今回は,「参ゐる」を詠んだ悲しい万葉集の和歌3連発で行きます。
まず最初は,草壁皇子(くさかべのみこ)の死を悼んで舎人(とねり)たちが詠んだ二十三首の晩歌のうちの一首です。
一日には千たび参ゐりし東の大き御門を入りかてぬかも(2-186)
<ひとひにはちたびまゐりし ひむがしのおほきみかどを いりかてぬかも>
<<一日に何度も参上した東の大きな御門も,今となっては入ることができないなあ>>
この挽歌を詠んだ舎人は草壁皇子に仕えた人でしょう。訪問客の相手や連絡事項を伝えるため,草壁皇子が仕事をする建物がある東の門を何度もくぐって参上したが,その仕事も皇子が死去した今となっては必要がなくなったのですね。
次は,持統(ぢとう)天皇,文武(もんむ)天皇の時代に活躍し,左大臣・大納言まで勤めた石上麻呂(いそのかみのまろ)の息子であった石上乙麻呂(おとまろ)の長歌です。
父君に我れは愛子ぞ 母刀自に我れは愛子ぞ 参ゐ上る八十氏人の 手向けする畏の坂に 幣奉り我れはぞ追へる 遠き土佐道を(6-1022)
<ちちぎみにわれはまなごぞ ははとじにわれはまなごぞ まゐのぼるやそうぢひとの たむけするかしこのさかに ぬさまつりわれはぞおへる とほきとさぢを>
<<父君にとって私は愛おしい子である。母君にとっても私は愛おしい子である。京へ参上する多くの人々が無事を祈り手向けして越える恐坂に私が幣を奉り、長い土佐道を>>
乙麻呂は藤原宇合の妻で女官であった久米若賣(くめのわかめ)と密通した(今で言う不倫関係になった)という罪で土佐に流された際に詠んだとされるものです。この長歌に出てくる「畏の坂」はどこか分かりませんが,平城京から土佐まで行く主要街道の一つの峠だったのだと私は思います。
さて,最後は下総(今の千葉県)出身の防人雀部廣嶋(きざきべのひろしま)が詠んだとされる防人歌です。
大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを(20-4393)
<おほきみのみことにされば ちちははをいはひへとおきて まゐできにしを>
<<大君のご命令なので父母を斎瓶(神に捧げる壺)とともに家に置いて参り来たのだなあ>>
自分には,頼りにできる父母も,無事を祈ることができる神も家に置いて,天皇を命により防人として参上したことに対する不安がよく表れた秀歌だと私は思います。
これから何を頼りにしていけばいいのか?天皇は自分を守ってくれるのか?九州の地での自分の状況を家の父母に知らせてくれるのか?
また,父母の健康状態を九州まで知らせてくれるのか?など,不安と表に出せない怒りを精いっぱいこの短歌は表していると私は思います。
動きの詞(ことば)シリーズ…参ゐる(3:まとめ)に続く。
2015年6月14日日曜日
2015年3月20日金曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(2) 難波の港で多くの防人を見た家持はナンバ感じトカ?
前回は,位が上の人に「申す」を詠まれた短歌をいくつか紹介しました。今回は,母や父の親に「申す」を詠んだ万葉集の和歌を見ていきます。
最近,親を敬うという意識が薄れているのかもしれません。子が親にタメ口を使ったり,命令したり。逆に親が子を虐待し,とても尊敬の対象とならない場合もあります。親に「申す」を使うのは,必死にモノをおねだりするときとか,日ごろの不満が溜まり『親に物申す』のときくらいでしょうか。
しかし,万葉集を見る限りにおいては,親に対して子が「申す」を使っていたことは普通だったようです。
その表現がもっとも顕著に表れているのか「防人の歌」かもしれません。防人の歌を中心に「申す」の表現を見ていきます。
最初は下野国(しもつけのくに)出身の防人で,川上老(かはかみのおゆ)という人物が詠んだとされる短歌です。
旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ(20-4376)
<たびゆきにゆくとしらずて あもししにことまをさずて いまぞくやしけ>
<<長旅に出てしまうとは知らず母父に別れの言葉も申さなかったので,今になって悔やまれることだ>>
「ちょっとした防衛の仕事。九州は難波の港から船が出ていて,楽に着ける。敵が攻めてこなければ,何もしないで金が入るよ」などと甘い言葉に乗って防人となったが,とんでもない長旅で,母父にもっと別れの言葉をきちっと言っておく(申しておく)べきだったと後悔をしている短歌です。
次は,防人自身の歌ではないですが,当時難波の港で東国から招集され,九州に旅立つ防人たちを兵部少輔(ひやうぶのせいう)として監督していた大伴家持が防人に同情して,防人の思いを詠んだ短歌です。
家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(20-4409)
<いへびとのいはへにかあらむ たひらけくふなではしぬと おやにまをさね>
<<家族のみんなが身を浄め斎ってくれたので平安な船出だったと僕の母父に申し上げてください>>
この短歌はひとつ前に家持が詠んだ長歌の反歌です。
その長歌にも「申す」が出てきますが,対象は「神への祈り」です。ただ,「祈り」の内容は,父母の健康と帰りを待つ妻への愛情です。その長歌で「申す」が出てくる後半部分のみですが紹介します。
