しみを伴った質の高い仕事の継続,気持ちの良い支え合いの継続があってこそ,繁栄という状態が後からついてくるというのが今の私は考えです。
動きの詞(ことば)シリーズ…栄ゆ(2)に続く。
2014年12月21日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(2) ♪照る照る坊主,照る坊主。♪雨,雨,降れ,降れ。
<転職先は自分に合っていた>
今月転職したばかりの新しい職場にも,かなり慣れてきました。やはり,求められるいる技術とマッチ度が高いと職場に居場所ができるのに時間をあまり必要としないことを改めて感じられ,不安感はほぼなくなりました。
16日は新職場での最初の給料が振り込まれ,翌々日には長崎県壱岐の麦焼酎「天の川 壱岐づくし 3年古酒」(写真)を成城石井で奮発して買いました。
今晩,連れの天の川君にも,たまには私が飲ませてあげようと一緒に飲むつもりです。
天の川 「もう~,たびとは~ん。早よ飲もうな~。何でそんなに焦らすねん。」
いやいや,天の川君,22日は19年ぶりの朔旦冬至(さくたんとうじ)だから,その前夜をこの焼酎で祝おうということにしたのだよ。朔旦冬至とはね,...
天の川 「そんなこと知らんでかい。19年一度,冬至に八朔(はっさく)と文旦(ぶんたん)を食べてやな,寒い冬でも風邪ひかんようにお呪いする日やんか。どや。」
間違った知識で天の川君の「どや顔」を見せられてもね。19年に一度,冬至と新月が重なる日が朔旦冬至。これから日が長くなっていく,そして同じように新しい月も最初から満ちていく。そんな意味で心が改まる冬至の日と考える人もいるようだね。
<本題>
さて,天の川君にいまさら教養を深めてもらっても仕方がないので,本題に入りましょう。今回は,「照る」の2回目で,現代の私たちにとって最も身近な「日が照る」を万葉集で見ていきます。
最初の1首は,柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が草壁皇子の死を悼んで詠んだとされる挽歌(長歌)の反歌を紹介します。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)
<あかねさすひはてらせれど ぬばたまのよわたるつきの かくらくをしも>
<<日の光はいつも照らすけれども,夜を渡る月が欠けてしまうようにお隠れになってしまわれたことが惜しまれる>>
人麻呂にとって,太陽の照らす力は満ち欠けすることはない(日蝕以外)。しかし,月には満ち欠けがあり,その照らす力は人の命のように果かないものである象徴だったのかもしれませんね。
次は,真夏の強烈な日の光に照らされることをイメージした詠み人知らずの短歌です。
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)
<みなづきのつちさへさけて てるひにもわがそでひめや きみにあはずして>
<<六月の地面が裂けてしまうほど照る日光に干しても,(涙に濡れた)私の袖が乾くことがないのです。あなたに逢わないので>>
旧暦の6月は新暦ではだいたい7月ですから,田んぼの土も干上がって,ひび割れた状態になります。そんな強烈な日光でも恋が成就しないために流す涙の多さで,涙を拭う袖を乾かせない,作者の気持ちが伝わってきます。
次は,日照りで雨乞いをしたくなるほど相手の来訪を待ち望む気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌・女歌)です。
金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも(14-3561)
<かなとだをあらがきまゆみ ひがとればあめをまとのす きみをとまとも>
<<我が家の門近くの田に荒垣で身を清めて日照りに対して雨を強く待ちたくなるように,あなた様が来られるのを心待ちにしております>>
家の近くにある門田には,自分の家の田であることを示すためや動物に荒らされないようにするため,荒垣(生垣)を植えていたのでしょう。
しかし,日照りが続くと生垣が枯れてしまう恐れがあり,身を清めて雨乞いの祈りをする気持ちが強くなります。このまま,あなた様が来てくださらないと,私の身体は干ばつの生垣のように,枯れてしまうようだと作者は訴えたいのでしょうね。
最後は,自身の孤独感を詠んだことでよく知られている大伴家持の短歌です。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらにてれるはるひに ひばりあがりこころかなしも ひとりしおもへば>
<<うららかな春の日に雲雀が上空を飛んでいる。でも,(のどかな気持ちになれずに)うら悲しい。今自分一人であることを思うと>>
家持の孤独感の原因が何か,いろいろな説があるようですが,私は越中赴任から帰任して,中央政府の中の力関係に順応することへの難しさからくるものも一つにはあったような気がします。
<私の経験に当てはめる>
私が勤めていた会社で,新入社員から15年以上,三多摩方面の事業所で働いていた後,そこでの成果を認められ,新宿区の本社技術スタッフとして配属されたことがありました。しかし,私はその後何年も本社勤めの役員や管理職とのコミュニケーションがうまく行かずに悩んだ時期が続きました。
事業所で「成果を出したやつのお手並み拝見」といった非協力的な周囲に対して,どう協力を取りつけるかに,回答が出せないとき,この家持の孤独感に共感する気持ちが表れてきました。
その後,その時悩んだ経験がさまざまな場面で協力を取り付けるスキルの向上に役立ったのは事実かもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3)に続く。
今月転職したばかりの新しい職場にも,かなり慣れてきました。やはり,求められるいる技術とマッチ度が高いと職場に居場所ができるのに時間をあまり必要としないことを改めて感じられ,不安感はほぼなくなりました。
16日は新職場での最初の給料が振り込まれ,翌々日には長崎県壱岐の麦焼酎「天の川 壱岐づくし 3年古酒」(写真)を成城石井で奮発して買いました。
今晩,連れの天の川君にも,たまには私が飲ませてあげようと一緒に飲むつもりです。
天の川 「もう~,たびとは~ん。早よ飲もうな~。何でそんなに焦らすねん。」
いやいや,天の川君,22日は19年ぶりの朔旦冬至(さくたんとうじ)だから,その前夜をこの焼酎で祝おうということにしたのだよ。朔旦冬至とはね,...
天の川 「そんなこと知らんでかい。19年一度,冬至に八朔(はっさく)と文旦(ぶんたん)を食べてやな,寒い冬でも風邪ひかんようにお呪いする日やんか。どや。」
間違った知識で天の川君の「どや顔」を見せられてもね。19年に一度,冬至と新月が重なる日が朔旦冬至。これから日が長くなっていく,そして同じように新しい月も最初から満ちていく。そんな意味で心が改まる冬至の日と考える人もいるようだね。
<本題>
さて,天の川君にいまさら教養を深めてもらっても仕方がないので,本題に入りましょう。今回は,「照る」の2回目で,現代の私たちにとって最も身近な「日が照る」を万葉集で見ていきます。
最初の1首は,柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が草壁皇子の死を悼んで詠んだとされる挽歌(長歌)の反歌を紹介します。
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも(2-169)
<あかねさすひはてらせれど ぬばたまのよわたるつきの かくらくをしも>
<<日の光はいつも照らすけれども,夜を渡る月が欠けてしまうようにお隠れになってしまわれたことが惜しまれる>>
人麻呂にとって,太陽の照らす力は満ち欠けすることはない(日蝕以外)。しかし,月には満ち欠けがあり,その照らす力は人の命のように果かないものである象徴だったのかもしれませんね。
次は,真夏の強烈な日の光に照らされることをイメージした詠み人知らずの短歌です。
六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)
<みなづきのつちさへさけて てるひにもわがそでひめや きみにあはずして>
<<六月の地面が裂けてしまうほど照る日光に干しても,(涙に濡れた)私の袖が乾くことがないのです。あなたに逢わないので>>
旧暦の6月は新暦ではだいたい7月ですから,田んぼの土も干上がって,ひび割れた状態になります。そんな強烈な日光でも恋が成就しないために流す涙の多さで,涙を拭う袖を乾かせない,作者の気持ちが伝わってきます。
次は,日照りで雨乞いをしたくなるほど相手の来訪を待ち望む気持ちを詠んだ詠み人知らずの短歌(東歌・女歌)です。
金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも(14-3561)
<かなとだをあらがきまゆみ ひがとればあめをまとのす きみをとまとも>