~ 海原の畏き道を 島伝ひい漕ぎ渡りて あり廻り我が来るまでに 平けく親はいまさね つつみなく妻は待たせと 住吉の我が統め神に 幣奉り祈り申して 難波津に船を浮け据ゑ 八十楫貫き水手ととのへて 朝開き我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(20-4408)
<~ うなはらのかしこきみちを しまづたひいこぎわたりて ありめぐりわがくるまでに たひらけくおやはいまさね つつみなくつまはまたせと すみのえのあがすめかみに ぬさまつりいのりまをして なにはつにふねをうけすゑ やそかぬきかこととのへて あさびらきわはこぎでぬと いへにつげこそ>
<<~ 海原の決められた海路を島伝いに漕ぎ進んで私が生きて帰ってくるまで,平穏無事に親には生きていてほしい,何事無く妻は待っていてほしいと住吉の私たちを守ってくれるという神に幣を供えて祈り申して,難波の港に船をつけ,多くの楫を貫き通してそれを漕ぐ水夫を用意して,朝になったら出港したと実家に伝えてほしい>>
家持は,防人たちの不安や家族への心配な気持ちを少しでも和らげられるよう,役人としてできるかぎりのことをしている姿を伝えたい,そんな気持ちでこの長歌を詠んだのかもしません。
防人として九州に船で送られる側もつらいだろうが,それを見て,また防人たちの故郷や残してきた家族への思いを聞く側もつらい。彼らの気持ちをストレートに和歌に詠ませ,記録に残すことと,和歌を詠ませることで彼らの気持ちを和らげることに腐心した家持がそこにいたのではないかと私は思います。
<家持は防人に対して,単なる数字上の管理をしていただけではなかった>
家持以外の難波津の役人は,恐らく機械的に防人の人数を数え,予定した人数を九州に向け乗船させ,出港させればそれで仕事が終わったと考えていたと想像します。
現地に派遣する防人の数が予定や目標に達していれば,当時の役人は仕事を無事なしとげた,数をそろえるために必要な仕事以外,余計なことはしなかったと私は思います。
その中の役人の家持が防人たちの和歌を残したり,防人の気持ちを代弁する和歌を残した努力に対し,私は心から敬意を表したいのです。
万葉集の原型をほぼまとめたと考えるられる家持の努力だけでなく,その根底にある人に対する貴賤を排した彼の平等感をもっと評価しても良いのではと改めて,家持の防人歌から私は感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(3:まとめ)に続く。
最近,親を敬うという意識が薄れているのかもしれません。子が親にタメ口を使ったり,命令したり。逆に親が子を虐待し,とても尊敬の対象とならない場合もあります。親に「申す」を使うのは,必死にモノをおねだりするときとか,日ごろの不満が溜まり『親に物申す』のときくらいでしょうか。
しかし,万葉集を見る限りにおいては,親に対して子が「申す」を使っていたことは普通だったようです。
その表現がもっとも顕著に表れているのか「防人の歌」かもしれません。防人の歌を中心に「申す」の表現を見ていきます。
最初は下野国(しもつけのくに)出身の防人で,川上老(かはかみのおゆ)という人物が詠んだとされる短歌です。
旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ(20-4376)
<たびゆきにゆくとしらずて あもししにことまをさずて いまぞくやしけ>
<<長旅に出てしまうとは知らず母父に別れの言葉も申さなかったので,今になって悔やまれることだ>>
「ちょっとした防衛の仕事。九州は難波の港から船が出ていて,楽に着ける。敵が攻めてこなければ,何もしないで金が入るよ」などと甘い言葉に乗って防人となったが,とんでもない長旅で,母父にもっと別れの言葉をきちっと言っておく(申しておく)べきだったと後悔をしている短歌です。
次は,防人自身の歌ではないですが,当時難波の港で東国から招集され,九州に旅立つ防人たちを兵部少輔(ひやうぶのせいう)として監督していた大伴家持が防人に同情して,防人の思いを詠んだ短歌です。
家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(20-4409)
<いへびとのいはへにかあらむ たひらけくふなではしぬと おやにまをさね>
<<家族のみんなが身を浄め斎ってくれたので平安な船出だったと僕の母父に申し上げてください>>
この短歌はひとつ前に家持が詠んだ長歌の反歌です。
その長歌にも「申す」が出てきますが,対象は「神への祈り」です。ただ,「祈り」の内容は,父母の健康と帰りを待つ妻への愛情です。その長歌で「申す」が出てくる後半部分のみですが紹介します。
~ 海原の畏き道を 島伝ひい漕ぎ渡りて あり廻り我が来るまでに 平けく親はいまさね つつみなく妻は待たせと 住吉の我が統め神に 幣奉り祈り申して 難波津に船を浮け据ゑ 八十楫貫き水手ととのへて 朝開き我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ(20-4408)
<~ うなはらのかしこきみちを しまづたひいこぎわたりて ありめぐりわがくるまでに たひらけくおやはいまさね つつみなくつまはまたせと すみのえのあがすめかみに ぬさまつりいのりまをして なにはつにふねをうけすゑ やそかぬきかこととのへて あさびらきわはこぎでぬと いへにつげこそ>
<<~ 海原の決められた海路を島伝いに漕ぎ進んで私が生きて帰ってくるまで,平穏無事に親には生きていてほしい,何事無く妻は待っていてほしいと住吉の私たちを守ってくれるという神に幣を供えて祈り申して,難波の港に船をつけ,多くの楫を貫き通してそれを漕ぐ水夫を用意して,朝になったら出港したと実家に伝えてほしい>>
家持は,防人たちの不安や家族への心配な気持ちを少しでも和らげられるよう,役人としてできるかぎりのことをしている姿を伝えたい,そんな気持ちでこの長歌を詠んだのかもしません。
防人として九州に船で送られる側もつらいだろうが,それを見て,また防人たちの故郷や残してきた家族への思いを聞く側もつらい。彼らの気持ちをストレートに和歌に詠ませ,記録に残すことと,和歌を詠ませることで彼らの気持ちを和らげることに腐心した家持がそこにいたのではないかと私は思います。
<家持は防人に対して,単なる数字上の管理をしていただけではなかった>
家持以外の難波津の役人は,恐らく機械的に防人の人数を数え,予定した人数を九州に向け乗船させ,出港させればそれで仕事が終わったと考えていたと想像します。
現地に派遣する防人の数が予定や目標に達していれば,当時の役人は仕事を無事なしとげた,数をそろえるために必要な仕事以外,余計なことはしなかったと私は思います。
その中の役人の家持が防人たちの和歌を残したり,防人の気持ちを代弁する和歌を残した努力に対し,私は心から敬意を表したいのです。
万葉集の原型をほぼまとめたと考えるられる家持の努力だけでなく,その根底にある人に対する貴賤を排した彼の平等感をもっと評価しても良いのではと改めて,家持の防人歌から私は感じるのです。
動きの詞(ことば)シリーズ…申す(3:まとめ)に続く。
2015年1月4日日曜日
2015新年スペシャル「ひつじ年に詠まれた和歌(3:まとめ)」 東国からの防人徴集は家持がやめさせた?
本スペシャルの最後は,万葉集で天平勝宝7(755)年:乙未(きのとひつじ)に詠まれたとされる和歌について見ていきます。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>
2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。
今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>
3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。
天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>
最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。
天平勝宝7年は歴史的に大きなできごとはない年でした。大伴家持は37歳になっており,難波で防人の検校(けんぎょう)に任に当っていたようです。
そのため,天平勝宝7年に詠まれたと万葉集にある和歌は防人歌,家持が防人の立場や気持ちになって詠った歌,その後家持が検校の任を解かれて京に戻り,宴席での参加者の歌など100首を大きく超える和歌が万葉集に記録されています。
防人制度ですが,この年の翌々年の天平宝字元(757)年(または天平勝宝9年)に東国から防人を集めるのではなく,九州地方のみで構成するようになったとWikipediaに出ています。もし,それが本当なら,家持の防人歌を献上したことが功を奏した可能性もあるかもしれません。
さて,防人歌及び家持の防人歌の代表的にものをいくつか紹介します。
1首目は遠江国長下郡(現在の浜松)の物部古麻呂(もののべのこまろ)が詠んだされる防人歌です。
我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(20-4327)
<わがつまもゑにかきとらむ いつまもがたびゆくあれは みつつしのはむ>
<<妻の絵を描く時間があったなら、旅の道中で私は(その絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのだが>>
2首目は大伴家持が詠んだ防人歌です。
今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(20-4335)
<いまかはるにひさきもりが ふなでするうなはらのうへに なみなさきそね>
<<今から新しく交替に新防人が船出する。海原の上に波を立てないで欲しい>>
3首目は下総国埴生郡(今の成田市あたり)出身の大伴部麻与佐(おほともべのまよさ)が詠んだとされる防人歌です。
天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(20-4392)
<あめつしのいづれのかみを いのらばかうつくしははに またこととはむ>
<<天地のいずれの神に祈ったら,いとしい母にまた話しができるのだろう>>
最後は,夫を防人として出す妻が詠んだとされるものです。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
そして,天平勝宝7年には橘諸兄の影響力が少しずつ低下し,藤原仲麻呂の影響力が大きくなろうとしている時代です。家持にとって,将来の昇進に関して不安な時代に突入したのは間違いありません。
動きの詞(ことば)シリーズ…隠る(1)に続く。
2014年4月2日水曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(1) 日本人は井戸端会議的「問ふ」が好き?