<<我が家の門近くの田に荒垣で身を清めて日照りに対して雨を強く待ちたくなるように,あなた様が来られるのを心待ちにしております>>
家の近くにある門田には,自分の家の田であることを示すためや動物に荒らされないようにするため,荒垣(生垣)を植えていたのでしょう。
しかし,日照りが続くと生垣が枯れてしまう恐れがあり,身を清めて雨乞いの祈りをする気持ちが強くなります。このまま,あなた様が来てくださらないと,私の身体は干ばつの生垣のように,枯れてしまうようだと作者は訴えたいのでしょうね。
最後は,自身の孤独感を詠んだことでよく知られている大伴家持の短歌です。
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば(19-4292)
<うらうらにてれるはるひに ひばりあがりこころかなしも ひとりしおもへば>
<<うららかな春の日に雲雀が上空を飛んでいる。でも,(のどかな気持ちになれずに)うら悲しい。今自分一人であることを思うと>>
家持の孤独感の原因が何か,いろいろな説があるようですが,私は越中赴任から帰任して,中央政府の中の力関係に順応することへの難しさからくるものも一つにはあったような気がします。
<私の経験に当てはめる>
私が勤めていた会社で,新入社員から15年以上,三多摩方面の事業所で働いていた後,そこでの成果を認められ,新宿区の本社技術スタッフとして配属されたことがありました。しかし,私はその後何年も本社勤めの役員や管理職とのコミュニケーションがうまく行かずに悩んだ時期が続きました。
事業所で「成果を出したやつのお手並み拝見」といった非協力的な周囲に対して,どう協力を取りつけるかに,回答が出せないとき,この家持の孤独感に共感する気持ちが表れてきました。
その後,その時悩んだ経験がさまざまな場面で協力を取り付けるスキルの向上に役立ったのは事実かもしれません。
動きの詞(ことば)シリーズ…照る(3)に続く。
2014年4月27日日曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(1) 別離の歌に似合う「置く」
<今回GWスペシャルは無し>
ゴールデンウィーク(GW)がいよいよ始まりましたね。私の勤めている会社は4/28は営業日ですが,その他は5/6まで休業です。4/28に休む社員も割といて11連休を満喫するとのことです。
私は,4/28にソフトウェア保守契約をしてくださっているお客様との打ち合わせが入り,また小売業の別のお客様はGWに特段の休みがなく,その対応などで最大2日位の休日出勤を予定しています。
その他は,ゴルフのラウンドや昨年歩いた小金井公園から出発する2日間のウォーキングフェスタに参加予定です。
そんな関係で,このブログはGWスペシャルではなく,通常の投稿で進める予定です。
さて,今回から新しく取り上げる万葉集に出てくる動詞は,現代でも日常的に使用する「置く」です。
万葉集に出てくる「置く」の用例を見ていくと,現代での意味より広い意味で使われていたようです。それを何回かに分けて見て行きましょう。
今回は「残す」という意味の「置く」を見てみましょう。
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ(1-78)
<とぶとりのあすかのさとをおきていなば きみがあたりはみえずかもあらむ >
<<明日香の里を残して,余が去ってしまえば、(平城京からは)君がいるあたりはもう見えないのであろうか>>
この短歌は,平城京遷都(和同3年)に際して,明日香の藤原京から奈良の平城京に向かうとき,当時の在位していた元明天皇が詠んだとされるものです。明日香の里を残したものは何か? それは,27歳という若さで亡くなった夫の草壁皇子の霊だと私は思います。彼が生きていれば平城京遷都はどうなっていたのか,草壁皇子の魂が居る明日香からも遠く離れてしまう寂しさが私には感じられます。
次は,大伴家持が天平11(739)年に妻(正妻ではない)の死を悼んだ短歌(長歌の返歌)です。
時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹かみどり子を置きて(3-467)
<ときはしもいつもあらむを こころいたくいゆくわぎもか みどりこをおきて>
<<別の時があったろうに、私の心をこれ程痛ませ死んでしまった私の妻。幼い子を残して>>