<ほとんど日本人しかいない普通の職場>
日本人は初対面の相手や疎遠な外国人に,自分考えを相手に誤解されないよう伝えるのが得意でないという評価があると聞くことがあります。それがすべての場合当てはまるかどうかは別として,私がこれまでの職場などでの経験からはこの評価には否定できない部分が少なくないと思います。
私の職場は,これまでほとんど同じ日本人ばかりの職場だったのです。ですから,思想信条,文化,社会的な習慣が全く異なる多くの人々と一緒に仕事をしたことなかったといっても良いかと思います。職場の同僚・先輩・上司・後輩は,日本人ですから日本語が流暢に話せ,日本で育ち,日本の学校に通い,正月・バレンタイン・花見・衣替え・紅葉狩り・クリスマスなどの日本の習慣を十分知っています。日本のテレビ放送を観て,日本で売れ筋の製品を使い,日本の流行に対して共通の情報を持ち,日本人として共通の基盤を持った人たちと仕事をしてきたのです。
<日本人間の考え方の違いは大したことがない>
「いや,日本人だって,年齢,地域,学歴などでいろんな人がいるし,考え方に大きなギャップもあるよ。日本人と一括りにするのはいかがなものだろうか?」と,私のような見方に賛成しない人もいるかと思います。でも,私はその違いはせいぜい日本人としての共通の基盤上での反対/賛成,賛同/拒否,同調/排除の違いでしかないと思います。たとえていえば,日本料理の中で「牛肉の肉じゃがが好き」,「いや豚肉の肉じゃがのほうが好きで,牛肉のは嫌い」といった,好き嫌いの範囲内のようなものかもしれません。
<世界は多様>
「東欧ハンガリーの料理『パプリカーシュチルケ・ノケドリヴェル』(鶏肉とハンガリアンパスタ,パプリカ添え)と南米スリナムの料理『モクシメティ』(ライスを添えた肉料理)とどちらが好き?」と仮に私が仕事仲間に聞いたら,十中八九「そんなん知らんがな,あっち行って!」という反応になりますよね。びっくりされるだけでなく,「お前,頭がおかしくなったのか?」と思われるような環境が私の職場でした(それが一般的な日本の職場かも?)。しかし,もし職場に世界のさまざまな国の人が居て,その人たちと仲良く仕事をするには,これくらいの知識を持っている必要があるのかもしれません。
そんな必要性がなかった私は,初対面の人に気を悪させず,いろいろ質問する(問う)ことが苦手でした。初対面の人とも会話が続かず,気まずい雰囲気が長く続くというツライ経験を私はたくさんしてきました。職場の同僚や後輩に同様の悩みを持ち,考えや文化の違う人と積極的に係らない人と多く出会いました。
<「動きの詞シリーズ」再開>
さて,再開した「動きの詞シリーズ」の最初は,日本人があまり得意としない「問ふ」です。万葉集には「問ふ」が入っている和歌が50首ほどは出てきます。万葉時代の日本人はどんな「問ふ」をしてきたのか何回かに分けて見ていきましょう。それが,今の日本人の「問う」との違いがあるのでしょうか。
最初の短歌は,天平勝宝7年2月に集められまれたという有名な防人歌です。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちどうしが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
防人歌といっても防人自身が詠んだもの以外に防人の妻が詠んだものも含まれています。
この短歌は防人に行く夫の妻が詠んだものですが,気持ちは<<>>内の私の現代語訳を見れば分かるかと思います。
さて,次は占いで当時許婚であった大伴大嬢(おほとものおほいらつめ)と逢う運勢を問うことを詠んだ大伴家持の短歌です。
月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り(4-736)
<つくよにはかどにいでたち ゆふけとひあしうらをぞせし ゆかまくをほり>
<<月夜には家の門の外まで出て立って夕占で問い,また足占もしましたよ。あなたの家へ行こうと>>
夕占とは広辞苑によると「夕方,辻に立って往来の人の話を聞き,それによって吉凶,禍福をうらなうこと」という意味です。家持は,逢いに行きたいという気持ちがいっぱいで,その準備をしていることを大嬢に伝えたかったのかもしれません。
これら2首の「問ふ」は,ある種の情報を得るためかもしれません。最初の防人歌では,作者ではなく近所のおばさんたちが井戸端会議的に防人に行く家はどこかの情報を収集しようとしていることは分かります。
また,後の家持の短歌は夕占という,(家の前の)通りに出て,行き交う人の質問をして,自分が大嬢に逢うのに良い運勢かを確認しています。
多分,大嬢の家に行く道すがらに何らかの障害になるものがあったり,何かの催し物で,人が多くいて,目立ち,噂が立ってしまうことも考えられます。運勢だけでなく,さまざまな情報から大嬢の家へ行く良いタイミングを夕占で見測ろうとして,足占で分析をしたのかもしれません。
今回紹介した「問ふ」は,相手のことを知ろうというよりも,情報収集の目的であったと私は感じます。
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(2)に続く。
日本人は初対面の相手や疎遠な外国人に,自分考えを相手に誤解されないよう伝えるのが得意でないという評価があると聞くことがあります。それがすべての場合当てはまるかどうかは別として,私がこれまでの職場などでの経験からはこの評価には否定できない部分が少なくないと思います。
私の職場は,これまでほとんど同じ日本人ばかりの職場だったのです。ですから,思想信条,文化,社会的な習慣が全く異なる多くの人々と一緒に仕事をしたことなかったといっても良いかと思います。職場の同僚・先輩・上司・後輩は,日本人ですから日本語が流暢に話せ,日本で育ち,日本の学校に通い,正月・バレンタイン・花見・衣替え・紅葉狩り・クリスマスなどの日本の習慣を十分知っています。日本のテレビ放送を観て,日本で売れ筋の製品を使い,日本の流行に対して共通の情報を持ち,日本人として共通の基盤を持った人たちと仕事をしてきたのです。
<日本人間の考え方の違いは大したことがない>
「いや,日本人だって,年齢,地域,学歴などでいろんな人がいるし,考え方に大きなギャップもあるよ。日本人と一括りにするのはいかがなものだろうか?」と,私のような見方に賛成しない人もいるかと思います。でも,私はその違いはせいぜい日本人としての共通の基盤上での反対/賛成,賛同/拒否,同調/排除の違いでしかないと思います。たとえていえば,日本料理の中で「牛肉の肉じゃがが好き」,「いや豚肉の肉じゃがのほうが好きで,牛肉のは嫌い」といった,好き嫌いの範囲内のようなものかもしれません。
<世界は多様>
「東欧ハンガリーの料理『パプリカーシュチルケ・ノケドリヴェル』(鶏肉とハンガリアンパスタ,パプリカ添え)と南米スリナムの料理『モクシメティ』(ライスを添えた肉料理)とどちらが好き?」と仮に私が仕事仲間に聞いたら,十中八九「そんなん知らんがな,あっち行って!」という反応になりますよね。びっくりされるだけでなく,「お前,頭がおかしくなったのか?」と思われるような環境が私の職場でした(それが一般的な日本の職場かも?)。しかし,もし職場に世界のさまざまな国の人が居て,その人たちと仲良く仕事をするには,これくらいの知識を持っている必要があるのかもしれません。
そんな必要性がなかった私は,初対面の人に気を悪させず,いろいろ質問する(問う)ことが苦手でした。初対面の人とも会話が続かず,気まずい雰囲気が長く続くというツライ経験を私はたくさんしてきました。職場の同僚や後輩に同様の悩みを持ち,考えや文化の違う人と積極的に係らない人と多く出会いました。
<「動きの詞シリーズ」再開>
さて,再開した「動きの詞シリーズ」の最初は,日本人があまり得意としない「問ふ」です。万葉集には「問ふ」が入っている和歌が50首ほどは出てきます。万葉時代の日本人はどんな「問ふ」をしてきたのか何回かに分けて見ていきましょう。それが,今の日本人の「問う」との違いがあるのでしょうか。
最初の短歌は,天平勝宝7年2月に集められまれたという有名な防人歌です。
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(20-4425)
<さきもりにゆくはたがせと とふひとをみるがともしさ ものもひもせず>
<<「防人として行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちどうしが質問しあっているのを聞くのも気がめいるのです。それが私の夫であるという私の気持ちを知りもしないで>>
防人歌といっても防人自身が詠んだもの以外に防人の妻が詠んだものも含まれています。
この短歌は防人に行く夫の妻が詠んだものですが,気持ちは<<>>内の私の現代語訳を見れば分かるかと思います。
さて,次は占いで当時許婚であった大伴大嬢(おほとものおほいらつめ)と逢う運勢を問うことを詠んだ大伴家持の短歌です。
月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り(4-736)
<つくよにはかどにいでたち ゆふけとひあしうらをぞせし ゆかまくをほり>
<<月夜には家の門の外まで出て立って夕占で問い,また足占もしましたよ。あなたの家へ行こうと>>
夕占とは広辞苑によると「夕方,辻に立って往来の人の話を聞き,それによって吉凶,禍福をうらなうこと」という意味です。家持は,逢いに行きたいという気持ちがいっぱいで,その準備をしていることを大嬢に伝えたかったのかもしれません。
これら2首の「問ふ」は,ある種の情報を得るためかもしれません。最初の防人歌では,作者ではなく近所のおばさんたちが井戸端会議的に防人に行く家はどこかの情報を収集しようとしていることは分かります。
また,後の家持の短歌は夕占という,(家の前の)通りに出て,行き交う人の質問をして,自分が大嬢に逢うのに良い運勢かを確認しています。
多分,大嬢の家に行く道すがらに何らかの障害になるものがあったり,何かの催し物で,人が多くいて,目立ち,噂が立ってしまうことも考えられます。運勢だけでなく,さまざまな情報から大嬢の家へ行く良いタイミングを夕占で見測ろうとして,足占で分析をしたのかもしれません。
今回紹介した「問ふ」は,相手のことを知ろうというよりも,情報収集の目的であったと私は感じます。
動きの詞(ことば)シリーズ…問ふ(2)に続く。
2014年2月1日土曜日
動きの詞(ことば)シリーズ…知る(4:まとめ) 松は知っているか?