この妻がどこの家の誰かは万葉集を含め,記録に残っていないそうです。また,「置かれた(残された)みどり子」がその後どうなったかも不明のようです。この後しばらくして家持の正妻になっとたという大伴大嬢との関係から,素性を残さなかったのかもしれません。ただ,家持はこの妻が亡くなったことへを悲しむ和歌を万葉集に10首以上残しています。
最後は,田部忌寸櫟子(たべのいみきいちひこ)が大宰府に赴任したとき,京に残した舎人吉年(とねりのよしとし)との相聞歌4首中に「置く」が出てくる3首を紹介します。
衣手に取りとどこほり泣く子にもまされる我れを置きていかにせむ(4-492)
<ころもでにとりとどこほり なくこにもまされるわれを おきていかにせむ>
<<衣の袖に取りついて泣く子にもまさって別れを悲しむ私を残して行ってしまわれる。どうしたらよいのでしょうか(吉年)>>
置きていなば妹恋ひむかも敷栲の黒髪敷きて長きこの夜を(4-493)
<おきていなばいもこひむかも しきたへのくろかみしきて ながきこのよを>
<<残して行ってしまったあなたを恋しく思うでしょう。黒髪を床に敷いて長いこの夜をずっと(櫟子)>>
朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて(4-495)
<あさひかげにほへるやまに てるつきのあかざるきみを やまごしにおきて>
<<朝日が映えて山の端に照る月を見飽きないほどに美しいあなたをはるかな山の彼方に残してしまった(櫟子)>>
これらの短歌は,櫟子が大宰府に赴任したときに櫟子自身が披露したものだろうと私は想像します。最初の短歌は京に残してきた吉年が詠んだとして紹介し,後はそれに対して櫟子自身の返歌としているようです。
状況から京に残った吉年は女性で,大宰府に行った櫟子は男性なのでしょう。櫟子が大宰府へ旅立つとき,吉年は自分の黒髪を一部切って,束ねて櫟子に渡したのかもしれません。それを床に敷いて寝て,京に残した吉年を朝まで思い,夜が明けたときの感傷がまた深いという遠距離恋愛のドラマが私の頭にイメージされます。
<グルーバル化によって離れ離れになる?>
それまで日本のどこかの農村で農家として暮らしていたら,恋人や妻とこのような別離はなかった。国の近代化(律令制度)やグローバル化(大陸との交渉,大陸からの防衛など)に係る身になって,仕事の場が距離的広がっていった当時の状況を私はイメージしてしまいます。
そして,現代の日本だけでなく,世界のどの国においても,近代化やグローバル化で,距離的,時間帯的,精神的な別離が避けられない状況が依然あると私は思います。
現代では,その別離で置かれた(残された)妻,夫,子供,親,祖父母,孫,そして恋人とを繋ぐ(スマホ,パソコン,テレビ電話などの)メディアも,そのような別離関係のデメリットを軽減する手段とて進歩しています。
ただ,メディアは文字通り媒体でしかありません。そこに流れるコンテンツ(文章やイメージ)にどれだけ相手を想う気持ちを伝えられる内容になっているかが重要であることに今も変わりがないのではないでしょうか。万葉集に古さを感じさせない表現があるのは,そのようにコンテンツで思いを一生懸命伝えようする表現努力が今も必要だからだろうと私は考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(2)に続く。
ゴールデンウィーク(GW)がいよいよ始まりましたね。私の勤めている会社は4/28は営業日ですが,その他は5/6まで休業です。4/28に休む社員も割といて11連休を満喫するとのことです。
私は,4/28にソフトウェア保守契約をしてくださっているお客様との打ち合わせが入り,また小売業の別のお客様はGWに特段の休みがなく,その対応などで最大2日位の休日出勤を予定しています。
その他は,ゴルフのラウンドや昨年歩いた小金井公園から出発する2日間のウォーキングフェスタに参加予定です。
そんな関係で,このブログはGWスペシャルではなく,通常の投稿で進める予定です。
さて,今回から新しく取り上げる万葉集に出てくる動詞は,現代でも日常的に使用する「置く」です。
万葉集に出てくる「置く」の用例を見ていくと,現代での意味より広い意味で使われていたようです。それを何回かに分けて見て行きましょう。
今回は「残す」という意味の「置く」を見てみましょう。
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ(1-78)
<とぶとりのあすかのさとをおきていなば きみがあたりはみえずかもあらむ >