「知る」の最終回は「知る」に関するその他の表現で特徴的なものを万葉集から紹介します。
まず,18歳の若さで謀反の罪により中大兄皇子(後の天智天皇)に処刑された有間皇子が愛していた土地で処刑された場所でもある紀州への行幸にお供したとき,磐白(いはしろ)の地で山上憶良が詠んだ短歌です。
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
<とりはなすありがよひつつ みらめどもひとこそしらね まつはしるらむ>
<<皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては見たであろうが,そのことを人は知らないだけで,(磐白の)松はきっと知っているだろう>>
これは,有間皇子が紀州の処刑地に移送される途中の磐白で詠んだとされる次の辞世の歌を意識していることは間違いないでしょう。
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)
憶良が詠んだ当時は有間皇子処刑から40年以上たち,辞世の歌を詠んだという磐白の浜松は,非業の死を遂げた皇子を偲ぶ場所として観光スポット化していたのかも知れませんね。
さて,次は 神亀5(728)年6月23日に大宰府の長官をしていた大伴旅人が,いろいろな良くない出来事が続けて発生しているという知らせを受けて詠んだ短歌です。
世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)
<よのなかはむなしきものと しるときしいよよますます かなしかりけり>
<<世の中は無常であることを悟っているつもりだが,本当にますます悲しい気持ちになった>>
旅人が大宰府に赴任してそれほど立たない時期にこれを詠んでいるので,おそらく京や各地で起きた悲惨な災害や事件のニュースを受けたものかと私は思います。
大宰府には山上憶良や沙弥満誓(さみまんぜい)など仏教の知識を豊富にもった旅人の友人がいました。当然,旅人も彼らとの語らいの中で,仏教が教える無常観をしっかり理解していたと私は思います。仏教は世の中に絶対的なものを求める行為の虚しさを説いていると私は思います。
<仏教の無常観>
でも,やはりあってほしい物や人がなくなる。いつまでも変わらないでほしいものが変わってしまう。それを目の当たりにすると,無常であることは知っていてもやはり悲しい。それが人間としての自然の姿だと私は信じます。
仏教はそんな悲しさを感じることが重要であるが,その悲しさに絶望をしてはいけないと説きます。
無常な世界を生き抜くより強い心,そして無常な世界でほんろうされ,悩む他人を思いやる(他人の悲しさを理解できる)心を持った自分(仏の世界に近づいた自分)を作ることがきっとできるのだと説きます。そして,だんだん力強く,思いやりをもった気持ちや心(菩薩の心)が自分自身に備わってくると,関係する周囲の人や環境も無常の世界を克服できるものに変わっていくと,当時から日本に広く弘ろまっていったいわゆる大乗仏教では説きます。
旅人のこの短歌もただただ悲しんでいると解釈するのではなく,仏教的な観点からそれを乗り越えていく気持ちの強さを求めようとしていると私は解釈します。
<次の和歌>
さて,次は女性が天武天皇の子である新田部皇子(にひたべのみこ)をからかって贈った短歌です。
勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし(16/3835)
<かつまたのいけはわれしる はちすなししかいふきみが ひげなきごとし>
<<勝間田の池は私が知る限り蓮はありませんよ。そういうあなた様の顔に髭がないように>>
皇子はまだ髭も生えてこないくらい若かったのでしょうか。まだ若くて女性を見る目がないとこの女性は言いたかったのだと私は想像します。ただ,本当に皇子にある女性が直接贈ったのではなく,後世の誰かが面白おかしく作り話として創作した短歌かも知れませんね。
「知る」の最後は,物部道足(もののべのみちたり)という常陸国出身の防人が詠んだという短歌です。
常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ(20-4366)
<ひたちさしゆかむかりもが あがこひをしるしてつけて いもにしらせむ>
<<常陸をめざして行く雁はいないかあ。私の恋しい思いを書き記して付けて妻に知らせることができるのに>>
この歌の詠み手は当時ちゃんとした漢字の読み書きができる教育を受けていた可能性はあります。ヤマト朝廷によって日本が統一された後,律令を書いた漢文を地方に徹底させるには,単に律令を渡すだけでなく,読める教育をする必要があったはずです。そうして,初めて律令の内容を知っている人が増え,戸籍や住民の管理ができたはずです。
このように見てくると万葉時代は「知る」「知らせる」ことの重要性に人々に気づき始めた時代だったように私は想像します。
次回からは,情報を相手に知らせる「告ぐ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1)に続く
まず,18歳の若さで謀反の罪により中大兄皇子(後の天智天皇)に処刑された有間皇子が愛していた土地で処刑された場所でもある紀州への行幸にお供したとき,磐白(いはしろ)の地で山上憶良が詠んだ短歌です。
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)
<とりはなすありがよひつつ みらめどもひとこそしらね まつはしるらむ>
<<皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては見たであろうが,そのことを人は知らないだけで,(磐白の)松はきっと知っているだろう>>
これは,有間皇子が紀州の処刑地に移送される途中の磐白で詠んだとされる次の辞世の歌を意識していることは間違いないでしょう。
磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(2-141)
憶良が詠んだ当時は有間皇子処刑から40年以上たち,辞世の歌を詠んだという磐白の浜松は,非業の死を遂げた皇子を偲ぶ場所として観光スポット化していたのかも知れませんね。
さて,次は 神亀5(728)年6月23日に大宰府の長官をしていた大伴旅人が,いろいろな良くない出来事が続けて発生しているという知らせを受けて詠んだ短歌です。
世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)
<よのなかはむなしきものと しるときしいよよますます かなしかりけり>
<<世の中は無常であることを悟っているつもりだが,本当にますます悲しい気持ちになった>>
旅人が大宰府に赴任してそれほど立たない時期にこれを詠んでいるので,おそらく京や各地で起きた悲惨な災害や事件のニュースを受けたものかと私は思います。
大宰府には山上憶良や沙弥満誓(さみまんぜい)など仏教の知識を豊富にもった旅人の友人がいました。当然,旅人も彼らとの語らいの中で,仏教が教える無常観をしっかり理解していたと私は思います。仏教は世の中に絶対的なものを求める行為の虚しさを説いていると私は思います。
<仏教の無常観>
でも,やはりあってほしい物や人がなくなる。いつまでも変わらないでほしいものが変わってしまう。それを目の当たりにすると,無常であることは知っていてもやはり悲しい。それが人間としての自然の姿だと私は信じます。
仏教はそんな悲しさを感じることが重要であるが,その悲しさに絶望をしてはいけないと説きます。
無常な世界を生き抜くより強い心,そして無常な世界でほんろうされ,悩む他人を思いやる(他人の悲しさを理解できる)心を持った自分(仏の世界に近づいた自分)を作ることがきっとできるのだと説きます。そして,だんだん力強く,思いやりをもった気持ちや心(菩薩の心)が自分自身に備わってくると,関係する周囲の人や環境も無常の世界を克服できるものに変わっていくと,当時から日本に広く弘ろまっていったいわゆる大乗仏教では説きます。
旅人のこの短歌もただただ悲しんでいると解釈するのではなく,仏教的な観点からそれを乗り越えていく気持ちの強さを求めようとしていると私は解釈します。
<次の和歌>
さて,次は女性が天武天皇の子である新田部皇子(にひたべのみこ)をからかって贈った短歌です。
勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし(16/3835)
<かつまたのいけはわれしる はちすなししかいふきみが ひげなきごとし>
<<勝間田の池は私が知る限り蓮はありませんよ。そういうあなた様の顔に髭がないように>>
皇子はまだ髭も生えてこないくらい若かったのでしょうか。まだ若くて女性を見る目がないとこの女性は言いたかったのだと私は想像します。ただ,本当に皇子にある女性が直接贈ったのではなく,後世の誰かが面白おかしく作り話として創作した短歌かも知れませんね。
「知る」の最後は,物部道足(もののべのみちたり)という常陸国出身の防人が詠んだという短歌です。
常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ(20-4366)
<ひたちさしゆかむかりもが あがこひをしるしてつけて いもにしらせむ>
<<常陸をめざして行く雁はいないかあ。私の恋しい思いを書き記して付けて妻に知らせることができるのに>>
この歌の詠み手は当時ちゃんとした漢字の読み書きができる教育を受けていた可能性はあります。ヤマト朝廷によって日本が統一された後,律令を書いた漢文を地方に徹底させるには,単に律令を渡すだけでなく,読める教育をする必要があったはずです。そうして,初めて律令の内容を知っている人が増え,戸籍や住民の管理ができたはずです。
このように見てくると万葉時代は「知る」「知らせる」ことの重要性に人々に気づき始めた時代だったように私は想像します。
次回からは,情報を相手に知らせる「告ぐ」について,万葉集を見ていきます。
動きの詞(ことば)シリーズ…告ぐ(1)に続く
2013年11月10日日曜日
心が動いた詞(ことば)シリーズ「愛(うつく)し」
現代日本語では「うつくしい」は「美しい」と書きますが,万葉集では「うつくしい」は「愛らしい」「かわいい」「いとおしい」という意味で使われることが多く「愛しい」と書く方が意味が通じやすくなります。
次は大伴旅人が亡き妻を偲んで詠った短歌です。
愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや(3-438)
<うつくしきひとのまきてし しきたへのわがたまくらを まくひとあらめや>
<<いとおしい人が手枕とした私のかいなを再び枕とする人はいるのか。いやもういない>>