<<明日香の里を残して,余が去ってしまえば、(平城京からは)君がいるあたりはもう見えないのであろうか>>
この短歌は,平城京遷都(和同3年)に際して,明日香の藤原京から奈良の平城京に向かうとき,当時の在位していた元明天皇が詠んだとされるものです。明日香の里を残したものは何か? それは,27歳という若さで亡くなった夫の草壁皇子の霊だと私は思います。彼が生きていれば平城京遷都はどうなっていたのか,草壁皇子の魂が居る明日香からも遠く離れてしまう寂しさが私には感じられます。
次は,大伴家持が天平11(739)年に妻(正妻ではない)の死を悼んだ短歌(長歌の返歌)です。
時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹かみどり子を置きて(3-467)
<ときはしもいつもあらむを こころいたくいゆくわぎもか みどりこをおきて>
<<別の時があったろうに、私の心をこれ程痛ませ死んでしまった私の妻。幼い子を残して>>
この妻がどこの家の誰かは万葉集を含め,記録に残っていないそうです。また,「置かれた(残された)みどり子」がその後どうなったかも不明のようです。この後しばらくして家持の正妻になっとたという大伴大嬢との関係から,素性を残さなかったのかもしれません。ただ,家持はこの妻が亡くなったことへを悲しむ和歌を万葉集に10首以上残しています。
最後は,田部忌寸櫟子(たべのいみきいちひこ)が大宰府に赴任したとき,京に残した舎人吉年(とねりのよしとし)との相聞歌4首中に「置く」が出てくる3首を紹介します。
衣手に取りとどこほり泣く子にもまされる我れを置きていかにせむ(4-492)
<ころもでにとりとどこほり なくこにもまされるわれを おきていかにせむ>
<<衣の袖に取りついて泣く子にもまさって別れを悲しむ私を残して行ってしまわれる。どうしたらよいのでしょうか(吉年)>>
置きていなば妹恋ひむかも敷栲の黒髪敷きて長きこの夜を(4-493)
<おきていなばいもこひむかも しきたへのくろかみしきて ながきこのよを>
<<残して行ってしまったあなたを恋しく思うでしょう。黒髪を床に敷いて長いこの夜をずっと(櫟子)>>
朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて(4-495)
<あさひかげにほへるやまに てるつきのあかざるきみを やまごしにおきて>
<<朝日が映えて山の端に照る月を見飽きないほどに美しいあなたをはるかな山の彼方に残してしまった(櫟子)>>
これらの短歌は,櫟子が大宰府に赴任したときに櫟子自身が披露したものだろうと私は想像します。最初の短歌は京に残してきた吉年が詠んだとして紹介し,後はそれに対して櫟子自身の返歌としているようです。
状況から京に残った吉年は女性で,大宰府に行った櫟子は男性なのでしょう。櫟子が大宰府へ旅立つとき,吉年は自分の黒髪を一部切って,束ねて櫟子に渡したのかもしれません。それを床に敷いて寝て,京に残した吉年を朝まで思い,夜が明けたときの感傷がまた深いという遠距離恋愛のドラマが私の頭にイメージされます。
<グルーバル化によって離れ離れになる?>
それまで日本のどこかの農村で農家として暮らしていたら,恋人や妻とこのような別離はなかった。国の近代化(律令制度)やグローバル化(大陸との交渉,大陸からの防衛など)に係る身になって,仕事の場が距離的広がっていった当時の状況を私はイメージしてしまいます。
そして,現代の日本だけでなく,世界のどの国においても,近代化やグローバル化で,距離的,時間帯的,精神的な別離が避けられない状況が依然あると私は思います。
現代では,その別離で置かれた(残された)妻,夫,子供,親,祖父母,孫,そして恋人とを繋ぐ(スマホ,パソコン,テレビ電話などの)メディアも,そのような別離関係のデメリットを軽減する手段とて進歩しています。
ただ,メディアは文字通り媒体でしかありません。そこに流れるコンテンツ(文章やイメージ)にどれだけ相手を想う気持ちを伝えられる内容になっているかが重要であることに今も変わりがないのではないでしょうか。万葉集に古さを感じさせない表現があるのは,そのようにコンテンツで思いを一生懸命伝えようする表現努力が今も必要だからだろうと私は考えるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…置く(2)に続く。
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