大伴旅人は生涯に渡って,日本の各地の国府の長官などを務めた経歴をもっているといいます。
恐らく,最愛の妻とは京に帰ったときに妻問するのではなく,赴任地へ子供たちとともに同伴させたことも多かったと思われます。
最後の赴任地の九州大宰府には妻と家持ら子供も同行させたのだろうと考えられます。
そして,本当にいとおしかった妻に大宰府の地で先立たれた旅人の気持ちは察するに余りあるものがあります。
次は,つい手を出したくなる男の心理を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
愛しと我が思ふ妹を人皆の行くごと見めや手にまかずして(12-2843)
<うつくしとあがおもふいもを ひとみなのゆくごとみめや てにまかずして>
<<可愛いと僕が思う彼女を,道ですれ違った人は皆振り返って見たりしている。だけど僕は彼女の肩を手で抱かずに,見るだけなんて我慢できないよ>>
公衆の面前で彼女の肩を抱くことは,今では全く抵抗はないと思いますが,私が若いころ(昭和後期)はまだ恥ずかしいという意識が女性にはあったのではないかと思います。
万葉時代そのような行為は,みだらな行為とみなされ,もっと抵抗があったと私は想像します。この短歌の作者はそれほどまで彼女ことを可愛いと言いたいのでしょうか。
最後は,「愛くし」が出てくる防人の妻服部呰女(はとりべのあさめ)が詠んだ短歌を紹介します。
我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も(20-4422)
<わがせなをつくしへやりて うつくしみおびはとかなな あやにかもねも>
<<夫を筑紫に送り出して,いない夫の愛おしさのあまり帯を解かず,ああどうして寝らましょうか>>
帯を解いて寝るとは夫が来ることを待って寝ることを意味します。防人制度に肯定的な考えを持つ人間が万葉集を編集していたとすれば,こんな短歌を残すことはしないと私は思います。
防人という制度で多くの家庭が壊されていくことを万葉集の編者が悲しい気持ちで見ているからこそ,この妻が詠んだ短歌を選んで残そうとした。そんな気がしてなりません。
どんなに年をとっても人から愛される(必要とされる,いなくなったら悲しい)人は「愛(うつ)しい」人なのでしょう。
秋の夜長にふとそんなことを今回のブログを書いていて感じました。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「憎(にく)し」に続く。
次は大伴旅人が亡き妻を偲んで詠った短歌です。
愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや(3-438)
<うつくしきひとのまきてし しきたへのわがたまくらを まくひとあらめや>
<<いとおしい人が手枕とした私のかいなを再び枕とする人はいるのか。いやもういない>>
大伴旅人は生涯に渡って,日本の各地の国府の長官などを務めた経歴をもっているといいます。
恐らく,最愛の妻とは京に帰ったときに妻問するのではなく,赴任地へ子供たちとともに同伴させたことも多かったと思われます。
最後の赴任地の九州大宰府には妻と家持ら子供も同行させたのだろうと考えられます。
そして,本当にいとおしかった妻に大宰府の地で先立たれた旅人の気持ちは察するに余りあるものがあります。
次は,つい手を出したくなる男の心理を詠んだ詠み人知らずの短歌です。
愛しと我が思ふ妹を人皆の行くごと見めや手にまかずして(12-2843)
<うつくしとあがおもふいもを ひとみなのゆくごとみめや てにまかずして>
<<可愛いと僕が思う彼女を,道ですれ違った人は皆振り返って見たりしている。だけど僕は彼女の肩を手で抱かずに,見るだけなんて我慢できないよ>>
公衆の面前で彼女の肩を抱くことは,今では全く抵抗はないと思いますが,私が若いころ(昭和後期)はまだ恥ずかしいという意識が女性にはあったのではないかと思います。
万葉時代そのような行為は,みだらな行為とみなされ,もっと抵抗があったと私は想像します。この短歌の作者はそれほどまで彼女ことを可愛いと言いたいのでしょうか。
最後は,「愛くし」が出てくる防人の妻服部呰女(はとりべのあさめ)が詠んだ短歌を紹介します。
我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も(20-4422)
<わがせなをつくしへやりて うつくしみおびはとかなな あやにかもねも>
<<夫を筑紫に送り出して,いない夫の愛おしさのあまり帯を解かず,ああどうして寝らましょうか>>
帯を解いて寝るとは夫が来ることを待って寝ることを意味します。防人制度に肯定的な考えを持つ人間が万葉集を編集していたとすれば,こんな短歌を残すことはしないと私は思います。
防人という制度で多くの家庭が壊されていくことを万葉集の編者が悲しい気持ちで見ているからこそ,この妻が詠んだ短歌を選んで残そうとした。そんな気がしてなりません。
どんなに年をとっても人から愛される(必要とされる,いなくなったら悲しい)人は「愛(うつ)しい」人なのでしょう。
秋の夜長にふとそんなことを今回のブログを書いていて感じました。
心が動いた詞(ことば)シリーズ「憎(にく)し」に続く。
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